福沢幸哉にとって学校内の生徒というものは、マークテストの採点機が見る解答欄のような存在だった。

 生徒ひとりひとりに個性はあっても、それらに興味を示さない以上は大きな違いがない。教師は生徒を見ているが、教育実習生として母校に再び足を踏み入れた幸哉は個々の生徒を見るのではなく自身の技量に着目し、それらがどの程度のものか生徒の全体を見渡して窺っていた。


 特定の個人の観察対象といえば、生徒ではなく教師だった。担当科目の授業がなく他に指示もない自由な時間も、幸哉は他の科目の授業にお邪魔して先輩である教員達の姿を教室の全体が見える後方から見学していた。だからこそ国語の教師の粗に気付けた。

 最初は首を傾げる程度だった。

 授業開始のチャイムが鳴り終わり、本格的に授業を始める前に雑談をするのも生徒とのコミュニケーションの一環で、人にもよるが珍しいことではない。ただその内容がいくつか幸哉の中で引っかかるものがあった。

 幸哉の母校では六限目の後に生徒が日記を書く習慣がある。それを教員がチェックすることで生徒の個々を把握し、直接語れない本心を知る。言うなれば教師との隠れたコミュニケーションだ。そう学生時代の幸哉は感じていて、今も変わらずそう思っている。