愛蛇(あいだ)果奈(カナ)
昼休みに入ってもなお教室の真ん中の席で、
授業のノートに補足説明を書き加えている。

襟足で切ったショートボブの黒髪が
忙しなく動き、丸い頭が更に丸い。

ノートを見直していると、
カナの鼻腔(びこう)は不思議な匂いに満たされた。

それは幼い頃に河原のバーベキューで、
近所の子とふたりで食べた
不思議な味のサンドイッチの思い出。

前の席に誰かが座ったので、
カナの記憶の詳細は雲散霧消(うんさんむしょう)する。

ペンを置き、顔を上げると
カナの見知った人物であった。

「なんです、異本(いのもと)会長。」

よそよそしく言うカナの厚いレンズ越しに、
会長、異本イオンのにやけ顔が見える。

金色の明るい長髪を片側で編み結び、
らんらんとしたイオンの青く鋭い目が
会長としてのカリスマ性をあらわにする。

長身で目鼻立ちがはっきりしたイオンに対し、
カナは猫背でぼんやりとした顔で
いつも眠たげな目が冷たく人を寄せ付けない。

燦々(さんさん)と照る夏の太陽のようなイオンと、
冬の水面に浮かぶ月のように対照的なカナ。

「なんだか機嫌が良さそうね。」

イオンは嬉しそうにカナの顔を覗き込む。
普段と変わらない表情のカナは首を傾げる。

「いつもひとりぼっちの愛蛇書記に
 今日はステキなお弁当を用意したの。」

「ステキ…?
 ありがとうございます。会長。
 学食で食べるので結構です。」

ひとつ上の美人生徒会長が教室に現れ、
クラスメイトたちがざわめくのを
カナは背中にひしひしと感じ取る。

ふたりは後期生徒会の役員であり、
先輩後輩の間柄であった。

「なんと、アタシの手作り。」

「わたしの話聞いてました?」

カナが拒否したところで、
イオンが素直に聞くことはない。

書記のカナに生徒会長のイオンが
権限を行使している訳ではない。

カナは相手の押しの強さを知っていたので、
結局イオンの行動を素直に聞き入れる側になる。

カナは(あきら)めてため息をつき
ノートを机にしまう。
イオンの笑顔がいつにも増して(まぶ)しい。

「カナの好き嫌いってわかんないから、
 とりあえず手軽に作れるカレーにしてみたの。」

「お弁当に不向きなカレーはわざとですか?」

ひき肉のドライカレーをカナは想定したが、
イオンに常識的な振る舞いは期待できなかった。

一般的な弁当箱に液状のカレーが収まる訳はなく、
密閉されたプラスチック容器が
重々しい音を立てて机に置かれた。

目の前の見るからに校庭で集めた泥のことを、
イオンはステキなお弁当と言っていた。

「これのどこにステキ要素が。」

教室内に充満する匂いの発生源は
イオンが持ち込んだ弁当であった。

「会長特製の愛情たっぷり隠し味カレー。」

「名前から嫌な予感しかしないんですけど。」

「そんなことないでしょ。
 期待で胸のときめきが止まらない感じ?」

「自信たっぷりなとこ悪いですが、
 イオンちゃんの愛情がまず
 わたしにとって毒でしかない辺りですかね。」

「カナってば、先輩に向かって
 ひどい毒を吐くのね。
 そんなこと言われても
 アタシには効かないけど。」

「免疫できちゃっますもんね。
 変な子に育ててごめんね、イオンちゃん。」

「親でもないのになんでそんなひどい事言うの…。
 そんな毒もカナの愛と受け止めて置くわ。」

「頭にまで毒が回ってるんですか。」

「追い打ちの掛け方が悪魔みたいね。
 どうしてこんな子に育っちゃったのかしら?
 ママはカナちゃんの将来が心配だわ。」

「ウチのお母さんの真似するのやめてください。」

よく知った口調に変えたイオンに
カナはすぐさま抗議した。

カレーはタマネギを炒め、ジャガイモ、ニンジン、
牛肉やら魚介を入れて煮込み、
市販のルーを足せば簡単に完成する。

小学生でもキャンプ場で作られるほど
定番の煮込み料理である。

(ふた)を開けるとプラスチック容器から
()いだことのない刺激臭が放たれる。

茶色の液体の中に肉とも野菜とも言えぬ
得体のしれない固体が浮かぶ。

蓋にくっついた葉っぱが培養(ばいよう)土を連想させ、
外見から既に食べ物を超越していた。

「くっさ…。」

正直な感想をこぼす。

甘ったるい匂いと同時に、
嗅ぎなれない異臭に襲われ
カナは眉間にしわ寄せ指で鼻を(ふさ)ぐ。

「これのどこがカレーなんですか。」

見た目は欧風カレーのように暗い茶色だが、
匂いは明らかに既知のカレーとは異なる。

カナはカレーとの整合を求めたが、
鼻腔にこびりついた臭いが思考を拒む。

「角切りにしたりんごを
 バターで炒めてハチミツ、
 トマトジュース、赤ワインで煮込んで、
 ウスターソースとインスタントコーヒー、
 にんにく、チョコレートを混ぜ、
 仕上げにヨーグルトと梅干し、
 唐辛子、タバスコ、ローリエを入れ、
 一晩寝かせた隠し味具材限定のカレーよ。」

イオンの挙げた単語のひとつひとつに、
カナの頭に疑問がなだれ込む。

「カレーとは…?
 ルーさえ入ってないんですか?」

「ルーを入れてしまったら、
 それこそただのカレーじゃない。」

「いくらなんでもそんなのやる前に、
 無謀(むぼう)だって気づいてください。」

「食べたら分るわよ。はいあーん。」

カナは逃げられないよう首根っこを抑えられた。

強い臭いに鼻を塞いでいたので、
口で呼吸しなくてはいけないところに
イオンにスプーンをねじり込まれる。

制服に落ちるのを恐れて、カナは口を開けた。

開けてはいけない扉を開けてしまった。

口に入ったのは自我(じが)を失った梅干しの死骸(しがい)

リンゴとハチミツは優しさが消し飛び、
タバスコの酸味と唐辛子の暴力が
口の中を支配した混沌(こんとん)世界。

清浄な空気で口内の浄化を求めたが、
口で呼吸しても胃から込み上げる異臭が
カナの脳の側坐核(そくざかく)に不快感をもたらす。

生命の滅んだ終末(しゅうまつ)世界。

カナの脳は思考を停止した。

「どう? アタシの愛情。
 あ、泣けるほど美味しかった?」

カナの涙腺(るいせん)が口内の異物を排除しようと、
文字通り涙ぐましい努力をする。

「視界に異物が入ったんだと思います。」

「それアタシのこと?
 それでお味は?」

「…これはヘドロ味?
 ヘドロでも作ったの?」

「もうちょっと食べ物っぽい感想くれない?」

カナは口の中に残るヘドロを舌で(ぬぐ)い去る。

イオンの作った物質は
食べ物の限度を超えていた。

口内に唾液があふれ、舌がヒリヒリと痛む。

「自分で食べて。」

カナはスプーンを引ったくって、
イオンの口に同じ物質を押し付けた。

肉団子らしきまともな食材に一瞬目を疑うも、
カナも口にした梅干しの死骸だった。

整ったイオンの顔はいつもどおり、
味に表情を(ゆが)ませることなく平然と平らげた。

異臭と相まって昔、バーベキューの時に見た
イオンの顔をカナは思い出す。

その時の幼きイオンはむくれ顔で、
ツンとつり上がったその目つきから
今にも怒り出しそうな表情であった。

今のイオンはバーベキューの時とは真逆で、
明るい笑顔を絶やさない。

「あのサンドイッチを思い出しませんか?」

「ゴルフクラブの話?」

「そんな話一度もしたことないじゃないですか。」

「でもカナと久々に一緒に食べる
 お昼ご飯って最高ね。」

カナが記憶の糸をたどるより先に、
イオンの言葉に愕然(がくぜん)とさせられた。

「たしかに高校入ってから
 一緒することありませんでしたけど…。
 珍しく手料理なんて思ったら。」

言っている途中でカナは、
イオンがクラスにまでやってきた
本当の理由をようやく理解した。

「イオンちゃん…まさかそんなことの為に
 こんな物を作ってきたの?」

「だって一緒に食べようとすると、
 カナってばイヤがるじゃない。」

「そんなことでわざわざ
 校内放送使ったりするからですよ。
 普通に誘ってくれたなら、
 わたしもこんなに嫌がりませんし。
 それよりこんな嫌がらせかと思うもの
 作って持って来ないでください。」

どうしようもない理由で
目の前に座っているイオンに、
カナは喋り疲れて机にヒジをついた。

カナが周囲を見ると
クラスメイトはみな鼻をハンカチで(おお)い、
刺々しい奇異の視線を公害の中心部に向ける。

公害は別クラスの生徒たちも、
廊下に立って注目を集めた。

カナの鼻はすっかり慣れて、
慣れたどころか機能が麻痺(まひ)している。

「それなら今度はカナがアタシを誘ってよ。」

「…いいですよ。生徒会室でなら。」

こんな状況になってカナのためらう返事に、
イオンは顔をさらに明るくする。

「手料理ではありませんけど、
 負けないものを持ってきます。」

「…負けない?」

イオンに対抗するかのように
カナも口角を上げて不敵な笑みを浮かべた。

教室内に漂う異臭の中、
カナはバーベキューの時に
サンドイッチに挟んで隠し味に潜ませた、
缶詰の魚をイオンにまた食べさせようと思った。

翌週、生徒会室の異臭騒動により、
校則で世界一臭いニシンの缶詰
『シュールストレミング』の
持ち込み禁止が決まった。



異本(いのもと)イオンは退屈していた。

後期生徒会長を務めることとなった
明るい髪の青い目をした少女が、
薄目になって生徒会室を見渡す。

今にも閑古鳥(かんこどり)が鳴きかねないほど、
室内は静かでイオンは退屈だった。

会長席の隣に座る副会長のふたりも、
書記長も会計も広報もいない。

目の前にいるのはイオンの後輩で書記の、
愛蛇(あいだ)果奈(カナ)だけであった。

カナは少し猫背で黒髪の丸い頭で、
分厚いレンズ越しに手元の用紙と
タブレットPCの画面を凝視(ぎょうし)して、
せわしなく指を動かし情報を入力する。

対照的に、イオンは退屈過ぎて
自らの長い髪を丹念(たんねん)に編み、
ヘアピンで後頭部に巻き付けた。

それから数学の課題を置いたまま、
カナの姿を眺めてペン回しを繰り返した。

イオンは数学をあまり得意としていない。

用意された数学の課題は決まってパズルのようで、
集中力を要する為にモチベーションが上がらない。

整った容貌(ようぼう)と真逆に大雑把(おおざっぱ)なイオン。
それを反面教師にするかのように几帳面(きちょうめん)な性質の
カナは書記という役職を選んだ。

会計職と迷うほどカナは計算も得意で、
イオンの使っている数学の教科書も
時折読んでは問題を勝手に解いていたりする。

幼い頃のカナは、家で一日中
数独(すうどく)パズルを解いていた。

仕事に熱中するカナの姿に、昔を思い出して
イオンは懐かしさに(ひた)った。

イオンにとって血のつながりはないものの、
カナは世話のかかる妹のような存在であった。

生徒会室の扉が叩かれると、カナは手を止め
普段通りに淡白(たんぱく)な返事をする。

現れたのはセーラー服姿の生徒でも人間もなく、
黒灰(こくかい)色をした板状のロボットだった。

足元は4つの車輪で支えられている。

イオンは目を点にして見つめた。

『あれ? 文化祭実行委員の全体会議は…?』

ロボットが喋った。

「すみません。
 文実(ぶんじつ)の手違いで、生徒会室ではなく
 3階の多目的教室に変更になってます。」

『あぁ、そうなんですね。
 忙しいところ失礼しました。
 ありがとうございました。』

スピーカー越しの可愛らしい声で、
ロボットは丁寧に頭らしき部位を下げて
生徒会室をすぐに出ていった。

「び…っくりした。
 あの子ってたしか新入生で主席の?」

「特進コースのアイフレ部の人ですね。」

「アイフレ部…、
 なんかトラブルばっか起こしてるよね。」

「異臭騒動のイオンちゃんに比べれば。」

「それはカナが問題じゃない。」

「そうかもしれません。」

ふたりしかいない広い生徒会室に
ふたりの笑い声が小さく響いた。

2学期が始まってすぐに組成された
通称文実こと文化祭実行委員には、
後期生徒会の役員も多く含まれており、
生徒会室はもぬけの殻となるのが例年だった。

文化祭は生徒のガス抜きを兼ねてはいるが、
生徒の家族、入学希望の見学者とその保護者、
また卒業生、出身の有名人などを招くなど、
年に一度しかない大きなイベントの為に
生徒たちの熱意は凄まじい。

月末に差し迫ったその文化祭に向けて、
文化祭実行委員となった30数人と部の代表、
有志らが集められる。

文実にならなかったイオンとカナは生徒会室で、
連絡不備の為に文実の尻拭いをしていた。

しかし生徒会長のイオンに出番はなく、
カナに任せきりでやることがなかった。

カナは書記という役職であり
文実を兼ねる書記長からの依頼もあって、
別途集まった文化祭への要望書を
タブレットPCにまとめている。

生徒会長のイオンは特に何もしていなかった。

カナは忙しそうにしており、
イオンは退屈していた。

イオンは先程のロボットを見て、
ふとした思いつきで喋った。

「もし自分がふたりいるとして。」

「…自意識過剰な人間がですか?」

「どうしてピンポイントでアタシなの。」

「自己認識についての哲学的な話かと。」

「そういうナンセンスな話じゃなくて。」

「ふたりに増えるって時点で
 十分ナンセンスだと思うんですけど。」

「いいじゃない。
 クローンとか万能細胞とか、
 今どきは便利なのがあるんだし。
 あのロボットみたいに、
 もうちょっと現実的な話としてね。」

「そうですね…。」

カナはタブレットPCの画面を見直した。

「ちなみにアイフレ部のロボットは、
 ちゃんと遠隔操作ですよ?」

「え? そうだったの?
 てっきり人工知能のロボットが、
 学校通ってるのかと思った。」

軽く驚くイオンを無視して、
画面を見つめたままカナはうなずいた。

「まあそんな現実的な話は横に置いて。
 もしアタシがふたりになったら
 勉強任せて学校行かずに遊びに行けるし、
 ついでに課題もやってくれる。
 部屋の掃除や片づけも任せられるし、
 お風呂上がりにドライヤーだってしてくれる。」

「それはただ願望並べただけじゃないですか。」

「アタシは自分に正直だもの。」

カナは手を止めて、
一息ついて正面のイオンを見た。

「イオンちゃんの場合、学校行かないと
 勉強も生活リズムもダメになりそう。
 不登校児でニートまっしぐら。」

「なんでそんなひどい事言うの…。」

「課題は自分でやるものですよ。
 生きてたら食費だってかかりますし、
 寝床だって用意しなくちゃいけません。
 ちゃんと面倒見れますか?」

「なんだかペットみたいね。」

「そして必要とされなくなった
 本物のイオンちゃんは、
 橋の下で暮らすことになるんですよ。」

「どうしてこんなことに…。」

そこには時代錯誤(はなは)だしい
()巻き姿のイオンがあった。

「片方が勉強やトレーニングを積んでも
 共有する手段がない限り、
 もう片方が楽をできるとは限りません。」

「実に正論ね。反論の余地(よち)がないわ。
 ちょっと現実的過ぎてロマンもないけれど。
 ここでアタシが教訓として言いたいことは、
 自分がふたり居てもムダってことよね。
 結局、人間はひとりでは生きられない。」

「なにか良い風にまとめようとしてません?」

「そういうことだから、
 忙しそうなカナの仕事、手伝ったげる。」

「どういたしまして。
 そわそわしてたのはそういう理由ですか?」

カナの問いに、
イオンは自分の座っていた机に目配らせる。

「あぁ、数学の課題手伝って欲しいんですね。」

正直になれない世話の焼ける姉を察して、
カナはかすかに微笑(ほほえ)んだ。


「イオンちゃん。
 怖い話をしていいですか?」

帰路、球技大会で疲れ切っていた
生徒会長の異本(いのもと)イオンは、
(こら)えきれずに大きなアクビをした。

「ごめん。え? なに?」

「怖い話をします。」

夕闇の迫った一方通行の細い道で、
横を歩く書記の愛蛇(あいだ)果奈(カナ)
いつもどおりの淡々とした口調で言った。

イオンへの確認事項は、
カナの中で決定事項へと変わっていた。

普段は猫背のカナも、
立って歩いている時の姿勢はまっすぐ伸びる。

(つや)のある黒髪に丸い頭が小さく上下に揺れる。

ふたりは家が隣近所の為に
帰りの道も同じだった。

「なにを突然どうしたの?
 カナがやるって言うなら…
 せっかくだし聞いたげるけど。」

カナの厚いレンズ越しの視線を避け、
イオンの青い目は横の暗い路地を見た。

カラスが大きな翼を広げて飛んで、
いたずらにイオンの肩を驚かせた。

「学校。貯水槽。死体。」

並べられた単語の後で、
イオンはしばらく沈黙して
カナを見下ろした。

「え? ちょっと待って?
 それ検索ワード?」

「ゾクゾクしませんか?」

「考えると怖いけど、遅効(ちこう)性が過ぎるのよ。
 どうしてその場の怪談話に、
 後でわざわざ検索しなくちゃ
 分からないみたいな風にしたの。」

「そうですね、なるほどこれは奥深い。
 イオンちゃんは即効(そっこう)性のがお好みでしたか。
 それなら…そうですね、駅で親しげに
 声を掛けてくる知らない人とか。」

「たしかに見かけるとギョッとするし
 ちょっと怖いけど、即効性って
 そうことじゃないと思うのよ。
 そもそもこれって怪談よね?」

後頭部で束ねた明るい色の髪を
左右に振ってイオンは否定した。

「っていうか何を目的に
 カナはそんな話をし始めたの?」

「それが、クラスの子たちが
 私は怖い話に強そうだって、
 アイフレ部の子と比べてたので。」

「アイフレ部?」

「この前プロになったっていう。」

「あぁ、あの有名人の子か。
 カナの場合は単に表情筋が未発達だから、
 強そうに思われてるだけじゃないの?」

「見当違いなこといいますね、イオンちゃん。
 他の筋肉もたいして発達してませんよ。」

カナはか細い二の腕を上げてつまんで伸ばした。
身長と体育の成績だけは伸びない。

カナは球技大会では文化部系チームに属し
早々に敗退して、普段はあまり話をしない
同級生らとの怪談話に紛れ込んだ。

「そこは自慢することじゃない。」

「なので私もついに、この隠れた才能を
 ついに発揮(はっき)するチャンスが来たのかなと。」

「意欲を見せてるところ悪いけど、
 もう少し聞き手をあおるとかしないと。」

「例えば?」

「夜道をひとりで歩いていると、
 後ろから足音が近づいてきて…。」

イオンは自らの言葉に背筋を凍らせ、
足音響く路地に恐る恐る後ろを振り向く。

「そこには白い服を着た老人の姿が。」

「なるほど、施設を抜け出したんですね。」

イオンは誰も居ない帰路を見て、
安堵(あんど)すると同時にカナの言葉に脱力した。

「まあそういう設定でも怖いけど…、
 どうして現実の方向に持っていくの。」

「ダメですか?」

怖い話は女子たちの間で、一種の
コミュニケーションツールとして働く。

同級生らから相談を受けやすいイオンは、
同時に怖い話を聞かされる事も多かった。

一方で相談を受けないタイプのカナは、
怖い話を聞かされることも非現実的な内容に
これまで関心を示すこともなかった。

ふたりの差が今日のように、妙な
ギャップを生み出すこととなった。

「もうちょっとね。オバケとか幽霊とか…、
 怪談は別に実話じゃなくていいのよ。」

「オバケも幽霊も同じでは?」

「そういうとこ気にしちゃうから
 カナの話は怖くないのよ。」

しかしイオンの言うことも
一理あったので、カナは黙ってうなずく。

「そうなんですね。
 ではちょっとこの前あった話なんですが、
 学校の帰りに図書館に寄り道した時に。」

「なんかそれっぽい導入ね。」

「はい。イオンちゃんを見習ってみました。」

「怖い話の最中に会話に応じなくていいから。」

イオンが手で払って先をうながす。

「ではちょっとこの前あった話なんですが。」

「やり直さなくていいって。そこは端折(ハショ)って。」

「後ろを振り向くと。」

「端折り過ぎじゃないの?」

「ウチの学校のセーラー服を着た老人の幽霊が。」

「それ幽霊じゃないよね?」

「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花。」

「ぜんっぜん! 怖い話になってないじゃない。
 ただの変質者でしょ! 通報案件!」

「幽霊も警察には勝てませんからね。」

イオンは思わず顔と同時に手を振った。

カナはしたり顔でウデを曲げ、
小さな握り拳をかかげて見せた。

「怖い話に強そうというのは、
 結局こういうことかと。」

「勝とうとしてどうするの。
 耐性の話だと思うわ。」

「そっちだったんですね。」

「今までなんだと思ってたの?
 そっちのがびっくりするよ。」

「わたしの目的はイオンちゃんを
 恐怖のどん底まで突き落とすことです。」

「なんでそんなひどい事言うの…。
 もうやめ。」

突然ベルが鳴り、イオンはふたたび肩を驚かせた。

後ろから来た自転車がふたりの横を通り過ぎた。

「ところでカナ…。」

「なんですか?」

「今日アタシの家に泊まってかない?」

厚いレンズの奥で、カナの目が輝いて見える。

「なるほど…。わかりました。続きですね。
 蛇口(じゃぐち)、髪の毛――。」

「もういいから!」

その日ふたりは
久々に一緒の布団でぐっすり眠った。


異本(いのもと)イオンの背中には(つばさ)が生えていた。

広げた真っ白な両の翼は、
長身のイオンの背丈ほどの長さがある。

腰まで伸ばした明るい長髪に青い色の瞳が映えて、
蛍光灯に照らされたベッドの上に立っていた。

黒髪で丸顔の愛蛇(あいだ)果奈(カナ)は、
ベッドの上に立つイオンを見上げていた。

「何やってるんですか、イオンちゃん。」

カナが呼びかけると、
上を向いていたイオンは言った。

「アタシは大天使イオン。」

()天使?」

「大天使。」

自らを大天使と名乗るイオンにカナは尋ねた。

「その翼はどこから生えてるの?」

大天使は素直に後ろを向いて背中を見せた。

白いワンピースの背中には露出して、
そこから羽の根元が見える。

肩甲骨(けんこうこつ)なんですね。」

カナはもうひとつの疑問が浮かんだ。

「それなら尾羽根(おばね)は?」

「アタシ鳥じゃないから!」

イオンは恥ずかしがって服のお尻を抑える。
カナはしゃがんで中身を確認しようとしていた。

「飛べますか?」

カナは飛行力学的な興味が湧いた。

たとえ(ろう)で固めたイカロスの翼であっても、
骨さえあれば滑空ぐらいはできるに違いない。
秋の気温と蛍光灯程度の熱で溶ける心配もない。

それと、中の人が重たくなければ。

「もちろん飛べるわよ?」

イオンは飛んだ。飛んで見せた。
翼をバサバサと前へ後ろへと無意味に動かす。

カナが見た光景は想像と大きくかけ離れていた。

飛んだと呼ぶよりも跳んだ。
ベッドの上で飛び跳ねた。

イオンの部屋に羽毛が舞う。

「これやると怒られるんだよね。
 天井低いしベッドが(きし)んで
 下がうるさくなるのとホコリが舞うから。」

「大天使なのに繊細(せんさい)なんですね。」

飛ぶことを止めた大天使は、
世知辛い下界の住宅事情を語った。

「カナにはこれを授けます。」

突然イオンが取り出したのは、
お腹で抱えるほど大きな卵。

「産んだの?」

イオンは両手と両の羽で
顔を隠して照れるフリをする。

「天使はやはり鳥類でしたか…。」

生暖かく重い卵を抱える。

そこでカナの目が開いた。

見慣れない天井に、
隣で小さな寝息が聞こえる。

イオンの寝顔が真横にあり、
両の腕がイオンの大きな胸に圧迫されている。

イオンは冬虫夏草(とうちゅうかそう)菌にでも寄生されたかのごとく
養分(ようぶん)を奪い(ふく)れているお団子頭があった。

静かに寝ている顔は天使に見えないこともないが、
イオンは天狗のような存在感がある。

白く柔らかな大きな手をひとたび動かせば、
なにもない所につむじ風を巻き起こす。

会長であり品行方正(ひんこうほうせい)容姿端麗(ようしたんれい)なイオンが、
問題児として取り扱われることはまずない。

問題を起こすのは決まって
イオンに振り回された周辺の人々である。

ふたりで寝ていた布団を畳み、
イオンのパジャマをめくって背中を見た。

不思議な夢であったが
それはあってないような内容で、
カナは自分の行動理由すら忘れかけて
寝癖(ねぐせ)頭をかたむけ寝ぼけ頭でつぶやいた。

「堕天使?」

背中がはだけたイオンは
肌寒さに寝たままパジャマを戻し
枕に顔を伏せて(うな)る。

早く起きたカナは
昨日の球技大会での筋肉痛に耐えながら、
キッチンを借りて朝食を作ることにした。

溶き卵に牛乳と砂糖を加え、
4分割した食パンを(ひた)
バターを敷いたフライパンで焼く。

少し遅れてイオンも起きて、
ふたりはテーブルに着く。

テーブルの上には大皿に盛った
黄金色のフレンチトースト。
それとコーヒー。

「カナが作ったの?」

一宿一飯(いっしゅくいっぱん)恩義(おんぎ)です。」

任侠(にんきょう)の世界じゃあるまいし。
 あ、アタシもカナの家に泊まったら作ろっか?」

「イオンちゃんはダメ。
 恩を(あだ)で返すタイプでしょ。」

「なんでそんなひどいこと言うの…。」

「これはイオンちゃんが作ってって言ったから。」

「んー…アタシそんなこと言った?」

ほろ苦いコーヒーにイオンは(まゆ)(ゆが)め、
牛乳と砂糖を注ぎ足す。

「お告げがありまして。」

「ヤタガラスでも夢に現れたの?」

「自分で神話の神様扱いしないでください。
 近いものはありますけど。
 なんと天使の――。」

「あっ! ちょっと! なんで知ってるの?」

「楽しみにしてますよ、演劇部。」

カナから目をそむけてうつむき、
色白いイオンの耳は真っ赤に染まる。

「…いったいどこでその情報を?」

文実(ぶんじつ)の手伝いに来てた1組の委員長さん。」

「あぁ…。」

イオンは嘆息(たんそく)をもらして弁明(べんめい)を考える。

カナは文化祭実行委員ではないものの、
書記長の手伝いをしていたことを
イオンはすっかり忘れていた。

「違うのよ。アレは。
 アレはあくまで助っ人だから。
 チョイ役だから、ね。
 わざわざ見に来なくても良いから。」

ついつい早口になって手が空を舞うイオン。

「はい。なので
 文実に録画のコピーもお願いしました。」

「くっぅ…。」

カナは書記の肩書きを利用して文実を手伝い、
自らそのコネを利用した。

カナの手伝いをしたイオンは、
墓穴(ぼけつ)を掘ったことに気づいた。

「不覚だわ…。」

「ですが知ったのが昨日なので、
 残念ながら行けませんけど。」

「そう! ホント?」

イオンは表情を明るくした。

「クラスの出し物を
 担当する時間と被ってました。」

「カナのクラスって。」

「呉服寫眞(しゃしん)館です。」

普段着ない晴着などを持ち寄り
店員となるカナたちが着飾り、
来場したお客さんに着付けをして
インスタントカメラなどで撮影する。

「大丈夫? 風営法に引っかからない?」

「いかがわしい店じゃありませんよ。」

「アタシもカナに会いに行くね。」

「イオンちゃん、その時ステージですよ。」

「あぁ、そうだった…。もうっ…。」

イオンは再びテーブルに伏せると、
嗚咽(おえつ)をこらえて下唇を強く()んだ。

「ステージ終えてイオンちゃんが
 天使の格好で来店したら、
 わたしが対応しますよ。
 異臭会長はクラスで人気者ですし。」

「今、異臭って言った?」

「言ったません。」

「どっち? いや待って! アタシ、
 あの衣装で舞台移動するのはつらい。」

「一緒に記念撮影しましょう。」

「うーん。カナがそこまで言うなら…。
 それでカナはなに着るの?」

イオンの質問に、
眼鏡の奥でカナの目元が小さく笑う。

上下黒色のスウェットに黒手袋、
更に頭まで(おお)うフェイスマスクをして、
矢印状の2本のツノと尻尾を生やした衣装。

カナの手には身の丈ほどの長さがある、
黒く塗ったフォークのようなヤリを持っている。

「虫歯菌の悪魔。」

中学生時代に近所の幼稚園での職業体験で使った、
遊戯(ゆうぎ)会の衣装をカナは接客用に準備していた。

天使と悪魔のふたりは並んで写真撮影した。


愛蛇(あいだ)果奈(カナ)は悪魔であった。

「悪魔ではなくわたしはサキュバスです。」

サキュバスは悪魔の種類である。

黒色の水着姿のカナは、
普段は絶対に着ないような
肌を露出させた格好で立っていた。

眼鏡と丸い頭はそのままに、
キノコのように生えた黒色のツノ。

それから尾てい骨あたりから
先端が逆ハート型の尻尾を生やしている。

身の丈を超える三叉戟(さんさげき)を、
重たそうに両手で支えてなんとか立っている。

そのように、異本(いのもと)イオンは
珍しいカナのその姿をじっと眺めた。

明るい髪を団子頭にして青い目のイオンは、
白色の裾の短いワンピースを身にまとっていた。
それは普段の寝間着だった。

長身のイオンには出るところは出て、
引っ込められるところは引っ込めるよう
引き締めている。

イオンは年相応に体型に気を使っているが、
カナはあまり気にしていない。

自らをサキュバスと名乗ったカナだが、
まるで水着を着た寸胴鍋(すんどうなべ)のようであった。

「あのね、カナ。その体型で
 サキュバスっていうにはあまりにも。」

「ふん。」

イオンの不用意な発言に、
カナは振り上げた三叉戟で頬を突いた。

「ちょっと! 暴力禁止!」

「悪魔なのでレギュレーションの範囲です。」

「なるほどなぁ。」

カナの言葉に妙な理解をしつつ頬をさすった。

頬にはまるで痛みが無かったので、
今更になってイオンはこれが夢だと気づいた。

「ははん、それでサキュバスさんは何をするの?」

「イオンちゃんに代わって料理をします。」

イオンの夢は決まって脈絡(みゃくりゃく)がない。

重たそうだった手元の三叉戟は、
いつの間にか黒色のトレイに変わっていた。
トレイの上には土色をした太い根っこの束。

「イモ?」

「蒸したキャッサバイモです。
 昔に流行った、タピオカの原料です。」

渡されたイモを1本千切って
その根の皮を半分ほど()き、
黄金に色づく中身を頬張(ほおば)る。

サツマイモに似た甘い味がする。

「キャッサバには皮とその芯に毒があります。」

「は?」

イオンは口からイモをこぼしたところで
夢から目覚めた。

「それは何かのジョークですか?」

「語感が似てるなぁって。」

そんな夢の話をしながら、
屋上で昼食を終えたイオンとカナ。

後頭部で束ねたイオンの髪が風になびく。

ほのかに吹く秋風が(ほお)()でて気持ち良いが、
外で過ごすには寒い時期になった。

水筒に入れた紅茶が
ふたりの身体を内から温める。

文化祭を終えると同時に生徒たちの熱は冷め、
生徒としてのモラトリアムと日常を繰り返す。

「そんなキャッサバ粉で
 これ作ってきました。」

カナが小さな保冷バッグを取り出した。
イオンがずっと気にしていたものだった。

半透明の器に黄金(こがね)色の内容物。
底には黒色のまだら模様が見える。

「タピオカ入りのプリン。」

タピオカ粉を買った話をカナから受けて、
イオンはキャッサバとサキュバスの夢を見た。

「カナは食べないの?」

「試食で食べちゃいましたので…。」

自らのお腹に目を向けたカナに、
イオンは夢の中の寸胴鍋を思い出す。

「来年の球技大会に向けて特訓しよっか?」

「えぇー…。」

「カナってばまともな筋肉ないんでしょうし、
 まずは室内プールで全身運動とかね。」

(まゆ)(ゆが)めて露骨(ろこつ)に嫌そうな顔をカナは見せた。
イオンとは違いカナは運動が得意ではない。

「人類は魚類ではありませんよ。」

「自分が泳げないことを、
 生物学の分類で否定するんじゃないの。
 創造神視点になっちゃてるわ。
 今度一緒に水着買いに行こっか。」

「イオンちゃん、変なの選びませんか。」

「普通のよ。普通。
 運動用なんだから。
 例のアイフレ部のウェアみたいな。」

「それなんか凄い派手な人混じってます?」

「あぁそういえば居たかも…。」

トレーニングウェアに混じってひとり
水着のような格好の人物をイオンは忘れていた。

「それより早く食べないと
 休み時間終わっちゃいますよ。」

プリンに被せたラップフィルムを取らずに、
イオンは両手で大事そうにする。

「カナの愛情を独り占めするみたいで、
 ちょっと気が引けるわ。
 …これってひょっとして毒入り?」

「まだ夢でも見てるんですか?」

「カナの水着姿に。あ、目に毒?」

「もー刺しますよ。」

カナにプラスチック製のスプーンで
ぷにぷに頬を刺された。

カナの予告は問答無用で凶行に及ぶ。

「おいしい。甘くって溶ける。」

キャラメルソースのほのかな苦みと、
カスタードの濃厚な甘さが口の中で交わる。

さらにタピオカのもちもちとした食感が、
イオンの口を楽しませて頬が(ゆる)む。

「ちょっと()が入っちゃいました。」

「お酢?」

「容器とカスタードの間に
 出ちゃう気泡のことです。」

「お菓子作りって繊細(せんさい)で難しいのよね。」

「イオンちゃんが大雑把(おおざっぱ)過ぎるんですよ。
 料理もそうですけど、レシピ通り
 手順と分量守ればできますから。」

「んー。はい、あーんして。」

話の途中でイオンからスプーンを口に運ばれ、
結局カナもプリンをご相伴(しょうばん)(あずか)る。

「プリンのお礼に何か作ってこようか。」

「毒ですか?」

「なんでそんなひどいこと言うの…。
 毒なんてアタシ作ってきたことないでしょ?」

イオンの目を見て、
(うたが)いの眼差(まなざ)しでカナは口を閉ざした。

「じゃあカナはプール行く。アタシは料理する。
 ダイエットも料理もできて一石二鳥(いっせきにちょう)。」

「イオンちゃん自分で作りたいだけじゃない?」

「そんな事ないって。
 アタシ料理得意じゃないもの。」

「それは知ってます。」

カナは甘味(かんみ)誘惑(ゆうわく)から生じた自らの肉体と、
イオンの料理で犠牲(ぎせい)になることを懸念(けねん)
(はかり)にかけた。

秤に乗る勇気はカナにはなかった。

「プールも料理も一緒だったらいいですよ。
 イオンちゃんもですよ。」

「ふふっ。もちろん。
 早速帰りに水着を買いに行こう。」

「学校のじゃ駄目なんですか?」

「キャッサバ姿よりも
 恥ずかしいことになるよ。カナ。」

「キャッサバって何ですかそれ。
 あ、…芋?」

イオンは黙ってプリンをふたたび
カナの口へと運んだ。

その約束を楽しみして、
ふたりはもうひとつのプリンを分けた。

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