結局その日は夜になってもヴィルは戻ってこなかった。
 梨里はコンラートに二階の客用寝室に案内された。レースのネグリジェと天蓋付きの豪華なベッドでは落ち着かないかと思いきや、心と体の疲労から、気づけばぐっすり眠って朝を迎えていた。
(私ってば、ヴィルががんばって犯人を捜してくれてるというのに……ぐっすり寝ちゃった)
 梨里はワンピースに着替えて顔を洗い、そっと部屋の扉を開けた。するとまたもやコンラートが姿を現す。
「おはようございます、リリー様。ヴィル様がお戻りになられています」
「えっ、彼は大丈夫なんですか? 怪我とか……」
 梨里の不安そうな言葉を聞いて、コンラートがかすかに笑みを浮かべる。
「リリー様がご存知ないのも無理はないかと思いますが、ヴィル様はこの王国……いえ、大陸で一、二を争う剣聖でございます」
「それはものすごく強いってことですか?」
「はい。ヴィル様は私たちの誇りでございます」
 梨里はコンラートに続いて応接室に向かった。ヴィルはソファに座っていたが、梨里を見てさっと立ち上がる。
「おはよう、リリー」
 昨日と変わらぬヴィルの姿を見て、梨里は全身から力が抜けそうなくらいホッとした。
「お、おはようございます」
「よく眠れたようだ」
 ヴィルは梨里の両手を握った。
「すみません、騎士団の皆さんが働いてくれているのに、私だけぐっすり寝てしまって」
「梨里に心から休んでほしくてここに連れてきたのだ。もし梨里がゆっくり休めていなければ、私はコンラートたちを解雇しなければならない」
「えっ」
 梨里が目を見張ると、ヴィルは「冗談だ」といたずらっぽい笑みを浮かべた。そうして梨里の右手の甲に軽く唇で触れた。その柔らかな感触に、梨里の胸がドキンと音を立てる。
「あ、あの、何かわかりましたか?」
「犯人につながりそうな手がかりが得られた」
 ヴィルは梨里の手をそっと下ろした。
「手がかり?」
「ああ。ダイニングキッチンに小麦の粒が落ちていたんだ。殻のついた小麦を扱うのは小麦商人か粉挽きに限られている。これからこの辺りの小麦商人と粉挽きの昨日の行動を確認するつもりだ。行動が曖昧だったり、あの家の近くで目撃されていたりしたら、犯人の可能性が高まる」
 小麦商人と言われて、梨里は一昨日、市場で会った中年男を思い出した。
「小麦商人は何人もいるんですか?」
「ああ。王都に四つある市場に一人ずつ。市場内に競争相手がいないのが問題ではあるのだが」
(じゃあ、あの南市場にはあの商人しかいないんだ……)
 やはり彼から小麦粉を買うしかないのか、と思ったとき、ヴィルが梨里の目を覗き込んだ。
「どうかしたのか?」
 その距離の近さに戸惑いつつ、梨里は一昨日の出来事を話した。
「南市場で小麦粉を一袋買ったときに、ヴィルにいただいた金貨が偽物じゃないか疑われたんです……」
「無礼な輩だな」
 ヴィルは腹立たしげに言ってから、「ん?」と眉を寄せた。
「小麦一袋を金貨で支払ったのか?」
「はい。結構物価が高いんだなって驚きました」
「釣りは?」
「釣り?」
 梨里のきょとんとした顔を見て、ヴィルは憤然とした表情になる。
「金貨一枚あれば、小麦粉を二十袋買っても釣りがあるはずだ」
 ヴィルの言葉を聞いて、梨里は真っ青になった。
「ご、ごめんなさい。せっかくヴィルがくれたのに……価値を知らなくて無駄遣いしてしまいました……」
 ヴィルは両手で梨里の肩を掴んだ。
「違う。リリーは悪くない。悪いのは法外な価格をふっかけたその小麦商人だ。後で残りの十九袋を届けさせよう」
 いくらヴィルでもそんなことができるのだろうかと思ったとき、ヴィルが思い出したようにテーブルの上の箱を取り上げた。
「そうだ、これを届けに来たんだった」
 ヴィルに箱を差し出され、梨里は怪訝に思いながらふたを開けた。中から瓶に入った元種が出てきて、梨里は驚く。
「こ、これ、無事だったんですか!?」
「ああ。棚の陰に置かれていたから、犯人は気づかなかったようだ。まだパン作りに使えるだろうか?」
 ヴィルが心配そうに梨里を見た。元種全体にプツプツと小さく泡が立っている。梨里は瓶を開けた。ほんのりと甘い酵母と小麦の香りがして、梨里の目にじわっと涙が滲んだ。
「大丈夫です! これ以上放置してたら、過発酵になってダメになるところでした」
「リリーの喜ぶ顔が見られてよかった。さぞ心が疲れているだろうと思ってな……」
「嬉しいです。ありがとうございます」
 梨里は感謝の気持ちを込めてヴィルを見上げた。ヴィルは優しく微笑んで、梨里の頬に軽くキスをした。
「ヴィ、ヴィル?」
 梨里が驚いて目を見開き、ヴィルは照れたように笑う。
「ああ、リリーの笑顔がかわいかったから」
 その言葉を聞いて、梨里の顔が真っ赤になった。ヴィルは熱を持った梨里の頬を軽く撫でて言う。
「では、もう行くよ。聞き込みに戻らなければならない」
「もう行っちゃうんですね」
「早く犯人を見つけて、リリーを安心させてやりたいからな」
「お気をつけて」
 ヴィルは一度頷き、梨里に背を向けた。その広い背中を見送りながら、梨里は考え込む。
(何か……ヴィルたちのために私にできることは……)
 そう考えて、はたと思いついた。
(そうだ! パンを焼いて差し入れしよう!)
 梨里は元種の入った瓶を持ってキッチンに走った。朝食の準備をしているマルガの背中を見つけて声をかける。
「マルガさん!」
 マルガは驚いた顔で振り向いた。
「リリー様」
「パンを焼きたいからキッチンを使わせてください」
「え、パンなら私が焼いたものが……」
 マルガはカゴに重ねられた薄いパンを梨里に見せた。
「ううん、そうじゃなくて……私の世界で作られていたパンなんです。ふんわり柔らかいパンを焼いて、がんばってくれているヴィルたちに届けたいんです」
 梨里が「お願いします」と頭を下げると、マルガは困ったように胸の前で両手を挙げた。
「キッチンは旦那様のお客様がいらっしゃるような場所ではないのですが……そこまでおっしゃるのなら」
 マルガは小麦粉と塩、ガラス製と鉄製のボウルを出してくれた。梨里はマルガに頼んで、ほかに砂糖と牛乳とバターを分けてもらった。それらを元種とともにボウルに入れてざっとまとめると、台の上に置いて一両懸命手で捏ね始めた。梨里が体重をかけて捏ねるのを見て、マルガは驚いた顔をする。
「そんなに力を入れて捏ねるんですか……」
「はい。小麦粉をこうやって捏ねると、グルテンが形成されてパンがよく膨らむんです」
「膨らむ……っていうのがよくわからないんですが」
 生地が滑らかになって捏ね上がると、梨里はボウルに入れて鍋ぶたを被せた。
「しばらく発酵させないといけないんです」
「手間がかかるんですねぇ。では、その間に朝食になさいますか?」
 マルガがベーコンと卵を取り出すのを見て、梨里はいいことを思いついた。
「そのベーコンと卵も少し分けてもらえませんか?」

 それから二回の発酵を終えてオーブンでパンを焼き終えたときには、昼近かった。梨里は焼き上がったパンをバスケットに入れて、クヴェードリンブルク家の馬車でエミリアたちの家まで送ってもらった。開いたままの扉の前には騎士が二人立っていて、梨里は一人の騎士に話しかけた。
「あの、団長さんはいますか?」
「はい。ですが、今は中で実地検証中です」
「実地検証?」
 梨里は首を傾げて騎士を見た。
「実行犯に犯行を再現させています」
 騎士の答えを聞いて、梨里は息を呑んだ。
「ということは、犯人を捕まえたんですか……?」
「はい」
 騎士は小さく頷いた。梨里は騎士の顔を見た。梨里は被害者ではあるが、勝手に入ってはいけないだろう。案の定、騎士に「こちらでお待ちください」と家の横に案内された。そこには木製の折りたたみ椅子が置かれている。梨里は座って大人しく待つことにした。
 それから数十分ほどして、家から人が出てくる気配がした。騎士たちが両側に避けると、中からヴィルが、彼に続いて騎士に両側から腕を取られた中年男が出てきた。梨里に金貨一枚で小麦粉一袋しか売らなかったあの小麦商人だ。
(あの人が……!)
 梨里は椅子から立ち上がった。気づいてヴィルが驚いた顔で足を止める。
「リリー、どうしてここに」
「がんばってくださっている皆さんにパンの差し入れをしようと思って……」
 梨里は呆然としたまま男に歩み寄った。
「リリー」
 ヴィルが梨里の前に立ちふさがると、中年男は身を乗り出すようにして梨里に顎を突き出した。
「異世界から召喚された黒魔女め! 黒魔法薬を作ろうとしてたんだろう? 俺が全部割ってやった! 俺は黒魔女から世界を守った救世主なんだっ」
「黙れ!」
 両側の騎士が男の腕を掴んだまま言った。ヴィルが静かな声で言う。
「ショックを受けるだろうと思って、会わせたくなかったんだが……」
 梨里はヴィルから小麦商人へと視線を移した。
「黒魔法薬ってどういうことですか?」
「あの瓶に入ってた変な液体だ。ブクブク泡を立ててた。何かの呪文をかけたんだろう? 麻痺の薬か? 毒薬か? 召喚されたのに王城から追い出されたのは、お前が黒魔女だって証拠だ!」
 梨里はバスケットの中からロールパンを一つ取りだした。
「あれはこれを作るためのものだったんです」
「何だ、それは?」
 男は怪訝そうにしながらも横柄な口調は崩さなかった。
「パンです。私がいた世界のパン。柔らかくてとってもおいしいんです。こうやってふわふわにするために、あの瓶の中で育てていた酵母の力を借りました」
「コウボ? 何だ、それ。怪しい生き物か?」
「微生物です」
「微生物?」
 どうやら男に話は通じないらしい。梨里はパンを差し出した。
「食べてみてください。そうしたら黒魔法薬じゃないってわかります」
 男が騎士に掴まれたままの腕を動かそうとしたとき、ヴィルが梨里の手からロールパンを取った。
「ヴィル?」
「お客第一号は私だと約束したはずだ」
「でも……」
 梨里は反論しかけたが、ヴィルはロールパンをちぎってパクリと口に入れた。そうして目を見開く。
「柔らかい……。ほんのりブドウの甘い香りがして、うまい」
 ヴィルの言葉を聞いて、小麦商人はゴクリと唾を飲み込んだ。ヴィルはロールパンを食べ終わると、商人に向き直った。
「そもそもお前は金貨を盗みに押し入ったのだろう? そのときに瓶に気づいてそれを怪しみ、壊したんだ。罪は二つ……いや、法外な値段で小麦粉を売った罪も加わるから三つだな」
 商人はがっくりとうなだれた。
「裁判まで大人しく牢に入っているがいい。連行しろ」
 ヴィルが顔を傾けて合図をすると、騎士たちはヴィルを馬車に押し込んだ。そうして二人の騎士が乗り込み、御者が馬にムチを当てる。
「刑事みたい……」
 梨里のつぶやきを聞いて、ヴィルが首を傾げた。
「それもリリーが元いた世界のものか?」
「そうです。あの世界にも、ヴィルたちのように悪人を捕まえる正義のヒーローがいたんです。ヴィルはこの世界のヒーローですね」
 ヴィルは照れたように人差し指で頬を掻いてボソッとつぶやく。
「私はリリーのヒーローになりたいと思っている」
 梨里は頬が熱くなるのを感じた。ふと気づけば周囲に人だかりができていて、自分たちが注目されていたことに気づく。
「異世界の少女は黒魔女じゃなかったのか?」
「侯爵様がああしてお話しされているのだから……黒魔女という噂は嘘なのか?」
「侯爵様と異世界の少女はどういう関係なんだろう」
 そんな囁き声が聞こえてきて、梨里は戸惑い、バスケットを押しつけるようにしてヴィルに渡した。
「あ、あの、皆さんに食べてもらおうと思ってパンを焼いてきたんです。た、卵やベーコンをサンドしたものもあるんで……」
 そうして真っ赤な顔で逃げ出そうとしたとき、ヴィルが梨里の腕を掴んで引き寄せた。彼は周囲の野次馬を見回し、声を張り上げる。
「この家の改装が済めば、ここにリリーのベーカリーがオープンする。今までバンベルク王国に――いや、この大陸になかったようなおいしいパンが売られることになる。私もとても楽しみにしているのだ」
 そう言ってヴィルが梨里の髪にキスをしたので、周囲で歓声が上がった。その歓声に、梨里は自分の夢が近づいてくる足音を聞いた。

 ヴィルが手配してくれた職人たちが、エミリアたちの家をベーカリーに改装している間、梨里はヴィルのタウンハウスで暮らした。ヴィルは王城内の騎士舎で泊まることが多いが、週に一、二度はタウンハウスに来て、梨里と一緒に食事をした。肉や野菜を料理するのはマルガの役目だが、パンだけは梨里が焼いている。
 エミリアの家を荒らした小麦商人は、裁判の結果、小麦の販売免許を剥奪され、王都を追放された。
 そうして半月が立ち、梨里はヴィルと一緒に馬車に乗り、改装が終わった家に向かった。前方に家が見えてきて、梨里は顔をほころばせる。
「あ、出窓にコスモスが咲いてる! すてき!」
「ピクニックに行ったとき、梨里が気に入った様子だったから」
「ありがとうございます、ヴィル」
「礼を言うのはまだ早いよ。中もすばらしくなっている」
 馬車が止まって外からドアが開けられ、ヴィルが先に降りた。彼が差し出した手に掴まって、梨里も馬車から降りる。そして家を見上げて、大きく目を見開いた。
 扉の上に大きな看板が掛かっていて、〝Lily’s Bakery〟と書かれているのだ。
「ヴィル!」
 梨里は喜びのあまりヴィルに抱きついた。ヴィルは照れた表情で梨里を抱きしめる。
「店に買いに来るお客第一号も私だからな」
 ヴィルは念を押すように言って梨里の髪にキスを落とした。
 ――本日ここに、梨里の異世界天然酵母ベーカリーが開店する。

【END】