幼馴染からの抜け出し方

 出張先がどこの国なのかは聞いていないけれど、またお土産を買ってきてくれるだろうからそのときに行先の国はわかるはず。

「んーと、十一時半だったかな」

「空港までお見送りに行きましょうか」

「いいよ別に。ただの出張だし」

 今度はどのくらいの期間の出張なのだろう。前のときは一週間で、その前のときは三週間だった。頻繁に会っているわけではないものの、なんとなく由貴ちゃんが日本にいないことを出張のたびに寂しく感じてしまう。

 あっという間に駅の入口まで歩いてきた。私と由貴ちゃんが乗る電車は路線も違うし、方向も反対だ。

 私が七番ホームで、由貴ちゃんは四番ホーム。改札を通るとそれぞれの電車が発車するホームへとつながる階段の前で少し立ち止まる。

「今日はごちそうさまでした」

 おごってもらったのでお礼を言って深々と頭を下げると、「どういたしまして」と笑い声混じりの由貴ちゃんの声が返ってくる。

「じゃあまたね由貴ちゃん。出張頑張って」

 バイバイと手を振って、私は由貴ちゃんに背中を向ける。そのまま階段を一段だけ上がったところで「待って、めぐ」と声を掛けられた。
「なに?」

 立ち止まって振り向くと、由貴ちゃんが一歩だけ前に進んで私との距離を詰めた。

「俺が出張に行っている間にまた変な男に引っ掛からないように」

「うん、気を付ける」

「もしも言い寄ってくる男がいても無視すること」

「はい。そうします」

 私もしばらくは彼氏はいらないと思っているから同意して頷いた。

「それと……」

 今さっきまですらすらと話していた由貴ちゃんの口が閉じてしまった。それとに続く言葉がなかなか出てこない。

「由貴ちゃん?」

 どうしたのかと思い顔を覗き込むと、視線が静かにぶつかった。由貴ちゃんが少し声のトーンを落として続きの言葉を口にする。

「俺が出張から戻るまで彼氏は作らないで」

「え?」

 もしかして由貴ちゃんは私のことを心配してくれているのかもしれない。

 当たり前だよなぁと思う。私がダメ彼氏ばかり作ってしまうせいで、この前も頬を腫らして由貴ちゃんの家にお世話になったし、その前はストーカー彼氏から助けてもらった。

 そりゃ心配にもなるよね。ごめんね、男運の悪い幼馴染がいつも迷惑をかけて。
「大丈夫だよ。安心して。私はしばらく彼氏は作らない。もう本当に自分の男運のなさにはこりごりしてるから。一生独身でもいい覚悟もしているくらいだし」

 とはさすがに言い過ぎだけど。でも、付き合う男が次々とダメなやつばかりなので、もし次に付き合う人も同じようなダメ男だったらどうしようという不安からついそんな考えになってしまう。

 それならもういっそ一生独り身でもいいのかもしれない。

「それに、私にはとってもかっこよくて頼りになるスーパーヒーローみたいな幼馴染がいるからね」

 うん。私には由貴ちゃんがいる。だから、彼氏なんていなくても大丈夫。

 けれど、目の前の幼馴染はなぜか浮かない表情を浮かべている。

「……そっか。それは、嬉しいような悲しいような複雑だな」

 ボソボソと呟いて、由貴ちゃんはいつになく真剣な表情で私を見つめる。

「でも俺は、このままめぐの幼馴染でいるつもりないから」

「え?」

「じゃあね、めぐ」

 由貴ちゃんは私の頭に手を乗せると、ぽんぽんと優しく撫でてから背を向ける。そのまま私を振り返ることなく六番ホームへと続く階段を長い足で駆け上っていった。





「痛っ……」

 左手の人差し指にピリッとした痛みを感じた。うっすらと血がにじんでいる。それをティッシュで軽く拭き取ってから、絆創膏を貼った。

 子供の頃から手慣れている裁縫をしていたはずなのに、考え事をしてぼんやりとしていたせいか針で指を刺してしまった。

 ぽかぽかと暖かな陽が差し込む金曜の午後。今日は朝から自分の部屋にこもって趣味の裁縫に没頭している。

 手を動かしていれば余計なことを考えずにすむと思ったけれど、そんなことはない。手はチクチクと針を動かしているものの、頭では別のことを考えてしまう。

 由貴ちゃんが出張へ行ってから今日で三日。駅での別れ際に言われた『このまま幼馴染でいるつもりないから』の言葉が気になる。

 もともと何事も深く考え過ぎずに忘れていく性格だけど、由貴ちゃんのあの言葉だけはなぜかずっと頭から離れない。

 私はずっと由貴ちゃんのことを大切な幼馴染だと思っているし、それはこれから先も変わらない。それなのに由貴ちゃんはそうじゃないってこと? 私と幼馴染でいたくないのだろうか。

 ううん、そんなはずはない。

 そう思いたいけど、じゃあどうして幼馴染でいるつもりはないなんて言ったのだろう。
 もしかして、すぐに由貴ちゃんに頼ってしまう私に嫌気がさしたのかな。由貴ちゃんはいつも私に優しいから、すっかりそれに甘えていた。

 出張から戻ってきた由貴ちゃんに距離を置かれていたらどうしよう……。

 そこまで考えたところで、お腹からぐぅっと情けない音が聞こえた。

「お腹すいたなぁ」

 時計に視線を移せば午後二時を指している。そういえば、お昼をまだ食べていなかった。キッチンへ向かおうとしたものの、なんとなく気分が乗らない。

 一階の洋室では今、母が講師をしている裁縫教室が開かれている。生徒はほぼ母と同年代の話好きのマダムたちなので、きっと今頃わいわいとにぎやかに講習をしているのだろう。

 見つかったら話し掛けられて教室へ引っ張り込まれてしまうので、それが嫌で今日は二階の自室に引きこもっている。来週開かれるマルシェに出品する商品をもっと作っておこうと思っていたので、部屋で一人でチクチクと裁縫だ。
「ん?」

 テーブルの上に置いていたスマホが振動すると、通知ボタンが赤く点滅した。どうやらメッセージが届いたらしい。

 確認すると由貴ちゃんからで、写真が添付されている。

 夕暮れ時、まっすぐに伸びた河の両側にはレンガや石を積み上げてできた建物がびっしりと立ち並ぶ風景。

 由貴ちゃんは海外出張のたびにこうして私にその国の風景写真を送ってくれる。

 今回の行先はヨーロッパだろうか。どこの国かまではわからないけれど、家の造りなどの雰囲気から予想するとたぶんそうだと思う。

 うっとりするほど素敵な外国の街並みに見惚れていると、スマホの画面にまた新たなメッセージが飛び出てきた。 一瞬、由貴ちゃんからだと思ったけど、違った。

【この間はごめん。一度あってしっかりと話がしたい。会えないかな?】

 元彼の森谷君だ。

 私は思わずスマホをベッドへ向かって投げつけてしまった。
 森谷君のアパートで彼の本命彼女と鉢合わせて以来、私たちは連絡を取り合っていない。だから、浮気相手の私とはこのまま自然消滅になったと思っていたのに。

 今さらなんの話があるのだろう。謝罪? それならいらない。もうそっとしておいてほしい。

 森谷君のメッセージには返信をしない。私はもう二度とあの人には会いたくないし、話だってしたくない。



「それで、なんて返したの?」

「ううん、返してない」

 無視無視と言いながら、くるくるとフォークにパスタを巻き付けていく。

 翌日の土曜日。

 休日ということもあり百貨店は普段よりも来店者が増えるうえに、今日から七階にある催事場コーナーで全国の美味しいものを集めたイベントが期間限定で始まったので来店者がさらに増えている。

 私の担当である子供服売り場もイベント目的で来店したお客さんが流れてきたため、いつも以上に人が多いし、売れ行きもいい。今月の売り上げ目標は余裕で超えられそうだ。
 けれど、そのせいで接客に忙しくてお昼の時間がだいぶ遅くなってしまった。それはゆかりも同じだったようで、社食で見つけた彼女はだいぶやつれているように見えた。まだまだ午後の接客が残っているけれど、とりあえず今は静かな社食でお腹を満たす。

「でも、元彼が同じ職場、しかも同期ってかなり気まずいよね」

 うどんをすすりながらゆかりが呟いた言葉に、私は同意するように頷く。

「やっぱりそうだよね。私もそこだけが心配」

 そういえば去年寿退社した同じ売り場担当の先輩が言っていた。社内恋愛はこじれて別れたらめんどうだって。今なら先輩のその言葉が理解できる。迂闊だった。もっと深く考えてから告白の返事をすればよかった。なんて、あとになって思ってももう遅い。

 幸いなことに森谷君は営業担当なので普段は外回りをしていることが多いから、販売担当の私とはめったに顔を合わせない。それでも、同じ職場内にいることに変わりはないわけで。

 今いる社食や社員通用口とかで偶然に鉢合わせすることがあるかもしれない。そのときに気まずい思いをするよりも、やっぱり一度しっかりと会って話をした方がいいのかな。でも、会いたくない。
「あ~、どうしたらいいんだろう」

 両手で髪をわしゃわしゃとかき回す。そんな私にゆかりは「とりあえず返信はしなよ」と言い残し、一足先に社食を後にした。

 時計を見ると私もそろそろ売り場に戻る時間なので、慌てて残りのパスタを口に詰め込んだ。



 売場に戻ると、次に休憩に入る同僚に声をかけて代わりにレジへ入った。午前よりも客足は落ち着いているものの、それでも普段の同じ時間帯よりは賑わっている。

「あの……すみません」

 発売された新商品のカタログをパラパラとチェックしていると控えめな女性の声が聞こえて顔をあげる。おお、お腹が大きい!妊婦さんだ。たぶんもう臨月ぐらいだと思う。

「どうされましたか?」

「ベビードレスを探していて」

「ベビードレスですね。それでしたらこちらになります」

 妊婦の女性の隣には旦那さんがぴったりとよりそって、マタニティマークのついた女性物の鞄を持ってあげている。今日は二人で産まれてくる赤ちゃんのためのベビードレスを探しに来たらしい。いいな、なんだか微笑ましい。