◇
初日は彼の家まで、母親が付き添った。
通されたのは、畳の部屋だった。床の間には掛け軸と厳かな花々が飾られていて、中ほどに長机が一つ置かれていた。縁側があり、そこからは、綺麗な庭もよく見えた。
「よろしくお願いします」と、嬉しさで胸がいっぱいの少女は彼に元気よく挨拶する。
「よろしくね。僕も先生になるのは、初めてなんだ。君と楽しく学んでいけたらいいと思ってる」と手を差し伸べ握手を求めた。大きくて、優しい手だった。少女はドキドキしながら、その手を握り返した。
「綺麗な石だね」と少女の首もとに目がいった。乳白色のとても綺麗な石のネックレスをしていた。
「はい。お守りなんです。ママからもらいました」
そうと優しく微笑んでから
「今日は、何を書こうね?」
彼に訊ねられ、「風がいいです」と答える。
「うん。じゃあ、風を書こうか」
彼は、その日に何をするのか前もって決めないひとだった。
書く文字も彼が決める日があれば、少女が決める日もある。
書を教える日もあれば、一緒に庭の土いじりをしたり、花をいけたりするときもあった。
少女が眠ければ、一度眠ろうと昼寝さえすることもある。
書くときでさえ、「その文字を見て、感じるままに書けばいいよ」と言うくらいだった。
表現と言うものは、自分の中にある愛が溢れ出るものだということを、わかっていたからだ。
少女は師の教えるままに学んでいこうと素直に学んでいったので、自然と上達していった。
◇
あるとき、少女が悔しそうな顔をしたまま、長机に文鎮や筆をおいていくのを見て、彼は訊ねた。
「何かあったのかい?」
少し黙ってから
「喧嘩したの」
「喧嘩? 珍しいね」
「妖精がいるかいないかって話になって。私はいると思うって言ったら、バカにされたんだもん。そんなの信じてるのって」
「妖精? ああ。妖精か。君の世界には妖精がいるんだね」
うんと頷いた。
「先生は? 妖精信じてる?」
彼もうんと頷いた。
「そうだよね。いるよね」と顔を輝かせた。
「この世界は一つに見えて、一つじゃないんだよ。幾重にも重なっていると思えばいい。例えば妖精がいる世界と妖精がいない世界がある。どちらが正しい正しくないではなくて、ただ世界が違うだけなんだ。妖精のいない世界には、妖精がいないが正しいんだから、比べる必要もないんだよ」
「そっかぁ。わかった」と素直に頷いた。
「君は妖精に守られているのだから、うんと力を貸してもらえばいい。書だって、君が創造する以上のものを書かせてもらえるようになるよ」
「そうなの? じゃあ、力貸してもらう」と丁寧に墨をすり始めると、喧嘩のことなど忘れてしまった。
彼は、この少女といると、とても清々しさを感じた。
彼は書道家として成功を収めていた。
だけど、ときどき心のどこかに邪念のようなものを感じることがあった。
例えば、アイドルみたいな扱いをされたとき、自分の作品を心ない扱いをされているのを見かけたとき。
胸の中をごうごうと音をたて、不快になる。
ただ、この少女と出会ったことで、その邪念とも離れ、素直さを取り戻していった。
内側にある光に呼吸をしていけばいいのだと感じ始めていくと、不要な仕事は自然と手放すようになっていった。そのうち不快な仕事自体が来なくなり、心ない扱いをされることも少なくなっていった。
◇
少女に書を教え始め、2年と少しを過ぎた頃だった。
その日は暑く、縁側に腰をかけ冷やしたスイカを二人で並んで食べた。
少女が種飛ばしをしたいと言ったので、笑いながら競争した。
「私の勝ち」と少女が自慢げに言う。
チリンと風鈴の音がしたとき、彼はふと思い立った。
「今月で、この書道教室をやめることにするよ」
「え? なんで?」
「君はずいぶん成長したし、僕もとても君から学べたからだよ」
少女は悲しくなった。
「そんなの嫌だよぉ。先生、お仕事忙しいの? 授業、減らすから。先生の教室、通いたいよ」
ううんと首を横に振った。
「これは、僕と君のためだよ」
「先生と私の?」
「うん。先生は、日本を離れようと思ってるんだ。学びたいんだよ。そしたら、次に君に会ったとき、どうなってると思う?」
「うんと。先生が頭良くなってる?」
くすりと笑うと
「それもあるかもしれないね。次に会ったら、もっとお互いが素敵なひとになっているだろうから、一緒にいる時間がとても楽しくなると思うよ」
少女はしゅんとした顔をする。
「嫌だよ。一緒にいて、お互い素敵なひとになって、楽しいのがいい」
「大丈夫。またすぐに会えるから」
「本当に?」
「うん」
「絶対に?」
はははと声に出して、彼は笑った。
「うん」
「じゃあ、待ってるからね! 宗明先生のこと!」
「うん。待っててね。そうだ。あげたいものがあるんだ」
彼は立ち上がり、壁にかけていた額縁を手に取った。腰を落とすと「はい」と手渡した。
「風」と少女は呟いた。 胸の中に草原にいるようなやわらぎを感じた。
「葉凪は風みたいな子だからね」
その言葉に少女は瞳を潤ませた。それから我慢できないというように、涙が溢れてくる。とても可憐に見えて、彼は優しく抱きとめる。 先生の右肩が、そっと涙で湿った。
それから6年後。
その少女、高木葉凪は15歳になった。
ひとり石垣島の空港に立ち、驚きながら辺りを見渡している。
沖縄から飛行機で一時間程かかる離島と聞いていたので、 何もないと思っていたのに、想像とあまりに違かった。
南国の木や花が色鮮やかで、イートインのフロアはカフェテラスのような解放感があった。白いパラソルが広がる。
おまけに7月という夏真っ盛りの季節のせいか、人の賑わいもあった。
空港の正面玄関を出ると、さんさんとさす太陽と熱い外気が身を包んで、思わず「あつっ」と呟いた。
東京で見た太陽と同じはずなのに、全然違う。太陽二つ分はあるかもしれない。
汗が滲んできたけれど、急に日焼けすると火傷すると言われたから、羽織っていたUVカットのカーディガンは脱げそうにない。
島の人だろうか。
かりゆしウェアと呼ばれるアロハシャツのようなものを着て案内をしている男性は、ひとつひとつのパーツが大きく印象的な顔立ちだった。
日本のはずなのに、外国に来たみたいだ。
ゆさゆさ揺れるヤシの木も、飛行機から見下ろした際に見たエメラルドグリーンの海も、緑の島々も新鮮でとても感動的だった。
(こんな素敵なところに住んでるんだ)
自然と胸が弾む。
ハナは、ここからさらに高速船で15分程にある月島に幼い頃、慕っていた先生、篠宗明が住んでいると知って会いに来た。
というよりも、移住することにしたのだ。
あれからというもの、ソウメイは海外を本当に点々としていて、至るところから手紙やハガキで近況を教えてくれた。先生の字の温かさを感じられて、その便りがくるのをいつも心待ちにしていたし、手紙を送れることも幸せだった。
その便りが急に届かなくなってしまったのが、二年ほど前になる。
ハナが出した手紙も最後には宛先人がいないとのことで、返ってきてしまった。
ソウメイの電話番号なんてものも知らなかったし、思い切って彼の実家を一度訪ねてみたものの、わからないと言われてしまった。
人気書道家として名が売れていたにも関わらず、現在は、表舞台から姿を消したようで、インターネットで探してみても、彼の最近の活動の様子もわからなかった。
(どこかで元気に暮らしてればいいけれど)
そんなときだった。
別居し、最近、月島にダイビングショップを営み始めた父の洋一から、「ハナ、喜べ。ソウメイ先生を見つけたぞ」と連絡があった。
驚きすぎて声が出なかった。代わりに安堵の涙が滲んだ。
「先生、どこにいたの?」
「月島だよ。二年前くらいから、ここを拠点に作家活動しているらしいぞ。元気そうだった。ハナのことももちろん覚えてたぞ。元気にやってると言ったら、安心してた」
優しかった先生の笑顔が風のようにかすめていく。
「……会いたい」
「ん?」
「お父さん、私、もう一度、先生に書道教えてもらいたい」
「おう。じゃあ、遊びに来るか?」
「遊びじゃなくて、そこに住みたい。先生にもう一度、弟子入りさせてもらいたい」
ヨウイチは書道教室がなくなってからのハナの様子を知っている。
どこか心の支えを失くしたようにカラ元気だった。他の書道教室に通い始めたけれど、窮屈さを感じて、あまり通わなくなり、先生との連絡が途絶えてからは、筆も握らなくなったと聞いていた。
先生の教室はとても肌があっていたようで、いつも活き活きしていたのになと心のどこかで気にしていた。
おまけにもうひとつ、ヨウイチはとても気にかかることがあった。
だから「じゃあ、おいで。家はどうにかするから」と優しくハナに伝えたのだった。
ヨウイチの家は現在、ダイビングショップと兼用している。
いずれ家を建てるまでの一人用の仮住まいを想定して造っていたので、とても狭い。
借家を借りようとしたところ、台風の影響で破損してしまい、取り壊すことにしたと言われた。
他のところも探してみたのだけど、とても古い家ばかりで年頃の娘を住まわすには無理があった。 アパートなんてものも、存在していない。
困っていると、名案が浮かんだ。
ヨウイチは結婚する前、石垣島のダイビングショップに勤めていた。
その頃の縁で、月島の知念一というひとに出会い、とてもよくしてくれた。
結婚を期に東京に越したのだけど、それからも、縁は続いていてヨウイチの起業の際にも力を貸してくれた。
ヨウイチにとっては父のような頼もしさを感じさせてくれるひとだった。
知念のおじぃとヨウイチは呼んでいる。
そのひとは、民宿のオーナーをしていたので、そこに住まわせてもらえないかと考えた。
共同生活になるけれど、綺麗で住みやすいだろう。それを提案したら、ハナも「大丈夫だよ。下宿みたいで楽しそうだね」と、ひとつ返事で受け入れた。