高校2年生の夏休みが明けてからも、和音は毎日部活に参加していた。吹奏楽部は夏休みにほぼ毎日練習があり、加えて進学校であるおかげで夏季講習も頻繁にあったので、お盆以外はほとんど登校していた。
「休みなんてないじゃないか」と皆で文句を言いながら毎日学校に行っていたおかげで、夏休みを楽しむ余裕もなく二学期が始まってしまった。そして毎日小テストや課題に追われ、「受験」の意識が学年中に充満し出す中で、少しずつ圧迫感を感じ始めていた。
そして、朝は空の澄んだ青に何となく心細さを感じ、夜は日の短さに少しの焦りを感じるようになった頃、制服の衣替えを命じられ、おかげでやっと二学期に気持ちを切り替えられるようになった。その矢先、ある事件をきっかけに和音は人生最大の秘密を2人のクラスメイトと共有することになる。
「ごめん、譜面教室に置いてきちゃった。先始めてて」
「オッケー」
いつも通り音楽準備室から楽器を取ってきて、トランペット隊のパート練習に参加しようとした和音は忘れ物に気づき、足早に教室に戻った。
いつもなら放課後は教室にほとんど人がいないのだが、この日は2人の人影が見えた。和音は引き戸に手をかけたが、中から聞こえてくる声にドアを開けるのを躊躇った。
「私が先に入れたのよ」
「今あたしの手紙捨てようとしたじゃない、返して」
「返して欲しければ書き直して。手紙で告白なんて卑怯よ」
「樫原はそうすればいいじゃん。私は手紙で早く言っておきたい派なの!嫌ならあんたも手紙で告白すればいいじゃん。それなら同じ土俵でしょ」
「私は想いは直接伝える派なのよ!」
口論が聞こえたからだ。
聞こえてくる声の主は、陸上部の佐川真由紀と、生徒会長の樫原詩織だった。2人が言い争っている内容は大体想像がつく。恋愛のいざこざだ。
それにしてもおかしい。和音は強烈な違和感を覚え、考えを巡らせながら壁に隠れて聞き耳を立てた。ちらりとガラス越しに中を覗いてみると、両者は手紙らしきものを手に、一つの机を挟んで対峙している。ショートヘアでボーイッシュな体育会系の佐川と、ロングヘアが波打つお嬢様気質な優等生の樫原という正反対な2人が、どうやら同じ人を好きになったのは間違い無いらしい。しかもその相手は驚くべき相手だった。
とにかく和音はこの異常事態を理解し、勇気を出してそこに踏み込むことにした。
「お疲れ、2人とも」
「弓削さん…」
樫原はその鋭い双眸を和音に向け、佐川は少し驚いた表情で和音の方を向いた。
「ごめん、取り込み中だったね、すぐ出てくから…」
和音はわざとへらへらしながら楽譜を取りに向かう。今の会話を聞いていたことを暗に伝えるための安っぽい演技だった。そして自分の机の中から楽譜を引っ張り出そうとし、机の中身を床に盛大にばら撒いてみせた。
「大丈夫?」
佐川が床にばら撒かれたプリントを拾いに和音の席にやってきた。
「あ、ごめん、邪魔しちゃって」
「…もしかして今の話、聞いてた?」
佐川が食いついた。樫原はギロリとこちらに視線を落とす。ここまでは和音の作戦通りだった。
「…盗み聞きするつもりは無かったんだけど」
佐川は何とも読み取りづらい表情で和音を見つめる。和音は自分のしていることに若干の罪悪感を覚えた。
「じゃあ、どう思う?」
「どうって?」
「だから、2人が同じ男に同時に告白の手紙を渡したらまずいかってこと」
和音は2人の話に割り込むチャンスを得た。
「まずいってことはないと思うけど……」
「違うわ」
樫原がこちらを見下げて、毅然とした声音で遮った。
「私は彼に告白するために、明日の放課後に呼び出す内容の手紙を書いたの。でも佐川さんは告白の内容を手紙に書いたって言うから、書き直しなさいって言ったのよ」
「そんなの個人の自由でしょ!」
「機会は平等に与えられるべきよ。彼が来るもの拒まず精神だったらどうするのよ。思いを伝えた先着順になっちゃうじゃない」
「だからそれが心配なら手紙で告ればいいじゃん」
2人の議論はこの調子でずっと平行線だった。会って直接想いを伝えたい派の熱い生徒会長と、早く手紙で想いを伝えたい俊足の陸上部。その2人の想いが報われることはないという事実を、和音は2人に伝えるしかなかった。
「ちょっと確認したいんだけど…」
二人は無言で和音の方を振り向いて睨んだ。その眼力に圧倒されそうになる。
「2人が告白しようとしている相手って、男子だよね?」
「そりゃそうだけど」
「あそこの、席の人だよね?」
「そうよ」
2人は席も何もない空間に視線を向けた。
「あそこに席はないよ」
「何言ってるの?」
「2人とも、よく思い出して。ここは女子校だよ」
その場の空気が凍り付くのを感じた。ここは正真正銘、開校以来永遠に女子校である。そのため当然ながらこの教室に男子の席などあるはずも無く、それなのに教室内で男子に手紙を渡す渡さないを巡っていざこざが繰り広げられていることに違和感を覚えたのだった。
和音は2人にその男子生徒の存在の異質さに気付かせたかったが、佐川も樫原も釈然としない表情だった。
「確かにここは女子校だけど、…彼は特別に認められているでしょ」
「そうよ」
和音は、さっきはあれほど意見が合わなかった2人が、なぜこういうときは意見が一致しているのか不思議でならなかった。
「ほら、見て。ここの席、あの表には載ってないでしょ。ここに席なんてないよ」
次は教室の一番後ろの掲示板に貼られている座席表を指さした。
「何言ってるの、書いてあるじゃん!」
「よく見て。ほらここ」
樫原が座席表で示したのは、一番窓際の列の最後尾の席の後ろに空いた空白のスペースだった。2人が対峙して言い争っていたのも、側からみれば机なんて隔てていなくて、少し距離を保って言い争っているだけだった。だから、「彼の机」に手紙を入れるとなると、実際には床に落としてしまうことになるだろう。
しかし、彼女たちは、そこに席があると思い込み、座席表にもその席が記載されていると信じている。
そして、その席の彼の正体は、佐川と樫原、そして和音にしか見えていない幽霊だった。和音はその霊が窓際の1番後ろでたまに授業を受けている姿を目にしていたが、特に害を及ぼすようには見えなかったので、何もせず放っておいた。
しかし、その幽霊に2人の女子生徒が手紙を書いて渡そうとしているということは、2人から人間として認知されている存在になっているということだ。もしかしたら佐川と樫原はクラスメイトに恋愛相談かなんかを既にしていて、認知している人の数はもっと多いかもしれない。しかも、「特別な理由から女子校にいることを許されている男子生徒」という、無理やりここにいることが許される為の理由を共通認識として持たれていることが厄介だ。
幽霊は認知されることで徐々に実体を現すようになり、その存在を強くしていく。このまま彼を認知している人数が増えたら、和音の力では到底対処できない事態に陥る可能性もある。
そして今回のケースでいくと、2人が手紙を書いたことで、幽霊は現実との繋がりを強固なものにしつつある。そうなると幽霊がもしかしたらなんらかの力を得て、人間の世界に危害を加えるようになるかもしれない。
和音の生家は古くから受け継がれるイタコの家系で、貴重な生き残りである。そして、弓削家の人間は伝承されているイタコの主な業務「口寄せ」以外にもいくつか出来ることがある。そのうちの1つが除霊術で、陰陽師が由来となった除霊術を使うことができて、悪い霊に荒らされた場を鎮めることができる。今はこちらの方の依頼が多いと聞く。弓削家はこの地域一帯の相談屋を営んでおり、表立ってイタコや陰陽師とは名乗っていないが、実態としてそういう依頼がほとんどだ。
(手に負えなそうならお母さん…最悪お父さんに頼ろう)
和音は周辺で起きる小さな事件に対処するくらいなら昔からやってのけてきたが、今回のような規模が大きくなるかもしれない霊を退治したことはない。和音はその力を職業にするつもりもなければ家を継ぐ気もない。
結局その日は佐川と樫原両者ともに譲らないまま、2人とも手紙だけ彼の机に入れて(正確にいえば手紙を床に落として)教室を後にした。和音は先に教室を出たと見せかけて2人が出て行った後に手紙を回収した。
部活の練習時間に大幅に遅れて参加した和音は少し居残り練習をした後、暗い夜道を帰路に就いた。足を踏み出す度に鞄に重みを感じるのは、今日の手紙が入っているからだろうか。母にどう説明しようか考えながら歩いていると、いつの間にか屋敷を通り過ぎそうになっていた。
「あら、継ぐ気になってくれたの?」
夕食中に、事の顛末を聞いたあとの和音の母の第一声だった。
「違うわ」
和音は生まれてからずっと、それを職業にしようと思ったことは一度もなかった。それ故に、対処法についての知識はあまりない。
「どう思う?私でも対処できるかな。無理そうならお母さんに頼もうと思って」
和音の母は少し残念そうに首を振った。しかし実際のところ和音の母は娘のことを全くあてにしていない。
「その手紙はどうしたの?」
「一応石で守ってあるけど、使い方あってるのかわかんない」
「まあ、あたしがやっても良いけど、学校に行かないことには対処のしようがないからねぇ。学校の人にあたしの職業がばれちゃうでしょう、きっと気まずいわよ?」
和音の母はあまり乗り気ではなかった。しかし乗り気でない本当の理由は、誰からも依頼料を取れないからだった。和音の母はそれを職業として生業にしているが故に、お金を取らないことはプロがやることではないという信念を持っている。
「後を継かないにしても、あんたはちゃんと自分の力をコントロール出来るようにならないといけないしねぇ」
「え?なんで?」
「ともかく、自分でやってみなさい」
結局母に断られてしまった和音は、守り石と小さい変な形の人形がぶら下がったネックレスの使い方だけを一応聞いて、明日にでも対処しようと決意して部屋に戻った。
登校すると、クラス内の雰囲気がいつもと違っていた。
嫌な予感がしたが、その不穏な空気は佐川と樫原を筆頭に、2人を取り巻く友人たちにまで及んでいた。取り巻きの彼女たちは決して争っているわけではない。皆、佐川と樫原を気遣ってお互い気まずそうにしているのだった。和音は今回の自身の劣勢を悟り、無理やりにでも母に頼めばよかったと後悔した。
和音は昨晩母親から教わった胡散臭い手順を遂行するために、屋上で下準備を始めた。
「おかしいな」
こっそり屋上に忍び込み、昨日2人が書いていた手紙に目を通す。しかし2人とも、彼の名前を書いていないのだ。いくら霊感が他の人より強い2人であっても、彼と意思疎通が取れたはずはないのだ。その証拠に、2人の手紙は曖昧な情報が無視された薄い内容のものだった。もしかしたら彼は異性から好かれやすいそう特性を持っているのかもしれない。霊は時として特殊な特徴を持つのはたまにあることだ。そう思いながら降霊術を始める。と言っても、変な形の人形を握って念じるだけだ。
しかし、名前がわからないと降霊できないことが多い。降霊術とは、要するにあの世に対して彼を検索にかけてヒットしたら引っ張ってくるだけの作業だ。しかし、情報が少ないと検索に引っかからないことが多い。今回は失敗のようだった。
クラス内でも彼の存在が多くの人に認知されていることがわかった以上、さっさと降霊してこの世に残って活動している理由を聞き出き、場合によっては解決してあげる必要がある。まずは彼に関する情報を集めなければと思い、教室に戻った。
2年7組の教室のドアを開けると、凍り付く空気、時間、空間に支配されていた。もう遅かったと和音は悟り、ネックレスを構えた。
「佐川さん」
佐川真由紀の体は完全に彼に乗っ取られていた。
「お前じゃない」
彼が言葉を発すると、和音の方に机が飛んで行った。間一髪で机を避けたが窓に当たって硝子が砕け散った。攻撃性が増した彼は誰かを探している。このままでは本当に誰かに危害を加えてしまう。立ち上がって彼の行く手を阻もうとしたそのとき、教室のドアがガラリと開いた。
再び場の空気が変わるのを感じる。現れたのは樫原詩織だった。そして、彼女を見た瞬間、彼は目の色を変えた。
「お前だ」
和音は咄嗟に樫原の手を取って教室を出た。守り石をドアの前に転がして、一言「彼を教室から出さないで」と念じ、樫原を連れて逃げた。
「ちょっと、今の何?」
校内を走りながら、樫原は息を切らして問いかける。
「今の、佐川さんに見えた?」
樫原は首を横に振った。
「それもわかるんだね。やっぱり2人は霊感が強い」
「それって」
「彼が佐川さんに憑依してる。しかも樫原さんを狙ってた。このままじゃ佐川さんも樫原さんも危ない」
彼はなんらかの理由で樫原に敵意を剥き出しにしていた。教室の前に設置した結界もいつまで持つかわからない。これに対処するためには、和音が彼より強い霊を自身に降霊するしかない。
それよりまずは樫原を安全な場所に連れて行かないとと思い、和音が樫原の手を引いた途端、樫原の手がするりと解けた。
「樫原さん!」
振り返ると彼女は消えていて、辺りは異様に静まり返っていた。彼は結界を破ることなくなんらかの方法で樫原を結界の中に呼び込んだのだ。和音が急いで教室に戻ると、その結界は和音が施したものとはまるで違う物になっていた。これでは和音が破れそうにはない。
「やられた!」
そして和音の行手を阻むように、彼の使い魔らしき霊が数体現れた。それらはもう自身の意思を失い、使役されるだけの存在となっていた。そこまでして彼が和音を足止めし、樫原に執心する理由がわからなかった。和音は使い魔を持たないので、攻撃力は無いに等しい。
ここで死ぬのは流石に弱過ぎる、と思いながらネックレスの人形を握って目を閉じた。
瞼を開けると目の前には何も遮るものがない、だだっ広い空間が広がっていた。和音がそこに行き着いたのは約10年ぶりだった。足元は薄い水の幕が張っており、歩くたびに水面が揺れてぴちゃぴちゃ音がする。しかしこの場であっても、その人は音もなく現れた。
「久しぶりに呼んでくれたな、嬉しいよ。大きくなったな」
和音の眼前に、寸刻前念じたばかりの人が、ずっとそこで待っていたかのように佇んでいた。そこにいたのは10年以上前に亡くなった和音の父だった。
「ごめん、今大ピンチなの。早く来てくれる?」
「人使い荒いなぁ。もっと再会を喜ぼうぜ」
「いつの間にか呼んでも来なくなったのはそっちでしょ」
久しぶりに見た父の姿は、最後に会った時から変わらない姿だった。江戸っ子らしい雑な話し方も和音の知る限りの生前の父の特徴だった。
「全然こっちの鍛錬はしてないみたいだな」
「パパみたいに仕事で死にたくないもん」
「そりゃそうだ」
高らかな笑い声をあげて、和音に近づく。
「いいぜ、今回は人助けだろ」
和音の父が、そっと和音の手を取った。
ゴツンと頭が壁にぶつかる音で一気に現実に引き戻される。目の前の悪霊は和音に掴みかかり壁際まで追い詰めて外に落とそうとしていた。
「全く凄い状況だな」
父の降りた和音はすかさず握っていた人形のネックレスを振り回して立ち所に目の前の悪霊を往なした。霊に捕縛術を施すと、直ぐに動けなくなった。
教室にずかずかと歩み寄り、張り巡らされた結界に両手を翳す。
「これは大仰な」
結界の上に指を滑らせていくと、ゆっくり空気が形を変えて、やがて阻むものがなくなった。結界を解いて教室のドアを開けると、彼が乗り移った佐川がナイフを握りしめ、樫原に馬乗りになっていた。
「やめて!」
樫原が叫ぶと同時に佐川が腕を振り下ろそうとしたが、それは敵わなかった。和音が手をかざしそれを睨み付けると、佐川は動けなくなった。必死に抗おうとして佐川は和音を見ようとするも、首すら満足に動かせない。和音は彼にゆっくり近づき、後ろから頭を掴む。
「相手を間違えているよ。お前が復讐する相手はそいつじゃない。もう何十年も前にあの世に行ったよ」
佐川の動きが止まった。
「復讐したきゃ好きにしな。でもお前はここにいる必要はない」
和音が佐川の後ろ首に人形を押し付けて揺らすと、佐川は力が抜けてその場に倒れ込んだ。樫原がそれを受け止めて和音を見上げる。和音でないことに気付き、顔が強張っていた。
「あなたは誰?」
和音の父はニヤリと笑った。
「娘をよろしくな」
和音は父を見送った後、佐川の意識が戻るのを待って、佐川と樫原を自宅に連れて帰った。強烈な霊体験の後は、悪いものを引き寄せやすくなるため、処置が必要だということを説明したら、2人は血の気の引いた顔で頷いき、黙ってついてきた。
和音は降霊術が使えることを家族以外に誰にも教えたことがなかった。そういうことを話すと他人から嫌われる原因になるということだけは幼い頃から理解していた。きっと佐川や樫原も気味悪がったことだろう。2人は周囲に言いふらしはしないだろうが、少なくとも自分とはあまり関わりたくないだろうと和音は思っていた。いつの間にか辺りは暗くなっていて、3人は弓削家の屋敷を目指して無言のまま歩み続けた。
「大変だったわね」
帰宅後、和音の母の第一声を聞いて、和音は母がこの事態を折り込み済みだったということを理解し、少し恨んだ。和音の母は3人を奥の和室に連れて行って、御祓を行った。佐川と樫原はずっと物珍しそうな表情でその儀式を見届けた。対する和音は遠い親戚の法事並みに退屈そうな表情でその儀式を見届けた。
御祓がひと段落すると、和音は母からお茶を取って来るように命じられ、キッチンに行ってお茶とお菓子を4人分用意した。和室に戻ると、佐川と樫原と和音の母は和気藹々と談笑していた。
和音の通う高校は私立の進学校で、直接的な言い方をすると非常に育ちの良い人が多い。佐川は振る舞いこそ多少粗野なところはあれど、大人の前ではきちんと優等生然として振る舞い、凛々しさと少女らしさが混じる顔立ちが好印象だった。樫原は元から優等生なので、その優雅な仕草や利発そうな発言から親や先生からの受けがいい。顔立ちは大人びていて、同級生から見れば少し気圧されるぐらいだった。和音の母は、そんな2人に対してかなり良い印象を受けたらしく、少し興奮気味だった。
「あら、3人分でよかったのに」
和音の母はお茶とお菓子を1人分だけ取って鼻歌を歌いながら下がってしまった。用意された座布団に座り、佐川と樫原と対峙する。
和音、佐川、樫原は普段から特段親しかったわけではない。お互い教室内では違うコロニーに属しており、用事があれば喋る程度の仲だった。そんな仲だった3人がいきなり強烈な超常現象を共有し、どうして良いかわからない雰囲気になっていた。和音は目の前の二人から目を逸らしていた。
少しして、どことなく気まずい雰囲気を破ったのは佐川だった。
「お母さん、ちょっと印象と違ったな」
御祓をするから家に来いって誘われた時はちょっとビビっちゃったよ、と笑いながら正座を崩して足を伸ばす。
「とても愉快なお母様だったわ」
樫原も同調する。何はともあれ母の掴みは良かったらしい。和音は普段の強欲で超・合理主義な母を思い浮かべながら複雑な気持ちになりなった。
「それにしても、不思議だな」
佐川が話すには、もう彼の顔も好きになった理由も覚えていないらしい。彼が憑依していた時間の記憶は断片的で、気がついたら目の前に樫原がいて、彼女をナイフで刺そうとしたらしい。しかし正気を取り戻した時、彼女が手にしていたのはナイフではなく筆箱から取り出した小さい定規だったという。それがナイフに見えていたのは佐川だけでなく、樫原も和音もだった。また、佐川に憑依した霊が机を吹っ飛ばして割ったはずの窓硝子も無傷だった。
「幽霊は、幽霊の文化がある国にしか現れないって話は知ってる?」
「なにそれ」
和音は、幽霊というものが認知されない限り存在することができないものだと理解している。今回のようなことが起きたのは、彼という幽霊を人間として認知する人数が増えたことにより、教室内において彼がこちらに干渉する力が増したことが原因だということを話した。幽霊は科学的根拠のない存在で、いるかいないかはそれぞれの主観に委ねられている。いないと思っている人には当然幽霊は見えもしない。彼らが現れる時は、必ず彼らを受け入れる姿勢がこちら側に必要であることを2人に伝えた。
「でも、本当に幽霊というものがこの世に存在するのかどうかは私にもわからない」
佐川と樫原は怪訝そうな顔をした。先程まで降霊や除霊を盛大に披露していた目の前のクラスメイトが、それでも幽霊に懐疑的な姿勢でいるのは滑稽に映った。
「でもあれは、お父さんだったんでしょ?」
樫原が問う。佐川に幽霊が乗り移ったことにすぐに見抜いた樫原は、同様に和音にも父親らしき人が乗り移っていることはわかっていた。目つきや仕草、醸し出す雰囲気がまるで別人で、和音でないことは一目瞭然だった。
「そう。死んだ父だよ」
佐川は気まずそうな表情を浮かべた。対して樫原はまだ何か聞き足りなそうだったので、和音はお茶菓子を手に取りつつ話すよう促した。
「その…お父さんが乗り移ってたとき、佐川さんに『復讐する相手が違う』みたいなこと言ってたわよね」
「ああ、あれはね」
和音は佐川に、幽霊が乗り移っていた時の記憶や感情が残っているか問うた。佐川は首を傾げて思い出そうとする。
「記憶、というか…樫原さんを見た時、『見つけた、殺してやる』みたいなことを思ったような…思ってないような…」
「ちょっと!やめてよ!」
樫原は身を震わせてのけ反った。佐川はニヤリと笑った。
和音は佐川に乗り移った幽霊の説明をした。彼は、数十年前に学校で虐めに遭った生徒の兄弟だった。恐らくその生徒は虐めが原因で亡くなり、彼は虐めの相手を探し続けてこの世に居座り続けてしまったらしい。彼は虐めの犯人の身体的特徴を大雑把に知っていて、たまたま樫原がそこに当てはまってしまい、今回のターゲットにされたのだった。
和音自身に幽霊の記憶や思念を読み取る能力はほとんどないが、和音の父はその能力に長けており、今回は和音の父の能力を使ってそのことが判明したと説明した。
「陰陽師ってそんなことまでわかるんだ」
「別に陰陽師じゃないって」
「さっきお母様がそんなこと言ってたわよ。良いのよもう隠さなくて」
佐川と樫原からの同情の視線が痛い。
「うちの母から何か吹き込まれたでしょ」
2人は同時に首を横に振る。何故この2人はこういう時だけ息が合っているのだろうと、和音は何度目かの同じ疑問を抱いた。大方、和音の母が「この家系のせいで娘が虐められないか心配だ」とかなんとかいう同情を誘うような話を吹き込んだに違いないと思い、和音は溜息をついた。ありがた迷惑だ。
「母に何言われたかは知らないけど、2人が気にするなら私にあまり関わることないんだよ。うちの母の職業とか私の珍妙な特徴を秘密にしておいてもらえれば」
「珍妙って」
もう用事は済んだからそろそろ帰ったほうが良いと2人を促すと、樫原は予想外のことを言い出した。
「お母様は今晩泊まって良いって言ってたけど」
「え?」
「だって今日このまま帰るのはなんか怖いんだもん、ついでに親交深めようぜ」
そう言って佐川はトイレを探しに立ち上がった。
2人があまりにも弓削家に順応するのが早すぎて、和音は唖然とした。そしてそれ以上に、これまでの出来事を自然に受け入れられたことに驚きだった。青天の霹靂とはまさにこのことで、和音は十数年生きてきた中で培った常識や価値観を疑った。自身の能力や家系は、胡散臭さの塊で、隠すべきもので、それが自分の周囲に漏れたときには社会的迫害を受けることが当然と思っていたのに。
それが、佐川と樫原は今日の事件が絵空事ではなく現実で起きたことと受け止め、和音の話を信じて疑わなかった。
「百聞は一見に如かずって、今日みたいなことを言うのね」
今まで幽霊って信してなかったけど、そう呟きながら樫原は風呂を探しに和音の母を呼びに行った。
「もしかして、本当に幽霊っているのかも…」
和音は今まで自分を取り巻く幽霊との繋がりを必死に否定してきたが、ただ少し霊感があって、たった一度霊体験を経験しただけの2人にいともたやすく受け入れられてしまうと、その考えは改めざるをえなくなったのだった。
「休みなんてないじゃないか」と皆で文句を言いながら毎日学校に行っていたおかげで、夏休みを楽しむ余裕もなく二学期が始まってしまった。そして毎日小テストや課題に追われ、「受験」の意識が学年中に充満し出す中で、少しずつ圧迫感を感じ始めていた。
そして、朝は空の澄んだ青に何となく心細さを感じ、夜は日の短さに少しの焦りを感じるようになった頃、制服の衣替えを命じられ、おかげでやっと二学期に気持ちを切り替えられるようになった。その矢先、ある事件をきっかけに和音は人生最大の秘密を2人のクラスメイトと共有することになる。
「ごめん、譜面教室に置いてきちゃった。先始めてて」
「オッケー」
いつも通り音楽準備室から楽器を取ってきて、トランペット隊のパート練習に参加しようとした和音は忘れ物に気づき、足早に教室に戻った。
いつもなら放課後は教室にほとんど人がいないのだが、この日は2人の人影が見えた。和音は引き戸に手をかけたが、中から聞こえてくる声にドアを開けるのを躊躇った。
「私が先に入れたのよ」
「今あたしの手紙捨てようとしたじゃない、返して」
「返して欲しければ書き直して。手紙で告白なんて卑怯よ」
「樫原はそうすればいいじゃん。私は手紙で早く言っておきたい派なの!嫌ならあんたも手紙で告白すればいいじゃん。それなら同じ土俵でしょ」
「私は想いは直接伝える派なのよ!」
口論が聞こえたからだ。
聞こえてくる声の主は、陸上部の佐川真由紀と、生徒会長の樫原詩織だった。2人が言い争っている内容は大体想像がつく。恋愛のいざこざだ。
それにしてもおかしい。和音は強烈な違和感を覚え、考えを巡らせながら壁に隠れて聞き耳を立てた。ちらりとガラス越しに中を覗いてみると、両者は手紙らしきものを手に、一つの机を挟んで対峙している。ショートヘアでボーイッシュな体育会系の佐川と、ロングヘアが波打つお嬢様気質な優等生の樫原という正反対な2人が、どうやら同じ人を好きになったのは間違い無いらしい。しかもその相手は驚くべき相手だった。
とにかく和音はこの異常事態を理解し、勇気を出してそこに踏み込むことにした。
「お疲れ、2人とも」
「弓削さん…」
樫原はその鋭い双眸を和音に向け、佐川は少し驚いた表情で和音の方を向いた。
「ごめん、取り込み中だったね、すぐ出てくから…」
和音はわざとへらへらしながら楽譜を取りに向かう。今の会話を聞いていたことを暗に伝えるための安っぽい演技だった。そして自分の机の中から楽譜を引っ張り出そうとし、机の中身を床に盛大にばら撒いてみせた。
「大丈夫?」
佐川が床にばら撒かれたプリントを拾いに和音の席にやってきた。
「あ、ごめん、邪魔しちゃって」
「…もしかして今の話、聞いてた?」
佐川が食いついた。樫原はギロリとこちらに視線を落とす。ここまでは和音の作戦通りだった。
「…盗み聞きするつもりは無かったんだけど」
佐川は何とも読み取りづらい表情で和音を見つめる。和音は自分のしていることに若干の罪悪感を覚えた。
「じゃあ、どう思う?」
「どうって?」
「だから、2人が同じ男に同時に告白の手紙を渡したらまずいかってこと」
和音は2人の話に割り込むチャンスを得た。
「まずいってことはないと思うけど……」
「違うわ」
樫原がこちらを見下げて、毅然とした声音で遮った。
「私は彼に告白するために、明日の放課後に呼び出す内容の手紙を書いたの。でも佐川さんは告白の内容を手紙に書いたって言うから、書き直しなさいって言ったのよ」
「そんなの個人の自由でしょ!」
「機会は平等に与えられるべきよ。彼が来るもの拒まず精神だったらどうするのよ。思いを伝えた先着順になっちゃうじゃない」
「だからそれが心配なら手紙で告ればいいじゃん」
2人の議論はこの調子でずっと平行線だった。会って直接想いを伝えたい派の熱い生徒会長と、早く手紙で想いを伝えたい俊足の陸上部。その2人の想いが報われることはないという事実を、和音は2人に伝えるしかなかった。
「ちょっと確認したいんだけど…」
二人は無言で和音の方を振り向いて睨んだ。その眼力に圧倒されそうになる。
「2人が告白しようとしている相手って、男子だよね?」
「そりゃそうだけど」
「あそこの、席の人だよね?」
「そうよ」
2人は席も何もない空間に視線を向けた。
「あそこに席はないよ」
「何言ってるの?」
「2人とも、よく思い出して。ここは女子校だよ」
その場の空気が凍り付くのを感じた。ここは正真正銘、開校以来永遠に女子校である。そのため当然ながらこの教室に男子の席などあるはずも無く、それなのに教室内で男子に手紙を渡す渡さないを巡っていざこざが繰り広げられていることに違和感を覚えたのだった。
和音は2人にその男子生徒の存在の異質さに気付かせたかったが、佐川も樫原も釈然としない表情だった。
「確かにここは女子校だけど、…彼は特別に認められているでしょ」
「そうよ」
和音は、さっきはあれほど意見が合わなかった2人が、なぜこういうときは意見が一致しているのか不思議でならなかった。
「ほら、見て。ここの席、あの表には載ってないでしょ。ここに席なんてないよ」
次は教室の一番後ろの掲示板に貼られている座席表を指さした。
「何言ってるの、書いてあるじゃん!」
「よく見て。ほらここ」
樫原が座席表で示したのは、一番窓際の列の最後尾の席の後ろに空いた空白のスペースだった。2人が対峙して言い争っていたのも、側からみれば机なんて隔てていなくて、少し距離を保って言い争っているだけだった。だから、「彼の机」に手紙を入れるとなると、実際には床に落としてしまうことになるだろう。
しかし、彼女たちは、そこに席があると思い込み、座席表にもその席が記載されていると信じている。
そして、その席の彼の正体は、佐川と樫原、そして和音にしか見えていない幽霊だった。和音はその霊が窓際の1番後ろでたまに授業を受けている姿を目にしていたが、特に害を及ぼすようには見えなかったので、何もせず放っておいた。
しかし、その幽霊に2人の女子生徒が手紙を書いて渡そうとしているということは、2人から人間として認知されている存在になっているということだ。もしかしたら佐川と樫原はクラスメイトに恋愛相談かなんかを既にしていて、認知している人の数はもっと多いかもしれない。しかも、「特別な理由から女子校にいることを許されている男子生徒」という、無理やりここにいることが許される為の理由を共通認識として持たれていることが厄介だ。
幽霊は認知されることで徐々に実体を現すようになり、その存在を強くしていく。このまま彼を認知している人数が増えたら、和音の力では到底対処できない事態に陥る可能性もある。
そして今回のケースでいくと、2人が手紙を書いたことで、幽霊は現実との繋がりを強固なものにしつつある。そうなると幽霊がもしかしたらなんらかの力を得て、人間の世界に危害を加えるようになるかもしれない。
和音の生家は古くから受け継がれるイタコの家系で、貴重な生き残りである。そして、弓削家の人間は伝承されているイタコの主な業務「口寄せ」以外にもいくつか出来ることがある。そのうちの1つが除霊術で、陰陽師が由来となった除霊術を使うことができて、悪い霊に荒らされた場を鎮めることができる。今はこちらの方の依頼が多いと聞く。弓削家はこの地域一帯の相談屋を営んでおり、表立ってイタコや陰陽師とは名乗っていないが、実態としてそういう依頼がほとんどだ。
(手に負えなそうならお母さん…最悪お父さんに頼ろう)
和音は周辺で起きる小さな事件に対処するくらいなら昔からやってのけてきたが、今回のような規模が大きくなるかもしれない霊を退治したことはない。和音はその力を職業にするつもりもなければ家を継ぐ気もない。
結局その日は佐川と樫原両者ともに譲らないまま、2人とも手紙だけ彼の机に入れて(正確にいえば手紙を床に落として)教室を後にした。和音は先に教室を出たと見せかけて2人が出て行った後に手紙を回収した。
部活の練習時間に大幅に遅れて参加した和音は少し居残り練習をした後、暗い夜道を帰路に就いた。足を踏み出す度に鞄に重みを感じるのは、今日の手紙が入っているからだろうか。母にどう説明しようか考えながら歩いていると、いつの間にか屋敷を通り過ぎそうになっていた。
「あら、継ぐ気になってくれたの?」
夕食中に、事の顛末を聞いたあとの和音の母の第一声だった。
「違うわ」
和音は生まれてからずっと、それを職業にしようと思ったことは一度もなかった。それ故に、対処法についての知識はあまりない。
「どう思う?私でも対処できるかな。無理そうならお母さんに頼もうと思って」
和音の母は少し残念そうに首を振った。しかし実際のところ和音の母は娘のことを全くあてにしていない。
「その手紙はどうしたの?」
「一応石で守ってあるけど、使い方あってるのかわかんない」
「まあ、あたしがやっても良いけど、学校に行かないことには対処のしようがないからねぇ。学校の人にあたしの職業がばれちゃうでしょう、きっと気まずいわよ?」
和音の母はあまり乗り気ではなかった。しかし乗り気でない本当の理由は、誰からも依頼料を取れないからだった。和音の母はそれを職業として生業にしているが故に、お金を取らないことはプロがやることではないという信念を持っている。
「後を継かないにしても、あんたはちゃんと自分の力をコントロール出来るようにならないといけないしねぇ」
「え?なんで?」
「ともかく、自分でやってみなさい」
結局母に断られてしまった和音は、守り石と小さい変な形の人形がぶら下がったネックレスの使い方だけを一応聞いて、明日にでも対処しようと決意して部屋に戻った。
登校すると、クラス内の雰囲気がいつもと違っていた。
嫌な予感がしたが、その不穏な空気は佐川と樫原を筆頭に、2人を取り巻く友人たちにまで及んでいた。取り巻きの彼女たちは決して争っているわけではない。皆、佐川と樫原を気遣ってお互い気まずそうにしているのだった。和音は今回の自身の劣勢を悟り、無理やりにでも母に頼めばよかったと後悔した。
和音は昨晩母親から教わった胡散臭い手順を遂行するために、屋上で下準備を始めた。
「おかしいな」
こっそり屋上に忍び込み、昨日2人が書いていた手紙に目を通す。しかし2人とも、彼の名前を書いていないのだ。いくら霊感が他の人より強い2人であっても、彼と意思疎通が取れたはずはないのだ。その証拠に、2人の手紙は曖昧な情報が無視された薄い内容のものだった。もしかしたら彼は異性から好かれやすいそう特性を持っているのかもしれない。霊は時として特殊な特徴を持つのはたまにあることだ。そう思いながら降霊術を始める。と言っても、変な形の人形を握って念じるだけだ。
しかし、名前がわからないと降霊できないことが多い。降霊術とは、要するにあの世に対して彼を検索にかけてヒットしたら引っ張ってくるだけの作業だ。しかし、情報が少ないと検索に引っかからないことが多い。今回は失敗のようだった。
クラス内でも彼の存在が多くの人に認知されていることがわかった以上、さっさと降霊してこの世に残って活動している理由を聞き出き、場合によっては解決してあげる必要がある。まずは彼に関する情報を集めなければと思い、教室に戻った。
2年7組の教室のドアを開けると、凍り付く空気、時間、空間に支配されていた。もう遅かったと和音は悟り、ネックレスを構えた。
「佐川さん」
佐川真由紀の体は完全に彼に乗っ取られていた。
「お前じゃない」
彼が言葉を発すると、和音の方に机が飛んで行った。間一髪で机を避けたが窓に当たって硝子が砕け散った。攻撃性が増した彼は誰かを探している。このままでは本当に誰かに危害を加えてしまう。立ち上がって彼の行く手を阻もうとしたそのとき、教室のドアがガラリと開いた。
再び場の空気が変わるのを感じる。現れたのは樫原詩織だった。そして、彼女を見た瞬間、彼は目の色を変えた。
「お前だ」
和音は咄嗟に樫原の手を取って教室を出た。守り石をドアの前に転がして、一言「彼を教室から出さないで」と念じ、樫原を連れて逃げた。
「ちょっと、今の何?」
校内を走りながら、樫原は息を切らして問いかける。
「今の、佐川さんに見えた?」
樫原は首を横に振った。
「それもわかるんだね。やっぱり2人は霊感が強い」
「それって」
「彼が佐川さんに憑依してる。しかも樫原さんを狙ってた。このままじゃ佐川さんも樫原さんも危ない」
彼はなんらかの理由で樫原に敵意を剥き出しにしていた。教室の前に設置した結界もいつまで持つかわからない。これに対処するためには、和音が彼より強い霊を自身に降霊するしかない。
それよりまずは樫原を安全な場所に連れて行かないとと思い、和音が樫原の手を引いた途端、樫原の手がするりと解けた。
「樫原さん!」
振り返ると彼女は消えていて、辺りは異様に静まり返っていた。彼は結界を破ることなくなんらかの方法で樫原を結界の中に呼び込んだのだ。和音が急いで教室に戻ると、その結界は和音が施したものとはまるで違う物になっていた。これでは和音が破れそうにはない。
「やられた!」
そして和音の行手を阻むように、彼の使い魔らしき霊が数体現れた。それらはもう自身の意思を失い、使役されるだけの存在となっていた。そこまでして彼が和音を足止めし、樫原に執心する理由がわからなかった。和音は使い魔を持たないので、攻撃力は無いに等しい。
ここで死ぬのは流石に弱過ぎる、と思いながらネックレスの人形を握って目を閉じた。
瞼を開けると目の前には何も遮るものがない、だだっ広い空間が広がっていた。和音がそこに行き着いたのは約10年ぶりだった。足元は薄い水の幕が張っており、歩くたびに水面が揺れてぴちゃぴちゃ音がする。しかしこの場であっても、その人は音もなく現れた。
「久しぶりに呼んでくれたな、嬉しいよ。大きくなったな」
和音の眼前に、寸刻前念じたばかりの人が、ずっとそこで待っていたかのように佇んでいた。そこにいたのは10年以上前に亡くなった和音の父だった。
「ごめん、今大ピンチなの。早く来てくれる?」
「人使い荒いなぁ。もっと再会を喜ぼうぜ」
「いつの間にか呼んでも来なくなったのはそっちでしょ」
久しぶりに見た父の姿は、最後に会った時から変わらない姿だった。江戸っ子らしい雑な話し方も和音の知る限りの生前の父の特徴だった。
「全然こっちの鍛錬はしてないみたいだな」
「パパみたいに仕事で死にたくないもん」
「そりゃそうだ」
高らかな笑い声をあげて、和音に近づく。
「いいぜ、今回は人助けだろ」
和音の父が、そっと和音の手を取った。
ゴツンと頭が壁にぶつかる音で一気に現実に引き戻される。目の前の悪霊は和音に掴みかかり壁際まで追い詰めて外に落とそうとしていた。
「全く凄い状況だな」
父の降りた和音はすかさず握っていた人形のネックレスを振り回して立ち所に目の前の悪霊を往なした。霊に捕縛術を施すと、直ぐに動けなくなった。
教室にずかずかと歩み寄り、張り巡らされた結界に両手を翳す。
「これは大仰な」
結界の上に指を滑らせていくと、ゆっくり空気が形を変えて、やがて阻むものがなくなった。結界を解いて教室のドアを開けると、彼が乗り移った佐川がナイフを握りしめ、樫原に馬乗りになっていた。
「やめて!」
樫原が叫ぶと同時に佐川が腕を振り下ろそうとしたが、それは敵わなかった。和音が手をかざしそれを睨み付けると、佐川は動けなくなった。必死に抗おうとして佐川は和音を見ようとするも、首すら満足に動かせない。和音は彼にゆっくり近づき、後ろから頭を掴む。
「相手を間違えているよ。お前が復讐する相手はそいつじゃない。もう何十年も前にあの世に行ったよ」
佐川の動きが止まった。
「復讐したきゃ好きにしな。でもお前はここにいる必要はない」
和音が佐川の後ろ首に人形を押し付けて揺らすと、佐川は力が抜けてその場に倒れ込んだ。樫原がそれを受け止めて和音を見上げる。和音でないことに気付き、顔が強張っていた。
「あなたは誰?」
和音の父はニヤリと笑った。
「娘をよろしくな」
和音は父を見送った後、佐川の意識が戻るのを待って、佐川と樫原を自宅に連れて帰った。強烈な霊体験の後は、悪いものを引き寄せやすくなるため、処置が必要だということを説明したら、2人は血の気の引いた顔で頷いき、黙ってついてきた。
和音は降霊術が使えることを家族以外に誰にも教えたことがなかった。そういうことを話すと他人から嫌われる原因になるということだけは幼い頃から理解していた。きっと佐川や樫原も気味悪がったことだろう。2人は周囲に言いふらしはしないだろうが、少なくとも自分とはあまり関わりたくないだろうと和音は思っていた。いつの間にか辺りは暗くなっていて、3人は弓削家の屋敷を目指して無言のまま歩み続けた。
「大変だったわね」
帰宅後、和音の母の第一声を聞いて、和音は母がこの事態を折り込み済みだったということを理解し、少し恨んだ。和音の母は3人を奥の和室に連れて行って、御祓を行った。佐川と樫原はずっと物珍しそうな表情でその儀式を見届けた。対する和音は遠い親戚の法事並みに退屈そうな表情でその儀式を見届けた。
御祓がひと段落すると、和音は母からお茶を取って来るように命じられ、キッチンに行ってお茶とお菓子を4人分用意した。和室に戻ると、佐川と樫原と和音の母は和気藹々と談笑していた。
和音の通う高校は私立の進学校で、直接的な言い方をすると非常に育ちの良い人が多い。佐川は振る舞いこそ多少粗野なところはあれど、大人の前ではきちんと優等生然として振る舞い、凛々しさと少女らしさが混じる顔立ちが好印象だった。樫原は元から優等生なので、その優雅な仕草や利発そうな発言から親や先生からの受けがいい。顔立ちは大人びていて、同級生から見れば少し気圧されるぐらいだった。和音の母は、そんな2人に対してかなり良い印象を受けたらしく、少し興奮気味だった。
「あら、3人分でよかったのに」
和音の母はお茶とお菓子を1人分だけ取って鼻歌を歌いながら下がってしまった。用意された座布団に座り、佐川と樫原と対峙する。
和音、佐川、樫原は普段から特段親しかったわけではない。お互い教室内では違うコロニーに属しており、用事があれば喋る程度の仲だった。そんな仲だった3人がいきなり強烈な超常現象を共有し、どうして良いかわからない雰囲気になっていた。和音は目の前の二人から目を逸らしていた。
少しして、どことなく気まずい雰囲気を破ったのは佐川だった。
「お母さん、ちょっと印象と違ったな」
御祓をするから家に来いって誘われた時はちょっとビビっちゃったよ、と笑いながら正座を崩して足を伸ばす。
「とても愉快なお母様だったわ」
樫原も同調する。何はともあれ母の掴みは良かったらしい。和音は普段の強欲で超・合理主義な母を思い浮かべながら複雑な気持ちになりなった。
「それにしても、不思議だな」
佐川が話すには、もう彼の顔も好きになった理由も覚えていないらしい。彼が憑依していた時間の記憶は断片的で、気がついたら目の前に樫原がいて、彼女をナイフで刺そうとしたらしい。しかし正気を取り戻した時、彼女が手にしていたのはナイフではなく筆箱から取り出した小さい定規だったという。それがナイフに見えていたのは佐川だけでなく、樫原も和音もだった。また、佐川に憑依した霊が机を吹っ飛ばして割ったはずの窓硝子も無傷だった。
「幽霊は、幽霊の文化がある国にしか現れないって話は知ってる?」
「なにそれ」
和音は、幽霊というものが認知されない限り存在することができないものだと理解している。今回のようなことが起きたのは、彼という幽霊を人間として認知する人数が増えたことにより、教室内において彼がこちらに干渉する力が増したことが原因だということを話した。幽霊は科学的根拠のない存在で、いるかいないかはそれぞれの主観に委ねられている。いないと思っている人には当然幽霊は見えもしない。彼らが現れる時は、必ず彼らを受け入れる姿勢がこちら側に必要であることを2人に伝えた。
「でも、本当に幽霊というものがこの世に存在するのかどうかは私にもわからない」
佐川と樫原は怪訝そうな顔をした。先程まで降霊や除霊を盛大に披露していた目の前のクラスメイトが、それでも幽霊に懐疑的な姿勢でいるのは滑稽に映った。
「でもあれは、お父さんだったんでしょ?」
樫原が問う。佐川に幽霊が乗り移ったことにすぐに見抜いた樫原は、同様に和音にも父親らしき人が乗り移っていることはわかっていた。目つきや仕草、醸し出す雰囲気がまるで別人で、和音でないことは一目瞭然だった。
「そう。死んだ父だよ」
佐川は気まずそうな表情を浮かべた。対して樫原はまだ何か聞き足りなそうだったので、和音はお茶菓子を手に取りつつ話すよう促した。
「その…お父さんが乗り移ってたとき、佐川さんに『復讐する相手が違う』みたいなこと言ってたわよね」
「ああ、あれはね」
和音は佐川に、幽霊が乗り移っていた時の記憶や感情が残っているか問うた。佐川は首を傾げて思い出そうとする。
「記憶、というか…樫原さんを見た時、『見つけた、殺してやる』みたいなことを思ったような…思ってないような…」
「ちょっと!やめてよ!」
樫原は身を震わせてのけ反った。佐川はニヤリと笑った。
和音は佐川に乗り移った幽霊の説明をした。彼は、数十年前に学校で虐めに遭った生徒の兄弟だった。恐らくその生徒は虐めが原因で亡くなり、彼は虐めの相手を探し続けてこの世に居座り続けてしまったらしい。彼は虐めの犯人の身体的特徴を大雑把に知っていて、たまたま樫原がそこに当てはまってしまい、今回のターゲットにされたのだった。
和音自身に幽霊の記憶や思念を読み取る能力はほとんどないが、和音の父はその能力に長けており、今回は和音の父の能力を使ってそのことが判明したと説明した。
「陰陽師ってそんなことまでわかるんだ」
「別に陰陽師じゃないって」
「さっきお母様がそんなこと言ってたわよ。良いのよもう隠さなくて」
佐川と樫原からの同情の視線が痛い。
「うちの母から何か吹き込まれたでしょ」
2人は同時に首を横に振る。何故この2人はこういう時だけ息が合っているのだろうと、和音は何度目かの同じ疑問を抱いた。大方、和音の母が「この家系のせいで娘が虐められないか心配だ」とかなんとかいう同情を誘うような話を吹き込んだに違いないと思い、和音は溜息をついた。ありがた迷惑だ。
「母に何言われたかは知らないけど、2人が気にするなら私にあまり関わることないんだよ。うちの母の職業とか私の珍妙な特徴を秘密にしておいてもらえれば」
「珍妙って」
もう用事は済んだからそろそろ帰ったほうが良いと2人を促すと、樫原は予想外のことを言い出した。
「お母様は今晩泊まって良いって言ってたけど」
「え?」
「だって今日このまま帰るのはなんか怖いんだもん、ついでに親交深めようぜ」
そう言って佐川はトイレを探しに立ち上がった。
2人があまりにも弓削家に順応するのが早すぎて、和音は唖然とした。そしてそれ以上に、これまでの出来事を自然に受け入れられたことに驚きだった。青天の霹靂とはまさにこのことで、和音は十数年生きてきた中で培った常識や価値観を疑った。自身の能力や家系は、胡散臭さの塊で、隠すべきもので、それが自分の周囲に漏れたときには社会的迫害を受けることが当然と思っていたのに。
それが、佐川と樫原は今日の事件が絵空事ではなく現実で起きたことと受け止め、和音の話を信じて疑わなかった。
「百聞は一見に如かずって、今日みたいなことを言うのね」
今まで幽霊って信してなかったけど、そう呟きながら樫原は風呂を探しに和音の母を呼びに行った。
「もしかして、本当に幽霊っているのかも…」
和音は今まで自分を取り巻く幽霊との繋がりを必死に否定してきたが、ただ少し霊感があって、たった一度霊体験を経験しただけの2人にいともたやすく受け入れられてしまうと、その考えは改めざるをえなくなったのだった。