ガツン、とダイニングテーブルに姉は弁当箱を乱暴に置いた。昨日の一件の後、姉は柳眉を逆立て俺を激しく非難した。人の心の中を軽々しく覗くな。初対面なのにあの態度はなんだ。などと、小一時間説教を垂れた。
 俺も悪いかもしれないけど、あいつだってあの言いようはないだろう、と反論したが口喧嘩では姉には敵わず、その後は平謝りをするしかなかった。
 そして一日経ったが、姉の怒りは収まらずこの有り様だ。俺は静かに弁当を鞄に詰め、逃げるように家を出た。

 自転車を軽快に走らせ、灰色の空を見上げる。念のため傘を持ってきて正解だった。暗雲が垂れ込めていて、今にも泣き出しそうな嫌な空だ。泣きたいのはこっちのほうだよ、と嘆息しながら学校へ向かう。

「よう碧。なんか元気ねーな。悩み事か?」

 信号待ちをしていると、背後から小泉が声をかけてきた。

「悩み……か」
「んん? 大丈夫か?」

 悩み、と聞いて思い出した。昨日雪乃が言っていたあの言葉。俺たちのクラスには、大きな悩みを抱えている奴がいる。あのクラスに、そんな奴がいるのだろうか。どいつもこいつも不真面目で、ただのうのうと生きているどうしようもない連中だと俺は思っている。深刻な悩みを抱えている奴なんて、本当にいるのだろうか。

「おい碧! 何してんだよ! 信号変わっちまうぞ!」

 横断歩道の向こう側で、小泉が叫んでいた。青信号は点滅していて、俺は急いでペダルを漕ぎ横断歩道を渡った。

【今日は高梨さんと話せるかなぁ】

 小泉の声が、俺の頭に届いた。少なくとも彼は、なんらかの問題を抱えているようには見えないな、と苦笑した。

 学校に着いて教室に入ると、さっそく雪乃と目が合った。

【おはよう】

 この日も当然シカトして、俺は自分の席に直行する。
 席に着いて雪乃を一瞥すると、思わず二度見してしまった。彼女の背中には、『私はバカです』と書かれた紙が貼られていた。
 雪乃は気づいていないようで、ただ真っ直ぐ一点を見つめている。

【あ、雨降ってる。傘、持ってきてないや】

 雪乃は窓に視線を移すと、ぽつりと心の中で呟いた。雨粒が窓にひっついて、外の景色がぼやけて見える。やっぱり傘、持ってきて正解だった。
 授業が始まっても、雪乃の背中に貼られた紙はそのままになっていた。誰も取ろうとはせず、国語の教科担任も教卓から動かないタイプの先生なので、気づく様子はなかった。

 俺はこの日、授業中や休み時間は全てクラスメイトたちの観察に費やした。確かに雪乃の言った通り、何かしらに悩んでいる生徒は多かった。悩みはまさに十人十色で、退屈な授業の暇つぶし程度にはなった。
 恋の悩みや部活の悩み、友達関係や進路の悩みなど、とにかく多種多様だ。
 その中でも俺が目をつけたのは、テニス部所属の藍田さやかだ。何を抱えているのか分からないが、【どうしよう、どうしよう】と授業中に頭を抱え何度も呟いていた。セミロングの黒髪で、清楚な印象の女子生徒だ。

 予鈴が鳴り、昼休みになった。俺は藍田さやかを観察しながら、弁当箱を開ける。
 姉が作ってくれた弁当を見て驚いた。二段目の白米がキャラ弁になっていて、海苔と梅干しを器用に使って鬼の顔になっていた。
 弁当で怒りを表現するなよ、と苦笑して鬼の顔を崩し、口に運ぶ。味はいつも通りだったので安心した。


 そして放課後がやってきた。結局藍田さやかの悩みが何であるか、分からなかった。彼女はただひたすらどうしよう、と嘆くばかりだった。
 この日も小泉を先に帰らせ、俺は自分の席に座って生徒たちが下校するのを待った。雨が降っているせいか、席を立つ生徒は少ない。親に連絡をして迎えを待っている生徒もいる。

「碧はまだ帰らねーの?」

 佐藤だったか斎藤だったか忘れたが、クラスメイトに声をかけられた。

「もう少し雨が弱まってから帰るよ」
「そうか。気ぃつけてな」

 彼は言いながら、白のエナメルバッグを肩にかけて教室を出ていった。この雨でサッカー部の練習が中止になったらしい。彼は授業中、部活をサボりたくて雨が勢いを増すのを願っていたのを思い出した。
 三十分待つと、ようやく俺と雪乃を除いた生徒たちは下校していった。窓際の自分の席に座る雪乃は、頬杖をついて窓の外を眺めていた。

【明日も雨かなぁ】

 彼女はそんなことを考えていた。

「明日は確か、晴れるらしいよ」

 雪乃は振り返り、【そっかぁ】と心の中で囁く。彼女の背中に貼られていた紙切れは、二時間目の授業が始まる前になくなっていた。

「そういえば、このクラスに悩んでいる人がいっぱいいるって言ってたけど、確かにいたよ。つまらない悩み事がほとんどだけど、何人かは真剣に悩んでたよ」

 一息に言うと、【ほら、私の言った通りでしょ?】と雪乃は悪戯っぽく笑う。

「特に藍田とかな。どんな悩みなのかは知らないけど、授業中に頭を抱えてたよ。まあ、別に興味ないけどな」
【ねえ、もう少し探ってみてよ。藍田さん、誰にも相談できなくて苦しんでるのかも】

 雪乃は身を乗り出してそんなことを言う。やだよ、と俺は間髪を入れずに言った。

「俺こう見えて女子と話すの得意じゃないし、しかも藍田とは話したこともないしさ。なんで俺がそんな面倒くさいこと……」
【これは碧くんにしかできないことなんだよ。それってすごいことだと思う】

 俺にしかできないこと、なんて言われてしまうとやはり気持ちが高ぶる。しかし、人の悩み事を無闇に覗くなんて、気が引ける。

「うーん、どうしようかなぁ」
【碧くんは藍田さんの心の声を聞いて、私に教えてくれるだけでいいから】
「そんなことを知って、どうするつもりだよ」

 雪乃は俺から視線を逸らし、窓のほうに顔を向けた。一瞬外が光り、数秒遅れて雷鳴が響く。雨は一向に弱まる気配がなかった。

【私は誰にも悩み事を話せず、言いたいことも言えずに苦しんでいる人の力になりたい。ただ、それだけのことだよ】

 窓の外を見つめたまま、雪乃は心の中でゆっくりとそう話した。やっぱり、こいつは何を考えているのか、俺には読めない。喋ることのできない彼女に、一体何ができるというのか。
 その時、教室のドアが開いた。やばい、と思ったが隠れる場所なんてどこにもない。
 すらりと伸びた長く細い脚。蠱惑的な瞳に肉厚な唇。栗色の長い髪の毛は、雨のせいかぐっしょりと濡れている。ドアを開けたのは、美少女の高梨美晴だった。彼女は目を見開き、俺と雪乃を交互に見る。よりによって雪乃をいじめているグループの一員に見られてしまった。この場をどう乗り切ろうかと考えていると、高梨美晴が口を開いた。

「森田、あんたこんなとこで何してるの? 二人で、何してたの?」
【もしかしてこの二人、付き合ってるとかじゃないよね】

 高梨が声に出した言葉と、心の声のどちらに返事をするのが正しいのか一瞬分からなくなって、「いや、付き合ってねーよ」と俺は咄嗟にそう言った。

「はあ? 私そんなこと訊いてないけど。あんたたち、一体何してるの?」
「……雨だよ、雨。傘忘れたから、雨が止んだら帰ろうと思って。それより高梨は何しに戻って来たんだよ」

 我ながら上手いな、と思った。同時に今日が雨降りではなかったらと思うと、ゾッとした。

「ふうん。私は忘れ物を取りに来ただけ」

 高梨はそう言って自分の机の中から手帳を取り出し、鞄に詰めた。雪乃をチラリと見ると、猫のように興味なさげに欠伸をしていた。

「たぶん、雨止まないと思うよ」

 鞄を肩にかけ、高梨はそう言いながら窓の外に目を向ける。いや、雪乃を見ているのかもしれない。

【令美も傘、忘れたのかな】

 高梨は心の中でぽつりと呟いた。雪乃を名前で呼んでいるあたり、二人は本当は仲が良いのではないか、と勘繰る。

「じゃあね」

 高梨は小走りで教室を出ていった。ドアが閉められると、俺は安堵のため息をついた。冷や汗もかいていた。バレたのが井浦愛美ではなくてほっとする。雪乃は無言、無心で再び窓の外を眺めていた。

「なあ、雪乃って、高梨と仲良いの?」
【……どうして?】

 雪乃は振り向かずに訊き返す。

「あいつ、心の中で雪乃のこと名前で呼んでたから、仲良いのかなって思った」
【美晴ちゃんとは中学が一緒で、昔は仲良かったよ】
「やっぱりそうなんだ。今は? 仲良くないの?」

 それっきり雪乃の返事はなかった。よく考えてみれば、高梨は雪乃をいじめているグループの一員だ。仲が良いわけがない。悪いこと訊いてしまったな、と少し反省した。

「雨止みそうもないし、そろそろ帰るよ」

 俺は立ち上がり、ドアに向かう。
 そういえば、と思い出し、踵を返し雪乃の机の前まで歩く。

「これ、使っていいよ。傘、忘れたんだろ?」

 雪乃の机に、鞄から取り出した折り畳み傘を置いた。

【え……でも……】
「じゃあな」

 そう言って俺は、教室を出た。
 激しい豪雨の中、俺はびしょ濡れになりながら自転車を漕いで家に帰った。
翌日から、俺はさっそく授業中に藍田さやかの観察を試みた。幸い彼女の席は前のほうで、黒板を見てるフリをして藍田を観察できる。一番後ろの、クラスメイトたちを見渡せるこの席でよかったと改めて思った。他にも重い悩みを抱えてそうな生徒は何人かいたが、まずは藍田に照準を当てることにした。雪乃に視線を移すと、彼女はこの日も真面目に授業を受けている。
 再び視線を藍田に戻し、俺はノートにメモを取る。板書を書き写すのではなく、藍田の心の呟きで、気になったものを箇条書きで書き写しているだけだ。

・どうしよう。病院行かなくちゃ。
・どうしよう。学校はどうなるんだろう。
・どうしよう。言ったら彼に捨てられちゃうのかな。
・どうしよう。お父さんとお母さんにも、誰にも相談できないよ。
・どうしよう。お金、いくらかかるのかな。
・どうしよう。死にたい。

 どうしようまでは書く必要はなかったが、何度も呪文のように唱えているので、一応書いておいた。何を悩んでいるのかは判然としないが、とにかく藍田は相当逼迫しているらしい。
 病院、彼、お金、誰にも相談できない、死にたい。キーワードはそのあたりだろう。
 ちょうど今は数学の時間だったが、数学の問題を解くよりも、藍田の心の問題を解くことに俺は夢中だった。

 ようやく昼休みになって、姉が作ってくれた弁当を食べる。姉の機嫌はすっかり良くなっていて、この日はいつも通りの弁当に戻っていた。
 窓際の席で一人寂しく弁当を食べている雪乃を、チラリと見る。

【卵焼き、ブロッコリー、唐揚げ、ご飯】

 食べる前に、その食べ物の名前を呟いてから彼女は口に運んでいた。相変わらず、何を考えているのか分からない奴だ。
 今度は藍田さやかに視線を移す。女子三人で弁当を食べている。こちらも相変わらず、【どうしよう】と同じことを心の中で呟いていた。藍田は普段、なんでもない時でもニコニコしている女だ。愛嬌が良く、おそらく男子からはモテるのだろう。彼女を観察して、なんとなく分かった。心を読める俺以外は、決して彼女が大きな悩みを抱え込んでいるなんて微塵も思わないだろう。傍から見れば、藍田は高校生活を満喫している女子生徒にしか見えないのだ。


 放課後、この日は晴れていたのでクラスメイトたちは足早に教室を出ていった。高梨美晴は席を立たない俺を訝しげに見ていたが、井浦愛美たちと一緒に下校していった。

【昨日の雨が嘘のように晴れてるね】

 身を乗り出して窓枠に肘をつき、空を見上げながら雪乃はぽつりと呟く。彼女の言う通り、雲一つない快晴が広がっていた。
 俺は席を立ち、雪乃の机にノートを置いた。

「これ、藍田の心の呟きをメモったやつ」

 雪乃は振り返り、さっそくノートに手を伸ばす。彼女は俺が書いた文字を、心の中で反芻する。

「これだけじゃ分かんないよな。また明日、探ってみるよ」
【もしかして藍田さん、妊娠してるんじゃないかな?】
「え? 妊娠?」

 まさかそんなはずは、と思い、ノートを雪乃から奪う。
 確かに雪乃の言う通り、どれもこれも藍田が妊娠していたらしっくりくるキーワードだ。もし本当にそうだとしたら、これはとんでもない悩みだ。高校二年生の女子が妊娠しているなんて、大問題になる。学校に知られたら停学か、いや退学だろうか。どっちにしろ大騒ぎになるのは間違いない。雪乃は唇に人差し指を当て、難しい顔をしていた。

「いやでも、もし本当に藍田が妊娠してても、俺らにできることはないよな。産むのか下ろすのか、決めるのは藍田だ。これは聞かなかったことにしよう」

 ノートのページを破り捨てようとすると、雪乃がそれを阻止した。

「なんだよ」
【見捨てるなんて酷いよ。藍田さん、一人で抱え込んでて、きっと苦しんでる。なんとかしてあげようよ】
「なんとかって、無理だろ。それに、なんでそこまでする必要があるんだ? 雪乃がいじめられてるのに、見て見ぬ振りをしてる奴なんだぞ? まあ、俺もだけど」

 雪乃はしばらく黙り込んだ後、【少し、考えてみる】と心の中で言った。鞄を小脇に抱え、彼女は教室を出ていった。
 一人ぽつんと教室に取り残され、侘しい気持ちになる。なんとなく雪乃の席に座り、机に視線を落とす。

『死ね』
『キモい』
『ブス』
『くちなし女』
『学校辞めろ』

 そんな心ない言葉が、雪乃の机には書かれていた。藍田よりも誰よりも、悩んでいるのは雪乃ではないのか。
 そんなことを考えながら、俺は誰もいない教室を出た。


 帰り道、駅の前を通ると姉に遭遇した。これから母さんの見舞いに行くのだという。

「碧、あんたも一緒に来なさい。どうせ暇なんでしょ」

 姉には逆らえない俺は、仕方なく同行することにした。駅の駐輪場に自転車を止め、姉と二人でバスに乗って母さんの病院に向かう。
 バスの中で同じクラスの女子が妊娠しているかもしれない、と今日の出来事を姉に説明した。周りに聞こえないよう、小声で姉に話した。

「まあ、学校にバレたら退学だろうね。親にも友達にも相手の男にも話せないなんて、ちょっと可哀想だね」

 一通り説明を終えると、姉は腕を組んで嘆息をつく。それから「力になってあげなさい」と付け加えた。

「やだよ、そんなの。自業自得じゃん。俺には関係ないし」
「関係ないことないよ。勝手に人の悩み事を盗み聞きしたんだから、聞くだけ聞いてそれで終わりなんて、酷いじゃない」
「盗み聞きというか、雪乃に頼まれたんだ。藍田の悩みを探ってほしいって」
「雪乃ちゃん、どうするつもりなのかな?」
「それは知らん」

 話し終えたところで、病院前のバス停に到着し降車する。
 最後に母さんの病院に来たのは、一ヶ月以上前だ。母さんがいるのは何階で、どの病室か、それすら覚えていない。姉の後を追い、病室を目指す。
 三階のエレベーターを降りてすぐの病室に、姉は入っていった。
 そこは四人部屋で、他に三人の患者がベッドで眠っていた。母さんは向かって右側の、窓際のベッドで眠っている。

「お母さん、また来たよ。今日は碧も来てくれたんだよ」

 姉は母さんの耳元で優しく囁いた。意識ないんだから、そんなことを言っても分かるわけないだろう、と思った。

「ほら、碧もお母さんに声聞かせてあげなさい」
「いいよ、俺は。だって母さん、意識ないんだし」
「きっと聞こえるよ。意識がなくても、耳は最後まで聞こえてるんだから」

 姉は眉根を寄せてそう言う。俺には信じがたい話だった。
 結局俺は母さんに声をかけず、少し離れたところに置いた丸椅子に座った。姉は休むことなく母さんに声をかけ続ける。

「碧ったら、橋下くんに失礼なこと言うのよ。初対面なのに。あ、橋下くんはこの間話した同じクラスの男の子だよ。いい人なんだよ」

 どこがだよ、と突っ込みを入れたかったが口を噤んだ。また機嫌を悪くされたら面倒だ。その後も姉は母さんに声をかけ続ける。しかし当然ながら母さんは反応しない。心の中を覗いても、無音で空っぽだった。

「そろそろ帰ろっか。お母さんに一言くらい声かけてあげなよ」
「いいよ、俺は」

 ボソッと呟き、立ち上がる。時計を見ると、病室に来てからすでに三十分が過ぎていた。俺はその間、ずっとスマホのゲームをして時間を潰していた。
 姉は俺を睨みつけ、先に病室を出た。ちらりとベッドに目を向ける。母さんは穏やかな表情で眠っていた。なんて声をかけてやればいいのか、分からない。ここまで育ててくれてありがとう、だろうか。それだと別れの挨拶みたいだ。弁当残してばっかで、反抗的な態度ばっかりでごめん、だろうか。母さんとは喧嘩したまま、それっきりになってしまった。
 もう意識は戻らないかもしれない、と医師は言った。だとしたら俺は、母さんに感謝の言葉も、謝罪の言葉も伝えられない。でも、いきなり倒れた母さんが悪いよな。俺はいずれ言うつもりだったから、俺は悪くないよな。
 そう自分に言い聞かせ、俺は病室を後にした。
それからの数日間で、俺は藍田さやかが本当に懐妊していることに気づいた。当初は半信半疑だったが、彼女の心の呟きを聞いているうちに確信に変わった。

【一人で育てるなんて無理だよね】
【やっぱり下ろしたほうがいいかな。でも、そんなお金ないよ】
【ちゃんと避妊するべきだった】

 授業中や休み時間、登下校中にも藍田はそんなことを考えていた。彼女はいつも一緒にいる二人の友達に、何度も悩みを打ち明けようとしていたが、結局言い出せず一人で抱え込んでいた。一見真面目そうに見える女子生徒だが、影ではちゃんとやることはやってるんだなぁ、と感心した。感心するに値しない悩みだけど。
 藍田と話したことのない俺は、当然彼女の相談相手になるはずもなく、彼女の決断を日々見守っているだけだった。
 妊娠してるんだって? といきなり声をかけるわけにもいかず、正直どうしたらいいのか分からない。ただ見守ることしか、俺にはできないのだ。
 藍田の妊娠説はどうやら本当らしい、と雪乃に告げると、彼女は【私に考えがある】と豪語した。

【明日、楽しみにしてて】

 雪乃がそう言い残して教室を出ていったのが、昨日のことだ。
 そして日付が変わり、姉が作ってくれた弁当を鞄に詰め、鬼胎を抱いたまま家を出た。
 考えがあると雪乃は言っていたが、一体何をするつもりなのだろう。いや、彼女に何ができるのだろう。俺以外の人とまともにコミュニケーションを取れない女が、藍田さやかの抱える問題に、何をしてやれるというのか。
 そんなことを考えながら自転車を漕いでいると、小泉がチリンチリン、と後ろからベルを鳴らして声を上げた。
「よう碧。気持ちのいい朝だな」
 俺は灰色の空を見上げる。太陽は隠れていても、彼にとっては気持ちのいい朝らしい。かと言って気持ちの悪い朝ではないので、「そうだな」と同意しておいた。

【昨日は高梨さんと話せたから、今日も話せるといいなぁ】

 意外と純粋な奴だ。彼の背中を追いかけながら、俺は【頑張れよ】と心の中で応援した。

 学校に到着し、急いで教室に向かう。つい先ほど、小泉の自転車のチェーンが外れたせいで遅刻ギリギリだった。
 手が真っ黒になってしまって、洗い落としたかったがそんなことをしている時間はない。階段を二段飛ばしで駆け上がり、二年の教室を目指す。
 教室の前に着いた頃には、太ももが悲鳴を上げていた。それでもなんとか間に合った。小泉はどこかでもたついているのか、振り返るといなかった。
 教室の前のドアから入ると、何やら異変を感じた。いつも騒がしい朝の教室は、しんと静まり返っていて、異様な雰囲気が漂っている。

「あぶねー! ギリギリ間に合ったー! ってあれ?」

 遅れて登場した小泉も、教室内の異変を察知したらしい。よく見ると、泣いている女子生徒がいた。その周りには、数人の女子生徒が泣いている少女を心配するように囲う。すすり泣いていたのは、藍田さやかだった。

「碧、あれ」

 小泉が黒板を指差した。目を向けると、黒板には白いチョークで文字が書かれていた。

『藍田さやかは、妊娠している』

 俺は目を疑った。何故こんなことが黒板に書かれているのか。誰がこれを書いたのか。藍田の妊娠を知っている生徒は俺と雪乃だけだ。俺はもちろん書いた覚えなどない。となれば犯人は、雪乃令美ということになる。仮に藍田の妊娠を知っている奴がいるならば、俺が心の中を覗けば分かる。
 しかし、それを調べる必要はなかった。
 雪乃令美はにっこりと微笑み、俺を見つめていた。同時に、予鈴が鳴り響いた。

 黒板に書かれた文字は担任が教室に来る前に消され、特に問題になることはなかった。
 けれど休み時間になると、いつもより教室内が騒ついていた。仲の良い者同士固まって、ひそひそと藍田に視線を送りながら話し合っている。それぞれの話題は当然、事件と呼んでも過言ではないほどの今朝の出来事だ。誰が黒板にあんなことを書いたのか、という疑問を抱いている奴は一人もいない。焦点はそれが事実であるかどうか、生徒たちが知りたいのはそのことだけなのだ。

 いや、誰が黒板に書いたのか、疑念を抱いている人物は一人だけいた。言うまでもなく、この一件の中心人物である藍田さやかだ。心を覗いた限りでは、彼女は誰にも話していない。おそらく妊娠検査薬を使い、陽性が出て自身の身体に新たな生命が宿っていることに気づいたのだろう。

【一体誰が、そもそもなんで知ってるの?】
【どうしよう。皆にバレてしまった。どうしたらいいの】
【どうしよう。どうしよう。どうしよう】

 藍田の胸中は、混乱、絶望、疑念の感情が入り乱れていた。聞いていられなくて、俺は思わず目を逸らした。

「私、先生に言ってくるね」

 二時間目が終わった後の休み時間に、藍田と仲の良い女子がそう言った。藍田は優しい友人の腕を掴み、かぶりを振った。

「ただの悪戯だから、言わなくていいよ。これ以上変な噂が広まったら嫌だから」

 藍田はそう言って拒んだ。ただの悪戯、ということで片付けるつもりらしい。
 やっぱり悪戯だよな、と誰かの心の声が届いた。結局は誰かが悪さをした、ということで生徒たちは落ち着き始めていた。

 しかし、さらに事件が起きた。それは三時間目の授業が終わった直後に起こった。このクラスのボスである井浦愛美が、ついに動き出したのだ。彼女はそれまで我関せずの態度をとっていたが、落ち着かない教室に嫌気がさしたのか、ようやく重い腰を上げた。
 茶色に染められた長い髪の毛を揺らしながら、さらには鼻腔を刺激する香水の匂いを撒き散らしながら、井浦は藍田の机の前で立ち止まる。クラスメイトたちは動きを止め、好奇の目を二人に向ける。雪乃も、二人に視線を送っていた。

「藍田さぁ、妊娠してるって、本当なの?」

 背の高い井浦は、文字通り上から物を言う。席に座ったままの藍田は、目に怯えの色を浮かべ、井浦を見上げる。俺はこの時、初めて蛇に睨まれた蛙を見た気がした。

【どうしよう。どうしよう。どうしよう】

 藍田はお決まりの言葉を呪文のように繰り返す。彼女に助け舟を出す者は、一人もいなかった。

「ちょっと、なんとか言いなよ。もし本当に妊娠してるなら、あんた真面目なフリしてとんでもないアバズレ女ね」

 井浦は言い終わると、艶然と微笑んだ。藍田は俯き、ぽろぽろ涙を零した。これではイエスと言っているようなものだ。実際イエスなんだけれども、この一件に少なからず関わっている俺は少し胸が痛んだ。
 井浦が舌打ちをした直後、予鈴が鳴って四時間目の授業が始まる。凍りついていた生徒たちは一斉に動き出し、それぞれの席に戻っていく。ただ一人、井浦愛美を残して。
 彼女は予鈴が鳴ってもなお、その場に佇んでいた。腕を組み、藍田から視線を逸らさない。この女は、目力で人を殺せる。そんな覇気を纏っていた。

「井浦、なにしてんだ席に着け!」

 数学の教科担任が教室に入ってきて、声を荒げた。
 数秒の沈黙の後、ようやく井浦はその場を離れ自分の席へと戻っていく。同時に教室内の空気は、やや弛緩した。
 このクラスでは、井浦愛美より目立ってはいけない。それは女子たちの間で、暗黙のルールとなっていた。『妊娠』というパワーワードは、井浦の逆鱗に触れてしまったのだ。
 声を殺し泣いている藍田の背中を見て、気の毒に思った。そして俺は気づいた。何故雪乃がこんな公開処刑じみたことをしたのか。
 雪乃はきっと、いじめのターゲットを自分から藍田に移そうとしたのだ。現状、そうなりつつあった。

【あのアバズレ女、まじムカつく。さて、どうしてやろうか】

 井浦はそんなことを考えている。相変わらず恐ろしい女だ。同時に雪乃令美にも、俺は嫌悪感を覚えた。一人で苦しみもがいていた少女を、雪乃はさらにどん底に突き落としたのだ。『言いたいことも言えずに苦しんでいる人の力になりたい』、と雪乃は言っていたが、実際はそうではなかったのだ。やはり女という人種は、悍ましい生き物だ。ちらりと雪乃を見やる。

【はあ、数学は嫌だなぁ】

 雪乃は呑気にそんなことを考えていた。藍田には悪いことしたなぁ、と猛省しながら教科書を開いた。
「しっかし、びびったな。ボスギャル怖すぎ」

 昼休みになり、弁当の唐揚げを頬張りながら小泉は小声で言った。ボスギャルとは、男子たちが影で呼んでいる井浦のあだ名だ。

「……そうだな」
「それにしても藍田ちゃんには驚いたな。まさか妊娠なんてな。俺、藍田ちゃんも少しいいなって思ってたのに」
「お前は高梨美晴が好きなんじゃないのかよ」
「一番はそうだけど、藍田ちゃんは二番か三番かなぁ。でも十五番くらいに格下げかな」

 俺は苦笑しながら、姉が作ってくれた弁当を口に運ぶ。母さんの作る甘い卵焼きとは違い、少ししょっぱかった。

「しっかし、誰が黒板にあんなことを書いたんだろうなぁ」

 口に物を入れながら喋るなよ、と思いつつ「さあ」と俺は答えた。
 一人寂しく弁当を食べている雪乃に視線を送る。彼女はまた、心の中で食材の名前をぶつぶつ呟きながら口に運んでいた。

【唐揚げ、ご飯、エビフライ、ブロッコリー、コロッケ、ご飯】

 いや揚げ物多いな、と一人心の中で突っ込みを入れ、雪乃から視線を逸らした。

 昼休みが終わって五時間目の授業が始まる。藍田の姿はなかった。おそらく早退したのだろうけど、それは英断と言えるのかもしれない。

【あのアバズレ、どこ行った】

 何をするつもりだったのかは分からないが、井浦は昼食のパンを食べ終わると藍田を捜していたのだ。ほとぼりが冷めるまで、数日間は休んだほうがいいのかもしれない。


 放課後、生徒たちが教室を出ていく流れに合わせて、俺もこのまま下校しようかな、と思った。けれど俺は真相を確かめるべく、その場に踏み止まった。
 変に疑われないように、一度教室を出て三十分ほど時間を潰し、再び教室に戻る。雪乃は廊下側に背を向け、自分の席に座ったまま窓の外を眺めていた。

【飛行機が飛んでる】

 そりゃあ飛行機なんだから、飛ぶに決まっている。言葉には出さずに突っ込みを入れる。
 背後の気配に気づいたのか、雪乃はゆっくりと振り返った。

【なんだ、碧くんかぁ】
「そういやなんで俺のこと、名前で呼ぶんだよ」

 本題に入る前に、気になっていたことを訊いてみる。

【だって皆からそう呼ばれてるし、碧くんの苗字、忘れちゃったし】
「だから、森田だって。何回自己紹介すれば覚えるんだよ」
【ああ、そうだったね。ごめん】

 雪乃は鞄の中からクマのぬいぐるみのようなキーホルダーを取り出し、手を持ったり足を持ったりと、呑気に人形遊び始めた。藍田があんな目に遭ったのは誰のせいなのだ、と言いたかったが言葉を飲み込んだ。少なからず、いや半分は俺の責任でもある。この聞こえる力を悪用し、俺は藍田の心の中に土足で踏み込み、得た情報を雪乃に密告した。全ての元凶は俺なのだ。そういうわけで、彼女を一方的に糾弾するのは躊躇われた。

「どうして、あんなことをしたんだ?」

 理由はなんとなく分かってはいたが、訊かずにはいられなかった。

【あんなことって?】

 俺のほうを振り向かずに、雪乃はクマのキーホルダーに視線を落としたまま心で呟く。雪乃の手のひらより大きいクマは、無表情で雪乃を見つめているようだった。

「だから、あんなふうに黒板に書くことはなかったんじゃないか? 皆に教えるなんて、聞いてないぞ」
【だって私、喋れないから】
「……だとしても、公にする必要はなかったんじゃないのか?」
【じゃあ碧くんは、他にどうすればよかったと思う?】

 まさか聞き返されるとは思っていなくて、俺は返答に窮した。どうすればよかったのか、雪乃の問いに腕を組み沈思黙考をする。

 数分考えてみたが答えは見つからず、壁掛け時計の秒針の音が気になりだした頃に思考を中断した。

「黙って藍田の決断を見守っていればよかったんじゃないの? 産むなり下ろすなり、時間が経てば解決してたと思うけど。うん、きっとそうだ」

 言いながら俺は自分の言葉に頷く。詳しくは知らないけれど、中絶の手術ができる時期は決まっていたはずだ。妊娠何ヶ月までかは忘れたが、それを過ぎてしまうと母体に負担がかかるとかで、手術ができないのだ。あのまま放っておけば、きっと藍田はなんらかの答えをだしていたことだろう。それを俺たちが、邪魔をしてしまったのだ。

【本当にそうかなぁ。私には、無理だと思うなぁ】
「なんでだよ。どうして無理だと言い切れるんだ」
【じゃあ碧くんは、時間が経てば解決できるって、言い切れるの?】

 今日の雪乃は、やけに反論をしてくる。だんだんとイライラしてきた俺は、声を荒げて言い返した。

「俺さ、知ってんだよ。藍田を吊し上げて、自分はいじめのターゲットから逃れようとしたんだろ。実際、お前は今日井浦から嫌がらせを受けていなかった。井浦は藍田をどう料理してやろうか、ってことばっか考えていたからな。やられたよ。藍田だけじゃなく、俺まで利用するなんてな」

 言うつもりのなかった言葉を、俺は一気に捲し立てた。雪乃は一瞬、悲しげな表情を見せ、握り締めていたクマのぬいぐるみを鞄の中に入れた。

【悲しいなぁ。碧くんは、そんなふうに思ったんだ】

 核心を突かれ、雪乃は動揺すると俺は思っていた。しかし彼女の反応は、俺が予想していたものとは違っていて、再び返答に窮する。
 雪乃は顔をこちらに向け、哀れむような目で俺を見つめる。

【でも、そう思うのが自然だよね。私が書いたこと、皆に言いふらしてもいいよ。碧くんがそうしたいなら……】

 唇を動かさずに言い終えると、雪乃は席を立ち、教室を出ていった。
 なんだよ。なんなんだよ、あいつ。
 追いかける気にはなれず、俺は適当な椅子に座り天井を見上げ、深く息を吐いた。
「碧、それはあんたが悪いよ。明日雪乃ちゃんに謝りなさい」

 帰宅してすぐに、俺は姉に学校で起きた出来事をかいつまんで説明した。すると姉は、俺が悪いだとか的外れなことを言い出した。確かに俺も悪いところはあるが、何故雪乃に謝らなければならないのか。我が姉ながら、間抜けだなと思った。

「なんで俺が悪いんだよ。勝手に心の中を覗いて雪乃に告げ口したのは悪いかもしれないけど、それを黒板に書いて皆に知らせた雪乃のほうが圧倒的に悪いじゃん」
「馬鹿ね。あたしが言ってるのは、そこじゃないよ」
「じゃあどこだよ」
「雪乃ちゃんがどうしてわざわざ黒板に書いたのか、分からない?」

 だからなんでだよ、と舌打ちをする。どうしてこの問いの答えが、こうなるのか分からない? とうんざりする姉に勉強を教えてもらった時のことを思い出して、余計腹が立った。

「だから、いじめのターゲットを自分から藍田に移したかったからだよ。まあ賢いと言えば賢いかもな。井浦に目をつけられた奴は、クラスでは孤立するんだ。雪乃は学校という戦場の中で生き延びるために、最善の選択をしたんだ。ある意味すげーよ、あいつ」

 一息に言い終えて、ほうっと吐息をつく。俺も自分がいじめられていたら、雪乃と同じことをしていたかもしれない。いじめを見て見ぬ振りをしていた俺たちは、雪乃を責める権利なんてないのだ。

「たぶんだけど、違うと思うよ」
「違うって、何がだよ」
「もしも藍田さんが、このまま誰にも打ち明けられず、出産を迎えていたらどうなると思う?」
「どうなるって、別にそれはそれでいいんじゃねえの? 無事に子どもが産まれて、ハッピーエンドじゃん」

 馬鹿ね、と姉は呆れた顔で言った。

「望まれないまま産まれてきた赤ちゃんが、可哀想だと思わない?」
「なんだよそれ、可哀想って。結局感情論かよ。中絶したほうが可哀想だろ」
「それはそうだけど、一人で赤ちゃんを産むのは、母子の命に関わる危険な行為なの。でも妊娠してることを皆に知らせることで、藍田さんは産むのか下ろすのか、どちらかの選択を迫られる。そうすれば危険な孤立出産を防げる。雪乃ちゃんは、きっとそれが目的だったんだとあたしは思うな」

 俺は言葉に詰まった。姉の主張は正論すぎて隙がなく、反駁できなかった。

 女子高生がコンビニのトイレで出産し、便器の中に産み落として胎児が死亡した、というニュースを最近見た覚えがあった。さらに驚いたのは相手の男性が担任の先生で、だから誰にも相談できなかった、と女子生徒は答えたらしいのだ。
 藍田さやかもあのまま一人で悩みを抱え込んでいたら、その女子生徒Aのようになっていたかもしれない。そうならないように雪乃は、朝早く学校に来て黒板に書いたのだろうか。

「でも、いくらなんでもあんなにストレートに書く必要はなかったと思うけど」
「私はそうは思わないな。ストレートにはっきりと書くことで、事態の重さを藍田さんに理解してもらう意味でも、雪乃ちゃんの行動は正しかったと思う。少し酷かもしれないけれど、赤ちゃんと藍田さんの命を守るためにも、これでよかったと思うな」

 確かにそうかもしれない、と思って何も言い返せなかった。
 いじめのターゲットを自分から藍田に移したかったわけではなく、雪乃にはちゃんと考えがあって黒板にあんなことを書いたのだ。だとすれば、俺は雪乃に酷いことを言ってしまった。勘違いをして雪乃を非難し、深く傷つけてしまったかもしれない。

 数時間前の、あの雪乃の悲哀に満ちた表情を思い出す。悪いことを言ってしまったな、と反省していると、察したのか姉はにやりと笑う。

「明日、雪乃ちゃんに謝りなよ」

 姉はそう言って夕食作りに取り掛かる。
 言いたいことを中々言えない俺が、明日雪乃に謝れるだろうか。そんなことを考えながら、俺は天井を仰いだ。
翌朝、姉が作ってくれた弁当を鞄に詰め、俺は重い足取りで家を出た。
 雪乃と顔を合わせるのが気まずくて、一日学校をサボろうかと思った。しかし今朝、姉に叩き起こされ、雪乃ちゃんに謝りなよ、と再度念を押され不承不承家を出てきた。これが母さんであったなら反発し、部屋に引きこもっていただろうが俺は姉には敵わない。母さんよ、俺の心の平穏のためにも戻ってきてくれ、と願いながらペダルを漕ぐ。本当にもう、戻ってきてくれないのだろうか、とも思った。
 小泉と会話をしながら自転車を走らせていたが、何を話したのかは覚えていない。気づけば学校に着いていた。

 教室に入るとすぐに雪乃と目が合った。【おはよう】と彼女はいつものように俺に挨拶して、俺もいつものように無視して自分の席へ向かう。
 なるべく雪乃のほうを見ずに、俺は小泉たちと授業の始まりまで雑談をする。昨日やっていたお笑い番組の話などをして、それなりに盛り上がった。いつもと変わらない朝だが、少し居づらい気持ちもあった。

 予鈴が鳴って担任の藤木先生が教室に入って来たが、一名欠席者がいた。ある程度予想はしていたが、やはり来ていないのは藍田さやかだった。あれだけのことがあったのだ。彼女が欠席するのも無理はない。でも、これでよかったのだろう。後は藍田本人と、藍田と仲のいい二人の友達が相談相手になり、なんらかの答えを導き出すのだろう。

【一時間目は数学かぁ。嫌だなぁ】

 雪乃を一瞥すると、彼女はいつも通り呑気なことを考えていた。

 この日は雪乃に対するいじめが、いつにも増して酷かった。藍田が欠席したことで怒りのはけ口を失った井浦は、元々のターゲットである雪乃に酷く当たった。紙くず投げはもちろんのこと、雪乃がトイレに行っている間に教科書をゴミ箱に入れられ、さらに体育が終わるとスカートを隠されたらしく、午後の授業からはジャージ姿だった。当然だが雪乃を助けたり庇う者は一人もいない。新学期が始まってから一ヶ月と少し。もはやこれがこのクラスの日常なのだ。

 雪乃のスカートは藍田の机の中に隠されているが、そんなことは俺以外知るはずもなく、結局放課後になるまで雪乃はジャージ姿のままだった。
 俺は机に突っ伏して、寝たフリを決め込んで生徒たちが下校するのを待った。
 教室内がようやく静かになったところで、俺はゆっくりと顔を上げる。がらんとした教室の窓際の席に、ぽつんと一人生徒が残っていた。ジャージ姿の雪乃令美だ。

「スカート、藍田の机の中に入ってるよ」

 雪乃の小さな身体がびくっと跳ねた。そしてすぐに席を立ち、小走りで藍田の席へ向かう。
 椅子を引き、雪乃はしゃがみ込んで机の中から丸められたスカートを取り出した。

【よかったぁ。残りの高校生活ジャージ姿で過ごすのかと思ったぁ】

 最悪買い直せばそんなことにはならないのだが、雪乃のホッとした表情を見て、俺は突っ込むのをやめた。

【教えてくれてありがとう】

 雪乃は小さく頭を下げ、再び自分の席へ戻る。昨日のことがあって少し気まずく、俺は「おう」とだけ答えて視線を逸らした。
 しばらくの沈黙が流れる。雪乃は開け放した窓から、茜色に染まりだした夕空を見上げていた。

 ──雪乃ちゃんに謝りなさいよ。

 ふいに姉の言葉がよぎる。分かってるよ、と姉の言葉を追い払う。俺は自分の席に座ったまま、しばし逡巡したのち口を開いた。

「そういえばさ、なんで雪乃って、いつも放課後教室に残ってんの?」

 昨日のことを謝るつもりでいたが、そんな言葉が口を衝いて出た。雪乃は空を仰いだまま、心の中で語り出した。

【誰もいない静かな教室がね、私は好きなんだぁ。窓から下校していく生徒を眺めたり、ただぼんやりと空を眺めたり、時計の秒針の音を聴いたり、そうやってボーッとできる時間はね、放課後のこの時間だけなんだぁ】

 相変わらず変わってる奴だな、と俺は苦笑した。

「ボーッとするだけなら家でもできるじゃん。授業が終わったらさっさと家に帰ってボーッとすればいいじゃん」
【家でボーッとするのと、学校でボーッとするのは別物なんだよ。碧くんも家で勉強するより学校で勉強するほうが捗るでしょ? それと同じで私も学校でボーッとするほうが捗るの】
「ああ、そ、そうだな」

 なんとなく分からないでもないが、彼女なりにこだわりがあるらしい。世の中にはいろんな趣味を持った奴がいるんだな、とこれ以上突っ込むのは面倒なので自己完結しておいた。

【藍田さん、大丈夫かなぁ】

 その言葉に、一瞬どきりとした。先に藍田の話題を出され、言葉に詰まる。

【藍田さん、大丈夫かなぁ】

 雪乃は同じ言葉を繰り返した。俺が雪乃から視線を逸らし、聞き逃したと思ったのだろうか。それがなんだか可笑しくて、思わず吹き出してしまった。

【どうしたの?】

 雪乃は振り返り、目を丸くする。

「いや、なんでもない。藍田は、たぶん大丈夫じゃないかな。なんとなくだけど、これでよかったんだと思う」

 そう言うと雪乃はにっこりと微笑んだ。

【藍田さん、後悔しない選択をしてほしいなぁ】
「そうだな。どっちを選んでも苦労するだろうけど、後悔だけはしてほしくないな。じゃないと、俺と雪乃が浮かばれない」

 そうだね、と雪乃は破顔する。それから【ジャージ姿で帰るの嫌だから、着替えたいんだけど】と顔を赤らめて言った。
「お、おう」俺は慌てて廊下側に顔を向ける。
 ごそごそと、雪乃は背後で服を着替え始める。別に雪乃を女として見たことは一度もないが、やけにドキドキした。

 数分後、そろそろいいだろうかと思い、ゆっくりと振り返る。振り返った瞬間、俺の顔面に何かがぶつかって床に落ちた。
 転がっていたのは丸められた紙くずだった。
【あはは】と制服に着替え終えた雪乃は笑う。俺は紙くずを拾い上げ、振りかぶって投げ返す。
 雪乃はひょいとかわし、鞄を肩にかけ逃げるように教室を出ていく。
 彼女はドアの前で立ち止まると、ゆっくりと振り返った。

【まだまだ悩んでる人はいると思うから、もっと探ってみて!】

 真剣な顔で、雪乃は訴えかける。どうしてそこまでクラスメイトたちの力になりたいのか、俺には理解できない。自分がいじめられていて、それを見て見ぬ振りをしている奴らなのに。

【また明日ね】

 スキップをしながら、雪乃は教室を出ていった。結局昨日のこと、謝れなかったなぁと思いながら、ぼんやりと暮れていく窓の外を眺める。
 数分後、スキップをしながら学校の玄関から出ていく雪乃の姿が現れた。俺は苦笑しながら、軽快に去っていく雪乃の背中を見送った。
それから数日間、俺は再びクラスメイトの観察を始めた。
 悩みを抱えた生徒は多数いるが、特にヤバかったのは川原田順也だ。彼は帰宅部でクラスでは目立たず、どこにでもいる平凡な高校生だ。俺は一度も話したことがないので、彼がどんな奴なのかイマイチ把握し切れていないが、とにかく川原田の心の中は負の言葉で溢れていた。

【ふざけんなよ、舐めやがって】
【俺を怒らせたこと、後悔させてやる】
【あいつ、絶対ぶっ殺してやる】

 そんな物騒な言葉が、授業中に俺の頭に流れ込んだ。


「というわけで、今度は川原田がやばいと思うんだけど、どう思う?」

 例によって、俺は放課後になってから雪乃に仕入れた情報を伝えた。雪乃は難しい顔をして黙り込んだ後、そのまま難しい顔を俺に向けた。

【もう少し情報が欲しいなぁ。誰をぶっ殺したいのか、どうしてぶっ殺したいのか、本気でぶっ殺したいと思ってるのか、もうちょっと調べてみて】

 女子高生が何度もぶっ殺したいを連呼するなよと思ったが、そこは聞き流して反論をする。

「俺あいつと話したことないしさ、なんかやばそうだし、雪乃が探ってみればいいじゃん」
【無理だよ。だって私、喋れないんだから】

 それを言われてしまうと返す言葉がない。

【これは、碧くんにしかできないことなんだよ】

 雪乃はそう言えば俺が喜ぶだろうと思っているに違いない。俺にしかできないこと、最初は嬉しい言葉だったが上手いこと乗せられている気がして腑に落ちない。

「まあ、考えておくよ」

 無難にそう返事をしておいた。厄介なことに巻き込まれたくはないが、もし川原田の殺意が本物であるならば、放っておくわけにもいかない。
 そして翌日から、俺は本格的に川原田の調査を開始した。


「川原田くんって、なんか部活やってるんだっけ?」

 体育の授業中、バスケットで偶然同じチームになったので、俺たちのチームの出番が来るまでの間、それとなく探りを入れてみた。川原田が帰宅部であることは知っていたが、他に話題が見つからなかったので当たり障りのない話題を投げかけてみた。まさかいきなり、殺したい人とかいる? なんて問いかけたら警戒されるに違いない。

「別になんもしてないけど。帰宅部だったら問題でもあるのか? 確か君も帰宅部だろ」

 川原田は無愛想にそう答えた。話してみると俺以上に無愛想な奴だった。彼の長くも短くもない髪の毛が、グラウンドへと続く扉からの風で揺れる。これ以上話しかけるな、とでも言いたげな表情で彼はそっぽを向いた。

「別に問題はないけどさ。そういえば川原田くんって、うちのクラスだと誰と仲が良いんだっけ?」
【うるせえなぁ、こいつ】
「別に君には関係ないだろ。そんなこと聞いてどうするんだよ」

 川原田の心の声に苛立ちながら、俺は怒りを抑え冷静に答える。

「いや、なんとなくなんだけど、気に障ったなら謝るよ。ごめんごめん」

 何故俺が謝らなきゃいけないのか、怒りだけではなく暴走しそうな右腕を抑えて愛想笑いを作る。

【うぜえな。こいつもぶっ殺してぇ】

 これ以上詮索すると、川原田の暗殺リストに追加されそうなので身を引くことにした。
 隣のコートでバレーボールをしている女子たちに目を向ける。隅っこで小さく体育座りをしている雪乃がこっちを見ていた。

【もう少し、話しかけてみて】

 人の気も知らずに、雪乃はそう訴えかけてくる。俺は無視をして、再び川原田に視線を戻す。

【あいつ、ぜってぇ許さねえ。殺してやる】

 俺のことではないだろうな、と冷や冷やしながらその場を離れた。


 放課後になって、俺はすぐに教室を出た。この日は得た情報がなく、雪乃に報告することが何もないので仕方なく川原田を尾行することにした。これはもちろん俺の意思ではなく、雪乃の指示だ。

【事件が起こってからじゃ遅いんだよ! 私たち二人で、なんとかしようよ!】

 昼休みに視線を感じたので目を向けると、雪乃が俺を見つめてそう念じていたのだ。どう考えても二人ではなく、今のところ俺一人しか動いていないのだが、言い返すこともできずに渋々従うことにした。

 廊下に出ると、川原田は隣のクラスから出てきた小柄な女子と並んで歩いていた。まさか恋人だろうか。彼はあまりモテるタイプには見えないので、これは意外だった。

【浮気してるくせに、へらへら笑ってるんじゃねえよ】

 川原田は恋人と手を繋ぎながら、内心ではそんなことを考えていた。彼の殺したい人物は、もしかして彼女なのではないだろうか。
 何か他に手掛かりはないかと尾行を続ける。校門を出て、二人は駅のほうへ向かって行く。
 会話の内容は聞き取れないが、川原田の口の悪い心の声は俺に届いた。

【いい子だと思ってたのに、とんだクソ女だったとはな】
【もう別れようかな。顔も見たくない】 

 心の中でぶつぶつ呟きながら、川原田は駅舎の中へ入り、彼の恋人はそのまま歩いて帰っていった。
 俺は何をやっているんだろうか、と惨めな気分になりながら自転車に跨る。
 川原田には恋人がいて、その恋人は浮気をしている。まずまずの収穫だ。
 右足に力を込めてペダルを踏み込もうとした時、駅前のバス停で高梨の姿を見つけた。浮かない表情で、高梨は俯いている。彼女の手には、見覚えのあるものが握りしめられていた。
 それは雪乃が持っていたクマのキーホルダーと、色違いのものだった。赤いリボンを頭に付けた、継ぎ接ぎだらけのクマのキーホルダーだ。
 雪乃と高梨は、昔は仲が良かったと言っていた。お揃いのキーホルダーを持っていても、なんら不思議ではない。しかし高梨の心の声は、疑問を呈するものだった。

【いまさら返しても、遅いよね……】

 クマのキーホルダーに視線を落としたまま、高梨は思い詰めたような顔で考えていた。
 そんな美少女の横顔は、やはり絵になる。
 しばらく見惚れていると、彼女は小さくため息をつき、キーホルダーを鞄に仕舞った。そしてやってきたバスに乗り、高梨は去っていった。
 なんだったんだろう、と首を傾げて自転車を漕いだ。返すとは一体どういうことなのだろう。いくら考えてみても、答えは見つからなかった。


 自宅に帰る途中で、偶然姉を見つけた。

【橋下くんと手を繋いじゃった。キャハッ】
「何がキャハッ、だよ。あんな性格の悪い男と手を繋いだくらいで」

 姉は物凄い速度で振り向き、顔を赤らめて激昂する。

「あんたねぇ、プライバシーの侵害だよ! 勝手に人の心を覗かないでよ!」
「偶然だよ、偶然。あ、姉ちゃんだ、と思ったらそっちが勝手に言い出したんだろ」
「あたしは何も言ってません〜」
「分かったから、ちょっといろいろ考えることあるから、先帰ってる」

 再びペダルを漕ぎ、スピードに乗ろうとしたところで制服の背中を姉に引っ張られて停止する。

「なんだよ、離せよ」
「罰として後ろ乗せてよ」

 言いながら姉は自転車の荷台に腰掛ける。重たいから降りろよ、と言いたかったが明日の弁当のことを考えると、やめておいた。

「今度はどんな悩みを抱えた子がいたの?」

 どうやら姉には全てお見通しらしい。もしくは姉も人の心の中を覗けるのかもしれない。
 俺は一通り川原田について姉に説明をした。ちょうど説明を終えたところで家に着き、リビングのソファーに腰掛けた姉は、少し考え込んでから口を開いた。

「なるほどねぇ。痴情のもつれによる殺人ってわけね。よくある話だけど、あんたのクラス妊娠する生徒がいたり、人殺しがいたり、心の声が聞こえる奴がいたり、なんかカオスだね」

 それは俺も同感だが、そのくくりに俺を入れるのはやめてほしい。それにまだ人殺しではなく、ただの殺意を抱いたやばい生徒、なのだ。

「まあとにかく、その殺人を未然に防がないといけないから、いろいろ大変なんだよ。殺されるのはたぶん川原田の恋人なんだろうけど、いつ殺すのかも分からないし、本気なのかも分からないから、現状打つ手なしだ」

 肩をすくめてそう言うと、姉はちょっと待ってよ、と声を上げる。

「殺されるのは川原田くんの恋人じゃなくて、その浮気相手なんじゃないの? あたしはそう思ったけど、違うのかな」

 浮気相手、言われてみればそうかもしれない。確かに川原田の心の中は、彼女を非難する言葉は多々あったが、殺意が向けられている様子はなかった。彼の殺したい人物が浮気をした恋人ではないとすれば、浮気相手の男しか考えられない。それは一体誰なのか、そこも知っておく必要がありそうだ。

「浮気相手も探ってみるよ。そいつを捕まえて川原田に謝罪させれば、丸く収まるかもしれない」
「そんなに上手くいくかなぁ。関わらないほうがいいんじゃない? 巻き込まれて殺されても知らないよ」

 縁起でもないことを姉は言った。できることならば俺もそうしたい。しかしここまで来て引くのも違う気がするし、やはりこれは特別な力を得た俺にしかできないことなのだ。自分でもアホらしいと思うこともあるが、何か得体の知れない使命感のようなものによって、俺は突き動かされていた。

「もう少しだけ探ってみて、やばそうなら手を引くよ。まあどうせ、そのうち収まるだろうけど」
「そうだといいけど。さてと、夕飯作らなきゃ」

 ぱん、と手を叩き姉は立ち上がる。制服の上からエプロンを着て、冷蔵庫を漁る。

【久しぶりにお母さんの手料理が食べたいなぁ】

 偶然だろうか。ちょうど俺も今、姉と同じことを考えていた。それを言えばまた叱責されそうで、黙っていた。
 またそのうち、母さんのお見舞いに行ってやろう。そんなことを考えながら、ソファーに寝転び、スッと目を閉じた。
姉が作ってくれた弁当を鞄に入れて、いつもの時間に家を出た。
 姉は朝から橋下とかいうクラスメイトのことを考えていて、正直鬱陶しかった。もちろんそんなことを言えば姉は憤慨するので、黙って家を出てきた。

 晩春の心地良い風と、燦々と降り注ぐ陽の光を全身に感じ、軽快に自転車を走らせる。悩み事なんて吹き飛んでいきそうなほど、気持ちの良い朝だ。こんな爽やかな朝でも、俺のクラスの連中は悩み続けている。本当に厄介なクラスになってしまったなぁ、と改めて思う。

 学校に着いて下駄箱で靴を履いていると、ちょうど川原田が登校してきて目が合った。

【じろじろ見てんじゃねえよ、くそが】

 朝から心の中で悪態をつかれ、げんなりする。人のことは言えないけれど、相変わらず太々しい奴だ。
 教室に入ると早速雪乃と目が合う。

【おはよう。昨日の調査報告、放課後に教えてね】

 小さく微笑みながら、雪乃は心の中で言った。この日も返事をせず、真っ直ぐに自分の席へ向かう。
 席に着くと、ほぼ同じタイミングで自分の席に着いた川原田に目を向ける。佐藤だったか斎藤だったか忘れたが、そいつは川原田と雑談を交わしている。彼と川原田が一緒にいるところは、たまに見かける。

【うぜえんだよ、話しかけてくんな】

 この二人は仲が良いのか悪いのか、よく分からない関係だ。川原田は内心悪態をついているが、表情を見る限りは楽しそうに話している。
 そして予鈴が鳴り、佐藤だったか斎藤だったか、彼は自分の席へと戻っていく。川原田はそいつの背中を睨みつけていて、思わずゾッとした。

【こいつ、いつ殺そうかな】

 その言葉で確信した。川原田の殺したい人物は、佐藤もしくは斎藤だ。正確な名前は後で調べるとして、ようやく全貌が見えてきた。
 川原田の恋人と佐藤(仮)が浮気をし、それに気づいた川原田は怒り心頭で、佐藤(仮)に殺意を抱いた。川原田の怒りがどれほどのものなのか俺には計り知れないが、それは果たして殺すほどのことなのだろうか。浮気をされたら腹が立つのは、恋愛経験の乏しい俺でもなんとなく分かる。けれど人生を棒に振ってまで復讐をしたいと思うだろうか。そこだけは理解できなかった。
 とりあえず放課後になったら、雪乃に相談してみよう。そう思いながらノートを開き、川原田のことをまとめているページに、新たに得た情報を書き足した。

『川原田の殺したい人物が判明。それは川原田の恋人と浮気をしたと思われる佐藤(仮)』

 ノートを閉じ、机の中に入れる。早く放課後にならないかなぁ、と欠伸をしながら時間が流れるのを待った。


「なあ小泉、川原田いるだろ? あいつと仲の良い佐藤だったか斎藤だったか忘れたけど、あいつについてなんか知ってる?」

 昼休み、姉が作ってくれたしょっぱい卵焼きを口に運びながら、俺は小泉に小声で問いかけた。

「ああ、武藤のことか? サッカー部の奴だろ? あいつら幼馴染らしいよ。小学校の時から一緒らしい」
「……そうそう、武藤な。じゃあ相当仲良いんだな、あいつら」
「仲良いと思うよ。それがどうかした?」
「いや、なんでもない」

 佐藤でも斎藤でもなかった武藤は、親友であるはずの川原田の恋人に手を出した。信じていた友達に裏切られたのだ。川原田が怒り狂うのも分からなくはない。けれどやっぱり殺すほどのことではないような気もする。
 ため息をつきながら、ちらりと雪乃に目を向ける。

【ミニトマト、ミートボール、ご飯、たこ焼き、黒豆、ブロッコリー】

 丸っこい食べ物が多いな、と心の中で突っ込みを入れて、ふりかけご飯を一気に掻き込んだ。


 その日の放課後、俺は席に座ったまま頬杖をつき、下校していくクラスメイトたちを眺めていた。
 これから部活に行く者、バイトに行く者、友達とカラオケに行く者、学習塾に行く者など、放課後の予定は様々だった。
 まだ教室に残っていた川原田に視線を送る。彼はゆっくりと立ち上がり、鞄を乱暴に肩にかけ、教室を出ていく。

【明日だ。明日ぶっ殺してやる。ナイフが必要だな。帰りに買ってくか】

 川原田の背中を見送っていると、そんな言葉が俺の頭に届いた。
 鬼の形相の川原田が武藤にナイフを突き立てる。武藤は深く突き刺さったナイフの柄を握り、「どうして……」と震える声で呟き、その場に崩れ落ちる。赤い鮮血が、床を染め上げる。川原田は倒れる武藤を見下ろし、狂ったように笑う。そんな映像が、ふいに頭の中で再生された。

 一方の武藤は、白のエナメルバッグを肩にかけ、楽しそうに女子たちと雑談を交わしている。彼は短髪で爽やかで、いわゆるイケてる男子生徒だ。明日幼馴染に刺されることも知らずに、呑気に笑ってやがる。伝えるべきか悩んでいると、武藤は教室を出ていった。どうやらこれからサッカー部の練習があるらしい。明日死ぬかもしれないのに、ボールなんか蹴っている場合か、と言ってやりたいが説明しても信じてくれるはずがない。

 さらに十五分ほどその場に留まり、俺と雪乃を除く生徒たちは下校し、教室内は静寂に包まれる。雪乃はこの日も、開け放した窓から身を乗り出して外の景色を眺めている。毎日毎日同じ時間に同じ空を眺めて、何が楽しいのだろうか。こいつは他にすることがないのだろうか。

【鳥が飛んでる】

「そりゃあ飛ぶだろうよ。なんせ鳥なんだからな」
 雪乃の心の呟きに、俺はすかさず突っ込みを入れる。

【どうだった? 川原田くん、どんな感じ?】

 雪乃は振り返らずに、空を見上げたまま言った。

「けっこう逼迫してるよ。川原田の殺したい人物も分かった」
【私、たぶん分かるよ。当ててみていい?】

 雪乃は振り返り、にっこりと笑う。まるで好きな人が誰かを当てる時のような言い方と笑顔だ。今雪乃が当てようとしているのは、川原田が殺害を企てている人物なのだ。もう少し相応しい言い方と表情があるだろうと思ったが、俺は頷いて雪乃の次の言葉を待った。

【名前なんだったかな。佐藤くん? 違う。斎藤くん?】
「武藤だろ。藤しか合ってないだろ。クラスメイトの名前はしっかり覚えろよ」

 自分のことは棚に上げ、俺はため息交じりに言った。雪乃は合点がいったようで、それそれ、と頷いた。

【あの二人、いつも一緒にいるからそうなんじゃないかなって思った】
「ああ。武藤が川原田の恋人の浮気相手らしい。しかも川原田の奴、明日武藤を殺すってさっき言ってた。ナイフを持ってくるとも言ってたな」

 雪乃はしばらく考え込んで、【私がなんとかしてみる】と難しい顔をして言った。

「なんとかって、どうするんだよ。また黒板に書くのか? 川原田は武藤を殺そうとしてるって」
【うーん、それだとストレート過ぎない?】

 藍田の時はストレートに書いたくせに、雪乃はそんなことを言う。

「じゃあなんて書くんだよ」
【うーん、もう少し考えてみるね。明日、楽しみにしてて】

 雪乃は立ち上がり、窓をピシャリと閉める。窓を閉めた時の音が思いのほか大きくて、彼女は自分で驚いていた。俺の視線に気づいて、彼女は照れ臭そうに教室を出ていった。
 雪乃が閉めた窓を開け、ぼんやりと色が変わりつつある空を眺める。
 このクラスはどうなってしまうんだろうか。川原田だけではなく、まだまだ悩んでいる生徒は他にもいた。

 ──私には、碧くんも何かに悩んでるように見える。

 そう言った雪乃の言葉が、ふいに蘇った。その妙に突き刺さる言葉を振り払うように、俺は勢いよく窓を閉めた。
 思いのほか閉めた音が大きくて、身体がビクッと跳ねる。
 誰もいなくてよかった、と安堵し、静まり返った教室を後にした。
「碧、本当に大丈夫なの?」

 朝食のトーストを齧りながら、姉は心配そうに訊いてくる。昨日家に帰った後、川原田の殺したい人物が判明したこと、その川原田が武藤をナイフで殺害しようとしていることなど、姉に全てを話した。大丈夫かどうかは学校へ行ってみなければ分からない。そこで何が起こるのか、雪乃次第とも言えるかもしれない。俺にできることは、もう何もないのだ。

「うーん、たぶん、なんとかなると思うけど」
「危ない感じなら、あんたは関わるんじゃないよ」
「うん、そうするよ」

 本来であれば俺は、彼らに関わるつもりはなかった。雪乃がいなければ、川原田の心の声は聞かなかったことにしていたかもしれない。
 俺は言われた通り川原田の周辺を探り、集めた情報を雪乃に伝えた。そこでバトンタッチだ。後は雪乃がどうにかしてくれるだろう。面倒なことに巻き込まれたくないので、なるべく俺は無関係でいたかった。

「じゃあ、行ってくる」
「気をつけてね」

 車に気をつければいいのか、川原田のナイフに気をつければいいのか、姉の言葉は曖昧だった。
 いつも家を出る時間よりも、少し早く家を飛び出した。
 どんよりとした曇り空の下、俺はいつもより速く自転車を漕いでいく。すでに雪乃は教室に着き、黒板に何かを書いている頃かもしれない。俺は少し焦っていた。

『川原田順也はナイフを所持していて、武藤を刺し殺すつもりでいる』

 もしもそんな言葉が黒板に書かれていたとしたら、どうなるだろうか。
 武藤殺害計画が公になり、クラスメイトたちに糾弾された川原田は逆上し、次々と生徒たちにナイフを突き立てる。雪乃も逃げ遅れ、犠牲になってしまう。
 そんな嫌なことばかりが脳裏に浮かび上がる。
 頭を振って負のイメージを振り払い、立ち漕ぎをして点滅中の横断歩道を渡り、学校へ急ぐ。
 登校中の生徒たちの間を風のようにすり抜け、校門をくぐり駐輪場に自転車を止める。
 そこからダッシュで二年の教室を目指す。早く家を出てきたせいか、まだ生徒の数は少ない。

 階段を一気に駆け上がり、教室の前で足を止めた。
 呼吸を整えてから、ゆっくりとドアを開ける。窓際の席に座る雪乃と、まず目が合った。

【おはよう】

 当然返事はせず、教室の中に足を踏み入れる。まだ人数は少ないが、騒ついているのは分かった。生徒たちの視線は黒板に注がれている。
 黒板の中央には、白いチョークで文字が書かれていた。

『武藤くんは、川原田くんの彼女に手を出した』

 そっちで来たか、と俺は目を見開く。確かにこの書き方なら川原田は逆上することはないだろう。
 雪乃は一見何も考えていないように見えるが、こういうところのケアはしっかりしているのだ。武藤は責められるかもしれないが、それは仕方のないことだ。公表したことで武藤は糾弾され、それで川原田の怒りが収まってくれれば一件落着だ。少し可哀想な気もするが、刺し殺されるよりはマシだろう。
 二回小さく頷いてから、俺は自分の席へ向かう。川原田と武藤は、まだ来ていないようだ。

 教室に入ってくる生徒は皆一様に目を見開き、まず黒板を凝視する。そして驚愕と動揺の表情を浮かべ自分の席へ吸い込まれるように向かい、ヒソヒソ話しながら当事者たちの到着を待っている。

 数分後、小泉が教室にやってきた。俺は少し早く家を出てきたので、この日は小泉とは一緒に登校していない。

「碧、今日は早いな」
「ああ、早い時間に目が覚めたからな」
「そっか。……ん?」

 小泉は教室内の異変に気づいたようで、黒板に目を向ける。「なんだよ、あれ」

「さあ、また誰かが書いたんだろうな」

 俺は素知らぬ振りをしてスマホをいじり、無関係を装う。今回の主役である二人が来たらどんな反応を示すのか、黒板を見た川原田はどう行動するのか、そんなことを考えてしまい、そわそわと落ち着かない。

「なにこれ、マジ?」

 今度は井浦愛美と高梨美晴が教室に入るなり、口を揃えて言った。
 異様な雰囲気に包まれた教室内が静まり返ったのは、井浦と高梨が席に着いた直後だった。

「おはよう!」

 元気よく教室に入ってきたのは、武藤だ。そのすぐ後ろには、不機嫌そうな顔をした川原田がいる。
 武藤はすぐに黒板の文字に気づいた。

「……は? なんだよこれ。誰だよこんなことを書いたの! 俺はなんもしてねーよ!」

 武藤は狼狽しながら黒板消しで書かれた文字を消していく。川原田は黒板の文字を睨んでいるのか、武藤を睨んでいるのか判然としないが、鋭い目つきで黒板のほうを見ていた。

「順也、俺はお前の彼女になんもしてねえからな。きっと誰かの悪戯だよ。誰だよマジで」
「うるせぇよ。俺、知ってるんだ。お前が沙希とデートしてるところ、俺見たんだよ!」

 川原田の叫びが、教室内に響き渡る。ちょうど今教室に入ってきた連中は、何が起こったのか分からず、注目を浴びている二人を怯えた表情で見ている。誰もが動けず、声も出せずにいた。

「待てよ順也。誤解だよ。俺はなんも──」
「うるせぇんだよ! 聞きたくねぇよ!」

 川原田は教室を飛び出し、「待てよ!」と武藤も駆け出した。何人かの男子生徒は面白がって二人の後を追っていった。
 再び教室が騒がしくなる。ちらりと雪乃に目を向けると、彼女も俺を見ていた。

【何してるの! 碧くんも早く後を追って!】

 雪乃の叫び声が脳内に響いた。早く早く、と身体を揺らしながら彼女は訴えかける。
 俺は渋々立ち上がり、騒がしい教室を飛び出した。
 面白がって二人の後を追った奴らが、階段を上がるのが見えた。登校してくる生徒たちをかわすように走り、階段を駆け上がる。

「あいつら屋上に行ったのかな。もしかしたら殴り合いが見れるかもな!」

 後ろを振り返ると小泉がへらへら笑っていた。殴り合いではなく、もっと凄惨な流血事件を目の当たりにするかもしれないのだ。こいつも雪乃に負けないくらい呑気なやつだな、と思いながら屋上の扉を開ける。
 視界が開け、雲の隙間から顔を出した太陽の光に目を細める。屋上には川原田と武藤の他に、喧嘩を囃立てる馬鹿な野次馬が三人もいた。

「話を聞けよ順也!」武藤は声を荒げる。
「親友だと思ってたのに、最低のクズ野郎だよ、お前は!」

 川原田は上着のポケットから、ナイフを取り出した。太陽の光を反射し、きらりと光る。
 野次馬たちが一斉にどよめき、一歩後ずさる。

「おい川原田、ちょっと落ち着けよ! ナイフなんて捨てろよ! 冷静になれ!」

 小泉は必死に訴えかける。武藤もその言葉に賛同するように何度も頷く。この場で唯一冷静なのは、たった今川原田の心の声が聞こえた俺だけだろう。

「お、おい碧! 何してんだよ! 下がれ下がれ! お前死ぬぞ!」

 俺はなんの躊躇いも遠慮もせず、ズカズカと川原田に歩み寄る。

「なんだお前。刺されてぇのか? それ以上近寄るな!」

 川原田はすごんで静止を求めるが、俺は足を止めず前に進む。そして川原田の目の前で立ち止まり、両腕を目一杯広げた。

「刺せよ。それでお前の気が済むならな」

 川原田は両手でナイフを握りしめる。今にも泣き出してしまいそうな顔で、手を震わせながらナイフを前に突き出す。

「碧、やばいって! 早く下がれ!」
「川原田、ナイフを下ろせ! 先生に言うぞ!」
「ナイフで刺されたら痛いんじゃなくて、熱いらしいぞ! 碧、熱いんだぞ!」

 野次馬たちが口々に叫んだ。混乱しすぎているせいか、この状況でどうでもいい情報をよこしてくる。それに先生ではなく、警察を呼んだほうがいい気もするけどそこまで頭が回らないらしい。

「順也、聞いてくれ! 俺はお前の彼女に頼まれただけなんだよ! 浮気なんて、本当にしてないんだ!」

 武藤がそう叫んだ。川原田の視線は俺から武藤に移る。川原田の目には涙が溜まっていた。

「頼まれたって、何をだよ」
「プレゼントを買いたいって言われて、順也と仲の良い俺に、お前の好きそうな物を一緒に選んでほしいって言われて……。ほら、来週誕生日だろ、順也」
「……う、嘘だ、そんなの」
「嘘じゃねえよ。順也には内緒にしてって言われてたから、言えなかった。まさか買い物してるところを見られてたなんて思わなかった」

 川原田は力が抜けたように、だらんと腕を下げ、ナイフを落とした。

「確保だ、かくほー!」

 好機到来とばかりに、小泉は川原田にタックルを喰らわす。川原田はどふっ、と声にならない声を上げ、後ろに倒れ込んだ。野次馬三人衆も小泉に続き、川原田を押さえ込む。

「あれ? このナイフ、おもちゃじゃん」

 野次馬の一人がナイフの秘密に気づいた。刃の先端を押すと、柄の中に引っ込むタイプのおもちゃだ。俺はナイフが偽物であることを知っていた。先ほど、川原田の心の声がそう言っていたのだ。
 予鈴が鳴ったのと、川原田が泣き出したのは同じタイミングだった。嗚咽を漏らし、川原田は顔を埋めて泣き続ける。彼の腕や足を押さえていた小泉と野次馬たちは、申し訳なさげな表情で川原田を解放する。

「なんだよ。結局川原田の勘違いってこと?」

 拍子抜けしたような顔で小泉は言う。なーんだ、教室戻ろう。そう言ったのは野次馬たちだ。彼らは屋上を出ていった。

「でもさ、勘違いとか間違いって、誰にでもあるよな。なあ、碧」
「ああ、そうだな。間違いは誰にでもある。大事なのは、間違いを間違いだと素直に認めることだって誰かが言ってたよ」

 俺と小泉は頷き合って、静かに屋上を出た。後は武藤に任せよう、と小泉が小声で言った。
 その後、川原田と武藤は教室に戻って来なかった。