俺はこの日、全ての授業で雪乃令美を観察してみた。そしていくつか分かったことがある。
 雪乃令美は、真面目に授業を聞いているが、あまり理解していない。
 雪乃令美は、友達がいない。休み時間や昼休みも、彼女は常に一人ぼっちだった。
 雪乃令美は、とにかくどこか抜けている。英語の授業中に、前の授業で解けなかった数学の問題をやっていたり、体育の授業ではグラウンドの端っこにしゃがみ込んで蟻の数を数えたりと、謎が多い。人の心の中を覗ける俺ですら、彼女が何を考えているのかよく分からない。

 体育が終わると雪乃の上靴が紛失していて、午後からはスリッパを履いて授業を受けていた。彼女が何も言わないことをいいことに、いじめはどんどんエスカレートしていってると小泉は言う。雪乃は何も言い返さないのではなく、何も言えないのだ。
 もう一つ、気づいたことがあった。いじめに加担している高梨美晴は、雪乃をいじめることに関してあまり乗り気ではないらしい。ただ周りに合わせているだけで、彼女の心中は複雑だった。
 周りに合わせないと、今度は自分がターゲットにされてしまう。高梨美晴はそれを恐れて、仕方なしに雪乃をいじめているらしい。そんなこと、俺以外は知る由もないが。

「碧! 帰ろうぜ!」

 放課後、小泉が鞄を肩にかけ爽やかな笑顔で言った。小泉も俺も帰宅部なので、授業が終われば後は帰るだけだ。

「悪い、ちょっと用があるから、先に帰ってて」
「なんだよ用って」
「いや、たいしたことじゃないんだ。また明日な」

 小泉は不満げな顔をしていたが、分かった、と首肯して教室を出ていった。彼はこの後、家に帰ってAVを観る予定らしい。いちいちいらない情報が頭に届き、俺はため息をついた。
 小泉の背中を見送った後、まだ教室に残っている雪乃令美に視線を向けた。

【どこ行っちゃったんだろう、私の上靴】

 雪乃はしゃがみ込んで教室のゴミ箱の中を漁っていた。そんなところに上靴はないんだけどなぁ、と思いながら俺は彼女を見ていた。
 雪乃の上靴を隠したのは、いじめの主犯格である井浦愛美だ。井浦はこのクラスの女子のリーダー的存在で、誰も彼女には逆らえない。一年の頃は違うクラスだったが、彼女の恐ろしさはよく知っている。井浦愛美に逆らえばいじめの標的にされる。それは周知の事実だった。
 さらに厄介なのは井浦の恋人だ。一個上の先輩と交際しているらしく、聞いたところによるととんでもなく喧嘩が強い男らしい。それもあってか井浦は女子だけではなく、男子からも恐れられていた。

 つい先ほど、その井浦の心の声が俺に届いたのだ。
 どうやら雪乃の上靴は、三階の女子トイレのゴミ箱の中にあるらしい。それを雪乃に教えるのは、少し抵抗があった。まだ教室には数人の生徒がいる。雪乃と話しているところを見られたら、何を言われるか分かったものじゃない。教える義理はないが、このまま見て見ぬ振りをして帰るのは、なんだか気が引ける。

 数分後、残っていた生徒たちが下校するのを見届けた後、俺は雪乃の背後に回り、ぼそりと声をかけた。

「上靴、たぶん三階の女子トイレのゴミ箱の中だよ」

 雪乃はくるりと振り返り、上目遣いで俺を見る。小泉の言う通り、近くで見るとまあまあ悪くない顔をしている。肩まで伸びた黒髪も綺麗で、目もパッチリとしている。七十五点かな、とまずまずの点数をつけてやった。

【……三階の女子トイレ?】

 心の中で呟くと、雪乃はスリッパをパタパタと鳴らしながら小走りで教室を出ていった。
 雪乃の後を追い、女子トイレの前に行くと、彼女は上靴を両手に抱えて中から出てきた。

【上靴、ありました。ありがとうございました】

 雪乃は無言でぺこりと頭を下げた。本当に声が出ないのだろうか。彼女はそういう病気なんだ、と小泉が言っていたのを思い出した。

【この人、名前なんて言うんだっけ】

 そんな声が届き、俺は仕方なく本日二度目の自己紹介をする。

「俺、森田碧。新学期早々車に轢かれて入院して、今日やっと学校に来れた奴。よろしく」

 抑揚のない声で一息に言うと、雪乃はポカンと口を開け、心の中で俺の名前を反芻した。
 じゃあな、と声をかけ、俺は階段を下り学校を出た。


「喋れない子がいるの? 碧のクラスに」
「うん。しかもイケてる女子のグループからいじめられてる。そいつから死にたいっていう声も聞こえた」

 姉が作ってくれた夕食を口に運びながら、俺はこの日の出来事を話した。父さんは仕事で帰りが遅く、母さんが倒れてからは毎晩姉と二人で夕食を食べている。

「そうなんだ。……でもさ、碧ならその子と会話できるんじゃない?」
「会話?」
「その子の心の声を聞いて、碧がそれに返事をする。そうすれば会話ができるでしょ?」

 姉は悪戯っぽく笑い、味噌汁を啜る。

「心の声が聞こえることを誰にも話すなって言ったの、姉ちゃんだろ」
「その子ならいいと思う。だってさ、誰とも話せないなんて、可哀想じゃない。その子が会話できる相手は、世界のどこを探しても、碧だけなんだよ」
「……そう言われてもなぁ」

 俺だけにしかできないこと。そう言われると悪くはないな、と思った。しかしどうしたものか。彼女と話しているところを見られるのは、やはり抵抗がある。井浦愛美に見つかれば、俺の平穏な高校生活を奪われかねない。
 それに会話すると言っても、声を出すのは俺だけなのだ。傍から見れば、俺は雪乃に無視されているのに一方的に話しかけるやばい奴、と思われるに違いない。

「明日、その子に声をかけてあげたら? 誰とも話せなくて、それが辛くて死にたいと思ってるのかもしれないしさ」
「うーん、考えとく」

 唐揚げを咀嚼しながら、俺は雪乃令美のことを考えていた。