この日の最後の授業は、ホームルームだった。予鈴が鳴ると、担任の藤木先生が張り詰めた表情で教室に入ってきた。
教卓に着くと、藤木先生は教室内を端から端までゆっくりと見回す。新米女教師で、童顔でもあるためあまり威厳はなかった。
「ホームルームの前に、藍田さやかさんのことで皆さんに報告があります」
神妙な面持ちで藤木先生は言った。例の一件の後、藍田は一度も登校していなかった。子どもを産むのか下ろすのか、ようやく決めたのだろうか。
「もう知ってる人もいるかもしれませんが、藍田さんはいろいろあって学校を辞めることになりました。短い間でしたが、このクラスになれてよかったです、と藍田さんは言ってました」
社交辞令のようなものだろう。最後は井浦に目をつけられて不登校になったのだ。よかったはずがない。藍田に関しては、それ以上の話はなかった。
「はい、じゃあホームルーム始めます。今日のホームルームは、このクラスで起きている不祥事について話し合いたいと思います」
ホームルームということで弛緩していた教室内の空気が、藤木先生の一言で一変した。このクラスで起きている不祥事とは、一つしかないと誰もが思ったに違いない。
「先日、このクラスでいじめが起きていると、ある生徒が話してくれました。先生それを聞いて、残念に思いました。皆さんは高校二年生です。もう子どもと呼べるような年齢でもないはずです。やっていいことと悪いことの区別は、皆さんならつくはずです。心当たりのある方は、少し考えてみてほしいです。自分がされたらどんな気持ちになるか、よく考えてみてほしいです」
藤木先生が言い終わると、教室が少し騒がしくなった。心当たりがあるだろう井浦は、【うぜえ。誰だよチクったの】と悪態をついていた。
「皆さんで話し合いませんか? どうしたらいじめがなくなるのか。何故起こってしまったのか。話し合って、今日で終わりにしましょう。明日からは、皆が仲良く学校生活を送れるように、先生も協力していきます」
この教師は馬鹿なのだろうか、と俺だけではなく皆が思ったに違いない。自分が受け持っているのは小学生のクラスだと勘違いしてないか、とも思った。そんなことで解決するはずがないし、むしろ逆効果なのではないだろうか。案の定、うんざりしている生徒が多い。次第に私語が増え、藤木先生は苛立ち始めた。
「皆さん! 静かにしてください! 今回の件で、何か意見のある方はいませんか?」
当然、手を挙げる者は一人もいなかった。この状況で発言できる奴なんて、このクラスにいるはずがない。ここで発言するということは、井浦愛美に意見しているのと同じことだ。誰もが閉口し、罰が悪そうに俯いている。俺も同様に、それに倣った。
「えっと、それじゃあアンケートを取ろうかな。アンケート用紙を配るから、それに書いて……」
藤木先生の説明の途中で、手を挙げた生徒がいた。小麦色の細長い腕が、半袖のブラウスから真っ直ぐ伸びていた。
「あ、はい。井浦さん」
手を挙げたのは井浦だった。当てられた井浦は手を下ろし、座ったまま冷淡な口調で言った。
「アンケートとか怠いんで、直接本人に訊いたらどうですか? いじめられてる雪乃令美に」
教室内に嫌な緊張感が走る。名前は伏せるつもりでいたのか、藤木先生は急に雪乃の名前が出たことで表情に余裕がなくなった。
「だ、誰も雪乃さんがいじめられてるなんて言ってませんよ。それに、雪乃さんは……」
藤木先生は言い淀んだ。雪乃さんは喋れないと言いたかったのだろうがそれは周知の事実だし、雪乃がいじめられていることも同様だった。知らなかったのはこの的外れな女教師だけなのだ。彼女の対応にがっかりしたのは、きっと俺だけではないだろう。
「喋れないんだったら、黒板に書けばいいと思います。雪乃、黒板に書くの得意だから」
井浦がそう言うと、何人かの生徒が笑い声を上げる。藤木先生はおろおろし出して、雪乃と井浦を交互に見ることしかできないでいた。
「そもそも先生、雪乃が黒板に私たちの悪口を書いていたこと、知ってるんですか?」
「え? 悪口? えっと、それは先生知らなかったです。本当なの? 雪乃さん」
藤木先生はあたふたしたまま雪乃に問いかける。雪乃は俯いていて、答えようとはしなかった。
「ほら、これ。見てください」
井浦はスマホの画面を藤木先生に向け、指でスライドさせて次々に画像を見せる。俺の席からは見えないが、おそらく黒板に書かれた文字を撮って保存していたのだろう。
「これを、本当に雪乃さんが?」
「そうです。こんなことを書いてたんだから、いじめられてもしょうがないんじゃないですかぁ?」
井浦はにやにやと笑う。語尾に挑発が含まれていた。
「でも、だからといっていじめるのは良くないと思います。何か理由があったのかもしれないし……」
こちらは反対に、歯切りの悪い口ぶりで答える。藤木先生がいじめられているようでもあった。
「だったら、本人に理由を訊いてみてくださいよ。それか土下座して皆に謝るとか、それくらいさせたほうがいいと思います。藍田さんを退学に追い込んだのは、雪乃が黒板に書いたからじゃないんですか?」
藍田を退学に追い込んだのはお前だろう、と全生徒が思っただろう。よくもまあここまで舌が回るものだ、と感心するばかりだった。
「いやでも、そういうのは良くないと思うし……」
藤木先生の声は明らかに小さくなっていて、後半は何を言っているのか聞き取れなかった。
【土下座をすれば、この場は収まるかなぁ】
ちょうど雪乃に目を向けると、彼女は心の中でそんなことを呟いていた。
【ねえ碧くん。私、どうすればいいかな】
その言葉にどきりとした。雪乃の心の声が俺に向けられたものだとは思わなかった。しなくていいと言ってやりたかったが、伝える手段がない。聞こえなかった振りをしてやり過ごすことにした。
【やっぱり私、余計なことしなきゃよかったね。最初に黒板に書いたのだって、私だし。藍田さんを退学に追い込んだのも、私なのかなって思ってきた】
そんなはずがない。雪乃はこんな奴らのために必死になって考えて、迷える生徒たちの心を救おうとした。事実、救われた生徒だっていたはずだ。後悔せずに胸を張っていい。雪乃にそう言ってやりたかった。
【私、このクラスにいないほうがいいのかな。私のせいで空気悪くしちゃってるし、皆に迷惑かけちゃってる。私、本当に最低だ】
それ以上自分を責めるなよ。何もできない俺が惨めになる。雪乃は悪くない。この言葉も言えなかった。
【やっぱりあの時、お姉ちゃんじゃなくて私が死ぬべきだった。どうして私なんかが生きてるんだろう……】
──死にたい。
新学期になって初めて登校したあの日、俺の頭の中に飛び込んできた言葉が、もう一度届いた。あの日から雪乃は、毎日そう思っていたのかもしれない。俺に聞かれまいと、その言葉をずっとひた隠しにしていたのかもしれない。
俺はそれ以上雪乃の心の声を聞きたくなくて、視線を逸らした。
何もできなくてごめん、と心の中で謝った。
「なんか言えよ! 雪乃!」
井浦の怒声が教室内に響いた。藤木先生は結局役に立たず、教室の隅っこで丸くなっていた。
【誰か止めろよ。さすがにちょっと可哀想になってきた】
【雪乃さん、大丈夫かな。助けてあげたいけど、怖いし……】
【もうやめてあげて。ちょっと見てられない】
生徒たちの悲嘆の声が、次々と頭に飛び込んでくる。誰もが声を発せず、苦しんでいる。俺もその一人だった。
再び雪乃に視線を移す。雪乃の肩が、小刻みに震えていた。
雪乃が泣いている。俺の席からでもはっきりと分かった。そして雪乃はゆっくりと立ち上がり、廊下側の席の井浦に身体を向ける。ぽろぽろと涙が零れていた。
「……う……あ……さぃ……うう……」
雪乃は必死に声を出そうとしている。何が言いたいのか、何を言おうとしているのか分からなかった。両手で喉を押さえ、呼吸を荒くしながらも雪乃は声を出そうとしていた。泣きながら言葉を絞り出そうとしている雪乃を見て、俺は胸が震えた。
声を発することのできない雪乃が必死に声を出そうとして、声を発することができる俺たちが頑なに声を出そうとしない。そう思うと滑稽で情けなく、こっちまで泣きそうになった。
雪乃は咳き込み、それでも声を出そうと試みていた。
──これは、碧にしかできないことなんだよ。
ふいに姉の声が頭に響いた。それと同時に、生徒たちの視線が雪乃から俺に移っていた。
教卓に着くと、藤木先生は教室内を端から端までゆっくりと見回す。新米女教師で、童顔でもあるためあまり威厳はなかった。
「ホームルームの前に、藍田さやかさんのことで皆さんに報告があります」
神妙な面持ちで藤木先生は言った。例の一件の後、藍田は一度も登校していなかった。子どもを産むのか下ろすのか、ようやく決めたのだろうか。
「もう知ってる人もいるかもしれませんが、藍田さんはいろいろあって学校を辞めることになりました。短い間でしたが、このクラスになれてよかったです、と藍田さんは言ってました」
社交辞令のようなものだろう。最後は井浦に目をつけられて不登校になったのだ。よかったはずがない。藍田に関しては、それ以上の話はなかった。
「はい、じゃあホームルーム始めます。今日のホームルームは、このクラスで起きている不祥事について話し合いたいと思います」
ホームルームということで弛緩していた教室内の空気が、藤木先生の一言で一変した。このクラスで起きている不祥事とは、一つしかないと誰もが思ったに違いない。
「先日、このクラスでいじめが起きていると、ある生徒が話してくれました。先生それを聞いて、残念に思いました。皆さんは高校二年生です。もう子どもと呼べるような年齢でもないはずです。やっていいことと悪いことの区別は、皆さんならつくはずです。心当たりのある方は、少し考えてみてほしいです。自分がされたらどんな気持ちになるか、よく考えてみてほしいです」
藤木先生が言い終わると、教室が少し騒がしくなった。心当たりがあるだろう井浦は、【うぜえ。誰だよチクったの】と悪態をついていた。
「皆さんで話し合いませんか? どうしたらいじめがなくなるのか。何故起こってしまったのか。話し合って、今日で終わりにしましょう。明日からは、皆が仲良く学校生活を送れるように、先生も協力していきます」
この教師は馬鹿なのだろうか、と俺だけではなく皆が思ったに違いない。自分が受け持っているのは小学生のクラスだと勘違いしてないか、とも思った。そんなことで解決するはずがないし、むしろ逆効果なのではないだろうか。案の定、うんざりしている生徒が多い。次第に私語が増え、藤木先生は苛立ち始めた。
「皆さん! 静かにしてください! 今回の件で、何か意見のある方はいませんか?」
当然、手を挙げる者は一人もいなかった。この状況で発言できる奴なんて、このクラスにいるはずがない。ここで発言するということは、井浦愛美に意見しているのと同じことだ。誰もが閉口し、罰が悪そうに俯いている。俺も同様に、それに倣った。
「えっと、それじゃあアンケートを取ろうかな。アンケート用紙を配るから、それに書いて……」
藤木先生の説明の途中で、手を挙げた生徒がいた。小麦色の細長い腕が、半袖のブラウスから真っ直ぐ伸びていた。
「あ、はい。井浦さん」
手を挙げたのは井浦だった。当てられた井浦は手を下ろし、座ったまま冷淡な口調で言った。
「アンケートとか怠いんで、直接本人に訊いたらどうですか? いじめられてる雪乃令美に」
教室内に嫌な緊張感が走る。名前は伏せるつもりでいたのか、藤木先生は急に雪乃の名前が出たことで表情に余裕がなくなった。
「だ、誰も雪乃さんがいじめられてるなんて言ってませんよ。それに、雪乃さんは……」
藤木先生は言い淀んだ。雪乃さんは喋れないと言いたかったのだろうがそれは周知の事実だし、雪乃がいじめられていることも同様だった。知らなかったのはこの的外れな女教師だけなのだ。彼女の対応にがっかりしたのは、きっと俺だけではないだろう。
「喋れないんだったら、黒板に書けばいいと思います。雪乃、黒板に書くの得意だから」
井浦がそう言うと、何人かの生徒が笑い声を上げる。藤木先生はおろおろし出して、雪乃と井浦を交互に見ることしかできないでいた。
「そもそも先生、雪乃が黒板に私たちの悪口を書いていたこと、知ってるんですか?」
「え? 悪口? えっと、それは先生知らなかったです。本当なの? 雪乃さん」
藤木先生はあたふたしたまま雪乃に問いかける。雪乃は俯いていて、答えようとはしなかった。
「ほら、これ。見てください」
井浦はスマホの画面を藤木先生に向け、指でスライドさせて次々に画像を見せる。俺の席からは見えないが、おそらく黒板に書かれた文字を撮って保存していたのだろう。
「これを、本当に雪乃さんが?」
「そうです。こんなことを書いてたんだから、いじめられてもしょうがないんじゃないですかぁ?」
井浦はにやにやと笑う。語尾に挑発が含まれていた。
「でも、だからといっていじめるのは良くないと思います。何か理由があったのかもしれないし……」
こちらは反対に、歯切りの悪い口ぶりで答える。藤木先生がいじめられているようでもあった。
「だったら、本人に理由を訊いてみてくださいよ。それか土下座して皆に謝るとか、それくらいさせたほうがいいと思います。藍田さんを退学に追い込んだのは、雪乃が黒板に書いたからじゃないんですか?」
藍田を退学に追い込んだのはお前だろう、と全生徒が思っただろう。よくもまあここまで舌が回るものだ、と感心するばかりだった。
「いやでも、そういうのは良くないと思うし……」
藤木先生の声は明らかに小さくなっていて、後半は何を言っているのか聞き取れなかった。
【土下座をすれば、この場は収まるかなぁ】
ちょうど雪乃に目を向けると、彼女は心の中でそんなことを呟いていた。
【ねえ碧くん。私、どうすればいいかな】
その言葉にどきりとした。雪乃の心の声が俺に向けられたものだとは思わなかった。しなくていいと言ってやりたかったが、伝える手段がない。聞こえなかった振りをしてやり過ごすことにした。
【やっぱり私、余計なことしなきゃよかったね。最初に黒板に書いたのだって、私だし。藍田さんを退学に追い込んだのも、私なのかなって思ってきた】
そんなはずがない。雪乃はこんな奴らのために必死になって考えて、迷える生徒たちの心を救おうとした。事実、救われた生徒だっていたはずだ。後悔せずに胸を張っていい。雪乃にそう言ってやりたかった。
【私、このクラスにいないほうがいいのかな。私のせいで空気悪くしちゃってるし、皆に迷惑かけちゃってる。私、本当に最低だ】
それ以上自分を責めるなよ。何もできない俺が惨めになる。雪乃は悪くない。この言葉も言えなかった。
【やっぱりあの時、お姉ちゃんじゃなくて私が死ぬべきだった。どうして私なんかが生きてるんだろう……】
──死にたい。
新学期になって初めて登校したあの日、俺の頭の中に飛び込んできた言葉が、もう一度届いた。あの日から雪乃は、毎日そう思っていたのかもしれない。俺に聞かれまいと、その言葉をずっとひた隠しにしていたのかもしれない。
俺はそれ以上雪乃の心の声を聞きたくなくて、視線を逸らした。
何もできなくてごめん、と心の中で謝った。
「なんか言えよ! 雪乃!」
井浦の怒声が教室内に響いた。藤木先生は結局役に立たず、教室の隅っこで丸くなっていた。
【誰か止めろよ。さすがにちょっと可哀想になってきた】
【雪乃さん、大丈夫かな。助けてあげたいけど、怖いし……】
【もうやめてあげて。ちょっと見てられない】
生徒たちの悲嘆の声が、次々と頭に飛び込んでくる。誰もが声を発せず、苦しんでいる。俺もその一人だった。
再び雪乃に視線を移す。雪乃の肩が、小刻みに震えていた。
雪乃が泣いている。俺の席からでもはっきりと分かった。そして雪乃はゆっくりと立ち上がり、廊下側の席の井浦に身体を向ける。ぽろぽろと涙が零れていた。
「……う……あ……さぃ……うう……」
雪乃は必死に声を出そうとしている。何が言いたいのか、何を言おうとしているのか分からなかった。両手で喉を押さえ、呼吸を荒くしながらも雪乃は声を出そうとしていた。泣きながら言葉を絞り出そうとしている雪乃を見て、俺は胸が震えた。
声を発することのできない雪乃が必死に声を出そうとして、声を発することができる俺たちが頑なに声を出そうとしない。そう思うと滑稽で情けなく、こっちまで泣きそうになった。
雪乃は咳き込み、それでも声を出そうと試みていた。
──これは、碧にしかできないことなんだよ。
ふいに姉の声が頭に響いた。それと同時に、生徒たちの視線が雪乃から俺に移っていた。