それから二週間が過ぎて、俺は六月のカレンダーを破り捨てた。
この二週間は割と平和だった。雪乃に対するいじめは相変わらずだったが、いつも通りの騒がしいクラスに戻った。
あれから一度だけ誰かがふざけて黒板に文字を書いていたようだが、あまりにもくだらない内容で誰もが素通りして、恥ずかしく思ったのかそれ以降は黒板に文字が書かれることはなかった。
雪乃の声も未だ戻らず、俺は俺で懲りずに毎日放課後に雪乃と会話をして、たまに姉と母さんのお見舞いに行く、という日々を過ごしていた。
そして再び事件が起きた。連日うだるような暑さが続き、軽く夏バテ気味だった金曜の昼。俺は弁当を食べ終わると、スマホのゲームをしていた。他にやることがなく、ゲームで時間を潰していた時にそれは起こった。
「おいなんだよこれ! 黒板に悪口書いてた犯人、デブキだったのかよ!」
その声は教室中に響き渡った。俺はゲームを中断し、声がしたほうに目を向ける。名前は忘れてしまったが、お調子者の男子が叫んだ声だった。
「おい、スマホ返せよ! 勝手に見るなよ!」
お調子者からスマホを取り返したのは、なんと小泉だ。そのやり取りを見て、俺は何が起きたのか悟った。
おそらく小泉は、見られてしまったのだ。あの日連写して撮った、伊吹の犯行現場の写真を。
「ねえ、今の話、詳しく聞かせて」
立ち上がったのは井浦だ。伊吹は自分の席に座ったまま、でかい身体を小さく丸めていた。
「小泉のスマホの中に写メがあったんだよ。デブキが夜の学校に侵入して、黒板に文字を書いてる写メ!」
井浦はおろおろしていた小泉の手から、スマホを奪い取った。
井浦はスマホの画面を凝視した後、無言で伊吹の席へ向かう。
「これ、どういうこと? あんたがうちらの悪口を黒板に書いてたの?」
伊吹はさらに身体を小さくして、俯きがちに怯えていた。俺は見ていられなくて、視線を逸らした。小泉と目が合って、ごめん、と口だけ動かしていた。俺じゃなくて伊吹に謝れよ、と思った。
「おい! なんとか言えよデブ!」
井浦の甲高い声が響く。これは因果応報という他ないだろう。伊吹には悪いけど、自分が蒔いた種なのだ。当然の報いを受けるべきだと思った。
写真を消し忘れた小泉の失態とはいえ、俺たちは約束通り秘密を厳守したのだ。俺に落ち度はないはずだ。ここはただの傍観者に徹するほうが得策だろうと判断して、俺はスマホのゲームを再開した。
「お前がやったのかって!」
井浦が声を張り上げた。俺はモンスターを駆逐しながら聞き耳を立てる。聞こえてくるのは井浦の声だけで、伊吹は黙秘を貫いていた。
ガタンッと椅子を引く音が聞こえたのは、ボスキャラにやられてゲームオーバーになった時だった。スマホをポケットに入れ、音がしたほうに目を向けると、雪乃が机に手をついて立ち上がっていた。
窓際の列の、前から三番目の席。突然立ち上がった雪乃に、教室にいる生徒たちの視線が注がれる。雪乃はゆっくりと振り返り、息を吸って、吐き出すのと同時に声を出そうとした。
「い……う……なぃ……」
声が掠れていて、何を言おうとしているのか聞き取れない。雪乃は涙目になりながら、声を出そうと必死に頑張っていた。
「なんなのこいつ、いきなり。まじウケる」
井浦がそう言って笑うと、何人かの生徒も釣られて笑い出す。伊吹は俯いていた顔を上げ、心配そうに雪乃を見つめていた。
言いたいことがあるならはっきり言えよ、と井浦はさらに笑う。雪乃が喋れないことを知っていながら、そんな心無いことを言う井浦にふつふつと怒りが込み上げてきた。
その時だった。雪乃は声を出すのを諦めたのか、小走りで黒板の前まで行き、黄色のチョークを手に取った。そして背伸びをして黒板にチョークを押し当て、文字を書き始めた。
何を書くのか、この場にいる全員が黒板に注目する。打ち合わせなどしていないので、雪乃が何を書こうとしているのか、俺にも分からなかった。
『伊吹くんは悪くないです。全ては私が一人でやったことです』
やめろよ。何を書いてんだよ。俺は心の中で叫んだ。
『藍田さんのことも、川原田くんと武藤くんの時も、他の人のも全部私が書きました』
違うだろ。俺も一緒にやったことだろ。なんでそんなこと書くんだよ。声に出せないから、俺は心の中で叫ぶ。
『私は病気で声が出ません。だから、こうして黒板に書きました。不快な思いをさせてしまった方々、本当にごめんなさい』
どうして勝手なことしたんだよ。これじゃあクラスの全員を敵に回してしまったようなものじゃないか。
書き終わると雪乃は振り返り、深く頭を下げた。最後まで俺は、声を発することができず、雪乃を止めることもできなかった。
【碧くん、勝手なことしてごめんなさい】
雪乃は頭を下げたまま、心の中で俺にそう言った。
【どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう】
心の中でそう繰り返していたのは伊吹だった。
井浦は無言で教壇まで歩き、雪乃の髪の毛を鷲掴みにし、無理矢理顔を上げさせた。
「お前がやったのか、雪乃。いい度胸してんじゃん」
痛みに雪乃の表情は歪む。誰か助けてやれよ、と終始沈黙している生徒たちを見回す。
誰もが葬式に来たような暗い顔で俯いていた。
【これは自業自得だよ】
【余計なことしなきゃよかったのに。馬鹿だな】
【雪乃が悪い。井浦やっちまえ】
【雪乃の奴、性格悪すぎるだろ】
【黒板に悪口書くなんて、陰険な女ね】
聞きたくない言葉の数々が、頭に飛び込んでくる。ふざけるな! と声に出して叫びたかった。雪乃はお前らのために、いじめを見て見ぬ振りをし続けてるお前らの心を救うために、あれこれ考えて尽力したというのに。どうして報われないのか、俺は悔しくて唇を噛んだ。
「ちょっと便所行こっか」
井浦は雪乃の髪の毛を引っ張り、教室の外へ連れて行こうとする。雪乃は抵抗し、嫌だと首を振る。
【なに抵抗してんだよ。お前が悪いんだろ】
【さっさと行けよ。せっかくの昼休みが終わっちまう】
【便器に頭からバッシャーン、かな。見てみたいなぁ】
生徒たちの感情のない声が、俺の頭に届く。
誰か勇敢な奴はいないのか、と何度も教室を見回すが、そんな奴は一人もいなかった。
声が出ない。足が動かない。俺はそんな自分の怯懦を呪った。何もできない自分に対し、悔しくて涙が出そうだった。
「おい! 早く来いよ! 美晴も手伝ってよ!」
高梨の身体がビクッと跳ねた。突然井浦に声をかけられ、彼女は怯えた表情で二人を見ていた。どうしたらいいのか分からず、高梨は呼びかけに応えられずにいる。
「早く手伝ってよ! こいつ、まじムカつく」
「う、うん」
高梨はおろおろしながら教壇に上がり、雪乃の背中を押す。押すというより、背中にそっと手を置いているようだった。
【お願い、令美を助けてあげて】
高梨と目が合うと、彼女は心の中で訴えかけてくる。俺は焦ってすぐに視線を逸らした。一年の頃雪乃に助けてもらったんだから、今度はお前が助けてやれよ、と思ったが当然思っただけでは高梨には届かない。
雪乃は苦痛に顔を歪め、必死に抵抗を続ける。ぽたぽたと、床に涙が零れ落ちていた。
なんとかしてやりたい気持ちはある。しかしあるのは気持ちだけで、それを実行に移す勇気はなかった。こういう時に頼りになる小泉も、俯いて決まりの悪い顔をしていた。
──助けて!
その声が頭の中で反響したのと、俺が立ち上がったのはほぼ同じタイミングだった。
いきなり立ち上がったことで、クラス全員の注目を浴びる。井浦も動きを止め、俺を睨みつける。
「どうしたの森田。そんな怖い顔して。なんか文句あるの?」
井浦は威圧的な声で言った。文句なら山ほどある。しかし、声が出てこなかった。何故立ち上がってしまったのか、自分でも分からない。雪乃の心の叫びが俺の身体を突き動かした、という他ない。
教室内は静まり返り、この場にいる全生徒が俺の言葉を待っている。しかし俺は、声を失っていた。
結局一言も声を発せないまま予鈴が鳴り、動きを止めていた生徒たちはそれぞれの席に戻っていく。教壇の上で膝をついていた雪乃と目が合い、俺はすぐに視線を逸らして着席した。
何も言えなかった自分が情けなかった。俺だって共犯者なのだ。むしろ主犯格でもある。雪乃を庇えなかったことが何より悔しかった。
俺は小学生の頃から、何度もいじめを目の当たりにしてきた。いじめる側、いじめられる側、そのどちらにも属さず、常に中立の立場にいた。卑怯だとは分かっている。けれど俺は、いつだって無関係でいたかった。
だから俺は今回も、保身のために雪乃を救えなかった。
今までいじめられていた生徒たちは一様に、『助けて』と目で訴えかけていた。俺は救いを求める彼らを黙殺し、見て見ぬ振りをして逃げてきた。
別に『助けて』と直接言われたわけではないし、仲の良い奴がいじめられていたわけでもない。しかし今回はどうだ。俺に向けられた言葉かどうかは判然としないが、『助けて』とはっきりと聞こえた。それに仲が良いとは言い難いが、雪乃は俺とは無関係の人間ではない。
立ち上がったものの、俺は何もできなかった。俺はどうすればよかったのか、なんて言えばよかったのか。
五時間目の授業の間、俺は繰り返しそんなことを考えていた。
五時間目の授業が終了し、六時間目の授業も平和に、何事もなく過ぎていった。
小泉のスマホに残っていた画像は、伊吹が黒板に文字を書こうとしているものの、肝心の黒板の文字が写っていなかった。あれだけでは決定的な証拠にはならず、伊吹が糾弾されることもなく、自供した雪乃一人の犯行として片付けられた。あの日小泉を連れて行ったことを、少しだけ後悔した。
放課後はいつも通り騒がしく、生徒たちは足早に下校していく。
この日はいつもより早く教室が空になった。空といっても、窓際の席には雪乃がいる。彼女はこんな日にも、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「派手にやられたな。あの女、ほんとに凶暴だよな」
何もできなくてごめん、と一言謝りたかった。しかし口を衝いて出てきたのは、そんな言葉だった。
【そうだね。髪って、引っ張られると痛いんだね】
窓の外を眺めたまま、雪乃は当たり前のことを呟いた。本当に強い女だよな、と思った。
「どうして伊吹を庇ったんだよ。雪乃が犠牲になる必要なんてなかったろ」
【だって伊吹くん、私のためにやってくれたんでしょ? だったら、私のせいでもあるから】
「なんでそうなるんだよ。伊吹が勝手にやったことなんだし、あいつが報いを受けるべきだったんだよ」
【いいの。私はああいうの慣れてるから。全然平気だから】
昼休みの雪乃は全然平気そうには見えなかったが、本人がそう言うのなら何も返す言葉がなかった。
雪乃は窓を閉めて自分の席に座る。ただ無心で、何も書かれていない綺麗な黒板を見つめていた。
「前から訊きたかったんだけど、雪乃はどうしてこんなどうしようもないクラスの連中のために、あんなことを黒板に書いたんだよ。見返りなんてないのに」
【……このクラスの皆には、私のようになってほしくないから】
黒板を見つめたま雪乃は答える。私のようにとは、何を指すのか分からなかった。
「私のようにって、どういう意味?」
【私のように、言いたいことを言えずに後悔してほしくないから】
少しの沈黙の後、雪乃は続ける。
【私ね、昔からそうだったんだ。自分の思ってることがなかなか相手に伝えられなくて、そのたびに後悔してた。だから皆には、そうなってほしくなくて】
それをいうなら俺もそうだった。いつも言いたいことがあっても何も言えずに終わってしまう。思えばこのクラスには、そういう生徒が多かった。
【一人で抱え込んでて、誰かに相談すれば解決することもあるのに、それでも勇気がなくて打ち明けられないのって、どうしようもなく辛いんだよね。私も経験あるから力になりたかった】
「まあ確かに、一人で悩んでる奴いっぱいいたな。どうしようもない悩みばっかりだったけどな」
【私、そういう人の笑顔を見るとね、なんとなく分かるの。ちゃんと笑えてないっていうか、笑顔に影があるっていうか。なんとなくだけどね】
言われてみればそうかもしれない。妊娠をひた隠しにして、一人で抱え込んでいた藍田さやか。親友に直接話していれば解決していたであろう、お騒がせナイフ少年の川原田順也。両思いであるはずが、互いに鈍感で奥手な岩島と原。いつも一人ぼっちで、だけど本当は輪の中に入りたかった天才漫画少女、樋口。片思い中のクラスメイトに演奏を見に来て欲しかったギター少年、笹林。
雪乃の言う通り、彼らの笑顔はどこかぎこちなく、上手く笑えていないように見えた。彼らだけではなく、雪乃や高梨もそうだ。もしかしたら俺もそうなのかもしれない。
このクラスの生徒たちは皆、胸に秘めた思いを叫べずにいる。勇気を振り絞って声に出していれば、何かが変わっていたはずなのに。雪乃がいなければこのクラスは、今頃どうなっていただろうか。考えたくもなかった。
「雪乃にも言えなくて後悔したことって、やっぱあるんだな。てゆーか喋れないんだから、毎日そうだよな」
【……うん、まあね】
雪乃は俯いて手元に視線を落とした。彼女の手には、クマのキーホルダーが握りしめられていた。
「もしかして、双子のお姉さんのことで後悔してるの?」
雪乃は、ハッとして俺を振り向いた。【どうして私が双子だって知ってるの?】
高梨に口止めされていたのを思い出し、口を噤んだ。
【美晴ちゃんに聞いたの?】
雪乃の問いに、俺は「風の噂で」と適当に誤魔化した。雪乃は納得していない様子だったが、それ以上は訊いてこなかった。
【そうだよ。私はお姉ちゃんに、お姉ちゃんが生きてる時にたくさん感謝の言葉を伝えればよかったって、毎日思ってる。それからごめんねって、たくさん謝りたい】
雪乃の姉は、暴走した車から雪乃を守って亡くなったのだと、高梨が言っていた。何の前触れもなく、ある日突然姉が亡くなったのだ。言いそびれたことは腐るほどあるのだろう。
【私ね、昔から気が弱くて、今みたいにいじめられてばっかりだったんだ。でもお姉ちゃんが、いつも私を守ってくれた。お姉ちゃんがいなかったら、私はたぶん学校に通えてなかった。もっとたくさん、お姉ちゃんにありがとうって言えばよかったって、ずっと後悔してる】
雪乃は一息に言い終わると、今さら後悔しても遅いんだけどね、と付け加えた。
言いたいことを言えない人たちの気持ちが痛いほどよく分かる、と雪乃は言っていた。自分のようにはならないでほしいと、彼女は強く願っていた。
これ以上自分と同じ苦しみを味わう人が減ればいいと思い、雪乃は黒板に生徒たちの悩みを書き始めたのだ。そして見事に、雪乃は生徒たちの心を次々に救っていった。俺にはそんなことできないな、と感嘆のため息をついた。
雪乃にかける言葉が見つからず、俺は沈黙を選んだ。雪乃はまだ、手元のクマのキーホルダーを愛おしそうに見つめていた。
井浦に奪われてしまったという、もう一つのクマのキーホルダー。それがあれば雪乃の心の傷は少しは癒えるだろうか。似たようなキーホルダーを買ってきても、きっとそれでは心の穴は埋まらないのだろう。今は高梨が持っているが、彼女が言っていたように今さらぼろぼろのクマを返しても、さらに心の傷が深まるだけなのかもしれない。
結局俺はそのまま何も声をかけてやれず、教室を後にした。
誰もいない静かな廊下を歩く。この日も遠くから吹奏楽部の演奏が聴こえる。なんの曲を演奏しているのかは分からない。
雪乃の言葉を頭の中で反芻しながら、階段を下っていく。
──言いたいことを言えずに後悔してほしくない。
考えてみれば俺も、後悔してばっかりの人生を送っていた。意地を張ってありがとうやごめんねを、言えない人間だった。
中学の卒業式では、三年間好きだった同級生に、俺は最後まで『好きです』という言葉が言えなかった。周りの協力もあって卒業式が終わった後、彼女を校舎の裏に呼び出した。これで最後なんだから、告白をしようと思っていた。しかし結局、俺は何も言えなかった。振られるのが怖くて、振られた後の自分を想像して、勇気が出なくて言い出せなかった。
彼女は別の高校に進学して、それ以来一度も会っていない。当時、今みたいに人の心の中を覗けていたなら、彼女の考えていることを読み取り、告白する、しないの判断ができていたのに。
そんなことを考えても無駄だとは分かっていても、どうしても考えてしまう。肩を落としながら階段を下り、学校を出た。
帰り道の途中で、姉から着信があった。母さんが目を覚ました、との連絡が病院から来たらしい。
俺は自転車を飛ばし、姉が待つ駅へ急いだ。突然のことに、胸が騒ついた。
あれほど鬱陶しいと思っていたにもかかわらず、母さんが倒れたと知った時はやっぱり悲しかった。何を言われても反抗したり弁当も毎日残したりと、とにかく俺は親不孝者だった。生意気でごめん、今までありがとう。その言葉を母さんにどうしても伝えたかった。言えないまま後悔していたことが、俺にもたくさんある。それをやっと、母さんに伝えられる。
もう二度と目を覚まさないかもしれない、と医師は言った。でも、母さんは目を覚ましてくれた。大声で叫び出したいくらい嬉しくて、立ち漕ぎで自転車を走らせた。
駅で姉と合流し、すぐにやってきたバスに乗車して病院へ向かう。
バスの中で、姉の話を聞いて浮かれていた気持ちが沈んだ。
「看護師さんの話だと、お母さん目を覚ましてしばらくは呼びかけに反応してたみたいだけど、またすぐに意識がなくなったって言ってた。だから今病院に行っても、お母さんと話せないかもしれない」
俺の気持ちと同様に、沈んだ表情で姉は言った。病院に着くまでの間、二人とも無言で窓の外を眺めていた。
母さんの病室に入ると、姉は母さんに駆け寄って声をかける。
「お母さん、茜だよ。分かる? お母さん」
母さんの反応はなく、目を閉じたままじっと動かない。なんだよ、これじゃあいつもと同じじゃないか、と俺は心の中で叫んだ。
「碧も声かけてあげて。お母さん、目を覚ますかもしれないよ」
そんなわけないだろ、と俺は首を振った。どうして肝心な時に眠ってるんだよ、と母さんを責めたかった。
やっぱり母さんは、もう目を覚まさないのだ。俺は一生、母さんに言えなかった言葉を言えないまま生きていくのだ。そんな十字架を背負ったまま、これから何十年も生きていかなくてはならないのか。そう思うと悲しくて悔しくて、目に涙が溜まってきた。あれだけたくさん時間があったのに、いつか言えばいいや、って逃げていた過去の自分に腹が立って、堪え切れずについに涙が零れた。姉に涙を見られたくなくて、俺は静かに病室を出た。
十五分ほど談話室の椅子に座って待っていると、姉がやってきて俺の斜向かいの椅子に腰掛けた。
お母さん、眠いみたい。と姉は無理して笑う。姉の顔を見て、泣いていたのは俺だけじゃなかったんだな、と思った。
「お母さんと、もっとたくさん話したいことあるのに、全然起きてくれないね」
うん、とだけ俺は返事をした。
「お母さんが目を覚ましたら、あんた謝りなさいよ。ずっと無視してたよね、お母さんのこと。お弁当も毎日作ってくれてたのに食べないで残すし、お母さん悲しがってたんだよ」
分かってるよ、謝るって。姉のほうは見ずに、俯いて答える。
「お母さんがなんで毎日お弁当作ってくれてたか、知ってる?」
知らない、とボソッと呟く。当時、俺は毎日購買の百円のパンを食べていた。
「あんたさ、毎日卵焼きだけは食べてたでしょ。お母さん、それだけでも嬉しかったんだって。あたしもお母さんの卵焼き好きだったな。甘くておいしいもんね」
そろそろ帰ろっか、と姉は言いながら立ち上がる。数秒遅れて俺も立ち上がり、姉の後を追う。
母さんの卵焼き、甘くておいしかったなぁ、と思い出しながら、再び涙を流して薄暗い院内を歩いた。
それから数日間、姉は毎日母さんの病室に通い詰めた。休みの日は一日中母さんに付きっきりだった。
「お母さんが目を覚ました時、あたしがそばにいてあげたい」
姉は健気にそんなことを言っていた。母さんの心配だけではなく、姉は雪乃の心配もしてくれている。最近クラス内のいじめが酷くなっている、と姉に相談すると、碧が雪乃ちゃんを守ってあげな、と他人事のように言われた。
「これはね、碧にしかできないことなんだよ」
さらに姉はそんなことまで言ってくる。
俺にしかできないこと。どうしてかそう言われてしまうと、だったらやってやろうという奇妙な使命感に駆られてしまう。後で冷静になってから考え直すと、やっぱり無理だよなぁ、と気が引けてしまう。
「今日も帰り遅くなるから」
この日も家を出る直前に姉にそう言われ、分かった、と返して家を出た。
ここ最近、学校に行くのが憂鬱だった。俺にとって何か不利益なことが起きるだとか、そんなことはないのだけれど、井浦たちによる雪乃へのいじめが、日に日に激しさを増して見ていられなかった。
変な噂を流されたり、弁当箱をひっくり返されたり、机の中に虫やカエルを入れられたりと、散々なものだった。
止める奴は一人もいないし、かと言って加担する奴もいなかった。誰もが自分は無関係でいたいと、そう思っているのだ。下手に雪乃に優しくしてしまうと、次は自分が第二の雪乃になってしまう。生徒たちはそれを恐れている。何もできない自分に、憤りを感じている生徒も何人か散見された。もちろん俺自身も、そんな生徒の一人だった。
学校に着いて教室に入ると、雪乃と目が合った。
【おはよう】
いつもと変わらない笑顔で、雪乃は心の中で言った。どうしてそんな顔で笑えるのだろう。辛いはずなのに、雪乃はそれを顔には出さなかった。
この日も雪乃に対するいじめが緩むことはなく、少しやり過ぎじゃないか、と心の中で心配する者もいた。
体育の授業では、女子はバレーをしていて雪乃は集中砲火を浴びていた。雪乃は体育の途中で抜け出し、保健室に行ったようだった。
授業が終わって教室に戻ると、指に包帯を巻いた雪乃の姿があった。
【突き指しちゃった】と雪乃は俺と目が合うと苦笑して言った。
「それにしてもボスギャルの奴、ちょっとやり過ぎだよな。雪乃さんが可哀想だ。黒板に悪口書いたの、雪乃さんじゃなくてデブキなのに」
昼休みになると、小泉が小声でそう言った。肝心の伊吹は名乗り出ようとはせず、ひたすら心の中で雪乃に謝罪をしている。本当に雪乃のことが好きなら、彼女を守るべきじゃないのか、と思った。
「そうだな」とだけ答えて、雪乃に視線を向ける。
【餃子、シュウマイ、小籠包、ご飯、エビチリ、ブロッコリー】
今日は中華なのか、などと思いながら、姉が作ってくれた卵焼きを頬張る。やっぱりちょっとしょっぱいな、と思った。
この日の最後の授業は、ホームルームだった。予鈴が鳴ると、担任の藤木先生が張り詰めた表情で教室に入ってきた。
教卓に着くと、藤木先生は教室内を端から端までゆっくりと見回す。新米女教師で、童顔でもあるためあまり威厳はなかった。
「ホームルームの前に、藍田さやかさんのことで皆さんに報告があります」
神妙な面持ちで藤木先生は言った。例の一件の後、藍田は一度も登校していなかった。子どもを産むのか下ろすのか、ようやく決めたのだろうか。
「もう知ってる人もいるかもしれませんが、藍田さんはいろいろあって学校を辞めることになりました。短い間でしたが、このクラスになれてよかったです、と藍田さんは言ってました」
社交辞令のようなものだろう。最後は井浦に目をつけられて不登校になったのだ。よかったはずがない。藍田に関しては、それ以上の話はなかった。
「はい、じゃあホームルーム始めます。今日のホームルームは、このクラスで起きている不祥事について話し合いたいと思います」
ホームルームということで弛緩していた教室内の空気が、藤木先生の一言で一変した。このクラスで起きている不祥事とは、一つしかないと誰もが思ったに違いない。
「先日、このクラスでいじめが起きていると、ある生徒が話してくれました。先生それを聞いて、残念に思いました。皆さんは高校二年生です。もう子どもと呼べるような年齢でもないはずです。やっていいことと悪いことの区別は、皆さんならつくはずです。心当たりのある方は、少し考えてみてほしいです。自分がされたらどんな気持ちになるか、よく考えてみてほしいです」
藤木先生が言い終わると、教室が少し騒がしくなった。心当たりがあるだろう井浦は、【うぜえ。誰だよチクったの】と悪態をついていた。
「皆さんで話し合いませんか? どうしたらいじめがなくなるのか。何故起こってしまったのか。話し合って、今日で終わりにしましょう。明日からは、皆が仲良く学校生活を送れるように、先生も協力していきます」
この教師は馬鹿なのだろうか、と俺だけではなく皆が思ったに違いない。自分が受け持っているのは小学生のクラスだと勘違いしてないか、とも思った。そんなことで解決するはずがないし、むしろ逆効果なのではないだろうか。案の定、うんざりしている生徒が多い。次第に私語が増え、藤木先生は苛立ち始めた。
「皆さん! 静かにしてください! 今回の件で、何か意見のある方はいませんか?」
当然、手を挙げる者は一人もいなかった。この状況で発言できる奴なんて、このクラスにいるはずがない。ここで発言するということは、井浦愛美に意見しているのと同じことだ。誰もが閉口し、罰が悪そうに俯いている。俺も同様に、それに倣った。
「えっと、それじゃあアンケートを取ろうかな。アンケート用紙を配るから、それに書いて……」
藤木先生の説明の途中で、手を挙げた生徒がいた。小麦色の細長い腕が、半袖のブラウスから真っ直ぐ伸びていた。
「あ、はい。井浦さん」
手を挙げたのは井浦だった。当てられた井浦は手を下ろし、座ったまま冷淡な口調で言った。
「アンケートとか怠いんで、直接本人に訊いたらどうですか? いじめられてる雪乃令美に」
教室内に嫌な緊張感が走る。名前は伏せるつもりでいたのか、藤木先生は急に雪乃の名前が出たことで表情に余裕がなくなった。
「だ、誰も雪乃さんがいじめられてるなんて言ってませんよ。それに、雪乃さんは……」
藤木先生は言い淀んだ。雪乃さんは喋れないと言いたかったのだろうがそれは周知の事実だし、雪乃がいじめられていることも同様だった。知らなかったのはこの的外れな女教師だけなのだ。彼女の対応にがっかりしたのは、きっと俺だけではないだろう。
「喋れないんだったら、黒板に書けばいいと思います。雪乃、黒板に書くの得意だから」
井浦がそう言うと、何人かの生徒が笑い声を上げる。藤木先生はおろおろし出して、雪乃と井浦を交互に見ることしかできないでいた。
「そもそも先生、雪乃が黒板に私たちの悪口を書いていたこと、知ってるんですか?」
「え? 悪口? えっと、それは先生知らなかったです。本当なの? 雪乃さん」
藤木先生はあたふたしたまま雪乃に問いかける。雪乃は俯いていて、答えようとはしなかった。
「ほら、これ。見てください」
井浦はスマホの画面を藤木先生に向け、指でスライドさせて次々に画像を見せる。俺の席からは見えないが、おそらく黒板に書かれた文字を撮って保存していたのだろう。
「これを、本当に雪乃さんが?」
「そうです。こんなことを書いてたんだから、いじめられてもしょうがないんじゃないですかぁ?」
井浦はにやにやと笑う。語尾に挑発が含まれていた。
「でも、だからといっていじめるのは良くないと思います。何か理由があったのかもしれないし……」
こちらは反対に、歯切りの悪い口ぶりで答える。藤木先生がいじめられているようでもあった。
「だったら、本人に理由を訊いてみてくださいよ。それか土下座して皆に謝るとか、それくらいさせたほうがいいと思います。藍田さんを退学に追い込んだのは、雪乃が黒板に書いたからじゃないんですか?」
藍田を退学に追い込んだのはお前だろう、と全生徒が思っただろう。よくもまあここまで舌が回るものだ、と感心するばかりだった。
「いやでも、そういうのは良くないと思うし……」
藤木先生の声は明らかに小さくなっていて、後半は何を言っているのか聞き取れなかった。
【土下座をすれば、この場は収まるかなぁ】
ちょうど雪乃に目を向けると、彼女は心の中でそんなことを呟いていた。
【ねえ碧くん。私、どうすればいいかな】
その言葉にどきりとした。雪乃の心の声が俺に向けられたものだとは思わなかった。しなくていいと言ってやりたかったが、伝える手段がない。聞こえなかった振りをしてやり過ごすことにした。
【やっぱり私、余計なことしなきゃよかったね。最初に黒板に書いたのだって、私だし。藍田さんを退学に追い込んだのも、私なのかなって思ってきた】
そんなはずがない。雪乃はこんな奴らのために必死になって考えて、迷える生徒たちの心を救おうとした。事実、救われた生徒だっていたはずだ。後悔せずに胸を張っていい。雪乃にそう言ってやりたかった。
【私、このクラスにいないほうがいいのかな。私のせいで空気悪くしちゃってるし、皆に迷惑かけちゃってる。私、本当に最低だ】
それ以上自分を責めるなよ。何もできない俺が惨めになる。雪乃は悪くない。この言葉も言えなかった。
【やっぱりあの時、お姉ちゃんじゃなくて私が死ぬべきだった。どうして私なんかが生きてるんだろう……】
──死にたい。
新学期になって初めて登校したあの日、俺の頭の中に飛び込んできた言葉が、もう一度届いた。あの日から雪乃は、毎日そう思っていたのかもしれない。俺に聞かれまいと、その言葉をずっとひた隠しにしていたのかもしれない。
俺はそれ以上雪乃の心の声を聞きたくなくて、視線を逸らした。
何もできなくてごめん、と心の中で謝った。
「なんか言えよ! 雪乃!」
井浦の怒声が教室内に響いた。藤木先生は結局役に立たず、教室の隅っこで丸くなっていた。
【誰か止めろよ。さすがにちょっと可哀想になってきた】
【雪乃さん、大丈夫かな。助けてあげたいけど、怖いし……】
【もうやめてあげて。ちょっと見てられない】
生徒たちの悲嘆の声が、次々と頭に飛び込んでくる。誰もが声を発せず、苦しんでいる。俺もその一人だった。
再び雪乃に視線を移す。雪乃の肩が、小刻みに震えていた。
雪乃が泣いている。俺の席からでもはっきりと分かった。そして雪乃はゆっくりと立ち上がり、廊下側の席の井浦に身体を向ける。ぽろぽろと涙が零れていた。
「……う……あ……さぃ……うう……」
雪乃は必死に声を出そうとしている。何が言いたいのか、何を言おうとしているのか分からなかった。両手で喉を押さえ、呼吸を荒くしながらも雪乃は声を出そうとしていた。泣きながら言葉を絞り出そうとしている雪乃を見て、俺は胸が震えた。
声を発することのできない雪乃が必死に声を出そうとして、声を発することができる俺たちが頑なに声を出そうとしない。そう思うと滑稽で情けなく、こっちまで泣きそうになった。
雪乃は咳き込み、それでも声を出そうと試みていた。
──これは、碧にしかできないことなんだよ。
ふいに姉の声が頭に響いた。それと同時に、生徒たちの視線が雪乃から俺に移っていた。
「また森田? 今回は何?」
井浦にそう言われ、俺は自分が立ち上がっていたことに気づいた。どうして立ち上がってしまったのか、自分でも説明ができない。けれど今さらもう後に引けない。言いたいことを言えない人生なんてまっぴらだ。そう思いながら、俺は迷いなく言い放った。
「雪乃は悪くない。悪いのは全部俺なんだ」
数秒の沈黙の後、「はあ?」と井浦は笑う。
「何言ってんの森田。なんで雪乃を庇ってんの? もしかしてこの女のこと、好きなの?」
その言葉には返事をせず、俺は机の中から一冊のノートを取り出した。これを見られたら、俺の高校生活は終わる。それでも構わない、という気持ちでノートを広げてみせた。生徒たちの心の闇が記された、『心の闇ノート』と名付けたそれを。
「は? 何これ、きもいんだけど」
「おいおいおい、森田まじかよ」
「ちょっと! 何よこれ!」
井浦と数人の生徒が叫ぶ。井浦にノートを奪われ、生徒たちは立ち上がりノートの周りに集まる。
【……どうして】
雪乃と目が合うと、彼女はそう呟いた。俺は返事をせず、小さく笑ってみせた。
「田嶋裕介……AVの隠し場所に悩んでる。妹にDVDの存在を知られ、さらに悩んでる」
誰かがノートの一文を読み上げた。田嶋が「なんで知ってるんだよう」と戯けて笑いが起こる。
「柿本由香……ピアノが上手く弾けなくて困ってる。コンクールまで時間がなく、とにかく焦ってる」
次の一文を読み上げると、柿本が「もしかして森田くん、盗み聞きしたの?」と俺を蔑むような目で睨んでくる。心の声が聞こえた、なんてさすがに言えない。
「高梨美晴……雪乃のいじめを快く思っていない。井浦たちのグループを抜けたがってる。ピンク」
ピンクってなんだ? と誰かが言った。いろいろとやってしまった、と俺は焦った。
「美晴、どういうこと?」と井浦が詰め寄る。高梨には後で謝ろう。
「俺がノートにそれを書いて、雪乃に見せた。心優しい雪乃は、お前らの悩みを解決してやろうと思って黒板に書いたんだ。井浦たちの悪口は俺が書いた。いじめとかださいことしててムカついたから書いた。理由はそれだけ」
一部事実とは異なるが、はっきりと言ってやった。生徒たちの俺を見る目がこれで変わってしまうだろう。しかし不思議と清々しい気分だった。後悔もなかった。
「森田、あんた最低だね。皆、こいつ無視しよう」
井浦は堂々といじめを宣言した。こいつもとんでもない奴だな、と思った。
「ねえ聞いてんの? 皆もなんか言ってやりなよ!」
井浦の言葉に応える者はいなかった。
その時、一人の女子生徒が申し訳なさげに手を挙げた。
「あの……私、雪乃さんに感謝してます」
勇気を出して声を発したのは、少女漫画コンテストで受賞した樋口だった。彼女は立ち上がり、顔を伏せて言葉を続ける。
「雪乃さんが黒板に漫画のことを書いてくれて、私嬉しかったです。そのおかげで友達もできたし、皆に漫画を読んでもらえて……。だから私、雪乃さんには感謝してるんです。ずっと、お礼が言いたかったです」
樋口は小さく頭を下げて、席に着いた。顔が真っ赤になっていた。俺に感謝はないのか、と少し落ち込んだがそう言ってくれて素直に嬉しかった。
「お、俺も!」
次に立ち上がったのはお騒がせナイフ少年の川原田だ。彼はぐっと拳を握り、やがて口を開いた。
「雪乃さんが黒板に書いてくれなかったら、きっと武藤と仲直りできなかったかもしれない。言えなかったことを代わりに書いてくれて、あの時正直助かった。ありがとう」
川原田は一息にそう言うと、席に着いた。
次に立ち上がったのは男女二人だ。両思いの鈍感な岩島と原だ。
「あの……私たち、実は先週から付き合い始めたんです。そのきっかけをくれたのは雪乃さんでした。私も雪乃さんにお礼が言いたかった。ありがとう雪乃さん」
岩島もありがとう、と頭を下げて二人は席に着いた。
まじかよ! と誰かが叫び、騒がしくなる。おめでとう、という声も上がった。
次にギター少年の笹林が手を挙げ、雪乃に礼を言った。
「俺も雪乃さんに感謝してるよ。おかげでライブが盛り上がったよ」
誰かが指笛を鳴らす。俺は少し、このクラスの奴らが好きになってきた。
そして次に立ち上がったのは、無関係なはずの女子生徒だった。はて、あいつのこと黒板に書いただろうか、と怪訝に思っていると、その女子生徒はスマホの画面を見ながら言葉を発した。
「藍田さやかです。誰が黒板に私のことを書いたのか分かりませんが、お礼を言わせてください。あなたのおかげで、赤ちゃんを産む決心がつきました。あのまま一人で悩んでいたら、どうなっていたか分かりません。書いてくれたことで、親や友達にも相談できました。彼にも話せて、大学を辞めて私と赤ちゃんのために働くと言ってくれました。本当に感謝しています。ありがとうございました」
これ、さやかちゃんに伝えてほしいって言われて、と藍田の友達らしき女子生徒は付け加えた。
何故か拍手が沸き起こった。雪乃は戸惑いながら、恐縮ですと言わんばかりにぺこぺこ頭を下げていた。
井浦は親の仇のように俺と雪乃を睨んでいたが、こうなってしまうと何も言えないようで、おとなしく自分の席に座っていた。
「あ、他に何か言いたいことある人はいませんか?」
いつの間にか議長になっていた俺は、生徒たちにそう声をかけた。まだいるだろうと思っていた。皆が言いたいけど言えなかったことを、勇気を振り絞って声に出したのだ。この機会を逃したら、きっともう言えなくなるぞ、と高梨に視線を向けた。
高梨は悟ったのか、意識的に視線を逸らした。
「あの! 僕! 雪乃さんのことが好きでした!」
急に立ち上がって叫んだのは、伊吹だった。お前が言うべきことはそれじゃないだろう、と苦笑した。雪乃はぺこぺこと頭を下げ、【ごめんなさい】と心の中で拒絶していた。
「他にいないようならホームルーム終わりますけど」
議長俺は再度促した。時計を見ると、そろそろ六時間目の授業が終わる頃だった。高梨は俺の視線から逃げるように俯いていたが、観念したようにため息をつき、鞄を持って雪乃の窓際の席まで歩いた。
すでに着席していた雪乃は、高梨を見上げる。高梨は雪乃と目を合わせようとせず、躊躇いがちに鞄に手を入れ、中からぼろぼろのクマのキーホルダーを取り出した。
雪乃の目の色が変わった。その見開いた目には、涙が溜まっていた。
「これ、ずっと渡したかったんだけど、今まで返せなくてごめん。それから、今まで酷いことしてごめん。それから……」
高梨は感極まったのか言葉を詰まらせた。零れた涙を手で拭い、涙声で高梨は言った。
「あの時、いじめられてた私を助けてくれてありがとう。ずっと、令美に言いたかった。遅くなって、本当にごめん」
雪乃の目から涙が零れた直後、予鈴が鳴ってホームルームが終了した。藤木先生は泣きながら、一人だけ拍手をしていた。
そして放課後、俺は席に座り、生徒たちが下校するのを待った。雪乃の席の周りには、数人の女子生徒が集まり、楽しそうに何か話していた。初めて見る光景だった。
数分後、ようやく教室が静かになった。雪乃は二つのクマのキーホルダーを手に持ち、それをじっと見つめている。余程嬉しかったのだろうか。
「なんかどっと疲れたな。でもよかったな。皆雪乃に感謝してた」
雪乃は振り返り、にこっと笑う。
【私はただ黒板に書いただけだよ。頑張ったのは碧くんだよ】
「そんなことない。頑張ったのは雪乃だよ。本当にすごいと思う」
互いに褒め合って、互いに照れて二人で笑い合った。
それから雪乃は立ち上がって、【ありがとう】と頭を下げた。
「何が?」
【私のこと、助けてくれて。嬉しかった】
「ああ、別に。なんか気づいたら立ち上がって、あんなこと口走ってた。自分でもビックリしてる」
よくあんなこと言えたな、と改めて自分でも思う。普段言いたいことを言えない俺が、それも他人のためにやったなんて、数ヶ月前の俺が聞いたら呆れて笑うだろう。雪乃と出会ってから、俺の中で何かが変わったのは事実だった。
【もうすぐ夏休みだね。あっという間だったね】
そうだな、と返事をする。振り返ってみると、いろいろなことがありすぎた一学期だった。
【ありがとう】
雪乃はもう一度、俺に礼を言った。
「何が?」俺ももう一度聞き返した。
【初めて会った日、碧くん、あの時も私を助けてくれたよね。ちゃんとお礼言わなくちゃってずっと思ってた】
雪乃と初めて会った日、俺は入院していて三週間遅れの新学期となった。雪乃はあの日もいじめられていて、確か隠された上靴を探していた。上靴は女子トイレにある、そう教えてやったのが始まりだっけ。なんだかずいぶん前のことのような気がして、懐かしく思えた。
「そういえばそんなこともあったな。いろいろありすぎて忘れてた」
あの時声をかけていなければ、今こうして雪乃と二人で話すこともなく、雪乃は孤独だったんだろうな、とも思った。
【すごく楽しい一学期だった。二学期は、もっと楽しければいいな】
「きっともっと楽しくなる」
【だといいな】と雪乃は笑う。
「そろそろ帰るよ。せっかくクラスの人気者になりつつあるのに、一気に嫌われ者になった俺と一緒にいたら、何言われるか分からないしな」
俺は自嘲気味に笑って立ち上がる。
【ちょっと待って!】と雪乃は心の中で叫んだ。【まだ悩みを解決していない生徒がいるよ】
「誰だよ」俺は首を振ったが教室には誰もいない。雪乃は【碧くんだよ】と俺を指差した。
「俺? 別に悩みなんて……」
【言ったでしょ、私。悩みを抱えてる人は見たら分かるって。碧くん、初めて会った時からずっと悩んでるように見えたから】
言いながら雪乃は教壇の上に立つ。そして黄色のチョークを手に取り、黒板に文字を書き始めた。
『森田碧くんは、言いたいことを言えなくて、悩んでいる』
その文字を見て、胸がちくりと痛んだ。雪乃は見抜いていた。俺の心の闇を。
【何を言えなくて悩んでるのかは分からないけど、誰かに言えなかったこと、伝えそびれたこと、あるんじゃない?】
雪乃はまるで、俺の心の中を覗いたように言った。返答に窮していると、雪乃は続ける。
【ありがとうとかごめんなさいとか、友達になりたいだとか好きだとか、誰にでも言えなかったことって、きっとあると思う。でもそれを言える人って、なかなかいないんだよね。このクラスの人たちもそう。私だってそうだった】
雪乃は穏やかな表情で語りかける。「うん」俺はそれだけ返事をした。
【次は碧くんの番だよ。これからは後悔しないように、素直に生きよう。私もそうする】
「……そうだな。俺もそうするよ。ありがとう、雪乃」
つい先ほど、皆の前で言いたいことを言えた。今の俺ならきっと言える。
「また明日な」
【うん。頑張ってね、告白】
雪乃の最後の言葉が気になったが、構わず踵を返した。きっと雪乃は、俺が誰かに愛の告白をできずに悩んでいる、と思っているのだろう。訂正するのも面倒なので何も言わずに教室を出た。
自転車を走らせ、駅に向かう。
駅の駐輪場に自転車を止め、バス停でバスを待った。素直な気持ちを伝えたい人は眠ったままだけど、それでも伝えようと思った。
ふいにスマホが鳴って、画面を見て驚いた。姉から着信が五件、メッセージが四件届いていた。
『お母さんが目を覚ましたから、早く来て!』
メッセージを見てさらに驚く。マジかよ、と思わず呟いた。最初に届いたメッセージは、一時間以上前だった。
目を覚ましたのなら直接伝えられる。ちょうどよかった、とスマホの画面を見つめたまま微笑んだ。
数分後バスがやってきて、俺は一番前の席に腰掛けた。
早く病院に着いてくれ、と思いながら進行方向を見つめた。
病院に着くと、早歩きで真っ白なリノリウムの床を歩き、エレベーターに乗って三階のボタンを連打する。
三階で降りると、小走りで母さんの病室へ急ぐ。すれ違った看護師に小さく頭を下げて、解放されているドアから病室の中に入った。
「あ、碧! こっち来てお母さんに顔見せてあげて!」
姉は立ち上がって手招きをする。さっきまで泣いていたのか、目と鼻が真っ赤に腫れていた。
「お母さん、碧が来てくれたよ」
姉は母さんの耳元で声をかける。母さんは目を動かして、俺を見た。
【碧、心配かけてごめんね】
母さんは声が出ないのか、心の中でそう言った。
「お母さん、呼びかけたら反応してくれるけど、まだ声が出ないみたい」
「そうなんだ。何ヶ月も眠ったままだったからかな。でも母さん、目が覚めてよかった」
「そうだね。ほら、碧も何か声かけてあげて」
姉は場所を譲ってくれて、俺は母さんのすぐそばの丸椅子に腰掛けた。
母さんと目が合う。けれど俺は、用意していた言葉が出てこなかった。いざ母さんを目の前にすると、照れ臭くて言い出せなかった。今は姉も隣にいるし、また次の機会でもいいか、と思ってしまった。
「ほら碧、お母さんに言うことあるんじゃないの?」
姉に急かされ、分かってるよ、と答えた。
ふいに雪乃の顔が頭に浮かんだ。この場にいないのに、何故だか雪乃にも急かされている気分になった。
分かったよ、言うよ。もう後悔はしたくないから。
心の中で見えない雪乃に語りかけ、俺はゆっくりと口を開いた。
「母さん、今まで反抗したり、生意気なこと言ったり、弁当食べないで残したりしてごめん。早く退院して、また弁当作ってよ。姉ちゃんの卵焼きしょっぱくて、母さんの甘い卵焼きのほうがずっと美味しいんだ。今度からは弁当残さず全部食べるし、家事とか、手伝えることは俺も手伝うし、真面目に勉強もするから、もうどこにも行かないでくれよ、母さん」
言いながら俺は、自分が涙を流していることに気がついた。そのせいで後半は声が掠れてしまった。それでも言いたいことはちゃんと言えた。いつか伝えようと思っていた言葉を、ようやく伝えることができた。雪乃が背中を押してくれたおかげだ、と今は思う。ずっと言えなかった言葉を言えて笑いたいはずなのに、どうしてか涙が止まらなかった。
「死なないでくれてありがとう。目を覚ましてくれてありがとう。ここまで育ててくれてありがとう。毎朝ご飯を作ってくれてありがとう。毎日弁当を作ってくれてありがとう。夜もご飯を作ってくれてありがとう。俺と姉ちゃんを産んでくれてありがとう。本当にありがとう」
泣きながら、思いつく限りのありがとうを母さんに伝えた。まだまだ言い足りない。今日まで言えなかったありがとうと、ごめんなさいがあまりにも多すぎて、何回言っても物足りない。
俺は母さんの骨張った手を優しく握る。強く握りしめたら粉々になってしまいそうな母さんの手を、両手で包み込む。
──母さん、ありがとう。
最後にもう一度、力強く言った。
【優しい子に育ってくれて、こちらこそありがとう】
母さんのその言葉に、俺は嗚咽を漏らして泣いた。
翌朝、俺はいつもと同じ時間に家を出た。
これでようやく平和なクラスに戻ったのかぁ、と安堵しながら学校に向かった。嫌われ者にはなってしまったが、やっと平和な高校生活を送れると思っていた。実際、そうなるはずだった。
「森田碧って、お前?」
学校に着いて三階まで階段を上がり、教室に入ろうとしたところで背後から低い声がした。振り返るとそこには、金髪の坊主頭が立っていた。坊主頭には何本もの線が入っていて、奇抜すぎて俺にはできないな、と呑気に思った。
「そうですけど」
「ちょっと屋上行こうぜ」
金髪に肩を掴まれる。拒否したかったが、力が強くて抵抗できなかった。
こいつは確か、井浦愛美の恋人だ。とにかく喧嘩が強くて、危険な人物だということだけは知っていた。彼の背後には子分と思われるヤンキーが二人いる。
森田碧を袋叩きにしてほしい、と井浦が彼に頼んだのだろう。
「お前さ、黒板に悪口書いたんだってな。男らしくないぜ、そういうの」
悪口を書いたのは伊吹という男です、と言ってやりたかった。言いたくても言わないほうがいい言葉もあるんだな、とこの時に知った。
「とにかくさ、天気いいことだし屋上来いよ」
掴まれた腕を、俺は咄嗟に払った。
「なんだてめぇ。抵抗すんなよ」
闘う、大声で叫ぶ、逃げる、の選択肢の中から、俺は三つ目を選択した。
一瞬の隙を見て、俺は駆け出した。
「おい! 待てよてめぇ!」
三階の廊下に、金髪の怒声が響き渡る。俺は怯むことなく必死に走った。逃げることは、ださいことではない、と俺は思っている。逃げるが勝ち、という言葉がある。今まさに、俺は勝とうとしているのだ。
自分の行動を肯定しながら、登校してきた生徒たちの間を走り抜ける。そして階段を一気に駆け下りる。三階から二階へ、二階から一階へ。
その二階から一階へと続く階段の途中で、事故は起きた。
一階から階段を上がってきた女子生徒がいた。高梨美晴だった。
身体がぶつかりそうになって、俺は咄嗟に身を交わす。その時、不幸にも階段を踏み外してしまった。
あ、と思った時にはすでに手遅れだった。俺の身体は階段の下まで一気に転がり落ちていった。それは一瞬の出来事だった。
身体が停止した直後、全身がズキズキと痛み出す。何より頭を強打したようで、視界がぐるぐると回る。まだ階段を転げ落ち続けているように、焦点が合わない。
「森田! 大丈夫?」
近くにいるはずの高梨の声が、遠くから聞こえた気がした。
ふと、見覚えのある一匹の黒猫が昇降口にいるのが見えた。黒猫は退屈そうに欠伸をした後、去っていった。
俺の意識は、そこで途絶えた。
次に俺が目を覚ました場所は、病院のベッドの上だった。まず真っ白い天井が目に入り、周囲を見回すとすぐにそこが病院であることに気がついた。何故自分が病院にいるのか、すぐには思い出せなかった。身体を起こそうとすると節々が痛み、頭もズキン、と痛んだ。
「あ、碧。やっと起きた」
椅子に座ってスマホをいじっていた姉が俺に気づき、ほっと吐息をもらす。学校帰りにそのまま来たのか、制服姿だった。
「ああ、そっか。階段から落ちたのか」
ようやく何が起こったのか思い出した。目を大きく見開いた高梨を視界に捉えたのを最後に、俺の記憶は途絶えていた。
「こんな短期間で二回も入院するなんて、あんた何やってんの。心配かけないでよ」
「ごめん。それに関しては何も言い返せない」
「いや、言い返そうとすんなし」
姉は苦笑して立ち上がった。外はもう真っ暗になっていて、時刻は夜八時を回ろうとしている。
「お父さんのご飯作んなきゃいけないから、また明日来るね。すぐ退院できるってお医者さん言ってたよ」
「……そっか。分かった」
「ん? どうかした?」
「いや、なんでもない」
姉が俺の異変に気づいたように、俺も自分の身体の異変に気づいた。いつも聞こえていたはずの声が、聞こえなかったのだ。当たり前のように聞こえていた心の声が、聞こえてこなかったのだ。
俺は病室を出ていく姉の背中を見送る。姉が今何を思っているのか、俺の頭に届くことはなかった。
頭を打った衝撃で、元に戻ったのだろうか。それならそれでも構わないが、雪乃の声が聞こえなくなってしまう。そのことが何より怖かった。
その後俺は三日間入院して、連休明けの月曜日から学校に復帰した。幸いなことに脳に異常は見当たらなかったらしい。前回も思ったことだが、本当に調べたのか、と言ってやりたかった。
人間の心の声は、正確に言うと完全に聞こえなくなったわけではなく、途切れ途切れではあるもののまだ少し聞こえるようだった。盤面が傷だらけのCDを再生するような、ところどころ音が飛ぶように声が聞こえるのだ。はっきり聞こえない分、少々もどかしさを感じていた。
「いってらっしゃい。車に気をつけてね」
「姉ちゃんさ、もう母さん目を覚ましたんだから、進学ちゃんと考えたほうがいいんじゃない? 演劇関係の学校に行きたいこと、知ってるよ、俺」
家を出る前に、姉にそう声をかけた。姉は毎日のように進路のことで悩んでいることを、以前から心の声を聞いて知っていた。母さんのことや家事のできない俺と父さんを心配して、姉は自分の夢を諦めようとしていた。
「何言ってるの。お芝居はいいのよ、もう。近くの大学に進学するか、就職するか、そのどっちかにするって決めたから」
「嘘つけよ。あの性格の悪い彼氏と一緒に、演劇の専門学校に行きたいんだろ」
「人の心を覗かないでよ。プライバシーの侵害!」
姉は眉をひそめて言った。最近あの性格の悪い男と交際を始めたことも、心の声を聞いて知っていた。
「家事のことなら心配しなくていいよ。俺がやるし弁当だって自分で作る。だから、姉ちゃんは自分のやりたいことをやりなよ」
姉は少し黙り込んだ後、破顔して答えた。
「分かった。もう少し、真剣に考えてみる。ありがとう、碧」
俺はその時、久しぶりに姉の笑った顔を見た気がした。母さんが倒れてから、姉は一度も笑っていなかったように思う。
姉に微笑み返して、俺は家を出た。
【会社……ねぇかな】
【あの女……まんだな】
【隕石とか……滅亡……かな】
しばらく自転車を走らせていると、サラリーマンや学生の心の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
会社早く潰れねぇかな。あの女欲求不満だな。隕石とか落ちてきて、人類滅亡しないかな。
おそらくそんなことを考えていたんだろうな、と彼らの願望を脳内補正しておいた。
降り注ぐ蝉時雨の中、軽やかに自転車を走らせる。そして緩やかな下り坂に差し掛かり、ペダルから足を離した。この下り坂を越えたら、学校が見えてくる。ブレーキに手をかけ、生温い風を浴びながら勢いよく坂を下っていく。
軽くブレーキを握り、角を曲がる。春先に軽トラックと衝突した事故現場を、難なく通り過ぎる。
「おう、碧。怪我はもう大丈夫なのか?」
通学途中の道で、小泉と合流した。
「ああ、もう大丈夫」
「そうか。それにしても、気持ちのいい朝だな」
俺は空を見上げる。雲一つない快晴で、確かに気持ちのいい朝だ、と思った。
「そういえば碧が休んでる間、すごいことがあったよ」
小泉はにやりと笑って言った。
「すごいこと?」
「ボスギャルが退学になったんだよ」
「え、まじで?」
驚きのあまり思わず赤信号を見落とすところだった。慌ててブレーキを握り、もう一度聞き返す。
「一体何があったんだよ」
「ボスギャルの奴、本当に援助交際してたらしいんだ。それが学校にバレて、警察沙汰にもなって退学になったらしいよ」
「そ、そうなんだ。偶然とはいえ、伊吹すげえな。黒板に書いたこと的中してやんの」
「俺も思った。これでやっと平和になるな。クラスの奴ら、皆ほっとしてたよ」
クラスメイトが退学になって喜んではいけないけれど、皆が安心する気持ちも分かる。小泉の言う通り、これで俺たちのクラスは平和になった。雪乃や高梨は解放され、またきっと二人は仲良くなれるだろう。井浦が退学して一番ほっとしてるのは、もしかしたら藤木先生かもしれない。
前方の信号が青に変わり、俺たちは再び自転車を走らせる。
【高梨さんと……るといいな】
高梨さんと今日も話せるといいな、だろうか。小泉の考えていることは、心の中を覗かなくともなんとなく分かる。
夏休みの予定などを話しながら並走し、二人で学校へ向かう。
教室に入ると、すぐに雪乃と目が合った。
【おはよう】
雪乃はにこりと笑って言った。俺も笑い返して、自分の席に着く。
「碧、階段から落ちたんだって? 大丈夫かよ」
「森田、一学期に二回も入院するなんて、災難だったな」
「階段から落ちる時、どんな感じだった?」
数人の生徒たちが俺の机の周りに集まってくる。誰にも声をかけられることはないだろうな、と思っていたので驚いた。
大変だったよ、と答えるとさらに質問責めに遭う。どうやら階段から転げ落ちて生還した男は、彼らにとってはヒーローらしい。
「まさに地獄に転げ落ちていくような感じだったよ。スローモーションになって、何度もこれまでの人生を振り返れた」
大袈裟に、嘘も交えてそう話した。生徒たちは笑って、満足そうに自分の席へと戻っていった。
心の闇ノートを見せたせいで、何人かの生徒は俺のことを嫌っているようだったが、半数以上は今まで通りに接してくれていた。
窓際の席の雪乃に目を向けると、彼女の周りには樋口や、数人の女子生徒が集まっていて、仲良さそうに話している。雪乃はノートに返事を書いて、彼女らと会話をしていた。
よかったな、と心の中で声をかけてやった。
「夏休み、皆で海行こうぜ。高梨さんも誘おう」
昼休みになって、小泉が提案した。雪乃も誘おう、と俺はさらに提案した。
「いいね。伊吹はどうする? あいつ、卑怯者だから誘うのやめるか?」
「いや、呼んでやろう」
苦笑してそう答えた。
雪乃に視線を向けると、この日も心の中で食材の名前を呟きながら弁当を食べていた。
【ハンバーグ、ご飯……テト、ブロッコ……】
ブロッコリー、毎日のように弁当に入ってるな、と心の中で突っ込みながら姉が作ってくれた卵焼きを頬張る。いつもより少しだけ甘く感じた。
放課後になって、生徒たちは勢いよく教室を出ていく。あと数日で夏休みだからなのか、朝から浮き立っている奴が多かった。
下校していく生徒たちを眺めていて気がついた。昨日よりも人の心の声が聞き取りづらくなったような気がする。時間が経てばやがて、この聞こえる声は聞こえなくなるんだろうな、となんとなく思う。それでいいのだ、それが普通なのだ、と自分に言い聞かせるように何度も頷いた。
この聞こえてしまう力は、もう俺には必要ない。この不思議な力のおかげで、俺は成長できたし、様々なことを学ばせてもらった。
このクラスには、言いたいことを言えずに苦しんでいる生徒がたくさんいた。俺も、雪乃も、高梨も、小泉だってそうだった。このクラスだけではなく、言葉にできずに悩んでいる人はそこら中にいた。
誰にだって、言えなかった言葉はある。
言えずに後悔して、前に進めない人もいる。
いつか言えばいい。誰もがそう思って、毎日を生きている。しかし、それではだめなのだ。言える時に言ってしまわないと、雪乃のように一生後悔する人だっている。伝えたい相手が死んでしまったら、もう伝える手段がないのだ。
だから、そうなる前に、俺たちは言葉にしなくちゃいけないんだ。
この聞こえる力を手に入れ、そして雪乃に出会い、俺はそのことに気づくことができた。雪乃の素直で真っ直ぐな、無色透明の声が俺の背中を押してくれた。彼女がいなければ俺は、今でも変われずにいたんだと思う。
窓から身を乗り出して、外の景色を眺めている雪乃に目を向ける。そよ風が吹き込み、雪乃の髪をふわりと揺らす。綺麗だな、と俺は思った。
「なあ雪乃。放課後のこの時間、今日で最後にしないか」
雪乃は振り返る。どうして? と首を傾げる。
「俺、もう心の声がほとんど聞こえないんだ。たぶんそのうち、完全に聞こえなくなると思う。だから心の中じゃなくて、これからはちゃんと会話しよう。雪乃の声が、聞きたいんだ」
雪乃の心の声は聞こえてこない。潤んだ瞳で俺をじっと見つめている。真っ直ぐで、綺麗な瞳だった。
「雪乃なら、きっとすぐに声を取り戻せる。その日が来たら、またここで二人で話そう。何年経っても、俺は待ってるから」
雪乃の瞳から、涙が零れ落ちた。小さく微笑んで、雪乃は指でそっと涙を拭う。
「雪乃には本当に感謝してる。ありがとう」
雪乃のおかげで、俺は言えなかった言葉を言えたのだ。大切なことに、彼女は気づかせてくれた。
「一緒に帰ろう」
雪乃と二人でいるところを誰かに見られても、今はもう平気だった。鞄を肩にかけ、先に教室を出ようとしたところで、俺の耳に、声が届いた。
「……あり……がと……う」
その声に足を止め、振り返る。雪乃は苦しそうに笑いながら、絞り出すように声を出した。心の声ではなく、雪乃は声を出していた。俺は驚いて、目を見開く。
「……ありが……と……う……ありがと……う」
何度も同じ言葉を、雪乃は繰り返した。咳き込みながら、何度もありがとうと言葉にした。
「……喋った。雪乃が、喋った。すげぇ……」
情けないことに、そんな感想しか出てこなかった。心の声よりも、ずっと綺麗で透き通るような声だった。
「……声……出せた……」
喉元を掴みながら、雪乃は目を丸くして言った。
なんだよ、喋れたのかよ、と俺は笑う。
雪乃も笑った。泣きながら、二人で笑い合った。
自転車を押して並んで歩き、初めて雪乃と一緒に帰った。学校を出てからは二人とも無言だった。教室以外のところで雪乃と二人なんて、少し変な気がした。夢の中にいるような心地でもあった。
もう碧くんと話せなくなるんだ、って思ったら悲しくて、そしたら声が出た、と雪乃はたどたどしい声で言った。
駅まで雪乃を送って、また明日な、と声をかけた。雪乃はうん、と微笑んで駅舎に向かう。
「あ、雪乃!」
駅舎に入ろうとした雪乃を、俺は呼び止めた。雪乃は振り返り、首を傾げる。
「俺、雪乃のこと……」
二人で歩いている時に気づいた。俺は、雪乃のことが好きだ。もう後悔したくないから、言いたいことは言ってしまおう。そう思って雪乃を呼び止めた。
「雪乃のことが……その……なんていうか……あれだよ」
雪乃の口調が移ってしまったのかと思うくらい、上手く言葉が出てこない。雪乃は不思議そうに俺を見つめる。俺は照れ臭くて顔を逸らした。
「だから、雪乃のこと……す、すごいと思ってる。何がって言われたら説明できないけど、とにかくすごいと思ってる。それだけ。また明日な」
俺は雪乃に背を向け、自転車に跨った。恥ずかしくて、早く立ち去りたかった。
やっぱり、まだ言えそうにない。この言葉だけは、もう少し、言えるまで時間がかかりそうだな、と俺は苦笑した。でも、いつかきっと言える。それも近いうちに。なんとなく、そう言い切れるほどの確信があった。
ブレーキを握り自転車を止め、俺は振り返った。
去っていく雪乃の背中を見つめる。
【幸せだなぁ】
雪乃は心の中で、そう呟いていた。
鞄に付けられたクマのキーホルダーが二つ、雪乃が歩くたびに弾む。まるでスキップをしているかのようで、雪乃だけではなく、クマも、幸せそうだった。