翌日の朝早くに登校した俺は、教室に入るとすぐに黒板を確認した。今回のターゲットも雪乃をいじめているグループの一員である、松井加奈子だった。黒板には松井を中傷する言葉が書かれている。
数分後に登校してきた松井は、発狂してその辺の机を蹴り倒していた。
雪乃をいじめている井浦のグループは、高梨をはじめ四人もいる。ということはつまり、明日も伊吹は黒板に悪口を書くつもりなのだろう。明日の朝、伊吹よりも早く登校し、現行犯で捕まえるのが得策かに思えた。
しかし翌日の朝、俺は確かに一番乗りで登校したはずだった。教室には誰もいないし、伊吹が登校してきた形跡もない。それなのに黒板には、グループの最後の一人である宮原の悪口が書いてあった。
『宮原美樹は、風俗店でバイトをしている』
とりあえず俺は、書かれた文字を消した。
その後生徒たちが続々とやってきて、綺麗な黒板を見ては落胆し、不満げな表情で席に着く者が多かった。何故今日は書いてないんだ、と言わんばかりでもあった。無関係の生徒にとっては、朝の黒板の文字は一つの娯楽でもあるのだ。
五番乗りで教室にやってきた雪乃は、黒板を見てホッと吐息をついていた。
「あれ、今日は何も書いてないんだな。つまんねーの。今日は宮原の番だと思ったんだけどな」
登校してきた小泉も、何も書かれていない黒板を見て嘆いた。井浦たちのグループが狙われていることを、皆薄々気づいている様子だった。
井浦と高梨もやってきて、黒板を見て安心して席に着く。自分の番だと思っていた宮原も、安堵して自分の席へ向かう。
【誰だよ消しやがったの。せっかく書いたのに】
伊吹が教室にやってくると、黒板を睨みつけてから巨体を揺らして自分の席に向かっていった。
久しぶりに教室内が平和な空気に包まれる、と思ったのも束の間だった。狙われているのは主に、雪乃をいじめているグループの奴らだ。ということはつまり、やったのは雪乃令美だ、と頭の弱い彼女らは結論づけた。
授業が終わった後の休み時間のたびに、雪乃に対するいじめが一層激しくなっていった。相変わらず高梨だけはいじめの参加に消極的だった。
伊吹は雪乃を守るためにやったのかもしれないが、結局は逆効果で、火に油を注ぐ形になってしまった。
【くそっ、書いたのは雪乃さんじゃないのに、あいつら本当に馬鹿だな】
紙くずを投げつけられている雪乃の後方の席で伊吹は嘆く。これはお前の責任だぞ馬鹿、と言ってやりたい。
【また今日も、バイトが終わったら学校に忍び込んで書いてやる】
また一つ、新たな情報を得た。伊吹の犯行時間は早朝ではなく、夜だったことが彼の心の呟きで判明した。確か伊吹はコンビニでアルバイトをしていると聞いたことがあった。毎晩その帰りに学校に忍び込み、こっそりと黒板に文字を書いていたらしい。呆れるのと同時に、雪乃を守りたいという強い気概を感じた。
放課後、俺は雪乃にこの日得た情報を伝えた。机に書かれた落書きを消しゴムでせっせと消しながら、雪乃は俺を振り向いた。
【犯行時間が分かったなら、止められるね!】
「止めるって言っても、夜の学校に侵入しないといけないし、見つかったらやばいだろうし、俺はちょっと……」
【私は門限があるから、夜は無理かなぁ】
俺が言い終わる前に、雪乃は言葉を被せてくる。その後は無言無心で俺を見つめる。
私の代わりに行ってくれ、そんな言葉が聞こえてきそうな気がした。
「分かったよ。行けばいいんだろ」
【これは、碧くんにしかできないことなんだよ】
これに関しては俺じゃなくてもできそうなものだが、口車に乗ってやることにした。元はといえば俺が人の心を覗いたことから始まったのだ。それを雪乃が黒板に書き、今度は伊吹が真似をして面倒なことに発展したのだ。渋々引き受けたのは、少なからず責任を感じていたからだった。
「そもそも伊吹の奴、どこから侵入したんだろう。普通鍵かかってるよな」
【一階の西側の男子トイレ、確かずっと鍵が壊れてるって聞いたことある。たぶん伊吹くん、そこから入ったんじゃないかな】
「ああ、それなら俺も聞いたことがある」
一階の西側の男子トイレ、普段誰も使わないような場所にあるので、俺自身利用したこともなかった。そこから学校内に忍び込み、警備員の目を掻い潜り三階の教室を目指す。見つかれば停学、もしくは退学だろうか。まさにハイリスクローリターンだ。伊吹は毎晩そんなことをしていたのかと思うと、ほとほと呆れる奴だ。それほどまでのリスクを負ってまで雪乃を助けたいのならば、直接井浦たちに文句を言えばいいとも思う。
【じゃあ今夜、よろしくね】
雪乃はにっこりと笑った後、立ち上がって教室を出ていった。
俺はポケットからスマホを取り出し、小泉に電話をかける。まずは伊吹のバイト先、終わる時間などを調べなければならない。情報通の小泉なら知っているだろうと思った。
スマホを耳に当てたまま鞄を肩にかけ、夕焼け色に染まった教室を後にした。
「夜にこっそり侵入できる学校なんて、今時あるんだね」
夕食後、洗い物をしながら姉は呆れたように言った。それは姉だけではなく、俺も同意見だった。
「田舎の高校だから防犯意識が低いんじゃないの。興味あるんなら俺の代わりに行ってきてくれ」
「嫌よ、夜の学校なんて。気味悪いし、あたし関係ないし」
あっさりと断られ、姉に聞こえないよう小さく舌打ちをする。「今、舌打ちしなかった?」
してないよ、と動揺しながら返事をすると、食器洗いを終えた姉は俺の向かいのソファーに腰掛けた。
「それにしても伊吹くん、雪乃ちゃんのために危険を犯してでも黒板に書いてたなんて、愛を感じるね」
「そうかな。ただのストレス発散のようにしか見えなかったけど」
「もしかして碧、嫉妬してない?」
「するわけあるか。そろそろ時間だな。行ってくる」
懐中電灯を片手に、俺は気が乗らないまま家を出た。
街灯の明かりを頼りに、真っ暗な道を進んでいく。時刻は午後九時半。人通りは少なく、数分に一度通る車のヘッドライトがやけに眩しく感じられた。
「よう。なんかわくわくするな」
しばらく自転車を走らせ、約束の場所で小泉と合流する。彼はTシャツに短パン、リュックサックを背負い、軽装だった。
「言っとくけど、遊びに行くんじゃないからな。伊吹の犯行現場を押さえるのが目的だからな」
「分かってるって! しかしまさかデブキが犯人だったとはなぁ」
最初は一人で行くつもりだったが、巨体の伊吹の犯行を止めるには俺一人では心許なく、急遽小泉を誘った。決して夜の学校に一人で潜入するのが怖かったわけではない。本当だ。
事情を説明すると、小泉は二つ返事で承諾してくれた。小泉も一階のトイレの壊れた鍵のことを知っていたようで、いつかは夜の学校に忍び込もうと思っていたらしい。お前のおかげで俺の夢が実現する、と興奮気味に熱弁していたのは夕方のことだ。
「ところでそのリュックの中は何が入ってんの?」
パンパンに詰まったリュックサックを指差して、俺は訊ねた。
「ああ、これか。ライトにロープにハンマー、それから夜食とカメラと軍手とゲーム機だ」
いまいち用途が不明のものが何点かあったけれど、突っ込むのはやめておいた。
雑談しながら自転車を走らせ、伊吹が働いているコンビニの前に到着した。
さらに待つこと十分、伊吹がコンビニから出てきた。
【くそ店長め、こき使いやがって。無能のくせに】
出てくるなり伊吹は早速文句を垂れる。ぶつぶつと心の中で呟きながら、自転車に乗って学校方面へと向かっていった。俺と小泉は伊吹から少し距離を取って追跡を開始する。
「どうする? 今突撃するか?」
「だめだ。犯行現場を押さえないと意味がない。もう少し泳がそう」
刑事になった気分で、俺と小泉はそんな会話をしながら尾行を続ける。
学校に着くと伊吹は校門の前に自転車を止め、軽々と門を突破する。意外に身軽なやつだなと感心しながら、俺たちも後に続く。小泉のリュックが門に引っかかり、もたもたしている間に伊吹を見失ってしまった。
懐中電灯で足元を確認しながら、西側のトイレの窓へ向かう。夕方帰る前に一度確認していたので、迷うことなく暗闇の中を進んでいく。
ライトを向けると、西側のトイレの窓が開いているのが見えた。伊吹はすでに侵入に成功したようだ。辺りを見回すが、彼の姿はなかった。
「よし、ここから入るぞ。俺が先に行く」
そう言って俺は窓枠に手をかけ、問題なく校内に足を踏み入れた。あのでかい図体でよくここを通過できたな、と改めて感心する。
小泉はリュックを投げたが窓枠に当たり、三回目でようやく成功して俺はリュックをキャッチする。小泉も校内に入り、今のところ一つも役に立っていないリュックサックを渡し、トイレを出る。警備員に見つからないよう懐中電灯を消し、非常灯だけを頼りに静まり返った不気味な校内を進む。
「やっぱ夜の学校って、こえーな。デブキの奴、よく毎晩一人で来れるよな。さすがボスギャルたちを敵に回すだけあって、度胸あるよあいつ」
小泉が小声で伊吹を褒め称える。まったく同感だった。
三階まで来ると、俺たちは足音を殺し、忍者の如く忍び足で教室の前まで行き、立ち止まった。小泉はスマホを取り出し、カメラを起動させる。リュックの中にカメラがあると言っていたが、それはなんのために持ってきたのだと突っ込みを入れたいところだったが、状況的にやめておいた。
教室のドアが開いていたので、そっと中を覗き込む。真っ暗な教室の中で、伊吹は黒板の前に立ち、今まさに文字を書いているところだった。黒板にチョークを擦り付ける音が、教室内に響いていた。
俺たちは息を潜めて、伊吹が書き終わるまで待った。
「よし! これでいいだろう」
伊吹のその声を合図に、俺たちは突撃した。小泉はスマホのライトをつけ、連写機能を作動し写真を撮る。
「そこまでだデブキ! 観念しろ!」
伊吹の驚愕の表情がライトに照らされる。あまりの突然の出来事に、伊吹の巨体は停止していた。
俺は黒板に懐中電灯を向ける。今朝書いてあったように、宮原を攻撃する言葉がそこにはあった。
「お、お、お、お前ら、こここんなところで何してんだ」
伊吹は動揺しすぎて何度もつっかえる。うるせえよデブキ、静かにしろ、と小泉がうるさい声で叫ぶ。警備員が駆けつけて来ないか冷や冷やした。
「伊吹、お前雪乃のためにこんなことしたんだろうけど、思いっきり逆効果だから、それ」
言いながら俺は黒板消しで文字を消していく。
「え、そうなの? デブキ、もしかして雪乃さんのこと好きなの?」
小泉の問いかけに、伊吹は俯いて答えない。小泉はそれをイエスと捉えたようで「だとしたらお前、見直したよ」と感嘆の声を上げた。
「あいつらが悪いんだよ。雪乃さんをいじめるから」
伊吹は床に座り込み、力なく言った。月明かりに照らされた伊吹の表情は、どこか哀愁を帯びていた。
「特に悪いのは高梨美晴だ。あいつは最低の女だよ」
伊吹はさらに続ける。高梨に好意を寄せている小泉はそれに反論する。
「なんでだよ。確かにいじめは良くないけど、一番最低なのはボスギャルだろ」
「最初にいじめられてたのは高梨なんだ。一年の頃だ。元々井浦と高梨は仲が良かったみたいなんだけど、男関係でいざこざがあったとかで、仲間外れにされて無視されてたんだ」
一見してあの二人は仲が良さそうに見えるが、俺には分かっていた。高梨は実は井浦に嫌悪感を抱いていて、グループを抜けたがっている。けれど再びターゲットにされることを恐れて、自分の立ち位置を守ろうとしているのだ。
「それを知って雪乃さんは、いじめられてる高梨を助けたんだよ。隣のクラスで起こったいじめのことなんて放っておけばいいのに、高梨を助けたせいで今度は雪乃さんがいじめられるようになった。高梨は助けてもらったのに雪乃さんのいじめに加わって、最低のクズ女なんだよ」
その話を聞くと、さすがの小泉も反論できないようだった。雪乃と高梨は中学の頃、仲が良かったと聞く。仲良しの高梨がいじめられていて、雪乃は見て見ぬ振りができなかったのだろう。二年になって井浦と同じクラスになってしまったことは、雪乃にとっては不幸なことだった。
ふと、雪乃をいじめていた高梨を思い出す。彼女はいつも、心の中で雪乃に謝罪しながらいじめに加担していた。伊吹の言葉を聞いて、高梨の言動に合点がいった。
「僕も一年の頃、同じクラスの男子にいじめられてて、皆に無視されて、毎日が地獄だった。でもそんな時、僕に優しく声をかけてくれたのが雪乃さんだったんだ」
伊吹はさらに続ける。彼の一人称が僕だったことに驚きつつ、相づちを打つ。
「その時は雪乃さん、まだ話すことができたんだ。でもあいつらのせいで、また話せなくなったんだ」
確か雪乃は、双子の姉が亡くなってから言葉を発せなくなったり、また発せられるようになったりと病気を繰り返していると高梨が言っていた。伊吹の怒りも分からなくはないが、だからといって嘘を書いて人を傷つける行為は許されることではない。
「俺もそれは聞いたことがある。雪乃さん、元々口数は少なかったらしいけど、前は喋れたって誰かが言ってた」
小泉が口を挟んだ。知っていたのなら最初からそう教えろよ、と思った。高梨に訊くまでは、雪乃は生まれつき喋れないのだと俺は思っていた。
「クマのキーホルダーだ」
「クマのキーホルダー?」
俺は思わず聞き返した。雪乃がいつも鞄に入れている、あのクマのことだろうか。
「亡くなった双子のお姉さんとお揃いのキーホルダーらしいんだ。二つあったうちの一つを井浦に盗られた時、雪乃さん過呼吸になっちゃって、次の日から上手く言葉を発せなくなったんだ」
ふと、時々クマのキーホルダーを握りしめている雪乃の姿を思い出した。クマを見つめている時の雪乃の表情は、いつも寂しそうで、いつも辛そうだった。キーホルダーなのに鞄の中に隠している理由が、なんとなく分かった。
「なるほどな。でもなぁ、デブキのやってることもいじめと変わらないぜ。もうやめろよ、こんなこと。誰も得しない」
小泉にしてはまともなことを言った。伊吹は悄然と項垂れていて、まさにクマのテディベアのように見えた。
「お前ら、どうせ言うんだろ、皆に。もう僕は終わりだ。この学校ではもう生きていけない」
「なに泣いてんだよデブキ。別に俺らはチクる気はないけど。なあ碧」
ああ、と俺は返事をする。本当か? と伊吹は顔を上げる。彼のメガネの奥の小さな瞳が月明かりに照らされ、きらりと光った。
「本当だよ。でもその代わりちゃんと謝れよ、井浦たちと、それから雪乃に」
「え……」
俺は暗くて何色かも分からないチョークを手に取り、伊吹に手渡した。
「匿名でいいから、謝罪の言葉を黒板に書くんだ。それで許してやる。あいつらが許してくれるかは分からないけど」
伊吹は数分の間チョークを見つめたまま固まり、そしてようやく立ち上がってチョークの先端を黒板に押し当てた。
伊吹は迷いなく黒板に文字を書き続け、「これでいいか?」と振り返る。
小泉が黒板にライトを当てる。書かれた文字を見て俺と小泉は頷き合う。
「よし、帰ろうぜ」
結局ライト以外出番がなかったリュックサックを背負い、小泉は教室を出ていく。
俺も教室を出ようとしたところで、一度後ろを振り向く。伊吹は黒板を見つめ、立ち尽くしていた。
「どうした、伊吹。早く帰ろうぜ」
「雪乃さんに、悪いことしちゃったなぁ。僕のせいで、犯人だと疑われちゃって、本当に申し訳ないよ」
伊吹は黒板に目を向けたまま、ぼそりと呟いた。
「その気持ちがあるなら大丈夫だ。きっと雪乃に伝わる」
そうかなぁ、と伊吹はため息交じりに言う。
「おい! 早く行こうぜ! 警備員が来たら厄介だ!」
廊下の先から小泉が場違いな声で叫ぶ。お前のその声量のほうが厄介だよ、と突っ込みを入れると、伊吹は笑った。
「でも森田、なんで僕が黒板に書いてたこと知ってるの? この時間帯に学校に忍び込んでることも、よく知ってたね」
真っ暗な廊下を進みながら、伊吹は訊ねる。説明するわけにもいかず、俺は「偶然だよ」と笑って誤魔化した。
「いってらっしゃい」
いってきます、と姉の言葉に返事をして家を出る。大きな欠伸をしてから自転車に跨り、ペダルを漕いでいく。
昨日は興奮気味であまり眠れなかった。夜の学校に侵入。それが非日常的で帰宅してからも気持ちが高ぶったままだった。
途中で小泉と合流し、並走して学校へ向かう。
教室に着くと、予想通り生徒たちは黒板に注目していた。雪乃もぽかんと口を開けて、席に座ったまま黒板を見つめていた。
『井浦さん、高梨さん、松井さん。変なことを書いてしまい、申し訳ありません。全て、嘘の情報を書きました。本当にごめんなさい。
それから雪乃さん、あらぬ疑いをかけてしまい、すみませんでした。雪乃さんは悪くないです。本当にごめんなさい。
皆さん、いろいろとお騒がせして、申し訳ありませんでした』
ピンク色のチョークで書かれた文字を、皆食い入るように見つめている。俺と小泉は頷き合う。
「は? なにこれ、うざいんだけど」
登校してきた井浦は黒板を睨みつける。反対に高梨は、ほっとした表情を見せて自分の席へと向かっていった。
数分後やってきた伊吹は、黒板には目を向けず席に座る。教室内の穏やかな雰囲気を感じ取ったのか、頰が緩んでいた。
【昨日、上手くいったんだね。伊吹くん、美晴ちゃんたちに謝ってて偉いね】
放課後、生徒たちが下校した後に雪乃は満足そうに言った。効果があったのか、この日は雪乃に対するいじめは緩和していた。
「伊吹、雪乃に感謝してたよ。一年の頃、優しくしてくれて嬉しかったって」
【一年の頃? 私、何かしたかなぁ】
雪乃は首を傾げる。伊吹に優しく声をかけたことを忘れているようだ。
【でも、これで一件落着だね。他に悩んでる人、もういないかな】
「いるにはいるけど、わざわざ取り上げる必要のない悩みばっかだよ。それより雪乃はどうなんだよ」
前にも一度訊いたことはあったが、もう一度振ってみた。すると雪乃は突然口を開き、何かを発しようとしていた。
「どうした? 話せるのか?」
「う……あ……う……」
雪乃は両手で喉を掴み、必死に声を出そうとしている。
「大丈夫か? なんか飲むか?」
喉が詰まっているわけではないのに、俺は焦ってそんなことを口走る。雪乃は泣きながら、ゴホゴホとむせていた。
【だめ……だったぁ。昨日は、少し出たのに】
雪乃は心の中でも苦しそうに言った。涙を拭いながら、彼女は笑ってみせた。
「発声の練習? みたいなことしてるの?」
【練習というか、リハビリというか。やっぱり、クラスの皆とも話したいし、碧くんともちゃんと声に出して話したいし】
雪乃の言葉に、確かにそうだよなと思った。一日中、誰とも話せないなんて辛いに決まっている。いや雪乃の場合、一日どころではないのだ。もう何ヶ月もの間、誰とも言葉を交わしていないのだ。それがどれほど苦痛であるのか、俺には想像できなかった。
「これからは人の悩みなんか考えなくていいから、まずは自分のことを一番に考えるべきだと思う。俺にできることがあるなら協力するし、なんでも言ってくれていいから」
雪乃はキョトンと目を丸くする。泣いたからか目と鼻が少し赤くて、幼く見えた。
【ありがとう。じゃあ、何かあったら頼るね】
雪乃の素直な言葉が照れ臭くて、俺は顔を背けて立ち上がる。
「じゃあ、また明日な」
結局この日、クマのことや高梨のことは訊けず、雪乃を残して教室を後にした。
「ちょっと話があるから、今日の放課後時間ある?」
翌日の昼休みに、俺は一人で廊下を歩いていた高梨に声をかけた。いつも一緒にいる井浦やその他の女子はトイレに行ったようで、ようやく高梨が一人になったタイミングで彼女を捕まえた。
「まだ昼休み時間あるから、話なら今聞いてもいいけど」
高梨は振り返り、怪訝そうに俺を見つめる。
「今はやめとく。放課後、視聴覚で待ってる」
そう言って俺は踵を返し教室に戻った。伊吹のあの話が、ずっと気にかかっていた。雪乃が井浦に盗られてしまったという、もう一つのクマのキーホルダー。以前高梨がそれを手にしているところを見たことがあった。そのことについて、俺は高梨に訊こうと思っていた。
放課後、高梨は先に教室を出ていった。俺は数分遅れて二階にある視聴覚室へ向かった。
左右に首を振って、誰も見ていないことを確認してから視聴覚室の扉を開けた。中に入ると、高梨は暇だったのかホワイトボードに絵を描いていた。犬の絵上手いね、と褒めるとこれはアルパカだ、と怒られた。
「雪乃のことで話があるんだけど」
早速本題に入った。高梨と二人で視聴覚室にいるところを誰かに見られたら、学年中の男子を敵に回しかねない。さっさと話を終わらせて速やかに立ち去りたかった。
「……なに?」
高梨は分かりやすく嫌な顔をした。雪乃をいじめていることを咎められると思ったのかもしれない。
「一年の頃、高梨は井浦にいじめられてて、高梨を庇った雪乃がいじめられるようになったって聞いたんだけど、その話は本当?」
高梨の目が泳ぎ出した。明らかに動揺していて、俺と目を合わせようとしない。嘘をついても心の声が聞こえる俺には通用しないが、これでは心の声を聞くまでもなかった。
高梨は俺に対して嘘は通用しないと踏んだのか、黙って頷いた。伊吹が言っていたことは、真実だったようだ。
「私のこと、最低だって言いたいの? わざわざそんなことを言うために、私を呼び出したの?」
そうじゃないよ、と否定した。俺は高梨を責め立てるつもりで呼び出したわけではなかった。女同士のねちねちとした面倒な人間関係は、昔から姉に嫌というほど愚痴を聞かされてきたのだ。多少は理解しているつもりだ。
「だったら、何が言いたいの?」
「雪乃が持ってるクマのキーホルダー、高梨も同じやつ持ってるよな。あれって、元々雪乃が持ってたものじゃないの?」
おそらくそうだろうけれど、念のため確認してみた。すると高梨の目が再び泳ぎ出した。やはりな、と確信した。
「井浦に盗られたって聞いたんだけど、どうして高梨が持ってるんだ」
高梨はため息をついて、やがて観念したように話を始めた。
「一年の頃、愛美が令美の鞄から盗んだのよ。それが双子の姉の形見だって知っていながらね。踏みつけてカッターで切り刻んで、それを私に寄越してきたの。どこかに隠してって」
顔を歪めて苦しそうに高梨は話す。そして鞄からぼろぼろのクマのキーホルダーを取り出した。薄汚れていて、継ぎ接ぎだらけのクマだ。高梨が修復したのだろう。
「これ、本当は令美に返したいんだ。でもこんな状態だから、令美がもっと傷つくかもしれないし、返したら愛美に何を言われるか分からないし、どうしたらいいのか分からなくて」
「雪乃の大切なものなんだから、返したほうがいいと思う。あいつ、きっと喜ぶよ」
「そんなに簡単に言わないでよ。こっちも、いろいろと大変なんだから」
高梨は保身のために、クマのキーホルダーを雪乃に返せないでいる。このクラスで生きていくには、現状そうするしかない。誰もが保身に走り、雪乃を救えないでいるクラスの連中には、高梨を責める権利はない。それは俺自身にも言えることで、だから俺は、キーホルダーを返したほうがいいと思う、と控えめに言うことしかできなかった。
「これさ、森田が令美に渡してくれない? 愛美にバレたら困るから、鞄には付けないでって言っておいてほしいんだけど」
高梨はぼろぼろのキーホルダーを俺に手渡そうとしたが、俺はそれを受け取らなかった。
「それを雪乃に返すのは、俺の役目じゃないよ。高梨が返すべきだと思う。雪乃に一言謝って、高梨の手で返すべきだと俺は思う」
これは雪乃と高梨二人の問題なのだ。俺が関わるのは違うと思った。
「無理よ、そんなの。だって……」
「そういうわけだから、頼んだ」
「森田、ちょっと待ってよ」
縋るような高梨の声を無視して、俺はそのまま視聴覚室を出た。
雪乃はまだ教室にいるだろうけれど、今日は寄らないで帰ることにした。今頃雪乃は、一人寂しげに空を見上げているのだろうか。吹奏楽部の演奏が薄っすらと聴こえてくる廊下を歩き、階段を下った。
それから二週間が過ぎて、俺は六月のカレンダーを破り捨てた。
この二週間は割と平和だった。雪乃に対するいじめは相変わらずだったが、いつも通りの騒がしいクラスに戻った。
あれから一度だけ誰かがふざけて黒板に文字を書いていたようだが、あまりにもくだらない内容で誰もが素通りして、恥ずかしく思ったのかそれ以降は黒板に文字が書かれることはなかった。
雪乃の声も未だ戻らず、俺は俺で懲りずに毎日放課後に雪乃と会話をして、たまに姉と母さんのお見舞いに行く、という日々を過ごしていた。
そして再び事件が起きた。連日うだるような暑さが続き、軽く夏バテ気味だった金曜の昼。俺は弁当を食べ終わると、スマホのゲームをしていた。他にやることがなく、ゲームで時間を潰していた時にそれは起こった。
「おいなんだよこれ! 黒板に悪口書いてた犯人、デブキだったのかよ!」
その声は教室中に響き渡った。俺はゲームを中断し、声がしたほうに目を向ける。名前は忘れてしまったが、お調子者の男子が叫んだ声だった。
「おい、スマホ返せよ! 勝手に見るなよ!」
お調子者からスマホを取り返したのは、なんと小泉だ。そのやり取りを見て、俺は何が起きたのか悟った。
おそらく小泉は、見られてしまったのだ。あの日連写して撮った、伊吹の犯行現場の写真を。
「ねえ、今の話、詳しく聞かせて」
立ち上がったのは井浦だ。伊吹は自分の席に座ったまま、でかい身体を小さく丸めていた。
「小泉のスマホの中に写メがあったんだよ。デブキが夜の学校に侵入して、黒板に文字を書いてる写メ!」
井浦はおろおろしていた小泉の手から、スマホを奪い取った。
井浦はスマホの画面を凝視した後、無言で伊吹の席へ向かう。
「これ、どういうこと? あんたがうちらの悪口を黒板に書いてたの?」
伊吹はさらに身体を小さくして、俯きがちに怯えていた。俺は見ていられなくて、視線を逸らした。小泉と目が合って、ごめん、と口だけ動かしていた。俺じゃなくて伊吹に謝れよ、と思った。
「おい! なんとか言えよデブ!」
井浦の甲高い声が響く。これは因果応報という他ないだろう。伊吹には悪いけど、自分が蒔いた種なのだ。当然の報いを受けるべきだと思った。
写真を消し忘れた小泉の失態とはいえ、俺たちは約束通り秘密を厳守したのだ。俺に落ち度はないはずだ。ここはただの傍観者に徹するほうが得策だろうと判断して、俺はスマホのゲームを再開した。
「お前がやったのかって!」
井浦が声を張り上げた。俺はモンスターを駆逐しながら聞き耳を立てる。聞こえてくるのは井浦の声だけで、伊吹は黙秘を貫いていた。
ガタンッと椅子を引く音が聞こえたのは、ボスキャラにやられてゲームオーバーになった時だった。スマホをポケットに入れ、音がしたほうに目を向けると、雪乃が机に手をついて立ち上がっていた。
窓際の列の、前から三番目の席。突然立ち上がった雪乃に、教室にいる生徒たちの視線が注がれる。雪乃はゆっくりと振り返り、息を吸って、吐き出すのと同時に声を出そうとした。
「い……う……なぃ……」
声が掠れていて、何を言おうとしているのか聞き取れない。雪乃は涙目になりながら、声を出そうと必死に頑張っていた。
「なんなのこいつ、いきなり。まじウケる」
井浦がそう言って笑うと、何人かの生徒も釣られて笑い出す。伊吹は俯いていた顔を上げ、心配そうに雪乃を見つめていた。
言いたいことがあるならはっきり言えよ、と井浦はさらに笑う。雪乃が喋れないことを知っていながら、そんな心無いことを言う井浦にふつふつと怒りが込み上げてきた。
その時だった。雪乃は声を出すのを諦めたのか、小走りで黒板の前まで行き、黄色のチョークを手に取った。そして背伸びをして黒板にチョークを押し当て、文字を書き始めた。
何を書くのか、この場にいる全員が黒板に注目する。打ち合わせなどしていないので、雪乃が何を書こうとしているのか、俺にも分からなかった。
『伊吹くんは悪くないです。全ては私が一人でやったことです』
やめろよ。何を書いてんだよ。俺は心の中で叫んだ。
『藍田さんのことも、川原田くんと武藤くんの時も、他の人のも全部私が書きました』
違うだろ。俺も一緒にやったことだろ。なんでそんなこと書くんだよ。声に出せないから、俺は心の中で叫ぶ。
『私は病気で声が出ません。だから、こうして黒板に書きました。不快な思いをさせてしまった方々、本当にごめんなさい』
どうして勝手なことしたんだよ。これじゃあクラスの全員を敵に回してしまったようなものじゃないか。
書き終わると雪乃は振り返り、深く頭を下げた。最後まで俺は、声を発することができず、雪乃を止めることもできなかった。
【碧くん、勝手なことしてごめんなさい】
雪乃は頭を下げたまま、心の中で俺にそう言った。
【どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう】
心の中でそう繰り返していたのは伊吹だった。
井浦は無言で教壇まで歩き、雪乃の髪の毛を鷲掴みにし、無理矢理顔を上げさせた。
「お前がやったのか、雪乃。いい度胸してんじゃん」
痛みに雪乃の表情は歪む。誰か助けてやれよ、と終始沈黙している生徒たちを見回す。
誰もが葬式に来たような暗い顔で俯いていた。
【これは自業自得だよ】
【余計なことしなきゃよかったのに。馬鹿だな】
【雪乃が悪い。井浦やっちまえ】
【雪乃の奴、性格悪すぎるだろ】
【黒板に悪口書くなんて、陰険な女ね】
聞きたくない言葉の数々が、頭に飛び込んでくる。ふざけるな! と声に出して叫びたかった。雪乃はお前らのために、いじめを見て見ぬ振りをし続けてるお前らの心を救うために、あれこれ考えて尽力したというのに。どうして報われないのか、俺は悔しくて唇を噛んだ。
「ちょっと便所行こっか」
井浦は雪乃の髪の毛を引っ張り、教室の外へ連れて行こうとする。雪乃は抵抗し、嫌だと首を振る。
【なに抵抗してんだよ。お前が悪いんだろ】
【さっさと行けよ。せっかくの昼休みが終わっちまう】
【便器に頭からバッシャーン、かな。見てみたいなぁ】
生徒たちの感情のない声が、俺の頭に届く。
誰か勇敢な奴はいないのか、と何度も教室を見回すが、そんな奴は一人もいなかった。
声が出ない。足が動かない。俺はそんな自分の怯懦を呪った。何もできない自分に対し、悔しくて涙が出そうだった。
「おい! 早く来いよ! 美晴も手伝ってよ!」
高梨の身体がビクッと跳ねた。突然井浦に声をかけられ、彼女は怯えた表情で二人を見ていた。どうしたらいいのか分からず、高梨は呼びかけに応えられずにいる。
「早く手伝ってよ! こいつ、まじムカつく」
「う、うん」
高梨はおろおろしながら教壇に上がり、雪乃の背中を押す。押すというより、背中にそっと手を置いているようだった。
【お願い、令美を助けてあげて】
高梨と目が合うと、彼女は心の中で訴えかけてくる。俺は焦ってすぐに視線を逸らした。一年の頃雪乃に助けてもらったんだから、今度はお前が助けてやれよ、と思ったが当然思っただけでは高梨には届かない。
雪乃は苦痛に顔を歪め、必死に抵抗を続ける。ぽたぽたと、床に涙が零れ落ちていた。
なんとかしてやりたい気持ちはある。しかしあるのは気持ちだけで、それを実行に移す勇気はなかった。こういう時に頼りになる小泉も、俯いて決まりの悪い顔をしていた。
──助けて!
その声が頭の中で反響したのと、俺が立ち上がったのはほぼ同じタイミングだった。
いきなり立ち上がったことで、クラス全員の注目を浴びる。井浦も動きを止め、俺を睨みつける。
「どうしたの森田。そんな怖い顔して。なんか文句あるの?」
井浦は威圧的な声で言った。文句なら山ほどある。しかし、声が出てこなかった。何故立ち上がってしまったのか、自分でも分からない。雪乃の心の叫びが俺の身体を突き動かした、という他ない。
教室内は静まり返り、この場にいる全生徒が俺の言葉を待っている。しかし俺は、声を失っていた。
結局一言も声を発せないまま予鈴が鳴り、動きを止めていた生徒たちはそれぞれの席に戻っていく。教壇の上で膝をついていた雪乃と目が合い、俺はすぐに視線を逸らして着席した。
何も言えなかった自分が情けなかった。俺だって共犯者なのだ。むしろ主犯格でもある。雪乃を庇えなかったことが何より悔しかった。
俺は小学生の頃から、何度もいじめを目の当たりにしてきた。いじめる側、いじめられる側、そのどちらにも属さず、常に中立の立場にいた。卑怯だとは分かっている。けれど俺は、いつだって無関係でいたかった。
だから俺は今回も、保身のために雪乃を救えなかった。
今までいじめられていた生徒たちは一様に、『助けて』と目で訴えかけていた。俺は救いを求める彼らを黙殺し、見て見ぬ振りをして逃げてきた。
別に『助けて』と直接言われたわけではないし、仲の良い奴がいじめられていたわけでもない。しかし今回はどうだ。俺に向けられた言葉かどうかは判然としないが、『助けて』とはっきりと聞こえた。それに仲が良いとは言い難いが、雪乃は俺とは無関係の人間ではない。
立ち上がったものの、俺は何もできなかった。俺はどうすればよかったのか、なんて言えばよかったのか。
五時間目の授業の間、俺は繰り返しそんなことを考えていた。
五時間目の授業が終了し、六時間目の授業も平和に、何事もなく過ぎていった。
小泉のスマホに残っていた画像は、伊吹が黒板に文字を書こうとしているものの、肝心の黒板の文字が写っていなかった。あれだけでは決定的な証拠にはならず、伊吹が糾弾されることもなく、自供した雪乃一人の犯行として片付けられた。あの日小泉を連れて行ったことを、少しだけ後悔した。
放課後はいつも通り騒がしく、生徒たちは足早に下校していく。
この日はいつもより早く教室が空になった。空といっても、窓際の席には雪乃がいる。彼女はこんな日にも、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「派手にやられたな。あの女、ほんとに凶暴だよな」
何もできなくてごめん、と一言謝りたかった。しかし口を衝いて出てきたのは、そんな言葉だった。
【そうだね。髪って、引っ張られると痛いんだね】
窓の外を眺めたまま、雪乃は当たり前のことを呟いた。本当に強い女だよな、と思った。
「どうして伊吹を庇ったんだよ。雪乃が犠牲になる必要なんてなかったろ」
【だって伊吹くん、私のためにやってくれたんでしょ? だったら、私のせいでもあるから】
「なんでそうなるんだよ。伊吹が勝手にやったことなんだし、あいつが報いを受けるべきだったんだよ」
【いいの。私はああいうの慣れてるから。全然平気だから】
昼休みの雪乃は全然平気そうには見えなかったが、本人がそう言うのなら何も返す言葉がなかった。
雪乃は窓を閉めて自分の席に座る。ただ無心で、何も書かれていない綺麗な黒板を見つめていた。
「前から訊きたかったんだけど、雪乃はどうしてこんなどうしようもないクラスの連中のために、あんなことを黒板に書いたんだよ。見返りなんてないのに」
【……このクラスの皆には、私のようになってほしくないから】
黒板を見つめたま雪乃は答える。私のようにとは、何を指すのか分からなかった。
「私のようにって、どういう意味?」
【私のように、言いたいことを言えずに後悔してほしくないから】
少しの沈黙の後、雪乃は続ける。
【私ね、昔からそうだったんだ。自分の思ってることがなかなか相手に伝えられなくて、そのたびに後悔してた。だから皆には、そうなってほしくなくて】
それをいうなら俺もそうだった。いつも言いたいことがあっても何も言えずに終わってしまう。思えばこのクラスには、そういう生徒が多かった。
【一人で抱え込んでて、誰かに相談すれば解決することもあるのに、それでも勇気がなくて打ち明けられないのって、どうしようもなく辛いんだよね。私も経験あるから力になりたかった】
「まあ確かに、一人で悩んでる奴いっぱいいたな。どうしようもない悩みばっかりだったけどな」
【私、そういう人の笑顔を見るとね、なんとなく分かるの。ちゃんと笑えてないっていうか、笑顔に影があるっていうか。なんとなくだけどね】
言われてみればそうかもしれない。妊娠をひた隠しにして、一人で抱え込んでいた藍田さやか。親友に直接話していれば解決していたであろう、お騒がせナイフ少年の川原田順也。両思いであるはずが、互いに鈍感で奥手な岩島と原。いつも一人ぼっちで、だけど本当は輪の中に入りたかった天才漫画少女、樋口。片思い中のクラスメイトに演奏を見に来て欲しかったギター少年、笹林。
雪乃の言う通り、彼らの笑顔はどこかぎこちなく、上手く笑えていないように見えた。彼らだけではなく、雪乃や高梨もそうだ。もしかしたら俺もそうなのかもしれない。
このクラスの生徒たちは皆、胸に秘めた思いを叫べずにいる。勇気を振り絞って声に出していれば、何かが変わっていたはずなのに。雪乃がいなければこのクラスは、今頃どうなっていただろうか。考えたくもなかった。
「雪乃にも言えなくて後悔したことって、やっぱあるんだな。てゆーか喋れないんだから、毎日そうだよな」
【……うん、まあね】
雪乃は俯いて手元に視線を落とした。彼女の手には、クマのキーホルダーが握りしめられていた。
「もしかして、双子のお姉さんのことで後悔してるの?」
雪乃は、ハッとして俺を振り向いた。【どうして私が双子だって知ってるの?】
高梨に口止めされていたのを思い出し、口を噤んだ。
【美晴ちゃんに聞いたの?】
雪乃の問いに、俺は「風の噂で」と適当に誤魔化した。雪乃は納得していない様子だったが、それ以上は訊いてこなかった。
【そうだよ。私はお姉ちゃんに、お姉ちゃんが生きてる時にたくさん感謝の言葉を伝えればよかったって、毎日思ってる。それからごめんねって、たくさん謝りたい】
雪乃の姉は、暴走した車から雪乃を守って亡くなったのだと、高梨が言っていた。何の前触れもなく、ある日突然姉が亡くなったのだ。言いそびれたことは腐るほどあるのだろう。
【私ね、昔から気が弱くて、今みたいにいじめられてばっかりだったんだ。でもお姉ちゃんが、いつも私を守ってくれた。お姉ちゃんがいなかったら、私はたぶん学校に通えてなかった。もっとたくさん、お姉ちゃんにありがとうって言えばよかったって、ずっと後悔してる】
雪乃は一息に言い終わると、今さら後悔しても遅いんだけどね、と付け加えた。
言いたいことを言えない人たちの気持ちが痛いほどよく分かる、と雪乃は言っていた。自分のようにはならないでほしいと、彼女は強く願っていた。
これ以上自分と同じ苦しみを味わう人が減ればいいと思い、雪乃は黒板に生徒たちの悩みを書き始めたのだ。そして見事に、雪乃は生徒たちの心を次々に救っていった。俺にはそんなことできないな、と感嘆のため息をついた。
雪乃にかける言葉が見つからず、俺は沈黙を選んだ。雪乃はまだ、手元のクマのキーホルダーを愛おしそうに見つめていた。
井浦に奪われてしまったという、もう一つのクマのキーホルダー。それがあれば雪乃の心の傷は少しは癒えるだろうか。似たようなキーホルダーを買ってきても、きっとそれでは心の穴は埋まらないのだろう。今は高梨が持っているが、彼女が言っていたように今さらぼろぼろのクマを返しても、さらに心の傷が深まるだけなのかもしれない。
結局俺はそのまま何も声をかけてやれず、教室を後にした。
誰もいない静かな廊下を歩く。この日も遠くから吹奏楽部の演奏が聴こえる。なんの曲を演奏しているのかは分からない。
雪乃の言葉を頭の中で反芻しながら、階段を下っていく。
──言いたいことを言えずに後悔してほしくない。
考えてみれば俺も、後悔してばっかりの人生を送っていた。意地を張ってありがとうやごめんねを、言えない人間だった。
中学の卒業式では、三年間好きだった同級生に、俺は最後まで『好きです』という言葉が言えなかった。周りの協力もあって卒業式が終わった後、彼女を校舎の裏に呼び出した。これで最後なんだから、告白をしようと思っていた。しかし結局、俺は何も言えなかった。振られるのが怖くて、振られた後の自分を想像して、勇気が出なくて言い出せなかった。
彼女は別の高校に進学して、それ以来一度も会っていない。当時、今みたいに人の心の中を覗けていたなら、彼女の考えていることを読み取り、告白する、しないの判断ができていたのに。
そんなことを考えても無駄だとは分かっていても、どうしても考えてしまう。肩を落としながら階段を下り、学校を出た。
帰り道の途中で、姉から着信があった。母さんが目を覚ました、との連絡が病院から来たらしい。
俺は自転車を飛ばし、姉が待つ駅へ急いだ。突然のことに、胸が騒ついた。
あれほど鬱陶しいと思っていたにもかかわらず、母さんが倒れたと知った時はやっぱり悲しかった。何を言われても反抗したり弁当も毎日残したりと、とにかく俺は親不孝者だった。生意気でごめん、今までありがとう。その言葉を母さんにどうしても伝えたかった。言えないまま後悔していたことが、俺にもたくさんある。それをやっと、母さんに伝えられる。
もう二度と目を覚まさないかもしれない、と医師は言った。でも、母さんは目を覚ましてくれた。大声で叫び出したいくらい嬉しくて、立ち漕ぎで自転車を走らせた。
駅で姉と合流し、すぐにやってきたバスに乗車して病院へ向かう。
バスの中で、姉の話を聞いて浮かれていた気持ちが沈んだ。
「看護師さんの話だと、お母さん目を覚ましてしばらくは呼びかけに反応してたみたいだけど、またすぐに意識がなくなったって言ってた。だから今病院に行っても、お母さんと話せないかもしれない」
俺の気持ちと同様に、沈んだ表情で姉は言った。病院に着くまでの間、二人とも無言で窓の外を眺めていた。
母さんの病室に入ると、姉は母さんに駆け寄って声をかける。
「お母さん、茜だよ。分かる? お母さん」
母さんの反応はなく、目を閉じたままじっと動かない。なんだよ、これじゃあいつもと同じじゃないか、と俺は心の中で叫んだ。
「碧も声かけてあげて。お母さん、目を覚ますかもしれないよ」
そんなわけないだろ、と俺は首を振った。どうして肝心な時に眠ってるんだよ、と母さんを責めたかった。
やっぱり母さんは、もう目を覚まさないのだ。俺は一生、母さんに言えなかった言葉を言えないまま生きていくのだ。そんな十字架を背負ったまま、これから何十年も生きていかなくてはならないのか。そう思うと悲しくて悔しくて、目に涙が溜まってきた。あれだけたくさん時間があったのに、いつか言えばいいや、って逃げていた過去の自分に腹が立って、堪え切れずについに涙が零れた。姉に涙を見られたくなくて、俺は静かに病室を出た。
十五分ほど談話室の椅子に座って待っていると、姉がやってきて俺の斜向かいの椅子に腰掛けた。
お母さん、眠いみたい。と姉は無理して笑う。姉の顔を見て、泣いていたのは俺だけじゃなかったんだな、と思った。
「お母さんと、もっとたくさん話したいことあるのに、全然起きてくれないね」
うん、とだけ俺は返事をした。
「お母さんが目を覚ましたら、あんた謝りなさいよ。ずっと無視してたよね、お母さんのこと。お弁当も毎日作ってくれてたのに食べないで残すし、お母さん悲しがってたんだよ」
分かってるよ、謝るって。姉のほうは見ずに、俯いて答える。
「お母さんがなんで毎日お弁当作ってくれてたか、知ってる?」
知らない、とボソッと呟く。当時、俺は毎日購買の百円のパンを食べていた。
「あんたさ、毎日卵焼きだけは食べてたでしょ。お母さん、それだけでも嬉しかったんだって。あたしもお母さんの卵焼き好きだったな。甘くておいしいもんね」
そろそろ帰ろっか、と姉は言いながら立ち上がる。数秒遅れて俺も立ち上がり、姉の後を追う。
母さんの卵焼き、甘くておいしかったなぁ、と思い出しながら、再び涙を流して薄暗い院内を歩いた。
それから数日間、姉は毎日母さんの病室に通い詰めた。休みの日は一日中母さんに付きっきりだった。
「お母さんが目を覚ました時、あたしがそばにいてあげたい」
姉は健気にそんなことを言っていた。母さんの心配だけではなく、姉は雪乃の心配もしてくれている。最近クラス内のいじめが酷くなっている、と姉に相談すると、碧が雪乃ちゃんを守ってあげな、と他人事のように言われた。
「これはね、碧にしかできないことなんだよ」
さらに姉はそんなことまで言ってくる。
俺にしかできないこと。どうしてかそう言われてしまうと、だったらやってやろうという奇妙な使命感に駆られてしまう。後で冷静になってから考え直すと、やっぱり無理だよなぁ、と気が引けてしまう。
「今日も帰り遅くなるから」
この日も家を出る直前に姉にそう言われ、分かった、と返して家を出た。
ここ最近、学校に行くのが憂鬱だった。俺にとって何か不利益なことが起きるだとか、そんなことはないのだけれど、井浦たちによる雪乃へのいじめが、日に日に激しさを増して見ていられなかった。
変な噂を流されたり、弁当箱をひっくり返されたり、机の中に虫やカエルを入れられたりと、散々なものだった。
止める奴は一人もいないし、かと言って加担する奴もいなかった。誰もが自分は無関係でいたいと、そう思っているのだ。下手に雪乃に優しくしてしまうと、次は自分が第二の雪乃になってしまう。生徒たちはそれを恐れている。何もできない自分に、憤りを感じている生徒も何人か散見された。もちろん俺自身も、そんな生徒の一人だった。
学校に着いて教室に入ると、雪乃と目が合った。
【おはよう】
いつもと変わらない笑顔で、雪乃は心の中で言った。どうしてそんな顔で笑えるのだろう。辛いはずなのに、雪乃はそれを顔には出さなかった。
この日も雪乃に対するいじめが緩むことはなく、少しやり過ぎじゃないか、と心の中で心配する者もいた。
体育の授業では、女子はバレーをしていて雪乃は集中砲火を浴びていた。雪乃は体育の途中で抜け出し、保健室に行ったようだった。
授業が終わって教室に戻ると、指に包帯を巻いた雪乃の姿があった。
【突き指しちゃった】と雪乃は俺と目が合うと苦笑して言った。
「それにしてもボスギャルの奴、ちょっとやり過ぎだよな。雪乃さんが可哀想だ。黒板に悪口書いたの、雪乃さんじゃなくてデブキなのに」
昼休みになると、小泉が小声でそう言った。肝心の伊吹は名乗り出ようとはせず、ひたすら心の中で雪乃に謝罪をしている。本当に雪乃のことが好きなら、彼女を守るべきじゃないのか、と思った。
「そうだな」とだけ答えて、雪乃に視線を向ける。
【餃子、シュウマイ、小籠包、ご飯、エビチリ、ブロッコリー】
今日は中華なのか、などと思いながら、姉が作ってくれた卵焼きを頬張る。やっぱりちょっとしょっぱいな、と思った。
この日の最後の授業は、ホームルームだった。予鈴が鳴ると、担任の藤木先生が張り詰めた表情で教室に入ってきた。
教卓に着くと、藤木先生は教室内を端から端までゆっくりと見回す。新米女教師で、童顔でもあるためあまり威厳はなかった。
「ホームルームの前に、藍田さやかさんのことで皆さんに報告があります」
神妙な面持ちで藤木先生は言った。例の一件の後、藍田は一度も登校していなかった。子どもを産むのか下ろすのか、ようやく決めたのだろうか。
「もう知ってる人もいるかもしれませんが、藍田さんはいろいろあって学校を辞めることになりました。短い間でしたが、このクラスになれてよかったです、と藍田さんは言ってました」
社交辞令のようなものだろう。最後は井浦に目をつけられて不登校になったのだ。よかったはずがない。藍田に関しては、それ以上の話はなかった。
「はい、じゃあホームルーム始めます。今日のホームルームは、このクラスで起きている不祥事について話し合いたいと思います」
ホームルームということで弛緩していた教室内の空気が、藤木先生の一言で一変した。このクラスで起きている不祥事とは、一つしかないと誰もが思ったに違いない。
「先日、このクラスでいじめが起きていると、ある生徒が話してくれました。先生それを聞いて、残念に思いました。皆さんは高校二年生です。もう子どもと呼べるような年齢でもないはずです。やっていいことと悪いことの区別は、皆さんならつくはずです。心当たりのある方は、少し考えてみてほしいです。自分がされたらどんな気持ちになるか、よく考えてみてほしいです」
藤木先生が言い終わると、教室が少し騒がしくなった。心当たりがあるだろう井浦は、【うぜえ。誰だよチクったの】と悪態をついていた。
「皆さんで話し合いませんか? どうしたらいじめがなくなるのか。何故起こってしまったのか。話し合って、今日で終わりにしましょう。明日からは、皆が仲良く学校生活を送れるように、先生も協力していきます」
この教師は馬鹿なのだろうか、と俺だけではなく皆が思ったに違いない。自分が受け持っているのは小学生のクラスだと勘違いしてないか、とも思った。そんなことで解決するはずがないし、むしろ逆効果なのではないだろうか。案の定、うんざりしている生徒が多い。次第に私語が増え、藤木先生は苛立ち始めた。
「皆さん! 静かにしてください! 今回の件で、何か意見のある方はいませんか?」
当然、手を挙げる者は一人もいなかった。この状況で発言できる奴なんて、このクラスにいるはずがない。ここで発言するということは、井浦愛美に意見しているのと同じことだ。誰もが閉口し、罰が悪そうに俯いている。俺も同様に、それに倣った。
「えっと、それじゃあアンケートを取ろうかな。アンケート用紙を配るから、それに書いて……」
藤木先生の説明の途中で、手を挙げた生徒がいた。小麦色の細長い腕が、半袖のブラウスから真っ直ぐ伸びていた。
「あ、はい。井浦さん」
手を挙げたのは井浦だった。当てられた井浦は手を下ろし、座ったまま冷淡な口調で言った。
「アンケートとか怠いんで、直接本人に訊いたらどうですか? いじめられてる雪乃令美に」
教室内に嫌な緊張感が走る。名前は伏せるつもりでいたのか、藤木先生は急に雪乃の名前が出たことで表情に余裕がなくなった。
「だ、誰も雪乃さんがいじめられてるなんて言ってませんよ。それに、雪乃さんは……」
藤木先生は言い淀んだ。雪乃さんは喋れないと言いたかったのだろうがそれは周知の事実だし、雪乃がいじめられていることも同様だった。知らなかったのはこの的外れな女教師だけなのだ。彼女の対応にがっかりしたのは、きっと俺だけではないだろう。
「喋れないんだったら、黒板に書けばいいと思います。雪乃、黒板に書くの得意だから」
井浦がそう言うと、何人かの生徒が笑い声を上げる。藤木先生はおろおろし出して、雪乃と井浦を交互に見ることしかできないでいた。
「そもそも先生、雪乃が黒板に私たちの悪口を書いていたこと、知ってるんですか?」
「え? 悪口? えっと、それは先生知らなかったです。本当なの? 雪乃さん」
藤木先生はあたふたしたまま雪乃に問いかける。雪乃は俯いていて、答えようとはしなかった。
「ほら、これ。見てください」
井浦はスマホの画面を藤木先生に向け、指でスライドさせて次々に画像を見せる。俺の席からは見えないが、おそらく黒板に書かれた文字を撮って保存していたのだろう。
「これを、本当に雪乃さんが?」
「そうです。こんなことを書いてたんだから、いじめられてもしょうがないんじゃないですかぁ?」
井浦はにやにやと笑う。語尾に挑発が含まれていた。
「でも、だからといっていじめるのは良くないと思います。何か理由があったのかもしれないし……」
こちらは反対に、歯切りの悪い口ぶりで答える。藤木先生がいじめられているようでもあった。
「だったら、本人に理由を訊いてみてくださいよ。それか土下座して皆に謝るとか、それくらいさせたほうがいいと思います。藍田さんを退学に追い込んだのは、雪乃が黒板に書いたからじゃないんですか?」
藍田を退学に追い込んだのはお前だろう、と全生徒が思っただろう。よくもまあここまで舌が回るものだ、と感心するばかりだった。
「いやでも、そういうのは良くないと思うし……」
藤木先生の声は明らかに小さくなっていて、後半は何を言っているのか聞き取れなかった。
【土下座をすれば、この場は収まるかなぁ】
ちょうど雪乃に目を向けると、彼女は心の中でそんなことを呟いていた。
【ねえ碧くん。私、どうすればいいかな】
その言葉にどきりとした。雪乃の心の声が俺に向けられたものだとは思わなかった。しなくていいと言ってやりたかったが、伝える手段がない。聞こえなかった振りをしてやり過ごすことにした。
【やっぱり私、余計なことしなきゃよかったね。最初に黒板に書いたのだって、私だし。藍田さんを退学に追い込んだのも、私なのかなって思ってきた】
そんなはずがない。雪乃はこんな奴らのために必死になって考えて、迷える生徒たちの心を救おうとした。事実、救われた生徒だっていたはずだ。後悔せずに胸を張っていい。雪乃にそう言ってやりたかった。
【私、このクラスにいないほうがいいのかな。私のせいで空気悪くしちゃってるし、皆に迷惑かけちゃってる。私、本当に最低だ】
それ以上自分を責めるなよ。何もできない俺が惨めになる。雪乃は悪くない。この言葉も言えなかった。
【やっぱりあの時、お姉ちゃんじゃなくて私が死ぬべきだった。どうして私なんかが生きてるんだろう……】
──死にたい。
新学期になって初めて登校したあの日、俺の頭の中に飛び込んできた言葉が、もう一度届いた。あの日から雪乃は、毎日そう思っていたのかもしれない。俺に聞かれまいと、その言葉をずっとひた隠しにしていたのかもしれない。
俺はそれ以上雪乃の心の声を聞きたくなくて、視線を逸らした。
何もできなくてごめん、と心の中で謝った。
「なんか言えよ! 雪乃!」
井浦の怒声が教室内に響いた。藤木先生は結局役に立たず、教室の隅っこで丸くなっていた。
【誰か止めろよ。さすがにちょっと可哀想になってきた】
【雪乃さん、大丈夫かな。助けてあげたいけど、怖いし……】
【もうやめてあげて。ちょっと見てられない】
生徒たちの悲嘆の声が、次々と頭に飛び込んでくる。誰もが声を発せず、苦しんでいる。俺もその一人だった。
再び雪乃に視線を移す。雪乃の肩が、小刻みに震えていた。
雪乃が泣いている。俺の席からでもはっきりと分かった。そして雪乃はゆっくりと立ち上がり、廊下側の席の井浦に身体を向ける。ぽろぽろと涙が零れていた。
「……う……あ……さぃ……うう……」
雪乃は必死に声を出そうとしている。何が言いたいのか、何を言おうとしているのか分からなかった。両手で喉を押さえ、呼吸を荒くしながらも雪乃は声を出そうとしていた。泣きながら言葉を絞り出そうとしている雪乃を見て、俺は胸が震えた。
声を発することのできない雪乃が必死に声を出そうとして、声を発することができる俺たちが頑なに声を出そうとしない。そう思うと滑稽で情けなく、こっちまで泣きそうになった。
雪乃は咳き込み、それでも声を出そうと試みていた。
──これは、碧にしかできないことなんだよ。
ふいに姉の声が頭に響いた。それと同時に、生徒たちの視線が雪乃から俺に移っていた。
「また森田? 今回は何?」
井浦にそう言われ、俺は自分が立ち上がっていたことに気づいた。どうして立ち上がってしまったのか、自分でも説明ができない。けれど今さらもう後に引けない。言いたいことを言えない人生なんてまっぴらだ。そう思いながら、俺は迷いなく言い放った。
「雪乃は悪くない。悪いのは全部俺なんだ」
数秒の沈黙の後、「はあ?」と井浦は笑う。
「何言ってんの森田。なんで雪乃を庇ってんの? もしかしてこの女のこと、好きなの?」
その言葉には返事をせず、俺は机の中から一冊のノートを取り出した。これを見られたら、俺の高校生活は終わる。それでも構わない、という気持ちでノートを広げてみせた。生徒たちの心の闇が記された、『心の闇ノート』と名付けたそれを。
「は? 何これ、きもいんだけど」
「おいおいおい、森田まじかよ」
「ちょっと! 何よこれ!」
井浦と数人の生徒が叫ぶ。井浦にノートを奪われ、生徒たちは立ち上がりノートの周りに集まる。
【……どうして】
雪乃と目が合うと、彼女はそう呟いた。俺は返事をせず、小さく笑ってみせた。
「田嶋裕介……AVの隠し場所に悩んでる。妹にDVDの存在を知られ、さらに悩んでる」
誰かがノートの一文を読み上げた。田嶋が「なんで知ってるんだよう」と戯けて笑いが起こる。
「柿本由香……ピアノが上手く弾けなくて困ってる。コンクールまで時間がなく、とにかく焦ってる」
次の一文を読み上げると、柿本が「もしかして森田くん、盗み聞きしたの?」と俺を蔑むような目で睨んでくる。心の声が聞こえた、なんてさすがに言えない。
「高梨美晴……雪乃のいじめを快く思っていない。井浦たちのグループを抜けたがってる。ピンク」
ピンクってなんだ? と誰かが言った。いろいろとやってしまった、と俺は焦った。
「美晴、どういうこと?」と井浦が詰め寄る。高梨には後で謝ろう。
「俺がノートにそれを書いて、雪乃に見せた。心優しい雪乃は、お前らの悩みを解決してやろうと思って黒板に書いたんだ。井浦たちの悪口は俺が書いた。いじめとかださいことしててムカついたから書いた。理由はそれだけ」
一部事実とは異なるが、はっきりと言ってやった。生徒たちの俺を見る目がこれで変わってしまうだろう。しかし不思議と清々しい気分だった。後悔もなかった。
「森田、あんた最低だね。皆、こいつ無視しよう」
井浦は堂々といじめを宣言した。こいつもとんでもない奴だな、と思った。
「ねえ聞いてんの? 皆もなんか言ってやりなよ!」
井浦の言葉に応える者はいなかった。
その時、一人の女子生徒が申し訳なさげに手を挙げた。
「あの……私、雪乃さんに感謝してます」
勇気を出して声を発したのは、少女漫画コンテストで受賞した樋口だった。彼女は立ち上がり、顔を伏せて言葉を続ける。
「雪乃さんが黒板に漫画のことを書いてくれて、私嬉しかったです。そのおかげで友達もできたし、皆に漫画を読んでもらえて……。だから私、雪乃さんには感謝してるんです。ずっと、お礼が言いたかったです」
樋口は小さく頭を下げて、席に着いた。顔が真っ赤になっていた。俺に感謝はないのか、と少し落ち込んだがそう言ってくれて素直に嬉しかった。
「お、俺も!」
次に立ち上がったのはお騒がせナイフ少年の川原田だ。彼はぐっと拳を握り、やがて口を開いた。
「雪乃さんが黒板に書いてくれなかったら、きっと武藤と仲直りできなかったかもしれない。言えなかったことを代わりに書いてくれて、あの時正直助かった。ありがとう」
川原田は一息にそう言うと、席に着いた。
次に立ち上がったのは男女二人だ。両思いの鈍感な岩島と原だ。
「あの……私たち、実は先週から付き合い始めたんです。そのきっかけをくれたのは雪乃さんでした。私も雪乃さんにお礼が言いたかった。ありがとう雪乃さん」
岩島もありがとう、と頭を下げて二人は席に着いた。
まじかよ! と誰かが叫び、騒がしくなる。おめでとう、という声も上がった。
次にギター少年の笹林が手を挙げ、雪乃に礼を言った。
「俺も雪乃さんに感謝してるよ。おかげでライブが盛り上がったよ」
誰かが指笛を鳴らす。俺は少し、このクラスの奴らが好きになってきた。
そして次に立ち上がったのは、無関係なはずの女子生徒だった。はて、あいつのこと黒板に書いただろうか、と怪訝に思っていると、その女子生徒はスマホの画面を見ながら言葉を発した。
「藍田さやかです。誰が黒板に私のことを書いたのか分かりませんが、お礼を言わせてください。あなたのおかげで、赤ちゃんを産む決心がつきました。あのまま一人で悩んでいたら、どうなっていたか分かりません。書いてくれたことで、親や友達にも相談できました。彼にも話せて、大学を辞めて私と赤ちゃんのために働くと言ってくれました。本当に感謝しています。ありがとうございました」
これ、さやかちゃんに伝えてほしいって言われて、と藍田の友達らしき女子生徒は付け加えた。
何故か拍手が沸き起こった。雪乃は戸惑いながら、恐縮ですと言わんばかりにぺこぺこ頭を下げていた。
井浦は親の仇のように俺と雪乃を睨んでいたが、こうなってしまうと何も言えないようで、おとなしく自分の席に座っていた。
「あ、他に何か言いたいことある人はいませんか?」
いつの間にか議長になっていた俺は、生徒たちにそう声をかけた。まだいるだろうと思っていた。皆が言いたいけど言えなかったことを、勇気を振り絞って声に出したのだ。この機会を逃したら、きっともう言えなくなるぞ、と高梨に視線を向けた。
高梨は悟ったのか、意識的に視線を逸らした。
「あの! 僕! 雪乃さんのことが好きでした!」
急に立ち上がって叫んだのは、伊吹だった。お前が言うべきことはそれじゃないだろう、と苦笑した。雪乃はぺこぺこと頭を下げ、【ごめんなさい】と心の中で拒絶していた。
「他にいないようならホームルーム終わりますけど」
議長俺は再度促した。時計を見ると、そろそろ六時間目の授業が終わる頃だった。高梨は俺の視線から逃げるように俯いていたが、観念したようにため息をつき、鞄を持って雪乃の窓際の席まで歩いた。
すでに着席していた雪乃は、高梨を見上げる。高梨は雪乃と目を合わせようとせず、躊躇いがちに鞄に手を入れ、中からぼろぼろのクマのキーホルダーを取り出した。
雪乃の目の色が変わった。その見開いた目には、涙が溜まっていた。
「これ、ずっと渡したかったんだけど、今まで返せなくてごめん。それから、今まで酷いことしてごめん。それから……」
高梨は感極まったのか言葉を詰まらせた。零れた涙を手で拭い、涙声で高梨は言った。
「あの時、いじめられてた私を助けてくれてありがとう。ずっと、令美に言いたかった。遅くなって、本当にごめん」
雪乃の目から涙が零れた直後、予鈴が鳴ってホームルームが終了した。藤木先生は泣きながら、一人だけ拍手をしていた。
そして放課後、俺は席に座り、生徒たちが下校するのを待った。雪乃の席の周りには、数人の女子生徒が集まり、楽しそうに何か話していた。初めて見る光景だった。
数分後、ようやく教室が静かになった。雪乃は二つのクマのキーホルダーを手に持ち、それをじっと見つめている。余程嬉しかったのだろうか。
「なんかどっと疲れたな。でもよかったな。皆雪乃に感謝してた」
雪乃は振り返り、にこっと笑う。
【私はただ黒板に書いただけだよ。頑張ったのは碧くんだよ】
「そんなことない。頑張ったのは雪乃だよ。本当にすごいと思う」
互いに褒め合って、互いに照れて二人で笑い合った。
それから雪乃は立ち上がって、【ありがとう】と頭を下げた。
「何が?」
【私のこと、助けてくれて。嬉しかった】
「ああ、別に。なんか気づいたら立ち上がって、あんなこと口走ってた。自分でもビックリしてる」
よくあんなこと言えたな、と改めて自分でも思う。普段言いたいことを言えない俺が、それも他人のためにやったなんて、数ヶ月前の俺が聞いたら呆れて笑うだろう。雪乃と出会ってから、俺の中で何かが変わったのは事実だった。
【もうすぐ夏休みだね。あっという間だったね】
そうだな、と返事をする。振り返ってみると、いろいろなことがありすぎた一学期だった。
【ありがとう】
雪乃はもう一度、俺に礼を言った。
「何が?」俺ももう一度聞き返した。
【初めて会った日、碧くん、あの時も私を助けてくれたよね。ちゃんとお礼言わなくちゃってずっと思ってた】
雪乃と初めて会った日、俺は入院していて三週間遅れの新学期となった。雪乃はあの日もいじめられていて、確か隠された上靴を探していた。上靴は女子トイレにある、そう教えてやったのが始まりだっけ。なんだかずいぶん前のことのような気がして、懐かしく思えた。
「そういえばそんなこともあったな。いろいろありすぎて忘れてた」
あの時声をかけていなければ、今こうして雪乃と二人で話すこともなく、雪乃は孤独だったんだろうな、とも思った。
【すごく楽しい一学期だった。二学期は、もっと楽しければいいな】
「きっともっと楽しくなる」
【だといいな】と雪乃は笑う。
「そろそろ帰るよ。せっかくクラスの人気者になりつつあるのに、一気に嫌われ者になった俺と一緒にいたら、何言われるか分からないしな」
俺は自嘲気味に笑って立ち上がる。
【ちょっと待って!】と雪乃は心の中で叫んだ。【まだ悩みを解決していない生徒がいるよ】
「誰だよ」俺は首を振ったが教室には誰もいない。雪乃は【碧くんだよ】と俺を指差した。
「俺? 別に悩みなんて……」
【言ったでしょ、私。悩みを抱えてる人は見たら分かるって。碧くん、初めて会った時からずっと悩んでるように見えたから】
言いながら雪乃は教壇の上に立つ。そして黄色のチョークを手に取り、黒板に文字を書き始めた。
『森田碧くんは、言いたいことを言えなくて、悩んでいる』
その文字を見て、胸がちくりと痛んだ。雪乃は見抜いていた。俺の心の闇を。
【何を言えなくて悩んでるのかは分からないけど、誰かに言えなかったこと、伝えそびれたこと、あるんじゃない?】
雪乃はまるで、俺の心の中を覗いたように言った。返答に窮していると、雪乃は続ける。
【ありがとうとかごめんなさいとか、友達になりたいだとか好きだとか、誰にでも言えなかったことって、きっとあると思う。でもそれを言える人って、なかなかいないんだよね。このクラスの人たちもそう。私だってそうだった】
雪乃は穏やかな表情で語りかける。「うん」俺はそれだけ返事をした。
【次は碧くんの番だよ。これからは後悔しないように、素直に生きよう。私もそうする】
「……そうだな。俺もそうするよ。ありがとう、雪乃」
つい先ほど、皆の前で言いたいことを言えた。今の俺ならきっと言える。
「また明日な」
【うん。頑張ってね、告白】
雪乃の最後の言葉が気になったが、構わず踵を返した。きっと雪乃は、俺が誰かに愛の告白をできずに悩んでいる、と思っているのだろう。訂正するのも面倒なので何も言わずに教室を出た。
自転車を走らせ、駅に向かう。
駅の駐輪場に自転車を止め、バス停でバスを待った。素直な気持ちを伝えたい人は眠ったままだけど、それでも伝えようと思った。
ふいにスマホが鳴って、画面を見て驚いた。姉から着信が五件、メッセージが四件届いていた。
『お母さんが目を覚ましたから、早く来て!』
メッセージを見てさらに驚く。マジかよ、と思わず呟いた。最初に届いたメッセージは、一時間以上前だった。
目を覚ましたのなら直接伝えられる。ちょうどよかった、とスマホの画面を見つめたまま微笑んだ。
数分後バスがやってきて、俺は一番前の席に腰掛けた。
早く病院に着いてくれ、と思いながら進行方向を見つめた。
病院に着くと、早歩きで真っ白なリノリウムの床を歩き、エレベーターに乗って三階のボタンを連打する。
三階で降りると、小走りで母さんの病室へ急ぐ。すれ違った看護師に小さく頭を下げて、解放されているドアから病室の中に入った。
「あ、碧! こっち来てお母さんに顔見せてあげて!」
姉は立ち上がって手招きをする。さっきまで泣いていたのか、目と鼻が真っ赤に腫れていた。
「お母さん、碧が来てくれたよ」
姉は母さんの耳元で声をかける。母さんは目を動かして、俺を見た。
【碧、心配かけてごめんね】
母さんは声が出ないのか、心の中でそう言った。
「お母さん、呼びかけたら反応してくれるけど、まだ声が出ないみたい」
「そうなんだ。何ヶ月も眠ったままだったからかな。でも母さん、目が覚めてよかった」
「そうだね。ほら、碧も何か声かけてあげて」
姉は場所を譲ってくれて、俺は母さんのすぐそばの丸椅子に腰掛けた。
母さんと目が合う。けれど俺は、用意していた言葉が出てこなかった。いざ母さんを目の前にすると、照れ臭くて言い出せなかった。今は姉も隣にいるし、また次の機会でもいいか、と思ってしまった。
「ほら碧、お母さんに言うことあるんじゃないの?」
姉に急かされ、分かってるよ、と答えた。
ふいに雪乃の顔が頭に浮かんだ。この場にいないのに、何故だか雪乃にも急かされている気分になった。
分かったよ、言うよ。もう後悔はしたくないから。
心の中で見えない雪乃に語りかけ、俺はゆっくりと口を開いた。
「母さん、今まで反抗したり、生意気なこと言ったり、弁当食べないで残したりしてごめん。早く退院して、また弁当作ってよ。姉ちゃんの卵焼きしょっぱくて、母さんの甘い卵焼きのほうがずっと美味しいんだ。今度からは弁当残さず全部食べるし、家事とか、手伝えることは俺も手伝うし、真面目に勉強もするから、もうどこにも行かないでくれよ、母さん」
言いながら俺は、自分が涙を流していることに気がついた。そのせいで後半は声が掠れてしまった。それでも言いたいことはちゃんと言えた。いつか伝えようと思っていた言葉を、ようやく伝えることができた。雪乃が背中を押してくれたおかげだ、と今は思う。ずっと言えなかった言葉を言えて笑いたいはずなのに、どうしてか涙が止まらなかった。
「死なないでくれてありがとう。目を覚ましてくれてありがとう。ここまで育ててくれてありがとう。毎朝ご飯を作ってくれてありがとう。毎日弁当を作ってくれてありがとう。夜もご飯を作ってくれてありがとう。俺と姉ちゃんを産んでくれてありがとう。本当にありがとう」
泣きながら、思いつく限りのありがとうを母さんに伝えた。まだまだ言い足りない。今日まで言えなかったありがとうと、ごめんなさいがあまりにも多すぎて、何回言っても物足りない。
俺は母さんの骨張った手を優しく握る。強く握りしめたら粉々になってしまいそうな母さんの手を、両手で包み込む。
──母さん、ありがとう。
最後にもう一度、力強く言った。
【優しい子に育ってくれて、こちらこそありがとう】
母さんのその言葉に、俺は嗚咽を漏らして泣いた。