「ジル、ねえ、あれはなあに?」
弾んだ声でそう何回訊かれただろう。
王女が気に入ればそれを購入したいが、残るものは買えない。王城に城下街のものを持ち込むと、このお忍びの証拠が残ることになってしまう。
だから、飲み物程度のものしか買えなかった。しかし馬宿の店主の言う通り、どこもかしこも相場より少し高めの値段を言ってくる。私は、言われた通りにお金を差し出す。それで、それ以上は何も言われなくなる。
貴族のおこぼれには預かりたいが、やっかいごとに巻き込まれるのはごめんだ、という意思表示のようにも思える。どの店も慣れている風だった。
よくあること、というのは本当のようだ。いったいどこのお嬢様方がお忍びでやってきているのだろう。それだけに、この街が安全だとも言えるので、安心もできた。
多少の金額の上乗せなど、気にするものでもない。財布の中身は、すべてなくなっても構わないのだから。
それにしても、手を繋いでいて正解だった。物珍しいものがあればいきなり走り出す王女を制する自信は、私にはなかった。
「あれはなあに?」
王女はまた、そう言って指さした。一つの店からいい匂いが漂ってきていた。店の前では子どもが盆の上になにかを乗せて、通りすがる人たちにそれを見せている。
「あれは、お菓子の一種ですね。シュケットといいます」
「お菓子?」
そう一言返すと、首を小さく傾げている。
彼女の知るお菓子とは、ずいぶんと見た目が違うのだろう。
王女たちが食するお菓子は、皿の上に綺麗に彩られて置かれているものだ。あんな風に、無造作に盛られているものではない。
「食べてみたいわ!」
店先で立ち止まって待っていると、子どもが菓子の入った紙袋を手に持ってやってきた。私が銅貨を手渡すと、子どもは袋を王女の前に差し出す。彼女はちらりとこちらを窺って、そしておずおずと手に取った。
子どもは商売が成立したと同時に踵を返し、また違う人に勧めている。断られることもしばしばのようだが、めげてはいない。いや、諦めて店内に帰りたいような素振りを見せるのだが、中から店主に顎で、行け、と言われてしぶしぶまた店の外に出ている。
王女は子どもをずっと目で追っていた。
「どうかしましたか?」
「あんな小さな子が働いているのね」
それだけ言って、また目で追う。子どもは忙しく立ち働いている。
「私、恵まれているのよね」
そんなことはない、とは言えなかった。確かに彼女には彼女の苦しみがあるが、幼いながらに働かなければならない者の苦しみだってある。
「この街は、治安がいいのです」
私の言葉に、王女は顔を上げる。
「それは、王城の政が上手くいっている証ですよ」
それだけは、きっと確かだ。
「それに、そのことに気付いたエイラならば、よき妃になれるでしょう」
私がそう言うと、王女は小さく微笑んだ。
「だから、私はあなたが好きなのよ」
王女はきっと、何気なく言ったのだろう。けれども私はその言葉で、身体中が熱くなった。なんてことを言うのだ、この人は。
陽が落ち始め、世界が赤く染まっていく。だから私は自分の顔の色をそこまで気にしなくてよかった。
だが、夕陽は同時に、この時間の終わりを告げようとしている。
「ねえジル、これはどこで食べるの?」
彼女が袋を持ったまま、こちらを見上げる。
「それは、歩きながらつまむものでして……」
「歩きながら? 本当? 面白いのね!」
王女は歩きながら食べるという、おそらくは生まれて初めての体験に、最初は四苦八苦していたようだったが、なんとかすべてを口の中に入れると、満足そうにしていた。
「美味しかったわ! ここには素敵なものがたくさんあるのね。夢みたい」
無邪気な笑みを浮かべる彼女を見ていると、次に言わなければならない言葉を呑み込んでしまいそうになる。けれど、言わなければならない。
「……そろそろ、帰りましょうか」
私がそう言うと、王女は目を伏せた。
「そうね。夢はいつまでも続くものではないもの」
私たちは少しばかり重い足取りで、馬宿に向かう。
店に到着すると、繋いだ手を離した。今までそこにあったのに、もう二度とこの手の中に帰ってくることはない。急に自分の手が冷たくなったような感覚に襲われる。
預けておいた馬を受け取り、また二人して背に乗る。
そうして王城への道をたどっていると、ふいに王女は言った。
「私、こんな冒険は初めてだったわ!」
そしてこちらに振り返る。
「本当に感謝しているわ」
満面の笑み。こんなものを冒険と言うのか。ほんの束の間の出来事なのに。
「さっきのシュケットという焼き菓子は、セイラスにはあるかしら。とても美味しかったもの」
「ありますよ、きっと」
「国王陛下におねだりしてみようかしら。驚くかしら、私があんな焼き菓子を知っているって」
「どうでしょうね」
「ああ、でも歩きながらというのはできないわね。はしたないと思われてはいけないもの」
なんだか王女は、無理に明るく振舞っているような気がした。ここまで饒舌な王女は見たことがない。
現実に引き戻されたくない、そんな風に思っているように見えるのは、私の思い過ごしか。
「私、これを大事にするわ」
王女は胸元からあるものを取り出すと、ぎゅっと握った。
王女の手の中にあるものは、今日、何度目かに訪れた店で買った、彼女の瞳と同じ色の菫の装飾の、髪留めだった。
それくらい小さなものならば大丈夫だろうと、買ったものなのだが。
「そんな、安物……」
確かに、相場よりは高い価格で買った。だがそれは、きっと王女が持つどの髪留めよりも安いものだ。彼女が持つ髪留め一つで、それがいくつ買えるだろう。
「ジルが私に贈ってくれたのですもの、どんなものより大事よ」
「……ありがとうございます」
ふいに、王女を囲うように手綱を持つ自分の腕で、そのまま彼女を抱きしめたい衝動にかられた。帰りたくない。こんな短すぎる時間で終わりたくない。このまま彼女といられたら。
「……帰りたくないわ」
彼女がふいに囁いて、私の身体は震えた。
前方を見ると、城壁が見えてきていた。
「でも、帰らなければならない。私には私のやるべきことがあるのですもの」
自分自身に言い聞かせるような、声。
「……はい」
私には、それだけしか言えなかった。
思った通り、厩舎番は城を出たときとは違う人間に交代していた。だから私は、また金を握らせる。厩舎番はそれを当然のように受け取った。
どうやら異変は起きていない。私は息を吐く。
背後に隠れていた王女を連れて、厩舎を出て、中庭に向かう。道すがら、王女は外套を脱いでいた。
そのまま中庭で解散、となる予定だったが、そこに先客がいた。
「おかえり」
楡の木に背中を預けて表情を動かさずそう言ったのは。
第五王子。
私の身体は硬直して動かなくなった。
「アレスお兄さま」
だが王女は、私の前に立ちはだかるように歩み出た。
「私の話を聞いてくださる? お兄さま」
「ああ、聞くよ。ゆっくりとね。もちろん、ジルからも」
いけない。私が王女の前に出なければ。彼女は私を守ろうと私の前に出たのだ。それは私がやらなければならないことなのに。
なのに、足が、動かない。
どうして。どうしてこんなに情けないんだ。
王子は楡の木から離れ王女の傍に歩み寄ると、その肩を優しく抱いた。だがそれは、逃がさない、といった意味合いのものに見えた。
「ジル、後で話を聞こう。面談室のほうで待っていてくれ」
「……かしこまりました」
いつもとは違う、厳しい口調。私は王子がこんな声を出すことを知らなかった。
「アレスお兄さま、聞いて」
「だから聞くと言っているだろう?」
二人は連れ立って、後宮のほうに向かっていく。
私がこの城から逃げ出すことはできないことを、逃げ出したところで逃げ切れるはずもないことを、王子は知っているのだろう。
一人取り残された私は、王子が言う通り、あの面談室に向かった。
しばらくすると、面談室に王子がやってきた。案外、短い時間でやってきたのは、王女を後宮に預けてきただけだったのだろう。
扉を開けると同時に、王子は大きくため息をつく。私はただ、王子が中に入って扉を閉めるのを待っていた。
「城の警備体制に問題があることが、ようくわかったよ」
どこか呆れたような、声。
「本当に大変なことをしでかしてくれたね。真面目な人間? 聞いて呆れるよ」
「申し訳ありません!」
私はその場で床に座り込んで、頭を下げた。
「……どういうつもりかな」
「こんなことで償えるとも思えませんが、それ以外に知らなくて」
王子が私に近寄ってくるのがわかる。私は堅く目を閉じた。
王子が腰に長剣を佩いているのはさきほど見た。
痛いだろうか。苦しいだろうか。けれどもそれは私の受けるべき罰で、受け入れるべき痛みだ。
きっと王子は、私の首に剣を振り下ろしてくれるだろう。そして王女はお咎めなしとなるだろう。なにもかもなかったことに。それが、救いだ。
だが、私の頭上で、王子が苦しげな声音で言った。
「頭を上げてくれ。できない。それは、できないんだ」
私は言われた通り、おずおずと顔を上げる。
王子はこめかみに手を当て、再びため息をついた。
「君の首を斬ることで片がつくなら、やるよ。けれどこの件に関しては、それはできないんだ」
「……どうして」
「どうして? エイラの輿入れに影響が出るからに決まっている」
従者の一人くらい、秘密裏に殺して埋めればいい。いなくなった理由など、王城がいくらでも作り出せるだろう。
どうしてそれができないんだ。
「すべてを隠してしまうには、もう公になりすぎている」
「え……今日のことがもうそんなに広まって?」
「違う。それは私とエイラの侍女しか知らない。広まっているのは、エイラと君が仲が良いことだ。皆、面白がって話すから、城内では知らぬ者はいない。噂話の範疇ではあるけれどね」
そして私を指差した。息を呑む。
「そこで君が消えたらどうなる? 噂は本当だったのだ、エイラと君は恋仲だったのだ、エイラの婚姻に君が邪魔になったから消したに違いない、とまことしやかに囁かれるのは火を見るより明らかだ。私たちは、エイラを綺麗なまま嫁がせる義務がある。もしエイラがセイラスで懐妊したとして、その御子が王の種ではないという噂でもたったら、君はどう責任を取るつもりなのかな」
「……申し訳ありません」
もうそれしか言えない。
「噂はいい。民草とは、面白おかしく話を広げるものだ。何を調べられても痛くも痒くもない。だが、二人が王城を抜け出した、これは事実だ。万が一、相手方に知られたら、どう否定するんだ」
王子はまた深くため息をついて身を翻すと、椅子にどかりと腰掛けた。
「危うく軍を出動させて捜索させるところだったよ。本当に駆け落ちでもしたのかと思ったから」
「そんなこと」
私はともかく、王女が私と逃げたいと思うはずはない。
「君の部屋に遺書があったから、思いとどまった。これは帰ってくるつもりだろうと」
王子の言葉に、身体がこわばった。
城下に出る前に、故郷の家族に走り書きだが遺書を書いた。不出来な息子で申し訳ない、と。今までありがとう、と。ただただ、謝辞だけを連ねた手紙。もし私が処刑されたとしたら、その手紙は届くかどうかはわからなかったが、それでも一縷の望みをかけて書いた。
「エイラのわがままに付き合ってやって欲しいとは言ったけれどね、命を賭してまでやるとは思わなかった」
「違います。私がそそのかしたのです」
「エイラは逆のことを言っていたけれどね」
そして何度目かもわからないため息を、またついた。
「とにかく、当分は謹慎だ。ひとまず周りには病欠ということにしておこう。追って沙汰は伝える」
「はい……申し訳ありません……」
私はのそりと立ち上がり、扉に向かって歩く。
部屋を出る前にもう一度王子のほうを見たが、憔悴した様子で机に肘をついて、額に手を当てている。
もしこの場で本音を言ったなら、きっと王子は抜刀するに違いない、と思う。
それでも私は、今日のことを後悔などしていないのです。
あれから、何人か同僚の者が部屋を訪れてきた。
「病気だって?」
彼らは、王女の輿入れが迫ってきて仕事が手につかないほど落ち込んでいる私を、見たかったようだった。
だが私の顔色を見て、表情を変える。
「……本当に顔色が悪いぞ」
「軽い風邪だと思うんだが、殿下に伝染してはいけないから。大事な御身体だからね」
私がそう言うと、ああ、と合点がいったように皆うなずいた。
あれから私はほとんど部屋を出ることなく、膝を抱えて暮らしている。顔色が悪いのは不健康な生活からか、それとも心の中に沈む重い澱のような想いからか。
王女は叱られただろうか。だとしたら申し訳ないことをした。もっと上手くやれればよかった、などと王子が聞いたら卒倒しそうなことを考えてみたりもした。
一人で部屋で過ごしていると、怖ろしいほどに時間が進まないが、だが着実に王女の輿入れの日は近付いてくる。
そんな日が永遠に来なければいいのに、と馬鹿なことばかりを考えて過ごし、王女が城を旅立つその日も、私は部屋のベッドにぼうっと横になっていた。
ふいに部屋の扉がノックされ、のそりと身体を起こす。また噂好きな同僚がやってきたのかと思った。
だが扉を開けるとそこにいたのは、王女の侍女だった。
彼女は表情を動かさず、「どうぞこちらへ」とだけ言い、先を歩き出す。
なんだろう、もしかしたら大事な日に私が暴れないようにと監禁でもされるのか、などと考えながら、私は黙ってその後をついて歩いた。
しかし侍女の足は。
あの、中庭に向かっている。
そう思うと、心臓がばくん、と跳ねた。
「どうぞ」
侍女が指し示す先に、王女がいた。彼女の背で、楡の木の葉が揺れている。
髪を結い上げ、何本もの髪留めでその見事な金髪を彩り、繊細でいて豪奢な刺繍が施された白いドレスを身に纏っていた。
輝いている。眩しいほどに。
「なんだか、久しぶりのような気がするわね」
王女は小さく微笑む。
「ええ、そうですね」
一瞬にして、向かい合って絵を描いていた時間に戻った気がした。
「いつもにも増して、お綺麗です」
私がそう言うと、王女は苦笑して返した。
「今、着飾る必要はないと思うのだけれど、道中、いろいろな方が見に来られるようだから」
耳を澄ますと、歓声のようなものが聞こえる。おそらくは、今日のことを聞きつけた国民たちが、一目、他国に嫁ぐ姫を見ようと城外にやってきているのだろう。
彼女は、こういう環境の中で育ってきたのだ、と思った。そのたおやかな身体で、いろんな人の期待を背負って生きている。
「ありがとう」
王女は言った。
「あなたのおかげで、この城での最後の日々を、楽しく過ごせたわ」
「そんな……それは、私の言葉です」
「だといいのだけれど」
そう言って微笑む。
だが次の瞬間、目を伏せた。
そして何度かなにかを言いたそうに、口を開いたり閉じたりしたあと、意を決したように、舌に言葉を乗せた。
「あなたには、わかっていたのでしょう?」
小さな声だ。私の少し後ろで控えている侍女にはきっと聞こえない、声。
なにが、とは聞かなかった。
わかっていた。
私は彼女をずっと見ていた。
だから、わかった。
彼女の、本音。
だが。今、私は、王女の命令に背く。
「……何のことか、私にはわかりかねます」
拳をぎゅっと握ってそう言った。
「そう。ありがとう」
命令に背いた私を咎めることなく、彼女は悲しく微笑んだ。
「私ね、あなたが絵師になればいいと思うの」
「は……」
「あなたが有名な絵師になったら、私はセイラスで自慢するの。私の祖国にはジルという絵師がいて、私はその才能を見抜いたのよ、って」
そうしてころころと笑った。私もつられて笑う。
「エイラ殿下」
背後から、侍女の声がした。そろそろ時間だ、ということだろう。
侍女は王女の傍に寄り、紙を丸めたものを王女に渡した。王女はそれを受け取ると、私に差し出す。
「これ」
私はそれを、両手で受け取った。
「これを、お願いできるかしら?」
中は見なくてもわかった。これは私が描いた絵のうちの一枚だ。
それにはきっと、彼女の本音が描かれていた。
その絵は、彼女の告白なのだ。
「必ず。御意のままに」
私は王女の前で膝を折る。そして胸に手を当て、深く頭を下げた。
「衷心より、エイラ殿下の幸せを願っております」
これは、本音だ。私はあなたの幸せだけを願っている。
「ありがとう。元気で」
頭の上から声が降ってきた。顔が上げられない。私は下唇を噛み締める。
王女と侍女の足音が、次第に遠ざかっていく。そして私はゆっくりと立ち上がり、顔を上げた。
彼女の背を見送る。
そして、気付いた。
彼女の金の髪に、あの菫の髪留めが目立たぬよう、留められているのを。
エイラ。
私は心の中で、その名を呼んだ。あの日だけ許された呼び名を、私は二度と口にすることはできない。
握っていた手を開く。手の中は自分の爪で傷ついていた。
それをしばらく眺めたあと、私は歩き出す。
彼女の最後の願いを叶えるために。
王子の執務室を訪ねると、私に気付いた同僚が、無言で隣の面談室を指さした。
彼らに小さく一礼すると、面談室に向かう。
部屋に入ると、窓を背にして王子が座っていた。表情は陰になっていてよく見えないが、王女と同じ色の金髪は、窓から差す陽の光に輝いていた。
そして、王子はゆっくりと口を開く。
「エイラに呼び出されたようだね」
「はい」
「お別れは、済ませたかい?」
「はい」
「そうか」
「アレス殿下」
私は頭を下げる。
「いかような罰でも受ける覚悟です。今までありがとうございました」
だが、王子は立ち上がって近寄ってくると、私の肩をぽんと叩いた。
私ははっとして頭を上げる。
王子は穏やかに微笑んでいた。
「それはもういいんだ。エイラは無事に城を旅立った。あの日のことは、もういい。ただし、一生黙っておくことだよ」
「あの……それでいいんですか」
自分のことながら、それではあまりにも甘すぎやしないか。
「いいんだよ。私たち以外に知る者はいないのに、処罰の与えようがない」
そう言って肩をすくめる。
私は言葉を失う。そんなことで済むのか。首を斬られても文句を言えないことをしでかしたのに。
「まあ正直、面倒だしね。処罰しようと思ったら、陛下に報告だとか、裏工作だとか、いろいろやらなきゃならないことが増えるし」
そう言って、にやりと笑った。
だがおそらく、この王子ならば、何事もそつなく行ってしまえるはずだ。
私はまた深く頭を下げる。
「それで、あの、アレス殿下」
「なんだい?」
「エイラ殿下から預かり物です」
「エイラから?」
私はさきほど預かった絵を王子に差し出した。
王子はそれを受け取り、そして広げた。
「ああ、これはいい絵だ」
私はその中を見てはいない。けれど、それがどの絵かはわかる。
王子を見つめる、王女の絵だ。
「私に持っていて欲しいということかな」
「そう思います」
「そうか。城内に自分がいた証を残したかったのかもしれないね」
違う。
そう言いたかったが、私は口をつぐむ。これは言ってはいけない。決して口にしてはいけないこと。
ふいに、はらりと涙が頬を伝った。
「あ……あれ……」
慌てて手の甲で涙を拭う。だが、次々とあふれ出るそれは、止まることを知らない。
「す、すみません。いや……なんで……へ……変だな……」
どうして私は人前で、さらには王子の前で、こんなにみっともなく泣いているんだろう。
「……エイラも、感謝していると思うよ」
労わるような、優しい声音。
「彼女は、『輿入れしたらできないこと』にこだわっていた。君のおかげでかなり願いは叶ったと思う」
そんなことはない。私は何もできなかった。
「私は思うんだ、きっとね」
やめてくれ。その先は言わないでくれ。
違うんだ、それは違う。
「エイラは最後に君と『恋をする』ことができたんだ」
違う違う違う違う。
王女は確かに恋をしていた。
けれどその相手は、私ではない。
彼女が恋をしていたのは。
最初に私に絵を描くよう言ったのはなぜか。絵の腕前も知らないのに。
第五王子の執務室に近いあの中庭で描いてほしいと言ったのはなぜか。室内で描くのが普通なのに。
彼女は確かに、恋をしていた。
恋をしていたけれど、それは。
「エイラはなぜ絵を君に託したのだろう? 私に直接渡せばいいのに。それはきっと、私に後押しして欲しかったんじゃないのかな」
私はその言葉に、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「君は、絵師を目指すべきだ。彼女はそれを望んでいる」
「……アレス殿下、許されるなら」
「なんだい?」
私は腕で涙を拭う。そして顔を上げた。
「暇をいただきたいと思います。エイラ殿下が望むなら、私はもう一度、絵師を目指したい」
私の言葉に、王子はうなずいた。
今度は、ちゃんと夢を追う。
彼女が望む、セイラスで自慢できるような絵師に。私ができるかもしれない、ただ一つの、彼女への恩返しの可能性。
「そういうことなら、王宮の絵師に話を通しておこう」
「えっ」
「王宮の絵師に弟子入りするのが一番の近道だろう?」
そう言って笑う。だが、いくらなんでも、それは。
「そこまで甘えるわけにはいきません」
「いや、甘えるといい。できれば君を目が届くところに置いておきたいというのもあるし」
無罪放免、というわけではないからね、と王子は笑った。
「それから、私は話をするだけだ。弟子をとるかどうかは、あちらが決める。それとも、お眼鏡に適う自信はないかい?」
挑発的な物言い。だがそれは、第五王子の優しさだろう。
「……ではありがたく、受けさせていただきたいと思います」
「じゃあ、また追って伝えよう。もし駄目でも私を恨まないでくれよ」
王子は口の端を上げる。私もつられて笑った。
「では、もういいよ。他の者に、暇を願い出たことを言って挨拶したまえ」
「はい、ありがとうございます」
「いや、その前に顔は洗ってきたほうがいいかもしれないな」
そう言ってくつくつと喉の奥で笑った。慌てて両頬を交互に手のひらで拭った。
頭を下げると、扉に向かう。背後で王子が先ほどの絵を開いたのがわかった。
扉の前に着くと、開けてから振り返って一礼する。そして顔を上げると、王子が絵を眺めているのが目に入った。
眩しそうに目を細め、口元に小さな笑みを浮かべて、指先で絵の表面をそっとなぞっていた。
ああ。
あなたも。
あなたも、恋をしていたんですね。
私は扉を閉め、目を閉じて一息つくと、顔を上げてまた歩き出す。
◇
中庭に立ち寄って、頭上を見上げる。
あの日、王女が登っていた楡の木。
ふと思いついて、私は楡の木に手を掛ける。
「これは……」
足場がなかなか取れず、上に行くのが難しい。あのとき、王女はドレスを着ていた。どれだけの根性でこの木に登ったのか。
「よっ……と」
王女が腰掛けていた枝に座る。
眺めても、さほど景色がいいとも思えない。高い城壁が邪魔で、城の外は見えなかった。
ふと横を見る。
ああ。
このために、登ったのか。
枝の先にあるのは、王宮の一室。
第五王子の、執務室。
だが。木の葉に邪魔されて、中は到底見えそうもなかった。枝の先のほうに行けば見えるのかもしれないが、いくら華奢な王女でも、きっと枝が折れてしまうだろう。
それはまるで、王女の恋を表しているかのようだった。
手に届きそうで、届かない。すぐそこにあるのに。すぐ傍にいるのに。
胸の奥から何かがあふれ出そうになって、私は唇を噛み締める。
ふと、頭上に何かの気配を感じて、顔を上げた。
鳥だ。白い羽根の美しい小鳥だった。
そしてその鳥は、私に気付いたのか、枝から飛び立った。
高く、高く。城壁を越え、自由に、空へ。
鳥が見えなくなるまで、私はその姿を見送った。
了