来てしまったものはしょうがないというか、ここまで来たなら……たとえそれが一生のトラウマになろうとも見てみたいという……そんな気持ちも芽生えていた。
夜に知らない場所に来たものだから変なテンションになってしまっているのか、好奇心も働いている。今を逃せば二度と悪夢の中に入るなんて経験はできないだろう……。
「ここが悪夢治療室。そのまんまの名前だね」
けれど、やっぱりその部屋まで来ると怖いのほうが大きかった。
増川が開いた扉の先に見えたのは仰々しいサイズの白い機械。人間ドックのような、酸素カプセルのような、デザインや色がなんとなく医療用の装置みたいではある。ちょうど人が1人入れるようなガラスばりの空間が設けられた装置が部屋の中にはあった。
そして、その隣にはご機嫌そうに微笑んでいる院長の馬場。
「いらっしゃい若者たち。草部君もちゃんといるね。増川君一通り説明してあげた?」
「これからです。やりながら説明しようかと」
「そのほうがいいかもね。見たほうが早いし」
馬場は機械の正面に立って、何やらボタンをいじり始める。
いやいや、ちょっと待ってくれ。もうすぐ始めてしまうのか。まだ心の準備が……。凛太は焦りで気が気ではなかった。
「あのすいませんすいません。本当にこれ大丈夫なんですか。安全なんですよね?死にはしませんよね?」
凛太が言うと、とまと睡眠治療クリニックの一同は口を揃えて笑った。
「そんな死んだりなんかしないよ。もしそんなに危険なバイトなら俺だってやってないし」
「かわいいですね。大丈夫、私たちが付いているから」
笑い事じゃないと凛太は思ったが、その笑い声で吹っ切れることはできた。ろくに説明してもない癖に人のことを笑いやがって、やってやろうじゃねえかと。
大体どこのバイトも新人に厳しすぎる。仕事内容を簡単に説明するけれど、いつもやってる人の感覚で教えられてもついていけないものなのだ。
「じゃあ、今からやることを説明するね」
「はい」
「今からこの何個かある機械のカプセルの中に入って、このヘルメットみたいな装置を頭にかぶって目を閉じます」
機械の中には増川が言うとおり機械といくつものケーブルで繋がったヘルメットがあった。
「それで、機械のスイッチが入ると俺たちは眠って患者と同じ夢の中に入るのね。今回の場合は、会社員の男性31歳の方の夢の中。これはもうとにかくやったら分かるから。そこには俺と桜田さんもいるから安心して」
「……はい」
「夢の中でやることは入ってから説明するから、とりあえず行こう」
「……はい」
凛太は諦めて、聞き返すことはしなかった、
「怖かったら目をつぶっててもいいからね。頑張ってみよう」
凛太の肩を叩いて言うと、桜田はウキウキな仕草で機械の中に入った。こんな女性でも大丈夫なら大したことない可能性も見えてきた。
続いて増川がその隣の機械へ……凛太も、馬場の手伝いを受けながら機械の中に入る。
ガラスの内部は室内よりもひんやりと冷たくて、シングルベッドよりも少し狭いくらいのスペースがある。背中を支えるマットも程々に柔らかくて居心地は悪くない。
「おやすみなさ~い」
置いてあったヘルメットをかぶって、目を閉じると馬場の声がガラス越しに小さく聞こえた……。
不思議なもので、その声が聞こえると凛太は強烈な眠気に襲われた。何も考えられなくなる……心地の良い、静かな海の中にいるような……深く深く精神が沈んでいく。
凛太は眠りに落ちた。
これが想像をはるかに超える恐怖の始まりだった。
次に目を開けると、凛太はアスファルトの上に立っていた。
見渡す景色は日本のどこにでもありそうな住宅街、屋根の色が違う家屋が道に沿って並んでいる。隣にあった無機質な電柱……空ではその電柱と同じ色をした雲がどんより漂っていて、いつ雨が降り出してもおかしくない重い雰囲気を纏っていた。
暗くはない……。朝方か夕方か、そのくらいの明るさ。
ここが現実ではないことは何となく理解できる。空気の密度が濃い感じがして、体を動かせば薄く纏わりついてくる。目には映ってないけど霧の中にいるような……けれど、吸い込んでも全く味がしないというか……。
それに、風が全く吹いていない。屋外にいる気がしない。
緑の葉っぱを茂らせた街路樹は微動だにせず、作り物のようにそこにあった。
「草部君こっちこっち」
見える景色の形容しがたい不気味さに、目を奪われていると増川の声がする。後ろから聞こえてきた声に振り向けば、美しい桜田もそこにいた。
「すごいでしょ。ここが夢の中だよ」
「無事に来られたみたいですね」
凛太はすぐに声を出すことができなくて、喉を大きく動かして空気を飲み込んだ。
「こ、ここが夢の中なんですか」
「そうだよ。びっくりするよね」
「こ……これって現実……」
「現実だよ。いや、夢の中だけど。おかしな夢を見ている訳じゃない」
「………………」
「行こう。歩きながらここで俺たちがやることを説明するよ」
増川は凛太の代わりに自分のほっぺたをつねって見せて、凛太の背中を軽く叩いた。
「ここって、うちの大学の近くですよ。真っ直ぐ行ったら一宮大学です」
「そうなの?じゃあ今日の患者さんはこのへんに住んでるのかもね」
「私の家の近くにも悪夢を見てる人がいるんだ。どんな霊がいるんだろう。楽しみだなあ」
桜田は散歩でもするかのように、口角をあげて景色を眺めている。
「草部君も一宮大学なんだよね?」
「はい」
「何年生?」
「3年です」
「私は4年生。経済学部」
「そうなんですか。でも4年生って……その、いいんですか。バイトしてて」
桜田が隣で陽気に話しかけてくるものだから、そんな場合ではないのだけれど凛太も応答した。
「このバイトはね、疲れないの。理由はあとで分かると思うけど。私にとって生きがいだし、来年社会人になっても続けるかもしんない」
「へー」
桜田が一個上の先輩という情報だけ頭にしまって、凛太は桜田から目を逸らす。
道の真ん中を3人で横並びに歩いていると、その先に見慣れた建物である一宮大学が見えてきた。そこまで来て、振り返ってみると通ってきた道は見たことがある形をしていることが分かった。普段、通ることは無い道だが知ってはいた。
「いいかい草部君。これから俺達がする仕事は悪夢治療」
「はい」
「それは簡単に言うと、悪夢をただの夢にすることなんだ。それはつまり、現在恐怖の真っ最中にいるであろう夢の主を俺たちが救い出すんだ。今回の場合で言うと患者の男性は毎晩夢の中で知らない女に殺されてしまうらしい。何度も何度も。だから俺たちがそこから救い出す」
凛太は増川の話を適当に頷きながら聞いた。
「悪夢の種類が十人十色であるように、救い出す方法も臨機応変に選ばなきゃいけないけど、基本的には夢の中の患者に会って、俺たちが来たことを伝えるって方法」
「それだけでいいんですか」
「うん。ここは夢です。俺たちが付いてますって患者を励ませば悪夢で無くなる場合がほとんどだね。院長の話によると、1回こうして治療するだけで長く続く悪夢も大体直るらしい。悪夢治療にはそれを克服するイメージを作るのが大切なんだとか」
「悪夢をただの夢にする……」
「詳しくはまた院長に聞いてみなよ。あの人この話するの好きだから。悪夢をただの夢にする……これだけで患者さんは悪夢とおさらばできる」
簡単そうに増川は言うけれど、凛太はそんなことできるのかと不安だった。納得させられる理論ではあるが、そもそも夢の中に入ってこれているのも未だに信じられない。
「だから、まずはこの夢のどこかにいる患者を探さないといけないんだけど、それはほとんどの場合さほど難しくない。夢の中は狭いし……」
その時、聞こえてきた声は増川が狙って話していたのではないかというタイミングで、空間に響き渡った。
「こうして、患者が悲鳴をあげたりするからね」
悲鳴が聞こえた方角へ住宅街を歩く……。その間も、悲鳴は凛太の耳にずっと突き刺さってきていた。
今まで聞いたことが無いくらい苦しそうで悲痛な叫び声だった。大の男がこんな声を出すのかと思う……聞いているだけで頭がおかしくなりそうだ。
それなのに、凛太以外の2人は特におびえた様子もなく、先ほどまでと変わらない様子で前を歩いていた。
「ここだね」
「はい」
辿り着いたアパートを見ると、すぐにここだと確信できる。
建てられてまだ日が浅いであろう真っ白な壁をしているアパート……そこにいくつかある窓の1つだけが真っ赤に塗れらていた。その窓からインクが滲むように壁面へ赤色が漏れている。
あそこだ……あの部屋からだ……あそこで何かが起こっている。
「草部君。どうする初めは外で見ておく?」
「いや中までは入ったほうがいいんじゃないですか。何やってるか分かんないでしょう」
「ちょっと、本当にこんなとこへ入っていくんですか。やばいですよどう見ても」
「それが仕事だからね」
2階にあるその部屋へ向けて、増川はアパートの階段へ進んだ。
「とりあえず草部君は離れたところで見ててよ。こんなん大したことないから」
付いていきたくなかった……。けれど、1人で取り残されるのも心もとない。
「ここにいるであろう男の人は、逃げても逃げても繰り返し殺されるらしい。いつも、正面から頭へ刃物を突き刺されて目が覚めるんだって……」
増川が怪談をなぞるように話している……屋根の下にくると薄暗くて階段の境目がよく見えない。
凛太は後ろからも何か来るんじゃないかと、しきりに後ろも警戒した。
そして……
……いよいよ
玄関からも血が滲んで漏れているドアが……
開けられた
増川と桜田がその部屋に入ったのを見た後、一息ついて覚悟を決めてから凛太はその先を見た。
目に飛び込んできたのはこれでもかというほどの赤色、壁や床が見えてる部分のほうが少ないんじゃないかというほどの張り付いた血しぶき。
そして、今まで何の匂いもしていなかったのに……部屋に充満する血の錆びついたような匂いがそこらじゅうからするようになる。
空気もより濃く重い。その先へ進めば進むほど。
先に通った2人の歩みが、まだ新鮮な血の上で足跡となって残っている。男の悲鳴に交じって聞こえてくる刃物が肉を刺す音も、もうそこまで近い。
凛太が男の寝室まで、たどり着いたとき……ちょうどそのタイミングで見た光景は……血だらけの男に馬乗りになった女が、男の頭めがけて刃物を思いきり振り下ろす瞬間だった。
ベッドの上で横たわる男へその刃物がどう刺さったのかは分からない。ここからでは遠いし女の腕が死角を作っていてよく見えなかった……けれどその光景は凛太にとってあまりにも凄惨に見えた。
「大丈夫ですかー。これは夢ですよ。私たちが来たのでもう大丈夫です。……えっとこの患者さんの名前なんですっけ?」
「木下さん」
「木下さん。生きてますかー」
凛太は部屋のドアの位置からそのやり取りをずっと見ていた。早くこれが見えない場所に行きたい……その思いはあるが、見える景色が衝撃的過ぎて逆にその場から動くことができなかった。
「もう心配いりませんよ。私たちが来ましたから。これはただの悪い夢です」
桜田が励ましながら男に近づく間も女は刃物を振るい続けた。何度も何度も……刺す場所を変えて、包丁らしき刃物を振り下ろし続ける。
女の手は青白い。けど、赤い血管が蜘蛛の巣のように浮き出ている。髪は長く乱れて、服は雑巾みたいに汚い。典型的な霊と言えば、こんな感じという見た目をしていた。
ここから見えない女の顔はどんな表情をしているんだろう……。
「わあ。危ないな」
桜田が無警戒に女のすぐ横まで近づくと女は桜田に刃物を向けた。
凛太はよくあんな化け物に近寄れるなと思っていたが、案の定こちらにも危害を加える存在だった。
「増川さんお願いします」
「はいよ」
軽く答えた増川はおもむろに部屋にあった椅子を持ち上げると、あろうことかその椅子を女に向かって振り回した。
衝撃を受けた女はベッドから振り落とされて床に倒れた。凛太の足下にちょうど顔がくる形で。
「あ。ごめん草部君」
眼鏡をかけた平凡な男なのにとんでもないことをする……。さらに増川は続けて、凛太の下で崩れ落ちた女を部屋の隅に蹴り飛ばし、止めの一撃まで加えた。
凛太はその光景が最も恐ろしかった。それこそが悪夢に見えた。
目を見開いて口が裂けるほど口角を上げた女が、その表情を変えぬまま首が折られた様子は当分目に焼き付いたままになるだろう。
「君たちはっ……。ありがとう……助けに来てくれたんだね」
「はい。もう大丈夫ですよ。こんな悪夢ぶっ壊しちゃいましょう」
男はというと……ようやく桜田の存在に気付いた様子だった。体を起こし、桜田に抱きつきそうな勢いで迫っていた。
「よしよし。もう怖くない」
「ありがとう……ありがとう……君はなんて美しいんだ。俺の女神だ」
桜田は母のように男を受け入れ、頭を撫でていた。男からしてみればあの美貌の助けられたら確かに女神に見えるだろう。
「ちょっと羨ましいよな」
「…………は、はい」
増川が腕を組んで言った。
「何だこれ。俺の体血だらけじゃないか。いってえ」
男がようやく自分の体の痛々しさに気づく。現実では絶対に生きてないであろうほど血まみれの手足を見て慌てふためいた。
「大丈夫です。それも夢なんでほんとは痛くないはずです。私たちが付いているのでもう一度ゆっくり眠ってみましょうか。それとも散歩にでも行きますか?」
「本当だ……。言われてみれば痛くはない。……明日も仕事だ。寝ようか」
「はい」
増川と桜田はしばらく男が眠るベッドに座って、男を寝かしつけた……。
「草部君。帰ろうか」
男が眠りに落ちたのを確認すると桜田が笑いながら言った。その顔や体にはまだ男の血が生々しくしたたっていた。
「草部君ってビルの屋上から飛び降りたことある?」
「え、ないですよ。あるわけないじゃないですか」
「だよね。あったら死んでるもん」
患者のアパートから出た凛太と桜田は入り口で話していた。
「じゃあこれから一緒に飛び降りてみない?私は今から高いところに上ってジャンプするつもりなんだけど」
「は?何言ってるんですか」
「どうやってこの夢の中から現実に帰るか気になってるでしょ。一番手っ取り早いのはこの世界で気を失うか……死ぬかなんだ」
「マジで言ってるんですか。そんなことしないといけないんですか」
「いや、待ってても院長が患者の睡眠状態が良くなったのを確認すると起こしてくれるよ。だいたい20分か30分くらいかかっちゃうけど」
「じゃあ待ちましょうよ」
「待つのも退屈じゃん。だから現実世界では絶対味わえない死の体験をしてみるの。増川さんと一緒の時はいつもやってるよ」
ここまでの交流で十分感づいているが、桜田はどうやらあたまのネジがぶっ飛んでいるらしい。整った顔に反してホラーやグロテスクが好みなんだろう。
けれど、こういうかわいい子に限って変な趣味があったりするものだと凛太は思った。
「あ、増川さん遅いですよ。今日も飛び降りることにしたんですから急ぎましょう。ダラダラしてたら目が覚めちゃう」
「そうなの?じゃあ行こうか」
少し遅れてアパートから出てきた増川も飛び降りるという行為に疑問を持たずに、乗り気だった。
凛太はもうどうにでもしてくれという気持ちで2人に付いて行った。上ったのは一宮大学の屋上。いつも通っている学校なので入ることには特に恐れはなかった。夢の中なのにしっかりと屋内まで再現されていることには感心する。
「桜田さんと草部君はこんなとこに通ってるのか」
「増川さんは一宮大学に入るの初めてですっけ?」
「うん。5階建ての屋上まで上るのってけっこう大変だね」
「エレベーターが無いので、講義でも4階とか5階だと行くのがしんどいんですよね」
凛太は2人の背中を見ながら、早く帰って今日のことを忘れたいと思っていた。すごい仕事だったが、とりあえず乗り切ることはできたっぽい。
また悪夢の中に入りたいとは思わないし、言いづらいが初日でやめさせてもらうことも決めていた。
「じゃあ草部君から行ってみる?」
「いやいや先に行ってくださいよ。こんなん夢とはいえ無理っすよ」
「大丈夫大丈夫。高いところから飛び降りると地面に付く前に失神するって聞いたことない?これは死ぬってよりも気絶して起きる感じだから。痛い思いはしないよ」
「って言われても……」
屋上の手すりから除いた地面はかなり遠くて、飛び降りることを想像すると寒気がする。
「じゃあ私が手本見せますよ」
「そうだね。やっぱ先に行こうか」
増川と桜田は臆せず手すりによじ登り、その上に立った。さらにノータイムでそこから落下を始める。
桜田は軽くジャンプしてから楽しげな声をあげながら、増川なんて背面から落下して凛太に手を振っていた。
そして驚いたのは2人の体が地面に着いたかその手前くらいで煙のように世界から消えてしまった。
「マジかよ……」
凛太はその場で腰を下ろして、雲行きの怪しい空を見上げる。誰が屋上から飛び降りなんてするものか。このまま待って目が覚めるのを待とう。
そう決めたのだけれど……
凛太だけになったはずの世界で、何故か閉まっていた屋上の扉が金属が擦れる音ともに開いた。
ゆっくり開いていくその扉を何事かと見ていると……出てきたのは血だらけの女だった。
先ほど患者の男の家にいた刃物の女だ。増川に首を折られているので首が直角に傾いている。
さらにその女は凛太のことを見つけると、明らかに目標を定めて近づいてきた。
凛太は立ち上がり、急いで屋上の手すりを上り空中へ身を乗り出した。先に行った先輩たちのように飛び降りる。それしか選択肢が浮かばなかった……。
急いで頭から飛び降りた凛太の体はそのまま空中で一回転した。見える景色があべこべで……脳が揺らされているような感覚がする……。
今までにない経験で、どう体のバランスを保てばいいのか分からない。
それも束の間――地表のアスファルトを視界に入れると凛太は頭からそこへぶつかった。受け身を取ることもできず、刺さるように。
しかし……凛太は夢の中に留まったまま、目覚めることはなかった。
頭部が無くなってしまったんじゃないかというほどの耐え難い鈍痛。下の歯や顎の骨まで鈍い響きが通り抜けてきて、顔中が麻痺している。
それでも意識は鮮明に……ここが夢であることを認識して、早く覚めてくれることを願っていた。現実なら即死なはずなのに……早く……早くここから。
凛太は痛みで顔を歪めながらも、仰向けになり片目だけを開く。見えたのは自分が飛び降りた大学で、この状況の解決策なんて何も示してはくれない。
どうしようもこうしようもなくて、ひたすら痛みに耐えながら自然に夢が覚めるのを待つ凛太。けれど、やってきたのは希望ではなく絶望だった。
空から凛太を追って女も降りてきた。手を広げてとびかかるような恰好をしている。
長い髪がなびいているのが見えたら、もうその表情や曲がった首を見るのが嫌で目を閉じるしかなかった。ただ、目を閉じて何も起きないうちに夢から出られるよう神に祈るしか……。
「あああああああ!」
声が自ら喉を破ったように飛び出して、目を開いた場所は装置の中だった。ガラス越しに悪夢治療室の景色が見える。
現実に戻ってきたことを認識しても動機が収まらない。ついさっき全力疾走したみたいな感覚がする。汗も額から粒になるほどかいていた。
「おはよう。草部君」
馬場が装置のガラスを開いて、凛太の顔を覗き込む。
「寝覚めが悪いようだね。大丈夫かい?」
「はあ―――大丈夫じゃないですよ。夢の中で俺……」
「何か問題があったのかな。先に起きた2人は元気そうだったけど」
「問題なんてもんじゃ……俺はさっき死ん……」
声に出すことでもう一度想像してしまうのが恐ろしい。馬場にどう説明しようか言葉を考えていると横から他の人の声がする。
「草部君起きたみたいですね」
「うん。今しがたね」
増川と桜田も凛太が起き上がった装置の周りに集まってきて、凛太は3人に囲まれる形になった。
「それで、草部君初めての悪夢治療はどうだった?面白かったでしょ」
「全然面白くないですよ。何なんですかこれは」
「え、ダメだったの。増川君の話ではちゃんと見学してたって」
増川に一同の視線が集まる。
「初めてなのにちゃんと見れてましたよ。腰も抜かしてなかったし」
「そうでしたね。私も初めてにしては優秀だったと思います」
「だよね。良かった草部君がバイト続けられそうで。またすぐ新人がやめちゃったらどうしようか心配だったんだよね」
まだ頭に痛みがしていた感覚が残っている……。周りからは見えないように抑えていたが、手の先は小刻みに震えていた……。
気絶はしていない。目が覚める前に一瞬だけした首の痛み。ついさっき自分は夢の中とはいえ死んだのだ。
3人で話を進めているが冗談じゃない。こんなバイト……
「無理です。俺……このバイト……」
「ええ。そんな」
「すみません。迷惑だと思うんですけど続けていく自信がないです」
「考え直してよ。普通の子なら初日で何も言わず逃げ帰ったり、泡吹いて意識失ったりするんだから、草部君は本当に才能あるよ」
こんな仕事に才能があるなんて言われても嬉しくない。凛太は深刻な表情をつづけて、ちゃんとお断りする姿勢に入っていた。
「夢から出る前に……目が覚める前に僕、とんでもない経験してるんですよ。増川さんと桜田さんが飛び降りれば夢から覚めるって聞いてたので飛び降りたんですけえど、目が覚めなかったんですよ」
「嘘?本当に?」
桜田が目を丸くする。
「じゃあもしかして……そのまま地面にぶつかって痛い思いしたの?」
「はい」
凛太以外の3人は顔を合わせて、それはまずいといった表情をした。口を開けて、何を言おうか困っている。
「しかも、その後幽霊が追ってきたんですよ。……そういえば悪夢ってちゃんと治療出来てるんですか?幽霊生きてましたけど」
「患者さんは大丈夫だよ……ちゃんと心地よく眠れてる」
馬場はタブレットを取り出して、光る画面を見ながら言った。
「そうなんですか。とにかく僕はあんな怖い経験二度としたくないんです。今日だけでもたぶん一生忘れられないトラウマですよ」
「いや……もう少し続けてみようよ。というか、続けてくれなきゃ困るんだせめて今週中は」
「え」
「実はバイトの子の内2人が大学の実習だかで今週は入れなくてね。増川君と桜田さんも毎日来てもらうのは大変だろうし」
「聞いてないですよそんなこと。初日でやめてもいいって」
「もうトラウマになったなら、1回も2回も3回も変わらないじゃないか。お願い一週間だけ。まだこの仕事について知れてないことも多いだろうしもう少しやってみようよ」
「ええ。そんな」
夢から覚める前にあった恐怖体験の話をすれば、やめるのも納得してくれるかと思われたが、なぜだか馬場はより一層凛太を止める構えになった。
「それに疲れてないだろう。時計を見てごらん」
「これって……」
「そう。草部君も装置の中で寝ていたんだからね。夢の中にいる間はすぐに時間が過ぎるんだ」
ほんの30分か40分くらいの出来事だと思っていたが時刻は午前2時になっていた。たしかに体の疲れというのは全く無くて、むしろちゃんと寝て休んだ感覚がある。
桜田がこのバイトは疲れないと言っていたのはこれか。
「一週間後にまたバイトを続けるかやめるか聞くから、その時の答えには何も言わないよ。うちも特殊なバイトだからね。やめるのも仕方ない」
「本当ですか?」
「うん。約束するよ。君は本当に悪夢治療の才能があるから……。起きてすぐにこうして普通に喋れるだけですごいんだよ。だから……ね。僕もサポートするから。次の草部君のシフトの日には何か奢るよ」
馬場はタブレットを置いて凛太の肩を掴んで言った。その時の馬場は本省むき出しで子供みたいというか、馬場の見た目なら獣みたいな……そんな風に見えた。
笑っているような、そうでないような。よだれを垂らしそうに口を緩ませて目を輝かせていた。
それを断りきれず、凛太はとまと睡眠治療クリニックでの第二夜を迎えることになる。
目覚めた凛太のベッドは珍しく荒れていた。掛け布団が足先まで蹴飛ばされていて、枕はベッドから落ちていた。
いつもは寝相が良くて、起きたときにすっきりした感覚があるが今日は違った。変な形で固まっていたので首の後ろが寝違えたらしく凝っていた。
どこにも発散できない体が鉛になってしまったような不快感。それもこれもあのバイトのせいだ。
帰ってきてから、眠気を感じたので朝方に寝直そうと思ったのだが、眠るときも上手く寝付けなかった。目を閉じると、嫌な夢を見てしまいそうで不安だった。
実際何か嫌な夢を見ていた気もする。大体夢を見ていても起きたらすぐ忘れるタイプなので覚えていないが……バイトを続けると、その内自分が悪夢障害にかかるんじゃないかと心の中で毒づく。
凛太はベッドから起き上がると、シャツを脱いで扇風機の風量を強にした。扇風機を顔の前に持ってきて全身で風を浴びる。
じんわり背中を湿らす汗にも舌打ちをしたが、これは扇風機だけで眠った自分が悪い。朝方は涼しかったので油断してしまった。夏の暑さを舐めていた。
時刻はもう午後1時、想定していた時間よりも長く眠っていた。凛太はクーラーの電源をつけて、ついでにゲーム機の電源もつける。
空腹も感じるが、起きてすぐは何も食べたくない。ゲームでもして嫌なことを忘れることにした。
……しかしまあ、こうして平然と過ごしていられるだけでも実際すごいのかもな。寝ぼけ眼でやる対戦FPSで勝利したとき凛太はそう思った。
馬場もバイトの同僚も自分のことを褒めていたけれど、たしかに心の弱い人が見るとしばらくは普通の生活ができなくなりそうな光景を目にしても、一応眠れて腹も減っている。
たぶん、今日のバイトもサボらずに行くだろう。
昔から図太いほうではあったと自分でも思う。ホラー映画が好きなわけではないけれど、子供のころ家族と一緒に見たホラー映画では母と父が目をそらしている中、じっと見ていた記憶がある。
それに給料が良いのを加味しても、それでもあのバイトを続けようとは思わないが。まあ、一週間くらいならなんとかなるだろう。
凛太はそれから家でゴロゴロする日中を過ごした……。途中、同じサークルに所属する友達から遊びの誘いの連絡が来たが「バイトがあるから」と断った。
バイトをやめるまではしっかりと心の準備をしてから勤務しなければならない。やめた後には、言ってはダメと言われてもこっそり仲のいい奴らに話すつもりだ。
昼にはカップラーメン、夜には冷蔵庫にあるものでチャーハンを食べた。あとの時間はゲームをしたり、漫画を読んだり……。
そして、出発する前に風呂に入った凛太は自転車に跨って、昨日と同じく夜の街へ向かった。
「夢の中の園児達が変なんです。毎日ではないのですが頻繁に見る夢の中で、私は現実と同じように保育士として保育園に勤務しているのですが、園児たちの容姿や行動がおかしくなるんです。それは形容しがたいですがとっても恐ろしく……」
準備室で増川が教科書を朗読するかのように感情なく声を出す。
「このままではせっかく夢だった保育士になれたのに1年も経たずに退職してしまいそうです。現実でもいつ夢と同じことが起きるのかと園児と接しているときにビクビクしてしまっています……だって」
「それが、今日の患者さんの悪夢の内容ですか?」
「そう。草部君もバイトを続けるなら、来たらいつもこの紙をチェックするようにしといて」
「はい」
続けるつもりはないけど、一応返事はしておく。馬場院長とは距離を取る必要があるかもしれないがバイトの同僚には愛想よくして問題ない。
「そこの掲示板にいつも貼ってあるから、俺たちは悪夢ファイルって呼んでる。桜田さんなんかはいっつも嬉しそうにこれ見てるよ」
「へー悪夢ファイル。今日は桜田さんはお休みなんですよね」
「うん。今日は2人だね。2人だけど緊張しなくてもいいよ。最悪1人でもこなせる仕事だし」
だったら1人でやればいいのに……。昨日やめさせてくれればよかったのに……。ユウキはそう思って、実際言葉に出そうか迷った。
結果、言うことにした。
「だったら、何で今週シフトに入るバイトが1人になるってのを理由に引き留められたんですかね?」
「それはね、ちゃんと理由あるみたいだよ。悪夢から救い出してくれる人が1人より2人のほうが安心感あるでしょ。だから夢に入るのは2人以上じゃないとダメなんだって。院長が言ってた」
「ああ。そうなんですか」
「だから、患者に声かけるのは草部君にも一緒にやってもらわないといけないから」
「……はい」
22時が訪れて、シフト開始となった。増川が度のきつそうな眼鏡を布で入念に拭いてからかけ直すと、凛太と増川はパソコンが並ぶ患者見守り室に入った。
高い背もたれが付いたデスクチェアにしては質のいいイスに並んで座る。
「まだ悪夢は始まってないみたいだね。まだ眠ってすらないかな」
「そういうのも分かるんですか」
「うん。こういう暇なときにやっておくことになってる雑用がいくつかあるんだけど今日はいいかな。増川君やめるかもしんないんだし教えるのも大変だ」
「あはは。すみません」
凛太はなんて答えていいか分からず苦笑いで返した。
「いいよいいよ。俺個人的にはバイトが増えても増えなくてもどっちでもいいから。ちょっと忙しめではあるけど、俺は暇だしね。ははは」
「これって、もしかして一晩中患者さんが悪夢を見なかったりってこともあるんですか?」
「おお。気づいたね。そう実はそれあるのよ」
「ええ。じゃあ何もしなくていい日もあるってことですか」
「たまにね。そういうときはここで寝たりスマホいじってれば終わり。だから、本当に恐怖さえ乗り越えれば楽ではあるよ。このバイト」
凛太はモニターに映し出される波形を見ながら、今日がそのたまにあるラッキーデイだったらいいのにと思った。ついでに次のシフトでも患者が悪夢を見なければ、容易にこのバイトを終わらせることができる。
「でも悪夢見れないのは患者さんがかわいそうだよね。今日の患者さんだってはるばる鹿児島から来た人だってよ」
「そんな列島の再南端から来てるんですか」
「そうみたい。地元で睡眠治療受けても治らなかったんだって。悪夢ファイルにも書いてある。悪夢専門なんてうちぐらいしかないからな。高い交通費も払って来たのに悪夢見れなくて帰るんじゃ同情しちゃうよ」
増川という男は本当に見た目通りお人よしだ。先輩の人柄が良いというのはこのバイトの救いだ。
「あ、あとこういうのは守秘義務みたいなのであんまり他の人には話しちゃダメだからね」
「はい」
それでも、凛太は今日の患者さんには申し訳ないが悪夢を見ないでほしかった。自分という新人がいるから神様がうまいこと楽ができるように調整してくれることを願った。
しかし、座り心地の良いイスでだらけていると、悪夢を告げる赤い光が無情にも凛太の眼にうつる……。