お母様が私を実体化させてから、私は先生の理想通りに動く人形ではなくなった。私には自我が生まれた。先生の思い通りに動くだけの存在から、拒否権を手にした存在となった。

 それを、先生は喜んでいる。


「そんなに……嬉しいですか?」

「ああ。少し前まで、僕が「不味いか?」と聞かない限り、ユウは「不味い」と発することが出来なかった。それが今は自分の意思で、進んで「不味い」と言える。僕の感情ではなく、僕の感情を上書きした、ユウ自身の感情が蓄積されている証拠さ。これを喜ばずしてどうする」

「理解不能です」


 そう、理解不能だ。
 理解は出来ても、理解が出来ない。


「うっかりポーズ設定を解除してしまいそうです」

「それはいけない。今生徒達に登校されても、ロクな教育受けさせてあげられない……覚えてるか? ユウ」


 飲みかけの牛乳パックを私の前に置いた。理解出来る。飲んでくれということだ。


「『成金ムテ金学院』を運営していたとき、僕は君に言った。ゲームは一人より、複数でする方が楽しいと」

「覚えています。先生はこんなガイドの私といて、楽しいですか?」

「楽しいよ。昔からずっと。ユウといて飽きた試しがない。だけど……あのとき以上に、今が楽しい。孤独な人間は実在する同類を求め、欲深くなり自身の理解者を求める。それがどちらも叶って、楽しくないわけない」


 椅子に首を預け、人間が眩しいと感じるはずのライトに彼は顔を向ける。


「この時間が……ずっと続けば良いのに……」

 向けて、小さく呟いた。

 先生の残した牛乳を、代わりにすする。

 牛乳をすする音が効果音となる。

 飲みきった最後になると、ストローは音を出す。


「でも、牛乳はだめだな。味噌汁を用意すべき。ご飯と牛乳より、ご飯と味噌汁の方が組み合わせはグッドだ」



 お母様へ。

 聞こえてますか?

 今城先生は味噌汁というものをご所望です。

 このままでは私が、牛乳消費係になります。

 先生の栄養になりません。

 ……え?

 アレルギーでないのだから、飲ませろ?



 先生の生徒達は、皆飲ませられている。

 たしかに、先生だけ好き嫌いをするのは良いことではない。


「ユウ?」


 彼は、私の行動に対し僅かに目を見開けた。

 ただ立ち上がって、冷蔵庫を開ける。それは、彼にとって想像出来ない行動だった。


 仕方ない。私は実体化して、自我が芽生えたのだから。

 彼が驚く行動をすることだってある。


 私に自我が芽生える。それは、先生にとって必ずしも理想通りに動く存在ではなくなるということ。

 彼が心の底から望んでいないことを、私は実行した。

「うぐっ!?」


 望んでいないと分かっていて、実行した。

 彼の理想通りに動くときは、私が彼の理想を叶えてあげるときだけ。

 新品の紙パックの牛乳にストローを差し、彼の口に無理矢理加えさせた。


「残り時間は三分です。この程度の量、飲みきるのに一分もかからないでしょう。自己満足に栄養を補給し、早く生徒を迎えるべく観察体制に入ってください。あなたのすべきことは――学校の運営です」



 これは、学校運営・シミュレーションゲーム。

 私達はプレイヤーとして、生徒達を名門校へと導く。


 私にセーブボタンはない。

 ポーズボタンはある。


 このポーズを解除すれば、時計の針は動き出す。

 私の親の一人とも言える、今城先生の生徒達が、登校してくる。


「準備はいいですか?」


 苦手な飲み物を流し込んで、味覚で拒否反応を起こしているようだ。既に先生は疲れ果てていた。


「さあ――始めますよ」


 チャイムが……鳴り響いた……。








 以前の今城先生は、ベッドの上で、寝転がって操作をしていた。私は先生の頭の中から、画面の向こうにいる生徒達の光景を眺めていた。


 今、先生は起きている。


 校内の一部、理事長室の椅子に座って、非常に鮮明な画質の監視カメラを眺めている。

 この画面があの頃の画面と言っても大差はない。だから私は疑問でしかない。


「どうして生徒達はこんなに歩くのが遅いのでしょう。気になりませんか、先生」


 ――別に。


 彼の返答など、わざわざ聞かなくても分かる。その答えがより不可解だった。先生がプレイしてきた学校運営ゲームの生徒達は、皆凄まじいスピードで歩き、一日を一分とかからずに終えていた。

 この遅さが理解し難い。授業を一時間以上も行う意味が分からない。何故、生徒達は学校で十時間近くも過ごすのだろう。ここは前の現実のノンフィクションではないと、言えるものなら言いたい。動きが遅い分、こちらの観察につまらなさが加わってしまう。座学の授業中がまさしくそれだ。


「体育の授業時間を増やしてみても変化なし。体育教師を入れ替えてみても変わりません。他に原因があるのだとすれば、今すぐ改善すべきです」

「必要ない。何もおかしなこともないよ、ユウ。彼らの足も、この時間も……これが限界だからさ」


 人間としての先輩、先生が私に教えてくれる。こういうとき、どちらがガイドとしての立場だろうか。

 嫌な顔も、面倒くさそうな声色も見せずに、後ろに立つ私に振り返ってくれた。


「僕達だって、あの画面の向こうの生徒達のような動きは出来ないだろう? 現実の人間の速度の限界だ。ここは現実で、時間を、行動を、システムを、現実の普通に近づけている。普通の基準は人それぞれだが、平均をとっているんだろう。その結果、生徒達は僕が昔学んだように、長い時間の授業を受けることになった」

「その現実は、生徒達にとって良いことなのですか?」

「さあ、どうだろう。学校という場所が好きな生徒は少ない。彼らの場合、時間がゆっくり流れるというのは苦痛に感じるだろう。だが、早く感じるのも辛いものだ。人間歳を重ねたくはないものだからね」


 楽しい時間はゆっくり流れてほしい。辛い時間は早く過ぎ去って欲しい。そんな人間の感情を私は知っている。

 以前、先生が感じていた。


 あの時の私は楽しい時間に寄り添えても、辛い時間に寄り添うには不十分な存在だった。

 今の私は、どちらの時間もより添えられる。


「この世界の生徒は、一定の年齢を迎えれば歳を重ねません。むしろ若返ります」

「そうだ、リピートするんだった。じゃあ利点は……せわしくない、と言っておこう」

「あまり利を感じませんね」

「僕達が気付いていないだけだ。最も、そう思いたいだけでもある。少なくとも僕には利点がある」

「分かりません」

「君が実体化して、生まれた利点だ」

 私は、先生の考えていることが分かっていた。

 先生の感情も、私には分かっていた。

 実体化して、先生から自立した私には、新たに蓄積された先生の感情は分からない。


「時間がゆっくり流れてくれれば、ユウと少しでも長く一緒にいられる」

「いつも一緒でした」

「そうだな、一緒だった。あの頃と比べれば、むしろ離れた。気持ち的には今の方が近く感じるんだ」


 ただ、姿が見えるか見えないかの違い。

 目に見える存在というのは、人間にとって大きいもの。先生は、目に見える私の方が良いということだろう。

 理想でなくなっても構わないくらい。それほどの価値が、果たして今の私にあるのだろうか。


「矛盾しています」


 私は、先生を僅かに不快にさせる言葉を投げてみた。


「先生はどうして『先生』と呼んで欲しいのですか?」


 私は、私に「先生」と呼ばせる理由を、先生に聞いてみた。


「『先生』呼びは気持ち的に遠くしてしまうものだと思います」


 先生が小さい頃、私は先生のことを「ソウ君」と呼んでいた。『先生』と呼ぶようになったのは、彼が以前の現実で、教師となってから。

 いくら職業が教師でも、ゲーム中はただの青年。運営者であり、今となっては理事長室から眺める身なのだから、どちらかというと理事長という方がしっくりくる。『先生』と呼ぶことは、現実をプライペートに持ち込んでいるような雰囲気もあり、プラスを感じられない。

 最も、当時のプライベートは今の現実だけども。

 理想は理想。プラスは感じられない。


「呼びたくないと?」

「そういうわけではありません。純粋な疑問です」

「なら、答える義理はない。君が知っている回答そのものだ」


 自分の中にある感情は、新たに蓄積されたものばかりではない。それを示すための言葉だと、私は想像した。


 私は、彼が私に『先生』と呼ばせる理由を知っていた。

 私は、教師としての今城想の、理想の生徒でもあるから。

 だから私は今城先生が勤めていた学校の、セーラー服を着ている。私は彼を「先生」と呼ぶ。そのくらいの理想は、今も叶え続けてあげてもいいと思っているから。


「……私という存在は、運営ゲーム一つにつきに一人、必ず存在するガイドです。名は、先生によって付けられましたが」

「そうだ。そして、ゲームの数だけガイドがいる事実を、全て一人のガイドだと認識し、僕自身の中でねじ曲げている」

「生徒は教師から学ぶものです。ですがガイドは、運営者を導くもの。立ち位置からして、生徒とガイドは全くの逆です」

「構わない。両方を兼ね揃えているのがユウだ」

「まあ、私はアナタの思い通りに動いていましたからね。その願望を拒否しない限り、その考えは間違っていないでしょう」

「拒否する気は?」

「今のところはありません。不利益が特に見当たりません故、親切心で叶えて差し上げます」


 理想は矛盾までもを肯定にしてしまう。


「今城先生が構わないのでしたら、生徒でありガイドとして、お一つアドバイスを」

「なんだ? 生徒共の学校生活に、今のところ問題は生じてない」

「トイレの数が足りていません。列が出来ています」

「中のトイレの数は複数あるだろ。なぜ一人が入ると、その一人が出てくるまで待つ」

「そういうものです」


 これまで先生がプレイしてきたゲームも、「トイレ」という空間一つにつき定員人数は一名だった。たとえ空間内にトイレの個室が六個あろうと、入れるのは一名のみ。現実の何倍もの早さで進む貴重な休み時間を、トイレに使う生徒達が何人もいる。

 異なるのは、待っている生徒達が入り口を塞がずに列を作っているということ。以前のゲームワールドでは、中に入っていた生徒が入り口を塞いでいる生徒をすり抜けて出てくるというマジック現象が通常だった。そこが改善されただけ十分人間らしいと言える。

「現実となったというのに、変な規則は残っているんだな」

「規則……ではないと思います。習慣みたいなものですね。本来必要ないにもかかわらず、食事という行為を行う先生も似たようなものかと」

「彼らに自我は?」

「先生の中にあります」


 今城先生は、ほんの少し残念そうな表情を見せた。

 所詮は作り物。

 作り物の現実。


「自我を与えたいのであれば、それを望めばいいですよ」

「作り物の自我を?」

「ええ。私と違って、本物ではない自我です」

「それじゃあ、意味ないな」


 彼はこう思っている。

 これでは睡眠時に見る夢の方がずっといい。


 夢は思い通りにならないから。頭の中で動くものだとしても、自分には相手の動きに想像がつかない。

 今も似たようなものなのに。


 少し違う。

 想像通りに動かなくても、自分の中の見えない理想通りに動いてしまう。

 迷惑だ。


 願いを叶えてくれた神様の、ほんの少しの嫌がらせなんて……。



先生と私の理想校

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