1
人は皆、プライベートではメリットを求めて他人に近づくものだと思っている。
そのメリットは人によって違っていて、一緒にいて楽しいとか、一緒にいて気が楽だとか……。あの子はお金持ちだから、あの子は賢いから、あの子はテスト範囲を知っている、あの子はスクールカースト上位……挙げだしたらキリがない。
面倒ごとに関わりたくない私が、メリットを求めてくる人達に近づいてこられないようにするにはただ一つ。
自分と関わることで生じるメリットを他人に見せないこと。
「だからといって、わざと成績を落としていい理由にはならないと分からないか? 佐藤旭」
「全くといっていいほど分かりません、佐藤夜明先生」
フルネームで呼び返したのはその場のノリ。明かりが消えた教室のド真ん中、机を向かい合わせての二者面談で、真顔で見つめ合う私達の背後では生徒の帰宅を促すチャイムのみが虚しくも鳴り響いた。
最終下校時刻は夕方六時。生徒はあと十五分以内に門の外に出ないとペナルティーが言い渡される。安全のため、暗くなる前に帰らせようと学校側が工夫したもの。早朝の掃除かトイレ掃除、どちらに決まるかは言われるまで分からない。ペナルティーを言い渡す先生の気分で決まってしまう以上、早起きが苦手で絶対に避けたい早朝掃除を命令される可能性は二分の一だ。
けれど、それは生徒自らが下校時刻のルールを破った場合。破りたくないのに破らされた場合、生徒側が怒られる筋合いはない。
つまり、これ以上の面談を続けるのは教師であるこの人のルール違反。それを分かっているからこそ、目の前の先生は頭を抱えながら大きくため息を吐いたのだろう。今日最後の面談とはいえ、のんびりしすぎ。いや、話しすぎ。
他の女子生徒であれば、親が心配して学校に電話をかけてきたかもしれないと、考えるべき。冬の夕方なんて夜と同じ空なのだから。
「そろそろ帰りましょうか」
「ああ……この話は――」
また明日。もしくは、また今度。普通の教師なら、こう言う。
「また後で」
この人は私にとって、普通じゃないから。
普通じゃないから、そう言わない。
「はい。また後で」
私も、言わない。
私とこの人は、普通の教師と普通の生徒ではないから。
さようなら、また明日の挨拶はしない。
また後で。
また――後で。
また――
「一緒に帰るか?」
「……」
生徒の安全性を考えて、生徒と教師が一緒に帰っていても説明がつく……かもしれない。
つかないかもしれない。こちらの方が可能性は高い。この人がニヤニヤとした表情で、私を見つめているから。私が怒りながら断るのを、頬杖をついて待っている。
「もしも見つかれば、デメリットを生じるのは私だけではありませんよ」
「冗談だ」
「知っています。ペナルティーはご遠慮したい身ですので、もう帰りますね。机を元に戻すのは任せました――サヨウナラ、先生」
「はい。サヨウナラ、佐藤さん」
背を向けて、扉を開け、廊下の外に出るまで、先生の視線を感じた。
私達は仮面を被っている。
人は誰しも偽りの姿の仮面を被る。私達は、お互いのことに関する仮面を卒業まで被り続ける。
誰かに仮面を暴かれないように、カモフラ―ジュのやり取りを交わすことだってある。むしろそれが殆どで、学校内で本当の言葉を交わすことの方が珍しい。
誰かに聞かれなかったかと、今更ながらに不安に思い、互いの行動が浅はかだったとほんの少し後悔しながら帰路についた。見上げた空は雲一つなく、それでいて星もない。冬の冷たい空気が顔にかかり、外の気温の低さを痛感する。
コートやマフラー、手袋といった防寒着を着用している私は顔以外で寒さはさほど感じないけれど、仕事へ行った私の家族はそうでないだろう。この季節、この気温、コートが一枚あったところで完璧な防寒にはならない。
バカ……。
今から急いで帰り、スイッチを入れれば、家族が帰ってくる頃にお風呂は湧き上がるだろうか。
軽装備の家族のために、歩くスピードを速めた。
冷たい風が一段と激しく顔にかかり、寒さを感じた。
誰もいない家。
誰も帰って来ていない家。
そこで私は家族の帰宅を待つ。
たった一人の家族。
私の――
「ただいま」
「おかえりなさい、先生」
私達は教師と生徒であり、兄と妹。
元々は普通の教師と生徒だった私達の関係は、突然と変わってしまった。
ある日突然。
本当に当然。
「お風呂にしますか? それともお風呂にします? もしくはお風呂なんてどうですか?」
「お風呂一択か」
「じゃあご飯にします?」
曇った眼鏡を外し、彼はようやく私と目を合わせた。にこにこと笑う私を見て、先生としての手ではなく、兄としての手を、私の頭に乗せた。
「いや、風呂にする。ありがとう」
先生は生徒のことを何でもお見通しらしい。
それとも兄は、妹のことを何でもお見通し? それはない。おそらくない。
それほどの時を、私達は家族として共には過ごしていない。
乗せられた兄の手は想像通り、冷たいものだった。
2
佐藤先生が私にとって「先生」としての存在だけでなくなったのは、ほんの一ヶ月前。
電飾や店の電灯で賑やかな暗い夜道を、一人で歩いていた。
向かった先は会員制のリゾートホテル。門をくぐるだけでも予約者の名前が必要となり、私は母の名前を伝え、制服姿でも不審に思われることなくホテルの人に案内された。宿泊ではないから勿論入り口までで、そこからは一人。夕御飯時のこの時間、ラウンジに人は少なく目で数えられるくらいの人数しかいない。とても静かで、落ち着いている。クラシックの音楽が、心地よく耳に入る。
セキュリティーが高い来慣れたこのホテル内を、一人で歩くことは何の恐怖も感じないどころかむしろ、自分が特別な存在になっているかのような錯覚に陥り、いつもより気が高くなる。
――せっかくならイタリアンにしてくれたら良かったのに、なんでバイキングにしたのよ、お母さんは。
和食、中華、フランス料理、イタリアン。どこも小さな子供は個室を除いて空間に足を踏み入れられないが、唯一バイキングは例外だ。その規則のお陰で非常に騒々しい空間を想像する。バイキングには時間制限もあるから、こうして着替えもせずに急いで来る羽目になっていることに、母は気付いているだろうか。
――のんびり食べてるからゆっくりおいでって……そんなことしたら、私が急いで食べなきゃいけないことになるじゃない。
急いで来るのと、急いで食べるのなら、前者を選択する。のんびり来て、のんびり食べたいという願望を現実にすれば、時間制限により後々お腹が後悔することになる。大食いとまではいかなくても、私はクラスの女子高生並には食べる方だ。
少し早足で向かい、ホテルの人に名前を伝え、席まで案内してもらった。
母の姿が見えたとき、少しの違和感を感じた。
「あっ、来た! 旭ちゃーん!」
叫んではいけません。騒がしくしてはいけません。
幸い賑やかなバイキング空間で目立ってはいないものの、周囲の人達はやはり私と母を注目している。
母を叱りたい衝動に駆られたけれど、あともう少しだけ我慢する。文句は席で、小さな声で、その方が目立たず恥ずかしくない。
椅子を引いてもらい席につくと、飲み物のメニューを受け取った。軽く目を通して、ノンアルコールのカクテルを頼む。
周囲に人は沢山いるも、そこから先は母と私のみの空間。夕食にバイキングを選んだことは、ここしか空いていなかった可能性を考えて何も聞かないにしても、大声に関しては一言言いたい。だけどそれ以上に、先程から目に見えている違和感を私は知りたかった。
「――で、誰を私に会わせようとしているの?」
二人で来たグループが、四人席に案内されることは珍しい。母の荷物もそんなに数は多くなく、荷物置きに納まる程度で椅子を使わなければならないことはない。案内されたとしても、あらかじめテーブルの上、各席の前に並んでいる飾りは下げられるし、その後ナイフやフォーク、お皿が持って来られることはない。
この四人席のテーブルには、三つの席にナイフレストが置かれている。そして私の向かい、空いている筈の席にはワインが注がれたグラスがそびえ立っている。その椅子を使う誰かがいるという証。
「気付いちゃった?」