名古屋錦町のあやかし料亭~元あの世の獄卒猫の○○ごはん~


 ここに来るとほとんど梅酒で、普通の居酒屋や宅飲みでは飲んでいるビールだが。

 きめ細やかな純白の泡。ガラス越しに見える琥珀色の液体はまるで宝石のよう。

 美兎(みう)は、恋人に出されたジョッキのビールをしばらく眺めていたのだった。


「はい、美兎。乾杯」
「あ、うん。乾杯」


 けど、座敷童子の真穂(まほ)はすぐにでも飲みたいのかジョッキを寄せてきたので、慌てて美兎もジョッキを持った。

 小気味の良い音が響くと、真穂の向こう側に座っている牛鬼(ぎゅうき)絵門(えもん)がこちらに声をかけてきた。


「これの作法は、そのようにするのか?」
「あ、いえ。作法と言うかなんと言うか」
「絵門、ワインとか飲んだことある?」
「……ここの、ぽーとわいんと言うのならば」
「違う違う。エディが好きな、ようはぶどう酒よ。ああ言う西洋向けの酒とかが。杯を交わす時にグラスを軽くかち合わせるわけ。作法と言うか、もう習慣ね?」
「……ほう?」
「エディ?」
「吸血鬼よ。旧い知人で、たまにこっちに遊びに来るの」
「へ、へー?」


 海外の妖も実在するのだな、と美兎は背筋が軽く凍ったが。絵門がジョッキを持ってこちらに寄せてきたので、三人で合わせることにした。


「絵門! このビールはね? 一気飲みした方が段違いに美味しいのよ!」
「……酒をそう煽ると酒精が回ってこないか?」
「日本酒とかよりは平気よ! ほらほら! 泡消えちゃう!」
「……わかった」


 そして、美兎は普通に飲んだのが。妖の二人はどうに入るくらい勢いよく飲むのだった。

 誰も早飲みを競っていないのに、それこそ一気飲みという具合に。


「……ぷは!」
「はっぽう……とは初めてであるが。これはいいな? 爽快感が凄い! 店主よ、もうひとつ」
「かしこまりました。一品出来ますので、次はそちらと一緒にお召し上がりください」
「なにを作っているんですか?」
「はい。京野菜の海老芋が仕入れられたので、煮付けたものを軽く唐揚げ風に」
「わあ!」


 京野菜、という響きだけでとても美味しそうに聞こえたのに。さらに、煮付けて揚げるとは、火坑(かきょう)は天才的だ。

 九条ネギとか賀茂茄子だったら美兎も聞いたことがあるのだが、えびいもとはよくわからない。

 ちょっとだけ、独特の苦味と発泡が強い生ビールに枝豆と合わせているうちにそれが完成して。

 三人に出されたのは、ぱっと見鶏の唐揚げのようにも見えた。


「お待たせ致しました。海老芋の煮付けを、唐揚げにしたものです」
「ほう。海老芋……懐かしいな?」
「絵門は京都出身だもんねー?」
「京都にいらっしゃったんですか!?」
「……ああ。百鬼夜行にも加わっていた時期があったが。ある御方と共にこの地に来たのだ」
「ある人?」
「……そちはたしかお会いになられたはず。ぬらりひょんの間半(まなか)様だ。我はあの方の下僕よ」
「あ!」


 そう言えば、満足にお礼も言えずにこの店で別れたっきり会っていない。絵門に間半のことを聞いても、さあなとしか言われなかった。


「我も、そちからわずかにあの方の妖力を感じ取った程度だ。すまぬが、あの方の行動はぬらりひょんの如く神出鬼没なのでな」
「……そうですか」
「美兎がそう言ってたら、ひょっこり出てくるわよ?」
「そうかなあ?」
「それより、唐揚げ冷めちゃうから食べよ?」


 間半より料理か。と言っても、せっかくの火坑の料理は美味しくいただきたいので、ジョッキを置いてから箸でひとつつまんだ。


「んん!? 里芋みたいですね!」


 甘辛く煮付けてある味と食感は、まるで里芋の煮っ転がしと同じ。

 それを唐揚げのように、薄い衣をまとわせて揚げだだけなのに。これはビールのお供だと言わんばかりのカロリーオーバーな逸品。

 ビールが欲しくなり、美兎も結局は残りを一気飲みしてしまった。


「いい飲みっぷりですね」
「す、すみません!」


 恋人の前でなんてはしたない行動をしてしまったのだと、恥ずかしくなって顔を覆ってしまったが。火坑はパチパチと手を叩いてくれたのだった。


「海老芋は里芋の一種なんですよ。だから、他府県民の方でも受け入れやすい味なんですね。今日仕入れたのは、これなんですが」


 火坑は美兎の羞恥心を逸らすのに話題を変えてくれて、下にあるらしい箱の中から火坑の顔以上に大きな里芋の化け物を出したのだった。


「お、おっきい」
「立派ねぇ?」
「ほう? 人間達はこの大きさも食すようになったのか?」
「ええ。育ち過ぎでも、大味ではなくなってきたので」


 海老芋を仕舞い込むと、今度は煮付けていない海老芋を揚げたのだ。おかわりにしては変だと思っていると、小鍋で沸かした出汁に入れて軽く煮立たせ。器に盛ったら、さらに大根おろしと生姜も添えて。


「揚げだしね?」
「やはり、冬ですから温かい料理がいいかと思いまして。お待たせ致しました。海老芋の揚げだしです」


 先程の唐揚げや、揚げだし豆腐ともまた違う逸品。

 海老芋は冬が旬だそうだが、中に味がついていない芋はどんな味か。

 美兎は、もう一度いただきますをしてから箸を伸ばした。

 海老芋。

 牛鬼(ぎゅうき)である絵門(えもん)にとっては、人間を食べない時の腹の足し程度に畑から盗んだりしたのはいつのことか。

 人間の大きな戦争が終わり、人間の死骸を喰らう機会がめっきり減ってからも、盗みを犯すのも罪だと。忠誠を誓う主であるぬらりひょんの間半(まなか)から言い渡されたので、絵門も従ったまで。

 人間の肉の柔らかさと血潮の癖を遠ざけるのにいくらか時間はかかったが。妖界隈でも、賃金を得る仕組みが増えてきてからは少しずつだが忘れていった。

 代わりに、妖の一部が人間のように、料理を嗜む輩が増えてきたお陰で。この楽庵(らくあん)のように、珍味を味わえる場所が増えてきた。

 今日は、たまたま楽庵の気分だったので赴いたわけだが。まさか、主人の妖気を微かに纏うだけでなく。主人に次ぐ、最強の妖の一角である座敷童子の真穂(まほ)が守護についた人間の女に出会えるとは。

 風の噂程度に耳にしていたが、本当にそんな女がいるとは目の前にするまで信じられなかった。しかし、現実は現実。纏う霊力は極上とまではいかないが、甘い匂いを漂わせていた。

 甘い霊力を好む真穂が、わざわざ守護につくのもわかる。

 それにもう一つ。気になることがあった。

 ごく一部からだが、目の前の猫人の妖。店主でもある、火坑(かきょう)の妖気が濃く植え付けられているのだ。であれば、この二人。ただの店主と客の関係ではないのだろう。

 その女、美兎(みう)と言う人間と火坑が熱心に話をしている間に。絵門は真穂に耳打ちしたのだった。


「真穂よ」
「んー?」
「あの二人は、恋仲か?」
「そうよー? ほんとつい最近。焦った過ぎたんだから」
「……半妖の半妖ほどしか。あの女には妖気を感じぬが」
「だから、普通の人間とほとんど血の流れに差はないわ。けれど、覚醒時期まで時間が必要だった。……この界隈に迷い込むまでは、本当にただの人間だったのよ」
「ほう」


 そして、真穂の話を聞くに。

 美兎は、火坑に思いを寄せたのに気づいたのは今年の夏らしく。人間にとっては短くとも長い時間、一人で悩んでいたそうだ。真穂や、他の妖とも出会い。背中を押されても、なかなか火坑に伝えられず。

 逆に火坑は、自覚するまで時間がかかったらしい。しかし、妖故に想いを伝える勇気が持てず。先日、間半と一緒に来店した美兎に、ようやく想いを伝えたそうだ。

 けれど、まだデート(逢引き)はしていないらしい。


「で、今日は美兎の仕事もちょっと落ち着いたからってことで来たわけ」
「ふむ」
「あ、真穂ちゃん!? 絵門さんになに話してんの!?」
「絵門が美兎のこと聞きたいって言ったから答えただけよ?」
「わー!?」


 絵門に全部話されたことで、美兎の顔は朱塗りのように燃え上がってしまったが。羞恥心が込み上がったのか、すぐにカウンターの卓の上に顔を押しつけた。すぐに、うめき声のようなか細い声が聞こえてきたのに対して、火坑は白い毛の手で彼女の頭をぽんぽんと軽く撫でた。


「まあまあ、美兎さん。人間とは違って、僕達妖は妖気や霊力で相手を探るのが癖ですからね?」
「……癖?」
「左様。先程そちに言ったように、間半様の妖気が微かにあった以外にも。店主の妖気が色濃く移っている箇所があったものでな? 真穂のものは言うまでもない」
「……火坑さんが?」
「ふふ。内緒です」
「えー?」


 なるほど。見目は悪くないし、似合いだ。

 火坑は元獄卒であり、官位は低くとも地獄の補佐官でもあった。人間とも猫とも違う妖に輪廻転生を経て今に至るが。少々謎に包まれている美兎と、将来契ればいい夫婦(めおと)になるだろう。

 今は、人間で言うところの社会人らしいが。この狭い店を二人で切り盛りする光景がまぶたに浮かぶ。そう思えるほど、二人の関係は良いものだと絵門ですら思えた。

 そして、今日知って気に入ったビールを煽り、海老芋の揚げだしを口に含めば。甘露の循環が訪れたのだった。


「良い事だ。間半様からも祝福があったのだろう?」
「あ、その。……ここのお代持ってくれました」
「あの方がか? 余程、そちを気に入ったのだな?」
「そう、でしょうか?」


 すると、美兎はそうだ、と口にして火坑の方に両手を差し出したのだった。その動作には覚えがある。

 人間ならほとんど、妖であればごく一部。神なら真似事。

 妖の間では、賃金の代わりに妖力の源となる『心の欠片』と呼ばれているものだ。美兎は元からここの常連だったのだろう。なら、心の欠片も幾度か火坑に手渡しているのかもしれない。


「少し振りですね?」
「せっかくですから、大盤振る舞いしますよ!」
「さて。では、どうしましょうか?」


 心の欠片を引き出せるのは、妖でも高位の者くらい。

 だが、火坑は元地獄の補佐官。妖術も扱えるのでその域には達している。それに、(にしき)では指折りの名店である楽養(らくよう)で修行した身だ。

 絵門は随分と久しぶりだが、どのようなものが出てくるだろうか。

 火坑が美兎の掌をぽんぽんと軽く叩いて、光が生じた後には。

 見事な賀茂茄子が出てきたのだった。ひとつどころか目視で五個は確認出来るくらいに。


「賀茂茄子ですね?」
「これが賀茂茄子ですか!」
「揚げ続きですから、せっかくの名古屋ですし。田楽味噌にしましょう」
「八丁味噌があるんですか!?」
「尾張……ですけど。師匠も愛用してますしね?」
「あ、霊夢(れむ)さん!」
「少し前に皆さんで来られたんですよ」
「え……私のことも?」
「いえいえ。そこは隠されていましたが、僕の方はバレバレでした」
「ふふ」


 ああ、ああ。

 見ていてむず痒く感じてしまうが。

 また新たな馳走を貰えるのであれば、絵門も少し協力しようではないか。

 さあ、火坑(かきょう)が。時期外れではあるが、心の欠片で取り出した賀茂茄子で田楽味噌を作ってくれるのなら。

 その間に、スッポンスープでもと思ったら。牛鬼(ぎゅうき)絵門(えもん)からひとつ、と提案があった。


「我も楽しむのだから、我もひとつ差し出そう。美兎(みう)とやらに近いものにしようぞ」
「かしこまりました」


 火坑がぽんぽんと絵門が差し出した両手の上を軽く叩き。一瞬青白い炎が上ったが、すぐに消えて絵門の両手の中には見たことのある白い四角の塊があった。


「おや、木綿の豆腐ですね?」
「田楽……とそちが言ったのでな? これで美味い味噌田楽を作ってくれ」
「かしこまりました」


 しかし、火坑は茄子の方をカットして水につける以外。豆腐の方と睨めっこしているのだった。


「火坑さん、メニューで悩んでいるんですか?」


 美兎が尋ねると、彼は少し苦笑いするのだった。


「ええ。このまま田楽用にカットしても美味しいでしょうが。茄子はともかく、豆腐は味噌ダレの味そのものですしね? せっかくの生ビールを味わっていただいてますから。こう……もう少し変わり種をと」
「んー? だったら、もっとジャンキーなものにしたら? 例えば、味噌に合いそうな食材と合わせたりとか。真穂(まほ)達、まだそんなにもお腹いっぱいじゃないし?」
「ジャンキー……ですか?」
「なんだ、それは?」
「絵門は、人間達のお手軽な料理とか食べたことがある?」
「手軽……? 握り飯か?」
「違う違う。ハンバーガーとか、ピザとか」
「……聞いた程度だな?」
「なら、ちょうどいいわね? 火坑、チーズある?」
「! かしこまりました。では、豆腐の方は。田楽味噌の豆腐ピザにしましょう」
「わーい!」
「わぁ!」


 田楽味噌の方は、美兎もこの土地の育ちなので。定番の味噌ダレで昔、母にも作ってもらった覚えがある。だが、火坑は一から手作りするようで。材料をボウルに入れてから泡立て器で軽く混ぜ合わせていた。


「豆味噌でも出来ますが、基本は赤味噌がいいですね? 八丁味噌だけだと味に癖があるので今回は普通の赤味噌とも混ぜ合わせます」


 次に、茄子の水気をとってオーブンとも違う、グリル専用の機械で焼いていくようだ。


「この茄子に火が通ってから味噌を塗り、軽く焦がす程度で大丈夫です」


 次に、豆腐。

 崩れにくい木綿の豆腐を、キッチンペーパーでしっかりと水気を取る。それから少し厚めの長方形に、カットしていく。


「これに、軽く小麦粉をまぶして。フライパンで焼きます」
「いきなり、具を乗せて焼くんじゃないんですね?」
「そうですね。中の水気までは取れていませんし、衣でコーティングすることで具材に水分が行き渡りにくくするんです」
「ほう、興味深い」


 そして、焦げ目がついたら天板にアルミホイルを敷いたやつの上に並べて。味噌ダレ、ピザ用チーズ、刻みネギを乗せて。

 これはオーブンで焼くようで、スイッチを入れたら火坑は茄子の方にも味噌ダレを塗って行った。

 そして、店内には味噌が焦げ付く香ばしい匂いが漂ってきた。


「わ〜、懐かしいです!」
「美兎さんは、そう言えば。名古屋出身でしたか?」
「はい。天白(てんぱく)区の方です」
「へー? 原? 塩釜口(しおがまぐち)? 植田?」
「ううん、平針(ひらばり)
「じゃ、結構のんびりしたとこで育ったわけね?」
「うん。お母さんは春日井の方だけど」
「では、お父さんが平針の方ですか?」
「はい」


 そうこう自分の事を初めて火坑に知ってもらっているうちに。茄子の方が出来上がったので、美兎達の前にひと皿ずつ手渡されたのだった。

 丸いフォルムが特徴的な賀茂茄子の半分の上に。火坑手製の味噌ダレがキラキラと宝石のように輝いていた。


「切り込みを入れてますので、味噌の下からどうぞ」
「いただきます!」


 ようは、焼き茄子に味噌をのせて焼いただけだが。火坑手製の味噌ダレがどんな味わいになるか気になって仕方がなかった。


「んん!?」


 蒸し茄子とかは、正直言って苦手の部類ではあったが。油通しもしていない茄子はほくほくのとろとろで。甘辛い味噌ダレとも相性が抜群。

 皮は少し分厚いが、味噌と茄子の相性は正義だとしか言いようがない。

 これは、日本酒もいいだろうが名古屋人ならばビールが合うだろうと。美兎は新しいジョッキの中身をゴクゴクと飲んだ。


「……幸せの循環ですぅ〜」
「お気に召したようで何よりです。ピザの方も出来ましたよ?」
「わーい!」
「わー!」
「ほう。それが、ぴざ?」


 和風ピザと言っていいのかはわからないが。豆腐と味噌、さらにチーズの組み合わせはお惣菜でも少ない。

 こう言う料理屋さんでも少ないし、居酒屋メニューならきっとあるかもしれないが。

 火坑の創作料理も、美兎は彼と同じくらい好きだったので。どんな味なのか楽しみだった。

 美味しかった。

 実に、美味しかった。

 名古屋名物の味噌ダレで作った、豆腐の田楽味噌ピザ。

 味の予想はついていたけれど、あの甘辛い味噌とチーズのハーモニー。それが美兎(みう)の予想以上に美味しかったのだ。

 豆腐は先に少し焼いたお陰で、表面はカリッと。

 チーズはとろとろで味噌ダレと刻みネギとの相性が抜群。それが、淡白な味わいの豆腐と絡んで普通のピザよりもパクパク食べられた。

 ろくろ首の盧翔(ろしょう)には悪いが、やはり美兎には恋人の火坑(かきょう)が作る料理が一番だった。そのピザにビールを煽れば、賀茂茄子以上にジャンキーな味付けなので幸せの循環が訪れた。


「……美味しかったです」
「お粗末様です」


 まだお腹に余裕はあるが、濃い目の味付けの料理ばかりなので。美兎もだが、座敷童子の真穂(まほ)牛鬼(ぎゅうき)絵門(えもん)もスッポンのスープを頼んでひと息つくことにした。

 今日の頭は、絵門にと行ってしまったが気にしない。代わりにコラーゲンたっぷりの甲羅の部分をもらい、ぷにぷにとした食感を楽しんで。ビールの次にいつもの梅酒を頼もうとしたら。


「よぅ、邪魔するぜ?」


 入ってきたのは火坑の兄弟子であり、小料理屋楽養(らくよう)の料理人である、蘭霊(らんりょう)だった。相変わらず狼顔で迫力はあるが、決して怖いわけではないのは美兎も知っている。


「あ、こんばんは」
「よぉ、しばらくぶりだな? お嬢さん」
「やっほー」
「お、真穂もか?」
「真穂だけじゃないよー?」
「んー?……絵門か」
「息災か?」
「おう」


 どうやら、絵門とも顔見知りらしい。

 妖の交流関係は、美兎もいまいちよくわかっていないが。広いようで狭い人間側の世間と同じかもしれない。

 けれど、蘭霊も仕事だろうに今日はどうしたのだろうか。格好は以前会った時とは同じ、料理人用の割烹着を着込んではいるが。

 腕には、梅干しを漬けるなどに使うガラスの容器を抱えていた。


「先輩、今日はどうされたのですか?」
「おう。師匠んとことは別に、俺が自分で漬けてる梅酒を持ってきた。お前んとこのが改善出来ると思って、今日持ってきたんだ」
「……わざわざありがとうございます」
「ん。お嬢さん達も飲むか?」
「い、いいんですか?」
「わーい!」


 そうして、蘭霊から受け取った梅酒を。火坑はせっかくだからとロックで入れてくれた。

 以前に楽養で飲んだのとはまた違い、深いルビー色が特徴的な梅酒だった。


「色々混ぜてあるからなぁ? ま、楽養で出すかは師匠が決めるが」


 で、蘭霊は絵門の隣。ちょうど真穂との間に腰掛けていたのだった。仕事はまだあるだろうに、火坑に生ビールを頼んで。いいのだろうかと思っても、美兎がでしゃばるところではない。

 この妖とも、まだ美兎は今回で二度目なのだから。


「いただきます」


 スッポンのスープをひと口飲んでから、蘭霊の梅酒を口に含む。

 以前楽養で飲んだ時も味が濃厚だと思っていたが、これはまた違った。甘さもキレの良さも、あれとは段違い。

 火坑のがあっさりめであるなら、これは絞りたての生ジュースのように濃厚だった。


「かー! 美味しい!」
「そうかい?」
「うん。前のも美味しかったけど、こっちは深みが違うねぇ?」
「……ふむ。甘いが、後口が悪くない」
「相変わらず手厳しいなあ? 絵門」
「思ったことを言ったまでだ」
「お、美味しいです!」
「さすがは先輩ですね?」


 火坑も仕事中ではあるが、勉強のためにとひと口飲んでいた。そう言えば、ただの客としてもだが付き合ってからも彼が酒を飲んでいるところを見たことがなかった。

 強い、のだろうかと気になったが。

 これから知っていけばいい。時間は有限ではあっても、この人とお付き合いしていく時間はゆったりのがいいだろうから。


「ところで、お嬢さん」


 考えごとをしていたら、蘭霊から声をかけられた。


「は、はい」
「ここに来れてるってことは……この弟弟子と付き合うことになったのか?」
「そうですとも、先輩」
「か、火坑さん!」
「はっはっは! よかったじゃねーか? 花菜(はなな)も気にしてたぜ?」
「あ、花菜ちゃんにLIME送ってなかったです!」
「いいっていいって。また時間がある時に頼む」
「じゃあ……明日までには」


 友達になったばかりなのに、うっかりし過ぎていた。とりあえず、今晩寝る前には送ろうと決めて、美兎はまだ残ってた甲羅の部分をしゃぶった。


「ん? この匂い……(ぼん)、味噌ダレ作ったのか?」


 そこそこ時間が経っているのに、やはり狼の顔立ちのせいか匂いに敏感であるようだ。


「はい。美兎さんや絵門さんから心の欠片をいただきましたので、賀茂茄子と豆腐で味噌田楽を」
「ほう。もう終いか?」
「あとは売り上げ用なのでダメです」
「そうかい」


 じゃ、仕方ねぇな、と。蘭霊はビールジョッキを勢いよく煽ったのだった。〆のスッポン雑炊を美兎と真穂が食べていても、蘭霊はずっと生ビールを飲んでいた。


「お、お強いんですね?」


 美兎が気になって声をかければ、蘭霊は少し牙を覗かせる感じに笑ってくれた。


「ま。今は妖だが、これでも神の端くれだったんだよ」
「え。じゃあ、大神(おおかみ)様のように?」
「ああ、あいつか。ま、縁がまったくなかったわけじゃねーが。俺も元同類か?」
「わけを……聞いても大丈夫ですか?」
「んー、あんま気持ちの良いことじゃねーぞ?」
「……そうですか」


 人間と同じ、辛い過去を持つのは妖でも同じなのだろう。

 だから、美兎もそれ以上追求はせずに、雑炊をすすってから帰ることにした。


「ちょっと美兎?」


 だが席を立とうとした途端、真穂から待ったをかけられた。


「え?」
「火坑に言うことあるんじゃなかった?」
「あ」


 界隈で真穂に会った時に言われたことを思い出した。


「こ、ここで?」
「ここで」
「ら、蘭霊さん達がいるのに?!」
「二人きりでも言える?」
「う……」
「僕に、ですか?」
「そうよ。二人とも付き合っているのに、デートとか全然じゃん!」
「!?」
「うう……」


 真穂の口からバラされると、蘭霊もだが絵門まで肩を震わせながら笑うのだった。


「……デート。デートですか、そうですね。うっかりしていました」
「うっかりじゃない! あんた、もうすぐ誕生日でしょ? 美兎と一緒に界隈でも人間界でもいいからデートすればいいじゃない!」
「承知しました」
「え、え? 火坑さん?」
「美兎さん。改めて、僕からお誘いしますので。詳細が決まったらLIMEで送ります」
「よし!」
「え〜!?」


 美兎が言わないでいたのも悪いかもしれないが、とんとん拍子で予定が決まってしまい。

 火坑の誕生日の日に、デートをするのが決定してしまった。

 まったく、目出度い事だ。

 小生意気な弟弟子の火坑(かきょう)が、(くだん)の人間の女、湖沼(こぬま)美兎(みう)と恋仲になったと知れたのだから。

 これが、生ビールの肴にぴったりだった。

 蘭霊(らんりょう)は、もう何杯飲んだか数え切れないくらいジョッキを傾け、スッポンの雑炊をつまみにした。


「……先輩、飲み過ぎですよ?」
「……我もそう思うが」
「いいだろ? 目出度い事だしよ?」
「あの。僕と美兎さんを理由に飲み過ぎないでください。タンクの中身を空にする気ですか?」
「俺と師匠が設置したようなもんだろ?」
「……はあ。仕方がありませんね」


 代金は支払うのに、相変わらず客思いの律儀な性格だ。蘭霊もそう言うわけではないが、師匠の霊夢(れむ)に様子を見るついでに早上がりしていいと言われたので、いるのだから。

 ちなみに、美兎と座敷童子の真穂(まほ)は既に帰宅済みだ。今日が週末ではないので、明日も人間界の会社で仕事がある彼女だから仕方がない。

 最後に、火坑も気に入りの洋菓子店で買ってきたマカロンをデザートにどうぞと言い残してから帰っていったのだ。

 以前に一度出会った時は、蘭霊の狗神の顔を恐れてはいたが。今日はそうでもなかった。緊張はしていたが、表情に恐れは感じ取れなかったのだ。おそらく、だが前回馳走したお陰で慣れたのかもしれない。

 憶測でしかないが。


「で、(ぼん)。師匠には俺から伝えておくが。あのお嬢さんとどう言うデートを考えてんだ?」


 蘭霊が楽しげに聞けば、火坑はピンと猫耳を立てた。


「その……まだ、具体的には何も」
「ふむ。その日に契りを交わすつもりか?」
絵門(えもん)さん!? 平安とかの時代とは違うんですから!!」
「その日のうちにしないのか?」
「美兎さんの心構えもなく、妖として契れませんよ……」
「ま。あのお嬢さんは生娘だしな?」
「……え、先輩?」
「いきなりひっくい声出すな! 俺の鼻でわかっただけだ!?」
「……そうですか」


 人間の年頃はいくらか変わってはきたが、あの女は社会人の新人でもまだ誰にも触れられたことがないようだ。

 前回同様に、匂いでわかっただけだが火坑には地雷だったかもしれない。美兎には見せれない、鬼のような形相になったので慌てて弁明したのだ。


「たしかに。彼奴(あやつ)は年頃の女子にしては清いな? 火坑よ、大事にするのだぞ?」
「もちろんですよ」
「……温度差激しくね?」
「なんですか、先輩?」
「別にー」


 家族ではないが、身内には小生意気過ぎる奴だ。ジョッキに残っているビールを煽り、雑炊の方も完全に冷めないうちに流し込んだ。


「んで? 絵門は珍しく(にしき)にいやがるじゃねぇか? 間半(まなか)は一緒じゃないのか?」
「……近頃はお会い出来ていない」
「そうか。まあ、あいつは神出鬼没だかんな?」


 種族名であるぬらりひょんの如く、いきなり現れたりするからだ。そう、今いきなり隣に座っているように。


「!?」
「お?」
「いらっしゃいませ、間半さん」
「ああ。絵門よ、息災か?」
「も、申し訳ありません! このような」
「よいよい。お前も猫坊主の料理が恋しくなったのだろう? 百鬼夜行には問題ないし、好きになさい?」
「は!」
「……お前も相変わらずだなあ?」
「久しいね? 蘭霊」


 そして彼は、生ビールがあるのに気づいてすぐに注文するのだった。


「あんた。あのお嬢さんに何かしたのか?」
「ほう? 何故わかる?」
「あのお嬢さんから、あんたの妖気が匂った」
「……我もです」
「なぁに? この猫坊主との恋路が焦った過ぎて、少々手助けしただけさ?」
「……お世話になりました」
「おいおい、坊?」


 妖の総大将の力を借りなければ、恋仲になれなかったとは。しかし、おそらくだが火坑の前世での上司である閻魔大王が頼み事をしたかもしれない。

 でなければ、面倒事が苦手なこの見た目がクソじじいである間半が動くわけがないのだ。狗神だった頃からの付き合いである蘭霊は、それをよく知っている。


「うん、美味い! 夏もいいが、冬の生ビールもいいねえ!」
「ありがとうございます」


 そして、ジジイは見た目だけなのか蘭霊に負けないくらいの飲みっぷりだった。


「……総大将、ここは我が」
「いいのかい? これがあると僕はなんでも飲み食いしちゃうよ?」
「総大将程ではありませんが、懐は潤っていますので」
「そうかい。なら頼もう」


 時間も時間だが、ここからは妖の本分。

 気が済むまで飲み食いするまでだ。ここにいる面子は誰もが酒にめっぽう強いので、潰れる事はない。ある程度、ほろ酔いになってから火坑が美兎からもらったマカロンをデザート代わりに出してきた。


「ほう? 抹茶のマカロンか?」


 クリームは白だが、火坑の好みを考えると甘過ぎないものを選んでいるはず。

 ひと口食べると、サクッとした食感の後に甘さとほんのり酸っぱさを感じた。


「クリームチーズだな?」
「おや、以前試食で食べたのと似てるねぇ?」
「まか……ろ? くりーむちーず?」
「お前は相変わらず、現世に疎いね?」
「……申し訳ありません」
「面白いからいいけど」


 ひとりにつき二個出されたマカロンだが、絵門は初めて見る菓子なので食べ物と思えなかったようだ。だが、ひと口で頬張ると気に入ったのか人化の術が解けそうになって、蜘蛛の足が着物から伸びてきたのだった。


「おいおいおい!?」
「まったく。なんだかんだ新しい物好きだからね? すまないが、ちょっと揺れるよ?」


 と、絵門の首元に向かって手刀をお見舞いしただけなのに。地震が起きたかのように一瞬揺れたのだ。そして、絵門はそのまま気絶してしまった。


「大丈夫か?」
「しばらく寝てるだけさ。しかし、美兎ちゃんのチョイスはいいねえ? 猫坊主、デートは計画とかしてるのかい?」
「はい。その……今日真穂さんに言われるまで、考えていませんでした」
「全く。お前だから、美兎ちゃんの事を考えたんだろう?」
「はい。僕以上にお仕事を頑張っていらっしゃいますし、休日はゆっくりして欲しくて」
「けど。その様子だと決めたようだね?」
「はい。僕の今の生誕日に、デートを考えることにしました」
「それはいい。いい思い出にしてあげるんだよ? お前もね?」
「はい」


 全く、このクソじじいは。蘭霊の台詞を全部かっさらってくれやがった。

 しかし、絵門の術が解けるのを止めてくれたのだから仕方がない。

 とりあえず、絵門が起きるまで蘭霊も加わってデートの計画をすることになり。

 絵門は起きた後、五体投地の如く、間半に謝罪しまくったのだった。


 ここは、錦町(にしきまち)に接する妖との境界。

 ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。

 たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。

 元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵(らくあん)』に辿りつけれるかもしれない。




 12月(師走)に入り、だいたい二週間が経った今日。

 湖沼(こぬま)美兎(みう)、新人のデザイナー見習いは。本日は休日で、しかもいつもの出勤でのヘアメイクよりも気合を入れていた。

 昨夜も少々お高いフェイスパックで保湿もしたし、朝も念入りにお手入れしてからメイクに取りかかった。大学時代に彼氏がいた時ですら、ここまで頑張っただろうか。否、違うかもしれない。

 わずか二年程度なのに、もう忘れてしまっている。それくらい、今の美兎はあの猫人に夢中なのだ。

 まさか、新卒してすぐに彼氏が出来るとは思わなかった。しかも、お相手は人間ではなくていわゆる妖怪。

 だけど、美兎は惹かれてしまったと気づいてからずっと避けてしまうくらい悩んだのだ。自分は不釣り合い、種族の違いなどなど。

 けれど、種族違いでも恋に恋した気持ちは抑えようがなかった。結果、そのお相手である火坑(かきょう)からも想われているとわかり、お付き合いすることになったのである。

 が、普段の仕事とのすれ違いから、なかなかデートすら出来なかった。それを今日、火坑が叶えてくれる。だから、メイクアップに気合が入るのも仕方がない。


「ふふ。うふふ! よーし、行こうっと!」


 以前、界隈にあるデパートで綺麗にメイクしてもらったことはあるが、あれに及ばずとも美兎の出来る限りの技術でメイクを施した。

 きっと、火坑も褒めてくれるだろう。

 時間は迫っていないが、余裕をもって錦に向かうのに。美兎は地下鉄を使って(さかえ)を目指した。東京や大阪程ではないだろうが、名古屋の地下鉄も改修工事があったりでそこそこ入り組んでいるので、降りる駅ひとつ間違えたら大変なのだ。

 妖界隈の錦については、美兎は行く目的のお店以外ほとんど知らないに等しいので、火坑が案内してくれるのだろうか。

 とにかく、LIMEではエスコートするからプランは任せて欲しいとしか告げられていないので、美兎は美兎で火坑のために誕生日プレゼントを選んできた。

 もちろん忘れずに、お出かけ用のバックとは別におしゃれな紙袋に入れてある。準備は万全だ。

 待ち合わせは楽庵に来てくれと連絡があったので、地下道から上がり、昼の錦の裏通りを歩いていると。あと少しで楽庵に着く手前で座敷童子の真穂(まほ)と会った。


「気合十分じゃない? 頑張るのよ?」
「うん!……今日も守護についてくれるの?」
「まさか。恋人同士のデートまでご一緒するわけにいかないでしょ? ちょっとした激励」


 子供の姿なので、美兎の腰くらいまでしかないが。彼女は軽く美兎の腰を叩いてから、いってらっしゃいと見送ってくれた。

 だから、美兎も行ってきますと言ってから真穂に手を振った。

 真穂に守護についてもらってから、ひとりで楽庵に行くのは少し久しぶりだ。もう数ヶ月前のことなのに、随分と前のように思える。

 けれど、その前より今の方がずっと楽しい。雪女の花菜(はなな)とも知り合うきっかけが出来て、真穂以外の妖とも友達になれたのだから。


「あ、美兎さん」
「おはようございます、火坑さん!」


 楽庵の前では、既に火坑が待ってくれていた。以前に一度だけ目にした洋服。その時以上に、よそ行き用にめかし込んでいて。

 ああ、本当にこの人とお付き合いしているんだ。と実感するのだった。


「お早いですね?」
「火坑さんも」


 隣に立つと、改めて思うが美兎の方が彼の頭二つ近く身長が低い。バランスがとも思うが、美兎は人間の成人女性にしては高い方なのに。火坑の方が大きいのだ。多分だが、180cm近く。こうやって並んで立つ機会がなかったので、あまり気づかなかったのだろう。

 火坑は美兎が来てから、ずっとニコニコと笑っていたが。美兎が隣に立ってから笑顔を消して、肉球のない猫手で自分の頭を撫でたのだった。


「写し度、移し度、映し度。我が身を映せ」


 呪文か何かを唱え出すと、猫耳の方からちりちりと光が出てきて上から下に移動していく。

 そして、猫の頭から人間のような黒い髪が出てきた。


「え、え、え?」


 美兎が驚いているうちに変化は終わり。

 光が消えると、そこに居たのはひとりの人間の男性。端正とは言い難いが、笑顔が好印象を持つ男性が立っていた。その顔は、覚えがあった。本当に、最初に火坑と出会った時の彼の姿だったのだ。


「今日は人間界にも行きますからね? 妖術で人間の姿になったわけです」
「よう、じゅつ?」
「僕や真穂さんだけでなく。妖などが使う術の総称ですよ。わかりやすく言えば魔法です」
「妖って、魔法使いなんですか?」
「ふふ。まあ、人間ではないので使えるだけですよ」


 さ、行きますよ。と、手を取られたのだが。本当に猫の手ではなく人間の皮膚を感じ取れた。

 手を繋ぐのは、火坑が初めてではないのにすごく胸が熱くなってきた。


「えと。今日はどこに行くんですか?」
「まずは、人間界。美兎さんには申し訳ないですが、地下鉄に乗って名古屋港に行きましょう」
「名古屋港ですか!」
「はい。一緒に地下鉄に乗りたかったので」
「迷惑じゃないです!」


 ひとりじゃなく、二人で電車に乗れるのだから。きっと、絶対楽しいに違いない。

 だから、美兎は嬉しくなって彼の手をギュッと握り返すのだった。

 名古屋港に行くのも随分と久しぶりだ。

 大学時代の時の彼氏とも行くことはなかったし、友人も同じく。おそらくだが、中学生の社会科見学を銘打って、水族館に行く以来かもしれない。

 高校になると、家族で出かけるのはそう多くなかったので。両親とわざわざ行くこともなかった。

 それと火坑(かきょう)と界隈を歩いて地下鉄に向かう途中、美兎(みう)は彼にお願い事を言われたのだ。


「美兎さん。人間界にいる間は僕のことを香取(かとり)響也(きょうや)と認識していただけませんか?」
「かとり、きょうやさん? ですか?」
「はい。閻魔大王が僕個人にお与えくださった戸籍の名前なんです。両親は死別と言うことになっています。親類縁者も同様に」
「じゃ、じゃあ。響也さん?」
「はい」


 偽名とは言え、人間の姿の名前まであるとは驚きだった。しかし、それならいつもの火坑と言う名前よりかは人間らしいかもしれない。決して嫌とかではなく、不思議だと思うから。

 それに、美兎が響也と呼んだだけで物凄く笑顔になってくれたのだから、こちらまで嬉しくなってくる。人間の姿でも、火坑は火坑だなと実感が出来た。

 とりあえず、目指すは名古屋港の水族館。名物であるシャチのショーと、白イルカとして有名なベルーガにも会いに行く予定らしい。

 デートなら定番中の定番だが、美兎が最後に行った水族館より、きっと様変わりしているだろう。だから、余計に楽しみだった。そこに二人で行けるから。

 まず、行きに美兎も乗った紫が特徴の名城線に、美兎が来たのとは逆方向の線に乗る。名城線は十数年程前に路線が変更されて、ある意味東京の山手線と同じように円に近い形状になっているのだ。

 他の路線はその円の途中で乗り換えが出来るように組み込まれている。美兎達は、(さかえ)から左回りの方向に乗り、金山駅に向かう。そこで、一度降りて名古屋港水族館に向かうための、名港線に乗り換えるのだ。

 中学以来なのと、普段は仕事でも名港線を利用しないので乗り換えにはうきうきしていた。会社では、イベントの依頼などで水族館のポスター制作をすることはあるらしいが、あいにくと美兎の担当ではない。新人だし、下っ端なら現場に出向くことも多いが美兎が担当するのは主にショッピングモールだったからだ。今日はまだ休めたが、あと少しでクリスマスフェアが始まるので忙しくなる。

 楽庵(らくあん)にもきっと行けなくなってくる。だから、今日は思いっきり楽しむつもりだ。


「僕も、この路線に乗るのは随分と久しぶりです」


 金山から乗り換える前に、駅ナカの自販機でコーヒーや紅茶を買ってから火坑が口にした。


「響也さんが電車を使われるのが、私には新鮮に見えます」
「そうですね。普段、柳橋に行くのも自転車なので」
「名駅近くのですよね? 聞いたことはあったんですが、個人的に敷居が高いなと思ってて」
「ふふ。そんなことはありませんよ? 一般公開もしていますし、東京の市場(しじょう)ほどではありませんが飲食店もありますよ? 時間が出来た時なんかにご案内しますね?」
「ありがとうございます!」


 次の約束。

 まだ今日の目的地に着いてもいないのに、次の約束が出来て嬉しくなった。

 思わずはしゃいでしまいそうになったが、人にぶつかりそうになったので避けようとしたら。


「……火坑?」


 ぶつかりそうになった相手、しかもカップルの男性の方が火坑の実名を知っていたのだ。


「おや、翠雨(すいう)さん?」
「やはり、お前でござったか?」
「ご、ござ?」


 今時、ござる口調。とてもレアな言葉遣いだったが、顔を見た途端そんなのが気にならなくなってしまった。

 アイドルや俳優顔負けの美形。以前一度だけお会いした大神(おおかみ)かと思いかけたが、顔が違った。切れ長の瞳に、スッと通った鼻筋。長いが艶のある黒髪は後ろでひとつにくくっている。

 透けそうなくらい透明感のある白い肌にはシミひとつない。とても美形な男性だった。

 お連れらしい女性は彼の体格に隠れてよく見えないが、美兎が声を上げた後にひょっこりと出てきた。


「すーくん、お知り合い?」
「ああ。男の方だが」
「そーなの? 人間? 妖怪?」
「声が大きいでござるよ、紗凪(さな)


 お相手は、人間の女性のようだ。ふわふわな茶髪が印象的で、顔も綿飴のように可愛らしい雰囲気だった。他人事でも、その愛嬌を分けて欲しいと思うくらい。そして美兎と目が合うと、にっこりと笑ってくれた。


「あ、はじめましてー。すーくん、翠雨君の彼女の栗栖(くるす)紗凪でーす!」
「あ、どうも。その……こちらの火坑さんとお付き合いしてます。湖沼(こぬま)美兎です」
「じゃ、美兎ちゃんだー」
「え、あ、はい?」
「おい、紗凪。女同士でも抱きつきに行こうとするな」
「だって、可愛い子じゃなぁい? 歳も近そうだし」
「そうは言ってもな?」
「あの。大変失礼ですけど、翠雨……さんと火坑さんとのご関係は?」
「ああ。(それがし)の本性は烏天狗。妖だ」
「常連さんのお一人ですね?」
「最近は行けなくてすまなかった」


 なるほど、と思っても烏天狗と言われても妖の種類はまだまだ勉強中の美兎にはよくわからなかった。

 すると、翠雨は察してくれたのか苦笑いしてくれたのだった。


「美兎さん。普通の天狗の場合は白い翼を持つのですが、烏天狗は烏のような黒い翼を持つ種族なんですよ」


 と、火坑が教えてくれたのだ。


「ところで、わざわざ人化してまで。……しかも、某が疎遠になっていた間に。(つがい)まで作るとは」
「つがい?」
「奥さんのことだよ、美兎ちゃん」
「お、おく!?」
「恋人にもなると言ったでござろう……」
「けど、あたしはすーくんとそうなる予定だもん!」
「はぁ……」


 とりあえず、びっくりすることばかりで美兎の頭はパンクしかけたが。彼らの行き先も、同じ水族館だったので。

 初デートがいきなりダブルデートになってしまったのだった。

 いきなりのダブルデートになってしまったが、場所が一緒なのは水族館だけらしいので。そこだけ一緒に回ることになった。

 チケット代は、それぞれの彼氏様が既に購入済みだったから、美兎(みう)紗凪(さな)は名港線に乗り換えてからそれぞれの彼氏様にお礼を言ったのだ。


「さっすが、すーくん!」
「……大したことではござらん」


 すーくん、こと烏天狗の翠雨(すいう)は照れたのか、耳だけ赤くすると言う器用な照れ方をしていた。

 そして、その彼女である紗凪は人前でも平気でハグしに行く大胆さ。美兎がもし真穂(まほ)とかにしろと言われても響也(火坑)に抱きつくなど無理だ。

 告白された時に火坑から抱きつかれはしたが、びっくりし過ぎて思わず気絶したくらいだ。

 ちょっと、ほんの少し、紗凪の大胆さは羨ましく思えたが。


「しかし。驚きましたね? あなたも人間の女性とお付き合いなさっていらっしゃったとは」
「……そっくりそのまま、貴殿に返す」
「ふふ。僕と美兎さんはまだ最近ですよ?」
「……楽庵(らくあん)に行けなかった間、だ」
「いえーい! もうすぐ五ヶ月記念だよ!」
「……はしゃぐな」


 どう言う経緯があったかは聞きたいが、あと少しで水族館の最寄りにある駅に着く。

 話は中断され、電子カードでそれぞれ改札を通って行く。美兎や紗凪はともかく、妖も現代の文化を受け入れているのが未だ不思議に思う。火坑とLIMEでやり取りするようになったのに、今更ではあるが。

 とりあえず、水族館までは少し距離があるのでそれぞれの彼氏と並ぶかと思いきや。

 紗凪はどこが気に入ったのか、美兎の手を取ってまるで子供のようにはしゃぎながら先を歩いた。


「んふふ〜んふふ〜、美兎ちゃんと〜」
「あの……栗栖(くるす)さん?」
「さ〜なっ!」
「えっと……紗凪、ちゃん。年近いって言ってたけど。いくつ?」
「二十三!」
「あ、ほんとに同じだ」


 なら、遠慮なくタメ口でもいいだろう。

 紗凪も、自分の予想が当たったのが嬉しかったのかニコニコしていた。


「ね〜? 私の勘は結構当たるんだー!」
「そ、そうなんだ。あ、あのさ?」
「うん?」
「せっかくのデートなのに、私達も一緒でいいの?」
「もちもち! それに彼氏が妖怪同士の友達とか、初めてだし。嬉しい!」
「そ、そっか」


 出会ってまだ一時間も経っていないのに、もう友達とは。紗凪の行動力は同い年であれど見習いたいくらいだ。


「ねーねー? かきょーさん? って、本性なんなの?」
「えっと……猫の頭の妖さん?」
「え、猫?」
「今は、変身されているから人間だけど。翠雨さんの烏天狗の姿ってどんなの?」
「んふふ〜〜! 超超超かっこいいんだよ!? 髪と同じくらい綺麗な黒い翼とか! 艶々なのに、触るとふわふわしてるんだよね? あ、顔とかはあのままだよ? 天狗でも鼻が長いとかはなくて、時々赤い天狗のお面はかぶっているけど」
「へ〜?」


 顔はそのまま。経緯はまだ聞けてはいないが、実に面食い。

 は、言うと怒られるか盛大に惚気られそうだが、と思っていると。紗凪の方からくいくいと握っている手を引っ張られた。


「かきょーさんは、今の見た目普通の人だね? 妖怪はほとんど美形ばっかりって聞くけど。美兎ちゃんは違うんだ?」


 随分と直球な言葉を投げかけられた。が、嫌ではない。


「……うん。元の姿の優しい笑顔とか。気遣いとか。とにかく、あの人の全部が好き」
「いや〜ん! ラブラブなんだね!! 今美兎ちゃん、いい顔になったよ?」
「そ、そうかな?」
「うん! そっか〜。うん、私もすーくんの全部が大好き! 助けてもらったことの恩返しもあったけど、今は全部好き!」
「助けて……?」
「私ねー? 今は抑え込んではあるけど。かなりの霊力の持ち主らしいんだ〜? それで、ちっちゃな頃から妖怪とか悪霊に狙われまくって。それを助けてくれたのがすーくんなの」


 助けてもらった恩。

 美兎とは違い、紗凪は本当に命を狙われていたのだろう。なのに、なんてことのないように美兎に話してくれるし、終始笑顔。

 きっとそうなれたのは、翠雨のお陰だろう。


「……そうなんだ」
「うん! あ、先にLIME交換しよ? あとでだと私が忘れそうだから!」
「いいよー」


 IDを交換している間に、翠雨達も追いついてきて。紗凪は彼から軽く頭を小突かれてしまったのだった。


「まったく、社会人になったとは言え。湖沼殿のように落ち着きを持て!」
「いった〜い!」
「本気で殴ってなどおらぬ!……すまない、湖沼殿」
「あ、いえ。大丈夫です」
「ふふ。もうお友達になられたのですね?」
「あ、はい」


 とりあえず、今度はカップル同士で目指すことになり。美兎は、さりげなく掴まれた手を握り返したのだった。

 ほんの少し前。

 常連だった、烏天狗の翠雨(すいう)の恋仲だと紹介された栗栖(くるす)紗凪(さな)に。恋人の湖沼(こぬま)美兎(みう)を連れて行かれてしまったが。

 然程、遠くない距離を先に進む程度だったので。火坑(かきょう)は大きなため息を吐いている翠雨の肩を軽く叩いた。


「元気なお嬢さんですね?」
「……すまない。そちらの番を勝手に」
「まあ。妖を恋人に持つ人間の女性はいるようで少ないですからね? 僕は大丈夫ですよ?」
「……しかし。わずかだが、妖気を感じたな? 本人は知っているのでござるか?」
「……いえ。彼女の守護につかれている、座敷童子の真穂(まほ)さんからもまだのようです」
「!? 真穂様が?……そうか。そちらの界隈に行くことが減ってしまったからか。わざわざあの方が守護につかれるとは」


 紗凪達に置いていかれないように、歩きながらの会話だが結界は怠らない。今は人間に化けてはいるが、火坑は元地獄の獄卒であり補佐官だったのだ。現世に長い翠雨には劣るが、まあまあ出来る妖ではある。

 だから、まだ真穂が守護につく前の美兎にも。心の欠片をもらう代価として、ほんの少しの呪いをかけてはいたのだ。好意を恋慕と自覚する前とは言え、随分とした高待遇。

 今も、彼女の霊力に惹かれる妖がいないか気を張ってはいるが。

 それを翠雨にも伝えれば、なるほどと頷いてくれた。


「と言うわけで。僕は随分と鈍いようでした」
「貴殿が、自身の気持ちに気づかれぬ以前から……か。たしかに、(それがし)も鈍かったでござる。紗凪が今の年頃になるまで、見守っていたのだから」
「……もしや。以前おっしゃっていた、(かんなぎ)の素質を持たれていらっしゃるお嬢さんが?」
「ああ、紗凪だ」
「……なるほど」


 俗に、シャーマンなどとも呼ばれている、人間でも稀有中の稀有である存在の呼称だ。美兎もそれに近いくらいの霊力のはあるが、わずかに含まれている妖の血族のお陰か、それは表立ってはいない。

 だが、紗凪は。

 今はあれだけ明るい表情でいられるのも、翠雨との(えにし)があったお陰だろう。

 惚れたのか、と聞けば。彼は、是と答えてくれた。


「……最初はただの、幼い人間の赤子のように思っていたでござる。しかし……まあ、あれだ。あの性格だから、違う、本物だと言い張ってな? 押しに押されて……某も気づいたわけだ」
「ふふ。僕もいろんな方からお節介をいただきましたよ?」
「……火坑は、なんだか放っておけないからな?」
「そうですか?」


 だが、閻魔大王に亜条(あじょう)。真穂に宝来(ほうらい)盧翔(ろしょう)辰也(たつや)。師匠の霊夢(れむ)達。さらには、ぬらりひょんの間半(まなか)

 随分と、お節介をかけられたものだ。翠雨の言葉通りかもしれないと、火坑は軽く息を吐いた。


「しかし。偶然とは言え、同じ場所で逢引きでござるか。しかも、そちらは初めてなのだろう? やはり」
「構いませんよ? こちらだけのようですし……それに美兎さんも今はいい表情をなさっています。偶然でも、似た境遇のご友人が出来て良かったと思っていますから」
「……そうでござるか」


 嘘ではない。

 美兎は、気持ちを自覚する前から。社会人としてひとり立ちしたばかりを理由に、他の人間達との縁を薄めていた。

 たしかに、常連仲間の美作(みまさか)辰也はいたが。同じ会社ではないし、そうしょっちゅうは会えていない。

 だから、火坑は美兎がヒトとの縁を薄らいでいるのではと少し心配だった。

 なので、今回の件は火坑よりも美兎にとって良いことだと思っている。

 そうこう話しているうちに、美兎達がLIMEのIDを交換するのに立ち止まり。追いついたので、翠雨は紗凪に軽く拳骨をお見舞いしたのだった。


「さて、改めてエスコートさせていただきますよ?」
「はい!」


 美兎に手を握り返されると、火坑も嬉しくなったがひとつ思い浮かんだことがあり、軽く美兎の手を離したが。


「失礼しますね?」
「……え?」


 手を絡めるようにして握った、いわゆる恋人繋ぎ。

 わざとにっこり微笑むと、美兎は盛大に顔を赤くしたので、計算通りだと火坑は嬉しくなったのだ。

 口もあわあわし出した美兎にもう一度声をかけてから、彼女の手を引いた。


「さあ、翠雨さん達に置いていかれますよ?」
「は、は、はい!」


 事前に、人間界のコンビニで購入したチケットを受付に渡してから二組は水族館に入り。

 ダブルデートを、始めることになったのだった。