ぬらりひょんの厚意とは言え、いきなり高級料理を奢ってもらうことになるとは。

 ふぐ、と言う料理を美兎(みう)は生まれてこの方。ほとんど食べたことがない。いや、皆無と言っていいかもしれない。

 幼い頃から、裕福ではないが不自由もしてない普通の家庭で育ったために、縁がなかっただけだ。

 それを、二十三歳になった今年。初めて口にすると言う事態。美兎がぬらりひょんの間半(まなか)に心の欠片で支払うと言われても、いいからいいからとあしらわれてしまう始末。

 座敷童子の真穂(まほ)からも、気にしない気にしないと手を振られてしまった。


「超超高級料亭じゃないんだし、火坑(かきょう)も客のこと考えて選別してきてるんだがら。肉とかのA5ランクとかじゃないんだし?」
「そ、そうなの?」
「ふふ。おっしゃる通りです。たしかに本日仕入れたふぐは一等品ではないので。……(ひれ)の方も乾かす必要があるので、今日捌いたものではないのです」


 ほら、と火坑が厨房の壁を指差すと。カウンターと厨房の境目の壁に、小さな(すだれ)のようなものが立てかけてあった。そこには虫ピンのような針で留められている、黒い鰭があったのだ。乾燥しているので、すぐにでも調理出来そうだ。


「ほう? いい感じじゃないか? 酒も期待出来そうだねぇ?」
「ふふ。だといいですが」
「あの、ひれざけって。どう言う風に作るんですか?」
「お嬢さん、下関には行ったことはあるかい?」
「えっと……ない、です」
「面白い話があるんだよ。そもそも、鰭酒に最初出来たのは……大戦後間もない時代だったんだ」
「たいせん?」
「第二次世界大戦ですね? あれがなければ、日本は変わりませんでしたが」
「!?」


 そうだ、見た目で忘れかけていた。真穂も、火坑もだが、見た目はほとんど人間と差がないようにしている間半はずっとずっと昔から存在しているらしい妖のひとり。

 美兎みたいな人間なんて、子供よりも赤ん坊に等しいだろう。なのに、態度を変えることなく唯一人の人間として接してくれている。

 美兎は、そんな御長寿である間半の話を聞くことにした。


「今では酒造出来ない、酒に似せたマズい酒を人間達は飲むしか出来なかった。戦後のせいで物資はままならなかった時代になってしまったからね? それは漁師も変わらない。だが、ある冬の寒い時期。船で熱燗を飲むのにも混ぜるものがないと、食べ残したふぐの鰭でかき混ぜたら……人間にとっては美味いと感じたらしい」
「とは言っても、干していなかった鰭を実際にやると生臭くなってしまうんですよね? けれど、ただでさえ食が貧困していた時代には美味しく感じたのでしょう」
「だろうね? では、猫坊主。今の鰭酒を披露してもらおうか?」
「かしこまりました。熱燗もちょうどいい塩梅ですし」


 火坑が虫ピンのひとつを手に取り。人数分取ってから、一枚一枚を細長いトングの先に挟んで。弱火にしていたコンロの上でじっくり炙っていくのだった。


「生もだが、料理人の腕の見せ所なんだよ。弱火でじっくり炙らないとせっかくの鰭が焦げてしまうからね?」
「ええ、その通りです。これを端っこがこんがりするくらいまで炙って」


 いつもより大きめの、酒器。お猪口よりも、ぐい飲みみたいな陶器に出来立ての鰭を一枚入れて。その後に、湯気がすごい熱燗を注いだ。

 これで出来上がりかと思えば、チャッカマンで火をつけてしまい、まるで洋食のフランベのように青い火がついてしまった。


「え、え?」
「火が消えた辺りが飲み頃です。お待たせ致しました、トラフグの鰭酒です」
「わーい!」
「ふむ、悪くなさそうだ?」
「火、つけちゃうんですか?」


 綺麗ではあるが、これは演出なのだろうか、と思うと。また間半がくつくつと笑い出した。


「酒の好みにもよるが、鰭酒の場合強い酒で作ることが多い。今日は猫坊主の好みに任せたんだが、酒に火が入ると酒精……アルコールが飛ぶとも言うだろう? クセが抑えられて飲みやすくなるんだ」
「……そうなんですか」


 だとしたら、普通程度しか飲めない美兎を思ってか、美味しさを提供するためか。

 どちらにしても、美兎の火坑への好意数値がますます高まってしまうのだった。

 とりあえず、火が消えてからひと口飲んでみることにした。


湖沼(こぬま)さん、鰭は取り出してもそのままでもお好みでどうぞ」
「じゃ、せっかくなのでこのままで」


 酒も器もかなり熱かったが。

 アルコールをいくらか飛ばしたのと、炙った鰭の香ばしさで。これが酒なのかと思えないくらい、飲みやすい飲み物と化していた。


「ふふーん。美兎、気に入った?」
「うん! なんか、スープ飲んでるみたい!」
「言い得て妙。冬にしか飲めない酒だしね?」
「トラフグの旬ですしね?」


 先付けに出た、春雨サラダと合わせてもとても美味しい。おかわりしたくなるが、やはり二杯目はいつもの梅酒にしようと決めた。


「さて、鰭酒とくれば。てっさもいいですが、冬も近いですし。てっちり鍋……ふぐ鍋といたしましょう」


 ただ、その前にと火坑は身の部分ではなく、ふぐの皮をいきなり細切りにして鍋で軽く湯引きするのだった。