大神に奢られるなど、神様相手に恐れ多いことなのに。長い髭以外、美兎のような人間とほとんど変わりのない見た目。
雨女や雨男のように眼球が違うわけでもなく、座敷童子の真穂ともまた違う人間ではない存在。
そんな大それた存在から、心の欠片を渡されるだけでなく、長い貸し切りにしていた詫びとして奢るとも言われて、美兎はなんとも言えない気持ちになった。
大神は、まあまあ、などと座れと手招きしたので、恐れ多いが断れる立場ではないからと真穂と一緒に座ることにした。然程、広い店内なので、席はひとつ挟んだ形になったが。
「ふむ。パスタにパルメザンチーズ……そして、何より久しぶりのご来店ですので……ああ、そうですね!」
白い毛と涼しげな青い瞳が特徴的な店主である、猫人の火坑は材料を見比べてからまた肉球のない猫の手でぽんと手を叩いた。時々目にするので、それは彼の癖なのかもしれない。
その可愛らしい癖に、美兎は想いを寄せる側として少し嬉しくなった。
火坑は、狭い調理場に設置されている冷蔵庫や戸棚をくまなく探して、白くて大きな綺麗に処理された筍、玉ねぎにシャケ。あとは調味料に牛乳などなど。
「クリームパスタですか?」
美兎が聞くと、火坑は嬉しそうに目を細めてくれた。
「はい。秋らしく生シャケと筍のクリームパスタにしようかと」
「わあ!」
「きのこ入ってると、美兎はダメだもんねー?」
「う……」
「ふむ。ヒトの子の場合は馳走に好き好む部類が分かれるか? よいよい、好きなもので作ってくれぬか?」
「はい」
「お世話、かけます」
軽く会釈してから、先付けに出されたコンニャクなしの白和えを、これまた美兎のお気に入りである特製の梅酒をちびちび飲みながら待つことにした。
麺類は、さっき食べていた冷やし中華とかぶるが。火坑の作るものにハズレはないと信じ切っている美兎は、心をときめかせながら待つことにした。
カウンター席は、厨房と違い少し高低差があるせいかこちらから厨房、火坑の手元はよく見えるのだ。
それだけ、見せる自信がある腕前だと知っているから。美兎はこの時間も素敵だと思っている。
具材を切り揃えて、並行して大神の出した乾麺のパスタを湯がき。具材を炒める前に、小麦粉のような粉をボウルに入れて、少しずつ牛乳を加えて混ぜ合わせていく。そこからさらに、調味料を入れていったが市販品ではないのか、美兎には何かわからなかった。
「カルボナーラのように、チーズを入れずに。シンプルに小麦粉と牛乳でとろみをつけるんです」
「へー?」
「おもしろーい!」
「ほう?」
次に、具材を炒めたらザルでこしながらソースを加えて煮込んでいく。ある程度とろみがついたら、ぴったり茹で上がったパスタを加えて黒胡椒で味を整える。
軽く、火坑が味見をしたら。三人分の底が深い皿に盛り付けてくれて、さらにさらに、仕上げには美兎から取り出した心の欠片であるパルメザンチーズをおろし金で贅沢にすりおろしていく。
「うむ。見事也」
「美味しそう!」
「ねー?」
「湖沼さん達の分は、パスタの量を少々控えめにしました」
「ありがとうございます!」
小さな気遣いがとても嬉しくて、大神と一緒に手を合わせてから。出来るだけ行儀良くパスタをフォークに絡めると。
「! 生クリームじゃないのに、ちゃんとクリームパスタです!」
「筍とシャケって合うね? パルメザンチーズもいい仕事してるよ」
「うむ……うむ。やはり、主に頼んで正解だ! しかし……この味付け。どことなく、昆布の旨味を感じるが」
「その通りです、大神様。味付けに昆布茶を使いました。他には、オイスターソースにコンソメですね?」
「斯様なものか。実に美味だ!」
そして、冷やを盛大に煽った大神の様は、神様だからか酔った雰囲気が見られない。これが人間と神の違いか、と勝手に思ってしまったが。
だが、素直に美味しいと、このパスタを食べて思わずにはいられない。濃過ぎず、薄過ぎず。調味料もだが筍の食感とシャケの風味が実に秋らしく心地よい。
真穂もだが、美兎も。さらに、多めに食べていた大神まであっという間に平らげてしまった。
「ふむ。今日はもう締めにするかの。刻限は夜半に近い。美兎……とやらは明日も仕事があるのだろう?」
長居していたわけではないが、たしかに今日はプレミアムフライデーとかではない週の真ん中あたりだ。
真穂も少しは気にしていたらしいが、腰を据えていたので少々忘れていたようだ。
なら、と火坑は冷蔵庫に入れておいた、美兎の手土産であるわらび餅を器に入れてこちら側に出してくれた。
「冷たくておいひい!」
「ふむ。少し懐かしい感じじゃのぉ? しかも、抹茶とは粋な計らいよ?」
「あ、ありがとうございます……」
美兎自身が作ったわけじゃないのに、少しこそばゆく感じた。美兎もしっかり味を確かめていると、視線を感じた。
誰、と思っていると。追った先にいたのは火坑。何故か、とても優しい顔をしていたのだった。
その表情に、美兎は鼓動が高鳴り、息が荒くなりそうだった。
「……美兎よ」
「は、はひ?」
けれど、その至福の時間を壊したのは大神だった。
少し驚いたが、呼ばれたからには答えなければいけないのですぐに振り返った。すると、いつの間にかすぐ隣の席に腰掛けていたので、二重に驚いた。
間近で見ると、益々美形っぷりが凄い。
女顔負けの容姿に肌のきめ細やかさ。長い仙人のような髭は少々気になるが、それでも美兎にとっては美形の部類とさして変わりない。
と言うよりも、いきなり近くなったのと呼びかけられた意味がわからない。何か粗相をしてしまったのかと思ったが、こちらに手を差し伸べられてしまい、少しドキドキしてしまう。
火坑や真穂は助けてくれないのかと思っても、妖よりも断然偉い位の神様にだから、手出し出来ないのか。しかし、真穂は瞬間移動した後は文句を言っていたけれど。
「……うむうむ」
「あ、あの……」
けど、結果はそう大したことではなく。美兎の頭をまるで子供のように優しく撫でただけだった。ちょっと安心はしたが、この神様の行動の意味がよくわからない。
「うむ、良き女子よの。儂のような神や、火坑らのような異形の妖を怖れぬ。誠、良いヒトの子よの?」
「は、はあ……?」
「大神様。引き留めはそれくらいに。湖沼さんは明日もお仕事でいらっしゃいますから」
「ふむ、仕方ないのぉ。美兎よ、機会が合えばまた飲もうぞ?」
「か……かしこまり、ました」
「美兎はかしこまらなくていいよ。大神が次来られるのだなんて、神無月が過ぎた後だもん!」
「はは、そうさの」
特に何もなかったせいか、火坑や真穂も遠慮なく割り込んできた。一応の約束をさせられそうになったが、次の機会まで結構あるのならば、少しほっと出来た。
あの麗し過ぎる美貌は、ブスとは違う意味で目の毒だ。美兎は火坑が好きなのに、思わずドキドキしてしまうのだから。
「じゃ、美兎。帰りもひとっ飛びで帰ろ? もう終電ないだろうし?」
「え! もうそんな時間!?」
「ふむ。儂も明日からは出雲に立たねばならん。しばらく顔が見れぬが、またの?」
「あ、はい!」
「お気をつけてお帰りください」
そして、火坑と大神に見送られた美兎達は急いで瞬間移動で自宅に戻り。そのままだった食器とかは適当に片付けてシャワーを浴び、子供の姿の真穂と一緒にベッドで眠ることにした。
座敷童子の効果というか、契約主と一緒に寝ると気持ちのいい目覚めが出来るらしい。なので、楽庵に行く日は決まって真穂に来てもらって眠ることにしている。
また明日も、いい一日になりますように、と思いながら眠りにつくのだった。
だが、翌朝目覚めてみると、うっかり忘れてたことがあったのだ。
「……今日、はじめての振替休日だった」
先週は休日出勤だったので、有給はまだ取れない美兎の場合には振替休日が会社で定められている。週末以外ならどこでもいいかと適当に決めたのが今日の木曜日。
起きて、アラームの後に見えたスケジュール帳のお知らせでやっと思い出した。
なので、真穂にもクスクスと笑われてしまう。
「なーんだ。急いで帰らなくてもよかったんだー?」
「けど、神様とオールだなんて絶対無理無理! 火坑さんがいても無理!」
「ま。滅多にない機会だしねー? そうだ、美兎。今日一日、お休みなら昼前まで寝直して。その後、妖デパートとかで服とか見ようよ?」
「へ? 服?」
「お金かけるところ、そろそろお菓子以外にもしようよ。真穂が守護についてからずーっと見てるけど。美兎の服って似たり寄ったりだよ?」
「あ、あう……」
「妖デパートは行き来する人間達だっているし、人間用の服もあるよ? ランチとかは真穂が奢ってあげる!」
「え、いいの? お金は?」
「ふふーん。天下無双の座敷童子の一角だよ! 奉納金とかの一部は真穂のポケットマネーなの!」
「そ、そうなんだ……」
あの大神とはしばらく会うこともなく、いつものように日常が戻るかもしれないが。
今日もまた、錦のあの小料理屋に赴けれるのだから、嬉しくないわけがない。
ならば、とびっきりの可愛らしい服装であの猫人の目に写ろうじゃないか。
大神は、長らく居座っていた楽庵を後にして、のんびりと雲の移動で尾張の町を後にした。
ごみごみしい、鬱蒼としたビル街は少し目が疲れるが不思議と嫌ではない。
世は移り変わりするもの、何もかもが同じではない。
ヒトの縁もそう。時折、妖の一端と結ばれることもあるが。それはほんの一握りでしかない。あの湖沼美兎と言う、大神が髪を撫でることで少々の繋ぎを強化してきたのだが。神は縁をいじるだけでつないではいけない。
なぜなら、無理に繋いだら場合によっては拒絶反応を起こすからだ。それが別れと単純で済めばいいのだが、移り変わりの世ではそれだけで済まない時も多い。
「縁に幸あれ、美兎よ」
一見優しげで、しかし心に受け入れる隙をあまり与えないあの猫の妖を。どうか、ゆっくりと溶かしてやって欲しい。次に会う時が少し楽しみな大神だった。
雲は、島根県の出雲へ向かう。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
約二ヶ月前に、座敷童子の真穂と契約した新人デザイナーの湖沼美兎なのだが。
今日は仕事の振替休日なのと、真穂の提案で錦でも妖界隈にある妖デパートにやってきている。
その中のひとつ、三○によく似た高級デパートの『鏡湖』と言うところに、真穂に手を引かれながら連れて来られた。
真穂は、妖界隈にいても今日は美兎の服を買いに来たからと大学生くらいの姿になっている。その姿だとおかっぱ頭はセミロングになっているから少し不思議だ。
「さー、買うよ!」
「真穂ちゃん、意気込むのはいいけど。派手なのはやめてね?」
「え、ダメなの?」
「スーツじゃなくていいにしても、社会人だからあ!」
なんとなく、お洒落着を選ぶにしても派手なものを選ぶのではと思って言うと、見事当たってしまった。
けれど、似たり寄ったりが多いのは自覚しているので、多少真穂の意見は取り入れよう。
けれど、まだ二回目だが妖のデパートでも従業員のほとんどが動物の顔以外そんなにも人間と変わりない。
妖だから、もっと毒々しいイメージからまだ抜け切っていなかったせいか、ギャップが激しかった。住む世界と見た目などは違うが、同じ生きてる存在だと思えば受け入れられる。
美兎は、猫人の火坑と出会ってからそんな風に思うことが出来た。
「うーん。秋らしくても、美兎の着るもののイメージって黄色だよね?」
エスカレーターに乗ってから、真穂がいきなり言い出した。
「あ、お母さんにもよく言われる」
「うん。美兎の霊力の質とか、最近の言葉だとオーラ? あれが、美兎の場合だと若草……綺麗な黄緑色に見えるんだー。だから、真穂も綺麗だなあって近寄ったんだけどー」
「お、美味しいの?」
「うん! ご飯も美味しいけど。美兎の霊力って癖になるんだよねー? 綿菓子みたいで」
「綿菓子?」
たとえ方が子供っぽいが、真穂は美兎より何十倍以上もの歳上である妖だ。けど、元の外見が子供だから精神年齢も結構、と思いがちだがしっかりしてるとこはしっかりしている。
今回も連れ出してくれたのが他ならない彼女だから。
「食べると甘くてふわふわしていい気持ちになるんだよ〜! って、降りなきゃ」
まるで夢心地のような気分になっていたのを止めたのは、エスカレーターの終点が見えたから。二回ほど登って三階に到着したあたりで美兎も降りた。
そして、目の前に広がるのは。
「ほんとに……人間と変わんない」
服もだが、ディスプレイもさることながら。どこをどう見ても、真穂の知ってる人間の店となんら変わりない。この前は、食品売り場に行っただけだから、こう言うところまで一緒だとは思わなかったのだ。
「さーて! 服いっぱい買っちゃお!」
「け、けど! 私そこまでいっぱいお金持ってないよ!?」
「大丈夫大丈夫! 妖と契約した人間には、色々サービスがあるんだよ〜?」
「サービス?」
なんの、と聞く前に誰かがこちらに近づいてきた。
「お客様、そちらの妖様との主従契約を結ばれていらっしゃいますね?」
「ひゃ!」
ちょっと驚いたが、ウサギ顔の妖らしい女性店員だった。性別がわかったのは、なんとなく声でだが。
「うん、真穂。座敷童子と契約してる子だよー?」
「かしこまりました。では、わたくし穂積がよろしければご担当致しましょうか?」
「うん、お願い!」
「担当?」
「うん。初回とか、真穂とかみたいに契約してる妖と一緒だと。店員から担当につかないか聞いてくるの」
「へー?」
人間でもなくはないが、サービスが行き届いているからだろうか。よく見ると、店員の隣に人間らしい服装の女性がちらほら見えた。意外にも、妖と契約している人間は多いのか。はたまた別か。
「では、改めまして。わたくし、穂積が承ります。失礼ですが、お客様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか? お嬢さんの場合は名字で結構ですよ?」
「あ、湖沼です!」
「真穂は座敷童子の真穂!」
「まあまあ! 座敷童子様と! それでは盛大にサービスさせていただきます。本日御入用のものは衣類関係でよろしかったでしょうか?」
「うん! 湖沼ちゃんの会社での服とかー」
「湖沼、ちゃん?」
「ここからはねー? 不特定多数に名前知られたら、真穂の加護があっても大変だもん」
「へ、へー?」
エスカレーターでは思いっきり呼んでたが、色々ルールがあるのだなと実感するしか出来なかった。
「会社ですか。失礼ですが、湖沼様の場合。女性の皆さんはどのように?」
「えっと……スーツは少ないですね。でも、少しフォーマルなスタイルが多いです」
「なるほどなるほど。では、こちらにいらしてください」
「はーい!」
「は、はい!」
どんなところに連れてかれるのかな、と穂積の後についていくと。美兎の目に飛び込んできたのは、ふんわりとしたイメージが強い婦人服売り場だった。
「か〜わいい〜〜! 湖沼ちゃんに似合いそう〜!」
美兎本人が声を上げそうになった横で、真穂が先に声を上げてしまった。ただ、今の発言には少し言及したかった。
「似合わない似合わない! こんな可愛いの私になんて似合わない!?」
「えー? 着てみなきゃわかんないよ? 真穂は似合うと思うけど」
「是非一着だけでも。この秋の新作ブラウスも多数ありますよ!」
「ぶ……ブラウス!」
穂積の手には、フリルが抑えめではあるが。非常に、非常に美兎の好みのど真ん中を突き抜けた一着が手にされていた。
その出来るサービスに抗える力は、美兎には、なかったのであった。
「うう……着替えることに」
手にとってしまった時の手触りの良さに。一着だけなら、と口にしたら真穂や穂積に試着室に連れてかれたわけである。
「あ、縁にポンポンついてる。可愛い」
冬服仕様ではないが、可愛いらしい白のふわふわポンポンが二個付いているのがとても可愛らしかったのだった。
今日も今日とて、小料理屋楽庵をひとりで切り盛りする店主の火坑は、仕入れから気合を入れていた。
車を所持していないわけではないが、大物を目当てに仕入れる以外は基本的に自転車で買い出しに行くようにしている。その方が、個人的に身が引き締まると思っているからだ。
身支度を整えてから、買い出し用のメモをスマホで確認して。ツバのない帽子をかぶってから、火坑は自宅の靴箱の横にある長鏡で己の姿を写した。その姿はいつもどおりに、白い猫人であるが今日行く先には相応しくない。
自分に肉球のない猫の手をかざし、目を閉じた。
「写し度、移し度、映し度。我が身を映せ」
そして、火坑が次に目を開けた時には。鏡にはどこをどう見ても人間の青年が立っていたのだった。
ほんの少しの妖力と、霊力を合わせた写見の技である。火坑がまだ地獄で補佐官をやっている時にも使った、いわば『妖術』と呼ばれているものである。
多用は出来るが、出来るだけ今の世を占めている人間達の迷惑にならない程度に。だから、ある意味人化とも思われるこの妖術も言わば処世術に過ぎない。
とりあえず、尻尾や手足の不備がないか確認してから自宅を後にして駐輪場に向かう。
「さて、時間も限られているし急がねば」
愛車である自転車にまたがり、火坑は名古屋の主要駅にほど近い生鮮市場に向かったのだった。
その距離、自転車ならばおよそ三十分程度。道路交通法で自転車の走れる道路が色々変わってきたが、ルールを守れば妖である火坑にも理解は出来た。新聞は店のためには取っているが、情報収集は主に時代にならってスマホやPCなどのネットサーフィンでやっている。
料理に関しても、他店に潜入取材に行く時もたまにはあるが、だいたいはネットで検索している。すべてを信じるわけではないが、便利なものを利用して悪いことではないからだ。
「さて、着いたか」
名古屋の市民の台所とも言われている、『柳橋中央市場』。
東京にある市場に比べたら小規模かもしれないが、大抵の食材は手に入る場所だ。妖界隈にももちろん似たところはあるが、火坑はヒトと関わることが好きなので妖術で化けてから向かうくらい。
とりあえず、駐輪場に自転車を置いてきてから中に入ることにした。
しかし、早朝とは言え相変わらず賑わいがすごい。
この市場はだいたい午前四時から十時までと短い時間帯でしか営業していないのだ。だが、観光名所でもあるため、興味のある人間達がよくきたりもするらしい。一部だが、飲食店もあるからだ。
「さて、秋めいてきたからには」
定番のスッポンもだが、少し珍しい食材も仕入れたい。秋だから、サンマも欠かせない。ジビエはもう少ししたら猟が解禁されるがまだ数ヶ月はある。なので、自然と魚卸し市場のコーナーに目が行く時に誰かが声をかけてきた。
「おっと! 香取の兄さんじゃないか!」
「……どうも、佐藤さん」
香取とは無論、偽名だ。戸籍は閻魔大王のお陰で一応あることにしているが、そう多くは利用しないので実際使うのは偽名の方だけだ。下の名前も一応あるが、それもほとんどの人間は知らないでいる。
とりあえず、贔屓にしている卸し場にもう着いていたらしく、火坑は遠慮せずに聞くことにした。
「今日のお目当てはなんだい?」
「そうですね。時期が過ぎてもいいような変わりだねなどがあれば」
「なら、鮎だな! しかも子持ち鮎だ! 香取さんの店でどうだい?」
「甘露煮も捨てがたいですが……シンプルに塩焼きがいいですね。いただきます」
「はい! 毎度ぉ!」
あの大神にも出してあげたかったが、迫りくる神無月の宴のためにはもう島根の出雲に出向かなくてはいけない。
昨日来た湖沼美兎や、同じ常連の美作辰也もきっと喜ぶだろう。塩焼きもあまり出回らない子持ち鮎ならば、あの二人はきっと喜ぶに違いない。
「さて。なら、柑橘系にすだちかカボスがあれば……」
スマホのメモも見つつ、頭の中でこうしようああしようとイメージを膨らませて、火坑は思い思いに仕入れをしていく。美兎達のこともあるが、他の常連である妖達を疎かにしないためだ。
そして、あらかた仕入れも完了したので、荷台に取り付けているカゴにダンボールを乗せて紐で固定してたのだが。
「……おや、珍しい」
火坑の目の前に、春の綿毛よりも随分と大きいケサランパサランと呼ばれる、幸運の使いの座敷童子と並ぶ妖が現れたのだった。
試着をしたところで、真穂やウサギ店員の穂積達から似合う似合うと褒めちぎられたのだが。
「とてもよくお似合いです!……あら?」
何か気になったのか、穂積は美兎が着ている服のポンポンに手を添えた。
「これは……?」
「あ、あの、どうかされたんですか?」
「いえ。この服にポンポンはつけていなかったような……?」
「あ、店員さん。それ、多分ケサランパサランだよ?」
「あら!」
「え、けさ……?」
「ケサランパサラン。古くからいる日本の妖の一種だよ?」
「こ、このポンポンが……?」
「一回着替えてきて?」
「真穂様。場所を変えましょう。湖沼様がお着替えなされてから、社員の休憩フロアにでも」
「うん、そうしよっか?」
なんだかとんでもない事態にまた巻き込まれたんじゃ、と美兎は不安が込み上がってきたが。着替えた後、その服ごと社員用の休憩フロアに連れて行かれて。
これまた、白い狐顔の、多分男性の妖がやってきてからケサランパサランについての真偽を確かめることになった。
「わたくしは、当店の課長を務めさせていただいております。久我と申します。本日は当店にお越しいただき誠にありがとうございます」
「い、いえ。こちらこそ……湖沼と申します」
名刺こそは渡されなかったが、丁寧な立ち振る舞いに美兎は持てるビジネスマナーでなんとか受け答えをするのだった。
「本日は、お召し物をお買い上げいただくとのことを、穂積から聞きました。ただ、試着の時に服にケサランパサランがついていたと」
「あ、はい。これなんですが」
真穂に持つのは美兎本人がいいと言われたので、そのまま持っていたが。ケサランパサランらしいポンポンが付いている縁を持つと、久我はスーツの懐からルーペのようなものを取り出した。
丁寧に服とポンポンを手に取り、じっくりという感じにポンポンを眺めていく。すると、ほんの少しだけポンポンに触れたら、小さな目のようなものが美兎の目にも確認出来た。
「間違いありませんね。ケサランパサランです」
「これ……どういう妖なんですか?」
まだまだ妖については勉強中の美兎には、どういう存在かさっぱりわからない。久我は、そんな美兎の態度にもにっこりと笑顔で対応してくれた。
「真穂様……座敷童子とは違う、幸運の象徴とも言われる存在ですね。ただし、一度願いを叶えると消滅ではありませんが昇華してしまうなど。説は多々ありますが、ここ最近目撃情報が妖界隈でも多数寄せられています」
「幸運の、象徴?」
手のひらサイズの綿ぼこりみたいなのが。
美兎もちょんちょんと触ってみたら、目の部分が細くなって指にすりついてくるように体を寄せてきた。
「しかも、袖口の縁。左右に一対。これは、またとない幸運の証ですね……」
「真穂がいるからだけども〜。湖沼ちゃん、そのケサランパサランはこの人達にあげて、服の選び直ししようよ?」
「あ、うん?」
「でしたら! 本日お選びになられたお召し物の代金を……そうですね。60%サービスはいかがでしょう?」
「え!?」
「おーけーおーけー! それで行こう!」
「ありがとうございます。では、ケサランパサランの部分はお預かりしますので。お召し物の方は穂積に持たせますね?」
「え、え、えぇえええええ!?」
ただポンポンを見つけただけなのに、随分なサービスを受けてしまった。
とにかく、真穂のテンションもうなぎ上りになり、美兎の服や靴、はたまたバックを一通り選んでは購入して。
お昼には、鏡湖のレストランフロアにあるイタリアレストランで大いに飲み食いをしたのだった。
「い、いいのかなあ……」
「何が?」
「何がって、こんなにも素敵なとこで……下手すると量販店並みの金額で欲しいものが買えたり、とか」
「真穂がいるから、いいことづくめなんだもん! ピザ食べちゃうよー?」
「あ、食べる食べる!」
お腹は正直言ってペコペコだったから、美兎は慌ててマルゲリータを口にした。生地は外側がカリカリでソースの載ってる部分はもちもち。チーズもよく伸びるし、実に食べ応えがあった。
「けどぉ。ちょっと聞いてたけど、ケサランパサランの大量発生かあ。人間の方でもあったら、ちょっと大変だね?」
「ど、どんな?」
「ちょっと悪い人間に見つかったら、犯罪の材料にされちゃう」
「え」
「湖沼ちゃんや辰也とかが違うのは知ってるけど。人間はいいことどころか悪いことに幸運を利用しがちだもん」
「……そうだね」
美兎は、本当に運が良かっただけだ。
錦にたまたま出向いて、火坑と出会い、その店で吉夢を宝来から譲り受けた。その縁で、真穂とも出会えたのだ。
悪いことに、なんていうのは思いつかないが。あの猫人を好きになった経緯で、そんなバカな事態は思いつかない。
人の心を動かす気持ちも、全く。
そもそも、美兎は火坑に常連客以上の思いを持たれているのか、少し心配だった。昨日のあの慈愛に満ちた微笑みはいったい。
けど、深追いは出来ない。たまたまだったかもしれないから、と美兎はセットで頼んだ紅茶をひと口飲んだ。
「……美味しい」
「ここのスペシャルブレンドだもんね? 真穂がいるし、特別に出してくれたんだと思うよ?」
「真穂ちゃんが座敷童子だから?」
「ん。あと、ある意味ここの役員だから?」
「や、役員?」
「真穂以外にも、数人いるけど。座敷童子御用達のデパートなんだー?」
「こ、この前言ってなかったじゃん!?」
「ちょっと湖沼ちゃんを驚かせたくて〜」
まったく、茶目っ気が強いのかそうでないのか、よくわからない座敷童子だった。
「じゃ、荷物は配達したし。次は普段着で行こう!」
「ふ、普段着!?」
「そして終わったら、楽庵に突撃して。火坑をメロメロにしてやろう!」
「え、えぇえええええ!?」
守護についてもらった座敷童子の勢いは、止まるところを見せなかったのである。
結局。
普段着の方も座敷童子の真穂と同行しているのと、ケサランパサランを見つけた功績により大量に購入出来てしまったのだ。
しかも、いつも仕事で着ているようなパンツスタイルではなくスカートで。とても美兎の好みのドストライクに当てはまるくらいに、素敵なブラウスと合わせて購入したのを。真穂の特権で、靴も購入してフルメイクも化粧品コーナーの従業員に施してもらい。これはどこぞのご令嬢か、と思うくらい綺麗にしてもらったのだ。
そして、いよいよ錦に行って、楽庵に向かったのだが。
「……見られてる?」
「美兎が綺麗だからだよ?」
「えー?」
たしかに身綺麗にしてもらったが、そんな芸能人とかみたいになっていないと思っているのだが。どうやら、妖界隈でも周囲には気になってしまうくらい整っているそうだ。
なら、火坑にも褒められるかな、などとちょっとだけ気分が上がってしまったが。締まりのない表情は見せられない、と気合を入れて楽庵に向かう。
いくつか角を曲がって、細長いビルが並ぶ、隙間の隙間くらいの細さ。そこに、楽庵は存在しているのだが。
何故か、昨日の今日なのに少し様子が変だ。
具体的には、店先なのだが。いつもきちんと掃除されているはずの楽庵が、ほこりまみれである。だが、黒っぽくなくて、逆に白っぽい。あと、美兎には少し見覚えのある感じだった。
「あれ〜?」
「真穂ちゃん、これって……」
「うん。ケサランパサラン」
「なんでこんなにも……?」
それと、火坑は大丈夫なのだろうか。
少し、いやだいぶ心配になってきたが。扉へ行こうにもケサランパサランが密集するように浮いているので、進みようがない。真穂に対処出来るか顔を見ても、ふるふると首を横に振った。
「火坑の料理か何かに引き寄せられたにしても、手のつけようがないよ。術か何かで追っ払っても、帰りにまた増えまくる可能性大だし」
「じゃ、どうすれば……」
「少々困った状況ですね? 少しお力添えいたしましょうか?」
「……え?」
耳通りの良い声に、美兎は一瞬火坑がいるのでは、と勘違いしかけた。
けれど、振り返ってみれば、そこにいたのは火坑ではなかったが。人間の姿をしていた火坑に雰囲気がよく似た、けれど、とても涼しげな印象を感じた美形の青年が立っていた。
例えると、昨日の大神とは違い黒髪だが、年頃が近いような。少し長い髪を丁寧に後ろで結んで、服装は何故か神社で見かける神主さんみたいな格好。
彼も、妖か何かだろうか。美兎が返事をしかねていると、真穂が彼に指を向けた。
「亜条!」
「ご無沙汰してますね、真穂殿」
「なんでここに?」
「いえ。久方振りに元同僚の馳走を、と」
「ふーん?」
「あ、あの……?」
「ああ。申し遅れました。わたくし、火坑の元同僚であり、閻魔大王の第一補佐官を務めさせていただいています。……亜条とでもお呼びください」
「え、えと! 湖沼美兎、です! こ、ここに通わせていただいています!」
「ふふ。火坑からは時折聞いていますよ? 可愛らしい人間のお嬢さんが常連になってくださったと」
「は、はひ!?」
なんて説明をしているのだ、とびっくりしたが少しだけ嬉しかった。
普段の、仕事で疲れ切っている方の自分でも可愛いと言ってもらえるだなんて。お世辞でも、美兎にとっては嬉しかった。
「しかし。あれも色々好かれやすいですが、すごい量の袈裟羅・婆娑羅ですねえ?」
「あの……ケサランパサランじゃ?」
「ああ、いえ。それも間違ってはおりません。ただ、日本の古い妖の伝承だと、今わたくしが言ったような呼び名なのですよ」
「そうなんですか?」
「亜条、どうするの?」
「そうですね。少しばかり、他所に移っていただきましょうか?」
亜条は、着ている服の隙間に手を入れ、取り出したのは綺麗な扇子。しかも安売りしてるような、縁日で持ち歩けるタイプではなく、しっかりとした造りだった。
それを片手で丁寧に広げると、ケサランパサランの方に向けたのだった。
「去ね、去ね、ここより、去ね。我が真名をもって命じよう。ここより、去ね」
呪文かなにかを呟きながら、左右に扇子を舞わせると。あれだけ大量に浮いてたケサランパサランが少しずつ動き出して。
夕闇も近い空に、少しずつ浮かび上がって見えなくなってしまったのだった。
「こんなところでしょうか?」
「亜条、さっすがぁ!」
「す、すごいです!」
「いえいえ。けれど、これだけの袈裟羅達を火坑はどのようにして連れてきてしまったのか」
「……説明しますよ。亜条さん」
「火坑さん!」
ケサランパサランがいなくなったお陰か、火坑が疲れ切った表情で出て来た。
美兎はなりふり構わずに駆け寄り、思わず彼の両手を掴んだ。
「湖沼さん?」
「火坑さん! お怪我とかは!」
「い、いえ。出られなくなった以外特には」
「良かったです……」
無事だったのなら何よりだ。
思わず、やってもらったメイクを気にする余裕もなく、ほろほろと泣いてしまうのだった。
「女性を泣かせるとは、罪作りな猫だね? お前も」
「……すみません」
「うんうん」
「あ」
そう言えば、一人じゃないのを思い出して。
美兎は、今度は真穂や亜条にも腰をペコペコさせながら謝罪をするのだった。
座敷童子の真穂は、契約している人間である湖沼美兎については、苦笑いしか浮かんでこない。
縁を繋いでもらった、小料理屋楽庵の店主である、猫人の火坑を少なからず想っているのは悪いことではないのに。
今の人間も、どこか遠慮とか謙遜をしているのか。自信が持てないようだ。だが、第一補佐官の亜条が店先のケサランパサランを対処してもらった時に、真っ先に心配しているその感情は。
間違いなく、本物。種族関係なく、相手を想う気持ちそのものだ。
また今日も美兎の自宅に帰った時に、是非とも伝えなくては。真穂は、大学生くらいの変幻を解かずにそのままくすくすと笑いを堪えるのだった。
「……あなたもですが、あれも……良い縁を結んだものですね?」
真穂と同じく、蚊帳の外にさせられていた亜条も笑いを堪えていた。
「面白いでしょ? けど、元補佐官と人間……って大丈夫?」
「問題はありませんよ? 実は、大王にもこの情報が伝わっていまして……先に確認してこいとおっしゃいましてね? 半分はそれを確かめにきたんです」
「さっすがは、閻魔大王?」
「そうですね。それに、気に入っていた猫に寄り添う相手が出来たのならば、誰とて気になりませんか?」
「そうね?」
この口ぶりだと、火坑が亜条に報せた時とかに、既に元同僚の恋路も見抜いていたのかもしれない。火坑自身も、少なからず美兎に気をかけていることに。
だが、どちらも天然気質ゆえに、しばらくは気づかないだろうが。今も、美兎はいかにも恋する乙女の表情でいるのに対して、火坑は普通の表情でいる。
「ねーぇ、そろそろ中入ろうよ? 真穂、ちょっと小腹空いた」
「あ、ごめん……」
「私もお邪魔しますね?」
「ご案内致します」
美兎の、少し残念そうな顔にさせたのには真穂もいくらか心が痛んだが、ここで突っ立っているわけにもいかない。
とりあえず、店の中に入ると、中にはケサランパサランはいなかった。と言うよりも、亜条の術であらかた他所に移ったのだろう。その移り先がどこになったのかは、真穂もよくはわからないが。
「美兎はこっち」
「え?」
「亜条はここ」
「おや?」
「で、真穂は間!」
勝手に席順を決めたのだが、いくらか気に入りかけている美兎に亜条の手が伸びないとは限らない。
火坑の想い人かも、と言う理由を差し引いても、真穂は美兎の嫌がる事柄は全力で避けるし、守りたいのだ。
その意味がわかっていない、美兎本人や火坑には首を傾げられたが、亜条はわかっているのか相変わらずくすくす笑っているだけ。
「ふふ。ところで、火坑。何故あのように袈裟羅達がこの店に?」
「あの、実は……」
と、火坑は気恥ずかしそうに肉球のない猫の手で頭を軽くかいた。
「なーに? 真穂達もさっきまでいた鏡湖で見つけたけど、あんなにもいなかったよ?」
「いえ、その……僕は柳橋に仕入れに行った帰りに見つけて。ここに戻ってきてからは、桐箱に入れていただけなんですが。白粉も与えていないのに、いつのまにかあんなにも」
「んー?」
「奇妙だね? 巷……人間達の方ではほとんど見かけないのが、近頃妖界隈では袈裟羅達の繁殖期かと疑うくらい増えていると聞いてきたのだけれど……」
それの調査はこちらで引き受けましょう、と亜条が言ってくれたので、せっかくだからと火坑の料理を食べることになった。
「そう言えば、湖沼さんは今日お仕事だったのでは? 真穂さんが妖デパートに行ったと」
「あ、あの。振替休日が今日だったのを忘れてて……」
「ああ、それで。いつも以上にお綺麗でいらっしゃったので、驚きましたよ」
「あ、あの! び、美容部員さんに……色々してもらって」
「なるほどなるほど」
真穂は思わずにいられなかった。焦った過ぎるぞ、この二人、と。
亜条もきっと思っているだろうが、先に出された先付けと冷酒で一杯やりながらにこにこしているだけだった。さすがは、火坑の元同僚と言うか雰囲気が相変わらず似過ぎている。しかし、勘が鋭いのはこちらだが。
「ねーえ? 今日は何が食べられるのー?」
「そうですね。子持ちの鮎が手に入りましたので、そちらはどうでしょう?」
「落ち鮎だね?」
「おちあゆ、ですか?」
「鮎の旬は夏ですし、産卵期を迎えた雌の鮎をそう言うんですよ」
「へー?」
そして、ちょっとずつ火坑の活躍の場を邪魔するのは、火坑に自覚させたいがためか。昨日の大神の時に美兎に見せた慈愛の表情はどこにもなく、元同僚というか先輩に対して気に入っているおもちゃを取られた時のような苛立ちの表情。
美兎には判別出来ていないと思うが、そこそこ付き合いの長い真穂には見ただけでわかった。これだと、先に美兎と真穂が帰ったあとに一悶着起きるかもしれない。
真穂は、美兎と同じく火坑特製の梅酒をちびりと飲みながらそう思った。
「では、皆さん。子持ちの鮎を塩焼きにしますが」
「はい!」
「お願いするね?」
「真穂も!」
とりあえず、苛立ちは表面上引っ込めているので、なんとかなるかなとは思うが。右隣の美兎から、服の袖をくんっと軽く引っ張られた。
「美兎?」
「真穂ちゃん、火坑さんだけど。なんだか怒っていない?」
「そう?」
「う、うん。気のせいかなあ? 雰囲気がちょっと」
「大丈夫だよ。多分、こっちの亜条のせい」
「へ?」
「おやおや、わたくしですか?」
心外ですね、とうそぶく彼に軽く小突きながらも、三人で鮎の塩焼きが出来るのを待った。
「ふわぁ〜、焼き魚のいい匂いー」
狭い店内なので、匂いがすぐの充満してきたからか鮎の焼けるいい匂いが届いてきた。ちなみに、鮎は網で直火で焼くのではなく、小さな囲炉裏みたいなスペースで炭火で焼いているのだった。
鉄製の串に踊るようにさせて刺した鮎は、ついさっきまで生きていたかのよう。塩の化粧は全体に白粉のように施されていた。
「お待たせ致しました。子持ち鮎の塩焼きです」
「わぁー!」
「美味しそう!」
「いただくよ」
鮎の焼き加減は、皮はパリパリ。塩気は抜群で、白身にも程よく移っていて。たっぷり腹に入っていた卵の部分も噛むたびにプチプチと弾けて心地良い。
そんな珍味の他に、いつものスッポンコースを美兎と堪能してから。亜条はまだ残ると言い、真穂は美兎と楽庵を出ることにした。
「普通のお勘定、今日が初めてですね?」
「お気遣いありがとうございます」
「いえいえ! こんなにもお安くていいんですか?」
「大丈夫です」
気遣いが出来る女はいい女とも言うが。
美兎は少し謙遜しがちだ。今火坑に支払いをしている時もそう。どこか、自信が無さげでいる。やはり、帰ったら、美兎が火坑を想う気持ちは本物だと。自信を持つべきだと伝えよう。たとえ、美兎と出会って数ヶ月の守護妖なだけの真穂の言葉でも。
大切な人だからこそ、幸せになってもらいたい。
そんなことを考えながら、二人で錦の通りを歩いていると、向かいから見覚えのある男が歩いてきた。
「あれ? 湖沼さん?」
「あ、美作さん」
「今日は楽庵行けたの?」
「あ、はい。大丈夫でした」
まさか、大神が関連してたことは流石に言えないので、代わりに真穂が答えることにした。
「ちょっと貸し切りしてた神様が昨日帰ったらしいの。だから、真穂達も今日行けたんだー」
「そっか? あれ、湖沼さんいつもよりおめかししてるね?」
「妖デパートでフルオーダーした結果なんだー」
「へー? 可愛いじゃん? 火坑さんには何が言われた?」
「え?」
「ん? だって、湖沼さん火坑さんが好きなんでしょ?」
「み、みみみ、美作さん!?」
「あれ? 今自覚した?」
「辰也、デリカシーなさ過ぎー」
「え、ごめん?」
てっきり、美兎のことを想っているかもと思っていた相手のひとりだったが。美兎のことを理解していたのなら、真穂の杞憂で済んで良かった。
とりあえず、バラされた状態の美兎が岩のように固まってしまったので。真穂は仕方なく、美作の前で術を使って美兎の自宅に移動したのだった。
愉快、実に愉快。
閻魔大王の推察があったとは言え。
元第四補佐官であった、猫畜生出身の、今の元同僚は。
いつもの涼しげな表情とはかけ離れ、元同僚という間柄のせいか。亜条に向けている表情はひどく不機嫌でいる。いささか、あの人間の女性についてからかい過ぎたせいだろう。
「……先輩、何をしに来られたんですか?」
「ふふ。お前は相変わらず素直かどうかわからない性格だねぇ?」
「……答えになっていません」
「いや何? 閻魔大王も気にかけてらっしゃったよ? お前のことを」
「……僕を?」
「気に入りの猫が、気に入りの番をようやく見つけたのか。と」
「! え、いえ、は……ぁ!?」
「今包丁を持っていなくてよかったよ」
子持ち鮎の塩焼きにした残りで、一杯やっていたのだが。それだと腹が減るので飯物はないかと聞いたら、山栗のおこわがあると言われたので待っているのだ。
あの湖沼美兎や守護の真穂に出さなかったのは、まだ出来上がっていなかったからである。炊飯器ではなく、蒸し器で炊いてる湯気からはほのかに栗の甘い香りが乗ってきて、亜条の鼻をくすぐった。
とりあえず、狭い店の厨房で盛大に転んだ後輩に、怪我をしてないかと聞けば大丈夫と返事が返ってきた。
「い、いえ……その……え? 僕が、湖沼……さんを?」
「自覚なしだったのかい? 咲耶姫にも動じなかったお前が、あの可愛らしい女性に惚れるとは。大王は見抜いていらっしゃったよ?」
「ぼ、僕……が、え?」
「正気に戻れ。おこわ出来そうなら、お前も食べなさい。空きっ腹では考えてもまとまらないだろう?」
「……そうします」
そうして、出来上がったおこわを茶碗に丁寧に盛り付けられたのを。亜条の隣に座って、火坑もちびちびと肉球のない猫手で、箸を手にして食べ始めた。
「さしずめ、野に咲く可憐な花を摘みとらないようにしてたのかな?」
「……いくら、半妖が寛容になった時代とは言え。彼女には、もっと相応しいヒトが」
「なら。お前は黙って、どこぞの馬の骨に彼女を連れてかれても良いのかな?」
「…………無理、です」
しっかり自覚をしたのなら、さっさと告白すればいいのに不甲斐ない猫後輩だ。
けれど、今の今で自覚したばかりにそれは酷か。
とりあえず、茶碗と箸を持ったまま器用にカウンターの卓の上で突っ伏している様子は、亜条にとっては愉快でしかなかった。元同僚の恋路をこの目で見てるとは、まさに僥倖だ。
しかしながら、出来立てのおこわ美味なこと。
「甘味はあえて、山栗の甘さのみ。酒の風味と塩味が抜群だね? 餅米に米を混ぜてあるからか、軽くて食べやすい」
「…………お粗末様です」
「彼女の胃袋も掴んでいるんだから、ここの若女将にもなってもらえばいいんじゃないかな?」
「……彼女は、まだ社会人一年目ですよ? それに、その……まだ僕が想ってるだけで、恋人でもなんでもありませんし」
「……鈍いね」
「はい?」
座敷童子の真穂も気付くくらいの、火坑に向けられたあの湖沼の眼差しはどこをどう見ても。恋している女性そのものなのに。
肝心の向けられている張本人には、一切伝わってないか単なる社交辞令と思っているのか。仕事が出来ることに変わらない現世でも相変わらずの元補佐官だ。
猫畜生だった時も、気に入られていた視線は全部厚意と思ってたくらいだから。きっと、今でも変わらないのだろう。
修行に出させる意味で、地獄から転生させられたのにまるでなってない。が、これも因果ゆえか。
「お前の人化の術も。もっと見目麗しくすればいいものを。何を思って地味にしてるんだい? 湖沼さんには好かれているかもしれないだろうが」
「何故、って。下手に目立ちたくないからで」
「なら、仮にその姿で人間界でデートは出来ないだろう? 人化の術を磨きたまえ。彼女は磨けば光る原石以上だ。群がる人間の男どもは職場でも多いはずだ」
「そ、れは……」
知性を持った猫畜生以上の妖になったとは言え。思う女性はあの世でも特にいなかったのだが、現世に転生させて、ようやく見つかったのだ。
相手も想っているのだから、是非にも結ばれて欲しいのに。湖沼もだが、こちらも自分に自信がないでいる。全く持って、似た者同士だから実に愉快だ。
黙々と食べていた火坑だったが、なくなると亜条にもおかわりはいるかと聞かれたのでもちろんと答えた。
ホクホクとした栗の甘みと食感。塩味の軽いおこわは実に絶品だからだ。
「真穂殿がいるとは言え、彼女の自宅は知っているのだろう? このおこわを届ければいいのに」
「で……きません!」
「それか、あれか? 袈裟羅達に結ばれるように願いを叶えてもらうとか」
「そんな! 自分の気持ちは自分で言います! 妖の力でだなんて」
「ほら、それが答えだ。決めたのなら、さっさと言いなさい」
「先輩……わざとですか?」
「さてね?」
おかわりをもらいながら、現世ではケサランパサランと呼ばれているあの妖について考えていたが。
異常な増え方で、もし人間達が気づいて犯罪などに使われでもしたら大変ですまない。己の願いは、基本的に己で解決すべき。
あの世も、現世でも、それは変わらない。
神頼みに神社を訪れる人間がいようとも、本質的に変わらないのだ。
ただ、この店先からあの世に移動させたケサランパサラン達の量は凄かったが。推察だけでは解決しようがないので、二杯目のおこわを食べてから亜条は不完全燃焼の火坑を置いて、あの世へと戻った。
地獄に戻り、出かけ着のまま閻魔大王のところへ行くと、山のような書簡に埋もれた大柄の青年が顔を上げたのだった。
「……どうだった?」
「ふふ。あれはようやく自覚しましたよ?」
「そうか!」
豊かな黒い髭を撫でると、青年ーー閻魔大王は自分のことのように喜んでいた。
「自覚した途端、大袈裟なくらい転んでましたよ?」
「はっはっは! 火坑も猫とヒトとの間になってようやく恋心を育んだか? 相手は?」
「ご推察通り、最近気に入りの女性ですよ。半妖の流れを持っているので、霊力は折り紙付きです。座敷童子の真穂殿が自ら守護妖になったほどです」
「ほーう? 見てみたいな? 火坑にもしばらく会っていない」
「せめて、お彼岸が終わってからですよ。大王?」
「う」
とりあえず、ケサランパサランの報告もした上で亜条は仕事に戻り、閻魔大王は行きたくて行きたくてまるで子供のように拗ねてしまったのだった。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
ケサラ、バサラ
ケサラ、パサラ
ケサランパサラン
あれから幾日も経つが、やはりケサランパサランと呼ばれる綿帽子の妖が楽庵にやってくる。
振り払ったり、集めたり、他所の妖にお裾分けしにいくが、それでも泉から水が湧き出るように集まってくるばかり。
願い事を叶えてくれる妖だから、減ってくれるか他所に行ってくれないか願ってはみたものの、うまくはいかなかった。
元同僚、閻魔大王の第一補佐官である亜条のように、一応妖術で頑張ってはみたが彼のように瞬時に立ち去る気配はない。
まだまだ要修行中の身ではあるが、一向に立ち退いてもらわないと、ここのところケサランパサランを目当てにやってくる妖客ばかりで、実質営業妨害だ。
なんとかしなくては、と思っても、こういう類を相談しように、一度幽世に行かねばならないかもしれない。
そうすると、せっかく常連となってくれた人間のお客達をガッカリとさせてしまうのだ。
特に、想いを寄せてしまっている女性、湖沼美兎に。
「…………けど、このまま店を開けられないよりは。よっぽどいいでしょう」
とりあえず、筆ペンで『しばらく休業します。店先のケサランパサランはお持ち帰り結構です』と、したためて、ケサランパサランを一部払い除けてから扉に貼り付けた。
そして、今日仕入れた材料で手土産用に、と重箱に入れれるだけの弁当をこさえていく。
おにぎり、卵焼き、煮付け、唐揚げ、などなどなど。
元上司、もとい、元主人に会うのは随分と久しぶりだからだ。たしか、火坑が楽庵を開く以前だったかどうかくらいに前。
随分と、時が経ったのだな、としみじみ思いながら弁当を仕上げて、後片付けなどをしてから一度自宅に戻った。
「……一度だけ、彼女をここに入れてしまったけど」
あの時は、座敷童子の真穂に盛大に飲まされ過ぎて帰れなくなったからだが。二日酔いもせずに、ただただ眠りこけてしまうだけで済んで良かったが、あの時も真穂に聞かれたことがあったなと少し思い出した。
『随分と、気に入っているのね?』
『……あなたも、では?』
『真穂はこの子の美味しい霊力と、この子のあり方を気に入ったの。火坑は少し違うんじゃないかしら?』
『はあ……?』
あの時はまだ、意味がわからないでいたが。
先日、亜条に言われて自覚した気持ちは本当だ。嘘ではない。
淡いを通り越した、ヒトを恋い慕う気持ちに嘘偽りはない。伴侶を得るなど、猫畜生だった元獄卒時代でもなかったと言うのに。真穂は流石、最強と謳われる妖の一人だ。着眼点が違う。
「……出来るだけ、早い解決をしないと」
店もだが、閻魔大王が地獄から離れる時間もある。大王は最初の死人と呼ばれた以上に、最初の地獄の責任者。
充分、神の素質があるため、大神が向かった出雲の縁結びの宴にも参加されている。一番最後に行く順番とは言え、時間がないのだ。
ある意味、どうでもいい案件にお仕事を煩わせたくはない。
火坑は、もう一度楽庵に向かい、戸締りを確認してから。黄泉に通じる裏通路に向かうことにした。
「おう! 火坑の旦那じゃねーか!」
「これは……宝来さん」
裏通路に向かう途中、常連の夢喰いである宝来が声をかけてくれた。貼り紙を見たかはわからないが、一度断っておこうとそちらに向きを変えた。
「ケサランパサランの大量発生で、随分とお困りのようじゃねーかい?」
「お察しの通りです。その……実はその件で一度あの世へ行こうと。自分じゃ対処しきれなくて」
「ま、無理ねぇなあ? あんな吉夢の塊。夢喰い界隈でも推察はしてるが、さっぱりだぜ」
「そうですか……」
何か手掛かりがあれば、と思ったが世の中そんなに甘くはない。
宝来には店をしばらくの間閉めると告げると、長い鼻をしゅんと下げた。
「美味い飯が食えねーのは残念だけどよぉ。ま、都合はヒトも妖も関係ねー! けど、なるたけ早く戻ってこいよ? 美兎の嬢ちゃんもきっと落ち込むぜ?」
「こ、ぬまさんが?」
「あれだけ喜んでくれる嬢ちゃんは滅多にいねーだろ? 真穂様に守護につかれちまったが、俺っちにもいつも心を砕いてくれる。ああいう人間は貴重だ」
「……そうですね」
まさか、火坑が彼女を想ってることがバレたのでは、と冷や汗が背中を伝っていったが、少しほっと出来た。
だが、息を吐いた後に宝来が火坑の長い脚にポンポンと手で叩いた。
「旦那も、嬢ちゃんに会えなくなるから寂しくなるだろ? 心の欠片問わず」
「ほ、宝来……さん?」
「同じ男だから、でわかるぜぃ? 憎からず、想っているんだろ?」
「!?」
亜条も、真穂もだが。何故宝来にまでバレてしまっているのだろう。
そう言えば、その亜条が閻魔大王も見透かしていると言っていたので、地獄に訪れたら盛大にからかわれると予想出来た。
だが、問題は美兎とのことではないので、火坑は宝来に軽く礼を告げてから裏通路に向かったのだった。