ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
烏天狗。
天狗の一種であり。
山伏のような装いをしていて。
背には、濡羽の立派な翼。
彫刻のように、美しい顔が特徴的で。
少しだけ、人間と似ているようでそうでいない妖だが。
まさか、翠雨は人間の女と懇意な関係になるとは思わないでいた。
昔も、今も。
烏天狗の一員として、唯一人の存在でいるものだと思っていたのだから。
紗凪と初めて出会った時は。
彼女が、まだ六つ程の子供だった。
『……けて。たす……けて!!』
翠雨が、久しぶりに尾張に出向いた時に。
やけに、強い霊力を感じたので気になって探していたら。
怨霊の塊である存在が、幼い人間の女に襲いかかろうとしていた。
別に翠雨は正義の味方ではないのだが、反射的に身体が動いて。その怨霊を調伏した。
『……大丈夫でござるか?』
翠雨が天狗の面を外して、膝を付けば。小さい女は目を輝かせていたのだった。
『おにーさん、きれー!』
あれだけ怖い思いをしただろうに、翠雨の顔の美しさに手をパチパチと叩き出した。幼いのに、意外に肝が据わっているのだろうか。
『某のことはいい。……界隈に迷い込むとは。いつから居た?』
『かいわい??』
何も知らずに迷い込んだのだろう。
この年頃は特に迷いやすいと言われているので、仕方がないが安全な出口を出てからも人化して送り届けるか。
しかし、この子供。
幼いながらも、桁違いに霊力が高い。探していた霊力の持ち主を見つけられたが、こんなにも幼いとは予想外だった。
それに加えて、なんと愛らしい。
成長した姿が楽しみに思えるくらい。
そこで、思考が逸れていたと頭を振り、まだ輝かせていた目で翠雨を見ている子供の頭を撫でてやった。
『ここは、お前のような子供が居ていい場所ではござらん。送ろう、立てるか?』
『え……へへへ』
何故か笑い出したが、よく見ると膝を深く擦りむいていた。泣き叫んでいてもいい傷なのに、怨霊に襲えわれかけたのと翠雨の登場で忘れていたのだろう。
翠雨は厨子から傷薬の小箱を取り出して。傷口を水の術で軽く洗ってから塗ってやった。
塗った途端に、傷口がみるみる消えていく。烏天狗の秘薬だから当然だろう。
子供はパチパチとまた手を叩いた。
『痛くはないか?』
『だいじょーぶ! おにーさん、ありがとー!!』
『そうか』
礼を言われるほどではなかったが、何故かむずがゆく感じた。
そうして、人化してから手を繋ぎながら界隈を歩き。子供を人間達のいる狭間まで送ったが。
将来的に、この子供と恋仲になるだなんて、この時の翠雨は思いもしなかった。
あれから、十五年以上経ったが。
今、翠雨はあの時の子供だった紗凪と一緒にいる。
幼い時よりも、はるかに美しく愛らしく育った彼女と再会したのは。助けてから十年後。
翠雨が名古屋の街並みを歩いていた時だった。用事がいくらかあったので、人化をしていたのだが。
それが終わってから、久しぶりに界隈にでも一杯するかと考えていた時に。走ってきたらしい、紗凪に腕を掴まれた。
『……誰、だ?』
振り返れば、人間の女がいた。
妖に負けず劣らずなくらいに、美しく愛らしい。髪は染めているのか茶色だったが、翠雨は初めて会うはずの女なのにどこかで見た覚えがあった。
『お、おにーさん! あの時の天狗、さ!?』
『大声でそれを言うな!?』
思い出した。
妖的にはついこの間ことだが。人間としてはひと昔前のこと。
怨霊に襲われかけていた、幼い子供。
それの成長したのが、今目の前にいる女なのだろう。翠雨は女の口を片手で覆いながら、仕方なく界隈に引きずっていく。話すにも、内容が内容なので人間界では無理だからだ。
『〜〜!! 〜〜!?』
界隈に連れてくると、女は口を覆われていても嬉しそうにもごもごと動かしていた。その感触にくすぐったく感じたが、もういいだろうと離した。
『……あの時の、子供でござるか?』
『! そうです! やっぱり、お兄さんだったんだ!! 妖怪さんって全然変わんないんだね??』
『……そうでござる』
女は、変わった。
幼く頼りなさそうだった身体は娘らしく育ち。
顔なども、とても美しくなっていた。愛らしくて、妖と疑いかけたくらいに。
だが、霊力はあの頃以上にまで膨れ上がっていた。
『探したんだよ? あの日以来、こう言うとこに来たくても……お兄さんがくれたこのお守りで無理だったし』
と言って、女が懐から取り出したのは。
翠雨が手製で作った、守り袋。たしかに、人間界に送った後に子供に渡していた。
霊力が豊富にあるとは言え、また界隈に迷い込まないように。変な妖などに襲われないように、と。
少し、綻びはあるが大切に持ってくれていたのだろう。
翠雨は、何故か胸の内が熱くなってきた。
だが。
『何故、某を探したのでござるか?』
守り袋があれば、大抵の悪霊やよからぬ妖からは身を守れるのに。
何故、翠雨を探していたのだろうか。翠雨にはよくわからなかった。
すると、女はいきなり翠雨の手を掴んできた。
『一目惚れだったの!! お兄さんが好きなの!!』
『……は?』
『私の初恋叶えて!!』
『はぁ!?』
どう言うわけか惚れられてたと知っても。
妖と人間の生き方は違う。
儚い命しか持っていない人間は、妖と交わるまではともに生きていけない。だが、交われば人間ではなくなってしまう。
そう説き伏せても、女──紗凪は聞く耳を持たず、翠雨と一緒なら構わないと言い切るだけで。
そこから、さらに数年かけて。紗凪が成人しても数年経ってから。
結局、翠雨も彼女に惚れているとわかったため、交際を始めることになった。烏天狗の長にも報告したら、巫の女であれば問題ないと言われただけで済んだ。
だから、今も。
翠雨は紗凪と一緒にいる。
紗凪が社会人として二年目の春になって、ようやく火坑が営む楽庵に連れて行けるのだった。
大好きな人が、去年友達になってくれた湖沼美兎の恋人の店に連れて行ってくれる。
恩人でもある烏天狗の翠雨の所用が立て込んで、今日まで難しかった。美兎達とのダブルデートで言っていたマンボウの肉も、結局は食べられなかった。
また三重県か和歌山県で夏頃になれば人間界でも食べられるそうなので。その時期に合わせて、翠雨が仕入れてくれるようだ。
とりあえず、今日は。
火坑が栄の錦の界隈で営んでいる、小料理屋の楽庵に行く予定。であったのだが。
「ねえねえ、お姉ちゃん。俺らと飲みに行かない?」
錦に到着した途端、キャッチに絡まれてしまった。
たしかに、紗凪は可愛い。モデルだった母親の遺伝子を濃く受け継いでいるし、子供の頃は子役モデルもしたぐらいだ。今はただの一般人だが。
それは妖怪とかにも好かれやすく、父譲りの霊力で怖い怖い幽霊や妖怪達に襲われかけたのも一度や二度じゃない。それは、翠雨のお陰で一応解決はしている。今も持っている彼手製のお守りがあるからだ。
が、人間は関係ない。
歓楽街に近い錦だから、いなくはないと思っていたが。
「あの。私彼氏いるし、待ち合わせしてるんで」
「え〜、いいじゃん? 遅れてる彼氏より俺らと飲もうよ」
「そーそー」
「結構です!」
強く言っても聞く耳を持たない。
まったく、自分の顔の良さを恨むのはこう言う時だ。相手は自分達に自信があるようだが、はっきり言って下の中くらい。
麗しい容姿を持つ、翠雨とは比べるまでもない。
とは言え、振り切るのも難しい。
どうすれば、と思っていたら。
「……俺の恋人に何か用か?」
耳通りが良い低い声。
明らかに機嫌が悪いのがわかったが、紗凪には救いの手だった。
「すーくん!」
ダッシュで翠雨のところに走って、彼の胸にダイブする。
抱きとめた翠雨から、頭をぽんぽんと撫でられると、翠雨はまだぽかんとしているキャッチの男達に言い放つ。
「俺の恋人に手出ししようとするだなんて、良い度胸だな? 次はないと思え」
「ひぃ!?」
「ふぁ、ふぁい!?」
抱きついているので顔は見えないが、きっと怖い顔なのだろう。慌てた足音が遠ざかって行くのが聞こえてから、紗凪はさらに翠雨にぎゅっと抱きついた。
「ありがと、すーくん!」
「……まったく。次この辺りに来るのなら、コーヒーショップとかで待ってろ」
「うん! そーする!!」
一応二十四になったとは言え、少し童顔の紗凪だとメイクをしていてもまだ大学生に見られてしまう。一応仕事帰りだが、飲食店のウェイトレスなので制服以外はほぼ私服。
だから、人通りの多いところに行くとナンパやらキャッチやらに遭うわけで。
とりあえず、美男の翠雨にも注目を集めてしまっているので、界隈に入ろうと彼に手を引かれる。
建物の隙間を通り、進んで進んで曲がって曲がって。
歩いて行けば、錦の界隈に到着。
少し久しぶりに見る、妖怪達のたむろう繁華街。
街並みは、人間界とそう変わらず飲食店やホストなどの店で賑わっていた。
「さて、こちらでも某から離れるなよ?」
「うん!」
繋いでた手を離して、腕に自分の腕を組んで。
周りの景色を楽しみながら、小径を歩いていけば。
少し大きいビルの一階に、『楽庵』と言う小さな看板がある店が見えてきた。狭いと聞いていたが、予想以上に狭そうだ。
本当に、こじんまりした個人経営の店のようで。紗凪が働いているチェーン店よりも小さい。
だが、絶対絶対。美味しい料理が出てくると信じている。翠雨が常連と言うくらいだから。
「紗凪、腕を離してもらっていいか? 店はお前が思っている以上に狭い」
「はーい」
名残惜しいが、言われたらしょうがないので離した。
そして、翠雨が引き戸を開ければ、中から『いらっしゃいませ』と声が聞こえてきて。
翠雨のあとに続いて店に入れば、本当に予想してたよりもはるかに狭くて。けど、とても暖かい空間のそこには。
去年会った時とは違う、猫の頭に尻尾がある妖怪が調理場に立っていた。
「紗凪ちゃん!」
それと、美兎がカウンターの一席で座っていたのだった。
会うのは、着物デートで偶然会った以来か。
美兎はLIMEで紗凪とは時々連絡は取り合っていたが、会う機会がなかなか無かった。
美兎とは違い、飲食店のウェイトレスをしている紗凪の職場は。このご時世でも、それなりに繁盛しているらしく。
だが、美兎の個人的な主観としては。紗凪だけでなく、スタッフのほとんどが美形だからだと思う。紗凪自信もとても可愛いらしいが、少しネットで調べたら彼女のいる店のスタッフの写真がそうだったので。
一度行ってみようかとは思っているが、栄とは近所の伏見でもなかなか出先で寄る機会が無くて。ずるずると着物デートで偶然会った以降も、行けずにいたのだった。
紗凪は恋人である烏天狗の翠雨と一緒に楽庵に来て。
美兎と目が合えば、紗凪はこちらに来て美兎の手をぎゅっと掴んできた。
「この間ぶりだね!!」
「そうだね!」
「て言うか、本当にかきょーさんって猫さんだったんだ!!」
「ふふ。驚きましたか?」
「驚きました!! けど、声はまんま!!」
「紗凪、とりあえず落ち着け。今日はここの客になりに来たでござろうが」
「はーい」
翠雨に促されて、紗凪は美兎の左側の席に腰掛けた。
右には、座敷童子の真穂が腰掛けていたからだ。今日は本性の子供サイズである。
「元気ねぇ?」
「ね?」
「? 子供……じゃ、ないよね?」
「はじめまして? かしら。座敷童子の真穂よ、美兎の守護についているの」
「ざしきわらし?」
「んー。大人の姿にもなれるけど、こっちがほんと。家の妖怪とも呼ばれてて、憑いた家の幸運を導く存在ともされているわ」
あと、美兎の兄・海峰斗の彼女だとも告げれば、紗凪は可愛らしい目を丸くしたのだった。
「へー!? 美兎ちゃんのお兄さんも!?」
「色々あってね?」
「さ。先付けの卯の花和えです。市販のより甘さは控えめですよ?」
火坑が先付けの小鉢を二人に差し出してから、酒などの注文を聞いていく。翠雨は冷酒、紗凪は焼酎の梅干し入りのお湯割りだった。
「? ここってメニューないんだ?」
酒が来てから、紗凪は首をキョロキョロとさせたが。見つからないので、少し不思議そうでいた。
「基本、僕のお任せで出させていただいてますが。リクエストがあれば受け付けますよ?」
「へー? やっぱり和食?」
「そうですね。メインとなるのは、スッポンや季節のジビエ……猪肉とか鹿肉ですが。今日だとスッポンや鰻が出来ます」
「……スッポンって、どう言う料理が出来るんですかー?」
「僕のところだと、スープに脚肉の生姜醤和え、〆の雑炊ですね?」
「……んー? すーくん、美味しいの?」
「ああ。鶏肉のようで美味いでござる」
「じゃ、スッポン料理で!」
「かしこまりました」
ただ、スッポンの解体作業の時に、美兎は紗凪も直視出来ないと思っていたのだが。
「え、生きてる!?」
「ふふ。今から捌いていきます」
「目の前で見れるんだー!?」
と興味津々で。
美兎が顔を隠している間、紗凪が子供のようにはしゃぐ声が店内に響いていくのだった。
結果、紗凪は解体の一部始終を見届け。
臓物が出ても、きゃっきゃとはしゃぐだけで終わり。
しかも、初挑戦なのに生き血のポートワイン割りを飲むまでやってのけたのだ。
可愛らしい見た目に反して、豪胆だった。
さすがは、烏天狗の彼女だからか。
「んん!? お肉のお刺身美味しい!!」
今はスッポンスープが出来るまで、脚肉の生姜醤油和えを口にしていた。
今日のスッポンは仕入れた二匹とも雌だったので、全員卵も堪能したのだった。
「うむ。相変わらず美味いでござる」
「あんたの口調も相変わらずねぇ、翠雨? 烏天狗の次期頭領だからって」
「昔からこうでござった。今更変えるつもりはござりませぬ」
「あっそ。別にいいけど」
真穂と知り合いだと言うのは知っていたが、少しぎこちなく感じた。真穂と言うより、翠雨の方が。
「……真穂ちゃんと翠雨さん、仲悪いの?」
恐る恐る、真穂に聞けば。彼女は猪口を傾けながらからからと笑い出した。
「違う違う。こいつが赤ん坊の頃から知っているから、ちょっと反抗期なわけ?」
「な!? 真穂様!!?」
「事実じゃなぁい?」
「えー? すーくんが赤ちゃんの頃ってどんなんだったんです?」
「あら、聞きたい?」
「是非是非」
「やめろでござる!!?」
ああ、なんだ。杞憂だったのか。
美兎はほっとしてから、梅酒のロックを口にした。氷が少し溶けて薄くなったが、それもまたまろやかで飲みやすかった。
とここで、美兎は思い出した。
「火坑さん、今日の心の欠片を」
「ええ、お願いしますね?」
「へ? なにそれ??」
そう言えば、紗凪にはまだ伝えていないのを思い出した。
「魂の欠片とも言いますか。ただ、直接寿命などには関係がありません。わずかな片鱗、魂の輝きを僕のような妖が顕現します。その引き出しを可能とする方から、お代金の代わりにいただくんですよ。それは、ほとんどの場合食材になります」
「へー? そんな仕組みがあったんですね?」
「引き出すことを可能とする妖は少ないでござるからな? 紗凪にはそう言う店に連れて行ってなかったゆえ」
「どーやって取り出すんですか?」
「見ててください」
美兎が両手を火坑の前に差し出して、火坑の肉球のない猫手がぽんぽんと触れてくる。
お決まりの、一瞬フラッシュをたくように、店内が白い光に包まれて。
消えた時には、少し見覚えのある白っぽい魚肉が笹の葉の上に乗っていた。
「うわ!? ぽんぽんしただけで出てきた!?……はまち??」
「いや……それは、マンボウの肉でござる!?」
「あら、季節外れだけど、珍味じゃない?」
「火坑さん、これなら」
「ええ。せっかくなので、作りましょうか?」
マンボウのカツカレー。
前回のマンボウの肉は、シンプルに串焼きでいただいたから。
翠雨に提案すると、思いっきりガッツポーズをしたのだった。
マンボウで、カツカレー。
どんな感じになるか、少しだけ予想は出来るのだが。
紗凪もだが、彼女の恋人である翠雨が一番楽しみにしていたようだ。
少し前には頻繁に来訪してきた、がしゃどくろの合歓とはまた違う、秀麗な美貌。それが生き生きと輝いているのだから。
それを見て。火坑は苦笑いしながら、まずは美兎から取り出した心の欠片。マンボウの肉に下味をつけていく。
心の欠片の仕組みは、未だに謎部分が多いとされているが。鮮度が高いので、臭み消しをする必要がないとされているのだ。換金所に持って行くときは、流石に保冷させていくが。
下味の塩胡椒をまぶして、ひとまずバットに並べて冷蔵庫へ。
次に、カレーの仕込みだ。運良く野菜は自分だけの賄い用にと、取り揃えていたのがあるのでそれを使うことにした。
メインのマンボウの肉があるので、野菜だけのカレーを。
ただ一点、火坑はあることを思い出した。
「栗栖さん、今更ですが。食材の好き嫌いはありますか?」
「ないでーす!」
「……基本的になんでも食すでござるからな?」
「うん!」
なら、と。煮込み用の野菜に素揚げ用の野菜を切り。
煮込む方は、お馴染みになってきたタイマーを使った妖術で仕込み。
ルゥだけは、市販のを使い。素揚げ用の茄子とピーマンをたっぷりの油鍋の中で、シンプルに揚げていく。味付けは軽く岩塩で。
それは一旦置いておいて、カレーの味を確認してから鰹出汁と醤油で少々隠し味を入れて。味見して満足のいく出来になったら、次はカツ。
軽く、キッチンペーパーで出てきた水気を拭いたら。小麦粉、溶き卵、パン粉と順につけて行き。
再度、油鍋の温度を菜箸で確認してから、マンボウのカツを入れていく。途端に、上がる揚げ物を入れる時のいい音。
真穂以外の女性二人は、わぁっと声を上げたのだった。
「やっぱ、カツってテンション上がるね!」
「ね、ね、紗凪ちゃん!」
同い年と言うこともあってか、紗凪と美兎は仲が良い。合歓と結ばれた、笹河原秋保も同い年だったが。三人とも気が合えば、この店もまた賑やかになるだろう。
女性もだが、人間の客がここまで増えるとは。ここ何十年なかった。戦後はともかく、食文化が豊富になってきた人間達が、わざわざ界隈に来ることも減ってきた。
売り上げが悪いわけではなかったが、ヒトと関わることが多かった前世の生き方を思うと。火坑は少し寂しかったからだ。
だから、伴侶となる女性が出来たのはもちろんだが、客が増えたのも本当に嬉しかった。
さて、魚肉は火の通りが早いが。マンボウの肉は少々鶏肉のような歯応えがあるので、少し長めに揚げていく。
出来上がったら、熱いうちに切り分けて。人数分カレーを盛り付けて、美兎達に差し出した。
「お待たせ致しました。マンボウのカツカレーです」
「わあ!?」
「おお!!?」
「カツおっきい!」
「あと、これにいつものスープね?」
「ふふ、そうですね?」
ちょうど、スッポンのスープなのでセットのつもりで一緒に出せば。
紗凪が、解体風景を楽しんで見ていたのに。スッポンの頭部入りのスープには目を丸くしていた。
「……どうやって、食べるの?」
「普通の肉のようにしゃぶるだけだ。これも鶏肉のようで美味いでござる」
「ん〜〜、すーくんが言うなら」
だが、まずはカレーだと全員がスプーンを持ち。
切り分けたマンボウのカツとカレーを口に入れれば。
小さい店内に、『美味しい』の声が響き渡ったのだった。
美味い。
美味い、美味い。実に美味だった。
普段から、自宅でカレーを作る翠雨だったが。火坑の作ったカレーは桁違いに美味いのだ。
作り方もすべて見えていたので、翠雨も真似出来なくはない。
ないのだが、このカレーは至高だった。
ほくほくのジャガイモ。
柔らかく、歯で簡単に崩れるにんじん。
とろけてしまいそうな、玉ねぎ。
素揚げした茄子とピーマンも、歯に当たったらとろけてしまいそうになったが。岩塩に塩気が際立って、カレーとよく合う。
やはり、本職の料理人だからか。
ひとつひとつの仕事が丁寧で、無駄がない。それがこの至高の味わいを生み出したのだろう。
そして、彼の伴侶となる女性から取り出した『心の欠片』。
去年の暮れに、夢喰い達に頼んで楽庵に運ばせたのと同じマンボウの肉。
あの時は旬ものではないが、たまたま立ち寄った海際で打ち上がっていたのが見つかり。
死していたと判別してから、馴染みの魚屋に持ち寄って捌いてもらったのだ。
だが、今回はそれ以上に心の欠片で生み出したマンボウの肉。
久しく心の欠片を食していなかった翠雨は、ロースカツのように食べ応えがありそうな、マンボウのカツを。カレーに少し浸してから口に運ぶ。
「んん!?」
幾度か食したマンボウのように、鶏の胸肉のような歯応えはあるが。
それ以上に、脂身が強く感じて。舌の上で蕩けてしまいそうだった。市販のルゥだが、スパイシーなカレーととても相性が良くて。
サクサクとした衣、肉、カレーと楽しんでいけば。終わりを迎えるのはあっと言う間だった。
「美味しー!」
翠雨の恋人である、紗凪にも満足してもらえたようで、彼女もぱくぱくと食べていた。
「カレーにスッポンのスープも合いますね?」
美兎は半分くらい食べ終えてから、セットにと出されたスッポンのスープを口にしていた。なら、と翠雨達もスープを口にすれば。強烈なニンニクの風味があれど、相変わらず優しい味わいだった。
「……美味だったでござる」
カツはもうないが、カレーだけおかわりを頼むと。猫人の店主は『はいはい』と新しい皿に盛り付けてくれた。
「ふふ。すーくん、本当にカレー大好きだもんね〜?」
「何かきっかけとかあったんですか??」
紗凪達が笑い合っていると、美兎が聞いてきた。そう言えば、この前偶然会った時はともかくとして。初めて会った時は、伝えていなかったのを思い出した。
「……カレーパンが初めてだったでござる」
格式のある、烏天狗の頭領の孫として、日々精進していた翠雨だったが。
明治を過ぎた頃、たまには人間界に行ってみようと人化して紛れた時に。
東京へ行っていたので、ある行列を見て不思議に思った。まだパンが普及していくらか経った頃だったので、甘いパン以外の香りに吸い寄せられて。
結果、買ってしまったカレーパンの美味しさに感銘を受けて。
そこから、カレーライスも登場してからは見事に沼にハマってしまい。
現在も、カレー行脚なるものをするくらい、好物となっているのだ。お陰で、祖父には興味を失せてた孫が意欲的になったのを安心するくらいだった。
「カレーパンですか? そんなに古いパンだったんですね?」
あんぱんについては知っていたらしいが、カレーパンの歴史に触れた美兎は、梅酒を飲みながら聞いてくれていた。
「名古屋に来たのも、結構後だし? 今じゃ普通のカレーパンだけじゃないものね?」
「すーくんの最近のお気に入りは、半熟卵入りのカレーパンだもんね?」
「あれは至高でござる!!」
などと、カレー談義になってしまっていたが。紗凪にも楽しんでもらえたので。
最後には、彼女からも心の欠片を取り出してもらい、〆のデザートとなったが。
さすがは、巫の素質を持つ高密度の霊力の持ち主。
カレーの〆に相応しい、チョコチップアイスクリームの箱を出せる程だった。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
桜も終わりを迎え、初夏に突入した。
錦の界隈で小料理屋を営む、猫人の火坑は店の玄関掃除をしている時に思った。
また名古屋の焼けるような暑さが来る時期に近づいている。
どんな食材を、どんな料理を作ろうか楽しみが増えてきた。特に、恋人の美兎にどんな料理を作ってあげようか、と思うと楽しみが自然と増えてしまうのだ。
「ふふ。自分で言うのもなんですが、僕も変わりましたね?」
猫人の生を得て、わずかに二百年程度。
そのうちの、ほんの砂粒程度の年月なのに。
愛しい愛しい、人間とは言っても女性と心を交わして、恋仲になれた。
婚姻を結ぶのは、彼女の人生を考えてしばらく先ではいるが。
いつか、とは思っている。
そのいつか、が五年十年先だとしても。妖の生き方を思えば、本当に砂粒程度の時間だ。美兎も受け入れてくれるかは、わからないが。あの短い期間、悩んでくれたのだ。いい方向であって欲しい。
「精が出ていますね? 大将さん?」
「……おや」
掃き掃除に夢中になっていると、客足の音に気づかなかった。
顔を上げれば、目の前にいたのは雨女の灯里。その後ろには、息子である晴れ男の灯矢が恥ずかしそうに、モジモジしていた。
空が晴れなのは、灯矢がいるせいだろう。まだまだ幼いのに、妖力が確実に育んでいるのかもしれない。
「……こ、こんにちは」
「はい、こんにちは。お久しぶりですね?」
「ええ、去年以来。色々立て込んでたもので」
それと、と灯里は灯矢の頭を撫でてやった。
「お、おかあさん……」
「灯矢? お母さんは連れてきたのだから、大将さんにきちんと伝えなくては」
「……僕に御用が?」
なんだろう、と。掃除道具を店に立てかけて、灯矢の前に屈んでみた。
あの時は、感情の起伏がそこまでなかったが。今は年相応に恥ずかしがったりと、表情を変えていた。
にっこりと笑ってやれば、灯矢は恥ずかしがりながらも笑顔になってくれた。
「あ、あの……お兄さん、の」
「はい」
「ご飯……また…………食べたく、て。連れて来てもらいました」
「おや、そうなんですか? ありがとうございます」
「すみませんね? この子が、いい子に出来たご褒美に何がいいか聞いたら。大将さんのご飯がいいって」
「構いませんよ? 仕入れは終わったので、仕込みも落ち着いていますし」
昼過ぎだったのが幸いだった。
今日は気分的に朝イチで響也となって、柳橋に行って仕入れをしてきたお陰で。昼過ぎには、仕込みが完了していた。
ランチ営業は、ひとりで切り盛りしているせいでなかなか出来ないでいるが。今日くらいはいいだろうか。貸し切りにさせるのも悪くない。
了承すれば、灯矢が火坑に両手を差し出してきた。
「心……のかけら」
一度きりなのに、覚えていたのだろう。
火坑はまた嬉しくなったが、少し待っていてくれと、掃除道具を片付けてから二人を店に入れて。表には、『貸し切りです』と一筆書きで貼り紙をしたのだった。
「さあ、灯矢君? 何が食べたいですか?」
「……オムライス」
と、リクエストがあったので。心の欠片はあの時と同じようで違う、『卵達』にさせて。
自宅で作る時とは違う、楽庵らしいオムライスを作ることにした。
さて、オムライスと言えば。
日本が生んだ洋食とは言え、完全に洋食スタイルなのもいかがなものか。
灯矢の食べたいものは、きっとそれかもしれないが。完全に洋食店の味を再現するだけでも面白くない。面白味を追求してもいけないとは思うが。
少々、内側のご飯の味を工夫しようと決めた。
灯矢から取り出した心の欠片である、卵達は調理台の脇に置き。
まずは、玉ねぎを刻むことにしたが。
「灯矢君は、苦手な野菜とかはありますか?」
「な……ない、です!」
「ふふ。基本的に好き嫌いはないんですよ」
母である灯里が小さく笑うくらいだから、本当にないのだろう。であれば、にんじんとピーマンを入れよう。
火坑は子育てをしたことはないが、野菜をまったく食べないのもいけないと思っている程度。
火の通りやすいように、細かく刻み。油で炒めて、合い挽き肉も入れてケチャップは入れずに、醤油、砂糖、酒、みりんを合わせた調味液を流し入れる。
アルコール部分を飛ばすためにも、よく煮込んで。煮詰まったら、ご飯を入れて混ぜてから皿に盛り付けておく。
「ケチャップの匂い……しない?」
ちょっとだけ残念がっているようだが、火坑は小さく笑った。
次に卵。
灯矢から取り出した、有精卵のように赤い卵。これを贅沢に三つも使い、バターと塩胡椒でスクランブルエッグのように焼いていく。
それを包むように、ご飯の上に乗せたら。仕上げに、灯矢念願のケチャップをかけていく。
途端、灯矢から『わあ』の声が上がった。
「お待たせ致しました。特製和風オムライスです」
「わふう?」
「醤油とか、みりんを使ったので。普通のオムライスとは違うんですよ?」
灯矢にはまだ持つのが重そうなので、カウンターに置いてやった。木製のスプーンを渡してやると、彼の白目が黒く、水色のような瞳が楽しそうに輝き出した。
子供の客は少なくないが、たまに訪れる彼らと同じ表情になるのは嬉しかった。
もう一度、さあどうぞ、と告げれば。灯矢はいただきますをしてから、スプーンでオムライスをすくった。
「わあ!」
また声を上げてから、勢いよく口に入れると。はふはふしながら、ゆっくりと噛んでいく。
「こらこら、ゆっくり食べなさい」
「……ん。美味しい!! おしょーゆの味のご飯だけど、美味しい!! 卵、ふわふわ!!」
「ふふ。ここの大将さんのお料理だもの?」
「お粗末様です」
喜んでくれて何よりだ。
灯矢は少しオムライスが冷めてからも、ゆっくりゆっくり食べていく。普段から、灯里達にきちんと言いつけられているのだろう。
ああ、もし美兎と将来的に結婚して子供が出来たなら。どう育てていくのか。
楽しみだが、まだまだ考えるのは早いと考えていたことを霧散させたのだった。
「……ごちそうさま、です」
気がつくと、ゆっくり食べていたのにもう灯矢は食べ終えてしまったようだ。
子供サイズに作ってやったから、なくなるのもあっという間だったのだろう。
次はどうするか、灯里の方に聞くと。
「卵ばかりもよくないですし……去年と同じような煮穴子の握りを」
「あなご??」
「ふわふわして美味しいお魚よ?」
「食べたい!」
「かしこまりました」
それから、雨女一行のランチタイムは。
時間の許す限り、続いていったのだった。