ここは、錦町(にしきまち)に接する妖との境界。

 ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。

 たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。

 元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵(らくあん)』に辿りつけれるかもしれない。





 夏も過ぎ。

 名古屋の大手広告代理店の新人デザイナーである湖沼(こぬま)美兎(みう)にはちょっとした、他人には言いにくい秘密を抱えている。

 ひとつは、錦の裏の裏とも言われる妖界隈の小料理屋、『楽庵』に通っていること。

 ひとつは、そこの店主の猫の妖である火坑(かきょう)に恋心を抱いていること。

 ひとつは、妖界隈の護衛ともなる存在として、最強の妖の一人である座敷童子の真穂(まほ)と契約を結んだこと。

 契約したことで、真穂の能力が安定したのか。彼女と遭遇して気に入られた以降よりは、落ち着いて仕事が出来るようになって来ている。仕事量も少しずつ増えて、出来ることが増えたお陰だが。

 ここ最近は、少し仕事も立て込んでいたので。そろそろ錦に赴いて火坑の店にも行きたかった。


「う〜〜ん」


 今晩は久しぶりに楽庵に行くので、気合を入れて差し入れを選んでいるのだが。好きな相手とは言え、あの優しげな微笑みが眩しい猫人の好みを、美兎はそう多く知らない。

 知人から友人の関係にまでステップアップしたわけでもなく、むしろ知人は知人のままだ。真穂が妖と人間が結婚することはよくあるから構わないと言っても、先に進めやしない。

 けれど、現状維持も大事であることに変わりないので、こうして差し入れをすることでしか恩を返せていないが。


「どれにしようかな……」


 悩んでいるのは、今日は和菓子。

 洋菓子だとマドレーヌやフィナンシェの焼き菓子が好きとは聞いているが、毎回同じでも代わり映えがないし飽きるだろう。

 だから、今日は抹茶や小豆関連のものにしようとディスプレイを眺めていたのだが、秋といえば和菓子のシーズンでもあるので種類は豊富だ。

 美兎ももれなく、和菓子は大好きなのだがこれだけあると悩んでしまうものだ。


「なーに、悩んでんのー?」
「わ、真穂ちゃん!?」


 人前に妖が出てきてよくないわけではないらしいが、むしろ神様のような存在でもある座敷童子の真穂は、たまに人間にちょっかいをかけるらしく、ヒトの目に映るようにしているらしい。

 今も、美兎の目には大学生のような出立でいるから、抱きつかれても周囲はニコニコ笑うだけだった。

 妖力、のせいか。美兎が時々与えているらしい霊力のお陰か。人間界に居ても真穂が活動しやすい形態を取ることが出来るらしい。


「火坑に持ってく差し入れ?」
「そ……うなんだけど。今日は和菓子にしようかなって」
「じゃ、抹茶の葛切りにしたら? 火坑は甘過ぎるのあんまり好きじゃないらしいけど、葛切りの黒蜜がけは好きらしいよ?」
「へー?」


 たしかに、砂糖でも使う材料が違うから、それで好みが別れるかもしれない。また新たな情報をひとつ知れて、美兎は食後のデザートも兼ねて少し多めに買い揃えた。

 行きは、真穂と並んで歩くことにして、二人で楽庵を目指したのだが。


「……あれ。湖沼さん?」


 界隈に入ろうとしたら、後ろから聞き覚えのある男性の声がした。


「あ、美作(みまさか)さん!」
「だーれ?」
「前に話した、かまいたちさんと契約された男の人だよ?」
「……ああ!」


 真穂とは初対面だったので、界隈に入ってから彼女はいつも通りの幼稚園児の姿に縮んだ。


「え、え? 子供……?」
「真穂は座敷童子。美兎と契約を結んだ、守護の妖よ?」
「あ、そうなんだ。俺は、美作辰也(たつや)と言います」
「あ、真穂の姐御!」
「お久しぶり!」
「ですう!」
「やほ〜」


 かまいたち三兄弟もすぐに姿を見せたので、辰也と少しほっと出来た。


「それにしても。湖沼さんも、妖と契約したんだね?」
「真穂ちゃんと出会ったことで色々とわかって。ご好意で守護についてもらいました」
「うんうん。俺も、水緒(みずお)さんとかに今も勉強してもらってる側だし」
「そうなんですか」


 美兎が敬語なのは、まだ新人だから。会社が違えど、先輩に変わりない辰也には自然と敬語になり、逆に辰也はタメ語になっているわけだ。

 とにかく、大所帯になったわけだが行先は変わりないので全員で楽庵に向かったのだが。


「……あ、れ?」
「貸し切り、って珍しい」


 そう、楽庵の暖簾の前には珍しく。

『貸し切りのため、来訪はご遠慮ください』と言う添え書きがあったのだった。


「えー、貸し切り?」
「楽庵は人気ですからねぃ?」
「たまには」
「こう言う日もありやしょう」
「……どうしよう、差し入れのお菓子」
「俺も、久しぶりだから多めに買っちゃったよ」


 困った事態になってしまったのであった。


「……けど。これ、妖気というか神気のに近い」


 真穂が暖簾の前に立つと、悔しそうな声を漏らした。


「しんき?」
「つまりは、真穂以上の神がかった存在が客として来てるんだよ」
「か、神様!?」
「な、なんでも有りなんだなあ?」
「帰ろ? 他の店行くにしても、火坑の料理より美味しいのは美兎のご飯なんだもん」
「へー? 湖沼さん、自炊増やしたの?」
「け、契約の関係で少々……」
「じゃあさ? 今日は仕方ないってことで。お互いのお菓子交換にしない?」
「え、いいんですか?」
「日持ちは多少するし、真穂ちゃんと食べてよ」
「あ、ありがとうございます」


 葛切りはまた買えば食べれるし、辰也のセレクトも結構すごいのだ。だから、ありがたく提案に乗ることにして、また界隈を出るのに全員で向かった。

 出入り口で別れて、美兎は真穂と自宅に向かってさっそく辰也の選んだ差し入れを袋から出すと。


「あ、自分で挟む最中!?」
「ふーん? あっちも和菓子だったんだねぇ?」
「真穂ちゃん、濃いめのほうじ茶入れるから待ってて!」
「うん」


 缶にビニール包装の餡子がたっぷり入っているのは、また現代向きではあるが。手包みとは違い、好きなだけ餡子を挟むことが出来る喜びに、美兎は真穂と堪能したのであった。