まさかまさか。
ダイダラボッチと共に菓子作りをすることになるとは。
ろくろ首の盧翔は、畏れ多いとまだビクビクしているが。
更紗は更紗で。これから作るフロランタンの材料に目を輝かせていた。
妖でも特殊な位置。総大将のぬらりひょんともまた違う位置にいるダイダラボッチは、ほかの妖と一線を画している。
そんな彼が、恋人へのお返しを手作りしたいと言い出したのだ。位はなんであれ、彼も一人の存在に変わらないのだろう。
「更紗様、まずは手を洗いましょう?」
「うん」
料理初心者に等しいが、手を洗うくらいは認識しているようだ。長い金と水色が混じった不思議な色合いの髪を、火坑が結えてやって。隆輝からエプロンを借りて着込んだ。
「えーっと。バターは常温のを買えたからすぐ取り掛かれる。グラニュー糖は、きょーくん。計っておいてくれるかな?」
「いいですよ」
ジャンルは違えど、料理人は料理人。さすがに手際がよかった。
盧翔には、バターを切ってもらい。更紗には初心者なので、粉を振るう作業をしてもらうことに。
「ここに粉を入れます。で、ここを握ると、下のボウルの中に綺麗に振るった粉が出てくるんです。全部落ちるまでお願いします」
「わかったよ〜」
隆輝がちょっと見本を見せただけで、子供のように目を輝かせたが。振るうとなると、真剣に向き合っていた。やはり、ただの妖ではないからだろう。
その間に、隆輝はレモンの皮をすりおろして。専用のビニール袋を棚から持ってきた。
「じゃ、次は。バターにグラニュー糖を入れて切るように混ぜていくよ?」
ここからは、全員それぞれ自分の分を作るようにするので。全員同じ工程をするのだ。
更紗が一番心配だったが、隆輝がすぐ隣にいたお陰か真似て同じように出来ていた。飲み込みが早い。
「次は。卵黄、俺がすりおろしたレモンの皮。バニラビーンズに、更紗様が振るった薄力粉を入れて。また同じように混ぜていくよ?」
順番に入れて混ぜていけば、綺麗な卵色の生地が出来上がる。まとまってきたら、手でまとめて。隆輝が持ってきたビニール袋に入れて。
「本当は十二時間とか寝かせたいけど。そこまで時間がないから、あとで妖術使うね?」
その間に、少し後片付け、と。ここも初心者の更紗に教えながら進めていき。生地に時短の妖術をかけてから、袋ごと麺棒で伸ばす方法を教えていく。
「直接でもいいけど。袋の上からだと汚れにくいし綺麗に伸ばせるので。だいたい厚みは3mmくらい。ほんと薄いって思うくらいかな?」
「ねえねえ、隆輝。これどんなお菓子になるの〜?」
「クッキーみたいなお菓子ですね? けど、残りの材料で飴の部分を作って。生地の上で焼いちゃうんです」
「? うーん。食べたことないなあ〜?」
「まあ。店で作るとこも少ないですしね?」
とりあえず、生地を薄く伸ばして。順番にオーブンで焼いていく。隆輝は仕事柄試作を自宅でもするので、二段式オーブンが二つもあるのだ。
焼いたら、次はアパレイユと言う飴の部分である。
「生クリームも入れるんですね?」
改めて材料を見て、火坑が感心していた。
「口当たりが滑らかになるしね? スライスアーモンド以外を鍋に入れて、すこーし色づくまで鍋で煮ていくよ?」
軽く煮立って、色がほんのりついた瞬間を逃さず。アーネストスライスを入れて混ぜて。
出来上がったら、焼いた生地の上に流し込み。広げたら、また少し焼いていく。
「粗熱が取れたら切り分けるよー? 完全に冷めてから切ると、アパレイユがガチガチになって割れちゃうから」
「じゃ、僕がコーヒーを淹れましょう。更紗様はコーヒーで大丈夫ですか?」
「ん〜〜……牛乳とか砂糖欲しい」
「カフェオレですね? 盧翔さんは?」
「お、俺はブラックで」
まだまだ、若造故か更紗に対して緊張しているのだろう。見てて微笑ましく感じるが。
普段から仕事でも料理をする火坑だが、菓子作りについてはやはり難しさを感じる。
特に、今回のような半分飴細工を作るような工程は殊更難しかった。
一瞬の時間で、その材料がダメになってしまうかもしれない。そこを考えると、火坑はいつも挑むスッポンを捌く工程と似ているなと思った。
あれは一瞬の隙をつかないと、噛まれて指を怪我するだけで済まないのだ。まだ料理人の修行時代、興味本位でスッポンに手を伸ばしたら、霊夢に盛大に拳骨をお見舞いされたものだ。
今回はその危険性はないが、食材をダメにしてしまう方が強かったので気が抜けなかった。
しかし、その工程が終われば。最後に切り分けるタイミングを逃さなければいい。
出来上がったフロランタンは、茶色い飴が美しく。アーモンドが花のように散らばって、とても美味しそうに見えた。
『おお〜!!』
赤鬼の隆輝以外、その出来栄えに思わず声を上げたのだった。
火坑が用意したコーヒーやカフェオレでそれぞれいただくことにした。
「へ〜? あの材料がこんなに綺麗になるんだ〜?」
初参加のであるダイダラボッチの更紗は、本当に子供のように目を輝かせていた。
「人間の女性にも好まれている菓子ですしね? チカの奴は可愛いのに目がないから、喜ぶと思いますよ?」
「あのお花のクッキーも美味しくて凄かったけど〜〜。これも綺麗で可愛い〜。あ、持ち帰る袋か何か貰える〜?」
「ラッピングなら、後で皆でしましょうか? とりあえず、まずは試食です」
それぞれ作った分を、試食用とラッピング用に分けて。まだまだビビっている盧翔はさて置き。
まずは、ひと口。
幾度か食べたことのあるフロランタンよりも、飴の部分が少々柔らかく。だが、パリパリとしていて、下のクッキー生地がほろほろ崩れてなんとも言い難い快感を得た。
スライスのアーモンドも香ばしくて、飴の甘さを少し抑えてくれた。火坑はブラックだが、更紗が飲んでいるような甘いカフェオレもいいだろう。
「うま!」
「美味しい〜〜!」
「ですよね?……あ」
「だから、そんな緊張しなくていいんだよ〜?」
「……すみません」
食べ物の前では、神も妖も関係ない。
そう思える、いいきっかけだったかもしれない。
「うんうん。良い出来。他の皆のも良いねえ? 俺負けそう〜」
「隆輝が負けたら、俺どうなんのさ?」
「僕だなんて、初心者だよ〜?」
「ははは。更紗様はセンスありますよー? もっと頑張れば、チカにも色々渡せるんじゃないですか?」
「ん? ん〜〜、僕普段は諏訪にいるからなあ〜?」
「……寒くないです?」
「こっちも寒いけど〜、雪がまだ降るしね〜?」
長野の寒さは、北陸程じゃないがまだまだ寒い季節だ。
名古屋は、濃尾平野からの山おろしがまだ続くので。京都ほどではないが、盆地特有の寒さで手がかじかむくらい。
火坑は、バレンタインプレゼントに美兎からもらったマフラーをずっと愛用しているが。手は猫毛に覆われているので平気は平気。
とここで、思い出したが。
付き合って、数ヶ月経つと言うのに。火坑の家には上がらせたことはあっても、逆に美兎の家には実家以外行っていない。
なら、今日はまだ昼過ぎだが。
最近、休日になると仕事の疲れで家で寝ていることが多いらしいので。
行ってみるか、とフロランタンを食べながら思った。
「隆輝さん」
「んー?」
「少々所用を思い出したので。先にラッピングしてから帰らせていただいてもいいですか?」
「いいよー?」
「ありがとうございます」
そのきっかけで、他の全員も解散することになり。後片付けから、簡単にラッピングして。それから火坑は人化して栄の町に足を運んだのだった。
美兎は惰眠を貪っていた。
平日は仕事に仕事。
恋人の火坑の店に行けるのは癒しだが、最近また仕事が忙しくなっているので行けないでいる。
あと半月足らずで、美兎が会社に入社してから一年。
新人のラベルが剥がれるのだ。と言っても、二年目だからとは言えまだまだ新人ではあるが。
「うう〜〜ん!!……今なん……じ、ってもう一時!?」
夜中ではなく、午後だが。
相変わらず、週末寝に帰ったら翌日まで爆睡。
よくないとは思っているが、最近の仕事のスケジュールを考えるとどうしてもそうなってしまうのだ。けれど、それでも空腹は誤魔化せないので、適当にカップ麺とかでも食べるかとストックを漁ったが。
見事に空だった。
「あ〜〜……他はなんかないかなあ?」
冷蔵庫や食材のストックを漁ったはこれまたほとんど空だった。まともに買い出しに行けてないから無理もない。
このやりとりを先週もやったような気がしたが、仕方がない。
近所のスーパーに行くにも、簡単に身支度は整えようと着替えて、髪を整えていると。インターフォンが鳴ったのだ。
「誰だろ?」
宅配かな、と。扉の覗き窓を見ると、美兎は腰砕けになりそうだった。
「か……響也さん!?」
「こんにちは、美兎さん」
恋人の火坑が、人間の姿で香取響也になっていて。どう言うわけか、教えたことがないのに美兎のマンションに来ている。驚かないわけがない。
「ど、どうやって……?」
「ふふ。美兎さん、僕は人間じゃないんですよ?」
「あ……そ、ですね」
以前。火車の風吹が田城の自宅に送った時も。妖だから、と送ることが出来たそうだ。
なら、火坑が出来てもおかしくはない。
「しかし、美兎さん。すっぴんも可愛いですね?」
「〜〜〜〜!!?」
そうだった。美兎は今化粧をしていない。これからする予定ではいたが。
眉毛も、アイシャドウも何もしていない。思わず手で顔を隠そうとしたが、すぐに火坑が手を掴んで阻まれた。
「可愛いと言ったじゃないですか?」
「け、けけけ、けど!? 化粧してませんし!!」
「とりあえず……中に入らせていただいてもいいですか?」
「な、ななな、中も汚いですよ!?」
「僕が掃除しましょうか?」
「ダメです! ちょ、ちょっとだけ待っててください!!」
なので、服ももう少しマシなのに着替えてから勢いで部屋をざっと片付け。
どうぞ、と火坑を招き入れた時は、彼は部屋をキョロキョロしていた。
「真穂さんはいらっしゃらないんですね?」
「さ……最近はお兄ちゃんと会う時間を作るのに。作家のお仕事頑張っているようです……」
美兎への加護は重ねがけしているが、過ごす時間は以前よりは減ってきた。寂しくないわけじゃないが、美兎の環境も変わってきたので、お互い離れているだけだ。
彼女と出会う前の、美兎の生活に戻りつつあっただけだから。
「そうですか。あ、ついさっきまで隆輝さん達と一緒だったんですが。早めのホワイトデープレゼントを作ったんです」
受け取ってくれますか、と紙袋を差し出してきたので。美兎は嬉しくなって受け取った。
すぐにコーヒーを淹れる、とはしゃぎそうになったら。後ろから火坑に抱きしめられたのだ。
「火坑……さん?」
美兎が呼べば、彼は腕の力を強めた。
「ここ最近は、お仕事の関係で店にも来ていただけませんでしたからね? 少し……いいえ、だいぶ寂しかったです」
「…………私、もです」
ほんのちょっと先なのに、会いたくても会えなかった。
仕事で誤魔化してはいたけれど、実際は寂しくて淋しくて。
腕にギュッとしがみつくと、火坑が美兎の顎に手を添えて優しく後ろに向かせた。
人間の姿なのに、猫人の時のような強い眼差しで見つめられている気分になり。近づいてくる顔を避けることなく受け止めて。
美兎が限界と言うまで、キスをしていたのだった。
お返しのフロランタンはプロ並みの出来栄えで、二人で美味しくコーヒーと食べて。
それでも、まだまだ美兎の空腹が満たされず。火坑が時短の妖術を使って、ささっと残り物で炒飯を作ってくれたので。
まるで、新婚のようなときめきを覚えた一日になりそうだった。
まだまだ夜には早い時間帯。
狐狸の宗睦ことチカは、務めている店『wish』でカクテルの試作と開店までの掃除をしていた。
掃除はもっと下っ端に任せてもいいが、カクテルの試作がある日は大抵請け負っている。ひとりで集中したかったし、急に物音を立てられるとわずかな味のズレが出てしまう。
「う〜〜ん。う〜ん……難しいわねぇ?」
カクテルは、レシピ次第で何百を超えて何千通り以上もあるとされている。
同じレシピでも、わずかな材料の差で微妙に味が変わるように。チカは今、間近に迫った『ホワイトデー』に向けて、店のマスターから課題を言い渡されて試作しているのだ。
無鉄砲者だったチカを拾ってくれた恩人でもある。チカが今の姿になったきっかけでもあるが、恋人はあのダイダラボッチの更紗。
バレンタインには、営業終了してから長野の諏訪に向かって、妖術で飛んで行き。美兎達と作った薔薇のチョコクッキーを受け取ってくれたのだ。
会いたいが、妖とも一線を画している存在とはそうしょっちゅうは会いに行けない。妖でも、下っ端の下っ端でしかない狐のチカとダイダラボッチがと、付き合い始めた当時は色々冷やかし以上のことにもなったが。
更紗本人が激怒して、全国的に天変地異を起こしかけたのだ。あれはもう二度としてはいけない。
だから、今のチカは狐狸でも特別な位置にいるのだ。あんまり、特別扱いされたくないとは思っているが。
「ん〜〜? さっちゃんにも会いたいけどぉ〜〜。会いたくて会いたくて……あらやだ、それじゃあバレンタインじゃなぁい?」
「僕も会いたかった〜〜」
「あたしもよん!…………って!?」
振り返れば、いつカウンターに座っていたのか。会いたくて会いたくて仕方がなかった恋人の姿が。
本性のダイダラボッチとしての巨体ではなく、人間のように縮小して今のチカよりも小柄な成人男性の姿に。
青と金の不思議な色合いの髪は、いつもなら流すだけが今日は後ろで結われていて。
ほにゃほにゃ笑顔のまま、カウンターに腰掛けていたのだった。
「来ちゃった〜?」
「!……んもぅ、もう、もう! 来るなら連絡寄越してよん!! びっくりするじゃなぁい!!」
マドラーなどの道具を少しずらしてから、カウンター越しに抱きつきに行く。
いきなりでも、更紗はびくともせずに受け止めてくれて。チカの頭をよしよしと撫でてくれた。
「あはは〜? 気まぐれでこっちに来ただけだし〜。けど、時間出来たから来たんだー?」
これを渡しに、と。更紗はどこかの菓子屋にでも行って来たのか、可愛らしい紙袋をチカに差し出してきた。
「なぁに〜?」
「今日じゃないけど。ホワイトデーのプレゼント」
「え!? さっちゃん、いいって言ったのに!」
「んふ〜。実は僕の手作り」
「さっちゃんが!?」
米は炊けるが、好物の卵かけご飯以外。自炊することのなかった彼が、手作り。
恐る恐る受け取って中身を見れば、初心者とは思えない出来栄えの。綺麗なアーモンドスライスなどを使った焼き菓子だった。
「実は〜、界隈で猫人の火坑達に会ってね? 彼らに教わったんだ〜」
「きょーちゃん?」
「あと、赤鬼とろくろ首にも」
「なーる?」
盧翔と隆輝にも。全員彼女持ちなので、ホワイトデーのプレゼントを手作りする理由はわかった。で、偶然出会った更紗が混ざっていいか頼んだのだろう。
容易に想像が出来た。
「ね〜。食べて食べて〜? フロランタンだって」
「あ〜? これがフロランタン? 聞いたことはあるけど、初めてね〜?」
じゃあ、とコーヒーでも淹れようかと思ったが。
今このシチュエーションで浮かんだレシピが頭を巡り。
チカは道具を引き戻して、ささっと二人分のカクテルを作ったのだった。
「〜? お酒で食べるの〜?」
「今思いついたのん。飲んでみて? テーマはもち、ホワイトデーよん?」
白と赤のグラデーションが美しいカクテル。
更紗はすぐに口に入れてくれて、ぱあッと顔が輝いた。
「甘いけど〜。ちょっとさっぱり? 飲みやすい〜」
「ココナッツミルク入れてみたのん。けど、度数強いからさっちゃん向きねん?」
チカもひと口飲めば、予想通りの味になっていた。メインのココナッツミルクが主張してくるが、グレナデンシロップのお陰か少し甘い。
ベースはスピリッツで度数が高いから、マスターには味見してもらってから商品化するか決めよう。
そして、更紗手作りのフロランタン。
クッキー生地のような部分はサクサク、上のアーモンドスライスと飴の部分はパリパリで甘いが少し香ばしく。
コーヒーや紅茶でもいいが。今のカクテルにも合う。
我ながら、いい仕事をしたと実感出来た。
「ど〜う?」
更紗の方がはるか年上なのに、子供のような仕草をするのはずるいと思う。
「とっても美味しいわ〜! あたしのためにありがと〜〜!!」
「ふふ。いつも寂しい思いさせてごめんね〜?」
「今日来てくれたからいいわよん!」
それからは、店が開店する間近までイチャイチャしてしまい。
マスターに雷を落とされる時も、更紗まで一緒に叱られてしまったのだ。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
世間はホワイトデー。
デザイナー見習いの湖沼美兎としては、つい先日にそのイベントは終了してしまったが。
同期で、妖と付き合いたての田城真衣は、火車の風吹と終業後にホワイトデーのデートをするとはしゃいでいるし。
先輩の沓木も赤鬼の隆輝に呼ばれているからと、終業後に直帰だとか。
美兎は美兎で、これと言って用事を入れてはいなかったが。せっかく定時に上がれたのだし、差し入れのお菓子を買ってから楽庵に向かおうと決めた。
守護で座敷童子の真穂は、兄の海峰斗とホワイトデーのデートをするべく、界隈の自宅を大掃除しているらしい。
恋する女の子は健気だなと思わずにいられない。もれなく、美兎もだが。
店に行くのも久しぶりなので、『rouge』の抹茶フィナンシェでも買おうかと決めたら。少し見覚えのある背格好の女性が前を歩いていたのだ。
「ん〜?」
知り合いはまあまあいるが、栄で出会う知り合いは限られていると思う。
誰だろうと、首をひねっていると。その女性が振り返ったのだ。
「あ」
「あ」
顔はあるが、界隈じゃないせいか何もない顔とだぶって見えた。服装は、ファンシー。手には大量のお菓子の袋達。
まだ一度しか出会っていなかったが。
のっぺらぼうの、芙美だったのだ。
「芙美さん!」
「あ、えーと。ごめん、覚えてはいるんだけど〜?」
「美兎です。湖沼美兎。美作さんと飲み友達の」
「あ、そうそう! 美兎ちゃん! 思い出したー!」
思い出せたのか、芙美は美兎の手を握ってぶんぶんと上下に振ったのだった。
「お久しぶりですね?」
「バレンタインぶりだね! お仕事終わったのー?」
「あ、はい。手土産買ってから、楽庵に行こうかと」
「あ、そうなんだ〜? ん〜、まだすぐじゃなくていいー?」
「え、はい?」
「ちょっとだけ、聞いて欲しいの〜」
rougeで先に手土産を買ってから、場所を界隈の喫茶店『かごめ』に移って。
ちょうど人混みも少なかったので、二人は贅沢にソファ席に腰掛けた。
「お話、と言うのは?」
芙美はホットモカ、美兎はブレンドコーヒーを頼んでから話を切り出した。
「えっとね〜……私が、美作さんを……ってことは教えたよねー?」
「はい。あの日に教えていただきました」
「LIMEも交換したんだけど〜」
「はい」
「友達って、どこまでが友達なんだろ〜〜!!」
「え?」
いきなり、テーブルに突っ伏す芙美にも驚いたが。
話の内容にも、少し驚いた。どう言うことかと。
「……私、情報屋だから。あんまり友達いなくてね〜? だから……仕事仲間とかはともかく、友達とか少ないのぉ。美作さんとはLIMEで色々やり取りはするようになったよ〜?」
「えっと……友達の距離感がわからない、でいいんですか?」
「〜〜そうなのぉ〜〜」
顔を真っ赤にした後、両手で顔を隠すのは恋する女性らしく可愛らしい。
だが、あれから一ヵ月経つが、進展はともかく。美作と接触する回数が少ないのだろうか。
「芙美さん。失礼ですけど……美作さんとどこかで会ったりは?」
「? してるよ? ほら、私がチョコ好きでしょ? 美作さんも好きだから、そう言う関係のお店に行ったりとかはしてるんだ〜」
「? お友達、としてですよね?」
「……そのつもりではいたんだけど」
「けど?」
「ついこの前……」
カップル限定商品を買いに行くときに、無理矢理頼んでしまった時。
美作は終始苦笑いしてたらしく、やっぱり嫌だったのではと芙美は思ったそうで。以来、LIMEにもスタンプでの返事しか出来ないでいるようだ。
その回答には、美兎もどう答えていいのかわからなかった。
偶然とは言え、美兎は相愛だと言うのを芙美には伝えられない。知ってしまったが、ある意味無関係者が伝えたところで。付き合うとは限らないからだ。
自分のことも、田城のこともあったからだ。
「ふふ。悩める女性は美しいですが、膨れ顔は可愛らしいですね?」
とここで、マスターの季伯が注文した品を持ってきてくれた。
「む〜そーお?」
「ええ。特に恋する女性は」
「話聞こえてた〜?」
「すみません、つい」
しかし、真穂の縁戚だからか、口は固い彼だ。
言いふらすことはしないからか、芙美も両手を外して。出来上がったホットモカをちびりちびりと飲み始めた。
「迷惑……だったかなあ〜?」
おそらく、だが。美作はカップルと勘違いされて気恥ずかしかっただけだと思うのを。
美兎の口からは言えなかった。
気まずくなってしまった。
それは、絶対自分のせいだと辰也はわかっている。
想いを寄せている、のっぺらぼうの芙美に頼まれて人間界の買い出しに一緒に行ったところが。
カップル限定ショコラアソート。
そこは悪くない。芙美が辰也を頼ってくれるのなら、嬉しかったから。
ただ、辰也と芙美は種族は違えど『友達』。
そう、友達でしかない。付き合ってもいないし、辰也が一方的に思っているだけ。だから、店の中でそう言う対応をされると苦笑いしか出来なかった。自分はともかく、芙美には嫌な思いをさせたのではないかと。
その予感が的中したのか、その日以降のLIMEの返信がスタンプしか来ないという始末。
何故、迷惑じゃなかったと言わなかったんだ、と激しく後悔していた。
「……で、界隈にも行きづらくなったと?」
悩みに悩んで、結局。
同期で妖でもある不動侑こと風吹を引っ張って、昼飯を奢るついでに相談に乗ってもらったわけである。
「おう……芙美さんから返事はもらえても、相変わらずスタンプだけだし」
「……返事もらえるだけまだいいんじゃないか?」
「そうだけどよ!? この幸せ者め!! 俺の恋が玉砕しかけてんだぞ!?」
「いや、玉砕とかなら……完全に無視とかじゃないのか?」
「〜〜……そうだけど」
しかし、LIME上だと辰也が一方的に会話をしているだけで、成り立っているようでなっていない。それらしい反応は貰えてもそれだけ。
悲しいかな。社会人になってからまともに恋愛してなかった辰也は。
ずっと、腕の切り傷があったせいで。恋愛にはある意味風吹よりも消極的だったのだ。絶対、女性には嫌われるだろうと。
そのレッテルがなくなって、ようやく普通の男としてなんの迷いもなく、普通に生活出来るのだ。今が最高と言っていい。
現在の恋愛に関しては、どん底に近いが。
「……けど。誤解を解くなら早い方がいいだろう?」
風吹は運ばれてきたデラックス天丼の半分まで、いつのまにか平らげていた。
「そ……うだけど。はじめん時みたいに、楽庵で会えるかわかんないし」
「楽庵以外に、彼女の行くところを知ってるか?」
「……界隈だとわからん」
「だろ? なら、しつこくても行けよ」
「お前……田城さんと付き合うようになってから、変わったな?」
「……多少、自信が持てるようになっただけだ」
それにしては、メカクレと言われてた前髪を切った、いや変身し直したというべきか。
ブルーアイをしっかり見えるようにさせて、女性からの誘いにも丁寧に断るようになったのだ。
もちろん、断り文句に『彼女がいるから』ときちんと言うから、社内のファン達が阿鼻叫喚絵図になってしまったが。
「……自信、か」
嫌われてはいないと思う。
だけど、それは友達としてだ。
辰也としては恋人同士になりたいのだが。ないものねだりかと思わずにいられない。
とりあえず、今日は楽庵に行ってみようと、仕事は定時で終わらせ。rougeに行くと、ちょうど限定チョコマカロンが売ってたので思わず買ってしまい。
少し緊張しながらも、界隈に足を向けたのだった。
芙美の一方的な思い込みで、.美作と接触出来ないでいる。
その誤解をどう解くべきか、第三者としてわかりかねていた美兎だったが。せめて、仲直りのようなものが出来たらいいなとは思ったのだ。
芙美はホットモカを飲み終えると、またテーブルに顔を伏せていた。
「……芙美さんは、美作さんと仲直りしたいと思ってますか?」
美兎が質問すると、芙美はこくりと頷いた。
「……仲直り……したい」
「だったら、会いましょう? LIMEでもいいかもしれないですが、謝るにしても直接の方がいいと思います」
「……楽庵とかでー?」
「それは芙美さん次第ですが」
「…………うん」
と。決断したら早いのか、芙美はポケットからスマホを取り出して。おそらく、美作にLIMEでメッセージを送ったのだろう。
のんびり屋に見えて、流石は情報屋と言うべきか。
美兎も美味しいブレンドコーヒーを飲みながら待っていると、芙美が小さく声を上げた。
「来ました?」
「……うん。今楽庵に向かっているって〜」
「行きます?」
「…………行く〜」
季伯に勘定をお願いしようとしたら、芙美がささっと払ってしまい。彼女からは『相談のお礼』と言われたので受け取るしかなかった。
とりあえず、楽庵に行くと。引き戸を開ければ、珍しく煙草の香りがしたのだった。
「あ」
「あ」
奈雲三兄弟はいなかったが、カウンターで美作が煙草を吸っていたのだ。吸うのを見るのは初めてかもしれない。
美作は芙美と目が合うと、すぐに煙草をやめて灰皿に入れて消したのだった。
「こ、こんばんは〜……」
「ども……」
少々気まずい雰囲気ではあるが、美兎もいるので中に入ることにした。
「いらっしゃいませ」
火坑は火坑で、いつも通りの涼しい笑顔のままだ。何か聞いているかもしれないが、本人達がいるので聞くのはやめておこう。
とりあえず、手土産のフィナンシェは渡しておいた。
まだまだ寒いので、すぐに熱いおしぼりと煎茶が出てきた。
芙美は必然的に美作の隣に腰掛けることになったので、ギクシャクしている状態。
「そ……その……」
けど、謝るつもりでいたらしく。すぐに声をかけようとしていた。
「……いや。俺の方が悪かったです」
「え?」
「俺が……曖昧な態度したから、芙美さんに誤解を招くことしちゃったし」
「え、だって……美作さん、困っていたから」
「いや。照れてただけですよ?」
「はえ!?」
おっと。これはもしかして、もう切り出すつもりか。
美兎もだが、火坑も聞いてていいのかと思ったが。火坑から目配せで座敷席にと言われたので、湯呑みとおしぼりだけを持って移動することにした。
二人は自分達の話に夢中になっているせいか、美兎の行動に気づいていなかった。
「だって、あれカップル限定商品だったじゃないですか? 俺は彼氏じゃないのに、勘違いされて……まあ、しばらく彼女いなかったからどう反応すればいいか困っただけですよ?」
「いやじゃ……なかったんですか〜?」
「嫌だったら、誘われる時に断っていますよ?」
「よ……よかった〜……」
座敷席から、そろっと後ろ姿を確認すると。芙美はカウンターに突っ伏していたのだった。
「……俺。逆に芙美さんも嫌だったんじゃないかって。勘違いしてました」
「ふぇ?」
これはまさか、と美兎は覗きながら唾をごくんと飲んだ。
「俺が彼氏だって勘違いされて。嫌な思いしたのは芙美さんじゃないかって」
「そんなことないです!」
「え?」
「お……おこがましいと思ってます……けど。美作さんが彼氏だったら、いいんじゃ……ないかって」
「……芙美さん?」
顔を上げた芙美が美作を見ると、大胆に美作の手を掴んで、ぎゅっと握ったのだった。
「こんなダメダメのっぺらぼうですけど! 美作さんが……辰也さんが好きなんです! 付き合ってください〜!」
まさかの大胆な告白。
火坑はよく向かい側の厨房で、調理しながら聴けるものだ。と、少し感心してしまった。
美作の方は、顔を真っ赤にしていたが。すぐに、掴まれてた手に空いてる手を重ねたのだった。
「……俺も。芙美さんが好きです! 俺の彼女になってください!」
「はい〜!」
無事にハッピーエンドとなったわけである。
よかったよかった、と美兎もだが火坑も拍手で祝い。
四人でささやかだが、お祝いの席を開くことになったのである。
今のっぺらぼうの芙美は、天にも昇ってしまうくらい幸せだった。
些細なきっかけで、手を差し伸べてくれた人間の男。
顔と声が好みだった。最初はそれだけ。
けれど、次第に気になって気になって。
楽庵に来たことで『友達』にはなれたのだが、それだけでは芙美には物足りなかった。
欲が出てしまったのだ。
人間界や界隈でチョコ巡りをするのが趣味な芙美に、美作辰也も甘いものが好きだとわかると。遊びに行くついでのようにデートに誘ってしまっていた。
迷惑がられていないし、誘っても断れなかったから。
だからあの時も、カップル限定のショコラアソートを買いに行きたいと言うのにも、ついつい誘ってしまったのだ。
けれど、当日。
辰也は、店員からの対応に終始苦笑いしていた。それがまさか、照れているとは知らず。
芙美が勝手に迷惑をかけたと思い、勝手に気まずくしてしまい。
約半月、会わなかったし、避けてもいた。
それが、辰也も思っていたとは知らず。
今日、久しぶりに出会った湖沼美兎に勇気を持とうと言われ。
その結果、お互いの気持ちのすれ違いとわかり。無事に恋仲になれた。
凄く、凄く嬉しくて。
火坑が祝いだと、色んな料理を振る舞ってくれている最中。
芙美のわがままで、片手は辰也と手を握っていた。
「ふふ、ふふふ」
「芙美さん、ご機嫌ですね?」
「辰也さんと一緒ですから〜」
ついつい、お酒もすすんでしまうくらいだった。
「良かった。あ、火坑さん。心の欠片で、この前みたいなチョコって出せます?」
「ええ。では、ホットチョコでも淹れましょうか?」
「お願いします」
「わーい!」
チョコ好きの芙美にとって、ここのホットチョコは至高の逸品。
辰也の希望通りに出てきた心の欠片で、火坑はすぐにホットチョコを淹れてくれた。
ほわほわのホイップクリームもたっぷり。
界隈にもあるコーヒーチェーン店顔負けのホットチョコは、冬のお楽しみだった。別に、ホットチョコは年中飲めるが、冬のチョコは格別なのである。
「あっま! けど、うっま! へー? 女の子が好きそうなイメージだったけど、イケる」
「大将さんのこれは特別ですから〜」
まだ情報屋として半人前だった頃。
火坑も店を出して、少し経った頃。
たまたまお腹が空いた芙美がここに来て、火坑に頼んで、自分の心の欠片を渡したそれで作ってくれたのが。
今飲んでいたホットチョコよりももっと簡単なタイプだったが、すっごく美味しかったのだ。だから、年が明けてしばらく経ってから、芙美はここに来るようになった。
火坑も、来店のたびにチョコをストックしてくれるようになり。以来、それが決まった時期の習慣になったのだ。
だが、その習慣も終わりになるかもしれない。
辰也が一緒なら、もうしょっちゅう来るつもりだから。
ひと口飲むと、冷えた指先がじんわりと痺れるような感覚を得て。甘々トロトロの溶けたチョコが身体全体を温めてくれるようで。
相変わらず、美味しい。
特に今日は、辰也の心の欠片で作ったものだから。
「あ、火坑さん? バレンタインの時のマシュマロ? の、トーストも」
「かしこまりました」
「辰也さん?」
「俺からのホワイトデーってことで」
ああ、人間と言うものは。
妖よりも、はるかに短い生なのに。その短い時間で奇跡をたくさん生み出していく。
ついつい、感情が溢れて。
芙美は、辰也の頬に口づけを贈った。逆隣にいた美兎には『きゃー!』と声を上げさせてしまったが。
付き合う瞬間から見届けていたとは言え。
今は帰ってしまったのっぺらぼうの芙美に、その恋人になった美作辰也はとても上機嫌で帰って行った。
座敷童子の真穂のように、界隈に居住しているらしく、いきなりだが芙美が連れて行くそうだ。
美兎は二人のラブラブっぷりに当てられて、少し感心してしまった。
まったくではないが、美兎の仕事も忙しかったし、また火坑とデートが出来ないでいた。
先日の突撃訪問は驚いたが、あれも嬉しかった。
そして、芙美達が帰ってしまった今。店には美兎と火坑だけ。
今日も梅酒のお湯割りで体を温めて、スッポンのスープと雑炊でお腹は満たされた。甘いものも、美作のお陰で満たされているが。火坑の仕事している様を見ると、酷く落ち着くのだ。
「美兎さん」
少し、見惚れていたら。火坑がこちらに振り返ってきた。
「はい?」
「今月も残り少ないですが。以前お話ししたお着物デートを覚えていますか?」
「覚えてます」
火坑と話すことは極力忘れないようにしている。
仕事は仕事。プライベートはプライベートだが、大事な大事な恋人との思い出は忘れないようにしているのだ。
美兎が頷くと、火坑は涼しい笑顔で口を開いた。
「でしたら、近いうちにしませんか? 名古屋でお着物デート」
「! したい、です!」
「よかったです。着物レンタルは、実は真穂さんが提案してくれたんですよ?」
「? 真穂ちゃんが?」
「はい。人化した時と然程変化がないので有れば、自分の着物を貸すと」
「わぁ!」
普段は子供の姿でも洋装なのに、やはり妖だから着物は持っているのだろう。
それなら、お言葉に甘えたかった。
「いつにしましょうか?」
「えっと……ちょっと待ってください」
スマホではなく、手帳を取り出して残り少ない三月の予定を見れば。ちょうど、今週末は二日とも休みになっていた。
それを伝えれば、火坑はにっこりと笑ってくれた。
「でしたら、真穂さんと確認をとってから決めましょうか? 僕も一張羅を出してこなくてはいけませんね?」
「火坑さんもお着物着られるんですか?」
「もちろんですとも。普段はこんな格好ですが、地獄で働いてた時も一応着物でした」
「えーと? 前世、でしたっけ?」
「猫には複数の魂。生き方のルートがありますからね? 道真様の飼い猫だった時を合わせてもまだ三つです」
「三つでもすごいですよ?」
「ふふ」
人間でも前世の記憶を持って生まれると言うこと自体あるかどうかわからないのに。
猫だからか、妖だからか、色々特殊かもしれない。
遠い遠い、火坑の生まれ育った時代。
当然無理だが、美兎はそこにはいない。
「……火坑さんのこと、もっと知りたい」
ぽつりと口に出したら、火坑にも聞こえていたのか目を丸くした。
「僕のことですか?」
「! あ、いえ! すみません、出過ぎたことを!?」
「……ふふ。いいえ、美兎さんのわがままは可愛らしいですから」
「……可愛いですか?」
「ええ。それなら、手始めに敬語をやめてみますか?」
「無理……です」
「ふふ」
ちょっとだけ。
ちょっとだけ、わがままになっていいのだろうか。
元彼には、ウザいだのなんだの言われたりもしたが。
比べとようもない素敵な猫人は、美兎の心のしこりを上手に取ってくれた。
なら、と美兎は手招きで火坑を呼んで。
初めて、猫の口にキスをしてみたのだった。
「!?」
「人間とは全然違いますね……?」
唇もあるようでない。ヒゲがチクチクするが少しくすぐったい。
ヘラヘラ笑っていると、火坑は瞬時に響也になった。
「……お返しですよ?」
と言った直後。
ちょっかいを出したのを後悔するくらい、濃い濃いキスをされてしまったのだった。