こんな高価な品を頂けるだなんて、とんでもない。
そう言おうと思ったら、空木の妻である美樹は少し貸して、とかんざしを手に取り。
なんと、軽くブラッシングしているだけの美兎の髪を触り。どうやら、そのかんざしをつけてくれるようだった。
「あ、あの!」
「ふふ。大丈夫よ。私と同じ顔もだけど、若い女の子こそ。特別な時に着飾るべきよ? 今はお仕事着だけど」
まあまあ、と美樹の手でかんざしをつけてもらうことになり。
出来上がると、うなじ辺りが少しすーすーしたが違和感がなかった。
「……よく、お似合いですよ。美兎さん」
調理場にいる恋人の火坑が、嬉しそうに微笑んだのだった。
「ほんと……ですか?」
「ええ。お約束していた着物デートの時にでも」
「いやねえ? 火坑ったら、そんなモダンデートの約束までしてんの?」
「真穂さんも海峰斗さんとご一緒に行かれては?」
「そうね? 挨拶回りついでにいいかも」
「真穂ちゃん……加減はしてあげてね?」
「まー、あいつなら大丈夫大丈夫」
とりあえず、かんざしをずっとつけていると首元が落ち着かないので。美樹には申し訳ないが外させてもらい、布に包んでから折れないように鞄に仕舞わせてもらった。
「ふふ。久しぶりに作ったけど、孫の孫くらいの子にも似合って良かったわ」
「え、美樹……さんが作ったんですか!?」
「ええ。空木様に梅と枝だけは調達していただいて。あとは全部私ね? 空木様とご一緒になる前はこれでもかんざし職人だったのよ」
「す、すごい……です」
「今の技術も面白いから取り入れたの。梅の花はレジンに閉じ込めたのよ」
「へー?」
だから、生花のように見えたのか。ますます凄いと思わざるを得ない。
着物を着る機会がちゃんとあるので、その時に出来る様に練習しようと心に決めた。
「さ。せっかくの宴です。今宵は私の支払いなので遠慮しないでください」
と、空木が言うので。美兎はすかさず火坑に両手を差し出した。
「では、せめて。心の欠片だけでも!」
「ふふ。空木さん、どうされますか?」
「そうですね? 美樹も久しく心の欠片を口にしていないので。……お願いしてもいいですか?」
「任せてください!」
さて、今日は何が出るか。
ぽんぽんと火坑が美兎の手のひらを軽く叩けば、出てきたのは大き過ぎる骨付きの鳥もも肉だった。
しかも、『達』がするくらいの量。
びっくりしたので、慌てて落としかけたのだった。
「これは凄い! おそらく、空木さんが開花させ。さらに滝夜叉姫さんからも呪いをかけられたために。霊力と妖気が高まったからでしょう」
「あと、真穂の加護も強めたし」
「ですね? これだけ立派な骨つき肉。フライドチキンもいいですが、時短で煮付けにしましょうか?」
「煮付け、ですか?」
フライドチキンもきっと美味しいのに、空木夫妻に合わせてかそれともすっごく美味しいのか。
とりあえず、待っている間にスッポンスープかと思いきや。余分にカットした肉と皮で即席塩味の焼き鳥をこさえてくれたのだった。
「あら、嬉しい」
「タレも良いですが、皮もいいですからね? 大将、その煮付けは少しお時間をかけていただいてもよろしいですか?」
「はい?……ああ。演奏なさいますか?」
「ええ。少々」
なので、クリスマス以来の琵琶演奏会が開かれたのだった。
いやはや、嬉しいことだ。
覚の夫妻がようやく来店出来たのもだが、少しぶりに会う恋人の美兎が、今日も一段と愛らしいからだ。
祖先である、美樹夫人と彼女は色のパーツなどが違う以外は本当に瓜二つだった。ただし、声はいくらか美樹の方が高い。
妖の妻となり、幾百年も生きているのならば不老ではあっても、一部は老生するだろう。
そして、今は夫である覚の空木が。持参した琵琶で演奏と謡を披露してくれている。基本的に店内で音楽などをかけないので、即席のBGMが出来上がった感じだ。
女性達は彼の演奏と謡にうっとりしていた。火坑もじっくり聴きたいところだったが、仕事は仕事。
けれど、演奏の邪魔をしたくないのでできるだけゆっくりと。
調味料を入れた大鍋を沸かして、その後に種を抜いた鷹の爪。美兎の心の欠片を下ごしらえした骨つきの鳥もも肉を、入れて。
水を加えて、肉の八分目くらいにまで煮汁を調整。これを煮立たせてから味見。
甘さが少し強い程度で大丈夫。塩辛いとせっかくの煮付けがしょっぱくなるので。それから火を止めて鍋を煽って煮汁と肉を馴染ませる。
ここで、美樹の言葉を借りるわけではないが現在の調理道具を使う。クッキングシートで落とし蓋を作るのだ。
「まずは正方形に切って、中心から八等分に折り畳んで、天辺と縁を丸く切って」
広げれば、丸い落とし蓋の完成。
これを鍋に入れて蓋をして、焦げつかないように似ていくが。ここはいつもの、タイマーを利用した妖術で時短。
「えーと、水飴」
調味料を置いているところから、水飴の瓶を取り出して。蓋を全部取ってから大さじ2ほど入れる。甘さが勝っているのに入れるのではなく、ツヤと照りのためだ。
これを十分くらい煮立たせている間に、器、添え物の準備をして。普通にタイマーが鳴ったら、また妖術で煮ふくめさせていく。
煮付けだが、熱々よりも常温が美味しい一品なので。
「お待たせ致しました。鳥もも肉の煮付けです」
ちょうど曲が終わったところで声をかけて、カウンターに置けば全員感嘆の声を上げてくれたのだった。
「でっか!?」
「凄い、豪華です!」
「あらあら。とても美味しそう!」
「そうですね。せっかくなので、いただきましょう」
置いておいた紙を持ち手に包み。少しお行儀が悪いようにも見えるが、誰も言わないのでそれぞれかぶりついてくれた。
「おい」
「しい!」
「柔らかいですね?」
「はい、空木様!」
幾度か試作したことはあるので、火坑も味はわかっている。日本人好みの醤油が強い甘辛さ。酒とみりんのコクもあり、砂糖ではなくザラメと水飴の甘さが引き立つ。
妖術で時短はしていても、芯まで染み渡ったその味付けと肉の柔らかさはたまらないだろう。
まだまだあるので、ひとつだけ後で食べようと決めたのだった。
「ねえねえ? 美兎、と呼んでもいいかしら?」
美樹が煮付けを半分くらい食べ終えてから、美兎に声をかけた。
「あ、はい。どうぞ」
「ふふ。娘や息子はもう独り立ちして長いから、なんだか孫にでも会えた気分だわ。たまに……だけれど、ここ以外でもお茶しましょう?」
と言って、使いこなしているのかスマホを取り出して。空木も一緒に、美兎とLIMEのIDを交換するのだった。
会えて良かった。
美兎は心からそう思えた。
自分の祖先である、覚の空木とその妻である美樹と出会えたことだ。
はるか年上であるのに。自分の恋人である火坑もだが、年齢差を感じさせないくらい気さくで、温かで優しくて。
おまけに、現代の携帯機器などを使いこなしているとは凄い。美樹のプロフィールを見に行ったら、とても可愛らしい小物などの作品がアイコンなどに使われていた。
「かんざしもだけど、レジンでアクセサリー作るのが得意になったの。だから、それも仕事にしているわ」
直接誰かと顔を合わせて仕事にしているわけじゃないらしいので、ネット販売で切り盛りしているそうだ。それは実にやりやすい仕事かもしれない。
「好きなことがお仕事に出来るって素敵です」
「ふふ。ありがとう。美兎も出来た?」
「はい、お陰様で」
好きもあったが、犠牲にしてきたものもあった。
けど、それが全て無駄にはならなかった。
火坑達にこうして出会えたのだから。それを告げれば、美樹はにこにこと微笑んでくれた。
「今のあなたが幸せなら良かったわ。そのお相手が大将さんなら、尚の事。大将さん、私と空木様の子孫をよろしくお願いしますね?」
「もちろんですとも」
そして火坑は、手作りらしい、薄いレモン色のアイスかシャーベットを出してくれた。濃いめの味付けが多かったから口直しにと。
「アイス……ですか?」
「少し惜しいですね、美兎さん。柚子を使ったシャーベットですよ? どうぞ溶けないうちに」
「おや、本当に口当たりがさっぱりしますね?」
先に食べ始めていた空木が感心した声を上げたのだった。
美兎もスプーンでひと口食べてみると。口いっぱいに柚子の甘さと香り。少し酸っぱいが、煮付けとかスッポンスープで脂っこかった舌を適度に休ませてくれる。
ひと口、またひと口と食べていたら、あっという間になくなってしまった。
「美味しかったです!」
「お粗末様です」
さて、時間もいい頃合いになってきたので空木夫妻はJRなども使って、春日井の界隈に帰るそうだ。
今度は、そちらにも是非来て欲しいとも言われた。
「場所は、界隈に着けば迎えに行きますので。火坑さんと是非」
「わかりました」
「行きますね!」
すぐかどうかはわからないが。四月が過ぎてからがいい時期かもしれないと、火坑が言ったので。
ついでではないが、春の京都旅行で絶対お土産を買ってこようと頭の隅にメモしておいた。
「じゃ、真穂も締め切り片付けてくるから!」
と、半分嘘のような言い残しをして帰って行った。絶対、美兎がLIME以外でしか火坑と連絡していないので気遣ったのだろう。
美兎は少しカウンターにうつ伏せになってから、行儀悪く顔を上げたのだった。
「仕事以外も……バタバタでした」
「ふふ。お疲れ様です。僕でお手伝い出来ることはありますか?」
「え……っと、不動さんの件なんですけど。美作さんが最初は人間界での店にしようと言われましたので」
「いつでも言ってください。力になりますよ?」
「ありがとうございます」
ああ、本当にこの猫人は。
とてもとても、出来た彼氏様である。
なんだか、触れたい気分になってきたので怠い身体を起こして、彼に手招きをして。
口には恥ずかしくて出来なかったが、ふわふわの毛に覆われている顔でもほっぺにキスが出来たのだった。
当然驚かれてしまい、お返しにと彼からも美兎のほっぺにキスされてしまった。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
空木夫妻と再会してすぐの休日。
今日、美兎は錦の界隈で初の場所にいたのだった。
「ひっろ!? エレベーター直ぅ!?」
「やっぱり兄妹ね? 反応一緒」
「褒めてる?」
「もちろん」
今日は界隈にある、守護兼将来の義姉になる予定の座敷童子である真穂の自宅に来ているのだ。
理由はひとつ。美兎の家やこれから来る予定の人達の家でも手狭だからだ。
美兎は先に来て、今日来る予定の人に言われた調理道具を真穂と確認するため。ひと通り揃ってはいるらしいが、ほとんど自炊しない真穂なのでその確認は重要だ。
「じゃ、探そう!」
「そうねー? まだみほはそんな来てないから、いじってないはずよ」
「相変わらずラブラブ?」
「ふふーん」
本来の意味ではまだ結ばれていないにしても、心を通わせるのはいいことだ。美兎も、恋人で猫人の火坑によくてほっぺにチューだけだと、まだまだお子ちゃまなのだろう。
とにかく、調理道具をあらかた探して。業務用のミキサーボウルを見つけた時にエレベーターの音が聞こえてきたのだった。
「うっわ、広!?」
「お、お、お邪魔……します!!」
「真穂さまぁ〜? お邪魔するわよん?」
沓木桂那。雪女の花菜、狐狸の宗睦ことチカ。
ひとりだけ男性だが、今日は女子だけのバレンタインプレゼント作りだ。チカはこの前、楽養で花菜がうっかり口を滑らせた時に行きたいと豪語したからだそうだ。
とは言え、ある意味ゲイ、のようなチカがいてくれれば力仕事は任せられるだろうと、真穂が言ったらしく許可したそうだ。
「参加条件の材料、買ってきたかしら? チカ」
「仰せのままにー! たっぷり買ってきましたわー!!」
あと、半分以上の材料調達と購入も。
さすが身体は男だからか、割れやすい卵以外はしっかりマイバックに入れてきたのだ。
「さて。今日はバレンタインのプレゼント作りだけど。私はある意味ほとんど初対面だし、改めて自己紹介しましょうか?」
と、沓木が言うので。要冷蔵の食品を冷蔵庫に仕舞ってから簡単に自己紹介をすることになった。
「ゆ、雪女……の花菜と言います。火坑兄さんの妹弟子で、普段は楽養と言う店で働いて……ます」
「狐狸のチカよ〜ん? 一応宗睦って言うんだけど、チカでいいわ〜! 『wish』って界隈のBARで働いてるわ〜。出張バーテンダーもしてるわよ?」
「座敷童子の真穂。美兎の守護であり、将来のお姉ちゃんにもなる予定」
「あ! 真穂様、あの噂本当なの!?」
「わ、私もちょっとしか!」
「え、なに? 湖沼ちゃんのお兄さんと真穂ちゃんが付き合ってるの??」
「せいかーい」
「まだ、半月らしいですけど」
「あらそう? えーっと、私は赤鬼の隆輝の連れで。湖沼ちゃんとは会社で先輩後輩です。沓木桂那よ」
「あら〜? りゅーちゃんの彼女〜?」
話に華が咲いたが、今日は単純な女子会ではないので。
早速、バレンタインプレゼント作りに取り掛かることになったのだ。
「先輩、何を作るんですか?」
材料はチカに。レシピは完全に沓木に頼んでいたので、美兎は今日初めて知るのだ。
美兎が聞くと、沓木は持って来ていたカバンから数枚の紙を出して、全員に行き渡らせたのだった。
「今日は、薔薇のチョコクッキー作りよ!」
なんとも、壮絶な作業を思い描けるレシピだった。
薔薇のチョコクッキー。
なんと言うか女心をくすぐるワードではあるが。
「……先輩。初心者に難しくないですか?」
渡されたレシピの写真を見てから、美兎は沓木に聞いたのだった。
「大丈夫よー? 生地さえしっかりしてれば、あとは粘土細工のようなものだし」
「いえ、粘土って」
「可愛いらしいじゃなあい? あたし作るわ〜!」
「盧翔……さんのためにも」
「みほ、こう言うの好きかしら?」
などと、美兎以外はやる気満々だ。なので、美兎も火坑のために、と作ろうと決めたのだった。
まずはチョコを湯煎とレンチンで溶かす作業をすることに。
全員でチョコを刻んでは湯煎と、レンチンにかけて溶かしていく。
「花菜ちゃん、早いわねえ?」
「一応……料理人の端くれなので」
専用の手袋で調理している花菜の手元がブレてよく見えにくい。けれど、怪我する事もなく綺麗に刻めているのだ。
「はぁ〜い? 粉類はふるっておいたわ〜」
宗睦こと、チカは途中から粉類を振るう係になってもらったので。部屋中にチョコの香りが充満している中で、次の作業に移ることに。
「じゃ、溶かしたチョコが熱いうちに砂糖を入れて混ぜて」
その後に、卵。
その後に、振るった粉類。
まとまってきたら、手で生地の中身が均一になるようにひとまとめしていく。
「ひとりにつき……この大きさならだいたい三つ分ね? 芯、花びら……と分けていくんだけど。花びらの方は外側に行くにつれて生地の分量を多くして丸めてね?」
「は〜い、ケイちゃん先生!」
「はい、チカさん」
「なんで、外側につれて大きくするのん?」
「いい質問。外に行くにつれて、花びらって大きいでしょ? そのためなの」
「へ〜〜?」
「わ、わかりました!」
そこからは、沓木のアドバイスも加えながらまずは丸めていき。だいたい三組分出来上がったら、軽く紅茶を飲んでひと息。
けれど、ゆっくりは出来ないので、すぐに作業再開だ。
「芯に沿って、まず一番小さい丸を。少し平たく伸ばして、芯に巻きつけていくの」
そして、何個かを潰して貼って。を繰り返したら、たしかに花の形になっていた。
「先輩すごいです!」
「ありがと。けど、このレシピ。隆君から教わったの」
「? 相楽さんから?」
「インパクト大の、バレンタインプレゼントならこれがいいんじゃないかって」
「あいつらしいわねぇ?」
「え。先輩。相楽さんにもこれ渡すんですか?」
「本職には敵わないけど、一応そのつもり。これじゃなくて、もっとビターにするけど」
「なるほど……!」
ただ、だんだんと底が長くなっていくので大丈夫かと思ったが、ここでもケイちゃん先生のアドバイスが。
「だんだん底が長くなっていくでしょ? ゴムベラなどで削ぎ落として。また花びらだったり、葉っぱを作るのもいいわ」
と言われたので、美兎は葉っぱにしたのだった。出来上がった花は、本当に綺麗な薔薇そのものになったのだ。
「綺麗……!」
少しいびつだが、きちんと薔薇の形になっている。
火坑は喜んでくれるだろうかと、少し期待してしまうのだった。
「あとは、170℃ののオーブンで二十分くらい焼いたら完成ね? 二台もあるから、全員分焼けるわ」
なので、片付けをしてからコーヒーブレイクすることになったが。花菜がうっかり手袋を外してしまったので、彼女の分だけカチカチのアイスコーヒーになったのを笑ってしまったのだ。
田城真衣は絶望を味わっていた。
いや、普段が悪いのだ。怪我まではいかないが、料理に関してここまで不器用だとは思わず。
ワンルームのキッチンに山積みになってしまった、失敗作達をどうすればいいのか。やはり、同期の湖沼美兎にも協力してもらえばよかった。
けれど、彼女は今日は用事があるのでダメだった。多分だが、休み前に言ってた二年先輩の沓木桂那との用事。
何故、真衣は除け者だろうか。少し悔しいが、悔いても遅い。とりあえず片付けを頑張ってから、インスタントのコーヒーで失敗作のお菓子を片付けることにした。
「……あ。味は悪くない?」
味覚音痴ではないが、外食が多い真衣の舌でも受け付けられる味だった。
だが、これらの成功作を渡す予定だった、好きになった人。不動侑には渡せれない。
いくらポジティブ人間の真衣でも、節度くらいは弁えている。そこまで馬鹿じゃない。
半分ほど食べてから、残りをジップロックに入れてから戸棚に入れておいた。また気分が乗った時にでも食べれるように、と。
それから、着替えて身支度を整えてから。真衣は植田の駅に向かって栄まで地下鉄に乗った。
「人、多!?」
休日だから多くて当然だが、バレンタインシーズンだからかどこを行っても人、人、人。
そして、デパートに行けばさらに密集していたのだ。これでは、大方目当てのものは品切れ確実。
仕方ないので、妥協しようと沓木の彼氏がいるマカロン専門店に行こうとしたら。
途中、誰かと肩がぶつかったのだ。
「あ……すみませ」
「ごめんなさ……い?」
顔を見たら、これまたびっくり。
意中の相手である、不動がいたのだった。
思わず立ち止まってしまったが、何故か不動が動き。真衣の手首を掴んで、栄の広場の一つに連れて行かれたのだ。
「ここ……なら」
そして、走ったわけではないのに息切れてしまっている。何かしたのだろうか、と真衣は首を傾げたのだった。
「あの……?」
「あ、すみません! 俺、勝手に掴んじゃって!!」
「あ、いえ。それはいいんですけど……大丈夫、ですか?」
「え?」
「息切れて……たので」
「……特訓してたんです」
「特訓?」
「その……俺、人混みが結構苦手で。けど、克服するのに……わざと、来てたんです」
「おお! 凄いです!」
「凄い……ですか?」
「はい。私は料理が全然ダメだったんで、買いに来たりしてるから」
今度の合同飲み会で渡せたらいいな、とは思っていたが。まさか、そこまで不器用だとは思わず、失敗作だらけになった。
それはいくらなんでも言えないので、苦笑いしておくことにした。
「……買い物、ですか?」
いくらか呼吸が整ってきたところで、不動が質問してきた。
「はい。美味しいお菓子屋さんとかいっぱいあるじゃないですか? 先輩の彼氏さんがパティシエさんなんですよ。そこに行こうかな、と」
「急ぎ……ですか?」
「?? いえ。この人混みじゃ、今行っても人でいっぱいでしょうし」
「そ、その。この前のお礼になるかわからないですけど。……昼、奢ります」
「え、いいんですか?」
「も、もちろん」
まさか、人混みが苦手でもお誘いをしてもらえるとは思わず。
真衣は子供のようにはしゃぐところだった。二十三歳でも、大人は大人と言い聞かせて、真衣は首を大きく縦に振った。
「行きたいです! あ、改めて、田城真衣です!」
「ふ……不動侑です」
じゃあ、行こうか。と、二人はゆっくりと人混みの波に向かうのだった。
作った薔薇のチョコクッキーは。
焼き上がったら、艶々で崩れることなくしっかりとなっていた。
焼き上がり前と、ほとんど形が崩れることなく。しっかりとした花びらが出来ていて。さすがは本職のパティシエ直伝のレシピ。
隆輝には改めて、どこかでお礼をしようと決めた。
「あら〜ん? 良い出来栄えじゃなぁい?」
性別は同じ男でも、オネエで随分と雰囲気が違うものだ。宗睦は目を爛々と輝かせながら、沓木が持っている鉄板を覗き込んだ。
「バターを使っていないから、油分は完全にチョコのカカオバターだけね? だから、思ったよりは崩れにくいらしいの」
「さっすが、りゅーちゃんの彼女ちゃんね?」
「それほどでも」
「つ、艶々です……!」
「それは、スキムミルクを混ぜたからなの。ただ味のために混ぜたんじゃなくて、艶出しのためにね?」
「それも、隆輝が?」
「そゆこと」
今度は人数分の紅茶を淹れている真穂が聞けば、沓木はにっこりと笑った。
「あ〜ん! らぶらぶいいわねぇ〜〜!! あ・た・し、も! 彼とらぶらぶしたいわ〜〜!!」
「え……チカ、さん。彼氏? さんがいらっしゃるんですか?」
「そうよ〜ん? 界隈で出会った〜〜」
「前に話した、ダイダラボッチの彼氏がこいつ」
「え??」
「ね、姐さんがダイダラボッチ様と!?」
「? なーに、ダイダラボッチって??」
重大事項を聞くべく、一人一個はクッキーを食べようとリビングに移動して。
出来上がった、食べるのがもったいない薔薇の形のクッキーを前に。宗睦の話を聞くことにした。
「ダイダラボッチ……名前は、更紗って言うんだけど。あたしが今のようになる前に出会ったのよん」
「今の?」
「あたし、むかーし昔は結構な荒くれ者だったのよん。人間達で言うとこの……不良とかヤンキー? だったわね?」
「そーね? ここ五十年くらいだったわね? あんたがそーなったの」
先に躊躇なくクッキーを食べていた真穂は、なんてことのないように言ったのだった。
つまりは、宗睦は今と昔だと性格も何もかもが違っていたらしく、出会えたダイダラボッチのお陰で今があるそうだ。
「喧嘩どんぱちなんてしょっちゅう。生傷も絶えなかったわ〜〜? そんな時に、この界隈で倒れてるとこを更紗……さっちゃんに助けてもらったの」
「……妖怪でもゲイカップルっているのね?」
「んふふ〜、ケイちゃん先生? 割とオープンよ? あなたとか美兎ちゃんのように、人間と妖が付き合ってるみたいに。妖同士でも、同性のカップルは昔からちょくちょくいるの」
「東京の新宿二丁目とかじゃないけど。錦でもあんのよ」
『へー?』
花菜も知らなかったのか、真穂の言葉に感心していた。
ここで、花びらの部分を割って食べてみると。ほろっと口の中で溶けて。チョコの甘さと砂糖の甘さが絶妙な、美味しい美味しいクッキーになっていた。
「美味しいです、先輩!」
「ふふ。成功してよかったわ」
「ほんと! 美味しいわ〜ん。さっちゃんに明日あげてみよ!」
「美味しい……です!」
バレンタインまであと数日。
今日のを火坑に渡すわけではないが、前々から準備していたもう一つの品もそろそろ出来上がる。
だから、二つを一緒に。あの美しい猫人にあげたかったのだ。
「付き合うどうのこうのと言えば、美兎」
「うん?」
「風吹の方は、飲み会以外決まってないの?」
「なになに!? ふーちゃんにとうとう彼女が出来るの!?」
「チカ、ステイ」
「くぅん! じゃ、ないですよ真穂様!?」
真穂の命令に従って、狐が本性でも犬のようにお座りをしてしまった。
少し驚いたが、大半の者が笑ったのだった。
「で、どなの?」
「うーん。真衣ちゃんは自分でバレンタインプレゼント作るとは言ってたけど」
「あら。田城ちゃんも、まさか妖怪を好きになったの?」
「実は……」
花菜と宗睦はいるが、協力者が増えて悪いことではないので、不動との出会いなどを詳しく伝えた。
「ふぅん? 矛盾した生き方だけど、それでも……か。良い人じゃない? 田城ちゃんも目の付け所があるわね?」
「けど、ちょっと心配……です」
「どれに?」
「プレゼント……の方で」
「ああ……全然ダメじゃないけど。本能のまま作ろうとすると危ないわね」
包丁をほとんど扱えず、チョコを直火で溶かそうとしていたのだから。沓木も、あれを思い出してため息を吐いた。
「それなら〜〜? 案外人間界でばったり再会して〜? お茶とかしてるんじゃないかしらん??」
「そんな……」
「人混みが苦手なのに? けど、まあ。ないとは言い切れないわね?」
それが現実となれば、うまくいっていれば良いのだけど。でも、美兎は。
田城が不動を妖と知った時に、どう受け止めるかが一番心配だったのだ。
誘ってしまった。
それは悪いことではない。
風吹は、人化して早数年。火車と言う妖なのに、訳あって人間の屍肉を食べられなくなった。
その理由で、ほとんどの同類にも疎遠にさせられたりだったので。人化して、人の中に紛れ込もうと決めたのだ。
屍肉を貪っていたのに、生きた血肉の匂いは風吹の鼻には毒で。だから、ぎらついた目を見られないように前髪を伸ばしたりと色々したのだが。美醜が際立っているせいで、ちやほやしてくる人間の女は嫌だった。
なのに、今目の前にいる田城真衣と言う女性は。
明るくて、笑顔はまるでひまわりのようで。
風吹、いや、人間の不動侑の拙い話にも喜んで聞いてくれるのだ。
「へー? 不動さんって、一宮なんですね? 私は植田なんです!」
「じゃあ……この辺には来やすいですね?」
「乗り換え一回と二回か悩むんですよね〜?」
植田、天白区。
比較的近いところだ。風吹の住居は一宮の界隈ではあるが、本性に戻れば飛んで行けるくらいの距離だ。そんな失礼なことは出来ないが。
「あ、ここ……です」
田城との会話が弾んで、目的地を過ぎるところだった。黒い漆塗りの木材が特徴の、威圧感漂う佇まい。
田城は、『おお』とでも言いたげに口を少し開けていた。
「和食……ですか?」
「ここの天丼は絶品なんです」
「おお、天丼! 最近食べてなかったから!」
「見た目より、結構安いんです。行きましょう」
「はーい」
少しだが、打ち解けてきたせいか。田城の言葉遣いもフランクになってきた。
見た目以上に、ライトな性格なのだろうか。
もっと知りたい。その気持ちが強くなり、掘り炬燵のテーブル席に座ってから改めて彼女を見た。
小綺麗に整えられた身なりは、私服ではあっても印象がいい。やはり、社会人になったからか、大学生とは少し違う感じだ。
風吹を助けてくれた時もそうだったが、若いのにしっかりしている。彼女の同期で、妖と交際している湖沼美兎と比較したら派手さはあるが、いやらしさはない。
今も、店内をキョロキョロ見て回る様子は愛らしかった。
「えと……ここ。天丼が多いんですけど。他の和食もありますから」
「うーん。せっかく不動さんの奢りなら、おすすめの天丼がいいです!」
「き、嫌いな食べ物……とかは?」
「これと言って全然。美兎っち……あ、湖沼ちゃんはキノコとこんにゃくがアウトですけど」
「……わかりました。すみませーん」
同期をあだ名で呼ぶことは珍しくないが、ずいぶんとフランクな感じだ。
それが、普段の田城かもしれない。風吹も妖の一部には呼ばれたりもしたが、それは本当にごく一部。
呼んで欲しいな、と思うのは傲慢だが。
「来週会えるって、湖沼ちゃんには聞いたのに。今日会えて嬉しいです」
注文を頼んだ後に、いきなり田城が爆弾を投下したような発言をしたのだった。
「俺と……ですか?」
「はい。あの時は具合悪くて、ほとんどお話出来なかったし。湖沼ちゃんの知り合いさんの知り合いさんって聞いた時は、驚いたけど嬉しかったんです。ちゃんと、不動さんと話したいな……って」
ああ、ああ。
こんな嬉しいことがあっていいのだろうか。
恋愛事情に疎い風吹でも、彼女の思っていることに。
自惚れていいのかと、顔に熱が上がってきて。思わず口を手で隠した。
「……俺も」
「え?」
「…………俺も。助けてもらったことへのお礼だけじゃなくて。田城さんと話したいって思ってました」
言い切った時に、田城の顔を見れば。
今まで以上に、花のような笑顔を向けてくれたのだった。
嬉しい。
もしかしなくとも、不動も同じ気持ちでいてくれるかもしれないから。
赤くなった顔を手で隠すのも、何だか年上なのに可愛らしく見えて。
真衣は、もっともっと彼のことが知りたいと思ったのだった。
そして、注文した天丼が到着すると、その圧倒的な天麩羅のサイズに目を丸くしたと思う。
「お……っきい、ですね?」
野菜もだが、穴子らしき長い天麩羅もめちゃくちゃ大きい。これは食べ切れるか、流石に心配になってきた。
「あ……すんません。いつもの頼んじゃって。もし……残ったら、俺が食います」
「え、こんなに多いの。不動さん、食べ切れるんですか??」
「いつも……二杯は普通なんで」
「わお!」
それなら安心が出来る。だが、片想いの相手に気を遣わせ過ぎてもいけない。
出来るだけ食べようと、まずは大きな穴子から口にしてみたら。
見た目以上にサクサクの衣。甘辛いタレが天麩羅の衣に良く絡んでいて。天麩羅だけでもいけるがご飯も欲しくなる。
ついつい、いつもの会社での昼ごはんのようにパクパク食べ進めてしまっていた。
気がつくと、半分以下になっていたくらい。
そこで、我に返って不動を見れば。一心不乱に天丼にがっついていた。
前髪がずれて、あの綺麗なブルーアイが見えて。
その目はとても真剣に天丼と向かい合い。これが作法と言わんばかりに、どんどんどんどん天丼が彼の胃袋へと消えていく。
その勢いに飲まれて、真衣は天丼を食べる手を止めてしまっていた。
「あ……腹いっぱいになりました?」
丼をおろすと前髪も元に戻ってしまったが、真衣は聞かれたので手をぶんぶんと顔の前で振った。
「いえ! とっても美味しいです!! ちょっと……不動さんの食べっぷりに圧倒されちゃって」
「あ、すんません。勝手に食べ進めちゃって。俺……天丼には見境ないから」
「そんなにお好きなんですか?」
「毎日三食は天丼でもいいくらいです!」
「ぷ!」
そんなに食べまくっても飽きないことにもだが、太らない体質にも羨ましく思えた。
「? 俺おかしなこと言いました?」
「違います。そんなに高カロリーなものを食べ続けても太らないのが、羨ましいなって」
「まあ…………アラサーでも、まだ若いんで」
「そうですね?…………残り、お願いしていいですか?」
「もちろん」
不動の食べっぷりを見ていると、流石にこれ以上は食べれないと実感出来たので。丼を渡せば、彼はまたすごい勢いで食べ進めてくれたのだった。
「蕎麦茶です」
ゆっくりしていると、店員が食後のお茶を持ってきてくれたので。温かいお茶に、真衣はほっと出来たのだった。
「不動さん、いつもご贔屓にありがとうございます。ちょっといい企画があるんですよ」
店員が手にしていた広告を一緒に見ると、不動が喜びそうなものが記載されていた。
「……バレンタイン企画、デカ盛り天丼選手権?」
「はい、彼女さんも観覧だけでも参加されませんか?」
「え?」
「……彼女、じゃないです。恩人です」
「あら、すみません」
彼女じゃないのは当然だが、想いを寄せているのに変わりないので少し胸が痛んだ。
天丼が来る前の、あの照れ隠しに自惚れかけたのだが違うのだろうか。
「けど」
不動が顔を上げて、真衣を見てきたのだ。前髪から見え隠れするブルーアイがしっかりと向けられた。
「けど?」
「俺……参加したいんで、応援には来てもらえませんか?」
「い……いんですか?」
「もちろん」
「じゃ、不動さん。こちらの参加希望にお名前だけいただけますか?」
「はい」
飲み会もあるのに、次の約束があるだなんて。
デートではないのに、デートの約束をする感じだった。
と思ったところで、今のこの時間もある意味デートでは、と。不動が記入している間に顔が熱くなるのを感じた。