少し遅くなってしまった。
座敷童子の真穂は、今日は用事があるらしいので。界隈に入る手前で現れた彼女に、少し加護の妖術をかけられた後に別れた。
楽庵に到着すると、客はいなかったがちょうど火坑が食器を片付けているところだった。
美兎と目が合えば、いつもどおりの涼しい笑顔で出迎えてくれたのだ。
「こんばんは、美兎さん。いらっしゃいませ」
「こんばんは……火坑さん」
やはり、沓木達に言われたように、少し距離感が空いている気がするのもあるが。いきなり、敬語を外すのは難しいと思った。
人間の顔ではないが、綺麗な猫顔を見てもとてもだが、無理だ。けれど、一度話すのは悪くない。
席に着いて、ちょっとお腹を満たしてから聞こうかと思ったが。当初の約束を忘れかけていたので、先に聞くことにした。
「はい。おしぼりです」
「ありがとうございます。えと……今日はどうして連絡をくれたんですか?」
「いえ。美兎さんに是非会いたいと言う方がいらっしゃいまして」
「私に会いたい人……?」
先の道真と言い、河の人魚、あとは覚もだが。
覚の空木は日取りを変えて欲しいと請われたので違うはず。人魚の方も、まだ火坑に連絡が来ていないから違うと思う。
なら、全く違う妖なのだろうか。
温かいおしぼりで手を拭いていたら、引き戸の向こうから神社の鈴のような音が聞こえてきた。
「……おや。いらっしゃったようですね??」
わざわざ火坑が扉を開けにいくと、こちらにわずかだが芳しいお香のような匂いが漂ってきた。
「件の娘はいるかえ? 火坑や」
「はい。ちょうど今し方」
そして、匂いと同じくらい甘さを含んだ艶のある声。客の一人だろうかと思うのは、火坑が浮気などしないと絶対的に信じているからだ。
彼が扉から離れると、その妖らしき姿が見えたのだ。
「……うわぁ」
火坑と約束しているので、京都にはまだ行けていないのだが。会社の関係で京都の広告を扱うことは多い。美兎はまだ新人なので携わってはいないが、京都の芸妓さん達の写真は見てきた。
それくらい、装いが煌びやかで華やか。ただ、少し緩めに着崩している着物や髪は少し妖艶に、美兎の目に映った。
妖だからかもしれないが、雰囲気も相まってよく似合っていた。
目が合うと、彼女はふふっと、艶やかな赤色の唇を緩めた。
「ふふ。お初にお目にかかるの? あちきは、滝夜叉姫と言うもの。そちが、火坑の番かえ?」
「は、初めまして! 湖沼美兎と言います!!」
名乗ってくれたので、座っているわけにはいかず、ついつい新入社員当時の時みたいに、カクカクになって挨拶してしまった。
だが、滝夜叉姫は気分を悪くすることもなく、髪や着物についている鈴のようにころころと笑い出した。
「誠に、愛いのお? 気に入った、あちきは滝夜叉姫と言う呼称ではあるのだが。名は五月と言うのじゃ。是非に、呼んでくりゃれ?」
「五月、様?」
「うむうむ。良い良い」
そして、五月はなんの躊躇いもなく、美兎の右隣の席に腰掛けたのだった。
加えて、火坑からおしぼりを受け取ったあとは、ずっと美兎を見ていた。
「? あの?」
「うむ。良い占いが見えておるな? 様々な妖だけでなく、国津神などにも好かれておるとは。しかも、守護にはあの座敷童子。興味が尽きぬの、美兎よ」
「占い?」
「滝夜叉姫さんには、色々伝承が数多く存在するんですよ」
「伝承?」
「うむ。あちきは、まず言っておくが妖ではないんじゃ」
「ええ!?」
こんなにも綺麗な人間がいるのだろうか。
だが、街中でこれだけの美女が歩いていたら目を止めるだけで済まないだろう。はやとちりしてはいけないので、きちんと話を聞こうと耳を傾けた。
「うむ。あちきは、いわば怨霊。じゃが、改心はして幽世と現世を行き来している存在なのじゃ。じゃが、別に今の人間達を怨むつもりはない」
「幽霊……と言うことでしょうか?」
「応。そう思って構わん」
話が長くなりそうだったので、とりあえず美兎もだが五月も梅酒のお湯割りで体を温めることになった。
人間ではない、怨霊から今まで幽霊として存在している滝夜叉姫。
妖でもないので、美兎には言われなければ妖にしか見えない美女だったから。
美兎に会いたい理由も含めて、きちんと五月の話を聞こうと思った。
「時に美兎よ」
「はい」
「あちきを知らぬならば、我が父もおそらく知らぬであろうな?」
「五月様のお父様?」
「うむ。古い歴史には残っておるが、印象は薄いじゃろうて。平将門と言うのじゃが」
「う、うーん? 少し聞き覚えが」
「道真様と同様に日本三大怨霊のお一人ですよ? あと、日本史でしたら将門の乱がありますね?」
「あ、それです! え、五月様のお父様がそんな有名人!?」
「うむ」
だからこれだけ美しいのかと納得しかけている間、五月は美しい手でお湯割りの酒器を傾け、ゆったりと息を吐く様は本当に麗しい。
美兎にもその所作の美しさを分けてほしいくらいだった。
「お話中、申し訳ありません。先付けは虎ふぐの皮を湯引きしてポン酢と和えたものですが。お食事はいかがなさいましょうか?」
「あ、心の欠片いりますか??」
「そうですね? お願いします」
「心の欠片かえ? 久しいのお。あちきもひとつ」
「あの、幽霊さんでも出せるんですか?」
「元は人ではあったが。妖でも一部なら出せる輩もおる。あちきは霊じゃが、界隈では飲み食い出来るし変わりはせん」
「なるほど」
そして、火坑がそれぞれの手のひらをぽんぽんと叩いたら。
美兎は見事なマグロのトロ。対して、五月は何故か茶色い棒のように見えた何かであった。
「おや、滝夜叉姫さんのはいぶりがっこでしたか?」
「いぶりがっこ?」
「なんじゃ、この食べ物は??」
「たくあんの一種です。茶色なのは、燻す……燻製されているからなんですよ。東北では名物となっているんですが。居酒屋などでは、最近ブームなんです」
「ほう?」
「これだと何が出来ますか??」
たくあんを燻すだなんてお洒落だ。
沓木らと飲みに行くことは多いが、この楽庵に通うようになってからは、ひとりで居酒屋に行くことも減った。
ご飯は美味しいし、代金がわりに心の欠片を提供すればいい。と言っても、完全に無料状態なのは気が引けるのでお菓子などを持ち寄ってはいるが。
そこで美兎は思い出して、今日のお土産を火坑に渡した。赤鬼の隆輝の店ではないが、たまにはしょっぱい物をと。物産展で明太子を購入してきたのだ。
「わざわざありがとうございます」
「いえ。いつも甘いものばっかりでしたし」
「なんじゃ? 何を持ってきたのじゃ??」
「九州物産展と言うのが、デパートでやってたんです。色々悩んだんですが、今日は明太子にしてみたんです」
「めんたいこ……ほう。あの珍味かえ? あちきも好んでおる」
「でしたら……そうですね。明太子は卵焼きに入れて……心の欠片でお出ししていただいたのは。ご飯ものも出来ますが、簡単に海苔巻きも出来ます。どちらがいいでしょう?」
「……悩みますね?」
「うむ。しかし、久しい故にスッポンも頂戴したい。であれば、あちきは海苔巻きが良いの?」
「じゃ、私も」
たしかに、頻繁には来れていないので〆のスッポン雑炊も食べたい。
火坑は承知したと頷いてから、すぐに卵焼きから取り掛かってくれた。
「で、続きじゃが」
またお湯割りを傾け、先付けも優雅に口にしながら五月が話を再開した。
「はい?」
「今の人間などは、父が討伐されてあちきは尼僧……いわゆる尼になったとも言われておるが。そこは後処理をしたまでじゃ。あちきは、妖術使いとなり都に乱を起こした。まあ、思い返せば阿呆な事をしたものよ」
「えと……言い方すっごく悪いんですけど。犯罪者に?」
「その通りじゃ。じゃから、完全に幽世に行けば地獄が待ち受けておる。だが、改心と界隈で手助けをしたお陰か。いくらかは処罰も軽くなると亜条殿も言ってくれたのよ」
「亜条さんがですか?」
少し懐かしい。去年のケサランパサラン騒動以来、会っていないからだ。が、地獄の補佐官がそうホイホイとやって来るのも難しいだろうが。
「応。じゃから、まあ。具体的に言えば美兎を見たように、占いで導きを示しておる。それが、今のあちきの生業よ」
「素敵です」
「そうかえ?」
本心を伝えれば、五月はまるで少女のように微笑んでくれた。
そして、火坑の方も調理が終わり、ほぼ同時に出来上がった料理を出してくれたのだ。
せっかくのマグロのトロ。
火坑が猫人の妖として転生をした当初は。
人間達には捨てられてしまう『下魚』となっていた。
はるか昔。縄文の時代にも、万葉集にも歌に詠まれていたほどだと言うのに。
不味い魚。つまりは、保存状態が悪くて猫ですらまたぐと言われるくらい、不人気な魚になってしまったのだ。今のような冷蔵はおろか、冷凍の製法がない時代だったので無理もない。
江戸前寿司だと、醤油で下味をつけるそうだが昔はもっと不味かっただろうに。脂肪分が多いトロでは、いくら下味で防腐加工をしていても不味いだけだ。
だから、今の火坑には美味しくトロを客に出せる技術がある。
師匠の霊夢も今ではトロを好んで食べるくらいだから。
とりあえず、恋仲の美兎と、彼女に会いたいと便りを寄越してきた滝夜叉姫が話に華を咲かせている間に。
まずは、卵焼きの方に取り掛かる。美兎に出してもらったトロはキッチンペーパーで軽く包んで余分な水分を抜く。滝夜叉姫のいぶりがっこはそのままで。
出汁巻にするので、鰹節を贅沢に使った出汁を取って粗熱を取るのに氷水に鍋ごとつけて冷まし。
「……明太子をこのままか皮は取り除くか」
そこは悩みどころだ。火坑としては皮付きがいいが、卵焼きに巻くと薄皮が邪魔になるかもしれない。バーナーで軽く炙ると、卵焼きにはあいにくい。
なら、と明太子の薄皮は取り除き、皮は火坑の賄いにすることにした。
卵液も作り終えてから、まな板を丁寧に洗って固い布巾で拭い。トロの柵を適当な大きさに切ってから。
「ネギトロのように叩く」
普通のネギトロは三枚おろしなどにしたマグロのすき身などを使って作るそうだが。ここは、曲がりなりにも小料理屋。すき身以上に柵で贅沢に作ってしまおう。
小ぶりの包丁で叩きに叩いて。なめろうのように粘り気が出たら完成。
ここに、軽く炙った海苔に載せ、細かくしたいぶりがっこ。わずかに生醤油。
くるっと、手巻き寿司のように巻いたら完成だ。
その次に明太子入りの出汁巻も作って。
「お待たせ致しました。お二方の心の欠片で作らせていただきました、いぶりがっこでトロたく巻き。あと、美兎さんがお持ちいただいた明太子を巻いた出汁巻卵です」
「ほう?」
「うわあ!? 贅沢過ぎます!!」
「どうぞ、お召し上がりください。あ、トロたく巻きには生醤油で軽く味付けはしてます。ただ、いぶりがっこの味が濃いはずですので」
「ふむ。では、美兎よ。いただこうではないか?」
「はい! いただきます!!」
まずは温かい方から、と二人とも出汁巻の方を口にしたのだった。
「ほう? 甘過ぎずくど過ぎず。真ん中の明太子がいい味をしておる。薄皮も取り除いたかえ? 客思いじゃ」
「お粗末様です」
「これ、お酒ともすっごく合います!!」
美兎は元気よくパクパクと。滝夜叉姫は優雅にひと口ずつ。実に対照的ではあるが、美兎の食べっぷりには火坑も顔が綻んだ気がした。
だいたい三切れ食べ終えてから、ほぼ同時に二人ともトロたく巻きを手にしてくれた。
多少トロの水気で海苔が湿っただろうが、それもまた一興。
「ん?」
「わあ! すっごい、スモーキーですね!? けど、塩気もそんなにキツくないですし……これ、スモークチーズみたいな味が。やっぱり、燻製してあるからですか?」
「そうですね? 普通のたくあんと違うのはその燻製部分です」
漬物として使う干し大根が凍ってしまうのを防ぐために、大根を囲炉裏の上に吊るして燻し、米ぬかで漬け込んだ雪国秋田の伝統的な漬物らしいが。秋田の方言で漬物のことを『がっこ』と呼ぶことからその名がつけられたそうだ。
火坑の知る知識を伝えれば、二人はほーっと感心してくれた。
「今の人間は、なかなか珍味を見出すのがうまいの?」
「えと。五月様の生きてた時代では……?」
「あちきは武士の家の娘じゃったからのお? 粗食は普通じゃった」
「お姫様なのに?」
「お姫様、と呼ばれる身分ではあったが。贅沢は出来ても白米がたんまり食えたくらいじゃ」
「へー?」
「そう言えば、滝夜叉姫さん? 美兎さんに会いにきた理由は?」
「おお、忘れておった」
酒も入って上機嫌だったが、カラカラと笑いながら美兎の頭を軽く撫でた。
「? あの?」
「火坑の番となるのであれば、道行きには険しいものもあるじゃろうて? 祝い、程でもないが。あちきからも加護をやろう。この猫人には色々世話になっておるからな?」
ぽんぽんと軽く叩くと、火坑の目には美兎に何か霊力を注ぐのが見えた。が、祝いと言うからきっといいことに違いない。
火坑はスッポンのスープを二人に出す準備をしながら、そう思うことにした。
加護を、またひとつもらったらしい。
美兎の身体にそう変化は起きなかったが、滝夜叉姫の五月はそれからスッポンのスープと雑炊を平らげてから。
来た時と同じく、いきなり去ってしまい、また会おうとだけ言い残して行った。
何が起きたのかさっぱりだが、楽庵の店主であり恋人の火坑は相変わらず涼しい笑顔のままだった。
「ふふ。不思議そうですね?」
「……はい。よくわからなくて」
「あの方からの加護……と言うと。ひょっとしたら、美兎さん。妖術が多少使えるのかもしれませんね??」
「え!?」
そんなまさか、と思っても火坑はふるふると首を横に振ったのだ。
「いえいえ。人間で妖術を扱えたあの方だからこそですよ? 気にいる人間など米粒の数ほどだけ。その条件をクリアした美兎さんですから……可能性はあります」
そして、酔い覚まし用にと熱いほうじ茶を出してくれたのだ。
「けど……使ったことがないのに。どうやれば……?」
「そうですね? では、蛍火といきましょうか?」
「ほたるび??」
「蛍の灯りのように、薄緑色の灯りを作る妖術ですね?」
イメージと呪文を教わり、美兎は試しに妖術とやらを実践してみることにした。
「薄灯り、灯火、揺らぐ蛍……照らせ」
すると、ひとつだけだが頭上にぽんっと小さな薄緑色の灯りがともった。
火坑のではない、と分かったのは彼が手を叩いてくれていたから。なので、本当に使えたと美兎も喜びが込み上げてきた。
「お見事です」
「わ……わあ!? すっごいです!! 私にも魔法が!?」
はしゃいでいたら、いつのまにか彼の手を掴んでしまった。人間ではない、猫の手に似た手。
そして目が合うと。自然と距離が縮まって、と思ったら。
「ごっめーん! 野暮用だったから抜けてきたー!! ……れ?」
いきなり乱入してきた座敷童子の真穂のせいで、キスはお預け。二人揃って咳払いをしてから、彼女に五月のことを話したのだった。
「ふーん? 自由気ままなあいつがね?? 美兎ったら、怨霊だったやつにまでモテモテ過ぎない??」
「う、うーん。よくわかんないんだけど」
「美兎さん……だから、と僕は思いますけどね?」
「火坑、余裕ぅ?」
「いえいえ。僕も多少は嫉妬くらいしますよ?」
「へー?」
「……なんで私見るの?」
「愛されてるなあって」
「んもぉ!!」
それともう一つ。真穂がいるから聞けるかもしれないが、妖。真穂や雪女の花菜は例外だけれど、火坑達にタメ口を使っていいものかと聞けば。
「僕はどちらでも構いませんよ?」
美兎さんのお好きな方で。と言われたら、悩むしか出来なかった。
「じゃさ? 真穂は当日隠れているけど。美兎のお母さん達に聞いたらいいじゃない? 設定は二十八歳にしてるんだからこそ、普通の人間だとなかなか敬語って取れないんだと思うし」
「それ以上に、本当はもっと歳上だもん」
「だからよ。真穂は違うけど……火坑も本当は外して欲しいんじゃなあい?」
「ふふ。ご想像にお任せします」
「ちぇ」
火坑と対等に話が出来る。
あと数日で、それが外せるかと言われても。美兎には難しいとしか思えなかった。ので、その話はそこで終わることにした。
あのように愛らしい女だったとは。
滝夜叉姫と呼ばれている、五月は酷く上機嫌でいた。
怨霊から幽霊まで降格したが、界隈では食事が出来る。必要とはしないが、久しぶりの食事と酒に上機嫌になるのは無理もない。
便りは送ったが、いきなりの来訪にあの猫人は文句も言わずに出迎えてくれた。五月が来訪する理由となった、彼奴の番となる女ーー湖沼美兎は、見た目以上に愛らしかった。
年相応かと思えば、まるで童のように花の笑顔を綻ばせたりと。五月の身の上を明かしても、驚きはしたが引いたりはしていなかった。
だから、今日訪れた理由以上に、あの女を気に入ったのだ。
界隈で飲み明かすのも悪くはないが、今日はまた先約があるのだ。だから、あの楽しい宴から抜けてきた。
「……さてさて、行くかえ?」
界隈をいくつか渡り歩いているうちに、目的の場所に到着する。時期は早いのに、狂い咲きには少しおかしい。梅が満開に咲いていたのだ。
ならば、今耳に聴こえる琵琶の音の主のせいか。
五月は高下駄をカランコロンと鳴らしながら、その主に近づく。
五月が近づけば、相手も曲目を変えて五月の耳に馴染んだ音を奏でてくれた。であれば、五月の予想通りの主に違いない。
「久しいのお? 空木よ?」
会合を約束していた相手は、美兎の祖先でもある覚の空木。
薄緑の長い艶髪は五月にも負けず美しい。顔も同じく。いくらか悔しいが、霊となった己とは違う存在で、しかも大妖怪と言って過言ではないのだ。
だから、彼の番には悪いが今だけはその美しさを愛でたいので、隣にゆるりと腰掛けた。
空木は、何も言わずに琵琶を奏でているだけ。
「……我が子孫のために。御足労ありがとうございます」
そして、五月に頼んだ依頼について礼を告げてくれた。
「ふふ。あちきは多少加護を与えた程度。主が出来ただろうに、あちきが元人間だった理由で頼むとは」
「あの子は……覚悟はしているようですが。いざその時になるとわかりません。だからこそ、妖である私よりもあなたにお願いしたんですよ」
「そうかえ?」
この妖の気配は高まってはいたが、それで妖術が使える人間になれるかと考えれば、五月でも否と答えられる。
だからこそ、同じ人間だったのに妖術が扱える五月が霊力などをいじれば造作もない。
今頃、恋仲の火坑が気づいて教えてあげているだろう。そう思うと、自然と笑みがこぼれる。
空木はまた曲目を変えながら、話を続けてくれた。
「我が妻も、早く会いたいとは言っていたものの。贈りたい品を作るのに手間取っていますからね? その間に、あの子に出来るだけのことはしてあげたいんです」
「ほう? であれば、あちきのもその一つかえ?」
「ふふ。そうですね? あの子と我が妻は外見も中身もそっくりですから」
「巡り巡って、魂の片鱗が輪廻転生したかもしれぬのお?」
「ないとは言い切れませんね?」
「応。あちきも、せめてあの者が火坑と誠の意味で番うまでは。……あの世には行けぬ」
「理解者が多いのは嬉しいです」
「とは言え、あの者の縁の糸は強い。であれば、あちきの糸はその一片でしかありんすよ?」
今は、あの世。所謂地獄で処罰を受けている実父よりは刑罰対象はマシになったものの。美兎の言う通り、犯罪を犯した者であるから地獄行きは決定。
だが、もう少し。
もう少しだけ、現世を謳歌したい。
そのための手助けになるのなら、五月はいくらでも手を貸そうと決めたのだった。
新春は過ぎても、春はまだ遠い。五月も懐から龍笛を取り出して、空木の演奏に合わせるのだった。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
いよいよ、週末本番。
湖沼の実家に、火坑を連れて行く日になった。
当日は火坑に鶴舞線の平針駅にまでやって来てもらうだけ。時間になって迎えに行けば、改札口で彼は待っていた。
香取響也の姿をしていた彼は、手に大きな荷物を抱えている以外は初詣の日とそこまで変わらない。
違うのは、フォーマルなスーツを着ていること。妖術なのか、自分で購入したのかはわからないがとてもよく似合っていた。
「響也さん!」
「美兎さん、おはようございます」
「おはようございます!」
まだまだ冬真っ盛りなので、コートとマフラーは必須だから火坑も着込んでいた。今度のバレンタインには間に合わないがマフラーでも編もうかと、美兎は密かに決意した。バレンタインのチョコはクリスマス同様に頑張るつもりでいる。
と言うよりも、沓木に誘われているのだ。で、せっかくだからと、真穂と花菜も誘う予定でいる。田城については、事情を知られてはいけないのでお休み。
とにかく、美兎の実家に行こうとしていたら、空いてる手を彼に握られたのだ。
「!」
「嫌……ですか?」
「! いいえ! 嬉しいです!」
初デートも、初詣の時もそうだったが。店では客を気遣う彼なのに、美兎がいると積極的になっているのだ。ただの客と料理人の関係じゃなくて、彼氏彼女の関係だから嬉しくないわけがない。
恋人繋ぎにしてから地上に上がると、何故ここに、と思う人物が待っていたのだ。
「おーい、美兎ー!」
「お兄ちゃん!?」
「おや、お兄さんですか?」
どう言うわけか、バスターミナルの真ん中辺りで、兄の海峰斗が待っていたのである。
「なんでこっちまで来てるの!?」
「いや。写真じゃ見たけど、先に知っておきたくて」
「知りたい??」
「僕のことをですか?」
「そーそー。香取さん……ですよね?」
「はい」
いったいここで何を知りたいのだ、この兄は。
まさか、二年前にあの元彼にこっぴどく振られた妹が、再び悪い男に捕まってしまっていないか気遣ってか。
そんなわけないのに、あの説明だけでは内心納得してないかもしれない。
二人が目を合わせると、どちらも動かなかった。
「ふーん? あいつとは違うな? いい目をしてるよ。うん、悪かったです。俺の心配し過ぎでした」
「……そうですか」
火坑の顔色などを伺っただけで、何かわかったらしい。さすがは、接客業でも客の機嫌を伺うことに長けているスタイリストだからか。
とりあえず、関門をひとつ突破したことになるのだろう。
「んじゃ、行きましょうか? 俺よりも、親父の方がやばいですけど」
「お父さん?」
「こんないい人でも、親父はまだ半信半疑だからなあ? 前のあいつのこともあるし」
「……美兎さんを傷つけていた人ですか?」
「そーそ。香取さんと比べるまでもないですよ」
「……そうですか。ところで、お兄さん。無理に敬語はいいですよ? 僕のは癖のようなものですが」
「あ、マジ? 俺の方が年下なのに?」
「ええ、構いません」
兄に先を越された。と思うが、未だに敬語を外すのは美兎自身羞恥心に駆られるので、無理だ。
とりあえず、湖沼の家に向かおうと美兎と火坑は手を繋いだままに。海峰斗は前を歩いた。
「香取さん、その大荷物何?」
「これですか? 僭越ながら、僕の手料理ですが」
「マジ!? 栄で料理人してるって美兎に聞いたけど、何が入ってんの?」
「ふふ。それはお楽しみに」
「えー?」
会ってまだ五分も経っていないのに、この打ち解けっぷり。どっちが兄弟かわからないくらいだった。
湖沼の実家は駅から徒歩十五分程度。戸建てではあるが、借家なのでそこまで大きくはない。
一応、海峰斗や美兎の部屋はそのままにしているが普段は両親二人だけである。ペットはいない。
「入って入ってー?」
「お邪魔します」
「母さーん、香取さん連れてきたー!」
「はーい。居間にお通ししてねー?」
「ほーい」
「ただいまー」
ここからが本番。
母もだが、父にも今の火坑を認められなければ。
もっと先の未来でも、本当の意味で火坑とは結ばれないのだから。
火坑のコートとマフラーを預かって、とりあえず美兎の自室に掛けてきて、廊下で待っていた香取響也と両親が待つ居間に向かう。
さすがに家の中なので手は繋がなかったのでそのまま行くと。
居間のソファで、片側を占領していた父親の姿は。何故か、敵を待ち構えているような雰囲気でいた。
その様子は、たしかに兄が言っていたように。火坑をまだ信じていない感じだ。訂正しようと、火坑を座らせる前に、美兎は父親の前に立った。
「お父さん、なんでそんな怖い顔でいるの!? せっかく響也さんが来てくれたのに!!」
「……そうは言うが、美兎」
「あの人と響也さんを比べないで!? 全然違う人だし、一緒にもしないで!!」
「み、美兎さん?」
「……美兎。そんなにも、その人が好きか?」
「うん。あの人との傷だなんてもう関係ないわ。響也さんだから好きなの!!」
「……そうか」
すると、父親はソファから立ち上がって、火坑の方に向かって腰を折ったのだ。
「?」
「不躾な態度をとって申し訳ない。だが、あなたのことは娘から聞いた情報と写真程度だったから。あなた自身を……少し疑っていた。だが、娘がこれほどまで私に意見をしてきたのは、就職関連以来だったから……納得しました」
「えっと……湖沼さん。頭を上げてください! 僕はそんな大した人間ではないですし」
「はは。そう遠慮がちに言われれば。ますます疑っていたのを恥ずかしく思うよ」
と、反省しつつも照れ臭そうに笑った父親の顔はいつもままだった。
母もキッチンからそのやりとりを聞いていたからか、疑わずに手製のほうじ茶を持ってきたのだ。
「香取さん、いらっしゃい。美兎の写真で見たよりもいい男じゃない? お父さんは心配し過ぎ」
「……そう言う母さんだって。美兎が話題を持ってきた時は疑ってたじゃないか?」
「まあね? けど。わざわざ手料理を持って来てくれたのよ? 出来る人じゃない」
「まあ、そうだが」
「あ、こちらの荷物ですが」
火坑が居間の真ん中に置いた時に、部屋に何か取りに行ってた兄が戻って来た。
「お! 香取さんの手料理?」
「普段は小料理屋を営んでいますが。せっかくのお呼ばれなので、色々作ってみました」
そして、風呂敷包みから出てきた重箱は。テレビとかで見たような、綺麗な漆塗りの。一番上の蓋を開ければ、出て来たのはサーモンピンクが美しい鮭の押し寿司だった。
「うっわ!? すっげ!!」
「蓋には保冷剤まで。……こんな綺麗な押し寿司。会社の会食でも滅多に出ないぞ?」
「あら〜? お寿司取らないで正解ねー? わざわざありがとうございます、香取さん」
「すっごいです!」
「ふふ。表面は鱒寿司と似ていますが。内側には僕手製のいくらの塩麹漬けが隠れているんです」
「手製!?」
「おお!!?」
「お父さん達いくら大好きだものね?」
「はい。美兎さんから伺ったもので、入れてみたんです」
LIMEでやりとりしてた時に聞かれたことを取り入れてくれるとは、さすがは火坑だ。
他の箱には、猪肉の角煮だったり。豆鯵の南蛮漬けだったり、野菜は普通のお浸しかと思えば、と。
食べる前から湖沼家一同を喜ばせてくれたのだった。
「あらあらあら。お母さん、負けちゃいそう。美兎? あなたも自炊とかちゃんとしてるの?」
「……一応」
「ふふ。週に二日くらいは、僕の店に来てくださいますしね?」
「まあ。これだけ美味しそうなお料理に夢中になるのもわかるわ。さ、お酒も今日は解禁!」
「ひゃっほぅ!」
「香取さん……いや、響也君。飲もう!」
「是非」
と言うわけで、半分は火坑の料理に魅了されたことで受け入れてもらえたのだが。
昼に宴を開いたのに夜まで続き。終いには、本来人間ではない火坑が男性二名を酔いつぶしてしまったので。
火坑は介抱。美兎と母親で片付けをすることになったのだ。
良かった。
初めて、恋人を家族に紹介して喜んでもらえて良かった。
それでも、火坑が素敵すぎるのもあるが。
重箱を返すのに、残った料理は冷蔵庫に入れて。今美兎は、母と一緒にたくさんの皿と重箱の洗浄と片付けをしている。
重箱は難しいので母に任せて、美兎は皿やコップや酒器などなど。昔から両親が客を呼ぶのが好きで、こう言う手伝いは日常茶飯事だったのだ。
今日は家族と火坑だけだったが、父もだが兄の海峰斗もかなり飲んでいた。火坑が実は妖怪と呼ばれる類の存在なので、浴びるように飲んでも負けてしまったが。
「いい人を見つけたじゃない?」
重箱の水滴を拭いながら、母が声を掛けてくれた。
「……うん。すっごくいい人だよ」
「あなた、自分の夢に突っ走ってるから男運全然だったのに。合格点過ぎるわ。顔よりも中身ね? 海峰斗よりも年上なのに、ふてぶてしくもないし。やっぱり、自分のお店を持っているからかしら?」
「……そうかも」
実際は人間じゃない、二百年以上も生きている猫の頭と体毛に尻尾を持つ妖でがあるが。その前の生では、地獄で補佐官の一人として務めていた。さらにその前は、天神となった菅原道真の飼い猫だった。
目まぐるしい生き方をしていたせいか、あのように落ち着きが出ているのだと思う。
ただし、美兎のこととなると積極的になる愛らしさがあるが。
猫顔であれ、響也の顔であれ。どちらも美兎にとっては愛すべき存在だ。
そして、祖先である空木の血があったからこそ。あの日、錦で火坑と出会い、こうして恋人となれたのだから。
「お料理もお母さん負けちゃったわ。家庭料理に近いように見せてくれてても、手が込んでたし。冷めてても美味しいのがすごいわ」
「うん。常連さんも多いよ?」
「いいわねえ? 一度くらいお父さんと行ってみたいわ」
「え、うん」
「あら、どうかした?」
言い出すと思っていたが、大丈夫。
火坑と打ち合わせした内容を伝えるまでだ。
「えっとね? お母さん達って、目の前で食材捌くの見るのとか苦手??」
「あら、そうね? 小料理屋さんだったら、そうだわ。お料理美味しくて、ついつい聞きそびれていたわね?」
「うん。で、結構エグくて私もまだ正面から見れないんだけど」
「そうね……。私はちょっと……お父さんは多分ダメね? 映画とかの流血表現が少しダメだから」
「ああ……」
だから、昔アニメでも血が出てるのをPVを観たらビクッとしたわけか。
とりあえず、火坑からは店に連れてくる前にその話題を出してから様子を伺えと言われたので。
「多いのは何を使うの?」
「えっと……スッポン」
「スッポン!? 美味しいの?」
「美味しい美味しい!! 実は最初にご馳走になった、スッポンの肝の雑炊がすっごく美味しかったの!!」
「へ〜〜??」
「あの〜、お話中すみません」
料理の話題に華が咲き始めたら、火坑がこちらに顔を出したのだ。
「あら、響也君。どうしたの?」
母も、父同様に彼が気に入ったので下の名前で呼ぶようになっていたのだ。
「いえ。お父さんと海峰斗さんがかなり堪えてしまっているようなので。今の話題になっていたのに近い雑炊でも作らせてもらえたら……と」
対する火坑も、父や海峰斗に言われてそう呼ぶようになった。
「あらあら。酔いが酷いの?」
「あのままですと。軽くて胃に優しいものを食べた方がいいですから。……良ければ、と思いまして。どうでしょう?」
「是非お願いしたいわ。私も作り方見ていい?」
「はい。家庭でも作りやすい材料でお作りしますね?」
「私も手伝います!」
「ありがとうございます」
「んー。ご飯は冷凍のしかないから……。美兎はまずご飯解凍しちゃって? だいたい1.5合分」
「はーい」
話題もいい感じに逸れたので、今回は美兎にも最初教えてくれた釜揚げしらすの卵雑炊を作ることに。出汁は顆粒出汁じゃなくて、鰹節で贅沢に取る方法で。
味見を母がすると、ほう、と顔が綻んだ。
「すっごく、美味しいわあ」
「お粗末様です」
「これなら、お父さん達も酔いがマシになると思うわ」
さ、持っていきましょうとお盆に載せた雑炊を母が持って行き。
火坑と美兎は笑いながら顔を合わせた。
海峰斗は多分、夢の中にいると思う。
と思うのは、酔い潰れていたのに意識があるから。
一緒に潰れた父親は、片付けをしていた母は妹は。と思っても、暗い闇のような空間には自分だけしかいない。
だが、不思議と怖いと思わない。海峰斗にはどこか懐かしい感じがしたのだ。
(どこで……? 現実、じゃない。もっと前だ)
ただ、いつだったかは思い出せない。それがモヤモヤとしてしまうが、海峰斗は起きるかと思っても景色は変わらず。
どうすればいいのかと思っていたら、子供が笑い出す声が聞こえてきたのだ。
『ふふふ、ふふふ? まさか、あの子供がねー? 美兎のお兄ちゃんだったんだー?』
美兎、妹を知っている。
その事実に、これはただ事じゃないと。夢でもなんでもいいから、海峰斗はその声に呼びかけた。
「美兎を知ってんの? 俺も知ってるようだけど……誰?」
『誰? まあ、人間の場合二十年以上経つと記憶薄れやすいもんね? 真穂もあんま言えないけど』
「ま……ほ?」
聞き覚えがある名前。
それにこの笑い方。
海峰斗は記憶を手繰り寄せてきた。美兎はまだ赤ん坊の頃に、昼寝の夢で、一緒に遊んでくれたおかっぱ頭の女の子のことを。
海峰斗が名を呟いた後に、真穂と言う女の子は海峰斗の前に現れた。
あの頃と変わらず、綺麗なおかっぱ頭で綺麗な大きな瞳が目立つ顔。
服は、今風のワンピースだが。変わっていなかった。
『思い出した? みーほ?』
「……真穂姉ちゃん?」
『そっそー? 今はみほの方が見た目は歳上だけどさ?』
「う……わ。何年ぶり??」
気まぐれで、海峰斗の夢に潜り込んできた女の子。
夢だけのお姉ちゃんだったから、子供の頃母に言っても信じてもらえなかった。もちろん父親にも。
そして、海峰斗が小学校の三年生くらいを境に、真穂は夢に出てくることはなくなり。海峰斗もいつのまにか忘れてしまっていたのだ。
それから、約十五年ぶりだから。すぐに思い出せなかったのも無理はない。
『ふふ。真穂はずっと覚えていたけど。あんたの妹の守護になったの。だから、久しぶりに夢路を通じて会いにきたわけ?』
「守護??」
『昔よしみのみほにだから言うわ。美兎もだけど、あんたもある妖……妖怪の子孫なの。だから、こうやって夢路で真穂とも話が出来るのよ?』
「お……れ、人間じゃない?」
『ほとんど人間よ? ただ、霊力に妖力がちょっと混じっているだけね?』
「…………」
いきなりの再会で、いきなりの爆弾発言。
けど、思い出してみれば、昔も似たようなことを言っていたりする。なら、真穂の正体も。
『今のみほだから、きちんと言うわ。真穂も妖怪。この姿だから、なんとなくわかるでしょうけど。座敷童子って言うの』
「……真穂姉ちゃんが妖怪?」
『そ。で、美兎が気に入ったからあの子の守護についたの』
「気に入っただけで??」
『他にももちろん理由はあるわ。美兎には妖怪が狙うような美味しい霊力があるの。だから、少し分けてもらう条件であの子の守護になったわけ』
「……そうか」
海峰斗にとって、まったく知らない人間、いや妖怪が味方になってくれるのなら心強くないわけがない。
だが、腑に落ちない。
何故、今日美兎がやっと素敵な彼氏を連れてきた日に、真穂が再会しようとしたのか。
首を傾げていれば、真穂はまた、ふふと笑い出した。
『鈍いわね? 美兎の恋人も人間じゃないのよ?』
「え……香取、さんが!?」
『そう。けど、安心して? 二人ともそれぞれ悩んだ上で手を取り合ったもの。真穂は美兎の昔を、あんたと違ってほとんど知らないわ。だけど、今の美兎を見て、みほはどう思う? 正体が人間じゃなくても拒絶する?』
「それ、は……」
香取の正体を隠してでも。海峰斗にもだが、父親にあれだけ怒鳴ったのだなんて就活以来だった。
前の彼氏の時は、意気消沈しまくって素直に頷いていただけなのに。
それを思うと、人間じゃないだけと言うのは理由にはならないのだろう。
『大丈夫、大丈夫。本当に嫌なら連れて来なかったでしょ? みほも今日香取響也を知れたんだし』
「かきょー?」
『あいつの本当の名前。今名乗っているのも偽名じゃないけど、ね?』
「ふーん。あれ?」
肩に届くはずのない、真穂の手がある。それにしては、女性らしく大きくて温かい。
振り返れば、子供の姿はどこにもなくて。美兎と同じくらいの、セミロングが綺麗な女性になっていたのだ。
『ふふ。真穂にもこう言う姿はあるの。今度飲みに行こうよ?』
「お……おお」
湖沼海峰斗、二十六歳。
スタイリストとしてそこそこモテてはいたのだが。自分から惚れたのは、数少なく。
その中で、夢とは言え幼馴染だった妖怪のお姉さんに、どうやらほの字になってしまったのである。