お昼休み。お弁当に手を付けながら、スマホ片手にサンドイッチを頬張る塚田くんをチラ見する。・・・なんて切り出そう。

「塚田ってさあ、彼女いるの?」
「まさかのド直球。」

いけない、驚いて思わず突っ込んでしまった。さっちゃんの言葉に塚田くんは顔を上げて、困ったように笑う。

「いないいない。」
「じゃあ好きな人は?」
「なに急に。どうしたの。」
「いいから。」

俺らこんな話した事無かったじゃん、という塚田くんの言葉に確かにと頷く。4人でいる事も多い私たちだが、恋愛の話なんてしたことがほとんどない。・・・いや、待て。私さっちゃんとも恋バナってしたことないぞ。これはJK失格?

「え、さっちゃんって好きな人いるの?」
「何よ急に。」

なんで私に聞いてんだ、と言う目でさっちゃんが私を見る。ごめん、でも気になっちゃって、えへ。

「確かに。俺も聞きたい。」

ノッてきたのは塚田くん。春原くんも無言のままだが、その目はまっすぐにさっちゃんに向かっている。3人が答えを待ち望んでいる中で、さっちゃんは少し恥ずかしそうに目を伏せて。

「私は別に・・・」
「別に?別にって何?その感じいるよね?ね?私聞いた事ないんだけど、秋山ショック!」
「ちょっとうるさい。」
「ああああ待って、さっちゃんもいつかは誰かの物に・・・?そんな、耐えられない!!」
「私はあんたの何なんだ。」

あわわわと騒いでいればうるさいと春原くんに一蹴される。冷た。今度はそんな私に視線が集まって。

「秋山は?」
「うーん・・・そういうのとは無縁過ぎて何も思い浮かばないや。」
「でも今まで好きなになった人の1人や2人くらいいるでしょ?」
「・・・ハルヒくん?」
「それあんたがハマってたアニメのキャラクターだよね。」
「失礼な!ハマってたじゃなくて今もハマってるの!」

彼は永遠の推しなんだから!そう言えば白い目で見られた。いいじゃんねえ別に。
推しは推せるときに推せ、これが人生の基本である。

・・・好きな人かあ。
正直今まで出来たことがない。というかどこからが、どんな気持ちが好きなのかが分からない。好きの定義が明確に数値化されていればいいのにな、脈拍とかで。
なんて1人で考えていれば、そのまま話題は別に映る。え、ちょっとまってよ。

「春原くんのターンは?」

私の言葉に、さっちゃんと塚田くんが顔を見合わせる。

「だって、ねえ。」
「ねえ。」
「何その意味深な感じ!?」

なんで私だけ仲間外れなの?ずるくない?春原くんの方を見れば彼は既に夢の中へと戻っていて。えっなんでなんで。そう騒いでいればまたうるさいと叱られてデコピンをされた。解せぬ。




「あ、舞せんぱーい!」
「あー、結依ちゃん。久しぶりね。」

放課後、廊下を歩いている舞先輩を捕まえる。予想通りと言うべきか塚田くんからはなにも有力な情報が得られなくて、次は舞先輩と直接話してみることにしたのだ。

生徒会室に運ぶという荷物を半分持ちながら、2人で廊下を歩く。隣を歩いてるだけでやっぱり舞先輩はすごくいい匂いがする。大人の匂い。口に出したら引かれるのは明白なので心の中に留めておくことにする。

「・・・もうすぐ卒業ですね。」
「ねえ。寂しくなっちゃうわよねえ。」

私の言葉に、はあ、と舞先輩がため息をつく。その表情は寂しそうで、確かにそこには寂しい以上の何かがある気がした。
しかし、物憂げな表情のまま歩く舞先輩は、途中で表情を一転させる。

「そうだ!結依ちゃん!」
「っ・・・ええ?」

突然私の方に向き直った舞先輩の目はキラキラと輝いていて、口元には笑みが浮かんでいた。そしてそのまま少し上を向いて、今度はうーんと考えこむ。え、なにこれ。

「えっと・・・舞先輩?」
「・・・ごめん。ちょっと今は何でもないや。」

今はってなんだ。聞こうとすればもう生徒会室はすぐ目の前で、舞先輩が扉に手をかける。ああもうタイミング!助かったわありがとう、そう笑顔で先輩が手を振るから、私も手を振り返す。
・・・なんだったんだ今の。
「それは不思議だね。」

後日、舞先輩の様子をさっちゃんと春原くんに報告してみる。2人ともうーん、と考えこむが、答えなんて出るはずもなく。
とりあえずまずは現場に行ってみよう、現場調査が一番だ。なんて結論に陥った私たちはとりあえず教室を出ることにした。さっちゃんはこれから部活のため、春原くんと2人で生徒会室の窓から見える通路に向かう。

そこは保健室と中庭を結ぶ細い路地で、当然特に変わった様子もなかった。
証拠なしか、とため息をつけば、春原くんが小声で私の名前を呼ぶ。手招きされた場所によれば、そこにいたのは茶色のふさふさで。

「わっ・・・!かわいい~~」

植木の隙間に、小さな猫が一匹。
体格と同じく小さな声でニャーと鳴いて、人慣れしているのか私たちの所にすり寄ってくる。どうしよう、めちゃくちゃ可愛い。

「あ、エサが置いてあるね。」
「ね。誰かがあげてるのかな。」
「毛並みもふさふさだあ。」

だからこんなに人慣れしてるのね。私が手を出しても嫌がるどころかゴロゴロと気持ちよさそうに声を出して。野良猫とは思えないほど毛もフサフサで。
あああ持ち帰りたい。お母さんが猫アレルギーじゃなかったらな、なんて少し恨めしい気持ちになってしまった。

その後しばらく2人で猫を愛でて、生徒会室にも寄ってみようかと立ち上がった。バイバイ、と猫ちゃんに手を振って教室の中へと戻る。
・・・なんか。

「春原くんって猫っぽいよね。」
「・・・秋山は完全に犬だよね。」

お互いによく言われる、と納得してしまった。




生徒会室に入ろうとドアに手をかける。けれどそのドアが開く前に、中から何か言い争っているような声が聞こえてきて、思わず手を引っ込めてしまう。
春原くんと目を見合わせる。その声は徐々に鮮明に聞こえてきて。

「だから、もう少し考えた方が・・・」
「考えたわ。考えた上で決めたの。」
「そんなこと言ったって。なんで今更。」
「別に須藤くんにどうこう言われる筋合いはないじゃない。」

ピリついた舞先輩の声。
そのまま足音がドアの方に近づいてきて、勢いよくドアが開く。あ、と一瞬気まずそうな顔をした舞先輩は弱弱しく微笑んで。

「ごめんなさい。見苦しい所見せちゃったわね。」
「いや・・・こっちこそ・・・」
「ごめんね、ちょっと今日は私帰るね。また明日。」

そう言って舞先輩は教室を出て行く。会長はその後姿を困り果てた顔で見つめていて、私達もどうしたらいいか分からなかった。




「進学先を変えるって。」

眉を下げたまま会長が静かに話し始める。どうやら、舞先輩が以前から推薦で決まっていた女子校から、別の千葉の大学へ進路を変えたそうなのだ。

「理由は教えてくれないんだ。最近さらに元気がない気もするし・・・」

はあ、と会長がため息をつく。いつも恐ろしいほど良い姿勢は今日は猫背気味で、よく見れば制服にも少しシワがついている気がする。メガネも心なしか丸くなったような・・・あ、ごめん、これは盛った。
すまない、こんな事に巻き込んで。と会長が弱音を吐くからあわててかぶりを振った。私達も頑張ります!そう言ったはいいものの、何を頑張ればいいんだろう。



「ねえ、どうすればいいと思う?」
「・・・」
「私に何ができるんだろう。たくさんお世話になったかは、私も助けになりたいのに。」
「・・・」
「もう、ほんとに役立たずだなあ自分。」

返答は返ってこない。当然だ、相手は猫である。
気持ちよさそうに撫でられている番長(おしりの部分にワンポイントで白い模様があって独特でオシャレだったから)はニャーと甘えた声を出す。ああ可愛い、吸いたい。

結局あの日から何も前進せず、卒業式が刻々と近づいていた。会長と舞先輩も気まずい雰囲気のままのようで。

はあ、とため息をつきながら持ってきた猫用のおやつを番長に少し食べさせてみる。すぐに食いついて夢中でペロペロと食べる姿が可愛くて、ああ、癒される。こんなところ先生に見つかったら・・・なんて考えてしまったのと同時に、後ろでガサッと足音がした。

慌てて番長を背中に隠して振り向く。敷地内で猫を飼ってるなんてバレたらきっとこの子は追い出されてしまう。

冷や汗と共に振り向けば、そこに立っていた人も驚いたように私を見つめていて。

「結衣ちゃん?」
「舞先輩?」

そこにいたのは舞先輩だった。どうして、と彼女が呟いて、その手に握られているのがキャットフードだということに気づく。

もしかして先輩が、そう口に出したのと舞先輩が頭を下げのは同時だった。

「お願い!この子の面倒を見てくれませんか!」
「・・・へ?」
「あ!面倒って言ってもずっとじゃなくて。私が引き取り手を見つけてくる間!出来るだけ早く見つけてくるから、それまで、どうか・・・!」
「ちょっちょ、分かりましたから・・・!」

突然のお願いに何が何だか。めずらしく慌てているまい先輩の勢いに押されつつ、この日で舞先輩の恋煩い疑惑は幕を閉じるのだった。




「わたし、ずっと獣医になりたかったの。」

舞先輩が持ってきた餌を夢中で食べる番長を撫でながら、先輩はそう話し出した。

「でも親が医者で、小さい頃からその道が自然と敷かれていて。獣医なんて、ってずっと言われ続けてきたの。」

だから舞先輩はその夢を押し殺して、親が望む通りの職業につくために大学を決めた。・・・でも。

「どうしても、諦めきれなくて。」

親にこっそり、獣医を目指せる大学も受験していた。そこに、進学することに決めたんだ。偏差値は下がるけど、と舞先輩は笑う。親ともバトル中で、中々手強いらしい。最近ため息が多かったのもそれが原因の1つで。

「なんで会長には理由を教えてあげないんですか?」
「・・・私たち幼なじみだから、お互い家族ぐるみで交流があるの。多分理由を言ったら、あの人はきっと一緒に説得するって言って聞かないから。」

そう言って舞先輩が笑う。私もお節介な会長が想像できて、思わず笑みがこぼれた。

「本音を言えは頼りたいけど、でもここは頼っちゃダメだ。私がたたかわなきゃって分かってるから。」
「舞先輩・・・」
「まあ、なけなしのプライドってやつね。」

そう言って笑った舞先輩の横顔は、惚れ惚れするほど美しかった。そんな彼女のひざに番長が乗っかって、丸まって眠り出す。

「この子、出会った時に怪我してて。」

この植木でうずくまっているところを見かけて、簡単な手当をしたらしい。そのままここ植木に住み着いていたから、餌だったり、舞先輩がこっそり面倒を見ていたようで。なるほど。だからちょくちょく生徒会室から下を覗いていたんだ。

「やっぱり私動物が好きだなって思ったの。今回決心できたのも、この子のお陰かな。」

けれど、舞先輩はもうすぐ卒業してしまう。まだ引き取り手が見つかっていない以上、ここに置いていくしかなくて。それで途方に暮れていたのが、大きな2つ目のため息の理由だった。

「先生に見つかったらきっと追い出されちゃうし、だから、世話を頼める人を探していたの。」

私に向き合って、改めて頭を下げる。

「なるべく早く引き取り手を見つけるようにするから、だからそれまで、面倒見てくれないかな。」
「もちろんですよ。」

間髪入れずに返事をした私に驚いたように顔を上げて、そして、聖母スマイルを見せてくれた。

ああ、でもなんだ。

「全部会長の勘違いだったんだ・・・。」
「ん?何が?」

不思議そうな顔をする舞先輩に、事の顛末を話した。
何それ、と舞先輩は笑って。

「塚田くんねえ、顔はいいけどでも誰にでも優しそうだから苦労しそうね。」
「大同意です。」

ぺろっと舌を出しておどけたように笑う。そっか、呟いて、舞先輩はなんだか照れ臭そうに笑った。

「助けになってやりたい、か。・・・本当に優しさだけは世界一ね。」
「だけはってやめてあげてください。」
「ふふ。あとは、何か言ってた?」

ええっと、とあの日の会長の言葉を思い出す。最近元気がない、ため息が多い、ああ特に生徒会室にいる時に特に寂しそう、とか。
その言葉を聞いて、今度は呆れたように笑って。

「あの人は・・・。」
「?」
「自分と離れるのが寂しい、って考えはないのかしらね。」

そりゃ十数年ずっと一緒にいたんだもの、と舞先輩が言葉を続ける。その言葉に何とも言えない気持ちになって気づけば彼女の肩をさすっていた。

少し一緒に番長を愛でた後、先輩は勢いよく立ち上がってスカートについたほこりを払う。

「よし。私そろそろ戻るね。まだやらなきゃいけないことあって。」
「分かりました。私はもうすぐこの子を吸ってから帰ります。」
「麻薬か。・・・心配かけてごめんね、須藤くんには、ちゃんと自分から話すから。」
「分かりました。」

先輩の背中を見送っている最中、舞先輩がくるりと振り返る。

「私!結依ちゃんと出会えて!よかったーー!」

少し遠くから、舞先輩がそう叫ぶ。そして私の返事を聞かないまま踵を返して歩き出した。その姿がいつもとは違ってまるで幼い少女のようで、しばらくの間見つめ続けてしまった。
「そうか・・・。」

翌日。事の顛末を、会長にかいつまんで話す。舞先輩が自分で話すと言っていた大学の事、あと番長の事も会長には内緒だ。2人だけの秘密だと、約束したのだ。
そこを秘密にしたら会長に話せることは大分少なかったのだが、でも彼は舞先輩が悩みはあるものの元気だという事に安心したようにため息をついて。

「色々すまなかったな、ありがとう。」
「いえいえ。そんなことないです。」

あの、と続けて声を上げれば、会長が眉を上げて答える。

「余計なお世話だと思うんですけど、でも。舞先輩と、しっかり話してみて下さいね。」
「・・・分かった。」

こんな事他人に言われたくないと思うけど、そういえば会長は笑って大きく首を振る。

「秋山くんは、人だけど、他人ではない。大事な友人だ。」
「・・・!」
「そんな友人のアドバイスが、迷惑な訳ないだろう。」

当たり前の事のようにそう言うから、なんだか少し泣きそうになってしまった。
・・・卒業って寂しいな。寂しいよなあ。




私服校の卒業式は袴で出る人も多いみたいだけど、この高校は制服校だから、式に派手さはあまりなかった。けれど卒業生用のコサージュをつけて色紙や花束を貰えば、徐々に視界は鮮やかになって。

「・・・お疲れ。」
「お疲れ様。答辞、立派だったわよ。」

ならよかった、と須藤君は安心したように息を吐きだした。
卒業式であっても、卒業式だからこそ?役員の役割は少なくない。この後も教室に戻ってやらなければいけない事があるけれど、しばしの休憩だ。

校門の前には保護者、部活動の後輩、多くの人が集まっていて。色紙を渡したり写真を撮ったり、笑顔と涙が溢れている。
その端っにある自転車置き場の段差に2人で腰かける。

「・・・大学の事、黙っていてごめんなさい。」

しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
親との戦いにも決着がついて、なんとか千葉の大学への進学を認めてもらうことが出来た。その日のうちに、須藤くんに大学の事は全て伝えていて。

「心配してくれてるの分かってた。でもこれは、私一人で決着をつけなきゃって思ってたの。酷い事も言ったりして、ごめんなさい。」
「謝る事じゃないだろう。戦いきった舞は立派だ。」

まるで武士のような彼の言い方に思わず笑ってしまう。
彼もつられて笑って、ああ、と声を出した。

「あの猫の事だが。」
「・・・結依ちゃんから聞いたの?」
「え?なんで秋山くんが出てくるんだ?」

猫の事は、結依ちゃんと2人の秘密にすると決めていた。だから須藤くんがその話題を出したことに驚いて、彼女の口が滑ったのかななんて思ったけどどうやらそうではないらしい。

「ずっと面倒見ていただろう。あの植木の所で。」
「・・・気づいてたの?」
「気づかれていないと思ってたのか?」

須藤くんは呆れたように息を吐く。あのなあ、と言葉を続けて。

「何年一緒にいると思ってるんだ。全く。」

何でもない事の用にそう言ってのけた彼。
ああ本当に、この人は。

「実はな、親戚に猫を飼いたいって言っている人がいて。」
「本当に!?」
「ああ。舞が良ければその人にお願いしようと思っているんだが・・・やっぱり不安だよな、一度信頼に足る人か会ってみるか?」
「何言ってるのよ。」

今度は私が呆れる番だった。
はあ、とため息をついて彼の顔を真っすぐに見つめる。

「須藤くんが紹介してくれる人だもん。悪い人な訳ないじゃない。」

私の言葉に須藤くんが少し照れたように笑う。から、私も少し恥ずかしくなってしまう。そっか。バレてたのか。でも猫の存在には気づきつつ、恋煩いを疑ってしまうのがまた須藤くんらしいな、なんて思った。

「さあ。片付けに戻ろうか。」
「そうね。」

石段から立ち上がって、1つ大きく伸びをした。先に歩き出した彼は私の方を振り返って、舞、と名前を呼ぶ。

「卒業、おめでとう。」
「・・・須藤くんも、おめでとう。」

お互いに言い合った小さなありがとうの声は、雲一つない青空に吸い込まれていった。



真っ青だった青空に夕焼けが差して、人の量も減ってきた校舎の入り口。そこから少し外れれば使われていない下駄箱があって、そこによりかかったまま空を見上げる。

「・・・卒業、おめでとうございます。」

後ろから聞こえてきた声に振り向けば、そこには早紀さんが立っていた。呼び出したのは自分だ、だから驚く事はなくて。
彼女はお花を手渡してくれて、感謝の言葉と共に受け取る。それと入れ違いに俺も彼女に小包みを差し出した。

「これ、受け取ってくれないか。」
「え、でも・・・」
「感謝の気持ちだ。大したものではないんだが。」

躊躇いながらも小包みを受け取った彼女がゆっくりと包みを開く。その中身は彼女が好きなキャラクターのキーホルダーで。初めて拾ったシャーペンにも、このキャラクターが印字されていた。

「わあ!私この子!大好きなんです!」

うん、よく知っている。というのは少し気持ち悪いなと自覚して口に出さなかった。
早紀さんが嬉しそうにキーホルダーを胸に抱える。その姿に何とも言えない気持ちになって。気づけば彼女の名前を呼んでいた。

「最後に少し、お願いを聞いてくれないか。」

無言のまま彼女が頷く。
拳に力がこもる。ごくりとつばを飲み込んで。勇気を出して。頑張れ自分。

「れっ、れれ!」
「・・・れ?」
「れ・・・連絡先を教えてくれないだろうか・・・!」
「へ・・・?」
「あっ、嫌だったら全然っ、連絡は緊急時にしかしないようにするしっ、そのっ・・・もしも、もしも良ければの話であって・・・!」

虚を突かれたような彼女の声に慌てて言葉が滑り出す。
何も聞こえてこない空間に不安が募ってゆっくりと顔を上げれば、
彼女はなんだか脱力したように笑っていた。

「なんだあ・・・いいですよ、もちろん。」
「本当か!?」
「当たり前じゃないですか。」

ていうかお互い知らなかったんですね、と言いながら早紀さんが近づいてきて、何てことないように連絡先を追加してくれる。

「この後もまだなんかお仕事あるんですか?」
「いや。もう終わりだ。ただ最後に花巻先生のところにだけ行かなきゃいけなくて。」
「そうなんですね。あの人さすがに今日はスーツ着てましたね。」
「たまにしか見ないから違和感しかないがな。」

早紀さんがふふっと笑う。花巻先生はスーツ嫌いで有名で、普段はなかなかスーツ姿をお目にかかれない。・・・まあ今日も式が終わった瞬間すぐにネクタイを緩めていたんだが。

そのまま少し談笑していれば、落ちていく夕日が一番眩しい角度に差し掛かる。
眩しい光に目がくらんで、もう少しすれば暗くなってしまうんだなあと当たり前の事になんだか寂しくなった。

「・・・じゃあこれで、私は先生の所に行ってくる。」
「分かりました。」

少し名残惜しさを感じつつも、暗くなる前に彼女を帰してあげなければと自分のカバンを抱え直す。
早紀さんはペコリと頭を下げて、キーホルダーを再び大事そうに抱えた。

「これ、大切にします。本当にありがとうございました。
・・・お元気で。」

そう言う早紀さんに俺も手を挙げて答える。歩き出す前に、彼女は少しだけ固まって何かを言いかけた。その何とも言えない表情に眉を上げれば、彼女は結局何も言わずに、手を振って踵を返す。
そのまま遠くなっていく彼女の背中を見つめる。ふつふつと気持ちが沸き上がってきて。

本当に、これでいいのだろうか。
俺は伝えたい事を全て伝えられたのだろうか。
これで。これで本当に。

後悔しないだろうか。

「早紀さん!!!!」

気付けば、彼女の名前を大声で呼んでいた。

小さくなっていた背中が振り返って、驚いように俺を見つめる。

「っ!さっきは嘘をついてしまった!緊急時だけと言ってしまったが、一日一通、それが嫌だったら一週間!一か月!いや半年!・・・に一度でもいいから、メッセージを送ってもいいだろうか。」

言葉がボロボロとこぼれだしてくる。いつもは何度も頭の中で反芻しなければ上手く話せないのに、今は自然と言葉が出た。

「東京には桜の名所が沢山あるから、写真を送ってもいいだろうか。綺麗なものを見たらきっと早紀さんにも見て欲しくなってしまうと思うんだ。」

距離があって、彼女がどんな表情をしているかはあまりよく見えない。でもいいんだ。後悔したくない、伝えきりたい。あの時こうしてればなんて言葉は絶対に使いたくない。

「あとは、たまにほんのたまに、電話をかけてもいいだろうか。嬉しい時楽しい時だけじゃなくて、きっと苦しい時、どうしようもない時にも、君の声が聞きたくなると思うんだ。」

あとは、あとは、もう全部言ってしまえ。

「少し落ち着いたら東京に遊びに来てくれ。ちゃんと案内が出来るように勉強しておく。だから、だから・・・」
「会長。」

いつの間にか戻ってきてくれた早紀さんが、僕の目の前に立つ。少し下から僕を見つめる彼女は、微笑んでいて。

「全部、いいですよ。」
「へ?」
「だから、メッセージも、写真も、電話も、いいに決まってるじゃないですか。」

いつも自信満々な彼女が少しだけ、今は照れたように笑う。

「東京にも遊びに行かせてください。私も大会が終わってからとかになっちゃうかもしれないけど、でも、必ず行かせてください。」

はい、と早紀さんが小指を出す。反応できずに戸惑っていれば、彼女はもう、と俺の小指に小指を絡ませて。

「約束ですからね。」

なんて言って笑った彼女は、いつものように自信満々な姿に戻っていて。
大きく頷いて、もう少しだけ2人で夕日を見つめていた。そこに会話は無かったけど、でも、それもなんだか心地よくて。

夕日に照らされる彼女の横顔は、やっぱり美しかった。この世界のどんなものよりも、美しいと思った。
「はい~みんな席について~」

花ちゃんのダルそうな号令でみんなが席に戻っていく。
まだ少し肌寒い風が吹く春の朝。満開だったはずの桜は既にもう散り始めていて。

始業式後のホームルームが始まる。気づけば私達ももう3年生になっていて、1階の教室を手に入れていた。ちなみに1年生が3階、2年生が2階、3年生が1階と、学年が上がる度階段を上らなくてよくなるのだ。

「いいよな~お前ら。俺なんか科学準備室が3階だから結局行き来しなきゃだしむしろ大変になったよ。どうしてくれんだよ。」

知るか、と心の中でツッコむ。実際誰かも声に出してツッコんでいた。

「誰か金持ちになってこの高校にエスカレーター付けてくれよな。」
「え、それまで居座るつもりですか。」
「居座るとかいうな。」

クラス委員の子が大真面目な顔でそんな事を言うから、クラス中に笑いが起きる。新学期という事で皆のテンションも心なしか高いが、理由はそれだけではなさそうだ。

「はい。前にもいったとおり、転校生がきています。」

その言葉に教室のあちこちでザワザワと声が上がる。そう、どうやらこのクラスに今日から転校生が来るらしい。厳密には授業は明日からなのだが、既に始業式から参加しているようで。

「まあ詳しい事は本人の口から聞こうな。てことで入ってきて~。」

相変わらずの適当さ。花ちゃんの声に促されて教室のドアが開く。入ってきたのは男の子で、ざわめきが一層大きくなった。・・・特に、女子の声。

「・・・うわあ、美形。」

思わず私も呟いてしまって、それが聞こえたのか春原くんも頷いた。
そこにいたのはまさに王子様のような男の子。真っ白な肌に綺麗な金髪、少し青味がかった瞳。細身の彼は、黒板に自分の名前を書く。こりゃまた字も端麗。

「由井雪緒です。アメリカから来ました。母がアメリカ人で父が日本人のハーフです。よろしくお願いいたします。」

流ちょうな日本語で自己紹介をした後、彼は控えめに微笑んだ。瞬間にあちこちで女の子の黄色い悲鳴が聞こえて、男子が低く呻くのが分かった。そうなるよね、ドンマイ。

「日本の学校に通うのは小学校ぶりで色々分かんない事もあると思うから、皆サポートしてやってな。えっと、席は・・・」

花ちゃんが視線を彷徨わせて、あああそこで、と指をさす。
その席は春原くんの正面、つまり私の斜め前。視線を集めながらスタスタと歩いてきた彼は、隣の女の子に微笑みかける。

「よろしくね。」
「っ・・・こちらこそ・・・!」

隣の席の田淵さん。小さく後ろを振り返って私にガッツポーズをする。素直でよろしい。雪緒くんは後ろも振り返って、私と春原くんを順番に見つめる。

「これからよろしくね。」
「こちらこそ。よろしくね。」
「・・・よろしく。」

パンパン、と花ちゃんが手を叩いて皆の視線を集める。

「はい女子~、イケメンだからって明日から気合入れ過ぎないようにな。生徒指導の先生に怒られるの担任だからな。はい男子~、そんなに僻まない僻まない。お前らにはお前らのいい所があるから自信もって」

じゃあ今日はこれでもう下校です、さようなら~。なんて気の抜けた声と共に午前中だけの新学期1日目は終了した。明日から授業か、寝坊に気を付けようっと。



凄まじい。その一言に尽きる。

さっちゃんが少し呆れ顔をしながらストローをくわえる。その視線の先には雪緒くんがいて、周りには女の子ばかり。よく見れば違うクラスの子も混じっている。

「こうも人が集まると落ち着かないわ。」
「そうだねえ。」

新学期と共に始まった転校生雪緒くんフィーバーは収まる気配はなく、なんだかデジャヴ。
ため息をつくさっちゃんのスマホには、あれ、珍しい。

「どうしたの?それ。」

スマホからぶら下がるのは少し大きめのキーホルダーで、さっちゃんがこういうのを身につけるのは珍しい。さっちゃんお気に入りの頭から手と足が生えている緑色のキャラクター。私をよく馬鹿にするくせに彼女のセンスも大概独特だと思う。

私の言葉になにやら少し恥ずかしそうに笑ったさっちゃんは、まあね、と言葉を濁して。誰かからもらったのかな、なんて何となく事情を察知してあのカクカクのメガネを思い出した。

「雪緒くん、もう校内は大体覚えた?」
「うーん。まだちょっと微妙かな。」
「そうなんだ。じゃあ私達が案内してあげるよ~。」
「本当に?嬉しい。」

自然と耳に入ってくる雪緒くん達の会話。
・・・少しだけ目を伏せたまま、まじまじと彼を観察してしまう。

顔がいいだけじゃなく、彼は恐ろしいくらいにハイスペックだった。いつもにこやかで人当たりも良く、運動も出来る。古典は少し苦手みたいだがそれ以外の教科は人並み以上だし、英語に関してはペラペラ、昔から日本の文化が好きでなんと書道を習っていたらしい。だから字も達筆。なんという事でしょう。

もはや別世界の人過ぎて、中々ちゃんと話す機会なんてないんだろうな。そう最初は思っていて、しかしその予想だけはまるっきり当たらなかったのだ。

女の子たちと話していた雪緒くんがキョロキョロと辺りを見回して、そして、パチリと目が合う。彼は一層笑顔を深めてこちらに近づいてくる。

「秋山さん、今日校内の案内お願いしてもいいかな。」
「え、でもそれさっき・・・」
「そうだよ雪緒くん。私達が案内するって~」

私の言葉に女の子たちも援護射撃。そうだそうだ、もっとやれ。
雪緒くんは少し困ったように笑って。

「でも皆部活があるでしょ?迷惑かけられないよ。」
「そんなの大丈夫だって。」
「大丈夫じゃないよ。加奈ちゃんがいなかったら絶対皆困るよ。」
「・・・ええ、そうかな~。」

まんざらでもない様子で加奈と呼ばれた女の子が指をつつく。ちなみに明らかに別のクラスの子だ。初めまして。
クルリと私の方に向き直った雪緒くんは、首をかしげて私を覗き込む。華麗な上目遣い、満点。

「お願いしてもいいかな?」
「えーっと・・・。」
「もしかして、迷惑?」
「迷惑とかじゃないけど・・・。」

チラリと女の子たちの方を盗み見れば、彼女たちは少し不満そうな顔をしながらも、それ以上何かを言うつもりはないようだ。少し考えて、頷く。

「やった、ありがとう。」

そう言って雪緒くんは微笑む。その姿にまた黄色い悲鳴が聞こえて。

「あんた、何か雪緒に気に入られてるよねえ。」
「・・・。」

私の斜め前の席になった雪緒くんは、転校初日から何かと後ろを向いて話しかけてくるようになった。秋山さん、秋山さん、と名前を呼ばれて、何か困ったことがあるとすぐ私に声をかけてくる。そのたびに女の子たちの視線が痛い・・・わけでも無くて。

「それはそれでなんか傷つくんだよね。」
「・・・まあでも、結依だからねえ。」
「あーー出たそれ。」

まあ結依だから、秋山さんだから、そんな感じの目で彼女たちは私を見て、むしろ穏やかに笑っていたりもする。敵にすらならないと認定されているのだろう、その通りなんだけどさ、でもさ、それはそれでさ、かろうじてある女心が痛むのよ。

「でもまあ、気を付けなよ。」
「何かあったらさっちゃんが守ってくれるでしょ?」
「なにその全面的信頼。重いわ。」

ふざけて笑うさっちゃんが、少しだけ真面目な顔をする。

「・・・雪緒みたいなタイプって、裏があってナンボって感じよね。」
「それ、絶対偏見。」
「どうだかね。私の勘は当たるのよ。あー、可愛い可愛い結依ちゃんがまた事件に巻き込まれちゃう~」
「絶対面白がってるでしょ。」
「まあね。」
「少しは誤魔化そうとしろっ」

ごめんって、と一ミリも悪いと思って無さそうなトーンで謝ったさっちゃんは、授業開始のチャイムと共に席に戻っていった。

結局放課後も雪緒くんと校内を回って、でも案内なんて必要ないくらい彼は大体の位置を把握していた。記憶力もいいんだろう。
・・・ああ、とんでもなく音痴とか足の匂いがキツイとか、何か欠点あったりしないかなあ。なんて失礼なことを考えてしまっていたのは皆さんと私だけの秘密です。
「秋山さん、これどういう事?」
「これはね、変格活用だから・・・。」

古典の授業中、次週の時間に振り向いてそう問う雪緒くんに解説をしてあげれば、なるほど!と目を輝かせる。

「秋山さん教えるの本当にうまいね。」
「そんなことないよ。雪緒くんの理解力が凄いんだと思う。」
「ううん。尊敬しちゃうなあ。」

そう言ってニコリと笑う。・・・眩しい、眩しくて目が潰れそう。

雪緒くんの隣の田淵さんが私に向かって親指を立てる。田淵さんは彼の横顔が好きなだけ眺められるからという理由で、もっと話せと指令を出してきたりする。なんだそれ。

クルッと前に向き直る前に、雪緒くんの視線が一瞬春原くんに移る。その瞬間、あ、まただ、と思った。

ベージュの髪は今日もゆらゆらと揺れていて、相変わらずだなあと小さく笑ってしまう。少し時間たって、また雪緒くんが私に問題を問う。私の解説を聞きて頷きながら、その視線がまた春原くんに移ってすぐに戻る。前に向き直る瞬間も、ああまただ。

「秋山さん、よかったら今日の放課後勉強教えてくれないけど?」
「え・・・」
「ほら、来週古典の小テストがあるでしょ。どうしてもわからない所がいくつかあって。」
「別にいいけど・・・。」

やった、と彼は小さく声を上げて、その視線がまた動いた。
・・・やっぱり。私に頼みごとをしながら、その視線はチラチラと隣の席に移る。ありがとう、という声も心なしかボリュームが上がって気がして、まるで春原くんの気を惹こうとしてるかのよう。

「・・・雪緒くん、って。」
「ん?」
「・・・ごめん、何でもない。」

不思議そうな顔のままの雪緒くんに、何でもないともう一度繰り返す。彼の言動や行動になんとも言えない違和感を感じるようになったのは少し前からで、でもその違和感がまだ何なのか分からなかった。




「秋山、これ。」

春原くんが何やらごそごそと鞄を漁って、取り出した本を私に手渡してくれる。受け取ってタイトルを見れば、私が好きな作家さんの最新作で。

「え!もう読んだの!?」
「うん。面白かったから、貸してあげる。」

教科書をカバンにしまいながら、秋山もその人好きでしょ。なんてサラッと言ってくれる。買おうかどうか迷ってた本。非常に嬉しい。

放課後の教室はもう人がまばらで、私もカバンに荷物を詰めて帰宅準備をする。
先に帰宅準備を終えた春原くんが何となく私を待ってくれてるのが分かって、さっさと詰め込んで彼の後を追った。

「あ、秋山さん!」

と、教室を出る直前。入れ替わりで入ってきたのは雪緒くん。
一緒にいる私と春原くんを交互に見て、彼は私の名前だけを呼ぶ。

「今さ、ちょっとだけ時間いいかな?」
「あ、でも今から帰るところで・・・。」
「ごめん少しだけでいいから。すごく困ってるんだ。」

そう言って雪緒くんは両手を合わせる。返答に困りながらも春原くんの方を見れば、彼は秋山がいいならいいんじゃない、といつもと変わらない様子で言う。

「・・・分かった。どうしたの?」
「ありがとう!助かる!ちょっと一緒に生徒会室に行ってほしくて・・・」
「生徒会室?」
「そう。生徒手帳を取りに行かなきゃいけないんだけど、僕まだ場所があやふやで・・・。」

雪緒くんの話を聞いているうちに、春原くんは静かに教室を出て行ってしまっていた。気づいた時には彼の背中は既に小さくなりすぎていて、バイバイも言えなかった。

「秋山さん?聞いてる?」
「・・・ごめん、ちょっとぼーっとしてた。でも雪緒くん、もう教室の場所大体把握してるんじゃない?」
「そんなことないよ。まだ上の階があやふやで。」

そう言ったわりに、やっぱり雪緒くんはスムーズに廊下を進んでいく。彼の行動の意図が分からなくて、また何とも言えないもやもやが胸の中に広がる。なんなんだろう、これ。

生徒会室で無事に生徒手帳を受け取った後、
廊下の途中で急に雪緒くんが立ち止まる。

「・・・雪緒くん?」

どうしたんだろうと彼の名前を呼べば、彼はゆっくりと振り返った。その顔にはいつもの微笑みがあった。体温を感じない、王子様スマイル。

「秋山さんてさ、春原くんと仲いいよね。」
「・・・うん、友達だし。」
「・・・友達、ね。」

私の言葉を繰り返して、雪緒くんは目の前にあった廊下の壁に少しだけ寄りかかる。惚れ惚れしてしまうほど綺麗な横顔で窓の外を眺める彼を見ていると、なんだか胸の奥がむずむずする。

少しの沈黙の後、雪緒くんがゆっくりと口を開く。

「本当に、ただの友達?」

うんともいいえとも答える前に、雪緒くんはいつものようにニッコリと笑った。

「彼とはあんまりお似合いじゃないんじゃないかな?」
「えーっ・・・と」
「僕と居た方が絶対楽しいと思うし。秋山さんもそう思わない?」
「はあ、」

ペラペラと雪緒くんの口から言葉滑り落ちる。私の方を見ないまま一気にまくしたてる彼に、私の返事は追いつかなくて。

煮え切らない私の返事に雪緒くんが、ていうか、と少し声を荒げた。

「僕の方が、絶対に彼を幸せに出来ると思うよ。」

その言葉には熱がこもっていて、いつもは見えなかった彼の内側が見えた気がした。それと同時に今の言葉が反芻する。僕の方が、彼を、幸せにできる。
感じていた何とも言えない違和感が、じわじわと消化されていくのが分かった。

はっと我に返った雪緒くんは、いつもの王子様スマイルを浮かべ直す。その顔をまじまじと見てしまえば、彼は少し戸惑ったように目を泳がせて。

「あ、ごめん、変なこと言ったちゃったね。」
「・・・。」
「ごめんね本当に、気にしないで。教室戻ろっか。」

そう言って私から目を背けて歩き出す。
女の子に向ける、温度の感じない王子様スマイル。授業中に後ろを振り向くと必ず泳ぐ視線。私と話しているようで、彼の意識はいつだって私の隣へと向かっていた。

スタスタと歩く雪緒くんの手を後ろから引って振り向かせる。突然の事に彼は驚いた顔で私を見て、そのまま彼の両腕を掴んだ。彼がさらに両目をぱちくりさせる。

「・・・雪緒くん。」
「・・・えっ、と?」
「もしかして。」

「雪緒くんって、春原くんの事が、好き?」

私の言葉に彼がひゃあっと悲鳴を上げる。女の子のような悲鳴。そのまま彼は頬に両手を添える。えっ、と驚いてしまった私に、さらに衝撃が重なる。

「なっ・・・何言ってるのっ!そ、そんなわけ・・・」
「ゆ、雪緒くん?」
「アタシが春原くんの事をす、す、す、好きだなんて・・・」

アタシ、という一人称は間違いなく彼の口から出たもので、今度は私の目が点になる。アワアワする彼の声はいつもよりもワントーン以上高い。

「そ、そんなことあるわけないじゃないのよっ」
「ゆゆゆ雪緒くんっ・・・ちょっと落ち着いて」
「だってアナタが変なこと言うから・・・!」
「雪緒くん!一人称!語尾!!」

アナタ。目が点を通り越して穴が開きそうだ。
私のツッコミに雪緒くんはしまった、というように自分の口をふさぐ。ただでさえ白い顔が真っ青で。
しばしの沈黙の後、彼はゆっくりと、私の方を向く。

「・・・秋山さん。今日の課題って何があったっけ。」
「いやこの流れで日常会話に戻れないから。」
「デスヨネ。」

再び表情を崩した雪緒くんは、うわあああん、とその場に崩れ落ちた。ちょっと待って、私の理解が追い付かない。だれか、助けて。
「昔から、男の子が好きなの。」

ズビーッと彼が勢いよく鼻をかむ。その目も鼻も真っ赤で、思わずよしよしと頭を撫でてしまった。人のいない中庭の隅っこに移動してきた私たちは、並んでベンチに座っていて。

「アメリカでは別にそんなに特別じゃなかったの。周りにもいたし。でも日本ではやっぱり隠した方がいいって、パパとママが。」
「・・・そっか。」
「実際、小学生の時に痛い目見たしね。」

そう言って雪緒くんは苦い顔をする。小学校4年生まで日本いて、そのあとアメリカに引っ越したという雪緒くん。小学生の時の事についてそれ以上は何も語らなかったけど、悲しい思い出があるの事は明白だ。

「普通にならなきゃって思ってさ。一人称とか、言葉遣いとか直してみたり。」

あとは。と雪緒くんが1度俯いてから、顔を上げて私の方を見る。

「この笑顔とか。」
「うわ、こうやって見るともはやホラー。」
「容赦ないな。」

ズビッとまた鼻を啜って、雪緒くんが呟く。

「別にすごく苦痛な訳じゃないの。王子様キャラって割り切っちゃえば演劇みたいで楽しいし、アタシ乙女ゲームでもこういうメインぽいキャラから攻略してくタイプだから。情報は多くて。」
「ああ、真逆だ。私は逆にいちばんミステリアスなキャラから攻めるタイプ。そういうところから入ると意外とメインのキャラと兄弟設定とかあって萌えるんだよね。」
「血の繋がってない兄弟設定ね。あとは今は敵同士でも昔は命を預けた仲間だったりね。」
「「・・・」」

一瞬の沈黙の後、2人で固く手を握りあった。こやつ同志だ、悪いやつじゃない。

「女の子ももちろん嫌いとかじゃないの。でも、でも出来ればやっぱりキャーキャー言われるんじゃなくて一緒にキャーキャー言いたい。メイクの話とか、スイーツの話とか、混ざりたくなるの必死に我慢してるんだから。」

そこまで言って彼は一度息を吐いて、眉を下げて私の顔を覗き見る。

「ごめんこんなこと話して。困るよね。」
「へ?何で困るの?」
「どう反応していいか分からないでしょ。大丈夫、慣れてるから。人に理解してもらえないのも仕方の無いことだなって思うし・・・」
「・・・なんで人に理解してもらわなきゃいけないんだろう。」

私の言葉に、雪緒くんは驚いたように私を見つめた。
その顔には何とも言えない不安げな表情が浮かんで、ああ。自分の気持ちを否定されたことが何度もあるんだろうなあ。

「誰を好きになろうがその人の自由なのに、雪緒くんの大切な気持ちなのに、なんで人に理解してもらえなきゃいけないんだろう。変とか、普通じゃないのか、そんなの誰も決めれないのにね。」

彼の表情が変わるのが分かった。
陽にすける金髪、蒼味がかった瞳、本当に惚れ惚れしちゃうくらい美しい。

「雪緒くんの気持ちは、雪緒くんだけのものだもん。大事な自分の気持ちを、そんな苦笑いで隠しちゃダメダメ!!」

そう言って彼の眉間を人差し指でつつく。
少しの間の後に、彼はふっと吹き出して。

「ゆいゆいって、変な人ね。」
「・・・詳しいけどよく言われる。」
「だろうね。」
「ねえねえ、春原くんのどこを好きになったの。」
「えええ、いやよ恥ずかしい。」
「いいじゃん~~聞かせてよ!お願い!」

恥ずかしがりながらも雪緒くんは口を開く。最初は恥ずかしがっていたのにどんどんヒートアップしていって、これでもかというくらい雪緒くんの恋愛観を知ってしまった。性癖まで。ちょっとそこは知りたくなかった。

一通り話し終えた雪緒くんはわざとらしくため息をつく。

「でも、まさかこんなに早くバレるなんてねえ。」

『僕の方が、絶対に彼を幸せに出来ると思うよ。』

彼。この言葉が決定的だった。
雪緒くんがいつも後ろ振り向く時にチラチラ春原くんのこと見てた事とか、あとは春原くんが寝てる時はわざと大きい声で話してたこととか。

「私にちょっかいかけてるようで、全部春原くんにかけてたんだよね。」
「うわあ、そこまでバレてたの。滑稽すぎて泣けてくる。」

顔覆った彼は耳まで真っ赤で、でも、と少し不貞腐れたように呟く。

「・・・話しかけたくても恥ずかしくて話しかけられなくて。」
「は?可愛いなんなの??」
「なんでキレてんの?」

あまりにも可愛くてよく分からない感情になってしまった。
気付けば下校のチャイムがなって、2人で急いで立ち上がる。いけない。校舎の鍵が閉められてしまう前に出なければ。
教室にカバンを取りに戻って、ドアから出る前に雪緒くんが立ち止まる。

「・・・ゆいゆい、あの、このことは」
「言わないよ。わたし、口だけは固いの。」
「ああ、頭ふにゃふにゃそうだもんね。」
「ディスったよね完全に。」

躊躇いながら口を開いた彼は、私の言葉にははっ、と声を上げて笑って。そのまま私の方を見つめて。ありがとう、と微笑む。・・・あらら、意識しなくても完璧な王子様スマイル。惚れ惚れしちゃうね。



次の日からも、雪緒くんの態度は全く変わらない。いつも通り何かあれば声をかけてきて、私をとびこえて春原くんの方をチラチラと見る。
ポコッ、とつくえの下で雪緒くんの足を叩く。何、と目で訴えかけてきた雪緒くんに、み す ぎ と口パクで伝えれば彼は顔を赤くして。

「・・・秋山さん、この問題は?」
「これはね・・・」

赤くなってるのがみんなにバレないようにと教科書を見てるフリして口元を隠すから、可愛くて思わず笑ってしまう。
ジトッと睨まれたけど、知らん顔で教科書を開いた。
「・・・結衣、雪緒となんかあった?」

なんか最近、仲良いから。そう言ってさっちゃんはりんごジュースのストローを加える。

「別に何もないよ。」
「嘘だね。」
「・・・ほんとは秘密。」
「え~、なにそれ。」

一瞬で嘘を見ぬかれた私、さっちゃんに嘘はつけない。あやし~、とからかうように笑った彼女をつつき返せば隣から視線を感じて。

「・・・なに?」
「・・・・・・別に。」

かなりの間の後にそうだけ答えた春原くん。絶対に別に、じゃない間だった。もう一度どうしたの、と問う前に彼は腕を伸ばして机に寝そべってしまう。あら、珍しい。机には突っ伏さないのがマイルールのはずのなのに。まあ寝てはいないけど。

「秋山さん。ちょっといい?」

噂をすれば、とさっちゃんが呟く。私を手招きした雪緒くんは目線で場所を変えたがっているのが分かって、そのまま廊下へと向かった。
チラリと振り返ればやはり春原くんがジーッとこちらを見ている。手を振ればべーっと舌を出された。なんでだ。



休日の遊園地は賑わっていた。まだ少し風は肌寒くて、上着着てくればよかったなあなんて少し後悔。
入園口の自販機のそばで立っていれば、少し小走りで近づいた人が私を見つけて手を上げる。

「ごめん、お待たせ!」
「・・・うわあ、隣歩きたくない」
「一言目辛辣すぎない?」
「最大級に褒めています」

少しダボっとしたズボンに真っ白のノーカラーのシャツ、日差しが彼の綺麗な金髪を透かしていて、うーん、こういうシンプルな格好が引くほど似合う。既に周りの人の視線(主に女の子)の視線を集め始めていて、非常に場違い。隣に並びたくない(失礼。)

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼は私の手を引っ張って。

「ほら!行こう!」
「わっ・・・ちょっと待って・・・!」
「うわ~~!!すごーい!!」

遊園地の中に入れば雪緒くんは瞳を輝かせて歓声を上げた。ねえねえあれ乗りたい!あああれも!これも!!そう言って彼は既にはしゃいでいる。

「あ!あとであそこのクレープも食べたい!」
「いいね。あ!あそこたい焼きも売ってるよ!」
「本当だ。色んな味があるのね、珍しい~」
「・・・なんか雪緒くんみてたら私もテンション上がってきちゃった。」

雪緒くん、日本の遊園地は幼い頃に一度だけ行った事があって、戻ってきたら絶対にもう一度行きたいと思っていたらしい。私も遊園地なんて何年ぶりだろう。

だって、とだけ言って彼は少し恥ずかしそうに下を向く。

「・・・ゆいゆいは、こっちに来て初めてできた友達だから。」
「・・・はあ?可愛いんだけど?何なの?」
「なんでキレるの?」

いけない、この前も可愛すぎてキレてしまったばかりなのに。反省します。
少し顔を赤らめた雪緒くんの肩をポンポンと叩いて、よっしゃ楽しむぞー!
ー!なんて2人で拳を突き上げた。


気づけば時間は正午を回っていた。ジェットコースター、コーヒーカップ、メリーゴランド、目に付いた気になるものから順番に乗っていけば乗り物にはそんなに弱いはずじゃない私の三半規管は大ダメージだった。
雪緒くんはケロっとしていて、フラフラになっている私を見てケタケタ笑っていた。許さん。

園内にあるカフェでお昼ご飯を食べて、午後は少しゆっくり行動することにした。はしゃぎすぎて疲れさせちゃったかな、ごめんね、なんて雪緒くんは少し眉を下げて。

「こうやって心の底から楽しめるの久々で。」
「何言ってるの。私もすごく楽しいよ、今日誘ってくれてありがとう。」

ね、あれ乗ろう。はやくはやく。そう言ってお化け屋敷を指刺せば、雪緒くんは少し照れたように笑う。

「え〜〜、アタシおばけ苦手。」
「だったら尚更。雪緒くんの弱み握りたいし。」
「それ口に出しちゃっていいの?」

結局お化け屋敷で雪緒くんはそれなりに怖がったものの、なんせ、可愛いのだ。キャーキャー言う姿は弱みなんて感じじゃなくて、むしろ加点。
一日中はしゃいだ私たちは、遊園地を出る頃にはクタクタだった。楽しい事での疲労感はとても幸せに感じて、ゆっくりと日が沈んでいく街を並んで歩く。

結局園内でクレープを食べ損ねた私たちは最後に駅前のクレープ屋さんに行こうという話になっていて、大きな交差点を渡る。

「・・・あれ、春原くん。」
「え!?どこ!?!?」

反応が凄くてひびった。心臓に悪いからやめて。

大きな立体交差点の斜め前。通りの向こう側に立ってスマホをいじっている人物が春原くんに見える。

距離はあったため私の声が聞こえたわけではないだろうが、春原くんらしき人が丁度スマホから顔を上げた。あ、絶対そうだ。目が合っておーいと手を振る。
目が合った、はずなのに。

春原くんはそのまま目を逸らした。え、と思考停止している間に、歩行者信号の色が変わって一気に歩き出す。交差点の中に溢れかえる人ごみに紛れて彼の姿は見えなくなってしまった。今、ちゃんと一回目が合ったのに。・・・視力とか悪かったっけ。

私が戸惑ったまま雪緒くんの方を見れば、彼はなにやら困った顔で笑う。

「・・・雪緒くん?」

息をついた彼は困った顔のまま私の方を見て、更に眉を下げた。

「僕だって、何も気づいてない訳じゃないからなあ。」
「何が?」
「・・・なんでもないよ。ほら、クレープ食べ行こう。」

そう言って雪緒くんが歩き出す。私もその後を着いて歩き出したけど、なんとなく胸の中がもやもやしたままだった。




「春原くん、おはよう。」
「・・・おはよう。」

次の日。教室に入れば彼の姿があって少しだけ勇気をだして声をかける。
春原くんの挨拶はいつも素っ気ない。いつも素っ気ないけど、今日はさらに素っ気ない。

「昨日さ・・・。」

私が話始める前に、彼はいつものようにだるそうに目を閉じる。寝る邪魔はしちゃいけないと言葉を引っ込めるけど、その日春原くんはいつもに増して寝てばっかりだった。


「・・・あ。」

こういう時に限って教科書を忘れる。
5限の時間、教科書がないと生き延びれない現代文の時間。目を瞑っている彼にそっと声をかける。

「春原くん。」

ピクっと彼がゆっくりと目を開ける。

「ごめん、教科書忘れちゃって。」
「・・・。」
「一緒に見せてもらってもいいかな?」

いつもだったら、彼は机をくっつけて教科書を見せてくれる。結局寝てばっかりいるんだけど、でも春原くんが忘れた時もそれが当たり前だった。

春原くんが無言のまま私の手に現代文の教科書を渡してくれる。え、と声を出す暇もなく、春原くんは目をつぶって私をシャットアウトした。
じわっと視界が滲んで、バレないように慌てて拭う。いけないいけない、しっかりしろ私、今は授業中だ。

・・・でも、こんなの。
避けられてるのは明白だ。

結局その日、春原くんと会話らしい会話を交わすことは無かった。なんで避けられているのか、怒らせてしまったのか、心当たりがなくてどうしようもなく落ち込みそうになる。

それから数日間も、春原くんはずっとそんな感じのままだった。



「おーい。」
「・・・。」
「おーい、秋山さん。」
「・・・。」
「あ、き、や、ま、さん。」

急に視界に雪緒くんが映り込んできて慌てて思考を停止させる。あの日から私の頭はぐるぐる回ってばかりだ。

「今日、調理室行く日だよね。」
「あ、そうだ。」

今日は雪緒くんとお菓子を作るのだ。勇気を出したい、春原くんに手作りお菓子を渡したいという彼を手伝うことになっていて。

教室を出て調理室へ向かう。皆さんご存知の通り私は料理は得意ではない、むしろ苦手だ。特別講師美和ちゃんはもちろんお願い済み。


「だから!しっかり目盛り見て計ってください!」
「え〜いいじゃない別にこれくらい。」
「良くない!小さな誤差が命取りです!あ、あとそれ、こぼしたのちゃんと拭いといてくださいよ。怒られるの私なんですから。」
「・・・姑になったら嫌われるタイプね。」
「文句は大きい声でどうぞ??」

お互いつっかかりまくりの2人の間に入ってどーどーと落ち着かせる。最初は王子様スマイルを振りまいていた雪緒くんだが、気づけば素に戻っていて、美和ちゃんもそれを特に気にした様子もなく。

「あー!だからそれはよく混ぜて!ダマになっちゃってるじゃないですか!」
「もううるさいわね!!」

雪緒くんが持っているボウルを美和ちゃんが奪ってチャカチャカとかき混ぜる。不満そうに口をとがらせながらも雪緒くんは美和ちゃんの手馴れた手元を観察していた。
私はなんとなく察知している、この2人は合う。

そんなことを考えながら私も横でチャカチャカボウルをかき混ぜていた。今日は私は見学だけの予定だったのだが、気づけば一緒に作ることになっていた。これは自分で言い出したのだけれど。

言い合いを聞きつつ、制止しつつ、手を動かしつつ、とてつもない労力を要して完成したのはハミングバードケーキというスイーツ。雪緒くんのお母さんがよく作ってくれる、アメリカではメジャーなお菓子らしい。

ラッピングをして、これでよし!と3人で達成感につかっていたのもつかの間。

「うっうわああああ!!」
「どうしたの!?」
「くっ・・・くも!くも!!」

当然叫び出した美和ちゃん。驚いてそちらを見れば、彼女の肩の上に居たのは小さな蜘蛛で。なんだ蜘蛛か。そう思ってしまった私とは逆に雪緒くんは悲鳴をあげる。

「わ!!!蜘蛛!!!蜘蛛!!!」
「だから言ってるじゃないです!か!!」

美和ちゃん並みのパニックを起こす雪緒くん。どうやら2人とも虫は苦手なようだ。やれやれ、とため息をつきながら蜘蛛の救出へと向かった。
頭頂部に視線を感じて顔を上げれば、前の席に反対向きに座った塚田がこっちを見ていた。

「・・・なに。」
「別に?」

そう答えつつ、塚田の視線は俺を捉えたままだ。
もう一度目で訴えかけると彼は少し楽しそうに笑う。

「いや?春原がそんなに余裕ないとはなあって。」
「・・・うるさい。」
「秋山、落ち込んでたぞ。」
「・・・分かってる。」

分かってる、そんなこと。秋山を傷つけていることも、彼女は何も悪くないことも、全部自分の中の勝手な気持ちだと言うことも。
謝るタイミングを逃してしまって、今日こそは謝ろうと思った。しかし帰りのホームルームが終わるタイミングで彼女はすぐに教室を出てってしまい、まだ戻ってきていない。

カバンが置きっぱなしの隣の席を見て、そのまま視線を前の席に向ける。そこにもスクバが置かれたままで、ああ、ダメだ。どうしても気持ちがコントロール出来なくて、思わずため息がこぼれた。

そんな俺を見ながら塚田は困ったような、微笑ましいような、からかうような、なんとも言えない表情を浮かべるから机の下で足を蹴っておいた。
・・・今日はもう帰ろう。

これから自主練をして帰るという塚田と別れ、1人廊下を歩く。人気の少ない歩いていればなんかいい匂いがするなあ、なんて思ったのと同時に聞こえてきたのは悲鳴で。

「きゃああああ!」

女子のものと思われる悲鳴が重なる。
なにがあったのかと少し駆け足で悲鳴が聞こえた方角へ向かう。
どうやらいい匂いも悲鳴も出処は同じく調理室のようだった。

「っ・・・大丈夫!?」

ガラガラ、と勢いよくドアを開ければその中にいたのは見知った顔の人達だった。

半泣きで固まっている春日と、同じく真っ青な顔で固まる雪緒。その傍では秋山が両手を丸めて合わせていてその中に何かが入っているようだ。

そのままテコテコと窓の方まで歩き、彼女は手のひらの中から何かを逃がす。
・・・虫?

「もう帰ってくるんじゃないよ〜」
「結衣先輩っ!はやく!手洗ってください!!」

春日に急かされるまま秋山が石鹸で手を洗って、そのままふっと顔を上げた。

「!?!?春原くん!?」
「そんなに驚く?」

まるで幽霊でも見たかのような顔をする。雪緒たちもそこで俺の存在に気づいたようだ。雪緒もまたひどく驚いた顔をして、そしてなぜか顔を赤らめた。

何か事件じゃなくて良かった、と安心すると同時に視界にラッピングされたお菓子の存在が目に入る。赤いリボン。中に入っているのはケーキだろうか。

俺の視線を辿って、なぜか雪緒がひゃあ、と変な声を出して更に顔を赤らめた。そんな彼の背中を、春日がグイグイと押す。

「あーーもう!ひっそり引き出しの中に入れようと思ってたのにい!」
「それ普通に怖いですから。ほら、早く早く。こうなったら今言っちゃいましょうよ。」

押されるままにおずおずと前に出てきた彼は少し俯いて、意を決したように顔を上げた。

「こ、これ!ハミングバードケーキって言って、アメリカではメジャーなスイーツなの!中に入ってるのはパイナップルとオレンジ。甘いものが苦手って聞いたから、スポンジにもクリームにもお砂糖は入ってないから、だからもしよかったら・・・」

食べて欲しくて。消えかかりそうな声でそう言い切った雪緒はそのまま俯いて後ろに下がろうとする、がそれを春日が許さない。自分で手渡せ、と言わんばかりに雪緒にケーキを握らせた。
彼もまたふう、と息を吐いてからラッピングされたケーキを恐る恐るという様に俺に差し出す。

「・・・ありがとう。」
「あ!!全然!!嫌だったら捨てて・・・」
「捨てるわけない。食べるよ。」
「・・・本当に?」
「うん。ありがとう。」

嬉しい、と俺が言う前に雪緒があああああ、と変な声を上げる。

「もおおお、死ぬかと思った・・・」
「頑張りましたね、えらいえらい。」
「・・・アンタ、意外といい奴ね。」
「意外じゃないでしょ、見た感じいい奴でしょ。」

崩れ落ちる雪緒の頭を春日がポンポン、と叩いていて、そんな彼の声は教室の時よりもワントーン以上高い。それはさっきからだけど。一人称も変わっていて、けれどそれに驚くというよりも彼の王子様スマイル以外の表情を見れたことが何だか新鮮で、やっと雪緒の体温を感じられた気がした。

何気なく調理台の上を見渡せば、赤いリボンのラッピングの横に透明な袋に入っただけの何かが見える。中身は何だろう、と思って近づけば、あああああと声を上げたのは今度は雪緒ではなく秋山だった。

「・・・これは。」
「ちょっと!!見ないで!!!」

焦げて・・・いるのだろうか。中に入っているものは所々黒くて(本当は所々以外が黒い)、そしてスポンジがポロポロと崩れてしまっていた。俺の前に立って、精一杯袋を隠す秋山。その背中を、今度は雪緒が押す。

「えっと・・・これは・・・」
「・・・」
「ハミングバードケーキ、になる予定だったものです。」

そのまま秋山は一度俯いた。その手は不安そうに制服の裾をつまんでいる。

「私、知らないうちに春原くんに嫌な事しちゃってたのかなって。」
「・・・ごめん、それは違くて・・・」
「全然何が原因なのか思いつかなくて、そういう所も駄目だなって思っちゃって。私あんまり賢くないから、人の気持ちとか分からない時あるし。」

だから違うんだよ、その俺の声に重ねて秋山が顔を上げる。

「でも、私やっぱり春原くんと話せないのは悲しい。悪い事しちゃってたならきちんと謝りたいし、ちゃんと仲直り、したいなって。」

そこまで言って、秋山の視線は机の上に戻る。真っ黒のケーキ。それを見つめて、秋山は遠い目をする。

「でも上手くできなくて。私の人生こんなもんですアハハハハ。」
「ゆいゆい、目が空洞になってるわ。」
「こんな時ですら何も上手くできない。ああ一体どうして私は・・・」
「結衣先輩、どーどー。」

宙を見つめて乾いた笑いをする秋山をすり抜けて机の上に手を伸ばす。あ、と彼女が止める前に封を開いて口の中に放り込んだ。

「・・・・・・おい゛じい゛」
「世界一分かりやすい気遣いをありがとう!ほら!ぺってして!!」

慌てふためく彼女を横目にすべてを飲み込む。ごっくん、という音と共に涙目になってしまいそれは隠せず。ごめん秋山。

「ありがとう。嬉しい。」
「そんな、わたしは・・・」
「あと、俺の方こそごめん。ていうか秋山は何も悪くない。何も嫌なことなんてしてない。」
「・・・春原くん。」

もう一度謝った俺の顔を少し不安そうに見上げて、彼女が手を差し出す。

「仲直り、してくれますか。」

迷わずに俺も手を差し出せば、彼女は少し躊躇いながら俺の手を握る。少しの沈黙の後、秋山はふふっと可笑しそうに笑った。

「お手本のような仲直りの仕方だね。」
「だね。」
「小学生に見せてあげたいね。」

いや、小学生の方がちゃんと仲直りできるか、見せるべきは大人かな?なんて真剣な顔で考え始めるから、思わず俺も笑ってしまった。




昨日も今日も。きっと明日も明後日も、雪緒くんは私にちょっかいを出してくる。

「ねえねえ、駅前にできたカフェ行こうよ。」
「いいね!そこのチーズケーキ美味しいって噂だもん!」
「プリンも美味しいみたいだよ。あとSNSフォローすれば割引あるって。」
「さっすが雪緒くん。ぬかりないね」

まあね、と答えた彼は春原くんの方を向く。

「春原くんも行くでしょ?」
「歩くのめんどくさい。」
「えー、冷たいなあ。」

あいかわらずの塩対応。
可愛くほっぺを膨らませた雪緒くんは、いいよ2人で行くから!と私に向き合える。

「秋山さん。」

「デートだね。」

・・・しまった、うっかりときめいた。声、表情、顔の角度、何もかもが完璧だった。くそう、何この敗北感。私の心の声が漏れたのか雪緒くんが勝ち誇ったように笑う、と同時に春原くんが顔を上げて。

「・・・俺も行く。」
「でも歩くの面倒なんでしょ?」
「気のせいだった。」
「甘いものも得意じゃないよね?」
「コーヒーとか飲む。カフェなんだからあるでしょ。」

ふーん、と雪緒くんは意地悪に笑って、そんな彼を春原くんが死んだ魚のような目で睨んでいた。果たしてこれでいいのかな?と思うのだが、どうやら彼は好きな人に意地悪したくなる典型的なタイプのようだ。困った顔を見るのが何より萌えるらしい。この話は雪緒くんから一方的にされた、あんまり聞きたくなかったけど。

そんなこんなで、私の大切な友達がまた1人増えたのだ。