調理室を出て廊下を歩いていれば、
グラウンド近くの水道で水を飲んでいるジャージ姿が目に入る。
・・・さっちゃんだ。
カバンの中のパウンドケーキに一瞬視線を落とす。
・・・うん、このままでいいわけないもんね。きちんと話したい、きちんと話さなきゃ。
でもまだ部活中なのかな、そう思って様子をうかがっていれば、その背中が小さく丸まっていく。心臓が跳ねて、急いで駆け寄る。
「さっちゃん!?」
膝から崩れ落ちる形でしゃがんでしまったさっちゃんに駆けよれば、
彼女は驚いた顔をしたけど、頭が痛いのかそのまま眉間に手を当てる。
「大丈夫!?」
「・・・平気。ちょっとフラついちゃって。」
「どうしよう。先生呼んでくるね、ちょっと待ってて。」
「だから大丈夫だって。」
その声にこの前のような覇気はない。大丈夫だと繰り返す声が痛々しくて、なんだか涙が出そうだ。
結局先生は呼ばずに日陰で彼女を休ませることにした。体育座りをして頭からタオルを被るさっちゃんの表情は見えない。でもしばらく休めばだいぶ楽になったようで。
「ごめん結依、ありがとう。」
「ううん。少し良くなった?」
「大分よくなった。」
よかった、と胸をなでおろしたのもつかの間。じゃあ私練習戻るね、とさっちゃんが立ち上がろうとするからあわてて腕をつかむ。
「今日はもう帰ろう。少し休んだ方がいいよ。」
「大丈夫だって。もう少し走りたいの。」
「また体調悪くなっちゃうよ。まだ顔色も良くないし。」
「結依、心配しすぎだよ。」
そう言って彼女は笑うけど、その笑顔も痛々しい。
私の言葉なんて全然響かないのが分かって唇を噛む。
「大会も近いし、今が頑張り時だから。」
「・・・だからこそ、休むのも大事なんじゃないの?どれだけ頑張ったって、当日に万全の状態で臨めなきゃ意味ないじゃん。」
意味ない、その言葉にさっちゃんが表情を変えたのが分かった。そんな言葉絶対に言っちゃいけないって分かっているのに私の口は止まらない。
「無理して練習し続けてまた倒れたらどうするの?このまま体調悪いまま本番迎えたら、さっちゃん絶対後悔するよ。」
「・・・なにそれ。」
「今日だけでいいから一回休もうよ。それでまた明日から頑張ればいじゃん。焦ってもいいことなんて・・・」
「っ・・・!結依にそんなこと言われたくない!!」
「私だってこんなこと言いたくない!!」
らしくない様子のさっちゃんに心がひるむけど、でも私も止まれなかった。
「最後の新人戦なの!休んでる暇なんてないの!もっとタイム縮めなきゃいけないの!!」
「だからって・・・倒れたら元も子もないじゃん!!」
「私はエースなの!絶対に勝たなきゃいけないし期待に応えないといけない!!そうじゃなきゃ、何のために今まで頑張ってきたのか・・・」
少し言葉を止めて、さっちゃんはこぶしを握りしめる。
「簡単に休むなんて言わないで。一日休んだら取り戻すのに倍以上かかるんだよ。また明日から頑張ればいいなんて、なにそれ・・・。」
こんなさっちゃん見たことなかった。彼女は息を吐いて、潤んだ瞳で、私を見ないまま。
「っ・・・結依には、この気持ちなんてわかんないじゃん。」
グサッ、と心に何かが刺さった気がした。
さっちゃんは駆け足でそこから去って行ってしまって、一瞬で辺りが静かになる。グラウンドから野球部の声が、体育館からバスケ部の声が聞こえてきているはずなのに、私の周りは静かだった。何も聞こえない、何も耳に入らない。
穴の開いた心から漏れるなにかを止める方法を知らずに、
私は俯いたまま顔を挙げられない。ああもう、泣きそう。
滲んでいく視界に突然黒い裾がうつって、目の前に誰かが立っていることに気が付く。
「あれ、秋山じゃん。何してんの?」
「・・・。」
「俺?俺はな、たいして手当もつかねえ顧問の仕事で練習見てきたの。俺卓球なんてしたことねえのにな、あのヴォルデモート教頭絶対許さねえ。」
いつもの花ちゃん節を炸裂させながら、何の返答もない私を不思議に思ったのか彼は私の顔を覗き込んで、あー・・・、と小さく声を漏らす。
「悪い。今日中にまとめなきゃいけないプリントあってさ。手伝ってくんない?代わりにジュース買ってやっから。」
「・・・」
「今ならお菓子もつけちゃおう。ぬれ煎餅、みすず飴、金平糖、なんでもあるぞ。」
「・・・チョイス渋。」
「全部藤巻先生のだからな。」
「泥棒。」
「大丈夫、バレないから。あの人多分時計の向き全部逆さにしといても気づかないよ。気づいても斬新ですねえ、って言ってにこやかに微笑むと思うよ。」
「それは舐めすぎ。」
ほら行くぞ、と花ちゃんが私の背中をトントン、と叩いてくれる。
まだ目が乾かなくて顔は上げられなかったけど、時が止まった場所から一歩進むことが出来た。
「あなたには分からないって言葉は、ずるいよな。」
誰もいない化学準備室。
話を聞いてくれた花ちゃんは、コーヒーを一口飲んで。
「ずるいけど、意味がないなんて言葉も残酷だよな。」
「・・・うん。」
さっちゃんの事が心配で、でも私の話を聞いてくれない事が悲しくて、彼女が言われたくないと分かってる言葉を言ってしまった。分かってて、言ってしまった。
「・・・私はどうすればよかったんだろう。」
何を言えばさっちゃんの心に響いたんだろう。ただただ心配で、それが一番なのに。
ポツリ、とこぼれた私の言葉に花ちゃんは腕を組む。人差し指で頭を掻いて、そして急に人差し指をたてた。
「問題です。ライト兄弟が成し遂げた偉業とは何か、完結に答えよ。」
「・・・私文系だもん。」
「いいから、答えて見て。」
「・・・ライト兄弟はアメリカ合衆国出身の発明家活世界初の飛行機パイロットの兄弟であり、自転車屋をしながら兄弟で研究を続けて1903年の世界初の有人動力飛行に成功した。」
「・・・その感じで賢いのまじで怖いわ。」
「失礼すぎません???」
まあいいや、と花ちゃんが一つ咳払いをする。いや私は良くない、なんで暴言はかれたの、解せぬ。
「そんな彼らの名言として、こんな言葉があります。」
「『今正しい事も、数年後には間違っていることもある。逆に今間違っていることも、数年後には正しい事もある』」
人差し指を建てたまま、花ちゃんはゆっくりと繰り返す。
「・・・結局は絶対に正しい事も絶対に間違っていることもないんだよな。言葉をどう受け取るかだって人によって違うし、考え方は時代によって変わっていくし、同じ状況でもこの人には響く言葉もこの人には響かない、何てことザラにあるだろ。」
めんどくせえよなあとため息をついてから、私の顔を見る。
「今の白河にとっては秋山の言葉は響かなかったかもしれない、それでお前は自分も無力に思ったかもしれない。でもそれがイコール間違えじゃない。」
花ちゃんの言葉がスーッと胸にしみ込んでくる。
「数日後、数週間後、数か月後、数年後。いつかは分からない。分からないけど、今日の言葉が白河の救いになる日は絶対に来る。あの時は受け入れられなかったけど今なら分かる、なんて日が絶対に来るんだよ。だから、間違えじゃない。正解も間違いも、決めつけるには早すぎる。いつだって早すぎんだ。」
「『いつか来る日』の事を考える事でしか人は気持ちを整理できない。いつかに希望をもって生きていくしかない。なーんか虚しいし、ちっぽけだよな。」
でも、ともう一度私の目を見て、
花ちゃんは悪戯っ子のように笑った。
「俺はそんな俺たちのちっぽけな所が、嫌いじゃないぜ。」
ちっぽけなわたし達。
どうしようもなく苦しい時、悲しい時、いつかの事を考えて乗り越える。未来の事を考えて、そんな日が来ることを夢見て、今を頑張れる。少しずつ進んでいける。そんなことでしか進んでいけない私たちだけど、でもそれでいい、それがいい。正解が不正解に変わる日も、不正解が正解に変わる日も、色んな日を願って生きていく。色んな日を夢見て生きていく。
ガタン、と自販機からスポーツドリンクが落ちる。
はい、と会長がそれを手渡してくれて、有難く受け取ることにした。
部活終わりの夕方。既に夕日は沈みかけていて、日が短くなったことを実感する。
「体調はどうだ?」
「大分よくなりました。ありがとうございます。」
自販機の横の石段に会長と共に腰かける。部活終わりに再び少しふらついてしまったところにたまたま会長が通りかかり、座れるところまで連れてきてもらった。
こまめな水分補給は意識しているつもりだが、一口飲んで自分ののどが思ったより乾いていた事に気が付く。
私の頭の中にはさっきの結依の姿が浮かぶ。結依は中々人前じゃ泣かない。いつもおどけて、笑って、辛い時も全然口に出さない。そんな結依に、あんな顔をさせてしまった。そしてそのまま置き去りにしてしまった。胸が痛くて、涙が滲みそうになる。
「・・・私、結依に酷い事を言ってしまいました。」
ポロリ、と独り言のように言葉が落ちた。それ以上口を開いたら、この情けない心を全てさらけ出してしまいそうで、そのまま黙る。
そうか、と会長は呟いて、そして。
「だったら、謝らなきゃなあ。」
え、と思わず声が出た。その言葉に会長が焦って「な、なんか変な事言ってしまったか・・・!?」と目をぱちくりさせるから、私も焦って首をする。
ううん、全然変なことなんかじゃない。そうだ。当たり前の事だ。
「秋山くんに酷い事を言ってしまって、早紀さんは後悔しているんだろう?だったら、謝らないと。」
会長の声は落ち着ていて言葉がスっと耳に入ってくる。そういえば全校集会の時も、生徒会の時も、会長が話し出すと自然に静かになるんだよな。すごいな。
悪い事をしてしまったら謝る、なんて幼稚園児でもできるのに。うんと小さい頃に教わった人間として大事なことを、どうして私は忘れてしまっていたんだろう。
過ぎてしまった事は変えられない、言ってしまった事は取り消せない。
だから、気持ちを伝え続けていくしかないんだ。心の中なんて誰にも読めないんだから、口に出していかなきゃいけないんだ。伝えたいと思ったことを伝え惜しんでたら、私はきっと私じゃなくなってしまう。
「・・・ありがとうございます。」
小さく呟いた私に会長は無言のまま首を振る。そしてそのまま静かに立ち上がって、よし、と背伸びをした。
「本番でも本来の力が発揮できるおまじないを教えてあげよう。」
「おまじない?」
「そうだ。こう見えて俺は緊張しくてな。いつもこれをやってから本番に臨むんだ。」
会長は子供みたいにはにかんで、私に手を差し出す。
「大丈夫。きっとうまくいく。」
背後に残った夕日の光が会長と重なって。うーん。眩しいなあ。
朝。意気込んで教室に入る。心臓がドキドキと大きく音を立てていて、怖いけど、気を抜いたら泣きそうだけど、でもきちんと話すと決めたんだ。
彼女の姿を見つけて、そして目が合う。
「結依!昨日はごめん!!」」
「さっちゃん!昨日はごめん!!」
全く同じ謝罪の声が重なって、勢い余って私は机に右手を、さっちゃんはクラスメイトのカバンに足を引っかけてしまっていた。
大きな謝罪の声に皆が振り向いて、一瞬時が止まって。
「・・・ぷっ・・・」
気付けば、2人目を合わせて笑い出してしまう。
皆に謝ってから教室を出て、人が少ない場所に移動した。
「結依、本当にごめん。」
「違うんだよ。私の方こそ・・・。」
「ううん、完全な私の八つ当たりだ。」
さっちゃんが深々と頭を下げたりなんてするから、慌てて彼女の肩に手をかける。
「・・・最近、タイムが伸び悩んでて。一生懸命やってきたのに、やってるのに、どうしたらいいのか分からなくなっちゃったの。何もかもが不安になっちゃって。大会も近いのに。皆を引っ張らなきゃいけないのに、情けないって。」
さっちゃんの声は震えていた。
彼女はいつだって自信家で、気が強くて、でもそれはその裏にはとんでもない量の努力があるからだ。人に色々言う前にまずは自分を磨く、それがさっちゃんのモットーで、そんな強さを私は心の底から尊敬する。
「結依がただ心配してくれてるだけなのも分かってて、それなのに自分の気持ちが上手くコントロール出来なくて。正論過ぎたの。正論過ぎて反発しちゃうなんて、私本当に駄目だよね。」
「・・・さっちゃん。」
「本当に、ごめんなさい。」
ううん、と首を振る。違うよ、違うんだよ。
「さっちゃんは情けなくないし駄目なんかじゃないよ。私も、さっちゃんの気持ちをちゃんと考えられてなかった。頑張ってる人に、酷い事言った。」
『・・・どれだけ頑張ったって、当日に万全の状態で臨めなきゃ意味ないじゃん。』
自分の言葉を思い出す。意味ない、なんて絶対に言っちゃいけなかった。ただただ心配だっただけのに、この時は違った。私の言葉を聞いてくれないさっちゃんに腹が立って、棘のある言葉を選んだ。言われたくないと分かっていて、言ったんだ。
「私も、ごめんなさい。・・・でもやっぱり、さっちゃんには少しだけ休んでほしい。私はもちろん頑張っているさっちゃんが、走っているさっちゃんが好きだけど、でもどうしたって心配なの。陸上選手である前に、大切な、友達だから。」
休んでほしい、その言葉をもう一度言うのは怖くて、でも絶対に伝えると決めていた。声が震えてしまって、でもさっちゃんの目を見る。
彼女は、うん、と頷いて。
「今日と明日、休ませてもらう事にしたの。で、明後日からはストレッチ中心でまずは体整えることにした。」
はあ~、と大きな声をだしてさっちゃんが背伸びをする。
「そう言えば最近全然ちゃんとマッサージも出来てなかったなって。体ガチガチなのよ。とりあえず今日明日できちんと体ほぐそうっと。」
お風呂も長く使っちゃお。なんてさっちゃんは悪戯っ子のように笑うから、私も思わず笑顔がこぼれる。
「・・・結依。」
「ん?」
「本当にありがとう。」
私の名前を読んで、さっちゃんが今度は少し照れたように笑う。こんな笑い方は珍しくて、なんだか照れてしまって。でも、とっても嬉しくて。
思わず抱き着いてしまえば、暑苦しい!と一蹴される。すっかりいつものさっちゃんだ。
あ、そうだ。
「さっちゃん、これ。」
「なにこれ。美味しそうなケーキ。」
「美和ちゃんがくれたの。」
さっちゃんの手に、可愛くラッピングされたパウンドケーキを乗せる。
昨日、美和ちゃんは私にパウンドケーキを2つ渡してくれた。
『仲直りに使ってください。美和ちゃん特性絶品パウンドケーキでさき先輩もイチコロですよ。』
なんて言って美和ちゃんは得意げに笑って。
その言葉をそのまま繰り返せば、さっちゃんは調子乗るな、と嬉しそうに笑った。
地べたにそのまま座り込んで、2人でケーキを食べる。美和ちゃん特製パウンドケーキは昨日ももちろん美味しかったけど、今日は更に美味しかった。
英語の授業中、ふああと欠伸がこぼれる。
ぼーっとしていたことを先生に叱られつつ、窓の外に目を向ける。窓の外はパラパラと雪が待っていて。
中年独身教師はなんだか今日はいつもに増してイライラしていた。ごめんなさいこんな呼び方しちゃいけないね。秋山反省。
でも外を見てご覧よ。雪が降っているよ。あのしとしとと降り積もる雪のように先生も穏やかに生きようよ、ね。
「はい!クリスマスパーティーがしたいです!」
「そっか、もうそんな季節だね。」
4限の英語の時間から考えてました!そう言えばだからまた怒られてたのね、と一蹴。ええその通りです。あの先生にまた嫌われた気がします。
「いいね、クリスマスパーティ。」
「あれ、塚田くんは彼女さんとのご予定があるのでは。」
「あっはははは。秋山。静かに。」
にこやかな笑顔なまま塚田くんが自分の口に人差し指を当てる。ただ目が笑っていない。瞬時に事情を察知。
少し前まで他校のサッカー部のマネージャーの子と付き合っていると言っていた塚田くん、どうやらその話はこれから先禁句のようだ。
クリスマスね、練習あるかなあ、と呟くのはさっちゃん。新人戦前に大スランプに陥っていた彼女だが、本番では自己ベストを更新した。結果を聞いて思わず抱き着けば、当然よ、なんて言って笑って。やっぱりさっちゃんは誰よりもかっこいい。
「・・・ねえ、聞いてる?」
「・・・。」
「おーい。」
こっくり、こっくり、春原くんは今日も頭をゆらゆらと揺らしている。全然聞いてない、駄目だこりゃ。
「こいつ寒くなってくるとさらに寝るよな。」
「ほんとに。冬眠でもするんじゃない?」
「確かに・・・しそう・・・。」
塚田くんは腕を組んで、さっちゃんは机に肘をついて、わたしは顎に親指と人差し指を当てて、各々春原くんを観察する。さすがに視線を感じたのか、ゆーーっくりと彼の瞼が開く。
「・・・怖。」
「だろうね。」
目覚めた瞬間見つめられていたらそりゃ怖いだろう。
眠たそうな目をこすって、春原くんは一つ欠伸をする。そのまま窓の外に目を向けて、あ、と声を上げる。
「見て、雪降ってる。」
「2限終わりくらいから降ってたけどね。」
今更気づいたのかと呆れ顔のさっちゃんに気づいているのかいないのか、のそのそと立ち上がった春原くんは窓際に近づいて、もう一度こちらを振り返る。
2限終わりから降ってたんだ。わたしも4限に気づいたな、なんてことはもちろん口にしなかった。
「ねえほら、雪。」
いつもより少し目を開いて、なんだか少し嬉しそうに私たちを手招きする。
なんだよ可愛いなこら。
「クリスマス会。どこでやろうねえ。」
「やるの決定だったんだ。」
「え!?やらないの!?」
「・・・眉毛、下がりすぎ。」
私の顔を見て春原君が吹き出す。
なんて失礼な。だってしょうがないじゃんクリスマス会したいんだもん。季節を感じたい!ケーキを食べたい!プレゼント交換がしたい!!
少しだけ雪が残っている通学路を春原くんと2人で歩く。
そういえば帰り道一緒に帰るのは珍しいな、なんて少し不思議な気分になって。
「春原くん、おうちどの辺なんだっけ?」
「駅の近く。歩いて20分くらいかな。」
「へー。じゃあ家とも近いかも。あれ、でも中学別だよね?」
「一緒だったよって言ったらどうする?」
「土下座して謝る。」
土下座見たかったけど残念ながら違うよ、と春原くん。良かった。いやでもこんな不思議な人いたら私でもさすがに覚えてるよね。
じゃあ中学校どこだったの、なんて特に意図もなく流れで聞けば、彼は少し言葉を詰まらせたのが分かった。
「・・・新田中。って聞いた事あるかな。」
「うーん。ないかも。」
「隣の隣の市くらいにあった。」
「そんなアバウトな。」
「その時は実家から通ってて、今はじいちゃんばあちゃんちから通ってる。」
全く知らなかった情報を取り込むのに少し時間がかかる。「実家」なんて表現まるで大人みたいだ、なんて馬鹿なことを考えた。
「そうなんだね。・・・実家、って言うのってなんか大学生みたいだね。大人みたい。」
あれ、考えただけじゃなくそのまま口に出てしまった。
春原くんはいつもの呆れ顔で私を見る。全くこいつは・・・というため息が聞こえてきそうだ。
「そうやって返されたのは人生初めてだ。」
「ごめんなさい。」
「なんで謝るの?」
呆れたまま春原くんは笑って、その笑顔は少し寂しそうに見えた。少し力の抜けた、柔らかい笑顔。笑顔すら珍しいのに、こんな表情は初めてだ。
「あ、別に両親健在だよ。全然会ってるし複雑な家庭環境とかじゃないから。」
そう言った彼は立ち止まった私の正面に立って、
人差し指で私の眉間をつつく。
「だから、そんな悲しい顔しないで。」
「・・・別に、普通の顔だったよ。」
「いつもはもっと可愛いよ。」
サラッと爆弾発言しつつ、彼は直ぐ背を向けてまた歩き出す。
無意識のうちに眉間にしわが寄ってしまっていたようだ。
「昨日も夜ご飯一緒に食べたし。なんなら連絡してき過ぎてうるさいくらい。」
「春原くんの事が心配なんじゃない?」
「だと思うよ。」
なんていって両親からの愛を素直に受け止めるのが意外で、でも微笑ましくて。
彼は鼻までマフラーで覆っていて、でもその手はそのままで寒そうに手をこすり合わせる。指先まで真っ赤だ。寒いのは苦手らしく、うーん、とってもイメージ通り。
一週間後に冬休みを迎える放課後。
日直の当番を終え日誌を提出しようと教室を出れば、ウインドブレーカーに身を包んだ男の子と目が合う。
「あ、結依先輩、こんにちは。」
「やっほー。柳くん、なんか久しぶりだね。」
そういうと柳くんはそうっすね、とはにかむ。挨拶が「こんにちは」なのもペコッと頭を下げるのも可愛いが過ぎる、やはり推せる。
「ていうか寒そうだね。大丈夫?」
「今は寒いんですけど動き始めるとすぐ暑くなっちゃうんで。」
柳くんは上こそウインドブレーカーだが、下はもう既に半ズボンで。マフラーも手袋も耳当てもホッカイロも腹巻もあったかパンツも・・・言わなくていい所まで言い過ぎた。とにかくすべて完備している私には信じられない格好である。
しばし雑談をしていれば、どこかのクラスからクリスマスソングが流れてきて、ああもうこんな時期なんだなあ、なんて改めてしみじみした気持ちになる。
柳くんも同じような気持ちなのだろう。クリスマスですねえ、なんて呟いて。
「クリスマスは彼女とデート?」
「なっ・・・何言ってるんですか!かっ、彼女なんていないですよ!!」
「落ち着け落ち着け。」
そんなに慌てると思ってなかったからこっちが焦ったわ。顔を真っ赤にした柳くんは、でも、と俯いて。
「誘いたい人は、いるんですけど・・・。」
「ほうほう。ちなみに同じクラスの子?」
「いやクラスは違くて。でも中学校も一緒だったです。」
「いやーちょっと待って!おばさんニヤニヤしてきちゃうよ!!」
「一個しか変わらないじゃないですか。」
ド正論。でもごめんなさい、ときめきが止まらなくて。
どんな子なの?と聞けば、彼は数秒考える。
「意地っ張りで、気が強くて、集中すると周りがすぐ見えなくなって、不器用で・・・ちょっとバカ?」
「今の聞かれたら多分振られるよ?」
「でもとにかくいい奴なんです。なんかもう本当に友達って感じで。だから誘うの怖くて変な感じになったらいやだなあって思ったりして・・・って!何話してるんだ俺!」
「非常に可愛い恋バナだけど」
「こんな事絶対普段人に言わないのに!!結依先輩だとなんか話しやすくて・・・」
うわー恥ず・・・なんて言って彼は顔を覆ってしゃがみだしてしまった。私も一緒に屈んで、ポンポン、と肩を叩く。
「柳くんなら大丈夫だよ。根拠ないけど。根拠ない自信ってやつ、私結構当たるんだ。」
「結依先輩・・・ぜんっっぜん頼りないけどでもなんか勇気出てきました・・・!」
「めちゃくちゃ全然を強調したよね。大丈夫!当たって砕けろだ!!」
「砕けちゃダメなんですけどでもまあいいっか!勢いでいきます!!」
ムクッと急に立ち上がった柳くんは、ありがとう結依先輩!と手を振ってその場を去っていった。あの子あんなにアホの子だったっけ?と思いつつ、まあいい、きっと恋は人を変えてしまうのだ。
「ちょっと、何考えてるんですか本当に。」
花柄のエプロンを付けたまま、ピンク色の三角巾を付けたまま、美和ちゃんが腕を組んで私を睨む。視線でさっちゃんに助けを求めるけど、うわ、逸らされた。
既にオーブンからはバタ―のいい香りがしてきていて・・・なんて思っていたのがバレたようだ。美和ちゃんが更に眉を寄せる。
「なんで悠先輩の事クリスマス会に誘っちゃうんですか!!私が2人で出かけるチャンスが!!」
「いやそれが決まる前にあんた断られてたじゃん。」
「早紀先輩は黙っててください。」
はいはい、とさっちゃんがベロを出して答える。
そうです私もさすがにそこまで空気の読めない女じゃありません。美和ちゃんはわざとらしくため息をついて。
「これで私は聖なる夜にひとり身です・・・」
「さっき友達とクリスマスパーティーって言ってじゃん。」
「それは25日!クリスマスイブにひとりなんてJKとして悲しすぎます!」
「めんどくさ。」
キーッと美和ちゃんがさっちゃんに向けて威嚇する。ネコか。と同時にチーンという大きな音がして、チャンスとばかりにオーブンに駆け寄った。クリスマスツリーの形、結晶の形、色んな形のクッキーはいい色に焼けていて。
「美和ちゃん!食べていい!?」
「味見は少しだけですからね!」
「やったー!!」
ミトンを使ってオーブンからクッキーを取り出す。たまらなくいい匂いがして、3人して顔が緩んでしまう。今は一時休戦だ。
調理室の椅子に座って、出来立てのクッキーを齧る。ああなんて幸せ。生きててよかった。
幸せに浸っていれば、ガヤガヤという声と近づいてくる足音が聞こえてくる。この時間にここに人が来るなんて珍しい、なんて思いで3人で顔を見合わせていればその足音はドアの少し前でピタリとやんで。ますます不思議に思っていれば、今度は1つだけ足音が近づいてくる。
少し小走りで駆けてきたその人は、勢いよくドアを開けて。
「お、お疲れ!!!」
「びっ・・・くりした!なんだ、柳か。」
入ってきたのは制服姿の柳くんだった。彼は私とさっちゃんにおそらく気づいていないままで、美和ちゃんの前に立つ。
なんだ柳か、そう言ったのは美和ちゃん。なにやらモジモジしている柳くんと、それを不可解そうに見つめる美和ちゃん。
・・・意地っ張りで、気が強くて、集中すると周りがすぐ見えなくなって、不器用で、ちょっとバカ?
もしや、これは。
しばし不自然な沈黙が落ちる。不思議そうに眉を寄せた美和ちゃんが口を開く前に、柳くんが口を開く。
「お疲れ!!」
「なんで2回言う?」
「きょ、今日もいい天気だな!」
「曇ってるし雪舞ってるけど。」
「科学の課題さ、やった?」
「私文系コースだから化学取ってない。」
あちゃー、全てがから回っている。ひとり全力疾走、ちょっと落ち着け。
「あの!さ!!」
意を決したように柳くんが口を開く。がその驚くほどの声量の大きさに思わずビクッとしてしまう。柳くん、頑張れ、音量調整しっかり。
「クリス!!マス!!なんだけど!!!」
どこにビックリマークいれてんだよ。だから落ち着けって。
明らかに挙動不審な柳くんにさっちゃんが吹き出しそうになっている。もう少し我慢して。
ふーっと、大きすぎるくらいに息を吐いて、そして何故かそのまま勢い良く息を吸う。うん、むせるよね、そうなるよね。予想してました。そんな彼を怪訝そうに見つめる美和ちゃん。カオス。さっちゃんが窒息寸前なので巻いてください柳くん。
「いっ・・・一緒に、出掛けま、せんか・・・。」
最後はまるで虫の息。結局音量調整最後までうまくいかなかったようです。
美和ちゃんの返事は・・・なんてドキドキする間もなく、彼女はあっさりと頷く。
「別に。いいよ。」
「え!?ほんとに!?」
「なんで結依先輩が驚くんです?」
しまった。思わず返事をしてしまった。口をふさいで2人から背を向ける。柳くんはそこで初めて私の存在に気づいたようだ。さっちゃんはもう笑いながらベランダへフェードアウトしていった。
いいの?と柳くんが喜んだのも束の間。
「どうせサッカー部の中で予定ないの自分だけだったんでしょ。周り皆彼女いるもんねえ、遊んでくれる人見つからなかったの?」
「はっ・・・?いや違・・・」
「まあいいよ私も予定なくて暇してたし!ねえねえ私バッティングセンターとか行きたい!」
「いやまってそれは誤解が・・・いやバッティングセンターはいいんだけど・・・」
「思いっきり楽しんじゃおうー!!」
楽しそうに美和ちゃんはそう言って、あ、そうだ、と作ったばかりのクッキーを柳くんの口に押し込む。あっけにとられている柳くんの顔を覗き込んで、美味しいでしょ?とニコリ。・・・こやつ、これは天然?計算・・・?
そのまま、柳くんは曖昧な表情のまま私たちに頭を下げて教室を出て行った。少しすればまたガヤガヤと足音が聞こえたから、きっと友達が近くまで来てくれていたんだろう。これは成功なのか失敗なのか。でもまあ約束は出来たわけだし・・・。
「どうしたんですか?変な顔して?」
「・・・天然?計算?」
「なんですか急に。」
美和ちゃんは怪訝そうな顔をする。
「柳とは中学校から一緒なんですけど。笑っちゃうくらいいい奴なんですよね。なんか素で話せるっていうか。」
「へえ、そうなんだね。」
「何でも話せる友達なんです。でもいい奴でイケメンなのに彼女出来た事ないみたいなんですよね。なんでですかね。」
「あっはは・・・不思議だね。」
美和ちゃんは本当に不思議そうな顔をして考えこんでいる。これは計算ではない。本当に気づいていない。あれだけアグレッシブなのに自分のことには疎いらしい。
頑張れ柳くん。道のりは遠い。
「わー!すごい!!」
駅のすぐ近くの公園は地元ではイルミネーションが有名で、
クリスマスイブの今日、たくさんの人でにぎわっていた。
私の歓声にさっちゃんも大きく頷く。いつもは下ろすだけか1つに縛っている髪の毛は今日はハーフアップにまとめられていて。マフラーに顔をうずめてイルミネーションを上目遣いで眺める姿がたまりません、ああ可愛い、こんな彼女が欲しい。
「秋山怖い。」
「えっえっ声に出てた?」
「出てないけど視線が怖かった。」
ジトッとした瞳で春原くんに諭される。さっちゃんにも睨まれて塚田くんは呆れ顔。え、私の思考ってそんなに読みやすいですか。皆さんの方が怖いです。
クリスマスイブ、結局私たちは4人で夜ご飯を食べて、駅前のイルミネーションを見に来ていた。
食べ放題の焼肉屋さんで欲張ってしまいさっきまで瀕死状態だったが、少し休んでなんとか回復。どうしても食べ放題での調節が出来ないのは昔からだ。腹八分目で止められる人を心底尊敬する。
公園内のイルミネーションは有名なだけあって人も多く、時々順番待ちをしながらゆっくり園内を巡る。
キラキラしたイルミネーションを見ているとなんだか自分の心の中までキラキラになる気がする。幼い頃に戻った感じ。
一通り回り終えたところで、公園内のベンチに座って本日のメインイベント!のプレゼント交換をする。
ベンチに座った私とさっちゃん、塚田くんと春原くんは正面の芝生にそのまま腰かける。
音楽を流して、くるくる回す。私のプレゼントはどこに行くかな~なんてワクワクしながら、流れるクリスマスソングにもテンションが上がる。
「あ!手袋だ!」
音楽が止まって、一番最初にプレゼントを開封したさっちゃんが嬉しそうに声を上げる。さっちゃん手元にあったのは茶色の手袋。何を隠そう私からのプレゼントである。
ちょうど新しいの欲しかったんだよね、ありがとう、なんて笑うさっちゃんがやっぱり可愛くて、恋しそう(こら)。
塚田くんが開けたラッピング袋にはいたのは小さなヒヨコの人形で、何これ可愛い、と思わず笑ってしまう。塚田くんも同じような反応をして私の方を見る。
「これ選んだの秋山じゃないの?」
「違うよ。私手袋だってば。」
「そうだよな。分かってるのに絶対秋山のセンスだと思った。」
これは褒められているのか・・・?
私のじゃない、とさっちゃんも首を振る。・・・という事は?
「それ、俺。」
おずおずと手を挙げたのはまさかまさかの春原くん。以外なチョイスに驚けば、春原くんは塚田くんが持つひよこを指さして。
「なんか、秋山に似てるなって。」
「え、それは・・・いい意味で?」
「いい意味も悪い意味もなくないか?」
確かに。塚田くんの言葉に納得。どうやら私に似ているからという理由でひよこが選ばれたらしい。なんだよそれ、と塚田くんが何やらお父さんのような笑顔で呟いて、ひよこを眺める。
手元に回ってきた赤い箱をドキドキしながら開封する。見えてきたのはえんじ色のブックカバー。右下には小さなクマがついていて。
「わ!可愛い!!」
「あ、それ私だ。」
「すっごいタイプ!嬉しい!さっちゃんありがとう!!」
少し照れたようにさっちゃんが笑う。
「結構悩んだんだけど結依も春原も本好きだからいいかなって。」
「え、俺は?」
「塚田には当たりませんように、て願ってた。」
「なにそれ。涙出るわ。」
いいじゃない実際当たらなかったんだから、なんて冷たいさっちゃん。私のがさっちゃんに、さっちゃんのが私に、という事は。
「・・・ハンドクリームだ。」
「一番何とも言えない結果になったな。」
塚田くんの選んだハンドクリームが春原くんに渡り、2人同士の物々交換みたいになってしまった。でもいっか。それもいい思い出だ。
「まあそれもいい思い出だね。」
同じタイミングでさっちゃんがそう言うから、大きく頷く。
家族連れ、恋人、夫婦、友達、ペットとのお散歩、そこには様々な人がいて、でもみんなその顔は幸せそうで。ああなんか、いいなあ。寒いけどその分澄んでいる空気も、ずっと流れている皆が口ずさめるクリスマスソングも、キラキラと輝くイルミネーションも、全部が素敵で。
「なんか結依のプレゼントが普通でびっくり。」
「え、私って普通だとびっくりされるの?」
「もっと個性的なものが来るのかと。」
少し冷えたから、と塚田くんと春原くんが温かい飲み物を買いに行ってくれていて、さっちゃんと2人でイルミネーションに目を向ける。
確かに色々なものと迷った。1メートル20センチのテディベアのぬいぐるみ、騒音レベルの音が出るという噂の目覚まし時計、ヘビの形をしたマフラーとか。でも最終的に、シンプルなブラウンの手袋に目が行った。
なんでだろう、と思って、あ、と理由が思い当たる。
「・・・春原くん、」
「春原?」
「うん。寒がりなのにいつも手袋はしてないから。それが頭に残ってたのかも。」
今自分がしている黒色の手袋に目を落とす。この手袋ももう2年くらい使ってるなあ、なんて思いつつ、さっちゃんの相槌が消えたことに気づいて。
「・・・さっちゃん?」
不思議に思って隣に座るさっちゃんを見上げれば、彼女はまるでお母さんのような顔をして。
「・・・あんたねえ。」
「ちょっ!なにするの!」
マザーシラカワの顔のまま、私の頭をわしゃわしゃと撫でる。
なになに、と聞こうとしたタイミングで春原くんたちが帰宅する。買ってきてくれた温かいココアを一口。・・・ああ、幸せ。
その後も4人でのんびりと話し、気づけば私もさっちゃんもベンチから芝生に移動していた。楽しい時間はあっという間で、そろそろ帰るかと皆で立ち上がる。
「じゃあ、また明日・・・じゃなくて、もう冬休みなのか。」
「ね。次は年明けかあ。」
そうだ、もう冬休みに入っていたんだった。短い休みのくせして、課題の量はやけに多い。
ここからだと家の方角的には私は1人だけ別なのだが、春原くんが送ってくれるというので素直に甘える事にする。
「ちょっとゴミだけ捨ててくるね。」
「あ、俺行くよ。」
「いいよいいよ。すぐそこだし。」
時間も遅くなって人もまばらになった公園の中を、
少し先に見えるゴミ箱に向かって歩き出した。
「春原!」
結依がゴミを捨てに行っている間、じーっとイルミネーションを見ている春原の名前を呼ぶ。いつものようにのんびりと振り返った彼に、はい、と手袋を握らせた。
「交換して。あんたのハンドクリームと。」
「え、なんで」
「いいから。早く。」
不思議そうな顔をしつつも春原くんは私の手にハンドクリームを乗せる。よし、これで取引完了だ。さっきの結依の顔を思い出して、思わずまた笑みがこぼれる。
「・・・春原が手袋してなかったから。」
「?」
「だから結依。手袋思いついたんだって。」
何言ってるんだ、という様な顔で春原が私を見る。
あーあ、さっきの結依の顔。春原にも見せてやりたかったな、なんて。
全くもう、結依も、あんたも。
「プレゼント交換なのに、あげたい人決まってたら困っちゃう。」
少し意地悪だっただろうか。
春原は一瞬眉を上げて、ふっと息を吐き出すように笑う。
帰ってくる結依の姿が見えて、またねとそのまま手を振った。
結依たちと別れて、
塚田と一緒に静かな夜道を歩く。
「・・・結局俺も。」
「ん?」
「あげちゃった、秋山に。」
そういって悪戯っ子のように笑った塚田の手には、えんじ色のブックカバー。なんだ同じことを考えてたのか、そう思って私も笑ってしまう。
「あーあ。塚田にだけは渡らないようにって思ってたのに。」
「まーた傷つくこと言う。」
「だってあんた本読まないじゃん。」
「読むよ、これから。ていうか最初から俺に渡ってたらどうするつもりだったの。」
どうするつもり、って。
「そうやって」
「ん?」
「そうやって言ってくれると思ってた。『読むよ、これから。』って。」
意表を突かれたような顔で塚田は一瞬固まった。
少し間があって、ははっと彼は少し照れたように笑う。
「やっぱり白河って男前だよな。」
「それ褒めてんの?」
「褒めてる褒めてる。」
カバンからハンドクリームを取り出して、自分の手に塗り込む。
瞬間にいい香りがして、ああ、落ち着くなあ。
「いい匂い。」
「・・・でしょ?俺の好きな匂い。」
「それを春原がつけてたかもしれないと思うと笑えるね。」
「確かに。」
塚田の好きな匂いを身に着ける春原。それを想像するとなんだかシュールすぎて笑いがこみあげてきてしまう。塚田も同じなようで、2人してお腹を抱えて笑い出してしまった。
『じゃあね、また3学期に。』
クリスマス会の後、家の近くまで送ってくれた春原くんとはそう言って別れた。
そのまま年末を迎えて、年を越して、短い冬休みはあっという間だった。
クリスマスの街は浮かれていて、2人きりで歩くのがなんだかすこしこそばゆくて、でも楽しくて。もっともっと、これからも楽しい事が出来たらいいな、なんて思って、でも。
またね、と約束したはずの3学期に、彼の姿は無かった。
「・・・暴力、沙汰?」
登校日、私の隣は空席だった。
体調でも悪いのかな、くらいにしか考えていなかった私の耳に、そんな言葉が飛び込んできたのは、お昼休みで。
どうやら年明けに街中で高校生の喧嘩、暴力騒ぎがあったらしい。大きな怪我人が出てしまった訳ではなかったようだが、警察も出動してしまったらしい。
・・・そこに、春原くんがいた。
そんな噂がたってしまっているようで。
「そんな訳ないじゃんねえ。」
笑ってそういうさっちゃんに私も頷く。
クラスの皆もさっちゃんと同じような反応で、物珍しい話題に嫌なザワザワは少しだけ広がったが、それ以上誰かが何かをいう事は無くて。すぐにまた別の話題に移り変わった。
後日、実際に暴力事件と春原君は無関係だった事が分かった。春原くんはたまたまその場に居合わせてしまっただけで。予想通りの事実にだよな~なんて皆が笑って、その反応も軽くて。・・・でも。
「春原、来ないねえ。」
私の机に頬杖を突きながら、さっちゃんが心配そうにつぶやく。
その視線は、空っぽのままの隣の席に向かっている。
一週間たっても、春原くんは学校に来なかった。
メッセージへの返信は無いし、塚田くんも何も聞いていないみたいで。花ちゃんが何か知ってればなんて思ったけど出張と研修で週明けまで休み。あの毒舌性悪イケメン教師め、こんな時に限って・・・というのはただの八つ当たりだと自覚している。ごめん花ちゃん。あ、イケメンは褒めてるか。
・・・何かあったのかな、そんな不安は徐々に大きくなっていく。
険しい顔をしてしまっていたのだろう、さっちゃんが私の眉間の皴を広げてくれる。痛い痛い、ちょっとまってそんな両手でやらないで。
「大丈夫だよ。」
「・・・うん、そうだよね。」
さっちゃんの大丈夫は何よりも心強い。
心強いはずなのに、胸のザワつきが収まらないのは一体なぜだろう。
そんな不安を更に重ねように聞こえてきたのは、
新たなウワサで。
「本当だって!先生の事殴ったんだって!」
1人で廊下を歩いていれば、聞こえてくる女子の声。物騒な言葉に思わず足を止めれば、私はそこから一歩も動けなくなる。
「3組の春原くん。知ってる?」
「ええ、あのちっちゃくて可愛い人?」
「そうそう。中学生の時にそれで停学になったらしいよ。」
「それほんと?」
「私の彼氏南高のバスケ部なんだけど、彼氏と同じバスケ部の子が春原くんと中学校同じだったんだって。だから本当だと思うよ。」
『暴力とかさあ。気を付けた方がいいんじゃない?』
クラスマッチの打ち上げの時。
そう言って意地悪に笑った男の子の顔を思い出す。
「え~それ本当だったら怖すぎない?」
「ね。あの感じで暴力沙汰とか一番怖いタイプだよね。」
クスクス、クスクス。女の子たちが笑う。
きっと彼女たちは春原くんと一度も話したことが無くて、ただ噂話が好きで、今笑っているんだ。明確な悪意も何もないのに、ただただ笑ってるんだ。そう思うと、泣きたい気持ちになる。
心臓がじんわりと痛んで、
彼女たちが立ち去ってからも、私はそこを中々動けなかった。
噂と言うのは直ぐに広まるんだなあ、というのを痛感する。
今朝からクラスのあちこちで嫌なざわめきが聞こえてくる。
チラチラと動く視線の先には春原くんの席があった。
「・・・嫌ね。」
何が、とは言わずさっちゃんが顔をしかめる。塚田くんも頷いて、困ったように春原くんの机を見つめた。又聞きの又聞き。根拠のない噂程よく広まるというのは本当だ。
春原くんの机に視線が集まるという事は必然的に私も視線を感じてしまい、何とも言えない気持ちになって握り締める手に力がこもる。
「そういえばアイツさ、遠くの中学校から来てるよな。」
嫌なざわめきは静まらなくて、
そしてそのうち、一線を誰かが破った。
「なんか俺、今は両親じゃなくておばあちゃん家で住んでるって聞いた事あるぜ。」
「なにそれ、絶対訳アリじゃん。」
徐々にザワザワが大きくなっていく。
ええじゃあ、とか、でもそれは、とか、勝手な憶測が飛び交って、俺はこう思う、私はこう思う、好き放題言い出すその声はとても冷たく聞こえる。・・・ああ、嫌だ。
いつもにこやかな塚田くんの表情が険しくなっていくのが分かる。
さっちゃんも、拳を握り締めていて。
「春原って何考えてるのか分からない所あるもんな。」
「確かに。裏でそういう事してるっていわれても、納得しちゃうかも・・・」
おいっ、と耐え切れなくなって塚田くんが声を上げたと同時に、バンッ、と大きな音がして、その音に皆顔を挙げた。噂話がやんで、教室全体が静かになる。机に手を強く叩きつけた音、その一点に視線が集まる。
机をたたいて立ち上がったのは、私だ。
「・・・確かに、春原くんは、いつも寝てるし、授業全然聞かないくせに頭いいし、人の事小馬鹿にするし、すぐ揚げ足とるし、興味ない事にはとことん冷たいし、身長低い事コンプレックス過ぎて怖いし、」
「結依。ディスってるディスってる。」
「ていうか隣になってからなんか先生に当てられる回数増えたし、頭揺らし過ぎてデフォルトで私も目立つし、後輩からの視線は痛いし、まずなんであの中年独身はそんなに私に辺りが強いのか・・・」
「秋山。関係なくなってるから。」
両隣からツッコミが入る。危ない、なんか脱線してしまっていた。
とにかく、とコホンと咳払いをして。
私が言いたいのは。
「私は春原くんを信じてる。でもだからみんなも信じろって言うんじゃなくて、色々な事を言うのは本人が喋ってからでよくないかな。私は他の学年の人に、他のクラスの人に憶測で何言われたって構わないけど、でもこのクラスの皆に言われるのは悲しいよ。一緒に過ごしてきた皆の中で、嫌なザワザワが広がってくのは悲しいよ。」
春原くんはそんな人じゃない。私は心の底からそう思っている。でもそうは思えない人もいるかもしれない。それはそれで仕方のない事だけど、でも、どちらにしたって今言う事じゃないんじゃないかな。何も分からないうちに言ったって、本当に何も分からないんだから。
「・・・結依。」
私の名前を読んで、さっちゃんが拳に手を添える。その時に初めて自分が手を強く握りしめていた事に気づいて。・・・いや、待って。
「さっちゃん!手が真っ赤になってる!!なんで!?!?」
「そりゃあんだけ強く叩けば赤くなるでしょ。」
「あ!忘れてた!どうりでヒリヒリするわけだ!!」
「数分でなんで忘れるかね・・・。ほら、冷やしに行こう。」
さっちゃんに手を引っ張られてそのまま教室を出る。と、一緒にクラスメイトが何人か付き添ってくれて。
保健室で氷を借りて、次の授業が始まるため皆は教室に戻っていった。私は手の痛さを理由にして、保健室に居座る事にする。
・・・私だって、気まずいという感情くらいある。
「あーあ、やっちゃったあ。」
ため息とともに独り言が漏れた。皆にどう思われたかな。ていうか春原くんは本当に何してるのかな。私はどうしてればいいのか。ああ、もう。
色々と考えると涙が出てしまいそうだから、考える事を放棄して椅子に座ったまま窓の外を眺めた。保健室の真下は正面玄関で、せわしなく出入りする業者の人の姿見えた。
大変だなあ、なんて他人事で眺めていれば、丁度正門から出て行くリュックを背負った男の子。少し癖毛の茶髪。ダルそうな歩き方。
間違いない。そう思った瞬間に保健室を飛び出していた。
「おい!どこに行くんだ!」
途中、よりによって生徒指導の先生に掴まる。授業中でほとんど人がいない廊下を全速力で駆けているんだ、目に付くのは当然だろう。無視することも出来ないけど、でもじゃあなんて言って説明すればいい?ああもう。どうすればいいの。
上手く言葉に出来なくて、その分込み上げてくる涙と闘いながらそれでも懸命に言葉を探す。いっぱいいっぱいの私の前に立ちふさがったのは、シワ一つない制服。
「先生。彼女には事務室に行ってもらう所なんです。」
「なんで授業中に・・・」
「具合が悪くなってしまった生徒がいて。親御さんと連絡を取るために、彼女に事務室に伝えてもらおうと思って。」
飄々とした顔で嘘をつく会長は、チラリ、と後ろを振り向いて。信じ切っていない顔で何かを言おうとした先生に、今度はまた別の声がかかる。
「井上先生、小テストの時間終わりましたよ。」
「まだそんなに経ってないだろう。」
「経ちましたよ。早く早く、答え合わせお願いします。」
「・・・分かった分かった。今戻る。」
教室の窓から顔をのぞかせた舞先輩はそう言って先生を教室に呼び戻す。
もうそんな経ったかな・・・と呟く先生に、時間が経つのって自分が思ってるよりも早いんですよね、と舞先輩がチラリと井上先生の薄くなり始めた後頭部を見たのを私は見逃さなかった。難易度の高いあおり。さすが舞先輩、アッパレ。
納得いかない顔のまま、けれどそれ以上何も言わず教室に戻っていく先生を見ながら、会長は私の背中を押してくれて。
「廊下は走るな。と言いたい所だが、急いでるんだろう。早く行くといい。」
「っ!ありがとうございます…!」
「ただ周りはきちんと確認するんだぞ、いいな。気を付けて。」
その言葉に力強く頷く。背後からあれ~、すみません。まだあと10分もありました。なんて微塵も悪いと思って無さそうな舞先輩の声が聞こえてきて、心強すぎる味方に走る足取りが軽くなったような気がした。
校門を出て、彼の姿を探す。
右か、左か、どっちだ。家の方面だったら右だよね、よし。
運動音痴秋山、精一杯の走りで道路を疾走しております。頑張れ私。
歩行者信号があるコンビニの前で、見慣れた後ろ姿を見つけて。
「のっ・・・はらくん。」
駄目だ、息切れが凄い。今日まで運動してこなかった自分を心底呪っている。
青信号に変わってしまう前に、息を整えなければ。もうこれ以上追える自信がなくて、ゆっくり息を吐きだした。
「すのっ・・・はらく・・・!」
「春原くん!!」
ピカッ、と歩行者信号が青に変わる。
けれど、彼は歩き出さなかった。ゆっくり振り返って、驚いた顔で私を見つめる。
彼が何かを言ったけど、車通りが多くて聞き取れない。ううん、車通りが多いせいだけじゃなくて。
「秋山、どうしたの?」
私がいるところまで戻ってきてくれた彼は、大きなマスクをしていた。いやそれは顔が小さいのか。その声が掠れているのとマスクで口元が見えないので、彼の声が聞き取れなかったのだ。
「・・・春原くん、風邪、ひいたの?」
「ううん、インフル。」
「インフル!?!?」
そんなに驚く?と笑った彼はその拍子にむせて、コホッと少し苦しそうに咳をする。
インフル・・・?インフルか、え、インフル?
じゃあ休んでたのは・・・
「ずっと、体調悪かったの?」
「そう。まさかインフルエンザだなんて思ってなくて。最初は病院に行かないで家にいたんだけど、全然治らないから。」
診断を受けてから昨日でちょうど一週間。本当は今日から登校できるはずだったのだが、まだ咳が出るからもう1日だけ休むことにしたらしい。
「でも昼前にはだいぶ良くなったから。とりあえず公欠届だけ受け取りに来たんだ。」
「・・・」
「花ちゃんが出張だって聞いてたからインフルの報告するのも休み明けでいいかなって。・・・秋山?」
俯いたまま何も話さない私に、春原くんが不思議そうに首をかしげる。
インフルエンザ。そっか、インフルか。なるほど。なるほどね。うん。
「・・・良くないけど、良かったあ・・・。」
「!?・・・ちょっ・・・」
安心したら一気に気が抜けて、ポロポロと涙かこぼれだす。急に泣き出した私に春原くんは見たこともないくらい焦っていて、でもその姿を楽しむ余裕は今の私にはなかった。
暴力という言葉の怖さ、不安だった気持ち、クラスの皆に嫌われてしまったかもしれないという恐怖、色々なものが決壊して、全て涙として溢れてくる。涙を拭う事すらできなくて、そんな私に春原くんは慌てながらも巻いていたマフラーをとって、頭からかけてくれる。
人通りが少なくない昼過ぎ、春原くんのマフラーに包まれながら、子供みたいに泣いてしまった。
「そっか。そんな事になってたんだね。」
ズビーッと鼻をかみながら、春原くんの言葉に頷いた。
泣いている私の手を引っ張って近くの河川敷まで移動してくれて、今は川辺のベンチに2人で腰かけていた。
学校で噂になって居たことも全く知らなかったようで、でも春原くんは大して驚いたような顔はしなかった。中学校の時の事はいつか話題になると思ってたから、そう言って彼は少し自虐的に笑う。
「・・・俺、本当に、人の事怪我させた。」
少しの沈黙のあと、春原くんがそう言って語りだす。
その言葉に、驚かなかったと言えば嘘になる。でも、でもきっと。
「わざとじゃ、ないんでしょ?」
「・・・どうだろ」
「わざとじゃないよ、絶対。」
春原くんが言い終わる前に、もう一度強く重ねた。
驚いたように私を見る春原くんを真っすぐに見つめ返す。
「・・・秋山は、どうして無条件にそう信じてくれるの。」
「どうしてって。」
春原くんはそんな人じゃないから、意地悪なふりして実は優しいから、色んな言葉が思いついたけどどれもしっくりこなくて。
・・でも、ああ、これだ。
「春原くんは、大切な隣人だから。」
私の言葉に、春原くんは一瞬呆気にとられたような顔をする。
そして俯いたと思ったら、その肩が徐々には震えだして。気付けば、声を上げて笑い出していた。
今度は私が呆気にとられる番だ。声を上げて笑っている春原くん、史上初である。
しかもその笑いは中々収まらず、ついにはお腹を抱えて笑い出していた。なんでこんなに笑われるの、少し腹が立ってきたぞ。
「そこは、大切な友達だからとかじゃないの。」
「なんかこれが一番しっくりきたから。ていうかそんな笑う?」
「ごめんごめん。」
ひときしり笑い終えた春原くんは涙をぬぐいながらそう謝って、はあ、と息を吐いて穏やかな川に視線を向ける。
「わざとじゃないよ。・・・でも、俺が怪我させてしまった事には変わりない。」
中島先生。
それが、春原くんが怪我をさせてしまったという相手だった。
春原くんはゆっくりと語りだす。
小学生からミニバスをやっていた春原くんは、中学校でもバリバリに部活をやっていて。・・・ここがもう想像できないというのは胸の中に留めておく。
強豪校で人数も多く、レギュラー争いも過酷だったそう。そんな中で春原くんはレギュラーを勝ち取った。・・・でも。
「練習中に、転んで足怪我した。」
クラスマッチの時、痛そうに足を引きずっていた春原くんを思い出す。靭帯を切った、そう語った彼の顔も。
激しいレギュラー争い。少しでも休めばそこに居場所がなくなる事は明白で。
用意した退部届を顧問の先生は受け取ってくれなかった。その顧問の先生が、中島先生。まだ若い男の先生で、自身もインハイ出場経験のある選手だったらしい。やめようとする春原くんを何度も引き留めてくれた。
「まだ諦めるには早いって。でも俺はその時怪我した事がショックで、何も聞き入れられなくて。」
「・・・うん。」
「その日も、俺を引き留めに来てくれた。階段の途中で声をかけてくれて、でも俺はやっぱりその行為すら苦しくて。」
『もう辞めるって言ってるじゃないですか!』
そう言って、先生の腕を振り払った。その動作が思ったよりも強くなってしまって、先生の体がふらつく。
そして、足を滑らせた。
全部がスローモーションに見えた。そう言って春原くんは小さく息を吐きだす。
階段から落ちた先生は、右足に全治2か月の骨折をした。治療のために中々部活に顔を出せなくて、3年生はその状態のまま最後の総体を迎えたという。
「先生は春原のせいじゃないって。むしろしつこくしてごめんなって。先生がそう言ってくれたのもあったし、見ていた人もいたから故意じゃないって事はすぐに分かった。先輩たちも、全然俺の事責めなくて。」
でも。
「それがもっと、辛かった。」
むしろ彼は責めてほしかったのだ。お前のせいだと憎まれた方が楽だったのだ。優しくされるのが、一番苦しくて。きっと必要以上に自分で自分を責めた。
その後、春原くん自身も集中して足の治療をするために少し学校を休んで、その期間を停学だと騒ぎ立てた人たちがいたらしい。クラスマッチの打ち上げの時に出会った彼も、その一人。レギュラー争いで負けた人たちが流した捻じ曲がった噂を、彼は否定しなかった。怪我させたのは事実なんだから、と。
「先生とは今も連絡とってるし、今は違う中学校でバスケ教えてるって。でもこれ以上変なうわさが広がらないようにって移動してくれたのを知ってるから、俺も、けじめをつけたくて。」
それに両親も気にしてたから、と春原くんは苦い顔で呟く。
「ずっと応援してくれてたのを怪我しただけじゃなくてこんな形でも裏切っちゃって、どうすればいいか分かんなかった。」
「・・・。」
「・・・けじめとか言って、結局逃げちゃっただけなんだよなあ。」
そう言って自虐的に笑う。そんな笑顔が痛々しくて、でもきっとこの痛みを私にはどうすることも出来なくて。
しばし無言のまま川を見つめる。沈黙の後、春原くん、と彼の名前を呼んだ。
「苦しい事を、話してくれてありがとう。」
彼がゆっくりと目線を上げる。
「一人でずっと耐えてきたんだね。偉いね。」
「・・・子供じゃないんだから。」
「関係ないよ。偉いから褒めてあげたいの。よく頑張ったね。」
彼の癖毛に触れる。よしよし、と口に出して頭をポンポンと撫でれば、ツッコミながらもその手を払う事はしなくて。
どうにもできないけど、でも分かりたいと思った。彼の痛みに、寄り添いたいと思った。
少しだけ春原くんの瞳が光った気がしたけど、気づかないふりをして川を眺める。気づけば夕日が顔を出して、川に反射して少し眩しい。
「・・・春原くん。」
先に立ち上がって、彼に手を差し出す。
「戻ろっか。」
「・・・うん。」
彼も立ち上がって、ゆっくりと歩き出す。
あ、学校に戻るのは私だけか、なんて途中で気づいたけど、でもいいや。
春原くんが戻るところも結局はあの学校だ、あの教室だ、あのクラスだ。
私の名前を呼んでから、彼がありがとう、と呟く。
その言葉に笑ったまま頷いて、繋いだままの彼の手を引っ張った。
皆の所に、早く帰ろう。