「体育祭、お疲れ様でした!」
かんぱーい!と花ちゃんの合図でグラスがぶつかる音がする。
公約通り、花ちゃんのおごりで打ち上げが行われていた。ただ、焼肉ではなくファミレスで。いやまあそこはね、しょうがないよね。十分だよ私ファミレス好きだもん。
「私、飲み物とってくる。」
「あ、俺も行く。」
ついでに、とさっちゃんのグラスもあずかって、春原くんと共にドリンクバーへ向かう。少し離れたドリンクバーの前で並んで順番を待っていれば、列が出来ているのにも関わらず前の男の子たちが騒ぎながら飲み物を入れていた。同い年くらいだろうか。大声で騒ぎながら、ジュースを混ぜたり、その場でスマホをいじったり。うーん、小さい子達も待ってるのになあ。
特に何かいう事もせず並んで順番を待ち続けていれば、彼らがやっと席へと戻っていく。そのうちの一人がチラッとこちらを見て、そして、立ち止まった。
「あれ?春原じゃね?」
呼ばれた本人は少しだけ驚いたように顔を挙げて、
けれどどうやら知り合いなのはその男の子だけらしい。
何?お前の友達?と春原くんを呼んだ男の子の近くに数人が寄ってくる。
「あー。そう、友達だよな?中学の同級生。」
そう言って春原くんの肩を叩く。彼と言えばいつもと変わらない表情のまま、ああ、と小さな声で答えていて。
「同じバスケ部だったんだよな。」
「へー。ていうかお前バスケやってたの?似合わね~」
「うるせえよ。まあでも途中で辞めちゃったんだけどな。春原すげえ上手かったのに、残念だよな~。」
そう言って彼はニヤニヤと春原くんの方を見た。
・・・なんだろう。なんか、嫌な感じ。言葉の中に、悪意を感じる。
男の子たちは今度は私に目を向けて、またニヤニヤと笑う。
「なに?彼女?やるね~~」
「あ、いや。私はそんなんじゃ・・・」
「でも気を付けた方がいいよ。こいつ。普段こんなんだけど、キレたら手つけられないんだぜ。」
「・・・はあ。」
「暴力とかさあ。気を付けた方がいいんじゃない?」
ピクッ、と春原くんの体が一瞬揺れる。
場の空気か少し変わった気がして、春原くんの反応に男の子は満足そう笑う。やっぱりそこには明確な悪意が見えた。
暴力。なんて言葉と彼は全く結びつかないのに。
列が空くころには彼らは席へと戻っていって、どうやらもうお店を出て行くようだ。すっかり遅くなってしまった。さっちゃんがウーロン茶を待ちわびてる、急がなきゃ。
「・・・春原くん?」
横目で顔を見れば、彼の眉間にはシワが寄っていた。
その表情のまま動かない彼の名前をもう一度呼ぶ。けれど、反応は無くて。
なんとなく目を落とせば、彼がこぶしを握り締めている事が分かった。何かに耐えているのかのように。
私にはそれが、悲しみに見えた。
「・・・春原くん。」
やっと私の呼びかけに気づいて顔を挙げた彼は、自分が険しい顔をしていた事に全く気付いていなかったようで。
「早く席に戻ろう。何飲もうかな~~」
「・・・うん。」
「リンゴジュースか、ジンジャーエールか。うーん。悩みどころ。」
手は動かしているものの、彼の意識はそこにないように見えた。申し訳なさそうに少し眉を下げて、春原くんは私の名前を呼ぶ。
「ごめんなんか。嫌な感じだったよね。」
「ううん、私は全然。」
彼の表情はいつもと同じように見えて、でもやっぱり、少し違った。
「ほら、行こう。」
そう言ってから春原くんの服の裾を引っ張る。少し驚いた顔をした春原くんだけど、素直に私の後をついてきてくれた。
やっぱり私には、彼が何かを悲しんでいるように見えた。
「あ、美和ちゃん。」
遠目に移動教室中の美和ちゃんを見かけて手を振ってみるがやはり睨まれた、解せぬ。
小さくため息をつけば、さっちゃんは笑って。
「さっきまでここで春原と話してたじゃん。またそれ見られてたんじゃないの?」
「・・・あ。」
そうだ。体育が終わってさっきまで自販機の前で春原くんの話してたんだった。内容はほとんど運動というものへの私の愚痴だけど。体育という呪いの授業への愚痴だけど。
そのまま無視されるかと思いきや、なんとまさかの美和ちゃんがこちらに歩いてくるのが見える。え、どうしよう、それはそれで怖い。
険しい顔のまま、カツカツ、と歩いてきた美和ちゃんは、私の前に仁王立ちして。
「あの!」
「はい。」
「秋山先輩って、悠先輩のなんなんですか?」
「えっと・・・お隣さん?」
「そこは友達でいいのでは?」
ごもっともなさっちゃんの指摘に友達です、と言い直す。そのやりとりがさらに美和ちゃんに火をつけてしまったみたいで、彼女は更に眉間に眉を寄せる。
「ただの友達にしては一緒にいる事多すぎません?悠先輩の事好きなんですか?」
「いやそれは誤解だよ。そんなんじゃ・・・」
「じゃあもうこれ以上近づかないでください!私の邪魔しないで下さいよ!!」
「えええっ・・・と・・・」
戸惑っている私の事など放っておいて、美和ちゃんは言いたい事だけ言って背を向けて駆けて行った。・・・怖い、恋する乙女、強すぎる。
「あらまあ・・・熱烈だねえ・・・困ったね。」
「・・・さっちゃん。」
「ん?」
「絶対楽しんでるでしょ。」
「バレた?」
困ったね、なんて言いながらさっちゃんの口角は上がっている。ついにはいやー、面白い事になってきた!なんて言いだして、もう隠す気すらない。
その日から美和ちゃんの熱烈アタックがさらに熱を増した。
最初は友達と一緒に来てだけど、最近は1人の事も多い。手作りのお弁当を作ってきたり、好きなおかず教えてください、私頑張っちゃいます!なんて声が聞こえてきたり。ちなみに春原くんはのりたまって答えてた。それおかずじゃないからね、ふりかけだから。・・・いや、ふりかけもおかずなのか?
本を選びながら、はあ、と思わずため息をついてしまう。
アピールに熱が入ると同時に、私への敵意もむき出しになっていて。普通にヘコむ。
予約していた本が届いて嬉しいはずなのに・・・いや、いかんいかん。気持ちを切り替えよう。今日はたくさん本を読もう。そしてのんびりするのだ。
あとは何を借りようかなと本を選んでいれば、後ろの方でコソコソ声がする。振り返ればそこは図書館の中の学習スペースで。数人の女の子たちが教科書を広げながら小さな声で笑いながら話していた。見たことの無い子たちで、1年生だろうか。
「やばいよね。男子にモテたくて必死って感じ。」
「それな。先輩の教室に毎日押し掛けるって普通に怖くない?」
別に会話を聞くつもりは無かったのだけれど自然と耳に入ってきてしまう。
彼女たちの視線の先には彼女の姿があった。
「よくやるよねほんと。もっとさあ、他にやる事あるんじゃない?」
「勉強とか?」
「あはは。ちょっと、聞こえるよ。」
やめなよ~、なんて言いながらクスクス笑う。聞こえるように言っているのだろう、美和ちゃんは下を向いたまま、でもその肩は震えていて。
彼女たちの声の音量は徐々に大きくなっていて、周りの視線も集まり始めていた。それが余計美和ちゃんの存在を小さくしているようで。なんか、こんなの。
「それ、何か関係あるの?」
こんなの、違う。
「・・・え?」
「マニキュアしてたり、香水つけたり。それが何か皆に関係あるの?」
えっと・・・と彼女たちが口ごもる。急に現れた私に美和ちゃんは驚いた顔をして。
美和ちゃんの手をとって、爪を見る。ラメが入った、カラフルな爪。所々剥げていて、上手く塗れていない所もあって。・・・うん、でも。
「私は可愛いと思うけどな。」
美和ちゃんが息をのむ。同時に図書室の先生が近づいてきて、ここは図書室だから、静かにね。と優しい声で注意される。女の子たちも素直に返事をして、いそいそと教科書に向かい始めた。
私も本を借りに行こう、そう思いながら美和ちゃんの手を握りっぱなしだったことに気づいて慌てて離した。ごめん勝手に、と謝れば、彼女は想定外の情けなさそうな顔をして私に小さく頭を下げる。
「こ、これで恩を売ったなんて思わないでくださいね。」
「思わないよ。・・・ていうか、大丈夫?」
「秋山先輩に心配される筋合いなんてありません!」
大きい声を出してしまった自分に驚いたのか、彼女は自分の口を押える。
とにかく、と美和ちゃんは息を吐いて。
「好きじゃないなら悠先輩に近づかないでください・・・っ・・」
そう言い残してその場を去ろうとしたけど、途中で躓いて、持っていた本を落としてしまう。拾うのを手伝おうと近づけば、タイトルが目に入ってきてしまって。
「・・・初めてのお菓子作り・・・不器用さんにも出来る、男をオトス定番料理・・・」
思わず読み上げてしまえば、美和ちゃんにキッと睨まれる。その顔は真っ赤で。
「わっ、わすれっ、忘れてください!!」
急いで本をかき集めて美和ちゃんは再び立ち上がる。途中椅子に足をぶつけたり、ドアに激突したり。いや、動揺が凄い。
・・・さっちゃん。彼女、意外と私に似たものを感じます。
大分肌寒くなってきたなあ。もうすぐ冬が来るのかなあ、なんて考えながら廊下を歩く。テスト期間中は練習が休みになる部活も多くて、校内は静かだ。
誰もいないだろうと思いながら中庭を通り過ぎれば、そこには珍しい人の姿があった。おーい、と声をかければかれはゆっくりと顔を挙げて。
「どうしたの?こんなとこで。」
「花ちゃんに呼び出されてた。」
「なるほど。・・・で。何か待ってるの?」
「いや。」
その返答と共に、ぐーっと春原くんのお腹が鳴る。はあ、と彼はため息をついて。
「お腹すいて動けない。」
「・・・何歳児?」
そういえば今日はお昼休みずっと寝ててご飯食べてなかったな。そりゃお腹もすくわ。
何か持ってないかなあ、とカバンを漁れば。透明な袋でラッピングされたクッキーが出てくる。
「これ食べる?今日調理実習で作ったやつ。味は保証できないけど。」
「クッキー?」
「そう。ジンジャークッキー。・・・って、春原くん甘いもの苦手じゃんね。」
ごめんごめん、としまおうとすればその手を掴まれて、彼が私の手からクッキーを奪う。
声を出す暇もなく彼は私のクッキーを一口。ポリポリ、という音が小さく響く。
「・・・うん、美味しい。」
「無理して食べなくていいんだよ?」
「してない。本心。」
「・・・ならよかった。」
隣に私も腰掛けて、一緒にクッキーをつまむ。よかった、塩と砂糖を間違えるなんて初歩的なミスはしてなくて一安心。
まだ多少秋めいている風にあたりながら、2人でしばらく無言のままベンチに腰かけていた。涼しい風も、柔らかい日差しも、全てか心地よかった。
「・・・あの。」
今日も乗り切った~、なんて思いながら背伸びをすれば一緒に欠伸がこぼれる。
帰る準備をして教室を出れば、珍しく美和ちゃんに声をかけられた。
「えーっと、春原くんなら、今職員室行ってるからもう少しで帰ってくると思うよ。」
「あ、いや、違うんです。今日は、秋山先輩に用事があって。」
「私に?」
不測の事態過ぎて目をパチクリしてしまう。そんな私を、美和ちゃんは上目遣いで見つめた。・・・うーん、100点満点。
「キーホルダー?」
「そうなんです。さっきの時間体育だったんですけど、片付け中に倉庫の中でなくしてしまったみたいで。」
美和ちゃんに連れてこられた場所は体育館だった。どうやら大切なキーホルダーを無くしてしまい、それを探すのを手伝ってほしいとの事。
「どのへんで落としちゃったの?」
「多分、こっちの方・・・」
スマホの明かりを頼りに倉庫の奥へと入っていく。
なんか色んなものが落ちているけど、そこにキーホルダーのようなものは見当たらなくて。どこにあるんだろう・・・。
「およ?」
突然ガラガラガラ、という急に大きな音がして振り向けば、
もう既にと着遅し。さっきまであったライトの光が遮断されていて。
「っ・・・先輩が悪いんだから!」
続けざまにガチャン、という音がする。
鉄の扉を挟んで、美和ちゃんの泣きそうな声がした。
突然の出来事に頭が追い付かない。
「悠先輩にこれ以上近づかないでって言ったのに!!」
「いや、でもね、美和ちゃん。隣人だからある程度は・・・」
「この前だって!!先輩、私のクッキーは貰ってくれなかったのに!!」
あ、あの時。調理実習の後。・・・見られてたんだ。
でもあれは春原くんの優しさであって、別に特別な意味なんて何もないのに。
「天然ぶって!何も知らないような顔して!!平気で人の恋を邪魔するんですね!!どこまで計算してるんですか!?」
「いやいやいや。大分誤解が・・・」
「私!!あなたみたいな人!!大っ嫌いです!!」
「っ・・・」
大嫌い、その言葉はさすがに刺さる。
思わずひるんでしまった私に。美和ちゃんは震える声で畳みかける。
「だっ、だから!ここで反省してください!そのうちバレー部が練習にくるので!そしたらここ開くから。それまでっ・・・」
「えーー、と。美和ちゃん?」
「スマホ持ってますよね!?なにかあったら電話かけれますよね!?」
「意地悪なの?優しいの?どっちなの???」
震える声のままちゃんと私がスマホを持ってることを確認した美和ちゃんは、
結局鍵は開けないまま体育館を出て行ってしまったようだ。
シーン、と途端に静かになる。
体育倉庫は埃っぽくて、とりあえず暗くなる前に電気をつけておこう。
そう思って電気に手をかけるが、嘘でしょ、つかない。
小さな窓の外には黒い雲が広がってきていて、無意識に手に力が入る。
秋山結依、17歳。
人生で体育倉庫に閉じ込められる日が来るとは思いませんでした。
ゴロゴロと低重音がして、外を見ればいつの間にか真っ黒な雲に覆われていた。
これは夕立がきそうだなあ、早く帰らなきゃ。なんて思いながら、左の席に目を向ける。
空っぽの席には、まだスクールバックがかかっている。
時計を見れば時刻は18時半前。もうすぐ、下校時刻の放送が鳴る。
校内で迷子?どこかの教室で寝てる?・・・いや、カバンを忘れて帰った?
全て相当間抜けな選択肢だが、彼女ならあり得る。本気であり得る。
スマホを開いてみても、どこ?のメッセージに既読はついていない。
小さくため息をついてしまえば、同時に教室のドアが開いて。
「おお、春原。まだいたんだ。」
「・・・お疲れ。」
入ってきたのは部活終わりの白河で、その髪は雨でぬれていた。
もう急に降ってきちゃってさ~、と不満そうに口を尖らせた白河。
「なんか今日人少なくない?」
「テスト期間中だからじゃない。ほとんど部活休みになるし。」
「あ、そっか。自分の部活がブラック部活動なのすっかり忘れてた。」
そう言いながら白河も俺の隣の席に目を向けて、
あれ、と不思議そうな顔をする。
「結依もまだいるの?」
「分からない。ずっと置きっぱ。」
「そうなんだ。どっかで迷子になってるかな。・・・それかカバン忘れて帰った?」
顎に手を当てて真剣な顔で全く同じ考えをつぶやく。
思わず笑ってしまいそうになれば、一瞬の眩しい光に目がくらむ。
あ、光った。
そう思ったと同時に轟音が響く。
「びっ・・・くりした・・・雷すごいね。」
窓の外に目を向ければ辺りはすでに暗くなっていて、先ほどよりも大粒の雨が打ち付ける。
間抜けな下校時刻を知らせる音楽が流れてきたけど、
やはり秋山が戻ってくる気配無くて。
「・・・大丈夫かな。」
「ん?」
アゴに手を当てたまま、白河は彼女の名前を呟いて、
心配そうに眉を寄せる。
「お化けも高い所も虫もコモドオオトカゲとにらめっこも平気なんだけど」
「それが平気って分かった経緯が気になる。」
「駄目なんだよねえ、あの子。」
そう言った白河は、不安そうに真っ黒な空を見上げる。
カタン、という小さな音がして振り向けば、そこには春日が立っていた。
「あ、春原チルドレン。どうしたの?」
そんな呼び方してたんかい、なんて突っ込む隙もなく。
カバンが置きっぱなしの秋山の机をみて彼女は顔を真っ青にした。
「秋山先輩。まだ、戻ってきてないんですか・・・?」
「・・・ねえ、何か知ってるの?」
ただならぬ様子に白河も顔色を変える。
震えた声のまま事情を話す彼女に、きっと俺の顔色も変わっていた。
「あんたねえ!!今!テスト期間中!!」
珍しく声を荒げる白河と、その言葉に顔を更に真っ白にする春日。
そんな2人を横目に、俺は走り出していた。
頼りにしていた窓から入る微かな光はすでに消えて。
窓に吹き付ける雨と風の音。響く低重音。必死に耳をふさぐ。
お化けは怖くない。もしいたとしてもとりあえず話してみればいいと思っている。話してみればいい人、なんてよくある事だ。血まみれでも、怖い顔をしていても、話さなければ分からない。まずはそこが第一歩、だから怖くない。高い所も、虫も、コモドオオトカゲだって怖くない。
・・・でも。
「っ・・・!」
あ、光った、と思った瞬間にまた大きな音が響く。
心臓がどきどきして、じわりと涙がにじんだ。この音は駄目だ。心臓の下から響いてくるようなこの音だけは、どうしても苦手だ。
充電が切れたスマホを握りしめる。この奥に人がいるわけでもないのに、でも、もう頼るものが何もない。
どきどきが激しくなって息が苦しくなる。呼吸を整えようと大きく息を吸ってみれば、埃っぽい空気にむせる。さらに苦しくて、息が吸えなくて。
わたしは、わたしは、どうすれば。誰か。誰か__
瞬間。また大きな音が響いて強く耳をふさげば、
眩しい光が視界に映って思わず目を瞑る。
雷?いや、違う。これは雷の音じゃなくて。これは、雷の光じゃなくて。
「っ秋山!!どこ!!」
普段は見れない必死の彼の姿をこの目で見たかったけど、
今の私にそんな余裕なんてなくて。
「すのっ・・・はらく・・・」
「大丈夫。もう大丈夫だから。ゆっくり、息吐いて。」
「っ・・・」
「そう。大丈夫。ゆっくりでいいから。」
そう言いながら背中を撫でてくれる。
大丈夫、もう大丈夫。ゆっくり、息が出来る。
「安心して。もう、大丈夫だから。」
なんて春原くんの優しい声が聞こえて、
今度は別の意味で涙が滲んだ。
「・・・少し落ち着いた?」
「・・・うん、ありがとう。」
気付けば激しく打ち付けていた雨は止んでいていて、雷の音も、もうしない。
涼し気な虫の鳴き声も聞こえてきて、なんだか、別の世界みたいだ。
「なんで、私がここにいるって分かったの?」
「春日が。」
「・・・そっか。」
二人で体育倉庫のマットの上に腰かけたまま、
窓から入る月の光を見上げる。
少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「・・・美和ちゃん。」
「ん?」
「付き合ってくれてたの。えっと、私の練習に。ほんとだよ。」
「・・・練習って、何の?」
「えーっと。・・・跳び箱?」
「なんで跳び箱?」
「・・・なんか。飛びたくて。」
「なんで春日と?」
「・・・・・・なんか美和ちゃん、いつも飛んでるから。」
「それディスってるよね?」
違う違う。いや、ディスったかもしれないけど。・・・ん?違うな、春原くんの方が絶対ディスってるな??
じゃ、なくて。
「間違えて、カギ閉めちゃったの。」
「・・・。」
「間違えちゃったの。・・・分かった?」
「・・・はいはい。」
少し呆れたように、彼はため息をつく。
そんな彼の前髪は珍しく寝癖以外で乱れていて、私の事を、探してくれたからだろう。
手を伸ばして、彼の前髪に触れる。
驚いた顔をした春原くんだったけど、私の手をのける事はしなくて。
・・・春原くん。
「助けに来てくれて、ありがとう。」
怖くて苦しかった時間がもうずっと前の事のようで、
暗闇に飛び込んできてくれた春原くんが、ヒーローみたいだった。
彼は一瞬固まって、そして斜め下を向く。その表情が見えなくて覗き込もうとすれば、私の頭をポンポン、と優しく叩いて、彼は笑う。
「・・・本当に、秋山は。」
バカだなあ、そう言て私の頭を撫でる彼がまるでとても愛おしいものを見るかのような目をしていたから少し、ドキっとしてしまった。
「美和ちゃん。最近来ないねえ。」
購買で戦争ののち手に入れたメロンパンにかじりつきながら、
ドアの外を見つめる。
数か月間ずっとそこにあった姿は、ここ最近見かけなくなっていた。
「まあ色々反省してるんじゃない?」
同じくメロンパンをかじりながらさっちゃんも扉の方に目を向ける。
あの日、体育倉庫に閉じ込められた日。
春原くんと一緒に教室にカバンを取りに戻れば、そこには泣きじゃくる美和ちゃんと怖い顔をしたさっちゃんがいた。あの顔で怒られたら私も号泣するだろう、間違えない。
美和ちゃんは泣きながら何度も私に謝罪をして、最後は走って教室を出て行ってしまった。それからというもの、学校で話す機会は無くて。
「・・・あれ。その子じゃない?」
意識がトリップしていた私を塚田くんの声が現実に呼び戻す。
その言葉に教室の入り口に目を向ければ、
彼女がペコッと会釈をした。
美和ちゃんに呼び出されて、2人で空き教室の机に腰かける。
「結構バッサリいったね。」
「これはなんというか、けじめというか・・・。」
「可愛い、似合ってる。」
皆にまだ言ってない事があった。私は女の子は断然ショートカット派です。
可愛い~と言いながら近づいて髪を触りまくる私に、
美和ちゃんははあ、と少し呆れたようにため息をついて。
「先輩って、やっぱりヘンですね。」
「え、そう?」
「自覚無いんですか。・・・あの、この前は本当に・・・」
「やめてよ。もう大丈夫だから。」
私が止めるのにも関わらず、美和ちゃんは深々と頭を下げる。
震える声のまま、彼女は勢いよく顔を挙げた。
「私の、ただの嫉妬です。どれだけアピールしても全然響いてないのが分かって。その上友達関係も上手くいかないし。」
「美和ちゃん・・・」
「悠先輩が結依先輩のことをなんか特別に思っているのにも気づいてしまって。本当にただの嫉妬。八つ当たりです。」
「それに関してはきっと勘違いだよ。」
そこで一度黙って、美和ちゃんはこぶしを握り締めて、意を決したように口を開く。
「だ、だから・・・大嫌いって言うのも、訂正させてくださいっ・・・!」
恥ずかしそうに、情けなさそうに、真っ赤な顔して彼女は不安げに私を見る。
きっとこれが、美和ちゃんの精一杯。十分だ。
「でもやっぱり私、悠先輩の事が好きです。」
まっすぐ私の目を見て、美和ちゃんはそう言って微笑む。
「入学式の時、学校に来るまでの途中で迷ってしまって。スマホもまだ持ってなかったし、時間も迫って困ってた時に。悠先輩が声をかけてくれて。」
『こっちだよ。』
『大丈夫。一緒に行こう。』
「それだけの事かって思うかもしれないけど。私意地っ張りだから人に頼る事ってあんまりできたことなくて。だから、すっごく、嬉しくて。」
入学後、顔だけを頼りに春原くんの事を探していて、1つ上の先輩だという事を知って。声をかけるチャンスを狙っていた。メイクを勉強して、料理を勉強して、可愛いって、思ってもらいたかった。
「話してからも、好きになる一方だったんです。悠先輩、無愛想だし、いつもだるそうだし、味の好みが意外とうるさいし、私に興味なすぎてもしかして同性が好きなのかなって思ったこともあるけど・・・」
「えーーっと?なんか大丈夫???」
「でも、本当はすごく優しくて、人の事よく見てて、細かい変化にも気づいてくれて。」
「・・・うん。」
「だから、私まだ悠先輩の事は諦めません。」
美和ちゃんの顔は、何かが吹っ切れたような顔をしていて。
心なしかお化粧も薄くなった気がする。
「正々堂々、ライバルやらせてもらいます。」
そっか、なんて返答してしまったけれど、いや違う。ライバルってなんだ。そこは勘違いだぞ春日。
それでは次移動教室なので、そう言って美和ちゃんはもう一度ペコリと頭を下げて、廊下を走っていった。短くなった髪がぴょこんと揺れて、ほんとに似合ってる。
呼び方が結依先輩になってる事が嬉しくて、でもそんなことを言ったらまた顔を真っ赤にしちゃうんだろうな。
「あれれ。春原くん。もしかして聞いてた?」
「ごめん、少しだけ。」
私も教室に戻ろうと振り返れば、そこのすぐ角に少し気まずそうな春原くんの顔がある。頭をポリポリとかいた彼は、私に向き合って。
「あのさ。・・・俺も、ごめん。」
「え、なんで?」
「いや。元はと言えば俺がはっきりしなかったせいでもあるなって。」
「いやいやいや。そんなことないよ。」
突然の謝罪を驚いて否定すれば、春原くんは少し困ったように笑って。
「それに。」
「うん?」
「春日が言ってたことも、あながち、間違えじゃない、から。」
「えーーっと・・・もしかして、塚田くんのこと・・・」
「ちげーよ。」
「すいませんでした。」
想像以上の鋭く険しいツッコミに即謝罪。危ない危ない。
はあ、と春原くんがため息をついて、あれ、また呆れられてる?
そんな話をしていればチャイムが鳴った。同時に声が出る。
「まずい、次花ちゃんの授業じゃん。急ごう。」
2人の最大限の駆け足(ほとんど駆けれてない)で廊下を急ぐ。
入学式、美和ちゃんを助けてくれたという彼の姿を想像してみる。きっとだるそうに、開いてない目で、平坦の声のまま、すごく当たり前の事のように手を差し伸べてくれたんだろうな。何でもない事のように、さらっと人を救ってしまう。彼にはそんなところがある。
「・・・秋山?どうしたの?」
ううん、なんでもない。と答えて階段を上がった。
入学式。たしかその前にホームルームと始業式があったよね。そう言えば隣が空席だったことを思い出した。・・・というか入学式中に入れ替わりで私達下校したよね。入学式ってお昼前からだったよね。うん、大遅刻すぎやしないか。
最近なんだか、さっちゃんに元気がない。
理由は分かっている。秋の新人戦。
最近タイムが伸び悩んでいるんだと、本人からも周りの陸上部の友達からも聞いた。
「さっちゃん。おーい、白河さーん。」
その日もさっちゃんは何だからボーッとしていて、
顔色もあまり良くないように見えて。
数回目の呼びかけで、やっと私と目が合う。
「さっちゃん、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。」
心配になって顔を覗き込めば、やはりお世辞にも顔色がいいとは言えず。少し保健室で休もう、と言ってもさっちゃんは全く聞いてくれない。
「だから大丈夫だって。」
「そんなこと言ったって、顔色悪いよ。」
「ちょっと寝不足なだけ。走れるし、全然元気だよ。」
「でも・・・」
「だから大丈夫だって!!」
思っていたよりも大きい声が出てしまったのか、さっちゃんがハッとしたような顔をして気まずそうに俯く。
こんなに余裕のない彼女を見るのは初めてで、私もそれ以上何も言えずに俯いてしまう。
「・・・ごめん。でも私、休んでる暇なんてないの。」
でも、なんて言葉がまた口を出かけたけど、
今は何を言っても彼女の負担になる気がして、必死で飲み込む。
そんなことがあって、最近なんだか、さっちゃんに元気がない、上に秋山も元気がなくなってしまいました。
「・・・はあ。」
思わずついてしまったため息に、ちょっと~と美和ちゃんが頬を膨らませる。
「隣で辛気臭いため息つかないでくださいよ。負のオーラ漂いすぎです。」
「そんなこと言われても・・・はあ・・・。」
「だからやめてくださいってば!」
そう言いながらも彼女はボールの中身を混ぜる手を止めない。
オーブンからは既にいい匂いが漂ってきていて、ああ、ちょっと元気が出た。
放課後の調理室には、私と美和ちゃんの2人。
調理部に所属している(しはじめた)美和ちゃんは時たま学校で料理にいそしんでいて、味見がてらお邪魔することが増えていた。
「ほら、結依先輩。もうすぐ焼けますから。見てきてください。」
「ほーい。」
オレンジの光のもとひたすらに熱されるパウンドケーキをじっと見つめる。
低い電子音と漂ってくる甘い匂い。この時間が結構好きだったりする。
「・・・いい加減、立ち直ったらどうですか。」
あの日からさっちゃんと何となく気まずくて、顔色が悪くなり続けているさっちゃんに何も言えずにいる。タイムは結局伸び悩んだままのようで、顧問の先生に怒鳴られているさっちゃんを見かけることもあって。
「・・・心配。なのに何も言えない。」
「・・・。」
「私は運動全く出来ないからさっちゃんの気持ちが完全に分かるとは言えないし。」
「運動出来なそうですもんね」
「そこ追求しなくても良くない?」
全く、と今度は美和ちゃんがため息をつきながら焼きあがったパウンドケーキを取り出す。さつまいもと栗入り。美和ちゃん特製秋の味覚パウンドケーキ。
あちち、と声を出しながら、小さく切り分けたケーキを私の口へと放り込んでくれる。・・・うーん。これは。
「120点!!」
「当たり前じゃないですか。私やればできる子なんです。」
一口味見して彼女も同じように幸せそうな顔をする。
料理上手になってまずは春原くんの胃袋から掴むんだと意気込んでいるようで、なんてかわいい。
切り分けたケーキを綺麗にラッピングしていく美和ちゃんを無心で眺めていたら、いけない、もうこんな時間だ。そろそろ帰らなければ。
調理室の片づけを少し手伝ってからカバンに手をかける。机の上のラッピング済みのパウンドケーキをみて・・・て、あれ。
「春原くん、甘いの苦手だよね?」
「ですね。」
「というかそもそもなんでパウンドケーキ・・・」
私の疑問に答える代わりに、美和ちゃんは少し恥ずかしそうに俯いて、
私の手にケーキを握らせてくれる。ちょっと口を尖らせた彼女は顔を挙げて。
「・・・いつまでも負のオーラまとわれてたら、私まで運気下がりそうなんで!」
「美和ちゃん・・・。」
「食べて元気出してください。」
「好き!!結婚しよう!!!」
「お断りです。」
思わず抱き着いてしまえば彼女は鬱陶しそうに私の手を避けようとしたけど、
気付けば一緒になって笑っていた。大事な大事なパウンドケーキ、抱きしめて持ち帰ろうっと。
調理室を出て廊下を歩いていれば、
グラウンド近くの水道で水を飲んでいるジャージ姿が目に入る。
・・・さっちゃんだ。
カバンの中のパウンドケーキに一瞬視線を落とす。
・・・うん、このままでいいわけないもんね。きちんと話したい、きちんと話さなきゃ。
でもまだ部活中なのかな、そう思って様子をうかがっていれば、その背中が小さく丸まっていく。心臓が跳ねて、急いで駆け寄る。
「さっちゃん!?」
膝から崩れ落ちる形でしゃがんでしまったさっちゃんに駆けよれば、
彼女は驚いた顔をしたけど、頭が痛いのかそのまま眉間に手を当てる。
「大丈夫!?」
「・・・平気。ちょっとフラついちゃって。」
「どうしよう。先生呼んでくるね、ちょっと待ってて。」
「だから大丈夫だって。」
その声にこの前のような覇気はない。大丈夫だと繰り返す声が痛々しくて、なんだか涙が出そうだ。
結局先生は呼ばずに日陰で彼女を休ませることにした。体育座りをして頭からタオルを被るさっちゃんの表情は見えない。でもしばらく休めばだいぶ楽になったようで。
「ごめん結依、ありがとう。」
「ううん。少し良くなった?」
「大分よくなった。」
よかった、と胸をなでおろしたのもつかの間。じゃあ私練習戻るね、とさっちゃんが立ち上がろうとするからあわてて腕をつかむ。
「今日はもう帰ろう。少し休んだ方がいいよ。」
「大丈夫だって。もう少し走りたいの。」
「また体調悪くなっちゃうよ。まだ顔色も良くないし。」
「結依、心配しすぎだよ。」
そう言って彼女は笑うけど、その笑顔も痛々しい。
私の言葉なんて全然響かないのが分かって唇を噛む。
「大会も近いし、今が頑張り時だから。」
「・・・だからこそ、休むのも大事なんじゃないの?どれだけ頑張ったって、当日に万全の状態で臨めなきゃ意味ないじゃん。」
意味ない、その言葉にさっちゃんが表情を変えたのが分かった。そんな言葉絶対に言っちゃいけないって分かっているのに私の口は止まらない。
「無理して練習し続けてまた倒れたらどうするの?このまま体調悪いまま本番迎えたら、さっちゃん絶対後悔するよ。」
「・・・なにそれ。」
「今日だけでいいから一回休もうよ。それでまた明日から頑張ればいじゃん。焦ってもいいことなんて・・・」
「っ・・・!結依にそんなこと言われたくない!!」
「私だってこんなこと言いたくない!!」
らしくない様子のさっちゃんに心がひるむけど、でも私も止まれなかった。
「最後の新人戦なの!休んでる暇なんてないの!もっとタイム縮めなきゃいけないの!!」
「だからって・・・倒れたら元も子もないじゃん!!」
「私はエースなの!絶対に勝たなきゃいけないし期待に応えないといけない!!そうじゃなきゃ、何のために今まで頑張ってきたのか・・・」
少し言葉を止めて、さっちゃんはこぶしを握りしめる。
「簡単に休むなんて言わないで。一日休んだら取り戻すのに倍以上かかるんだよ。また明日から頑張ればいいなんて、なにそれ・・・。」
こんなさっちゃん見たことなかった。彼女は息を吐いて、潤んだ瞳で、私を見ないまま。
「っ・・・結依には、この気持ちなんてわかんないじゃん。」
グサッ、と心に何かが刺さった気がした。
さっちゃんは駆け足でそこから去って行ってしまって、一瞬で辺りが静かになる。グラウンドから野球部の声が、体育館からバスケ部の声が聞こえてきているはずなのに、私の周りは静かだった。何も聞こえない、何も耳に入らない。
穴の開いた心から漏れるなにかを止める方法を知らずに、
私は俯いたまま顔を挙げられない。ああもう、泣きそう。
滲んでいく視界に突然黒い裾がうつって、目の前に誰かが立っていることに気が付く。
「あれ、秋山じゃん。何してんの?」
「・・・。」
「俺?俺はな、たいして手当もつかねえ顧問の仕事で練習見てきたの。俺卓球なんてしたことねえのにな、あのヴォルデモート教頭絶対許さねえ。」
いつもの花ちゃん節を炸裂させながら、何の返答もない私を不思議に思ったのか彼は私の顔を覗き込んで、あー・・・、と小さく声を漏らす。
「悪い。今日中にまとめなきゃいけないプリントあってさ。手伝ってくんない?代わりにジュース買ってやっから。」
「・・・」
「今ならお菓子もつけちゃおう。ぬれ煎餅、みすず飴、金平糖、なんでもあるぞ。」
「・・・チョイス渋。」
「全部藤巻先生のだからな。」
「泥棒。」
「大丈夫、バレないから。あの人多分時計の向き全部逆さにしといても気づかないよ。気づいても斬新ですねえ、って言ってにこやかに微笑むと思うよ。」
「それは舐めすぎ。」
ほら行くぞ、と花ちゃんが私の背中をトントン、と叩いてくれる。
まだ目が乾かなくて顔は上げられなかったけど、時が止まった場所から一歩進むことが出来た。
「あなたには分からないって言葉は、ずるいよな。」
誰もいない化学準備室。
話を聞いてくれた花ちゃんは、コーヒーを一口飲んで。
「ずるいけど、意味がないなんて言葉も残酷だよな。」
「・・・うん。」
さっちゃんの事が心配で、でも私の話を聞いてくれない事が悲しくて、彼女が言われたくないと分かってる言葉を言ってしまった。分かってて、言ってしまった。
「・・・私はどうすればよかったんだろう。」
何を言えばさっちゃんの心に響いたんだろう。ただただ心配で、それが一番なのに。
ポツリ、とこぼれた私の言葉に花ちゃんは腕を組む。人差し指で頭を掻いて、そして急に人差し指をたてた。
「問題です。ライト兄弟が成し遂げた偉業とは何か、完結に答えよ。」
「・・・私文系だもん。」
「いいから、答えて見て。」
「・・・ライト兄弟はアメリカ合衆国出身の発明家活世界初の飛行機パイロットの兄弟であり、自転車屋をしながら兄弟で研究を続けて1903年の世界初の有人動力飛行に成功した。」
「・・・その感じで賢いのまじで怖いわ。」
「失礼すぎません???」
まあいいや、と花ちゃんが一つ咳払いをする。いや私は良くない、なんで暴言はかれたの、解せぬ。
「そんな彼らの名言として、こんな言葉があります。」
「『今正しい事も、数年後には間違っていることもある。逆に今間違っていることも、数年後には正しい事もある』」
人差し指を建てたまま、花ちゃんはゆっくりと繰り返す。
「・・・結局は絶対に正しい事も絶対に間違っていることもないんだよな。言葉をどう受け取るかだって人によって違うし、考え方は時代によって変わっていくし、同じ状況でもこの人には響く言葉もこの人には響かない、何てことザラにあるだろ。」
めんどくせえよなあとため息をついてから、私の顔を見る。
「今の白河にとっては秋山の言葉は響かなかったかもしれない、それでお前は自分も無力に思ったかもしれない。でもそれがイコール間違えじゃない。」
花ちゃんの言葉がスーッと胸にしみ込んでくる。
「数日後、数週間後、数か月後、数年後。いつかは分からない。分からないけど、今日の言葉が白河の救いになる日は絶対に来る。あの時は受け入れられなかったけど今なら分かる、なんて日が絶対に来るんだよ。だから、間違えじゃない。正解も間違いも、決めつけるには早すぎる。いつだって早すぎんだ。」
「『いつか来る日』の事を考える事でしか人は気持ちを整理できない。いつかに希望をもって生きていくしかない。なーんか虚しいし、ちっぽけだよな。」
でも、ともう一度私の目を見て、
花ちゃんは悪戯っ子のように笑った。
「俺はそんな俺たちのちっぽけな所が、嫌いじゃないぜ。」
ちっぽけなわたし達。
どうしようもなく苦しい時、悲しい時、いつかの事を考えて乗り越える。未来の事を考えて、そんな日が来ることを夢見て、今を頑張れる。少しずつ進んでいける。そんなことでしか進んでいけない私たちだけど、でもそれでいい、それがいい。正解が不正解に変わる日も、不正解が正解に変わる日も、色んな日を願って生きていく。色んな日を夢見て生きていく。
ガタン、と自販機からスポーツドリンクが落ちる。
はい、と会長がそれを手渡してくれて、有難く受け取ることにした。
部活終わりの夕方。既に夕日は沈みかけていて、日が短くなったことを実感する。
「体調はどうだ?」
「大分よくなりました。ありがとうございます。」
自販機の横の石段に会長と共に腰かける。部活終わりに再び少しふらついてしまったところにたまたま会長が通りかかり、座れるところまで連れてきてもらった。
こまめな水分補給は意識しているつもりだが、一口飲んで自分ののどが思ったより乾いていた事に気が付く。
私の頭の中にはさっきの結依の姿が浮かぶ。結依は中々人前じゃ泣かない。いつもおどけて、笑って、辛い時も全然口に出さない。そんな結依に、あんな顔をさせてしまった。そしてそのまま置き去りにしてしまった。胸が痛くて、涙が滲みそうになる。
「・・・私、結依に酷い事を言ってしまいました。」
ポロリ、と独り言のように言葉が落ちた。それ以上口を開いたら、この情けない心を全てさらけ出してしまいそうで、そのまま黙る。
そうか、と会長は呟いて、そして。
「だったら、謝らなきゃなあ。」
え、と思わず声が出た。その言葉に会長が焦って「な、なんか変な事言ってしまったか・・・!?」と目をぱちくりさせるから、私も焦って首をする。
ううん、全然変なことなんかじゃない。そうだ。当たり前の事だ。
「秋山くんに酷い事を言ってしまって、早紀さんは後悔しているんだろう?だったら、謝らないと。」
会長の声は落ち着ていて言葉がスっと耳に入ってくる。そういえば全校集会の時も、生徒会の時も、会長が話し出すと自然に静かになるんだよな。すごいな。
悪い事をしてしまったら謝る、なんて幼稚園児でもできるのに。うんと小さい頃に教わった人間として大事なことを、どうして私は忘れてしまっていたんだろう。
過ぎてしまった事は変えられない、言ってしまった事は取り消せない。
だから、気持ちを伝え続けていくしかないんだ。心の中なんて誰にも読めないんだから、口に出していかなきゃいけないんだ。伝えたいと思ったことを伝え惜しんでたら、私はきっと私じゃなくなってしまう。
「・・・ありがとうございます。」
小さく呟いた私に会長は無言のまま首を振る。そしてそのまま静かに立ち上がって、よし、と背伸びをした。
「本番でも本来の力が発揮できるおまじないを教えてあげよう。」
「おまじない?」
「そうだ。こう見えて俺は緊張しくてな。いつもこれをやってから本番に臨むんだ。」
会長は子供みたいにはにかんで、私に手を差し出す。
「大丈夫。きっとうまくいく。」
背後に残った夕日の光が会長と重なって。うーん。眩しいなあ。
朝。意気込んで教室に入る。心臓がドキドキと大きく音を立てていて、怖いけど、気を抜いたら泣きそうだけど、でもきちんと話すと決めたんだ。
彼女の姿を見つけて、そして目が合う。
「結依!昨日はごめん!!」」
「さっちゃん!昨日はごめん!!」
全く同じ謝罪の声が重なって、勢い余って私は机に右手を、さっちゃんはクラスメイトのカバンに足を引っかけてしまっていた。
大きな謝罪の声に皆が振り向いて、一瞬時が止まって。
「・・・ぷっ・・・」
気付けば、2人目を合わせて笑い出してしまう。
皆に謝ってから教室を出て、人が少ない場所に移動した。
「結依、本当にごめん。」
「違うんだよ。私の方こそ・・・。」
「ううん、完全な私の八つ当たりだ。」
さっちゃんが深々と頭を下げたりなんてするから、慌てて彼女の肩に手をかける。
「・・・最近、タイムが伸び悩んでて。一生懸命やってきたのに、やってるのに、どうしたらいいのか分からなくなっちゃったの。何もかもが不安になっちゃって。大会も近いのに。皆を引っ張らなきゃいけないのに、情けないって。」
さっちゃんの声は震えていた。
彼女はいつだって自信家で、気が強くて、でもそれはその裏にはとんでもない量の努力があるからだ。人に色々言う前にまずは自分を磨く、それがさっちゃんのモットーで、そんな強さを私は心の底から尊敬する。
「結依がただ心配してくれてるだけなのも分かってて、それなのに自分の気持ちが上手くコントロール出来なくて。正論過ぎたの。正論過ぎて反発しちゃうなんて、私本当に駄目だよね。」
「・・・さっちゃん。」
「本当に、ごめんなさい。」
ううん、と首を振る。違うよ、違うんだよ。
「さっちゃんは情けなくないし駄目なんかじゃないよ。私も、さっちゃんの気持ちをちゃんと考えられてなかった。頑張ってる人に、酷い事言った。」
『・・・どれだけ頑張ったって、当日に万全の状態で臨めなきゃ意味ないじゃん。』
自分の言葉を思い出す。意味ない、なんて絶対に言っちゃいけなかった。ただただ心配だっただけのに、この時は違った。私の言葉を聞いてくれないさっちゃんに腹が立って、棘のある言葉を選んだ。言われたくないと分かっていて、言ったんだ。
「私も、ごめんなさい。・・・でもやっぱり、さっちゃんには少しだけ休んでほしい。私はもちろん頑張っているさっちゃんが、走っているさっちゃんが好きだけど、でもどうしたって心配なの。陸上選手である前に、大切な、友達だから。」
休んでほしい、その言葉をもう一度言うのは怖くて、でも絶対に伝えると決めていた。声が震えてしまって、でもさっちゃんの目を見る。
彼女は、うん、と頷いて。
「今日と明日、休ませてもらう事にしたの。で、明後日からはストレッチ中心でまずは体整えることにした。」
はあ~、と大きな声をだしてさっちゃんが背伸びをする。
「そう言えば最近全然ちゃんとマッサージも出来てなかったなって。体ガチガチなのよ。とりあえず今日明日できちんと体ほぐそうっと。」
お風呂も長く使っちゃお。なんてさっちゃんは悪戯っ子のように笑うから、私も思わず笑顔がこぼれる。
「・・・結依。」
「ん?」
「本当にありがとう。」
私の名前を読んで、さっちゃんが今度は少し照れたように笑う。こんな笑い方は珍しくて、なんだか照れてしまって。でも、とっても嬉しくて。
思わず抱き着いてしまえば、暑苦しい!と一蹴される。すっかりいつものさっちゃんだ。
あ、そうだ。
「さっちゃん、これ。」
「なにこれ。美味しそうなケーキ。」
「美和ちゃんがくれたの。」
さっちゃんの手に、可愛くラッピングされたパウンドケーキを乗せる。
昨日、美和ちゃんは私にパウンドケーキを2つ渡してくれた。
『仲直りに使ってください。美和ちゃん特性絶品パウンドケーキでさき先輩もイチコロですよ。』
なんて言って美和ちゃんは得意げに笑って。
その言葉をそのまま繰り返せば、さっちゃんは調子乗るな、と嬉しそうに笑った。
地べたにそのまま座り込んで、2人でケーキを食べる。美和ちゃん特製パウンドケーキは昨日ももちろん美味しかったけど、今日は更に美味しかった。
英語の授業中、ふああと欠伸がこぼれる。
ぼーっとしていたことを先生に叱られつつ、窓の外に目を向ける。窓の外はパラパラと雪が待っていて。
中年独身教師はなんだか今日はいつもに増してイライラしていた。ごめんなさいこんな呼び方しちゃいけないね。秋山反省。
でも外を見てご覧よ。雪が降っているよ。あのしとしとと降り積もる雪のように先生も穏やかに生きようよ、ね。
「はい!クリスマスパーティーがしたいです!」
「そっか、もうそんな季節だね。」
4限の英語の時間から考えてました!そう言えばだからまた怒られてたのね、と一蹴。ええその通りです。あの先生にまた嫌われた気がします。
「いいね、クリスマスパーティ。」
「あれ、塚田くんは彼女さんとのご予定があるのでは。」
「あっはははは。秋山。静かに。」
にこやかな笑顔なまま塚田くんが自分の口に人差し指を当てる。ただ目が笑っていない。瞬時に事情を察知。
少し前まで他校のサッカー部のマネージャーの子と付き合っていると言っていた塚田くん、どうやらその話はこれから先禁句のようだ。
クリスマスね、練習あるかなあ、と呟くのはさっちゃん。新人戦前に大スランプに陥っていた彼女だが、本番では自己ベストを更新した。結果を聞いて思わず抱き着けば、当然よ、なんて言って笑って。やっぱりさっちゃんは誰よりもかっこいい。
「・・・ねえ、聞いてる?」
「・・・。」
「おーい。」
こっくり、こっくり、春原くんは今日も頭をゆらゆらと揺らしている。全然聞いてない、駄目だこりゃ。
「こいつ寒くなってくるとさらに寝るよな。」
「ほんとに。冬眠でもするんじゃない?」
「確かに・・・しそう・・・。」
塚田くんは腕を組んで、さっちゃんは机に肘をついて、わたしは顎に親指と人差し指を当てて、各々春原くんを観察する。さすがに視線を感じたのか、ゆーーっくりと彼の瞼が開く。
「・・・怖。」
「だろうね。」
目覚めた瞬間見つめられていたらそりゃ怖いだろう。
眠たそうな目をこすって、春原くんは一つ欠伸をする。そのまま窓の外に目を向けて、あ、と声を上げる。
「見て、雪降ってる。」
「2限終わりくらいから降ってたけどね。」
今更気づいたのかと呆れ顔のさっちゃんに気づいているのかいないのか、のそのそと立ち上がった春原くんは窓際に近づいて、もう一度こちらを振り返る。
2限終わりから降ってたんだ。わたしも4限に気づいたな、なんてことはもちろん口にしなかった。
「ねえほら、雪。」
いつもより少し目を開いて、なんだか少し嬉しそうに私たちを手招きする。
なんだよ可愛いなこら。
「クリスマス会。どこでやろうねえ。」
「やるの決定だったんだ。」
「え!?やらないの!?」
「・・・眉毛、下がりすぎ。」
私の顔を見て春原君が吹き出す。
なんて失礼な。だってしょうがないじゃんクリスマス会したいんだもん。季節を感じたい!ケーキを食べたい!プレゼント交換がしたい!!
少しだけ雪が残っている通学路を春原くんと2人で歩く。
そういえば帰り道一緒に帰るのは珍しいな、なんて少し不思議な気分になって。
「春原くん、おうちどの辺なんだっけ?」
「駅の近く。歩いて20分くらいかな。」
「へー。じゃあ家とも近いかも。あれ、でも中学別だよね?」
「一緒だったよって言ったらどうする?」
「土下座して謝る。」
土下座見たかったけど残念ながら違うよ、と春原くん。良かった。いやでもこんな不思議な人いたら私でもさすがに覚えてるよね。
じゃあ中学校どこだったの、なんて特に意図もなく流れで聞けば、彼は少し言葉を詰まらせたのが分かった。
「・・・新田中。って聞いた事あるかな。」
「うーん。ないかも。」
「隣の隣の市くらいにあった。」
「そんなアバウトな。」
「その時は実家から通ってて、今はじいちゃんばあちゃんちから通ってる。」
全く知らなかった情報を取り込むのに少し時間がかかる。「実家」なんて表現まるで大人みたいだ、なんて馬鹿なことを考えた。
「そうなんだね。・・・実家、って言うのってなんか大学生みたいだね。大人みたい。」
あれ、考えただけじゃなくそのまま口に出てしまった。
春原くんはいつもの呆れ顔で私を見る。全くこいつは・・・というため息が聞こえてきそうだ。
「そうやって返されたのは人生初めてだ。」
「ごめんなさい。」
「なんで謝るの?」
呆れたまま春原くんは笑って、その笑顔は少し寂しそうに見えた。少し力の抜けた、柔らかい笑顔。笑顔すら珍しいのに、こんな表情は初めてだ。
「あ、別に両親健在だよ。全然会ってるし複雑な家庭環境とかじゃないから。」
そう言った彼は立ち止まった私の正面に立って、
人差し指で私の眉間をつつく。
「だから、そんな悲しい顔しないで。」
「・・・別に、普通の顔だったよ。」
「いつもはもっと可愛いよ。」
サラッと爆弾発言しつつ、彼は直ぐ背を向けてまた歩き出す。
無意識のうちに眉間にしわが寄ってしまっていたようだ。
「昨日も夜ご飯一緒に食べたし。なんなら連絡してき過ぎてうるさいくらい。」
「春原くんの事が心配なんじゃない?」
「だと思うよ。」
なんていって両親からの愛を素直に受け止めるのが意外で、でも微笑ましくて。
彼は鼻までマフラーで覆っていて、でもその手はそのままで寒そうに手をこすり合わせる。指先まで真っ赤だ。寒いのは苦手らしく、うーん、とってもイメージ通り。
一週間後に冬休みを迎える放課後。
日直の当番を終え日誌を提出しようと教室を出れば、ウインドブレーカーに身を包んだ男の子と目が合う。
「あ、結依先輩、こんにちは。」
「やっほー。柳くん、なんか久しぶりだね。」
そういうと柳くんはそうっすね、とはにかむ。挨拶が「こんにちは」なのもペコッと頭を下げるのも可愛いが過ぎる、やはり推せる。
「ていうか寒そうだね。大丈夫?」
「今は寒いんですけど動き始めるとすぐ暑くなっちゃうんで。」
柳くんは上こそウインドブレーカーだが、下はもう既に半ズボンで。マフラーも手袋も耳当てもホッカイロも腹巻もあったかパンツも・・・言わなくていい所まで言い過ぎた。とにかくすべて完備している私には信じられない格好である。
しばし雑談をしていれば、どこかのクラスからクリスマスソングが流れてきて、ああもうこんな時期なんだなあ、なんて改めてしみじみした気持ちになる。
柳くんも同じような気持ちなのだろう。クリスマスですねえ、なんて呟いて。
「クリスマスは彼女とデート?」
「なっ・・・何言ってるんですか!かっ、彼女なんていないですよ!!」
「落ち着け落ち着け。」
そんなに慌てると思ってなかったからこっちが焦ったわ。顔を真っ赤にした柳くんは、でも、と俯いて。
「誘いたい人は、いるんですけど・・・。」
「ほうほう。ちなみに同じクラスの子?」
「いやクラスは違くて。でも中学校も一緒だったです。」
「いやーちょっと待って!おばさんニヤニヤしてきちゃうよ!!」
「一個しか変わらないじゃないですか。」
ド正論。でもごめんなさい、ときめきが止まらなくて。
どんな子なの?と聞けば、彼は数秒考える。
「意地っ張りで、気が強くて、集中すると周りがすぐ見えなくなって、不器用で・・・ちょっとバカ?」
「今の聞かれたら多分振られるよ?」
「でもとにかくいい奴なんです。なんかもう本当に友達って感じで。だから誘うの怖くて変な感じになったらいやだなあって思ったりして・・・って!何話してるんだ俺!」
「非常に可愛い恋バナだけど」
「こんな事絶対普段人に言わないのに!!結依先輩だとなんか話しやすくて・・・」
うわー恥ず・・・なんて言って彼は顔を覆ってしゃがみだしてしまった。私も一緒に屈んで、ポンポン、と肩を叩く。
「柳くんなら大丈夫だよ。根拠ないけど。根拠ない自信ってやつ、私結構当たるんだ。」
「結依先輩・・・ぜんっっぜん頼りないけどでもなんか勇気出てきました・・・!」
「めちゃくちゃ全然を強調したよね。大丈夫!当たって砕けろだ!!」
「砕けちゃダメなんですけどでもまあいいっか!勢いでいきます!!」
ムクッと急に立ち上がった柳くんは、ありがとう結依先輩!と手を振ってその場を去っていった。あの子あんなにアホの子だったっけ?と思いつつ、まあいい、きっと恋は人を変えてしまうのだ。
「ちょっと、何考えてるんですか本当に。」
花柄のエプロンを付けたまま、ピンク色の三角巾を付けたまま、美和ちゃんが腕を組んで私を睨む。視線でさっちゃんに助けを求めるけど、うわ、逸らされた。
既にオーブンからはバタ―のいい香りがしてきていて・・・なんて思っていたのがバレたようだ。美和ちゃんが更に眉を寄せる。
「なんで悠先輩の事クリスマス会に誘っちゃうんですか!!私が2人で出かけるチャンスが!!」
「いやそれが決まる前にあんた断られてたじゃん。」
「早紀先輩は黙っててください。」
はいはい、とさっちゃんがベロを出して答える。
そうです私もさすがにそこまで空気の読めない女じゃありません。美和ちゃんはわざとらしくため息をついて。
「これで私は聖なる夜にひとり身です・・・」
「さっき友達とクリスマスパーティーって言ってじゃん。」
「それは25日!クリスマスイブにひとりなんてJKとして悲しすぎます!」
「めんどくさ。」
キーッと美和ちゃんがさっちゃんに向けて威嚇する。ネコか。と同時にチーンという大きな音がして、チャンスとばかりにオーブンに駆け寄った。クリスマスツリーの形、結晶の形、色んな形のクッキーはいい色に焼けていて。
「美和ちゃん!食べていい!?」
「味見は少しだけですからね!」
「やったー!!」
ミトンを使ってオーブンからクッキーを取り出す。たまらなくいい匂いがして、3人して顔が緩んでしまう。今は一時休戦だ。
調理室の椅子に座って、出来立てのクッキーを齧る。ああなんて幸せ。生きててよかった。
幸せに浸っていれば、ガヤガヤという声と近づいてくる足音が聞こえてくる。この時間にここに人が来るなんて珍しい、なんて思いで3人で顔を見合わせていればその足音はドアの少し前でピタリとやんで。ますます不思議に思っていれば、今度は1つだけ足音が近づいてくる。
少し小走りで駆けてきたその人は、勢いよくドアを開けて。
「お、お疲れ!!!」
「びっ・・・くりした!なんだ、柳か。」
入ってきたのは制服姿の柳くんだった。彼は私とさっちゃんにおそらく気づいていないままで、美和ちゃんの前に立つ。
なんだ柳か、そう言ったのは美和ちゃん。なにやらモジモジしている柳くんと、それを不可解そうに見つめる美和ちゃん。
・・・意地っ張りで、気が強くて、集中すると周りがすぐ見えなくなって、不器用で、ちょっとバカ?
もしや、これは。
しばし不自然な沈黙が落ちる。不思議そうに眉を寄せた美和ちゃんが口を開く前に、柳くんが口を開く。
「お疲れ!!」
「なんで2回言う?」
「きょ、今日もいい天気だな!」
「曇ってるし雪舞ってるけど。」
「科学の課題さ、やった?」
「私文系コースだから化学取ってない。」
あちゃー、全てがから回っている。ひとり全力疾走、ちょっと落ち着け。
「あの!さ!!」
意を決したように柳くんが口を開く。がその驚くほどの声量の大きさに思わずビクッとしてしまう。柳くん、頑張れ、音量調整しっかり。
「クリス!!マス!!なんだけど!!!」
どこにビックリマークいれてんだよ。だから落ち着けって。
明らかに挙動不審な柳くんにさっちゃんが吹き出しそうになっている。もう少し我慢して。
ふーっと、大きすぎるくらいに息を吐いて、そして何故かそのまま勢い良く息を吸う。うん、むせるよね、そうなるよね。予想してました。そんな彼を怪訝そうに見つめる美和ちゃん。カオス。さっちゃんが窒息寸前なので巻いてください柳くん。
「いっ・・・一緒に、出掛けま、せんか・・・。」
最後はまるで虫の息。結局音量調整最後までうまくいかなかったようです。
美和ちゃんの返事は・・・なんてドキドキする間もなく、彼女はあっさりと頷く。
「別に。いいよ。」
「え!?ほんとに!?」
「なんで結依先輩が驚くんです?」
しまった。思わず返事をしてしまった。口をふさいで2人から背を向ける。柳くんはそこで初めて私の存在に気づいたようだ。さっちゃんはもう笑いながらベランダへフェードアウトしていった。
いいの?と柳くんが喜んだのも束の間。
「どうせサッカー部の中で予定ないの自分だけだったんでしょ。周り皆彼女いるもんねえ、遊んでくれる人見つからなかったの?」
「はっ・・・?いや違・・・」
「まあいいよ私も予定なくて暇してたし!ねえねえ私バッティングセンターとか行きたい!」
「いやまってそれは誤解が・・・いやバッティングセンターはいいんだけど・・・」
「思いっきり楽しんじゃおうー!!」
楽しそうに美和ちゃんはそう言って、あ、そうだ、と作ったばかりのクッキーを柳くんの口に押し込む。あっけにとられている柳くんの顔を覗き込んで、美味しいでしょ?とニコリ。・・・こやつ、これは天然?計算・・・?
そのまま、柳くんは曖昧な表情のまま私たちに頭を下げて教室を出て行った。少しすればまたガヤガヤと足音が聞こえたから、きっと友達が近くまで来てくれていたんだろう。これは成功なのか失敗なのか。でもまあ約束は出来たわけだし・・・。
「どうしたんですか?変な顔して?」
「・・・天然?計算?」
「なんですか急に。」
美和ちゃんは怪訝そうな顔をする。
「柳とは中学校から一緒なんですけど。笑っちゃうくらいいい奴なんですよね。なんか素で話せるっていうか。」
「へえ、そうなんだね。」
「何でも話せる友達なんです。でもいい奴でイケメンなのに彼女出来た事ないみたいなんですよね。なんでですかね。」
「あっはは・・・不思議だね。」
美和ちゃんは本当に不思議そうな顔をして考えこんでいる。これは計算ではない。本当に気づいていない。あれだけアグレッシブなのに自分のことには疎いらしい。
頑張れ柳くん。道のりは遠い。