彼女のテレパシー 俺のジェラシー

 翌週の月曜日になって、尾崎は教室に姿を見せた。
 さすがに皆、心配していたのか、尾崎は次々と声を掛けられていた。
 川内と一緒に入ってきたのだが、その様子を見て川内だけが離れて自分の席に向かってくる。
 尾崎を取り囲んだクラスメートは、我先にと口を開いた。

「お母さん、大丈夫じゃったん?」
「うん、大したことなかったんよ。でも、倒れたんが会社じゃったけえ、慌てて他の人が救急車呼んだみたい」
「へえー」
「すぐに退院したし、もう大丈夫」
「よかったね」
「うん、ありがと」

 そんな風に笑いながら、軽く言葉を交わしている。
 その様子を見るに、本当に大したことはなかったのだろう、とほっと安心した。

 昼休みに四人でお昼ご飯を食べている間も、「もー、びっくりしたわー」などと言いながら、軽い調子で話をしていたから、特に心配することはなさそうだと思った。

 けれど、食べ終わったあと、尾崎は立ち上がって、俺に言った。

「神崎。温室行こ、温室」
「えっ」
「早う」

 急かされて立ち上がる。けれど川内も木下も、座ったままだった。

「俺だけ?」
「そう、特別」

 ウインクしながら、おどけたようにそう言う。
 川内と木下に振り返るが、二人ともまるでそれが普通のことみたいに、特に驚いた様子もなく、座っている。

「ていうか、木下にはもういろいろ話したし、ハルちゃんにも話した。あとは神崎だけ」
「ああ、うん」

 木下は家が近所なのだから話す機会もあっただろうし、川内は朝一緒に教室に入ってきたのだから、朝一番に話したのだろう。

 尾崎と二人して教室を出る。
 階段を下りながら、尾崎は言った。

「ちょっと込み入った話もあるけえ、教室はね」
「ああ、なるほど」
「コクられるか思うた?」

 こちらに首だけで振り向き、にやりと笑ってそう言う。

「コクってくれるん?」

 首を傾げてそう返すと、あはは、と声を出して笑ってくる。

「残念じゃったね、違うわ」
「ほうか」

 それはそうだろう。
 尾崎もきっと、木下のことが好きなのだ。自覚しているのかしていないのかはわからないけれど、きっとそうなのだ。

 あのとき、尾崎は「ありがと、隼冬」と名前を呼んだ。たぶん二人は、子どもの頃は、名前で呼び合っていたのだろう。
 それが思春期やらなにやらで、いつの間にか離れていって、目と鼻の先の二人の家から同じ高校に通うのにも、別々に通うようになってしまった。

 なかなか面倒そうな関係ではあるが、でも今また少しずつ動き始めているのだ。

 俺という存在は、そういう二人に割り込めるような人間ではない。
 それになにより、俺には好きな人がいる。なんとなくだが、尾崎はそれに気付いているのではないだろうか。

 先を行く尾崎が、ポツリと言葉を発する。

「ウチ、温室、好きなんよね」
「うん」
「なんか、心穏かになるっていうか」
「わかる。落ち着く」
「たぶん、ハルちゃんが世話しよるけえじゃわ」

 小さく笑いながら、そう言う。
 そう言われるとそうかもしれない、と思う。暖かくなってきて、温室はポカポカと気持ちいいものから、少し暑い場所になりつつあるけれど、それでもやっぱり居心地がいい。

 温室に到着して、尾崎は川内に借りたのであろう鍵を取り出し、南京錠をガチャガチャとやって、その扉を開けた。
 温室の中に入ると、やっぱり少し暑くて、俺たちは専用の長い棒を使って天井の窓を開けたり、ファンを回したりする。
 それから、いつものように尾崎は木製のベンチに座り、俺は折り畳みのパイプ椅子を広げて座った。

「ごめんね、来てもろうて」
「いや」

 それから少しの静寂があって。
 尾崎はおずおずと口を開いた。

「あのね、お母さんは、本当に大したことなかったんじゃ。なんていうか、ちゃんと病名がつかん(つかない)っていうか」
「え?」
「貧血だったり寝不足だったり、自律神経? が乱れとるとか、そういうのがいっぱい重なっとって。一言で言えば、疲労、なんよね」
「それは……大したことは……あるじゃろ」

 俺がそう言うと、尾崎は小さく笑った。

 仕事をして家事をして介護をして。その疲れが一気に出たということなのだろう。
 すぐに命に係わることではないとしても、のほほんと毎日を過ごす俺からしたら、やっぱり『大したこと』のように思える。

「ほうよね。じゃけえウチ、しばらく部活は休んで、お母さんを手伝おうと思うんじゃ」
「……うん」

 そういうことなら、仕方ない。仕方ないけれど、やっぱり寂しい。
 なんと言えばいいのかわからなくて、俺は曖昧に返事をするしかできない。

「ウチんち、ちょっと複雑でさ」
「うん」

 素直にうなずいた俺に、尾崎は顔を上げる。そして驚いたように言った。

「聞いとった?」
「あ、いや、……あの……」

 しまった。木下と、聞いたことは言わないと約束していたのに、知らないフリができなかった。
 しかし尾崎は苦笑しながら言う。

「いや別に、ええんじゃけど」
「ごめん……」
「じゃけえ、ええって」

 そう言って、ひらひらと手を振りながら笑う。

「まあ、部活を休むいうても、そう長うはないわ。じいちゃんが施設に行くまで。施設の部屋の空きが出るまでよ」
「ほうなんか」
「じいちゃんは寝たきりじゃし、施設に預けようって話はずっと出とったんよね。お母さんが倒れて、ほいで今回、それが具体的に進みだしたいうか。じいちゃんが施設に行くまで、それまでの辛抱」
「ほうか」

 そういうことなら、とほっと息を吐く。終わりの見えない介護、というわけではなさそうだ。
 ただ、尾崎のじいちゃんは嫌かもしれない。だからここまで施設に預けなかったのかもしれない。でももう倒れるまでがんばったんだから、十分だろう。

「じいちゃんもそうしたがっとったけえ、なんか皆、安心しとる。むしろええほうに進んだ感じよ」
「へえ」

 介護施設に行くのを嫌がる老人は多いと聞くので、少し意外だった。

「だって、お母さんは女で、じいちゃんは男じゃろ? 下の世話とか、お互い、嫌じゃん。知っとる人間より、介護の専門家のほうが抵抗はないわ」
「……なるほど」

 たとえば自分が入院して、下の世話をしてもらうとしたら、母ちゃんや姉ちゃんにしてもらうのは、絶対に嫌だ。看護師さんなら女性でも、なんかそういうものだと思える気がする。

「それに、じいちゃんもお母さんに申し訳ないって言うし」
「ほうか」

 尾崎のじいちゃんは、尾崎のお母さんとは血の繋がりがない。さらに、お母さんの夫であるじいちゃんの息子は、浮気して出て行ったという体たらくだ。
 いろいろと申し訳ないと思うものではあるだろう。

「なのにお母さんが、家で見たほうがええんじゃないか、いうて躊躇しとって、それでここまで伸びたんよ」
「お母さんが?」
「お母さんはじいちゃんに、遠慮はせんで(しないで)くださいって言うんよ。家にいたいんなら、いいですから、って言いよったんじゃけど、さすがに倒れちゃあねえ」
「尾崎のお母さん、優しいな」

 そう言うと、尾崎は小さく笑った。

「どうかねえ。優しいんかねえ」
「まあ……改まってそう言われると……」

 結局、自分も倒れることになって。尾崎も部活を休まなければならなくなって。そして尾崎のじいちゃん自身にも、申し訳ないと言わせてしまった。
 優しさとは、少し違うのかもしれない。

「意地になっとったんじゃないかね」
「意地?」

 そう聞き直すと、尾崎はベンチに座って投げ出していた足をプラプラと振りながら、ゆっくりと口を開いた。
「お母さん、じいちゃんには恩があるんと」
「恩……」
「ウチを産んだときにね、母方のじいちゃんもばあちゃんも、ほいで父方のばあちゃんも、皆ね、『ありがとう』って言ったんだって。それが引っ掛かっとったみたいで」
「うん?」

 『ありがとう』のどこが、おかしいのだろうか。自然に出る言葉の気がするのだが、違うのだろうか。
 よくわからなくて、首を傾げる。
 その様子を見て、尾崎は苦笑しながら続ける。

「でも、じいちゃんだけが、『おめでとう』って言ったんだって。それで、この人の世話は私が一生する、って決めたんだって」
「……ごめん、ようわからん……」

 俺は素直にそう訊いてみる。

「ありがとう、いうのがいけんってわけじゃないとは思うけど、でも、おめでとう、のほうが嬉しかったんだって。それだけじゃないけど、それが一番心に残っとるんだって」
「ふうん……」

 けれど返ってきたのは、やっぱりよくわからない説明だった。もしかしたら、大人になったらわかることなのだろうか。
 首をひねる俺の肩をポンと叩き、尾崎は笑った。

「まあまあ。神崎も、いつか孫が生まれるときのために、『おめでとう』って言ったほうがええって、覚えとったらええわ」
「忘れとる気がする……」

 眉根を寄せる俺の顔を見て、尾崎はまた、あははと笑った。

「ま、それはそれとして。とにかくお母さんは、意地になっとったんじゃけど、今回のことで、じいちゃんを施設に預けたほうが、みーんな幸せじゃってわかったんよね。ほいじゃけえ、クソオヤジにも会ったわ」
「えっ」

 噂の、浮気をして出て行ったという、尾崎の父親。

「まあ会いとうもないけど、仕方ないよね。クソオヤジがじいちゃんの実子じゃけえね、クソオヤジが書類とか、いろいろやらんと」

 この場合、クソって言うな、とは、木下も言わないのではないだろうか。

「ほいでね、離婚するって」

 言っていることは、離婚するとかいうあまりポジティブとは思えない言葉なのに、尾崎はやけにスッキリとした表情をしていた。

「ウチの高校の卒業と同時に離婚するって」
「今すぐ、じゃないんだ」
「まあいろいろ、手続きとかあるみたいなし。キリのええところ、いうんじゃないん? お母さんは名字を変えたいみたいじゃけえ、卒業してからなら、名字が変わってもそんなに変じゃないじゃろうし。ウチは別にいつ変わってもええんじゃけど」

 そう言って、また尾崎は足をプラプラと振っている。
 俺はそれまでの話を頭の中で整理してみた。

「つまり、じいちゃんの世話をするために、今まで離婚せんかったいうこと?」
「それだけじゃないんじゃろうけど、まあそういうことよね」
「なんか……それはそれで腹立つな」

 そのお母さんの意地のために、尾崎は振り回されてきたのだ。
 尾崎も怒っとるけど、と木下は言っていた。ならば尾崎自身は離婚に賛成の立場だったのではないか。

 眉根を寄せる俺を見て尾崎は口の端を上げる。それから覗き込むようにして俺の顔を見てきた。

「なに? ウチのために怒ってくれとるん?」
「そんな高尚なんじゃないけど」

 こちらに身を乗り出す尾崎から逃れるように、慌てて身を引く。それを見て尾崎は、また笑った。
 完全に、からかわれた。
 少しだけ唇を尖らせて抗議の姿勢をとっても、まったく堪えていないのか、尾崎はくつくつと笑うだけだ。

 そしてふと、自分の腕時計に視線を落とすと、尾崎は言った。

「あ、いけん。自分のことだけしゃべりすぎた」
「え?」
「ウチの話はもうええんよ。おしまい!」

 そう言って、パン、と手を叩く。それが終了の合図らしい。

「ここまでは、木下にもハルちゃんにも言うたんよ。でも、神崎に言いたいのは、こっから」
「え、なに?」

 さきほどまで、自分の感情をごまかすかのように笑顔のままだった尾崎は、その表情から笑みを消して、俺に向き直った。

「お願いが、あるんじゃ」
「お願い?」

 俺がそうおうむ返しにすると、至極真面目な顔をして、尾崎はこくりとうなずいた。
 まっすぐに俺を見て、尾崎は続ける。

「そういうわけで、ウチ、しばらく園芸部に来れんかもしれんけえ、ハルちゃんと一緒におってあげて」
「え?」

 川内?

「あの子、ほっといたらイジメられるかもしれんけえ。ウチのこと、庇ったことがあるんよね。それで先輩に目を付けられとる」

 庇ったことがある?
 先輩に目を付けられている?
 それで、イジメられるかもしれない?
 川内の姿を思い浮かべてみる。けれど、どうもそういうものと結びつかない。

 たとえば、相手がクラスメートとかなら、気に入らないという理由で無視されたり、ということはあるかもしれない。川内は大人しいし、俯きがちだし、おどおどしすぎだから、悲しいかな、イジメの標的になるかもしれない、という気はする。
 幸い、今は気の強い尾崎がべったりとくっついているし、うちのクラスは全体的にのほほんとした雰囲気だから、その心配はなさそうだ。

 けれど、尾崎は先輩からのイジメを心配している。

「なにをやらかして(しでかして)目を付けられとるん?」

 なので、そう訊いてみた。

「二年になってすぐなんじゃけど、ウチらの教室の階のトイレね、全部埋まっとって」
「はあ?」

 いきなり話がすっ飛んだ気がする。なんでここでトイレ?

「それで、三年の階のトイレに行ったんよね。そしたら、中で捕まって。『ウチらの階のトイレ使いんさんな』って」
「……いや……ちょっとよく……」

 なぜ三年の階のトイレを使ってはいけないんだ? 意味がわからない。
 俺の言葉にクスクスと笑いながら尾崎は続ける。

「なんか、女子の間では、なんとなく決まっとるんよね。他の階のトイレ使っちゃいけんって。でもウチ、我慢できんくてさあ」
「……はあ」
「おまけに髪とか染めとるけえ、『生意気』じゃって言われて、囲まれて」

 怖い。
 のんびりした高校だと思っていたのに、そんなことがあるなんて。

「ほいでハルちゃんは、ウチが別の階のトイレに行こうとしよるのを見とったらしくて、心配になって付いてきたんと」

 たぶん尾崎は、「わー、トイレ空いてなーい! 下行こー!」とか大げさに騒ぎながら移動したのではないだろうか。簡単に、想像できる。
 それを見た川内が、心配になって、後をそっとついていった。それも、なんとなく、想像できる。
 そしてなかなか出てこないことに不安になった川内が、中を覗き込むと。
 尾崎が三年の先輩たちに囲まれていた。

「あんな小さくて、大きな声も出せんような子がね、ブルブル震えながら、『先生呼びますよ!』って」

 くすくす笑いながら尾崎が言う。

「ほいで、すれ違いざまに先輩らが、『覚えときんさいよ』って言ったんよ。じゃけえ、ウチ、ずっとハルちゃんと一緒におったんよね。なんか申し訳ないじゃん?」

 それで、系統がまったく違う二人が、ずっと一緒にいるようになったのか。
 尾崎は部活まで付き合って、園芸部員になったのか。サボテンを枯らしたような女の子が。

「そんな経緯があったんか」
「そう。ハルちゃんは最初は遠慮しとったけど、まあなんか、ウチもあの子の傍は居心地がええんよね。ハルちゃんはどうかわからんけど」

 そう言って、尾崎は肩をすくめる。

「いや」

 だから、俺は言う。

「川内も、尾崎の隣が居心地がいいみたいに、見える」

 俺の言葉に、何度か目を瞬かせた尾崎は。
 口を笑みの形にして、そして小さく「うん、ありがとね」と言った。
「まあもう時間も経っとるし、大丈夫なんかなって気はするけど、やっぱり誰かに傍におってもろうたほうが、安心なけえ」
「尾崎って」
「うん?」
「過保護な姉みたいよの」

 前々から思っていたことを、口にしてみる。
 言われてまんざらでもなかったのか、尾崎はふふんと鼻を鳴らした。

「ま、ウチはしっかりものじゃし?」
「そういうことにしといてもええけど、疑問は残るのう」

 ニヤつきながらそう返すと、尾崎は少し唇を尖らせて、返してきた。

「タカちゃんは意地悪なねー」

 ふいにそう言われて、思わず頭を下げて顔を隠した。

「……忘れとったのに……」

 くそ、姉ちゃんのせいだ。
 あはは、と笑いながら、尾崎は何度も俺の肩を叩く。

「まあまあ。とにかく、ウチのお願い、聞いてくれる?」

 そう言われて、ゆっくりと顔を上げる。
 尾崎は穏やかに微笑んで、こちらの返事を待っている。
 けれどきっと、答えはわかっているのだ。

「うん」

 俺はうなずいた。

「うん、大丈夫。なるべく近くにおるけえ」
「ほうね。ほいなら安心じゃわ」

 そう言って、ほっと息を吐いた尾崎だったが、なにかに気付いたようにこちらに顔を向けた。

「あ、トイレにまで付き合わんでもええんよ」
「当たり前じゃろ!」

 いったいなにを言い出すのか。
 慌てふためく俺を見て、尾崎はまた楽しそうに笑う。
 そして腕時計をもう一度見て、立ち上がった。

「時間じゃね。はあー、たいぎい(かったるい)わ」

 俺も立ち上がって、パイプ椅子を畳んで片付ける。
 温度計を見るとちょうどよさそうだったので、窓はそのままにして、そして二人で温室を出た。

 そして教室までの道のりで、ぽつぽつと話をする。

「名字が変わったら、尾崎って呼べんな」
「じゃあ、千夏って呼ぶ?」

 からかうように、そう言ってくる。

「ううーん……」

 名前呼びはさすがにちょっと、抵抗がある。
 なんというか、気恥ずかしいというか。

「ほいでもウチは、どうせ何年かしたらまた名字が変わるじゃろ。じゃけえ、なんでもええよ」

 ああ、なるほど。いつか結婚したら、また名字が変わるかもしれないのか。
 ふいに、からかいたくなって、こう言った。

「木下、に変わるかもしれんよ」
「さあ、それはわからんけど」

 そう言って、尾崎は微笑む。
 からかいは不発だったようで、特に恥ずかしがることもなく、穏やかな返事だった。

 わからない、か。
 絶対にない、ではないんだな、とちょっと温かな気持ちになった。

 俺のそういう思いに気付いているのかいないのか、横にいる尾崎は続ける。

「まあでも、離婚をここまでせんかったのは、良かったんかもしれん」
「え? なんで?」
「お母さんの旧姓、村上、なんよね」
「うん」
「そしたら、ウチらの出席番号、四人並べんかったじゃん?」
「ああ」

 なるほど。
 もしも尾崎が村上だったら、四人がここまで仲良くなっていなかった可能性もあるのか。

「なんでも、良し悪し(わるし)なんかもしれんねえ」
「うん」

 そんなことを話しながら、俺たちは教室への道のりを歩いたのだった。
 尾崎がいない園芸部は、まさに火が消えたようだった。
 彼女が一人いないだけで、あんなに楽しく輝いていたような温室内が、なんだか薄暗くなったような気がする。

 川内も、女子が一人だけになってしまって寂しそうだ。
 元々、一年のときは一人だけの部員だったというが、あの賑やかさを知ってしまったあとは、なにか感じるものがあるのだろう。

 夫婦漫才を繰り広げていた木下も、口数がすっかり減ってしまっていた。

 俺は元々、自分からしゃべるタイプではないので、ここで無理に明るく振舞ったところで、空回りするだけの気がする。いや空回りする。間違いなく。

 俺たちは、黙々と畑を鍬で耕していた。もちろん黙ってやるほうがいろいろと捗りはするので、畑はもう畝も作られていて、誰がどう見ても畑、という完成度だ。
 花壇のほうも、チューリップの球根を掘り出して、花の色別にネットに入れて干している。

 そんな風に着々と園芸部としての活動は進んでいるが、なんというか、味気ない。

 尾崎はもちろん学校にはちゃんと通っていて、授業中も昼休みも一緒に過ごしていて、そこは全然変わりないのに、放課後になって、「じゃあねー」と彼女が去っていくと、途端に静かになってしまう。

 「ハルちゃんと一緒におってあげて」という尾崎のお願い通り、温室に行くときも帰り道も、もちろん一緒にはいるのだが、やはり川内は尾崎がいるときよりも、意気消沈しているように見える。

「なんじゃあ、元気ないのう」

 そんな俺たちを見て、浦辺先生は言った。

「九月には文化祭もあるんで? 園芸部として参加するぞ」
「えっ」

 驚く俺たちを見て、浦辺先生は腰に手を当てて呆れたように言った。

「当たり前じゃろうが。園芸部がちゃんと活動しとるところを見せんと」

 山ノ神高校の文化祭は、マンガやアニメで見るような盛大なものではなくて、やってくるのは保護者や近所の人たち、せいぜいOBくらいのものだし、クラスの出し物を発表する中学校の文化祭の延長上にあるものとしか思えない。

 高校生になったら、きっと大規模な文化祭というものが開催されるのだとワクワクしながら入学した俺は、一年生のときの文化祭には少々落胆したものだ。

 けれど高校生活において文化祭は、やはり重要なイベントであることは否めない。

「でも、なにをすりゃあええんじゃ?」

 木下はそう言って首をひねる。

「園芸部の活動を見せる言うても、今まで、畑耕すくらいしかしてないで」

 ごもっとも。俺は同意を表すために、大きくうなずく。

 すると浦辺先生は、温室の脇に重ねて置かれている、空のプランターを指差した。

「一人一つ、な」

 な、と言われても。

「なんでもええ。文化祭の九月に咲く花の種を植えて育ててみいや。何種類でもええで。別の植木鉢で育てて、プランターに植え替えて見目を良うするんもええな」
「ええ……」

 嫌な顔をする男子二人を横目に、浦辺先生はプランターを取ってきて、そして一人一つずつ、渡して回った。浦辺先生の手には一つ、残った。

「なんでもええんじゃ。自分で育てた、いうんが大事よ。綺麗に育てばもっとええがの」
「はあ……」

 川内だけは、ワクワクしているのか、頬を紅潮させている。

「ネギだけ文化祭に出品しても、つまらんじゃろうが」

 まあそれは確かに。地味すぎる。

「明日の放課後、畑に撒く肥料やら土やら、ホームセンターにワシと一緒に買いに行くで。そのときに種も買う。重いけえ、車じゃないとダメじゃろ」
「はあ……」

 なんだかまともに育てられる気がしなくて、手の中にある空のプランターを眺めて、そんな気のない返事をしてしまう。

 それに、尾崎もいないのに……と、少ししんみりしてしまったところで。

「尾崎にも、何の花がええか訊いとけ」

 その言葉に、俺たちは顔を上げる。
 浦辺先生は、手に持っていた残りの一つ、空のプランターを片手で肩まで持ち上げて、プラプラと振った。
 これは尾崎の分ですよ、と言いたいらしかった。

「水やるくらいなら、尾崎にもできるじゃろ。なんかあったら、お前らが手伝ってやれ。校舎の入り口に四つ、プランターを飾る。まあ地味じゃが、それが園芸部の出し物よ」

 そう言われて、俺たちは三人揃って、大きくうなずいた。
「そういうわけじゃけえ、尾崎は何の花がええ?」

 そう昼休みに尾崎に訊いてみる。

「花かあ」

 箸をくわえたまま、尾崎はうーん、と唸った。

「そう言われてもねえ。ウチ、花とか詳しゅうないし」
「何色がええかとか、花が小さいのとか大きいのとか、そういうんでもええよ?」

 川内がそう一生懸命言っている。
 けれど尾崎の返事は芳しくはない。

「うーん……。ほいでも、今植えて、九月に咲かせるんじゃろ? どれがええかわからんわ。ひまわり育てたい、言うてもダメじゃん」

 そう言われると、確かに。

「じゃけえ、それは悪いけど任せるわ。水やるくらいなら、ちゃんとやるけえ。ホンマよ?」

 尾崎はそう言って、にっこりと笑う。
 けれどどことなく、疲れているような気がした。考えることすらも面倒だと思っているけれど、それを顔には出さないように努力しているように見えた。

 だからそれ以上、考えてみて、とは言えなかった。
 それは、他の二人も感じ取っていたと思う。

「ほいじゃあ、ワシらが適当に決めとくわ」
「うん、頼むねー」

 木下が話を打ち切って、尾崎はそれに乗って、そうして昼休みは終わった。

          ◇

 放課後、浦辺先生の車に乗って、ホームセンターに向かう。
 焼山には郊外型の規模の大きな店舗があるのだ。さすがは田舎だ。

 駐車場に停められた車から降りた木下は、店を見上げて感心したように言った。

「はー、でっかいのう」
「呉にはなかったっけ」
「あったかのう。あ、市役所の近くに一戸あるわ。そんなにでかくない」
「ふーん」

 そんなことをしゃべりながら、店の中に入る。
 浦辺先生はカートを引いてきて言った。

「まあ適当に種でも選びよけや。ワシは土とか積むけえ」
「はーい」

 先生と別れて、店の中に入る。
 ホームセンターという場所は、なんとなく心躍る。きっと財布の中にたくさんのお金が入っていても、すぐに使い切ってしまうのではないだろうか。

「もし、町中にゾンビが溢れて、どこかに籠らんにゃいけんようになったら、ワシはホームセンターに籠る」
「わかる! ホームセンターなら生き残れる気がする!」
「武器もあるよのう」
「チェーンソーとか」
「食料もあるし」

 そもそも町中にゾンビが溢れることはない、とかいうツッコミは不要だ。
 ホラー映画とかゲームとか、そういうのを見たあと、自分ならどこに基地を置くか、というのは誰しも考えることだと思う。

「種はあっちみたい」

 川内は、そんなバカなことをしゃべっている俺たちを尻目に、種が売ってあるほうに歩き出していた。
 男子二人は、使いもしない変わった形の鍋とか、便利グッズとかにフラフラと目を奪われるが、川内だけは脇目もふらずに一直線に園芸コーナーに向かっていた。

 たぶん、彼女が一番興味が惹かれるのが、そこなのだろう。
 俺たちが飾りもしない神棚を見て「かっけー」とか言っているのと、実は似たようなものなのかもしれない。

 種の入っている袋がずらりと並んだ棚の前でしゃがみ込んで、川内はキラキラした瞳で手に取っては戻し、手に取っては戻ししている。
 遅れて到着した俺たちも、適当に一つ、手に取ってみる。

「どれでもええんかのう」

 表に印刷された花の写真を見ながら、木下が首をひねっている。

「裏に、何月に植えたら何月に咲くとか書いてあるよ」

 川内に言われて、手に持っていた種の袋を裏返す。

「あ、ホンマじゃ」
「九月くらいに咲くのがええんよのう」
「別に、全部咲かんでもええかもしれんよ。これから咲きますよ、っていう蕾でも綺麗なし」
「なるほど」
「プランターで何種類も植えられるけえ、時間差で咲くのもいいよね」
「ほいじゃあ、何個か選んだほうがええんか」
「一種類でもええと思うよ。いっぱい咲くのが綺麗なんもあるし。私は去年はパンジーだけのプランターをいっぱい作ったよ」

 漠然としていてイメージが湧かずに悩む俺たちとは対照的に、川内は珍しく饒舌だ。

「どうしようかのう……」

 そう言って、目を動かしていた木下が急に、「あ!」と声を上げた。
 何ごとかと振り向くと、下のほうにあった種の袋を指差している。

「サボテンの種がある!」
「マジで?」

 木下が指差す先を見てみると、本当にサボテンの種があった。何種類かのサボテンの種が混合で入っていると書いてある。

「サボテンって種から育てられるんか」
「知らんかった」

 サボテンと聞くと、サボテンを枯らせたと話した尾崎を思い出してしまって、三人で小さく笑った。
 木下はその種の袋を手に取って、そして満足げにうなずいた。

「これにしよう、これ。尾崎はこれがええ」
「どんな顔するか楽しみじゃ」
「じゃあ、サボテン用の土も買ってもらいたいな。あとプランターじゃなくて植木鉢のほうがええかも。水はけが良うないと」
「先生に頼もう」

 なんだか急に、種を選ぶのが楽しくなってきてしまった。
 俺たちはああでもないこうでもない、とワイワイと話し合った。
 そうしているうち、大きなカートに山盛りの商品を詰め込んだ浦辺先生が、種のコーナーにやってきた。

「決まったか?」
「先生、これー」

 サボテンの種の袋を見せると、浦辺先生は覗き込むように顔を近付けたあと、顎に手を当ててニヤリと笑った。

「なるほどのう」
「あの、サボテン用の土、買ってもいいですか。あと、植木鉢も」
「ええで。乗せえや」

 そう言って、カートを指差す。ほっとしたように笑った川内は、いくつかの種の袋をカートに入れたあと、パタパタと植木鉢を見に行った。

 残った俺たちは、種の袋をカートに入れるついでに、その中身を覗き込む。
 大きな袋に入った土が何袋もある。それから支柱になる棒やら紐やらビニールやらが無造作に突っ込んであった。

 そして端っこに、何個もの苗があった。黒いビニールの小さな植木鉢のようなものに植えられている。あれだけ、種から種からって言っていたのに、どういうわけだろう。

「これ、なんの苗?」

 苗が生えているポットを指差して尋ねると、浦辺先生は呆れたように言った。

「なんじゃ、葉っぱ見てわからんのんか。やっぱり現代っ子じゃのう。見てみい」

 その黒いポットに、札が刺さっている。それを見てみると。

「……ナス?」
「こっちはピーマンじゃ」
「せっかく畑を耕したんじゃ、ネギだけいうのものう。ついでにこっちも植えとけ。夏休みには収穫できるじゃろ。そしたら、これでバーベキューでもやるで」

 心なしか弾んだような声に、顔を上げる。

「えっ! ホンマに!」
「……野菜だけ?」

 バーベキューという言葉には心躍るものはある。しかし、野菜だけのバーベキュー。それはなんだか物悲しい。
 けれど浦辺先生は言った。

「そんときは、肉も買うてやるわ」
「やったー!」

 二人揃って思わずそんな声が出て、イエーイ、と両手でハイタッチする。

「楽しみもないとのう。いっつも畑耕すだけじゃと、つまらんじゃろ」

 俺たちを見て、苦笑しながら浦辺先生が言う。

「その代わり、夏休みも交代でええけえ、通って世話するんで?」

 その言葉に、俺たちはコクコクとうなずく。

「わかった、やる」
「バーベキューは、尾崎も呼ぼう。デイ、とかいうのが昼間はあるんよの?」

 木下にそう訊くと、深くうなずいて肯定した。

「うん、言うとくわ」

 なんだかワクワクしてきた。今から夏休みが楽しみだ。

「ほいじゃあ、会計するか。車に戻っとけ」

 浦辺先生はガラガラとカートを引いて、レジへと向かっていく。途中で川内と会って、植木鉢やらなにやらカートに乗せさせているのが見えた。

 俺たちは出口に向かって軽やかに歩く。
 肉体労働ばかりさせられているような気がしていたが、なかなか素晴らしいご褒美があるではないか。
 隣を歩く木下が上機嫌な様子で言う。

「千夏も嬉しいじゃろう。あいつ、肉が好きじゃけえのう」
「……えっ?」

 思わず足を止めて、木下をまじまじと見つめてしまった。
 千夏?

 たぶん、二人は子どもの頃は名前で呼び合っていたのだろうとは思う。その癖が出たとも考えられる。

 でも、今のは、違う気がする。
 そういう響きではなかった。

「うん?」

 足を止めてしまった俺に気付いた木下も、その場に立ち止まって訝し気に俺を見る。
 しばらく木下は気付かない様子だったけれど、少しして、「あー!」と叫んだ。
 そして右手で口を押さえた。どう考えても今さらだけれど、そうせずにはいられなかったのだろう。

「やっべ……」
「えーと、……両想い?」

 この様子を見るに、つまり、あれから二人は進展した、ということでいいのだろう。
 そしてそれは、秘密にするつもりだったのだろう。
 木下は上目遣いで、少し睨むような眼でこちらを見てくる。

「言うなよ、黙っとけ言われとるんじゃ」
「自信ない……」

 正直にそう言った。
 そしてちらりとこちらに向かってくる川内に視線を移した。
 今現在、三人しかいない園芸部で、川内にだけ隠し事をするだなんて、できる気がしない。

「ほうよのう、川内だけに隠すって、おかしいよのう」

 そう言って木下はため息をつく。

「千夏には事後承諾じゃが、ええか、もう」

 覚悟を決めたかのように、木下は顔を上げた。
 川内はこちらに向かって歩いてくる。

「どしたん? 先生が、車に戻っとけ言いよったよ?」

 俺たちの前に立つと、川内は首を傾げてそう言う。

 覚悟は決めたのだろうが、やはり勇気は必要なようで、木下は顔を真っ赤にしながらぎゅっと両手を握りしめている。
 わざわざ口にするのは気恥ずかしい、という気持ちはわからないでもない。

「あ、あのの、川内」
「うん?」

 なにが始まるのかと思っているのだろうか、川内はきょとんとした表情をして、木下を見つめている。

「あの……尾崎……なんじゃが」
「うん」
「あの……それが……あの……」
「うん」
「あの……ワシと尾崎の……」
「うん」

 俺はそれを「がんばれー」という、父親だか兄だかのような気持ちで、隣で見ていた。

「ワシら……付き合うことになった」

 やっとのことでそう言って、木下は、ふう、と息を吐きだした。

「うん、よかったね」

 にっこりと笑って、川内が応える。
 うん?

 驚いた様子もなにもない。これは。
 逆に木下が驚いたように、川内に訊く。

「……知っとる?」
「うん」

 川内は、こくりとうなずく。

「千夏ちゃんから聞いた」
「なんじゃ、あいつー! 自分は言うな言うたくせにー!」

 ホームセンター内に、木下の叫びが響き渡った。
 それを慌てたように静止しながら、川内が続ける。

「あ、千夏ちゃん、木下くんも勝手にしゃべったからいいんだって……」
「はあ? ワシは今、初めて言うたで? なんの話じゃ」

 眉根をひそめてそんなことを言っている。

「あ!」

 思わず、そんな声が出た。
 俺には、心当たりが一つ、あった。
 たぶん、尾崎の家庭の事情を木下から俺が聞いてしまったことを言っているのだ。

 俺の声に、ものすごい勢いで振り返ってきた木下が、こちらに顔を近付ける。

「あ、てなんじゃ!」
「いや、尾崎の家庭の……」
「あれ内緒じゃ言うたろー!」

 そう言って頭を抱えている。さすがに、人に言うのはまずいとは思っていたらしい。
 俺は慌てて顔の前でブンブンと手を振った。

「いや、言うたわけじゃない。尾崎が勝手に悟ったんじゃ」
「同じことじゃー!」
「静かにせえ!」

 わーわーと騒ぐ俺たちの声を、いつの間にかやってきた浦辺先生の一喝が止める。

「お前ら、なにを騒ぎよるんじゃ! 迷惑じゃろうが!」

 一瞬にして、ホームセンター内がしん、となった。
 パラパラといる他の人の視線が、こちらに突き刺さる。
 俺たちはしゅんとして肩を落とすしかない。

「とにかく車に帰るで!」

 トボトボと、大股で歩く浦辺先生の後をついていく。

 「すみません」「お騒がせしました」と頭を下げながら歩く先生の後を、同じように俺たちも頭を下げながら行く。

 店を出て車の傍に着いたところで、先生は腰に手を当てた。車の傍には会計を済ませた商品が乗ったカートがあった。
 先生は顎をしゃくる。

「ほれ、トランクに乗せられるだけ乗せえ。乗らんかったら、お前らで抱け」
「はい……」

 俺たちは粛々と、先生の言う通り、トランクに荷物を乗せ、カートを片付け、そして車に乗り込む。

 学校に帰る途中の車内は、浦辺先生の独壇場だった。

「まったく……制服で迷惑行為なんかもっての外じゃ。他の人にどう見られとるんか考えてみいや。制服を着とるいうことは、学校の代表と同じことで。お前らが悪いことをしたら、山ノ神はそういう高校じゃ思われるんで。わかっとるんか。あと、お前らええ加減に敬語を覚ええや。進学するんでも就職するんでも、面接はどうするつもりなんじゃ。だいたいお前らはのう」

 学校に帰るまで、そのぐうの音も出ない説教は、延々と続いたのだった。