「お母さん、じいちゃんには恩があるんと」
「恩……」
「ウチを産んだときにね、母方のじいちゃんもばあちゃんも、ほいで父方のばあちゃんも、皆ね、『ありがとう』って言ったんだって。それが引っ掛かっとったみたいで」
「うん?」

 『ありがとう』のどこが、おかしいのだろうか。自然に出る言葉の気がするのだが、違うのだろうか。
 よくわからなくて、首を傾げる。
 その様子を見て、尾崎は苦笑しながら続ける。

「でも、じいちゃんだけが、『おめでとう』って言ったんだって。それで、この人の世話は私が一生する、って決めたんだって」
「……ごめん、ようわからん……」

 俺は素直にそう訊いてみる。

「ありがとう、いうのがいけんってわけじゃないとは思うけど、でも、おめでとう、のほうが嬉しかったんだって。それだけじゃないけど、それが一番心に残っとるんだって」
「ふうん……」

 けれど返ってきたのは、やっぱりよくわからない説明だった。もしかしたら、大人になったらわかることなのだろうか。
 首をひねる俺の肩をポンと叩き、尾崎は笑った。

「まあまあ。神崎も、いつか孫が生まれるときのために、『おめでとう』って言ったほうがええって、覚えとったらええわ」
「忘れとる気がする……」

 眉根を寄せる俺の顔を見て、尾崎はまた、あははと笑った。

「ま、それはそれとして。とにかくお母さんは、意地になっとったんじゃけど、今回のことで、じいちゃんを施設に預けたほうが、みーんな幸せじゃってわかったんよね。ほいじゃけえ、クソオヤジにも会ったわ」
「えっ」

 噂の、浮気をして出て行ったという、尾崎の父親。

「まあ会いとうもないけど、仕方ないよね。クソオヤジがじいちゃんの実子じゃけえね、クソオヤジが書類とか、いろいろやらんと」

 この場合、クソって言うな、とは、木下も言わないのではないだろうか。

「ほいでね、離婚するって」

 言っていることは、離婚するとかいうあまりポジティブとは思えない言葉なのに、尾崎はやけにスッキリとした表情をしていた。

「ウチの高校の卒業と同時に離婚するって」
「今すぐ、じゃないんだ」
「まあいろいろ、手続きとかあるみたいなし。キリのええところ、いうんじゃないん? お母さんは名字を変えたいみたいじゃけえ、卒業してからなら、名字が変わってもそんなに変じゃないじゃろうし。ウチは別にいつ変わってもええんじゃけど」

 そう言って、また尾崎は足をプラプラと振っている。
 俺はそれまでの話を頭の中で整理してみた。

「つまり、じいちゃんの世話をするために、今まで離婚せんかったいうこと?」
「それだけじゃないんじゃろうけど、まあそういうことよね」
「なんか……それはそれで腹立つな」

 そのお母さんの意地のために、尾崎は振り回されてきたのだ。
 尾崎も怒っとるけど、と木下は言っていた。ならば尾崎自身は離婚に賛成の立場だったのではないか。

 眉根を寄せる俺を見て尾崎は口の端を上げる。それから覗き込むようにして俺の顔を見てきた。

「なに? ウチのために怒ってくれとるん?」
「そんな高尚なんじゃないけど」

 こちらに身を乗り出す尾崎から逃れるように、慌てて身を引く。それを見て尾崎は、また笑った。
 完全に、からかわれた。
 少しだけ唇を尖らせて抗議の姿勢をとっても、まったく堪えていないのか、尾崎はくつくつと笑うだけだ。

 そしてふと、自分の腕時計に視線を落とすと、尾崎は言った。

「あ、いけん。自分のことだけしゃべりすぎた」
「え?」
「ウチの話はもうええんよ。おしまい!」

 そう言って、パン、と手を叩く。それが終了の合図らしい。

「ここまでは、木下にもハルちゃんにも言うたんよ。でも、神崎に言いたいのは、こっから」
「え、なに?」

 さきほどまで、自分の感情をごまかすかのように笑顔のままだった尾崎は、その表情から笑みを消して、俺に向き直った。

「お願いが、あるんじゃ」
「お願い?」

 俺がそうおうむ返しにすると、至極真面目な顔をして、尾崎はこくりとうなずいた。