デートに出掛けた週末が明けた、月曜日。

「――はぁ」

 大きく深呼吸、いや、溜息を吐き出す。
 その反動で肺の中が空っぽになり、途端に息苦しくなる。ヤバい、幸せが逃げていっちゃう。慌てて息を吸うと、身体の隅々まで新鮮な空気が満たされるように感じた。

 でも、色濃く残るモヤモヤとした感情は、簡単には消えてくれない。

「今日も来ない、か」

 溜息だって吐きたくなるさ。
 初めてデートを敢行したあの日以降、昼休みに夏目が校舎裏へ姿を現さなくなって、もう一週間が経とうとしていた。

 昼休みのベンチは、俺一人の貸し切り状態になっている。閑古鳥が鳴きそうなくらいに静かな校舎裏はどこよりも居心地が良いはずだったのに、今となってはひどく退屈に感じる。

 いつのまにか、夏目の存在は俺にとって当たり前になっていたらしい。

 廊下ですれ違ったこともあったが、華麗にスルーされた。うん、明らかに避けられてるね。事情を聴こうにも、話すどころか夏目とコンタクトを取ることさえ機会は皆無だった。

 彼女はまるでどこぞのアイドルのようにいつも大人数に囲まれており、ひとたび廊下を歩くだけも民族の大移動の様相を呈していた。流石にその騒がしい軍団に単身で突入する勇気など俺にはない。

 そもそも、この昼休みの時間以外に接点なんて一つだって無かったんだから、当たり前だよな。アイツの本性を知ったこと自体が奇跡みたいなもんだったんだから。

「やっぱり、あの話が原因だよな……」

 日曜日、夏目との別れ際の光景を思い出す。

 夏目が優等生を演じるようになった原因。
 それなりに理由はあるんじゃないかと思っていたが、まさかあそこまでナイーブなバックボーンがあるとは想像していなかった。

 今となっては、執事の瀬野さんが夏目のことを不器用だと表現していたのも得心がいく。
 いくら身近な存在の執事といえど、プライドの高い夏目がペラペラと自分の事情を話すとは考え辛いが、瀬野さんも夏目の性格からある程度のことは察していたのだろう。

 ほとほと、自分の浅はかさが嫌になる。

 俺は自分が目立ちたいがために周囲を騙し、肝心なときには誰にも信じてもらえなかった。

 夏目はそんな俺を「自分の境遇と似ている」と言ったが、まったく違う。対極といって差し支えないくらいだ。

 夏目は悲しみから自己防衛するために、本性を隠し、演技することを選んだ。

 初めてアイツと会ったとき、話すような間柄になったとき、俺は夏目を純粋に羨ましいと思った。
 周囲を虜にする容姿、華々しいキャラクター、誰もが好意を抱く人望。俺が望んだモノを全て兼ね備えた人間だと思った。

 だが、そんな表面的なものじゃない、夏目の心に隠れた悲しみ。
 あまつさえ、俺は夏目に最低の嘘をついてしまっているのだ。

「……ホントのこと、言わないとな」

 俺は自らを鼓舞するように膝を軽くたたいて、勢いよく立ち上がった。

 伝えよう。
 俺が夏目と付き合っているなんて、真っ赤な嘘だってことを。たとえ、もう二度と口を聞くことさえ出来なくなったとしても。

 夏目の人生に、もうこれ以上暗い影を落とすような真似は出来ない。

☆☆☆

 教室に戻ると、やけに辺りがざわついていることに気がついた。

 どうしたのだろう。次は体育の授業のため、女子はすでに更衣室に移動していないといけない時間だ。しかし教室にはまだほとんどの生徒が残っている。

 俺が教室に足を踏み入れた瞬間、まるで時が止まったように静かになった。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように沈黙し、誰からとも分からないヒソヒソ声だけがうっすらと耳に届いてくる。
 声を潜めているつもりだろうが、そのあからさまな雰囲気も手伝い却って五月蠅いくらいに聞こえた。

 嫌な視線を感じ、その先へ目をやる。
 まるで何かを取り囲むかのように固まっているクラスメイト達が、教室に帰ってきた俺の方を指さしていた。

 これだけあからさまな反応をされて、察しないほど俺は無神経ではない。なにか、嫌な感じがする。

「……神崎」

 俺の名前を呼んだのは、名前もイマイチ思い出せない長身男子のクラスメイトだった。確か……高田とか言ったっけ。陽キャを演じていた当初、少しだけ絡んだ記憶がある。

 高田くん(多分)は腕を組んで、不機嫌そうに口を曲げている。加えて、まるで親の仇を見るような目つきでコチラを凝視していた。

 うわ行きたくねぇ。だが、このあからさまな状況で無視するわけにもいかない。

「……どうした?」

 ゴクリと唾を飲み込む。周囲からの粘着するように纏わりつく不穏な空気を肌に感じながら、俺は歩み寄った。

 どうやらクラスメイト達は、教室の一角にある一つの机を囲っていたらしい。

 覗き込むようにして目をやると、その円の中心には背の低い女子生徒がチョコンと着席していた。
 散切りのおかっぱ頭で、見るからに大人しい印象を受ける子だ。

「お前、篠田の体操服知らないか」
「……は?」

 高田からの耳を疑うセリフに、思わず聞き返す。体操服が、なんだって?

 中心に座る女生徒。名前はたしか篠田さんといったはずなので、この子の話をしていることは間違いない。
 ちなみに事件のせいでクラスからハブられて以来、クラスメイトの名前と顔を覚えることは諦めた。

 つまり俺は彼女とほとんど話したこともないし、特別な関わりもない。
 彼女の体操服の行方など、今日のブラジルの天気くらい関心がない事項だ。

「いや、知らないけど……」

 俺は質問の意図が分からず、返答に困窮する。
 昼休みに教室へ帰ってきたら、いきなり話したこともない女生徒の体操服について問われる。突然降って湧いた青天の霹靂であり、俺にはまったく身に覚えがない。

 ただ、嫌な予感だけが脳内で警報を発している。

 高田は猜疑心を滾らせた目つきで俺を睨みながら、やれやれといった具合に頭を振った。ひどくわざとらしい。演技力でいえば夏目の足元にも及ばない、大根役者だ。

「まあ、そりゃそう言うわな」
「……どういう意味だよ」

 高田のあまりの態度の悪さに、図らずもムッとしてしまう。
 いきなり呼び出されてそんな不穏なセリフを吐かれては、こちらとしても大人しくはしていられない。流石にイラッとするぜ。

 俺の反抗的な返しが気に入らなかったのか、高田はグッと眉を顰めた。

「篠田の体操服が無くなったんだよ。午前中まではあったはずなのに」

 ……なんだそれ。
 まさか、たった一か月もしない内に再びこのクラスで体操服の盗難事件が起きたっていうのか。

 屋上の落下事故といい、この学校の警備体制はおそろしいくらいにザルらしい。犯罪起きまくりじゃねぇか。ここは日本のゴッサムシティですか。我が国の公共機関における安全意識の欠落に、頭が痛くなる思いだ。
 だが今は行政の将来を案じている場合ではない。

「まったくの初耳だ。知るわけがない」
「……ふうん」

 まるで俺を試すような舐めた目つきに、気の抜けた返答。

 これじゃ押し問答だ。もはや高田を始めとした周囲のクラスメイト達は、頭から俺が犯人だと疑ってかかっている。何と弁明したところで納得してはくれないだろう。

 俺はやってないのに。
 ……そう言葉で否定しつつも、不安な感情が内心蠢く。

 真っ先に俺が疑われた。
 再び事件が起きた衝撃よりも、この事実がまるでアメーバのように意識を蝕んでいく。そんな感覚が俺の頭を支配していくようだった。

 おそらく俺が教室にいない間に、クラスメイト達は俺のことを槍玉に挙げていたのだろう。
 周りを取り囲む他の生徒も、不信感を隠そうともせずに俺の顔を見ているのがその証拠だ。

「こういうことは言いにくいけど……神崎くんは前科があるからね」

 まるで子供を不審者から守る親のように、篠田さんに身を寄せていた別の女生徒が、溜息をつくように嘯いた。この女生徒はえーと、二宮だったか。確か図書委員をやっていたはず。

「ちょ……ちょっと待ってくれ!あれは完全なる誤解だったろ!」

 俺は思わず、半ば怒気を込めた声で反論した。

 突然大きな声を出したせいか、周囲の注目が一斉にコチラへ集まる。
 あまり興味なさそうに遠巻きにしていたクラスメイトも、何事かと顔を覗かせ始めた。まるで見世物だ。
 二宮は不快そうに眉を顰めた。

「大声、出さないでくれるかしら」

 釘を刺すような冷たく鋭い声。
 ただでさえ静まっていた教室が、冷水を掛けたように嫌な沈黙に包まれる。

 まるでこの状況は開廷中の裁判所みたいだ。もちろん被告席に立たされているのは、他でもないこの俺だ。しかも弁護人もいない。どれだけ絶体絶命だよ。諸葛亮公明でも匙を投げるレベル。

「……怒鳴ったのは謝る。だけど知らないのは本当だ」

 警察に追い詰められた銀行強盗のように、俺は両手を挙げて無抵抗を示した。

 ――やってしまった。
 声を荒げたって、俺への不信感が増すだけで逆効果なのは分かりきっている。

 今必要なのは無実を叫ぶことではなく、冷静に状況を整理することなのだ。
 前回の件で容疑者の筆頭だった俺を疑うのは、周りとしては自然な反応なのだから。
 その疑いの目に過剰に反応したら、火に油を注ぐようなものだ。さあ、俺、深呼吸だ。うん、ビークール。

「午前中、二限が美術で移動授業だったよな。篠田さんも、そのとき盗まれたとは考えられないか?」

 俺は信頼のロスを取り戻そうと、なるべく優しい声と態度を演出する。
 俺の言葉に、篠田さんという女生徒は何も言わずにただコクリ頷いた。

 話したことも無いのでよく分からないが、篠田さんは積極的に主張することが苦手なタイプなのだろう。
 先ほどから小さく丸まるのに終始していて、一向に発言しようとしていない。
 篠田さんが被害の声を挙げたというよりは、お節介な周囲が被害を訴える役を買って出たであろうことは想像に難くない。

「二限は、普通にみんなと一緒に移動したぞ、俺は」

 正確にいうとクラスメイトの流れについて行っただけで、俺はぼっちだったけどね!

「それだって、証明する人はいないんだろ?」
「ぐ……」

 首を振って周囲のクラスメイトを見渡す。
 当たり前だが、目撃証言を名乗り出る者は一人もいない。

 この教室で俺を庇う人間がいない以上、このままじゃ埒が明かないな。なんとか無実を証明する手立てはないものか……。

 一番シンプルなのは真犯人を見つけることだが、そもそも初回の事件から真相は迷宮入りしているのだ。
 今までこれといった証拠や俺を除く容疑者も挙がっていないようだし、この状況から真犯人を探すのも厳しいか。

「そうだ、また荷物検査でもすればいいじゃないか」
「いや、流石に犯人も前回と同じようなミスはしないだろ?」

 再びしゃしゃり出てきた高田が皮肉じみた笑みを浮かべる。

 クソ、前回の事件ではすぐに手荷物検査をしようという流れになったのに。犯人が盗んだブツをわざわざ後生大事に持ってくれさえいれば、何より明確な証拠になる。

「それこそ……休み時間にどこかに行って隠すとか」

 そう口にしながら、高田は意地悪そうな視線を投げかけてくる。

 他クラスの生徒の犯行とか、下手したら校外の人間が侵入したとか、あらゆる可能性が考えられるはずなのに、意地でも俺を犯人に仕立て上げたいらしい。俺に恨みでもあんのか、この野郎は。

 校舎裏で昼飯を食っていただけだ、と主張したいところだが、それを証明できる手立てはない。
 なぜなら俺は誰にも出会わず一人きりになれるからこそ、あの場所を選んだんだから。もちろん今日も夏目にも、会っていない。

「どうも怪しいのよね、神崎くんが。だって、演技までしてみんなを騙してたんでしょ?最初から何か企んでたんじゃないの?」

 クラスメイトの援護射撃をするように口を開く二宮。
 俺は一番苦しいところを突かれて、返事に詰まる。

 脳裏にフラッシュバックする、あの頃の俺が思い描いていた理想像。みんなに好かれる、明るい人気者を演じようとしたこと。昔の自分や友人を下に見て、否定して、嘘のキャラクターを作ってまで欲しかったもの。
 それは。

「普通じゃないだろ。いったいどんな思惑があって、みんなを騙すなんてことができたんだ?」

 高田の問い詰めるような言葉が、まるで俺の身体を縛り付ける呪文のように頭に流れ込んでくる。滲んだ汗が額から流れ落ちて、虚ろな目に染みる。

「……神崎。お前は嘘つきだ」

 腕を組みながら俺を見下すような視線をじっと向ける。

「さっさと吐いちまえよ。お前を信じる奴なんて、一人もいないんだから」

 高田は大袈裟に溜息をついて、ふんと鼻を鳴らす。
 周囲のクラスメイト達もそのセリフに同調するように、静かに俺を蔑むような視線を送っている。

 真綿に塞がれたように、どうにも声が出ない。
 こんな状況で俺の事情を説明したところで、誰が理解してくれるのだろう。誰が許してくれるのだろう。

 許してもらう?
 誰に?
 何を?

 何も言えずに黙り込んでいる俺を、クラスメイト達は不審そうな目で睨んでいた。
 いや、彼らだけではない。遠巻きの連中も含めて、この教室にいるすべての人間が、俺に敵対の視線を送っている。

 ああ、この目だ。誰も、俺のこと信じていない顔してやがる。

 まるで無理矢理エンジンに負荷をかけたように、ドクンドクンと心臓の鼓動が早まっていく。
 額から流れる汗が止まらない。緊張による冷や汗なのか、あるいは焦燥による脂汗なのか、俺には判断がつかなかった。

 いくら弁明したところで無駄。もうマジで勘弁してくれっつーの。そもそも、大勢に注目されるのだって吐き気がするほど苦手なんだぞ。

 俺は不意に、夏目の言葉を思い出していた。

『誰も私のことを必要としていない』

 はは、寸分の狂いもなく、今の状況にピッタリなセリフじゃねぇか。

 疑いと敵対の目だけが、俺を貫いている。
 もちろん、こんな状況で俺を庇い建てするような酔狂な人間は存在しない。
 夏目も中学のとき、こんな気持ちだったのだろうか。

 どうしようもなく。
 どうしようもない。

 夏目、お前なら。
 こんな俺をなんて言うんだろう――


「バカヤローーーーーーーーーーーーーーーーーーー‼」


 鼓膜を貫き、天地を揺るがすほどの大絶叫。
 あまりの衝撃に危うく心臓が止まりかけた。

 これは幻聴ではないか、と思った。

 なぜなら、その声の主はここにいて良いはずがない人物だったから。
 なぜなら、その声の主はそんなセリフを吐いて良いはずがない人物だったから。

 叫び声は狭い教室に乱反射して、廊下まで反響したに違いない。いや、学校中の隅から隅までに響いたかもしれない。もしかしたら地球の裏側のブラジルまで届いたかもしれない。それくらいの声量と衝撃だった。

「バカバカバカバカバカみんなみんなみんなこのあほんだらだああああーーーーーーーーーーー‼」

 再び繰り出される、肺の空気を根こそぎ絞り出すような罵声。
 耳を覆いたくなるような痛烈な大音量。

 まるで振動が空気の壁を突き抜けて肌まで伝わってくるようだ。

「……夏目」

 教室の入り口、そこに堂々と屹立していたのは、他でもない夏目七緒だった。

 夏目はお嬢様の仮面をかなぐり捨て、まるで地獄の鬼のような形相で肩を上下に揺らしていた。

 成績優秀、容姿端麗、誰もが尊敬する学校のアイドル。
 衆人環視の前では絶対にありえなかった筈の、演技を止めた夏目の姿が、そこにあった。

 突然の来訪者に、教室は騒然としていた。

 唖然とした表情で彼女の慟哭を傍観していた面々が、我に返ったように「あれ、もしかして夏目さん……だよな?」と驚きを口にし始める。

 素顔を知っている俺ですらこの混乱ぶりだ。
 他のクラスメイト達は目の前のことが現実とは思えないレベルで驚愕しているだろう。

 しかし、夏目はそんな周囲の反応など気にする素振りもなく、ズンズンと教室へ足を踏み入れてきた。
 生徒たちは夏目の勢いに慄き、さあっとその道を開ける。すげえ、まるで海を渡る旧約聖書のモーゼだ。

 俺は息を呑んだまま、夏目の変わり果てた姿を眺める。
 いつも綺麗に纏められた艶のある髪は、ほどけてグシャグシャに乱れている。その頬は普段の色白な様子とは打って変わって、蒸気で温められたように赤く染まっていた。

 しかし夏目はそれを整えようともしない。
 ありのままの姿で、尚も言葉を吐き出し続ける。

「なんで嘘をついちゃいけないのよ‼なんで嘘をついたらそれだけで誰にも信じてもらえないのよ‼なんで、なんでうそつきが悪者扱いされなきゃいけないのよ‼」

 一言一言を吐き出すたびに、雷が走るようにビリビリと空気が揺れる。単なる勢いだけじゃない。夏目の声には、魂のこめられた確固たる強い意志が感じられた。
 初めて出会ったときの絶叫をも軽く上回る、もはや心の叫びと表現して差し支えないほどの慟哭。

 俺は眼前で繰り広げられる光景を、ただ黙って目で追うことで精一杯だった。

「みんなに必要とされて、理解されたかっただけなのに‼勝手なことばっか言って、責めるばっかりで、なんで誰も分かってくれないの‼なんで誰も分かろうとしないのよ……‼」

 肩を震わせながら俯く。
 その表情は髪に隠れて窺うことは出来ない。

 泣いているのかもしれない。悔しさか、悲しみか、あるいはその両方か。

 矛盾したこの世の不条理に対する憤り。自分を騙し続けても平気な顔をしている周囲に対する怒り。

 夏目七緒は今、まるで駄々をこねる幼い子供のように怒っている。いや、ずっと、ずっとずっと夏目は怒っていたのかもしれない。
 世界に対して、皆に対して、なによりも自分に対して。

「そ、そんなの、嘘ついたら、ダメだろ!疑われるのも仕方ない」

 反論したのは驚愕の感情を目に浮かべた高田だった。

 なけなしのプライドがそうさせたのか、修羅と化した夏目を前に意見した勇気は感服するが、おそらく蛮勇だろう。
 先ほどまでの高慢な態度とは一変し、唇は震えてその表情には明らかに怯えが見られた。

 夏目は目の前のクラスメイト達をキッと鋭い双眸で睨みつける。

「正直なことが良いことなんて、欺瞞だ‼そんなの大嘘だ‼みんな嘘なんてたくさんついてるわ……でもそれは、幸せになるために、笑えるために、誰かのために。そんな優しい嘘だってあるはずよ。それも分からないで相手を否定して、疑って、責めて良い理由になんてならないわ‼」

 痛切な叫びを続ける夏目。

 まるで言葉を吐くたびに、自分自身を傷つけているようだった。
 一言発するたびに、心は引き裂かれ、血は吹き出し、全身を激痛が襲う。

 だが、夏目は戦うことを止めようとしない。

『嘘をついてはいけません』

 誰もが子供の頃からそう教え聞かされる文言。
 間違いない、文字通りの真実だ。正論過ぎて吐き気がしちまう。怖いくらいに一ミリも間違ってなどいない。

 でも、誰もがなにかしらの嘘をついて生きている。それもまた真実なのだ。

 それは虚栄心からかもしれない。
 欲望からかもしれない。
 逃避からかもしれない。
 あるいはたとえ偽りだろうとそうありたいという、悲しいくらいの切望からかもしれない。

 もし誰もが真実のみを口にする世界になったのならば、おそらく瞬く間に人間関係は崩壊してしまうだろう。

 真実は人を傷つける。それはひどく暴力的で、残酷な世界。
 だから誰もが嘘をつく。

 嘘の大小はあるけど。
 嘘の代償はあるけど。

 自分を守りたい。失望されたくない。相手を守りたい。信じたい。
 そんな優しい嘘が世界には嫌というほどに溢れている。

 だからこそ、本当のことを言うのは怖い。
 心の裏側に隠された真実を口にするのは、嘘をつくよりもずっとずっと勇気が必要になる。

 本音を吐き出すのは、とても怖いこと。

「なんで夏目さんはこんな奴の肩を持つんだよ……みんなを騙してた、大うそつきなんだよ!どうせ体操服盗んだ犯人だってコイツに決まってる!」

 高田はまるで犯罪者を糾弾する原告のように、大袈裟な素振りで俺を指さした。

「たしかに神崎くんはどうしようもないうそつきよ!ヘタレで情けなくて誰にも相手されなくてビビりで、逃げてばっかで人付き合いが下手くそで、しかも童貞だし」
「おい」

 さりげなく悪口を組み込むな。特に最後のやつ。地味な精神攻撃はやめてよ。

「本当に、どうしようもない。でも……」

 夏目はゆっくりと顔を上げて、俺の顔を見る。
 まるで諦めたような、呆れかえっているような、そんな笑顔で夏目は言葉を零した。

「良い奴なのよ。私は知ってる。誰かに好かれるための嘘しかつけない奴なの。だから、私は信じてる。盗みなんて、人を傷つけることはしないって」

 俺は驚きの表情で、夏目の顔を眺めた。

 恐らく教室に存在するすべての人間が、同じような顔をしていたと思う。
神様すらも驚きのあまり口を開けていたかもしれない。

 コイツが俺のことを『良い奴』だと口にするなんて、ハリー彗星の到来並みにレアな出来事じゃないか。こんな奇跡があっていいのか。

 こんなセリフ、夏目の口からは初めて聞いた。
 俺が誰かに信じてもらえたのも、初めてだった。

「夏目さんと神崎はどういう関係なんだ……?」
「全然キャラ違うじゃん……どうなってんだよ」

 夏目のお嬢様キャラが吹き飛んだことで唖然としていた周囲のクラスメイト達も、段々と我に返って疑問を口にし始めた。

「……夏目」

 彼女の取った行動。俺は驚きと同時に、やってしまったという想いが頭を過ぎった。

 誰も知らなかった本当の姿を、俺を庇うためにすべて晒してしまった。

 せっかく夏目が努力で積み上げてきた大切な立場を、俺が原因で破壊してしまったのだ。
 どれだけ頑張ったって、もう取り消すことは出来ない。起きてしまったことを帳消しにすることは出来ない。

 なのに、なんで。
 こんな言い表しようのない感情が、ムズムズと心の底から湧き上がってくるんだよ。

 そうだ。なんで今更気がついたんだ。
 俺は嬉しいんだ。誰かに必要としてもらえる、信じてもらえているという事実が嬉しいんだ。

 そしてなにより夏目が俺を認めてくれていたことが。

 ――だって、俺は。
 本当はもうずっと。
 本当に夏目のことが。

「そうね、正直なのが良いっていうなら、言っておくわ」

 周囲の喧騒をまるで意に介さない平然とした態度で、夏目は思いついたように口を開いた。

「私は、神崎くんとつきあってるの」

 混乱を極めた教室内で、夏目の芯のある声だけが不思議なくらいに響いた。
 先ほどまでのどよめきが嘘のように静まり返る。まるで周囲のBGMだけをミュートにしたみたいだった。

 「ちょっとコンビニ行ってくるわ」くらいの感覚の、気軽で淡々とした口調。
だがそれは、この状況では超がつく爆弾発言だった。

 誰もが息を呑んだ、その瞬間。

 まるでそのセリフを待っていたかのように、教室の扉が音を立てて開いた。
 静まり返っていた教室内の注目が、一斉に音の方向へと集まる。

「はあ、はあ」

 夏目に続く第二の乱入者。
 教室の扉に手を掛けて立っていたのは、息を切らした幼馴染の日向千秋だった。

 そういえば。俺は首を傾げた。
 よく考えれば千秋の姿はずっと教室にいなかった。俺が犯人扱いされ夏目が登場するまでの一連のやり取りの間、千秋はどこにいたんだ?

「――千秋、お前」
「間にあった……かは微妙だけど、ちゃんと見つけてきたわ」

 そう言って、俺の顔を見ながら二カッと白い歯を見せて笑う。
 ちゃんと見つけたって、なんの話だろう。

「ほら」

 千秋は俺たちのいる場所に歩み寄ると、目の前の机にボンと袋を置いた。

 グレーの生地で作られた、見慣れないナップザックのような袋だ。運動部に所属をしている生徒が、練習着などを入れるのに使っているのを見たことがある。
 千秋が使っているところは一度も見たことがないので、千秋の持ち物ではない筈だ。一見して男物に見える。これは一体なんだろう。

「見つけてきたって……これのことか?」

 机を取り囲むクラスメイト達の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。
 見当がつかないが、この地獄のような状況でわざわざ引っ張りだしてきたのだ。よっぽどのものに違いない。

「お、おい」

 クラス全員の視線が謎の袋に集まる中、何故か高田が慌ててその傍に駆け寄ってきた。

 そして謎の袋を乱暴に掴み上げ、まるで隠すように胸に抱き抱える。そして辺りを警戒するように、キョロキョロと視線を動かしていた。

 えーと。言っちゃなんだが、その行動は明らかに挙動不審だ。

「ねえ、あなた。今日の移動教室の前、どこにいたの?」

 千秋は鋭い視線でクラスメイトを睨みながら、重々しく口を開く。
 以前のクラスメイトに怯えていた様子とは違い、その力強い声には確信に似た何かが滲んでいる。

「はあ?なんだそれ。なんか関係あんのかよ」

 高田は視線を泳がせながら吐き捨てるように呟いた。
 言葉尻に苛立ちを表しながらも、いつものような強気な態度は息を潜めている。そしてその表情からは明らかな狼狽が見られた。

「――顧問の先生に頼んでね、サッカー部の部室に入らせてもらったの。ついさっき、先生立会いのもとであなたのロッカーを開けさせてもらったわ。そしたら、これが出てきたの」

 そう言って千秋は高田の手元にある謎の袋を指さす。
 高田のこめかみから一筋の汗が流れたのを俺は見逃さなかった。そういえば、こいつ確かサッカー部に所属していたような。

「な、何を勝手に……」
「先生は午前中にあなたが忘れ物をしたとか言って、鍵を借りに来てたって言ってたわ」

 ――もしかして。いや、もしかしなくても、この展開は。

「……その袋の中身を見せてもらっても良いかしら?」

 千秋の言葉を次ぐように、夏目が身を乗り出して高田に迫る。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。これは違うんだ」
「何が、かしら」

 圧倒的な迫力を兼ね備えた夏目の淡々とした声。
 その声の調子とは裏腹に、その顔にはお嬢様のような百点満点のスマイルが浮かんでいる。この状況でその笑顔は、ある意味で見た者を恐怖で凍りつかせるには十分な威力だった。

「あっ」

 高田が怯んだ一瞬の隙に、夏目はひったくるようにして謎の袋を強引に奪った。あまりにスムーズな動作。お前は盗賊スキルの持ち主か。

 間髪入れずに紐を解いて、袋を勢いよくひっくり返す。
 転がるように出てきたのは、見間違いようもなく女子の体操服だった。

「これ……私のです」

 篠田さんが体操服を手に取って確認する。
 周囲を取り囲むクラスメイト達も覗き込むようにして顔を近づける。確かに首元についたタグには「篠田」の文字がマジックペンで記載されていた。

 盗難されたはずの体操服が、何故か高田の部室ロッカーに入っていた。
 そして体操服が盗難されたこの午前中に、部室の鍵を開けたのは高田のみ。

 見た目は子ども頭脳は大人の名探偵じゃなくたって見当くらいはつく。
 この状況から導き出される結論は、おそらく一つしかない。

「こ、これは言いがかりだ!証拠も無しに俺を陥れようとしてるんだ!」

 すっかり動揺しきった様子の高田が声を荒げる。
 しかしその顔は青ざめて、さっきまでの自信満々な表情からは程遠かった。

「証拠もないのに人を責めていたのは、アナタでしょ。変態くん」

 夏目が眉を寄せて唸るように呟く。その声には幾ばくかの怒気が含まれていた。夏目さんが怒ってらっしゃる……こわい。
 しかし、ブーメランが見事な放物線を描いて特大になって帰ってきたな、サッカー部の高田。

「――私、前から高田君を疑ってたの。なんだか、入学当初から様子がおかしかったから」

 今度は千秋が射抜くような鋭い視線を高田に向ける。
 完全に先ほどまでとは状況も立場も大逆転している。心強すぎるよ、この二人。

「疑ってたって……でも最初のときは皆犯人は神崎だって」
「春は――盗みなんかしないって、私知ってるから。陰キャだけど」
「おい」

 思わずツッコむ。陰キャ言うなし。

 でも、そのセリフは素直に嬉しかった。
 確かに最初の事件のときも、千秋はあくまで俺を疑ったり責めたりすることはしてなかったんだよな。

「もしかしたらと思って、移動教室のときはクラスメイトくんの動きを隠れて観察してたの。そしたら今日の二時間目。一人だけみんなと逆の方向に歩いくのを見かけたわ」
「あ、あれはトイレに行こうとして」

 必死に目を泳がせる高田。まるで逃げ道を探すネズミのようだ。

「じゃあ、この写真は何かしら」

 そう言って、千秋は水戸黄門の印籠のようにスマホを翳した。その瞳は確信に溢れている。

「こ、これは……」

 クラス中の視線が千秋の手元に集まる。
 そこには、高田が篠田さんの机を物色している姿がありありと映されていた。決定的過ぎる……千秋はこんな切り札を持っていたのか。最強すぎる。

「篠田さん、本当にごめんなさい。彼が篠田さんの荷物を漁ってるのを、私はわざと見逃した。春の無実を証明するためにはどうしても証拠が必要だったから……」

 千秋は篠田さんの方に向き直り、ペコリと頭を下げた。綺麗な髪が覆うようにして顔にかかる。

 千秋にとってもこれは賭けだったのだろう。
 悪事に手を染めた高田が悪いとはいえ、もし犯行を見逃せば篠田さんの心に傷を負わせる結果になったかもしれない。
 今回の件はいくら真犯人を見つけるためとはいえ、篠田さんをおとり捜査の餌のように扱ってしまったのだ。

「――ううん、日向さんが謝ることないよ」

 篠田さんはゆっくりと首を振って、千秋を励ますように小さく微笑んだ。

 自分の体操服を漁っていた男が目の前にいるなんて、耐性のない女生徒なら恐怖で泣き出してもおかしくない状況だ。

 夏目の全力の慟哭、千秋の懸命な姿に、きっと篠田さんなりに何かしら感じる部分があったのだろう。
 彼女はパッと見は小柄で大人しい女生徒だが、実は芯の強い子なのかもしれない。

 篠田さんの隣では、先ほどまで俺を攻め立てていた二宮女史が気まずそうな顔で俯いている。
 いつの間にかこの場の空気の流れはすっかり入れ替わっていた。

「ぐっ……こんなのおかしい、こんなの間違ってる」

 完全に追い詰められた高田はすっかり憔悴しきった様子で、俯きながらぶつぶつと抵抗の言葉を呟いている。
 ここまで綺麗な凋落劇を見るのも珍しい。あからさまに狼狽した人間を見るとむしろ可哀想な気持ちになってくるな。

「さて、どうするつもりかしら。今ならまだ、自白で済むわよ」

 夏目は肩に掛かる綺麗な髪を払いながら、完全なる高みから高田を見下す。
 ああ、校舎裏で俺を馬鹿にしまくっているときと同じように、夏目のドSモードが発動しているな。めちゃくちゃ楽しそうだ。

 いやしかし、この展開、どうしたものか。

「――おい、日向。いきなり部室から飛び出して走り出したと思ったら……なんだこの状況は?」

 覗き込むようにして顔を出し、教室に現れたのは体育教師だった。
 たしかうちの学校の体育教師はサッカー部の顧問を担当していたはずだから、千秋が鍵を借りてロッカーを開けてもらったのはこの先生だったようだ。

 教室の中央に集まって固まる一団。
 その中心の机の上には、クラスメイトのロッカーに入っていた袋と体操服。
 それを目の前にして、額に汗を浮かべながら立ち尽くす高田。
 そしてそれを取り囲むようにして注目する外野の生徒たち。

 一連の光景をグルリと見渡した体育教師は、一瞬で大方の事情を察したようだ。
 そういえば最初の体操服盗難事件の際も、職員室で俺に事情聴取をしたのはこの体育教師だったっけ。

「――はあ。とりあえず、話聞かせてもらえるか」

 頭を抱えながら、深い溜息をつく。
 それと同時に、クラスメイトは見事に膝から崩れ落ちた。
 こうして、今回の体操服盗難事件は幕を閉じたのだった。

 ――ちょっと待って。俺、何もしてなくね?