夏目七緒は、嘘つきだ。

『……高校デビュー?』
『あれ、興味あるの? この雑誌』

『え、いやべつに……』
『はい、これさしあげますよ』

『いや、そんな、悪いよ』
『いーの、手伝ってくれたお礼です!』

『――あ、ありがとう』
『中学の制服にその筒を持ってるってことは……もしかして今日卒業式だった?』

『そ、そうだけど……よく分かったね』
『うふふ。アナタもきっと、高校ではこの雑誌の表紙みたいになれるよ』

『いや、俺にはこんなキラキラした感じ……無理に決まってるし』
『そんなことない! 頑張ればきっとなれるはずだよ』

『そ、そうかな……』
『私が言うんだから間違いない』

『――きっと、素敵な姿に変われるはずだよ』

☆☆☆

 この街は坂が多い。
 もとは山だった土地を切り開いて開発したという経緯があり、町内を歩きまわろうと思えばそれなりの覚悟がいる。

 俺が通学している高校も例に漏れず、日本海の絶壁さながらに、首をもたげて見上げるほど勾配のキツイ坂の頂上に存在している。

 この高校に自転車で通学しようと思うものなら、ツールドフランスに出場するロードレーサーばりの脚力を必要とし、毎朝地獄のトレーニングを己に課しているものといって掛け値ない。

 俺はべつに日本人初のオリンピック自転車種目金メダリストを目指しているわけでも、毎朝かかなくてもいい汗をダラダラと流しながら身体能力の向上に努める勤勉なスポーツマンなわけでもないので、大人しくバス通学をしている。文明の利器、最高。

 坂道を登るなんてのは余計な手間だし、面倒くさいことこの上ないと内心思いながらも、俺は一つだけ気に入っている部分がある。

 それは、暖かい風が坂の上に向かって吹き上げてくれることだ。
 特に五月なんて春真っ盛りには暖かい春風が身体を包み込むように吹き、のんびり日向ぼっこでもしていると小高い丘の上にピクニックに出も来たような気分になれる。

 ああ、この気持ちの良い天気。癒しの時間。雲一つない快晴。

 ある日の昼休み、俺はそんなことを考えながら校舎裏のベンチに腰掛けていた。

「はー、いい天気だな」
「余生を楽しむジジイみたいなことを言うのね、アナタ。きっと教室に居場所がないあまり、現実逃避でもしていないと生きていけないのでしょうね。あー可哀想な人」
「天気が良いって呟いただけでそこまで言う⁉」

 独り言に対する判定が厳しすぎる。

 怒涛の悪口を流水の如くスラスラと並べたてるこの女。
 夏目七緒が、俺の真横で同じベンチに腰掛けていた。

 腰掛けているといっても、端と端。
 そこまで長くない小さなベンチの面積を最大限に使って、まるで近寄りたくもないと訴えかけるかのように距離を離して座っている。他所から見たらまったくの他人同士だと思われるレベル。

「――そういえば、工事業者の人が謝りに来たわ」
「あー俺のとこにも来たよ」

 屋上からの鉄パイプ落下事件。
 どうやら原因は昼休み中に工事を行っていた業者のミスだったらしい。

 積んであった建設材料が何かの拍子で崩れたそうだ。その真下に俺たちがいた。どんな偶然だよって思わずツッコみたくなる。

 入院していた病室で、親方という呼び名が相応しい厳ついオッサンにとにかく平謝りされた。二回りも年が上の男性にここまで謝られることなんて人生でもそうないだろう。
 まあ、あってはならない事故だったけれど、大事には至らなかったのでまだ良かったとしよう。直前に叫ばれた「危ない」という言葉のおかげでなんとか避けられたしな。

「でも事故の時のことも覚えてないんだろ?」
「ええ、まったく」

 夏目は澄ました顔で頷いた。

「だから、いまだに信じられないわ。アナタみたいな学校の最底辺を這いつくばっている存在と、高貴で華々しい存在の私が付き合っているなんて」
「そんなの――俺だってそう思うよ」

 夏目はフンッとそっぽを向いて、片手に握ったお気に入りの『紅茶エデン』を口へと運んで傾ける。

 事故の後、夏目は入学式後の約一か月間の記憶を喪失した。

 お医者さんによると、事故による衝撃が原因で、自然に記憶が戻ることを期待する以外に治療のしようがないらしい。そしていつ頃記憶が復活するかもまったく分からない。

 俺はそんな状態の夏目に、ある嘘をついた。

『俺と夏目は付き合っている』

 どうしても、この奇跡的ともいえる偶然で掴んだ繋がりを、手放したくなかった。
 だから、嘘をついた。俺は最低な野郎だ。

 夏目を騙すことになる罪悪感。
 言い訳をするわけじゃないが、もちろん夏目を傷つけるようなことをするつもりはない。

 もう少しの間だけ、この下らない会話を繰り広げるだけの時間を、延長したいだけなんだ。もう俺に、このベンチ以外に居場所はない。

 俺の言葉を聞いた夏目は当初は激しく不信感を露わにしたが、夏目が周りを騙して演技していること、瀬野さんの存在、そして校舎裏で出会ったことがキッカケで仲良くなったことを説明したところ、しぶしぶだが納得してくれた。

 やはり誰にも演技のことは明かしていなかったようだ。
 だからこそ、それを知っていた俺は近しい存在だったと認めてもらうことが出来た。

 後から誤解されることを恐れて、すでに俺の抱えている事情は説明してある。
 かなり俺に都合の良いように贔屓目に説明した効果か、思ったよりも拒絶されることはなかった。初対面のとき同様、苛烈な毒舌に晒されることにはなったけどね。うん、辛い。

 そして事故から数日。
 やっとこさ退院した俺たちは、再び昼休みになると校舎裏のベンチで顔を突き合わせるようになった。

 ベンチはもともとお世辞にも綺麗とはいえない外装だったが、事故を受けてところどころの塗装が剥げてしまって、さらにボロい感じになっていた。むしろその傷跡が苦楽を共にした盟友のような気がして、俺は嫌いじゃない。

「ねえ、一応聞いておくけど、告白はどちらからしたのかしら」
「あー……俺からだね」

 俺は夏目の質問に、目を合わせないようにして空を見上げながら口からデマカセを吐く。その漆黒が彩る瞳に目を合わせてしまえば、心の奥底まで見透かされてしまいそうな気がした。
 だが夏目は特に疑う素振りもなく、深く詮索することもなく、短く溜息をつく。

「ふーん……なんでそのときの私はオーケーしたのかしらね」
「さあな、俺の魅力にやられちまったんじゃねぇか」
「つまんない」

 シンプルにすんません。
 しかし夏目の様子を見る限り、俺の吐いた交際しているという嘘を一応だが信じてくれている。攻撃的な性格に見えて、意外と夏目は根が素直なところがあるのかもしれない。

「まあ、少なくともお前の学園のマドンナみたいな演技は、みんなに通用してるよ。俺以外気づいてる人間は皆無だろうな」
「それは教室で過ごしていてすぐに分かったわよ。退院してから初めて教室に入ったとき、男女問わず大勢のクラスメイトに囲まれて大騒ぎだったもの。まったく、人気者は辛いわね」
「あーそうかい。そりゃ重畳で」

 俺なんて、ケガの心配をしてくれるどころか「帰ってきたのかよ、チッ」的な批難がましい視線すら感じたぞ。国会答弁を通じて与党に学校内人気格差の是正を訴えたいぜ。まあ圧倒的大差で反対多数だろうが。

「――知らない人間が親し気な口をきいてくるのは、不気味な光景だったわ」
「まあ……そうかもな」

 普段の生活の一か月間分の記憶が消えただけなら、まだそこまで大きい弊害はないだろう。
 だがコイツが記憶を失った期間は、入学式からの一か月間という、人間関係の構築や生活の根幹を成すうえで、非常に大切な時期だったのだ。

 クラスメイトのほとんどが、自分がまったく知らない人間たち。だが向こうは自分のことを知っている。

 夏目はお利口さんな演技を崩さず気丈に振る舞ってはいるが、本人が置かれている状況は、さぞかし奇妙で不安なものだろう。
 それなりにストレスも堪っているのかもしれない。でもだからといって悪口で人を傷つけるのは良くないよ?

「これも確認だけど……私たちのお付き合いは、他の誰も知らないわよね?」

 夏目は俺の方に身体を向き直して、疑うような視線を向けた。それは純真さからはかけ離れた、意地の悪そうなジト目。とはいえモデルのような容姿を持った夏目に見つめられると、思わず緊張で鼓動が早まる。

「知らねぇよ。誰にも言えるわけないだろ」
「そう、良かったわ」

 夏目は俺の言葉に、満足したようにコクリと頷いた。

「そんなに知られるのが嫌か?」
「当たり前でしょ。私はみーんなの夏目七緒なんだから」
「アイドルみたいなこと言うな、お前」
「そうね、なんなら流行りのスクールアイドルとして私もデビューしようかしら。たしか私の父と懇意にしているテレビ局の社長がいたから」
「コネ使う気まんまんじゃねぇか!」

 夏目財閥ともなるとフツーにありえそうで困る。これが社会の闇というやつか。そしてスクールアイドルって。コイツ意外とそういう流行りの今っぽい言葉を知っているんだな。

「ところで」

 夏目は何かを思い出したような表情で、髪をかき上げた。

「アナタは私のどこが好きなのかしら?」
「す、好きって」
「あら、好きだから告白したんじゃないの?」
「そりゃそうだけどさ……」

 平然とした表情でズバズバ聞いてくるな、コイツ。照れとかないのか。それとも俺が過剰に反応しているだけか。

「早く言いなさいよ。それとも沢山ありすぎて何から言えばいいものか途方に暮れているのかしら」
「お前のその絶対的な自信はどっから湧いてくるんだよ」

 ある意味コイツも鋼のメンタルしてるよ、俺とは別の意味で。
 面倒くさそうに脚を組んで毛先を指で弄んでいる夏目を眺めながら、なんと答えたものかと頭を働かせる。

 どこが好きかって?
 そもそも、俺は夏目のことが好きなのだろうか?

 俺はコイツとこうして下らない会話をする時間を引き延ばすために、付き合っているという嘘をついた。

 だがその感情は、単純な男女の好意とは少し離れた場所にある。
 自分でもよく分かっていないし、上手く言語化できない感情だけど、そんな気がするのだ。

「……しっかりしているところ」

 数秒悩んだ結果、すごく味気ない無難な返答になってしまった。しっかりしてるってなんだよ。オカンか何かなのか。

「なにそれ」

 夏目は呆れたように膝を軽く叩いて、溜息をついた。

「気の利かない男ね。そこは『全部だぜ、マイベイビー』っていうところでしょ」
「それを言った時点で俺は全てを失う気がするんだが……」

 お前の中で俺はどういうキャラなんだよ。そんなバブル期の勘違い男を演じた記憶はないぞ。

「揶揄い甲斐があるわね、アナタって」
「うるせえ、心臓に悪いことすんな。俺が心筋梗塞で緊急搬送されたらどうするつもりだ」
「あら、大丈夫よ。通報せずに放置するから病院に搬送されることはないわ」
「それ絶対何らかの罪に該当するぞ……」

 これが孤独死というやつか。現代社会に生きる人々の精神的病巣の一端を垣間見た気がする。

 夏目はまた呆れたように微笑んで、紅茶エデンの表面に伝う水滴を指先で拭った。

「ふふ……本当に。本当に不思議だわ。世界七不思議に次ぐ不思議ね」
「なんだそりゃ」

 お前はネッシーかよ。

「だってアナタみたいな人を、初めての恋人に選ぶなんて」
「えっ、付き合うのとか、初めてなのか⁉」

 あまりにあっさりとした口調で、衝撃の告白。
 俺は驚きのあまり、思わず身を乗り出して素っ頓狂な声を張り上げる。

「ええ、そうよ。悪いかしら」

 俺の動揺を他所に、特に動じることもなく表情を崩さない夏目。今度は冗談、というわけではないらしい。

「いや、べつに悪くはねーけど……」

 そういうの、臆面もなく言うもんか?
 夏目の堂々とした振る舞いにも驚きだが、交際経験がないというのも意外なことだ。
 夏目ほどの美少女ともなれば、トップレベルのイケメンから将来を約束された医学部学生まで彼氏候補として立候補し大挙し押し寄せ、あらゆる男どもから引く手数多であろうに。

「あら、私が初心な女だということはアナタにとっては朗報だと思うわ。アナタみたいなゴミクズ妄想異常性癖男、ろくに女子と付き合ったことなんてないんでしょ」
「もう悪口が俺のフルネームよりも遥かに文字数多くなっちゃってるよ!」

 中学まで陰キャラまっしぐらで、妹と母親以外の女子と会話したことなど数えるほどしか経験がない男。それが俺。女子と付き合うだなんてもってのほかだ。

 我ながらなんて悲しい青春。どどど童貞ちゃうわ!ってリアルに言っちゃうレベル。

「初心者同士の方が気楽でしょ?格闘ゲームだって玄人よりも実力が同じくらいの素人の方が楽しめるし成長のしがいがあるじゃない」
「それはたしかにそうだけど……」

 相変わらずたとえがよく分からない。

「とにかく、私はあまりそういった不純異性交遊には精通していないんだけど……」
「不純って」

 べつにいかがわしい行為を試みた記憶はない。後ろめたくはあるけど。

「フツーの男女は、その、付き合ったりしたらどんなことをするのかしら?」
「そりゃ……お昼を一緒に食べたり、デートしたりとかじゃないか」

 俺は適当に思いついた事柄を並べる。
 情けないことに、俺はそれぐらいしか知識がない貧相な経験値の持ち主なのだ。アールピージーでいえば職業すら与えられていない段階の始まりの村くらい。

「ふむ、なるほどね」

 何故か実験結果をサンプリングする科学者みたいな口調になって頷く夏目。もしコイツが研究職にでも就いた暁には、違法な人体実験の末に悲しき合成魔獣が生成されるマッドな結末を迎えることだろう。

「それは有意義なものなのかしら? 私はよく分からないんだけど」
「そりゃ……楽しいんじゃねぇの。好きな奴とだったら」

 自分でそんなセリフを言いながらも、実際俺もよく分かっていない。

 眩暈のするような人混みの中にわざわざ繰り出して、好きでもないウィンドウショッピングに興ずるなど、ともすれば徒労ともとれる行為にも思えなくもないが、日本中のあらゆるカップルが右に倣うようにこぞって同じデートを重ねている現状を鑑みれば、おそらくそれはとても有意義なことなのだろう。

「じゃあ……そうね。今週の日曜はデートをしましょうか」
「は⁉」
「あら、嫌なのかしら?」
「べべべつに嫌じゃないけど……」

 思わぬ展開に鼓動が一段飛ばしで大きく躍動する。この俺が夏目とデートだと?

「そう……ね。デートがいいわ。うん、そうしましょう」

 俺がもじもじと内股を擦りながら悶える様子を、提案を承諾したサインだと解釈したのか、夏目は満足そうに大きく頷いた。

「神崎くん。アナタは私とデートしなさい」

 夏目七緒は、有罪判決を宣告する裁判官のように、高らかに言い放った。
 日曜日。

 俺は夏目から一方的に取りつけられた約束を順守すべく、ブラック企業に長年勤めるサラリーマンが如く電車に揺られていた。

 待ち合わせ場所である、駅前に燦然とそびえる時計塔へと足を運ぶ。この駅は市内じゃ一番開発されていて、周辺には様々な商業施設が立ち並んでいる。
 昔からお出かけといったらこの辺りを利用していたが、ここに来るのも中学卒業以来と考えると地味に久しぶりだ。

 休日という条件も手伝って、駅前はライブ会場のようにひどく混み合っていた。特に待ち合わせの目印によく利用される時計塔のお膝元は人々が群がり、異常なまでの人口密度を観測している。

 辺りにたむろする人々の顔を見渡す。しかしその中に夏目の姿は確認できない。

「夏目は……まだか」

 時計は集合時間の二十分前を指していた。少し早めに着いてしまったようだ。

 もし一秒でも俺が遅れようものならば、夏目から古今東西多種多様に及ぶ罵詈雑言が、頭のテッペンから足のつま先まで隈なく浴びせられること間違いなしだ。せっかくの休日に、心無い毒舌による精神的負傷を負うわけにはいかない。

「――ふう」

 ひとまず深呼吸。
 俺は表情筋を巧みにコントロールする技術を駆使することで一見平静を装いながらも、その内心は眼前に迫った夏目とのデートに対してかなりの緊張状態だった。

 異性とデートなんて、人生初めての経験だ。しかも、学園ナンバーワン美少女の夏目七緒だぞ。

 そういえば、今まで何度か妹のショッピングの荷物持ち要因として駆り出されることはあった。しかし身内は異性との外出という点においては、例外的存在だろう。デート経験にはノーカン。

 普通、女子高生との初デートと聞かれれば、ハーブミントのごとく鮮やかで爽快なイメージを皆さん思い浮かべることだろう。少女漫画を愛読する俺としても『青春ど真ん中、胸がときめくドキドキ展開!』なんて妄想を禁じ得ない。

 しかしそんな持て余す純情も、毒舌女の夏目の前では一輪の花びらとなって儚く散ることは予想に難くない。一体どんな目に合わせられるか分かったものじゃないぜ。

 『あーん』と称して駐車場の砂利を口に詰め込まれたり、季節外れの花を採取してこいと崖から蹴落とされるなんて可能性も決してゼロではないのだ。ちなみにこの街に崖は存在しない。

「――そういえば、誰かに見られたら、どうしようかな」

 夏目を崇拝に近いレベルで信奉している連中は多い。特に男子。そんな奴らにお忍びデートを発見された暁には、たちまちフーリガンと化した男どもに袋叩きに遭い、俺は撲殺されてしまうかもしれない。

 ……そう考えると、夏目はどういうつもりなんだろう。

 普段は演技しているくせに、自分からデートに誘うなんて。変態嘘つきなんかと二人で歩いていたことを学校の連中にバレたらどうするんだ?
 分からん、アイツの考えていることが。人間観察には自信があったんだけどな……。

 ポンポン。

 どう転んでもこれから迫りくるだろう恐怖に身を縮め、プルプルと震えながら立ち尽くしていると、背後から軽快に肩を叩かれた。

「へーんたい☆」
「うるせぇよ」

 そんな軽快な声で『まーきの』みたいに来られても反応に困る。ちなみに俺はドラマよりも原作漫画派。

 こんなお茶目さんなことをしてくれる人間は、俺の知る限り一人しかいない。

「ちゃんと私より早く来てたのは、及第点ね」

 ふふふ、と悪だくみを図る悪女のように静かな微笑みを零す。振り返ると夏目が立っていた。

 当たり前だが、私服だった。
 丈の長いホワイトワンピースを身に纏い、その上に暖色のカーディガンを羽織っている。暖かい春にお似合いの落ち着いた配色のコーディネイトで統一されており、見る者に上品な雰囲気を感じさせる。
 シンプルだが垢抜けていて、まるでファッション雑誌のスナップ撮影をそのまま抜けだしてきたみたいだ。

 ……可愛いな、くそ。

 いつもの制服姿とは少し違った大人っぽい印象に、また改めて夏目の容姿がいかに魅力的なのか気づかされる。ほら、まるで芸能人が街中に現れたみたいに、周りの人たちがちょっとざわついてるぞ。天性の人気者め。

「待ったかしら?」
「……今来たところだよ」

 俺は諦めたように、手垢塗れのセリフを零した。総走行距離三十万キロメートルを超える中古車ぐらい使い古された返しだろう。だがこれが今の俺が返せるセリフの限界だ。我ながらダサい。

「まず私の私服を見て、何か言うことはないのかしら」

 小洒落た革のバッグを持ちながら、腰に手を当ててファッションショーのモデルのようにポーズを取る夏目。
 そんなありふれた振る舞いも、容姿端麗なコイツがやると本物さながらに様になる。足元のアスファルトがレッドカーペットに見えてきたぞ。

「……まあ、可愛いな、うん」

 気のきいたセリフも特に思い浮かばず、シンプルに褒める。こういうところがダメなんだよな、俺。ホストクラブにでも行って女性を口説く修行しようかな。

「神崎くん、『死ぬほど』という修飾が抜けてるわよ」
「……」

 当たり前といった表情で、自信満々な物言いをする夏目。
 うむ、コイツの美しさは見た者の生命を強奪してしまうほどらしい。この場に辿り着くまでに恐らく百余名の尊い人命を天へと昇華してきたことだろう。国家レベルで危惧すべき現代のテロリズムだ。

「アナタもちゃんとオシャレしてきたかしら?私と並んで歩くという国民栄誉賞並みの光栄に与れるんだから、ね」

 パチリとウィンクする夏目。その睫毛の隙間からいくばくかの流星が零れ落ちたような気がするが、おそらく気のせいだろう。

 なんか、学校で見るよりも明らかにテンションが高くないですか、夏目さん。休日にお出かけともなると些かの浮つきは禁じ得ないらしい。

「俺だってそれなりの格好で来たつもりだぜ。このジャケットとか結構高かったんだから」

 俺は自らのコーディネイトに目をやりながら弁明する。
 自己研鑚及びリア充化計画の一環として、ファッションについてはかなり研究を重ねたのだ。

「そうね、とっても素敵なジャケットね。とっても格好良いジャケットだわ。いやーとてもイケてるわ、そのジャケット」
「着てるのは俺だからね⁉」

 なにそのジャケットが主役みたいな言い方。服を褒め倒すことが転じて本人への罵倒へ繋がるという稀有な例を経験したぞ。

「……とりあえず、どこに行くつもりだよ」

 俺の問いかけに、夏目は小首を傾げて微笑んだ。

「まずは私の考えたプランから行きましょう。ちゃんとアナタも考えてきたんでしょうね」
「まあ……一応は」

 夏目の微笑みの中に隠れた鋭い眼光に竦みながら、俺はむにゃむにゃと頷いた。

 そう、夏目との約束で、お互いがそれぞれのデートのプランを持ち合わせて、一日過ごそうという計画になっていた。

「じゃあ、行きましょうか」

 夏目はそう言うが否やクルリと踵を返して、人の出入りが激しい大通りへ続く駅の出口に向かって足早に歩み始めた。

「ちょっと待ってくれよ」

 俺は置いていかれた子供のように、慌てて夏目の隣に駆け寄った。なんとか追い付いて、人混みを避けるように並んで歩く。

「あら、時間は誰にも待ってくれないわよ」
「いや、少なくともお前は待てよ」

 偉人の名言みたいなこと言ってるけど、使うタイミング違うから、それ。時もかけないからね。

「だから、どこ行くんだよ」
「決まってるでしょ?」

 夏目は大股で歩を進めながら、微かに胸を張って微笑んだ。

「映画に、行きます」

☆☆☆

 俺が夏目と仲良く肩を並べて鑑賞した映画は、突然変異によりザリガニ人間と化した主人公が化け物と認定され人間界を追われるが、マッドサイエンティストの実験によって暴走した合成犬人間と対峙し、激闘の末辛くも勝利を収め世界に平和をもたらすヒーローになり大団円という、イマイチしっくりこない内容だった。

 そもそもなんだよザリガニ人間って。ニーズがニッチすぎるぞ。色物にもほどがある。
 といいつつも、ストーリーは意外と良い感じだった。

 優しい心を持つ主人公が醜い姿故に街の人々から迫害を受けるシーンは、俺の置かれた状況と重なるものがあり、思わず劇場内で「南無三!」と絶叫したくなるほどに心を揺り動かされた。

「いやー、最高ね」

 映画館を出た後、夏目は満足そうな微笑みを浮かべていた。どうやらザリガニ人間は夏目の好みにうまく適合した作品だったらしい。

「あれは後世に残る名作映画ね。小学校の教科書に掲載して幼少期の情操教育に利用すべきだわ」
「どんだけハマったんだよ」

 そんな恐ろしい義務教育があってたまるか。人格形成に多大なる障害をもたらすこと請け合いだ。破壊衝動に支配された幼き生徒たちが暴徒と化し、学級崩壊は避けられないだろう。

「……で、お前のプランとやらではこの後どうなってるんだ?」

 連れ立って歩く夏目の横顔に目をやる。
 俺の問いかけに、夏目はツンっと高い鼻先を反らしてそっぽを向いた。

「これで終わりよ」
「マジか」
「しょうがないでしょ、特に思いつかなかったんだから」

 夏目が考えてきた予定は、映画を鑑賞することだけだったらしい。しかもザリガニ人間というチョイスよ。

 不機嫌そうにそっぽを向く夏目。その横顔には若干の照れが隠れていた。

「――やれやれ」

 なるほど、気位の高いお嬢様とはいえ、やはり初デートの初心さは隠し切れないようだ。
 おそらく今日に至るまでどのようなデートを行うべきか、最適なプランの構築に日夜頭を悩ませ続けた結果、一周回って逆に映画しか思いつかない的な思春期の学生が陥りがちなジレンマへと身を投じたというわけだろう。

 うんうん、分かるぜ。つっけんどな態度も、必死の照れ隠しと思えばむしろ可愛らしさすら感じる。

「痛い⁉」
「……何か腹が立つことを考えていたでしょう」

 気がづくと、夏目のサンダルが俺のスニーカーをすり潰すように踏みしだいていた。おい、俺の足はうどんの生地じゃねぇぞ。あとテレパシーで俺の心を読むのは止めてください。

「暴力はナシで行こう……」

 夏目の履いているサンダルは春らしいデザインでとても可愛いが、底が厚く何かに強い圧迫感と鈍痛を与えるのにはピッタリの形状をしていた。しかしメーカー側がより効率的にはダメージを与える目的でこのデザインを採用したとは俄かには考え辛い。

「あら、確かに最近の流行りは母性を感じさせる包容力のあるヒロインで、昔のような暴力的ワガママヒロインは受けが悪いものね」
「なんの話だよ!」

 たしかに時代の潮流は確実にそっちの方向性に向かっているけども。

「アナタこそ、ちゃんと予定は組んできたのかしら?」
「……じゃあ、次の場所は俺が案内するよ」

 俺は短く溜息をついて、スマートフォンで時間を確認した。デジタルの数字は時刻がお昼過ぎであることを示している。ちょうどいい時間だ。

「時間も時間だし、腹減ってるだろ?」
「ええ、それはもうペコペコね。お腹と背中がくっつきそうだわ」
「久しぶりにその表現聞いたよ」

 おかあさんといっしょかよ。お腹と背中がくっつくって、想像したらかなり気持ち悪いよな。

「まあ、なんだ、俺がたまに行く喫茶店があるから、そこに行こうぜ」

 デートと聞いて真っ先に思い浮かんだ場所がある。
 駅から少し離れた場所にある喫茶店だ。

 俺が中学時代から愛用し足繁く通ったお気に入り。せっかくの機会なので、そのお店を利用しない手はないと思ったのだ。

 時間によってはガッツリ昼食をとってもいいし、歩き疲れたのなら甘いモノとお茶で休憩しても良い。喫茶店は実に汎用性が高い、まさにデートスポットの最適解と称しても差し支えない場所なのだ。
 俺はこの事実に気がついたとき、我が頭脳のあまりの聡明さに小一時間武者震いが止まらなかった。

「あら、行きつけの喫茶店なんて、童貞のくせに洒落たことを言うのね」
「べつに俺の勝手だろ!」

 童貞は喫茶店に行ってはいけないという法律でもあるのか。ハンムラビ法典もビックリのとんでも悪法だ。目を潰すぞこの野郎。

「まあお腹も空いたことだし、気は進まないけど行きましょうか」

 夏目はやれやれといった具合に頭を振りながら溜息をついた。

「なんだよ、べつに気が進まないんなら行かなくてもいいけど……」

 名家のお嬢様ともなると、庶民の食事処などお口に合わないのだろうか。
 しかし高級なレストランなんて俺は一つも知らないし、そもそもそんな金も無い。

「そんなことは言っていないわアナタの勝手な思い込みで口を利くのは止めてくれるかしら本当にアナタのそういうところにウンザリさせられるわもうこちらはお腹がペコペコで困っているのよさっさと案内しなさいよ」
「分かった分かった!」

 夏目の口から反論がマシンガンのように流れだす。行きたいなら素直にそう言えよ。どんだけ腹減ってんの。
 正直なのか捻くれているのか、相変わらずよく分からない奴だ。まあいいや。とりあえず行き先は喫茶店に決定。

 そんな通常営業なやりとりをしながら、俺たちはツカツカと人混みを抜けていく。

「少しだけ歩くけど、大丈夫か?」

 チラリと夏目の足元に目をやる。
 俺はスニーカーだから問題はないが、夏目のサンダルはあまり長距離を歩くには適していないように思えた。

 俺の視線に気がついたのか、夏目は何故か顔を少し赤らめてそっぽを向いた。

「ふんっ。みくびらないでちょうだい。百キロだろうが二百キロだろうが歩き通す所存よ」
「いや、そこまでの覚悟は必要ないけど……」

 トライアスロンするわけでもあるまいし。まあ本人がそう言うなら大丈夫なのだろう。

 映画館を後にしてから、大通りに沿ってのんびりと歩いていく。相変わらず凄い人の多さだ。見ているだけで眩暈がしそう。

 十五分ほど歩くと、まるで隠し通路のように狭い路地が脇に現れた。
 まさに路地裏と称して差し支えない人通りの少ないそこは、街の喧騒から隔絶された静かで落ち着いた雰囲気がある。

 ともすれば見逃してしまいそうになるその場所に、俺のお気に入りの喫茶店は店を構えていた。

「こんな道があったのね。知らなかったわ」

 夏目は物珍しい景色を眺めるように、辺りをキョロキョロと見回す。
 普段は罵倒されるばかりで、夏目を感心させる機会なんてのは殆どないので、少しだけ誇らしい気分になるな。

「地元の奴もあんまり知らない穴場だからな」

 俺もこの路地を見つけたのは偶然だった。初めてここに来たときは異世界に出も迷い込んだのかと俄かに興奮したものだ。

「ほら、ここだよ」

 俺は路地の更に奥まった場所に、まるで押し込まれたかのように存在している木造の建物を指さした。

 大通りに立ち並ぶビル街とは明らかに一線を画す雰囲気。
 ところどころ剥がれ落ちた外装は、まるで時代に取り残された過去の文明のような印象を受ける。

 しかしそれが隠れ家的な味があり、俺は気に入っていた。
 申し訳程度に置かれた小さい看板には『喫茶 邂逅』と彫られている。

「邂逅……?変わった名前ね」
「店主の趣味らしいぞ」

 夏目は木彫りの看板と、その隣に鎮座している巨大な信楽焼きの狸をしげしげと眺めている。確かに初見からすると些か奇妙な光景だろう。まさに不思議な街並みに迷い込んだって感じ。

 入り口の扉に手をかけて開く。木の軋む小気味良い音と共に、カランカランとベルが鳴り響いて客の来訪を告げた。

「こんちわー」
「いらっしゃいませー……って、少年じゃないか」

 足を踏み入れた俺たちを出迎えてくれたのは、長いエプロンを掛けた痩身の女性だった。

 女性は落ち着いた雰囲気に凛とした気品のようなものを漂わせており、喫茶店の空気に自然と溶け込んでいた。
 わりかし背が高く、艶のある長い髪をうなじ辺りで纏めている。躍動感のある大きな瞳は爛々として、彼女の内に宿る若さを感じさせた。

「――柚子さん、ご無沙汰してます」

 ペコリと頭を軽く下げる。
 すると女性はニコッと笑って軽く手を振った。その笑顔はなんだか大型犬の喜んだ表情を想起させ、不思議な包容力を見る者に感じさせる。

「久し振りだね。あれ、今日は女の子連れかな?珍しいね」
「えぇ、まあ」
「ちょっと」

 背中をコツリと小突かれて、振り返る。夏目が不満そうに口を尖らせていた。

「あ、ああ、こちらは『邂逅』でバイトしてる柚子さん。中学の時からたまにお世話になってるんだよ」

 夏目に柚子さんを紹介すると、それに合わせて柚子さんも軽く頭を下げた。

「こんにちは、安食柚子です。普段は市内の大学に通ってます。アナタは少年の……彼女さんかな?」

 柚子さんは意味ありげな笑みを浮かべて、俺の顔をジロジロと眺める。

「えーと、それは……」

 俺はどう言えばいいものか、答えに困窮する。
 一応今の形としては付き合っていることになるが、それは学内では誰にも教えられないトップシークレットだ。

 下手に答えても後で夏目の怒りを買いかねない。かといって下手な答えをしても命取りになりそう。なにこのギリギリの状況。

「うふふ、彼女だなんて面白―い! 私は神崎くんの友達ですよー」
「⁉」

 逡巡していた俺に代わって答えたのは夏目だった。
 久しく聞いていなかった、明朗で軽快なソプラノボイス。

 夏目の脳内でどういった思考が働いたのかは謎だが、どうやら柚子さんには余所行きのお嬢様バージョンで対応することにしたらしい。

「ね、神崎くん」
「お、おう、そうだな」

 一見すると可愛らしい純朴な眼差しで、俺にアイコンタクトをかましてくる夏目。
 だがその本性を知っている身としては、軽くブルってしまうほど恐怖を感じる。だってほら、目が笑ってないもん。ここは大人しく同意しておくのが吉だろう。

「あらら、そうなんだ。ま、少年にはまだ早かったかな」
「ハハハ……そうすっね」

 俺は誤魔化すような乾いた笑い声を発する。色んな意味で複雑な心境だぜ。

 店内には俺たちの他には、現役を引退し厭世の境地に達した雰囲気を持つご老人のお客がいるだけだった。休日の昼間にしては寂しい混み具合だ。まあそれがこの店の良いところでもあるんだけど。

「さ、いつもの席で良いかな」

 柚子さんは、俺がいつも座る窓際のテーブルに案内してくれた。こういう気の利いたところもこの店の魅力の一つなのだ。

 据え置きのメニューを広げて二人仲良く眺める。
 少しだけ悩んだ後、俺は店長の気まぐれカレー、夏目は店長の気まぐれオムライスを注文した。

「気まぐれって……どういう意味かしら」
「もう初めてここに来てから三年ほど経つが、未だに俺にも分からん」

 ここのマスターは口髭を蓄えたとてもダンディーな初老の男性だ。非常に寡黙で、ほとんど声を発しているのを聞いたことがない。少なくとも気まぐれ感はゼロだ。俺の予想としては、おそらく見た目に違わず渋みのある低音ボイスに違いない。

 ちなみに気まぐれと言いながらもマスターの料理の腕は確かで、いつ来てもこの喫茶店の料理はとても美味しい。

「や、少年」

 暇そうにポケットに手を突っ込んだ柚子さんが、俺と夏目の座るテーブルに近寄って話しかけてきた。
 他に注文を待っている客もおらず、料理を作るわけでもないので、手持ち無沙汰なのだろう。

「いきなりイメチェンし始めたときはどーなるかと思ったけど、こうして女の子を連れてきたってことは、高校デビューは成功したのかな?」
「いや、その辺はいろいろと事情がありまして……」

 そういえば体操服盗難事件が起きてから、この喫茶店に来たのは初めてだった。まだ柚子さんは、俺が地獄の底へと住民票を移したことを知らないのだ。

 夏目との関係性といい、一体どこから説明すればいいのかも分からないぞ。すべて話したら半日はかかりそうだぜ。

「これは失敗した結果というか、なんというか」
「そうかそうか」

 柚子さんは俺の煮え切らない返答から何をくみ取ってくれたのかは謎だが、ウンウンと唸りながら何度も頷いた。

「ま、少年には明るいキャラは似合わなかったんだよ。無理をする必要はないさ。のんびりやりなよ」
「そんなもん……ですかね」

 事情を話したわけではないが、人生経験が豊富である年上の柚子さんにそう慰められると、なんだか気が楽になるよ、ホント。

「そういえば、彼女のお名前を聞いてなかったわね」
「私、神崎くんの『お友達』の、夏目七緒と申します」

 ……やけに友達という単語を強調してくるな。

「夏目って……」

 柚子さんは夏目の苗字を反芻して、驚いたように目を丸くする。

「もしかして、夏目家のお嬢さん?」
「はい、そうです」
「ほえ~凄いわね~」

 柚子さんはカバのように口をぽっかりと開けて、感心したように気の抜けた声を漏らした。ほえーって、漫画かよ。

「柚子さん、アホっぽいですよ」
「こらー、神崎くん。年上の人に向かってアホなんて、メッだよ!」
「体操のお姉さんかよ!」

 夏目もかつてないほどにぶりっ子具合が極まっているな。もはやお嬢様キャラを飛び越えて別の何かになっている気がする。
 ていうか桜子もそれやってたけど、流行ってるのか?もしかして俺が流行に遅れてるだけ?

「私、実家が夏目邸宅の近所なのよね。昔から通学するときに前通っていたの、懐かしい。もしかしたら同じ中学じゃないかしら?」
「あ、いえ、私は東京の私立中学に通っていたので……」
「え、そうなの?」

 意外なセリフに、思わず反応する。
 夏目が東京で私立中学に通っていたなんて、完全に初耳だ。

 聞いたこともなかったが、てっきり同じ市内で育ったものだと勝手に思い込んでいた。地区が違うどころか、ここと東京じゃ新幹線でもかなり時間がかかるくらい離れている。

「じゃあ高校進学で地元に帰ってきたんだ」
「まあ、そんな感じです」

 えへへ、と曖昧な笑顔を浮かべる夏目。
 どうした。普段は持ち前の演技力を生かして臨機応変に対応する夏目にしては、妙に歯切れが悪い答えだ。その表情も心なしか硬く見える。

「そっか」

 都合が悪そうな雰囲気を察したのか、柚子さんもそれ以上この話題を追求することはなかった。柚子さんはそういった距離の取り方を心得ている人だ。
 この年上のお姉さんは、初対面の相手にズカズカ踏み入るような無粋な真似はしない。
 大学生くらいになると、取得単位項目に『距離感』の講座があるのかもしれない。俺もいずれはその技術をなんとか会得したいところだ。

「しかし、少年がこんな美人な女の子を連れてくるなんて驚いたよ。昔はよく似たような男友達と来ていたじゃないか」
「あいつらは――違う高校に行ったんで」

 ポツリと言い訳じみたセリフを零す。
 ふと、中学生の頃によくつるんでいたクラスメイトの顔が頭を過ぎる。

 学校が違うとかそんな建前以上に、中学時代の友人とは圧倒的に距離が離れてしまったことは間違いない。

 オタク仲間と駅前に繰り出した際には、このお店をよく利用させてもらっていた。
 『邂逅』は俺たちのような冴えない連中でも、まるで優しく包み込むように受け入れてくれた。

 あの頃もパッとしない生活だったことは間違いないが、少なくとも趣味を共有できる仲間がいた。

 だが今の俺はどうだ。
 そういったかつて交友を築いた連中とは、一切連絡を絶っている。今更声をかけられる筈もない。

 入学当初は自分が高校デビューに成功したと勘違いをして、かつての友人達を内心馬鹿にすらしていた。
 その上にくだらない疑いから仮面は剥がれ、己の人望のなさから高校でもすぐに孤立してしまったのだ。

 俺は、ひどく愚かな奴だ。救いようのない、そんな話。

「ならしょうがない。でも、こんな可愛い女の子が友達ならいいじゃないか。ね、夏目さん」
「そんなー、可愛いなんてとんでもないですよっ」
「ふふっ、謙遜しちゃって」

 「このこのー」と夏目に肩を寄せる柚子さん。綺麗な女性が密着している様子は見ていて心が安らぐ。荒んだ砂漠と化した俺の魂に一滴の潤いを与えるようだ。いつまでも見ていられそうだよ。

 すると、柚子さんが思いついたようにピッと指を立てた。

「でも、彼女じゃないなら私が少年を貰っちゃおっかなー?イメチェンしてからちょっと、私好みになってきたんだよね」
「――ま、まじですか」

 柚子さんはニヤニヤと笑みを浮かべて、品定めするように俺の顔を見る。

 何か不思議な感覚が背筋を走り、照れからかゾワゾワとむず痒くなる。
 柚子さんのような綺麗な女性にそんなお褒めをいただいたのは人生で初めてだ。

 やはり大学生だから、高校生と違って、その、大人のお付き合い的なアレがあるんですかね?
 いやもちろん僕みたいなクソガキにはちょっと想像も及ばないんですけど、もしかしたら大人の階段というか、年上の女性から手解きみたいなものを頂戴しちゃったりなんだったり……。

 そんなことを考えていると、ふと、目の前の席から不穏な気配を感じた。

「――へんた、神崎くん」

 ザクッ。
 気がつくと、夏目の手に握られたフォークがテーブルの上に突き立てられていた。

 あの……そこさっきまで俺が手を置いてた場所なんですけど。

「もう、鼻の下が伸びてるわよ、神崎くんったらはしたない」

 うふふ、と実に柔和な微笑を湛えながら、俺の鼻先をチョンと突っつく夏目。いや、普段はそんなアメリカのトレンディドラマみたいな仕草絶対しないでしょ。どういうキャラチェンですか。

 しかし、そのガラス玉のように透き通った瞳は絶対零度を記録しそうなほどの冷たさだった。
 ちなみにもう片方の手にはしっかりとフォークの柄が握られている。とりあえず料理はまだ来ていないのでそのフォーク置いてくれませんか。

「……やだなー、そんなわけないじゃないですかー」
「なんでそんな棒読みなの、へんた、神崎くん」
「ちょくちょく言いかけるの止めてくださいお願いします」
「なんのことかしら。しね、神崎くん」
「今死ねって言った⁉」

 先生、今夏目さんが悪口を言いました!

 おいおい。雰囲気や表情は完全なるお嬢様バージョンだが、口調から腹黒さが徐々に漏れ出しているぞ。そのどす黒いオーラから、死の呪文でも唱え出しそうな勢いだ。

 鼻の下が伸びるのも仕方がないだろ。
 女子大生のお姉さんに好みと言われて胸がドキドキしない男子高校生など、真っ白なカラス並みにこの世には存在しない。

 ……そう思いつつも、テーブルに突き立てられたフォークがさながらゴルゴダの丘に聳える十字架のように見えて、俄かに湧き上がる夏目への戦慄。

 柚子さんは何故か嬉しそうな笑顔で俺と夏目のやり取りを眺めながら、

「あはは、二人はとっても仲が良いみたいね」
「そう見えますか……?」

 俺と夏目の関係なんて、捕食者のライオンと、狩りから必死に逃げるシマウマぐらいのパワーバランスだ。世間一般ではこれをイジメという。

「そうね、まるで恋人みたいよ」
「またまた御冗談をー。柚子さんってとっても面白い人ですわ」
「でも少年はヘタレだからなぁ」
「そうですよねー」

 何故か遠回りに悪口を言われている気がする。俺を庇ってくれる心優しき人はこの世にいないのか。誰か助けてください。

「……まったく」

 いつもクラスメイトに囲まれている夏目だけど、実際に面と向かって他人と話しているのを見るのは、実はほとんど初めての経験だったりする。
 猫被っているのは分かっていたことだが、こうして改めて見ているとなんだか新鮮に感じるな。

 柚子さんが俺の中学時代のイケてない様子を懐かしむように語り、それを聞いた夏目はおかしそうに笑っている。
 その笑顔はごくナチュラルで、傍から見ればまさか仮面を被っているとは思えない。

 ふと、思った。

 夏目は演技をしながら周りと接していて、楽しいのだろうか。

 彼女の立ち回りは神がかり的と言っても過言ではない。嫌味ではなく、本気で感心する。

 教室ではいつも沢山のクラスメイトに囲まれ、彼女の話題で他クラスまで盛り上がる。先生や先輩ですら彼女に一目置いているのが分かる。それは全て、他ならぬ夏目自身の魅力的な振る舞いがそうさせている。

 ただ明るく振る舞うだけなら、意外と誰でもできるのものだ。絶対に不可能というわけじゃない。
 事実、十五年間陰キャラを通した俺でさえ、努力次第である程度クラスの輪に溶け込むことはできた。だが、ここまで突き抜けて人気者を演じる技術と精神力が伴う人間は殆どいない。

 誰もが彼女を信奉している。人は自分よりも強い人間に憧れる。逆に自分より下の人間を見て安心する。そういうものだ。俺が保証する。

 自分に言い訳をして、自分に嘘をついて、納得するのだ。
 他人に理想を押し付けて、自分を正当化して、日々の生活に安定を求める。それは誰もが同じようにやっていること。

『あの人は才能があるから自分とは違う』
『きっとあの人なら私のことを分かってくれる』

 そんな他者の願望と憧憬を、夏目は丸ごと背負い込んで学園のアイドルを演じているのだ。

 考えてしまう。もし俺の嘘がバレなかったら、俺にはコイツほどのことが出来たのだろうか?自らの理想を貫き、周囲を騙し続けるという重圧に俺は耐えられたのだろうか?

 でもそこに、夏目を本当の意味で理解してあげられる人間はいない。
 腹黒で、毒舌で、無茶苦茶なお嬢様の、隠された心の底に手を差し伸べる人間はいないのだ。

 なにより、夏目自身が理解されることを望んでいないようにすら思える。皆に囲まれる人気者。そんな夏目という人間が、俺には世界で一番孤独に思えた。

 この笑顔も心からの笑顔なのだろうか。ただ状況に合わせて仕方なく作っているだけなのか。俺にはその真意を知る術もない。

 俺は夏目のことを、何も知らない。

「……お待ちどう」
「はっ⁉」

 油断しきっていた柚子さんの後ろに、右手にカレーライス、左手にオムライスを携えた髭のマスターが仁王立ちしていた。

 いつの間にか調理を終えて、話に夢中になっている柚子さんを待ちかねて自らフロアに現れたらしい。

「……マスターがしゃべった」

 柚子さんが酸素を求める金魚のように、小さな口をパクパクさせている。
 バイトを始めて長い柚子さんにとっても、マスターが喋るのを目撃することは珍しいらしい。

 もちろん俺も完全に初見だ。
 ちなみに、予想通りの響くような心地良い低音ボイスだった。

「……」

 コツリと静かな音を立てて皿をテーブルに置き、柚子さんへ鋭い視線を向けるマスター。

「わ、私キッチンの掃除してきますね~。じゃ少年と夏目さん、ゆっくりしていって!」

 そう言うが早いか、鋭い眼光から逃れるように柚子さんはお店の裏方へと姿を消した。さながら伊賀流忍者のような身のこなしだ。柚子さんの通う大学には忍術の実技科目も存在するのかもしれない。

「まったく、いつも元気だな、柚子さんは」

 相変わらずの様子で、俺は内心でホッとしていた。
 この喫茶店の雰囲気も、柚子さんも、マスターも、昔のままなんら変わりない。

 思い返せば、たった一か月の間に俺の居場所は全て変わってしまった。
 この喫茶店は、俺にとって数少ない変わらない憩いの場所なのだ。

 教室に居るときのように、気まずい思いをすることもない。今の俺にはそれだけで本当にありがたい。柚子さんにからかわれるのはちょっと辛いところもあるが。

「……本当に、面白い人ね」

 俄かに立ち上るカレーライスの湯気を払うように、夏目はポツリと呟いた。
 柚子さんに別れの挨拶をして、『喫茶店 邂逅』を後にした俺たちは、俺の提案でゲームセンターへ寄ることになった。

 このゲーセンは規模こそそこまで大きくはないが、その外装の派手さから駅前の繁華街の中でも一際大きな存在感を放っている。
 様々な機体が発するゲームの効果音が入り混じり、店内は高架下のような喧しさだ。目が眩むほどの蛍光色がそこら中で交錯しており、その中では比較的若い年齢層の人たちが思い思いにゲームに興じている。

 ここも中学時代によく寄った場所だ。改めて今日のデートコースを思い返してみると、俺的には目新しさはゼロだな。

 しかし夏目とはどこも初めて一緒に行く場所なわけなので、まあ構わないだろう。

「……うるさいわね」

 ゲーセンのフロア中に響き渡るガチャガチャとした騒音に、両耳を塞いで不快そうな表情を浮かべる夏目。

 俺は一瞬場所のチョイスを失敗したかと思ったが、しばらくすると騒音にも慣れてきたようで、夏目は辺りを物珍しげに見回し始めた。

「あ、あれはなに?なんでコインが沢山箱の中に入っているの?」
「あー、あれは専用のコインを弾みたいに落として、数を増やしていくゲームだ」
「ちょっと見なさい!透明なゲージの中にモフモフしたものが押し込められてるわ。見世物小屋かしら?」
「そんな物騒なものじゃねーよ!あれはUFOキャッチャーだな」

 発想がフリークスだ。目をキラキラさせながらブラックなことを言うのはやめてくれ。

 矢継ぎ早にあちこちを指さして、疑問を口にする夏目。まるで親を質問攻めする幼稚園の子供のようだ。どうやら夏目は初めてゲーセンに来たらしい。

 この年齢でUFOキャッチャーすら知らないとは、相当な箱入り娘だ。夏目の実家が超がつく名家であることを考えれば得心がいくけど。おそらく昔から俗世的な遊びに興じる機会などほとんどなかったのだろう。

「お前ってさ、ゲームとかするの?」
「ほとんどないわ。親が厳しかったから」

 俺の質問に答えながら、面倒くさそうに肩に掛かる長い髪をかき上げる。

 学校での夏目のハイスペックぶりを見ていると、幼少期から習い事や勉強に労力を費やしていたであろうことは想像に難くない。きっと教育熱心な厳しい家庭環境で育ったに違いない。

「でも唯一、家にインターネットだけはあったの。だからゲームやアニメは情報としてはちょっとだけ知ってるわ」
「ああ、なるほど」

 どうりで漫画やゲームなんかの妙にオタクっぽい知識を持っていると思った。男兄弟でもいるのかと思ってたけど、ネットの影響だったのか。

「そういえば、トランプだったら分かるわ。コンピューター相手に一人でやっていたから」
「お前意外と寂しい奴だったんだな……」

 ソリティアやマインスイーパーをCPU相手に必死でカチカチやっている夏目の姿を想像したら、ちょっと涙が出そうになった。あまり知りたくない過去だ。

「一番好きだったのはポーカーね」
「ギャンブラーだな」

 よく知らないけど、ポーカーといったらそんなイメージ。でも夏目の傍若無人な振る舞いから、ギャンブラーな雰囲気は意外としっくりきそう。

「あなたはポーカーやらないの?」
「そんなオシャレなトランプはやったことねーよ」

 ババ抜きとか、七並べとか、そういう平和な奴が超楽しい。

「そういえば、クラスのイケてる奴らがポーカーで負けたら俺たちオタクグループに話しかけるっていう罰ゲームをやってたな」
「……さり気なく悲しいエピソードを放り込んでこないで」

 哀れみを含んだ瞳で俺を見つめる夏目。いや、そこは笑ってよ。引かれると逆に辛いよ?

「まあ、ルールもよくわからんレベルってことだ」
「あら、そう。ポーカーは簡単に言うとね、山札から手札を引いて、役を揃えてその強さを競うゲームなの」
「ああ、なるほど」

 細かいことは分からないが、言われてみればなんとなくそのイメージなら湧く。決められた役を目指して、狙った手札を引きに行く。麻雀みたいなものか。多分違うけど。

「たとえば、ポーカーではね、エースが強いのよ。上の番号にも下の番号にも繋げられる便利な番号なの」

 ほう、エースは役が揃え易いカードってことか。大富豪でいうジョーカーみたいな。

「ふーん、八方美人つーか、器用なカードなんだな」
「まあ、そんな感じね。だからエースがあれば強い役が作りやすいのよ」
「なんか……お前みたいだな。器用に立ち回って、強い役を作る」

 そして周囲を掌握し、クラスを支配する。別の意味でエースって感じだ。恐ろしい。

「それは褒めてるのかしら?セクハラで訴えるわよ」
「だからどこがセクハラだ!なんとなく思っただけだっつーの」

 ひどい言いがかりだ。痴漢冤罪並みに救いがないぞ、それ。

「――私はそんな器用なカードにはなれないわよ。ただ、持っているフリをしているだけなの」

 夏目はガラス張りのショーケースを眺めながら、ゆっくりと深い溜息をついた。

 ……夏目らしくないな。
 持っているフリなんてしなくても。勉学優秀、運動神経抜群、そして絶世の容姿。どれをとってもよりどりみどりだろ。揃える役も選び放題。なんでもいいからその才能を一つ分けてくれ、マジで。

「持っているフリをするのが、ポーカーで勝つ方法だから」

 そういえば、ポーカーはいかに自分の手札を強くみせて、相手を諦めさせたり勝負に引きずり出させるか、その駆け引きが重要なんだと聞いたことがある。
 相手を騙す、それがゲームの醍醐味だと。

「……相手のカードは、見えないもんだからな」
「そうよ。だから、配られたカードで戦うしかないのよ。たとえそれが、エース抜きだとしてもね」

 雨水を溜めたような、潤んだ瞳で俯く夏目。
 その表情は、何故か不思議なくらいに切なく映っていた。

 こいつの配られたカードなんて、考えるまでもなくそのままロイヤルストレートフラッシュが決まるくらい、飛びぬけてチートなはずだろう。悩むまでもない、くらいに。

 俺は突然流れた気まずい沈黙に居てもたってもいられなくなり、慌ててUFOキャッチャーの筐体を指さした。

「ほらこれ!やったことないんだろ?やってみるか」

 夏目は俺の話題転換に驚いたように顔を上げて、UFOキャッチャーの筐体に視線を移す。

「べ、べつにいいけど」
「よし、じゃあやろう!」

 二人並んでUFOキャッチャーの前に立ち止まる。
 透明なケースの中には、最近流行りのアニメに登場するキャラクターを模したぬいぐるみが所狭しと並べられていた。

 夏目はゲームなんて面倒くさがるかと思ったが、いざ機体を目の前にしたその表情は満更でもなさそうだ。意外と好奇心旺盛な性分らしい。

「これは一体どういう操作方法なの?神崎くん、丁寧且つ迅速に私に教えなさい」
「へいへい、不肖ながら見本をやらせていただきますよ」

 そう嘯きながらも、実は俺には確固たる自信があった。
 何を隠そうUFOキャッチャーは俺の得意なゲームに他ならない。中学時代はUFOキャッチャーのプレイのみで一日費やしたくらいだ。かなりコアなプレイヤーであると自称しても掛け値がない。

 俺は財布から百円硬貨を取りだして、チャリンと投入する。
 手の平サイズのボタンを押すと、ケース内に吊り下げられたアームが陽気なBGMと共に動き始めた。

「わ、動いたわ」
「これを操作してケース内の景品を獲るんだよ」
「このぬいぐるみたちは捕らえられるのをただただ待っているだけなのね……まるで家畜、いや思考することを忘れた現代人へのメタファーかしら」
「そこまで深い意味はねぇよ」

 コアなファンの俺が言うのもなんだけど、UFOキャッチャーごときにそんな哲学的要素はない。単なるキャトルミューティレーションだ。

 俺は手元のボタンを操作して、事前に目をつけていた標的の上でアームを一旦止める。

 狙いは虎柄のパンツを履いた、可愛らしい三頭身のクマである『オニクマくん』だ。よく見ると頭には鬼の角がチョコンと生えている。

 オニクマ君は最近テレビコマーシャルなどによく登場しており、子供を中心に大人気のキャラクター……らしいが詳しくは知らない。

「ねえ、その角度で大丈夫?もうちょっと手前じゃないかしら?これでいけるの?」
「集中したいから静かにしてくれ!」

 後ろでいちいち騒がないで欲しい。人が運転してるのを助手席でアレコレ指示したがるタイプか、お前は。

「よし……おりゃ!」

 タイミングよくボタンを叩く。するとアームが下降し、上手い具合にぬいぐるみのタグに引っかかってくれた。そのままアームを引き上げ、取り出し口の穴まで運ばれる。

 ガコンと音を立ててぬいぐるみが落ちて、取り出し口へと姿を現す。一発目で獲れるとは、俺のゲームスキルもまだ錆びてはいなかったようだ。少し嬉しい。

「すごっ……くはないけど、アナタにしてはまあまあな働きね」
「そりゃどーも」

 さっきまで子供みたいに騒いでいたくせに。

「ほら、やるよ」

 せっかくだ。取りだしたクマのぬいぐるみを、俺の背後で食い入るように観戦していた夏目にポンと手渡した。

 自分で取っておいてなんだが、こんな可愛らしいぬいぐるみを愛でる趣味は俺にはない。むさ苦しい男子高校生に所有されるよりも、見た目だけなら綺麗な女子高生の手に渡った方がコイツも本望だろう。

 夏目はしばらくオニクマくんを眺めた後、少し顔を赤らめてギュッと抱きしめた。

「ま、まあ、せっかくだし貰ってあげないこともないわ」

 夏目のそれなりに豊満な胸に抱かれて、窮屈そうに表情を歪めるオニクマくん。正直羨ましい。頼んだら代わってくれないだろうか。

「お前もやってみれば?」
「そうね、たまには庶民の遊びに興じるのもいいかしら」

 夏目は満更でもなさそうな表情を浮かべて、財布から小銭を取り出した。俺のプレイを間近に見て気が乗ったらしい。

 まずは一発目。
 慣れない操作のためか、目測を見誤った夏目は大きく狙いを外し、アームは掠りもせずに何もない空を切った。

「……惜しいわね」
「掠ってもないぞ」

 まるで見当違いのところだったぞ。まあUFOキャッチャーは見た目以上に難易度が高いゲームなので、初心者なら仕方ないが。

 俺のツッコミにも一切反応せずに、夏目は二発目の硬貨を投入する。獲物を狙うハンターの目で、食い入るようにゲージを睨んでいる。ゲームとはいえかなり集中しているようだ。

「あっ……」

 またもや失敗。
 今度はボタンを押すタイミングが若干遅かった。

 夏目は迷うことなくすぐさま三発目を投入する。
 いくら一回一回は大した金額ではないとはいえ、のっけから物凄いペースの速さだ。

「お、おい、少しは考えてやった方がいいんじゃ」

 チャリン。
 言ってる傍から、すかさず次の硬貨をエントリーする。どうやら俺が目を逸らした一瞬の隙にもう失敗したらしい。ワンゲームがあっという間だ。

「……」

 チャリン、チャリン、と無言で次々ゲームをコンテニューしていく夏目。しかしアームは空を切るばかりで、一向に景品をゲットできそうな様子はない。

 何か、空気が重たくなってきた気が……。
 あんなに上機嫌だったのに、夏目は先ほどから一切声を発していない。辺りは喧騒に包まれているはずだが、やけに静かに感じる。

「あ、あのー、夏目さん?」

 声を掛けてみるが、もちろん返答はない。ただ手元のみが業務的に硬貨投入口とボタンを行き来しており、哀れなロボットのようだ。

 あれ、よく見たら百円玉が投入口の近くに積んである。
 それゲーセンの中でも、かなりコアなプレイヤーがやるやつなんですけど。初心者のレベルじゃないんですけど。

 おそるおそる背後から夏目の顔を覗き込んでみると、明らかに目が血走っていた。手も中毒者のようにプルプルと震えており、焦点が定まっていない。

 ちょ、ちょっと待って。ヤバい。口元から「ふしゅー」とか謎の吐息が漏れちゃっている。

 ふと気がついて辺りを見回すと、その豪気なプレイスタイルを珍しがった他の一般客がケースの周囲に集まり、ちょっとした見世物のようになっていた。
なにこの少年漫画みたいな展開。

「や、やべえ……」

 取り囲む観客の上げる歓声を聞きながら、夏目の新たな一面を見た気がする、と思った。

☆☆☆

「ま、まあ元気出せよ」
「……私ってセンスがないのかしら」
「初めてなんだからあんなもんだよ」
「……」

 黙ってオニクマ君の頬をムニムニと引っ張る夏目。やめろ、可哀想だろ。

 結局、夏目は五千円近くをUFOキャッチャーに費やしたが、ついぞ景品をゲットすることは叶わなかった。

 プレイも後半の方になると、哀れに思った店員さんがぬいぐるみなどの景品を取りやすいポジションに動かそうと提案してくれたのだが、夏目はそのご好意をにべもなく拒否した。

 負けず嫌いな性分のわりに、ゲームセンスは皆無らしい。一番厄介なタイプだな……。

「お前って、完璧なイメージがあったけど、意外と苦手なものもあるんだな」

 あらゆる点において夏目の後塵を拝する立場である俺だが、少なくともゲームセンスでは勝っていたわけだ。だからどうってわけではないが。

 そういえば、初めて会ったときもコイツが虫に怯えて暴れたのが、その本性に気づいたキッカケだったんだっけ。
 あの時の暴れっぷりは恐怖でしかなかったけど、今思うと幼い子供みたいで可愛らしいもんだ。

「――べつに、完璧なんかじゃないわ」

 夏目は俯きがちに、消え入りそうな声で呟いた。
 あれ、今までならここぞとばかりにムキになって反論するはずのに。揶揄うつもりで言ったのだが、いつもの威勢の良い態度とは違った反応に、俺は少し戸惑った。

「――アナタ、私にどうして演技をしているかって聞いたことがあったわね」

 夏目は迷うように目線を動かした後、またポツリと言葉を漏らした。
 その言葉には覇気がなく、まるで他人のようだ。

「……そうだっけ」
「そうなのよ」

 念を押すように頷く夏目。

「それがなんだよ」
「喫茶店で東京の私立に通っていたって、私言ったでしょ。本当はね、そこでは演技なんてしていなかったの。学校でお嬢様ぶるようになったのは、高校に上がってから」
「……」

 意外な事実に、思わず唾を飲み込む。
 夏目は俺の驚いた表情を見て、クスッと可笑しそうに笑った。

「あの頃は言いたいことを言って、やりたいように行動していたわ。そしたら、何故か周りの人間に敬遠されるようになってね」
「まあ……想像に難くないな」

 それに関しては予想通り過ぎるくらいだ。夏目の暴言が届く範囲で心穏やかにいられる奴なんてのは、仏かキリストくらいだろう。

「それでも周りとは折り合いをつけてやっていたつもりだったわ。本気で他人が嫌がるようなことは流石に控えていたし、それなりに楽しかった」

 俺は黙って話を聞きながら、中学時代の夏目を想像する。
 わざわざ地元を離れてまで通っていたのだ。いわゆる名門とか、お嬢様学校って呼ばれる私立だろう。そこで今とは違いお嬢様を演じていない夏目。うーむどうもイメージしづらい。

「でもね、三年生の時、イジメの事件が起きたの。クラスメイトの大人しい子が、物を隠されたり、じつは陰湿なイジメを受けていたらしくて。それが問題になった。その子は自己主張が苦手な子だったから、表沙汰にしたくなかったらしくて、何も言わずに別の街へ引っ越してしまったわ。結局は学校側も生徒側も、それを大きな問題にせずただ黙認する形になったの。名門の私立だったし、エスカレーター式とはいえ生徒によっては外部受験も控えた時期だったから、みんな神経質になっていたのね」

 ありそうな話だ。学校という閉鎖されたコミュニティでは、目立たない形でのイジメが常態化しやすい。それはどの年代、どの場所でも共通することだろう。私立も金持ちも関係ない。往々にして、弱い立場の人間が犠牲になる。

 夏目は少し間を置いて、再び話し始めた。

「そして犯人に、素行が悪かった私が疑われたの。もちろん夏目財閥の娘である私をおおっぴらに非難する人なんていなかったわ。でも、明らかに周りの人たちは私を敬遠するようになって、離れていった。教師も、クラスメイトも、みんな。今まで仲が良いと思っていた連中も、きっと私を夏目家だからってチヤホヤしていただけなのよ。誰も私のことを信じなかった。だんだんと、教室に私の居場所はなくなっていった」
「……そんな」

 夏目はまるで他人の人生を俯瞰で語るように、淡々と言葉を紡いでいた。

「いざってときに助けてくれない。そんなの、友達とは呼べないわ」

 重たく冷たい深海を揺蕩うような、憂いを湛えた横顔。
 その表情からは少しの諦観と、悲哀を帯びた覚悟のようなものが感じられた。

「私はね、抵抗しようと思えばいくらでもできたわ。私を犯人扱いした学校側を追い詰めることも、真犯人を見つけ出すことだって、夏目家の力を使えば簡単なことよ。でも、そうじゃなくて、誰かが私を信じてくれると思っていたの。きっと私に代わって、無実を訴えてくれる仲間がいるって。でも、誰も私を庇おうとはしなかった。仲が良いと思っていた子たちでさえ、腫れ物に触るみたいに、みんなただ遠巻きに眺めていただけ。そのとき、思ったの。私は、本当は誰にも必要とされてなんていなかったって」

 俺は何も言わなかった。いや、言えなかった。この状況で掛けるべき言葉を俺は知らなかった。

 夏目が初めて語る、自分の心の内側。他人が、気安い言葉で、容易く踏み込んでいい領域じゃない。

「私はもう、ここには居られないと思ったわ。その状況に耐えられなかったの。だからエスカレーター式の進学を蹴って、地元に帰ってきた。ここではもう間違えない。周りに信じてもらえるように、周りが私を必要としてくれるように。信頼を勝ち取るために、良い子の仮面を被って、みんなを騙すことに決めた」

 そんなのは。
 見事に矛盾した、二律背反。
 信じてもらうために、騙す。

 完璧に見えたお嬢様の、悲しい覚悟だった。

「おかしいわよね。アナタの話を病室で初めて聞いたとき、まるでもう一人の自分と出会ったのかと思ったわ。あるいは、私の未来かも」

 夏目は自分の言葉に、また可笑しそうに微笑した。
 俺は笑わなかった。笑えなかった。

「お前と俺は、違うよ。俺はただ目立ちたかっただけ、なんだから」

 夏目が俺に共通点を求めるなんて、お門違いな話だ。

 裏切った人間と、裏切られた人間。
 信じなかった人間と、信じたかった人間。

 スタート地点が違いすぎる。
 そしておそらく、ゴールも。

「でも、まさか事故で記憶を失くすなんてね。それに……」
「それに?」
「――いえ、なんでもないわ」

 俺はなんとなく、夏目が濁したセリフの先が分かった気がした。
 でも、それ以上言及することは出来なかった。

 言葉を飲み込み、黙って歩道を歩き続ける。
 街並みは寂し気な夕日に照らされて、顔も知らない沢山の人々がこぞって帰途に着いていた。もう、今日という一日が終わりかけていることを知らせている。

「ねぇ、私のしていることって……正しいのかしら?最近、分からなくなってきたの。記憶をなくす前の私も、こんなことを思っていたのかしら?」
「そんな話……初めて聞いたよ」

 俺はそんな無難なセリフを口にするのが精一杯で、誤魔化すように目を逸らした。

 言わなきゃいけない。
 夏目、俺は、お前に。
 最低の嘘を。

「――ごめんなさい、今言ったことは忘れて。今日は楽しかったわ」

 ふと顔を上げる。
 黙々と歩いていたので気が付かなかったが、俺たちはすでに駅に到着していた。

 何も言えずに、人混みの中を立ち止まる。
 俺の沈黙をどう受け取ったのか、夏目はいつもの仏頂面に表情を戻していた。

 目の前に佇んでいる華奢な少女。
 その驚くくらいの儚さに、夏目が春の温かい風に吹かれて、今にも消えてしまうのではないかと俺は不安になった。

「じゃあ、また明日、学校で」

 夏目は小さく手を振って、俺とは反対方向の駅のホームに向かって歩き始めた。
 こうして俺と夏目の初デートは、幕を下ろしたのだった。

 次の日から、夏目は校舎裏に来なかった。
 デートに出掛けた週末が明けた、月曜日。

「――はぁ」

 大きく深呼吸、いや、溜息を吐き出す。
 その反動で肺の中が空っぽになり、途端に息苦しくなる。ヤバい、幸せが逃げていっちゃう。慌てて息を吸うと、身体の隅々まで新鮮な空気が満たされるように感じた。

 でも、色濃く残るモヤモヤとした感情は、簡単には消えてくれない。

「今日も来ない、か」

 溜息だって吐きたくなるさ。
 初めてデートを敢行したあの日以降、昼休みに夏目が校舎裏へ姿を現さなくなって、もう一週間が経とうとしていた。

 昼休みのベンチは、俺一人の貸し切り状態になっている。閑古鳥が鳴きそうなくらいに静かな校舎裏はどこよりも居心地が良いはずだったのに、今となってはひどく退屈に感じる。

 いつのまにか、夏目の存在は俺にとって当たり前になっていたらしい。

 廊下ですれ違ったこともあったが、華麗にスルーされた。うん、明らかに避けられてるね。事情を聴こうにも、話すどころか夏目とコンタクトを取ることさえ機会は皆無だった。

 彼女はまるでどこぞのアイドルのようにいつも大人数に囲まれており、ひとたび廊下を歩くだけも民族の大移動の様相を呈していた。流石にその騒がしい軍団に単身で突入する勇気など俺にはない。

 そもそも、この昼休みの時間以外に接点なんて一つだって無かったんだから、当たり前だよな。アイツの本性を知ったこと自体が奇跡みたいなもんだったんだから。

「やっぱり、あの話が原因だよな……」

 日曜日、夏目との別れ際の光景を思い出す。

 夏目が優等生を演じるようになった原因。
 それなりに理由はあるんじゃないかと思っていたが、まさかあそこまでナイーブなバックボーンがあるとは想像していなかった。

 今となっては、執事の瀬野さんが夏目のことを不器用だと表現していたのも得心がいく。
 いくら身近な存在の執事といえど、プライドの高い夏目がペラペラと自分の事情を話すとは考え辛いが、瀬野さんも夏目の性格からある程度のことは察していたのだろう。

 ほとほと、自分の浅はかさが嫌になる。

 俺は自分が目立ちたいがために周囲を騙し、肝心なときには誰にも信じてもらえなかった。

 夏目はそんな俺を「自分の境遇と似ている」と言ったが、まったく違う。対極といって差し支えないくらいだ。

 夏目は悲しみから自己防衛するために、本性を隠し、演技することを選んだ。

 初めてアイツと会ったとき、話すような間柄になったとき、俺は夏目を純粋に羨ましいと思った。
 周囲を虜にする容姿、華々しいキャラクター、誰もが好意を抱く人望。俺が望んだモノを全て兼ね備えた人間だと思った。

 だが、そんな表面的なものじゃない、夏目の心に隠れた悲しみ。
 あまつさえ、俺は夏目に最低の嘘をついてしまっているのだ。

「……ホントのこと、言わないとな」

 俺は自らを鼓舞するように膝を軽くたたいて、勢いよく立ち上がった。

 伝えよう。
 俺が夏目と付き合っているなんて、真っ赤な嘘だってことを。たとえ、もう二度と口を聞くことさえ出来なくなったとしても。

 夏目の人生に、もうこれ以上暗い影を落とすような真似は出来ない。

☆☆☆

 教室に戻ると、やけに辺りがざわついていることに気がついた。

 どうしたのだろう。次は体育の授業のため、女子はすでに更衣室に移動していないといけない時間だ。しかし教室にはまだほとんどの生徒が残っている。

 俺が教室に足を踏み入れた瞬間、まるで時が止まったように静かになった。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように沈黙し、誰からとも分からないヒソヒソ声だけがうっすらと耳に届いてくる。
 声を潜めているつもりだろうが、そのあからさまな雰囲気も手伝い却って五月蠅いくらいに聞こえた。

 嫌な視線を感じ、その先へ目をやる。
 まるで何かを取り囲むかのように固まっているクラスメイト達が、教室に帰ってきた俺の方を指さしていた。

 これだけあからさまな反応をされて、察しないほど俺は無神経ではない。なにか、嫌な感じがする。

「……神崎」

 俺の名前を呼んだのは、名前もイマイチ思い出せない長身男子のクラスメイトだった。確か……高田とか言ったっけ。陽キャを演じていた当初、少しだけ絡んだ記憶がある。

 高田くん(多分)は腕を組んで、不機嫌そうに口を曲げている。加えて、まるで親の仇を見るような目つきでコチラを凝視していた。

 うわ行きたくねぇ。だが、このあからさまな状況で無視するわけにもいかない。

「……どうした?」

 ゴクリと唾を飲み込む。周囲からの粘着するように纏わりつく不穏な空気を肌に感じながら、俺は歩み寄った。

 どうやらクラスメイト達は、教室の一角にある一つの机を囲っていたらしい。

 覗き込むようにして目をやると、その円の中心には背の低い女子生徒がチョコンと着席していた。
 散切りのおかっぱ頭で、見るからに大人しい印象を受ける子だ。

「お前、篠田の体操服知らないか」
「……は?」

 高田からの耳を疑うセリフに、思わず聞き返す。体操服が、なんだって?

 中心に座る女生徒。名前はたしか篠田さんといったはずなので、この子の話をしていることは間違いない。
 ちなみに事件のせいでクラスからハブられて以来、クラスメイトの名前と顔を覚えることは諦めた。

 つまり俺は彼女とほとんど話したこともないし、特別な関わりもない。
 彼女の体操服の行方など、今日のブラジルの天気くらい関心がない事項だ。

「いや、知らないけど……」

 俺は質問の意図が分からず、返答に困窮する。
 昼休みに教室へ帰ってきたら、いきなり話したこともない女生徒の体操服について問われる。突然降って湧いた青天の霹靂であり、俺にはまったく身に覚えがない。

 ただ、嫌な予感だけが脳内で警報を発している。

 高田は猜疑心を滾らせた目つきで俺を睨みながら、やれやれといった具合に頭を振った。ひどくわざとらしい。演技力でいえば夏目の足元にも及ばない、大根役者だ。

「まあ、そりゃそう言うわな」
「……どういう意味だよ」

 高田のあまりの態度の悪さに、図らずもムッとしてしまう。
 いきなり呼び出されてそんな不穏なセリフを吐かれては、こちらとしても大人しくはしていられない。流石にイラッとするぜ。

 俺の反抗的な返しが気に入らなかったのか、高田はグッと眉を顰めた。

「篠田の体操服が無くなったんだよ。午前中まではあったはずなのに」

 ……なんだそれ。
 まさか、たった一か月もしない内に再びこのクラスで体操服の盗難事件が起きたっていうのか。

 屋上の落下事故といい、この学校の警備体制はおそろしいくらいにザルらしい。犯罪起きまくりじゃねぇか。ここは日本のゴッサムシティですか。我が国の公共機関における安全意識の欠落に、頭が痛くなる思いだ。
 だが今は行政の将来を案じている場合ではない。

「まったくの初耳だ。知るわけがない」
「……ふうん」

 まるで俺を試すような舐めた目つきに、気の抜けた返答。

 これじゃ押し問答だ。もはや高田を始めとした周囲のクラスメイト達は、頭から俺が犯人だと疑ってかかっている。何と弁明したところで納得してはくれないだろう。

 俺はやってないのに。
 ……そう言葉で否定しつつも、不安な感情が内心蠢く。

 真っ先に俺が疑われた。
 再び事件が起きた衝撃よりも、この事実がまるでアメーバのように意識を蝕んでいく。そんな感覚が俺の頭を支配していくようだった。

 おそらく俺が教室にいない間に、クラスメイト達は俺のことを槍玉に挙げていたのだろう。
 周りを取り囲む他の生徒も、不信感を隠そうともせずに俺の顔を見ているのがその証拠だ。

「こういうことは言いにくいけど……神崎くんは前科があるからね」

 まるで子供を不審者から守る親のように、篠田さんに身を寄せていた別の女生徒が、溜息をつくように嘯いた。この女生徒はえーと、二宮だったか。確か図書委員をやっていたはず。

「ちょ……ちょっと待ってくれ!あれは完全なる誤解だったろ!」

 俺は思わず、半ば怒気を込めた声で反論した。

 突然大きな声を出したせいか、周囲の注目が一斉にコチラへ集まる。
 あまり興味なさそうに遠巻きにしていたクラスメイトも、何事かと顔を覗かせ始めた。まるで見世物だ。
 二宮は不快そうに眉を顰めた。

「大声、出さないでくれるかしら」

 釘を刺すような冷たく鋭い声。
 ただでさえ静まっていた教室が、冷水を掛けたように嫌な沈黙に包まれる。

 まるでこの状況は開廷中の裁判所みたいだ。もちろん被告席に立たされているのは、他でもないこの俺だ。しかも弁護人もいない。どれだけ絶体絶命だよ。諸葛亮公明でも匙を投げるレベル。

「……怒鳴ったのは謝る。だけど知らないのは本当だ」

 警察に追い詰められた銀行強盗のように、俺は両手を挙げて無抵抗を示した。

 ――やってしまった。
 声を荒げたって、俺への不信感が増すだけで逆効果なのは分かりきっている。

 今必要なのは無実を叫ぶことではなく、冷静に状況を整理することなのだ。
 前回の件で容疑者の筆頭だった俺を疑うのは、周りとしては自然な反応なのだから。
 その疑いの目に過剰に反応したら、火に油を注ぐようなものだ。さあ、俺、深呼吸だ。うん、ビークール。

「午前中、二限が美術で移動授業だったよな。篠田さんも、そのとき盗まれたとは考えられないか?」

 俺は信頼のロスを取り戻そうと、なるべく優しい声と態度を演出する。
 俺の言葉に、篠田さんという女生徒は何も言わずにただコクリ頷いた。

 話したことも無いのでよく分からないが、篠田さんは積極的に主張することが苦手なタイプなのだろう。
 先ほどから小さく丸まるのに終始していて、一向に発言しようとしていない。
 篠田さんが被害の声を挙げたというよりは、お節介な周囲が被害を訴える役を買って出たであろうことは想像に難くない。

「二限は、普通にみんなと一緒に移動したぞ、俺は」

 正確にいうとクラスメイトの流れについて行っただけで、俺はぼっちだったけどね!

「それだって、証明する人はいないんだろ?」
「ぐ……」

 首を振って周囲のクラスメイトを見渡す。
 当たり前だが、目撃証言を名乗り出る者は一人もいない。

 この教室で俺を庇う人間がいない以上、このままじゃ埒が明かないな。なんとか無実を証明する手立てはないものか……。

 一番シンプルなのは真犯人を見つけることだが、そもそも初回の事件から真相は迷宮入りしているのだ。
 今までこれといった証拠や俺を除く容疑者も挙がっていないようだし、この状況から真犯人を探すのも厳しいか。

「そうだ、また荷物検査でもすればいいじゃないか」
「いや、流石に犯人も前回と同じようなミスはしないだろ?」

 再びしゃしゃり出てきた高田が皮肉じみた笑みを浮かべる。

 クソ、前回の事件ではすぐに手荷物検査をしようという流れになったのに。犯人が盗んだブツをわざわざ後生大事に持ってくれさえいれば、何より明確な証拠になる。

「それこそ……休み時間にどこかに行って隠すとか」

 そう口にしながら、高田は意地悪そうな視線を投げかけてくる。

 他クラスの生徒の犯行とか、下手したら校外の人間が侵入したとか、あらゆる可能性が考えられるはずなのに、意地でも俺を犯人に仕立て上げたいらしい。俺に恨みでもあんのか、この野郎は。

 校舎裏で昼飯を食っていただけだ、と主張したいところだが、それを証明できる手立てはない。
 なぜなら俺は誰にも出会わず一人きりになれるからこそ、あの場所を選んだんだから。もちろん今日も夏目にも、会っていない。

「どうも怪しいのよね、神崎くんが。だって、演技までしてみんなを騙してたんでしょ?最初から何か企んでたんじゃないの?」

 クラスメイトの援護射撃をするように口を開く二宮。
 俺は一番苦しいところを突かれて、返事に詰まる。

 脳裏にフラッシュバックする、あの頃の俺が思い描いていた理想像。みんなに好かれる、明るい人気者を演じようとしたこと。昔の自分や友人を下に見て、否定して、嘘のキャラクターを作ってまで欲しかったもの。
 それは。

「普通じゃないだろ。いったいどんな思惑があって、みんなを騙すなんてことができたんだ?」

 高田の問い詰めるような言葉が、まるで俺の身体を縛り付ける呪文のように頭に流れ込んでくる。滲んだ汗が額から流れ落ちて、虚ろな目に染みる。

「……神崎。お前は嘘つきだ」

 腕を組みながら俺を見下すような視線をじっと向ける。

「さっさと吐いちまえよ。お前を信じる奴なんて、一人もいないんだから」

 高田は大袈裟に溜息をついて、ふんと鼻を鳴らす。
 周囲のクラスメイト達もそのセリフに同調するように、静かに俺を蔑むような視線を送っている。

 真綿に塞がれたように、どうにも声が出ない。
 こんな状況で俺の事情を説明したところで、誰が理解してくれるのだろう。誰が許してくれるのだろう。

 許してもらう?
 誰に?
 何を?

 何も言えずに黙り込んでいる俺を、クラスメイト達は不審そうな目で睨んでいた。
 いや、彼らだけではない。遠巻きの連中も含めて、この教室にいるすべての人間が、俺に敵対の視線を送っている。

 ああ、この目だ。誰も、俺のこと信じていない顔してやがる。

 まるで無理矢理エンジンに負荷をかけたように、ドクンドクンと心臓の鼓動が早まっていく。
 額から流れる汗が止まらない。緊張による冷や汗なのか、あるいは焦燥による脂汗なのか、俺には判断がつかなかった。

 いくら弁明したところで無駄。もうマジで勘弁してくれっつーの。そもそも、大勢に注目されるのだって吐き気がするほど苦手なんだぞ。

 俺は不意に、夏目の言葉を思い出していた。

『誰も私のことを必要としていない』

 はは、寸分の狂いもなく、今の状況にピッタリなセリフじゃねぇか。

 疑いと敵対の目だけが、俺を貫いている。
 もちろん、こんな状況で俺を庇い建てするような酔狂な人間は存在しない。
 夏目も中学のとき、こんな気持ちだったのだろうか。

 どうしようもなく。
 どうしようもない。

 夏目、お前なら。
 こんな俺をなんて言うんだろう――


「バカヤローーーーーーーーーーーーーーーーーーー‼」


 鼓膜を貫き、天地を揺るがすほどの大絶叫。
 あまりの衝撃に危うく心臓が止まりかけた。

 これは幻聴ではないか、と思った。

 なぜなら、その声の主はここにいて良いはずがない人物だったから。
 なぜなら、その声の主はそんなセリフを吐いて良いはずがない人物だったから。

 叫び声は狭い教室に乱反射して、廊下まで反響したに違いない。いや、学校中の隅から隅までに響いたかもしれない。もしかしたら地球の裏側のブラジルまで届いたかもしれない。それくらいの声量と衝撃だった。

「バカバカバカバカバカみんなみんなみんなこのあほんだらだああああーーーーーーーーーーー‼」

 再び繰り出される、肺の空気を根こそぎ絞り出すような罵声。
 耳を覆いたくなるような痛烈な大音量。

 まるで振動が空気の壁を突き抜けて肌まで伝わってくるようだ。

「……夏目」

 教室の入り口、そこに堂々と屹立していたのは、他でもない夏目七緒だった。

 夏目はお嬢様の仮面をかなぐり捨て、まるで地獄の鬼のような形相で肩を上下に揺らしていた。

 成績優秀、容姿端麗、誰もが尊敬する学校のアイドル。
 衆人環視の前では絶対にありえなかった筈の、演技を止めた夏目の姿が、そこにあった。

 突然の来訪者に、教室は騒然としていた。

 唖然とした表情で彼女の慟哭を傍観していた面々が、我に返ったように「あれ、もしかして夏目さん……だよな?」と驚きを口にし始める。

 素顔を知っている俺ですらこの混乱ぶりだ。
 他のクラスメイト達は目の前のことが現実とは思えないレベルで驚愕しているだろう。

 しかし、夏目はそんな周囲の反応など気にする素振りもなく、ズンズンと教室へ足を踏み入れてきた。
 生徒たちは夏目の勢いに慄き、さあっとその道を開ける。すげえ、まるで海を渡る旧約聖書のモーゼだ。

 俺は息を呑んだまま、夏目の変わり果てた姿を眺める。
 いつも綺麗に纏められた艶のある髪は、ほどけてグシャグシャに乱れている。その頬は普段の色白な様子とは打って変わって、蒸気で温められたように赤く染まっていた。

 しかし夏目はそれを整えようともしない。
 ありのままの姿で、尚も言葉を吐き出し続ける。

「なんで嘘をついちゃいけないのよ‼なんで嘘をついたらそれだけで誰にも信じてもらえないのよ‼なんで、なんでうそつきが悪者扱いされなきゃいけないのよ‼」

 一言一言を吐き出すたびに、雷が走るようにビリビリと空気が揺れる。単なる勢いだけじゃない。夏目の声には、魂のこめられた確固たる強い意志が感じられた。
 初めて出会ったときの絶叫をも軽く上回る、もはや心の叫びと表現して差し支えないほどの慟哭。

 俺は眼前で繰り広げられる光景を、ただ黙って目で追うことで精一杯だった。

「みんなに必要とされて、理解されたかっただけなのに‼勝手なことばっか言って、責めるばっかりで、なんで誰も分かってくれないの‼なんで誰も分かろうとしないのよ……‼」

 肩を震わせながら俯く。
 その表情は髪に隠れて窺うことは出来ない。

 泣いているのかもしれない。悔しさか、悲しみか、あるいはその両方か。

 矛盾したこの世の不条理に対する憤り。自分を騙し続けても平気な顔をしている周囲に対する怒り。

 夏目七緒は今、まるで駄々をこねる幼い子供のように怒っている。いや、ずっと、ずっとずっと夏目は怒っていたのかもしれない。
 世界に対して、皆に対して、なによりも自分に対して。

「そ、そんなの、嘘ついたら、ダメだろ!疑われるのも仕方ない」

 反論したのは驚愕の感情を目に浮かべた高田だった。

 なけなしのプライドがそうさせたのか、修羅と化した夏目を前に意見した勇気は感服するが、おそらく蛮勇だろう。
 先ほどまでの高慢な態度とは一変し、唇は震えてその表情には明らかに怯えが見られた。

 夏目は目の前のクラスメイト達をキッと鋭い双眸で睨みつける。

「正直なことが良いことなんて、欺瞞だ‼そんなの大嘘だ‼みんな嘘なんてたくさんついてるわ……でもそれは、幸せになるために、笑えるために、誰かのために。そんな優しい嘘だってあるはずよ。それも分からないで相手を否定して、疑って、責めて良い理由になんてならないわ‼」

 痛切な叫びを続ける夏目。

 まるで言葉を吐くたびに、自分自身を傷つけているようだった。
 一言発するたびに、心は引き裂かれ、血は吹き出し、全身を激痛が襲う。

 だが、夏目は戦うことを止めようとしない。

『嘘をついてはいけません』

 誰もが子供の頃からそう教え聞かされる文言。
 間違いない、文字通りの真実だ。正論過ぎて吐き気がしちまう。怖いくらいに一ミリも間違ってなどいない。

 でも、誰もがなにかしらの嘘をついて生きている。それもまた真実なのだ。

 それは虚栄心からかもしれない。
 欲望からかもしれない。
 逃避からかもしれない。
 あるいはたとえ偽りだろうとそうありたいという、悲しいくらいの切望からかもしれない。

 もし誰もが真実のみを口にする世界になったのならば、おそらく瞬く間に人間関係は崩壊してしまうだろう。

 真実は人を傷つける。それはひどく暴力的で、残酷な世界。
 だから誰もが嘘をつく。

 嘘の大小はあるけど。
 嘘の代償はあるけど。

 自分を守りたい。失望されたくない。相手を守りたい。信じたい。
 そんな優しい嘘が世界には嫌というほどに溢れている。

 だからこそ、本当のことを言うのは怖い。
 心の裏側に隠された真実を口にするのは、嘘をつくよりもずっとずっと勇気が必要になる。

 本音を吐き出すのは、とても怖いこと。

「なんで夏目さんはこんな奴の肩を持つんだよ……みんなを騙してた、大うそつきなんだよ!どうせ体操服盗んだ犯人だってコイツに決まってる!」

 高田はまるで犯罪者を糾弾する原告のように、大袈裟な素振りで俺を指さした。

「たしかに神崎くんはどうしようもないうそつきよ!ヘタレで情けなくて誰にも相手されなくてビビりで、逃げてばっかで人付き合いが下手くそで、しかも童貞だし」
「おい」

 さりげなく悪口を組み込むな。特に最後のやつ。地味な精神攻撃はやめてよ。

「本当に、どうしようもない。でも……」

 夏目はゆっくりと顔を上げて、俺の顔を見る。
 まるで諦めたような、呆れかえっているような、そんな笑顔で夏目は言葉を零した。

「良い奴なのよ。私は知ってる。誰かに好かれるための嘘しかつけない奴なの。だから、私は信じてる。盗みなんて、人を傷つけることはしないって」

 俺は驚きの表情で、夏目の顔を眺めた。

 恐らく教室に存在するすべての人間が、同じような顔をしていたと思う。
神様すらも驚きのあまり口を開けていたかもしれない。

 コイツが俺のことを『良い奴』だと口にするなんて、ハリー彗星の到来並みにレアな出来事じゃないか。こんな奇跡があっていいのか。

 こんなセリフ、夏目の口からは初めて聞いた。
 俺が誰かに信じてもらえたのも、初めてだった。

「夏目さんと神崎はどういう関係なんだ……?」
「全然キャラ違うじゃん……どうなってんだよ」

 夏目のお嬢様キャラが吹き飛んだことで唖然としていた周囲のクラスメイト達も、段々と我に返って疑問を口にし始めた。

「……夏目」

 彼女の取った行動。俺は驚きと同時に、やってしまったという想いが頭を過ぎった。

 誰も知らなかった本当の姿を、俺を庇うためにすべて晒してしまった。

 せっかく夏目が努力で積み上げてきた大切な立場を、俺が原因で破壊してしまったのだ。
 どれだけ頑張ったって、もう取り消すことは出来ない。起きてしまったことを帳消しにすることは出来ない。

 なのに、なんで。
 こんな言い表しようのない感情が、ムズムズと心の底から湧き上がってくるんだよ。

 そうだ。なんで今更気がついたんだ。
 俺は嬉しいんだ。誰かに必要としてもらえる、信じてもらえているという事実が嬉しいんだ。

 そしてなにより夏目が俺を認めてくれていたことが。

 ――だって、俺は。
 本当はもうずっと。
 本当に夏目のことが。

「そうね、正直なのが良いっていうなら、言っておくわ」

 周囲の喧騒をまるで意に介さない平然とした態度で、夏目は思いついたように口を開いた。

「私は、神崎くんとつきあってるの」

 混乱を極めた教室内で、夏目の芯のある声だけが不思議なくらいに響いた。
 先ほどまでのどよめきが嘘のように静まり返る。まるで周囲のBGMだけをミュートにしたみたいだった。

 「ちょっとコンビニ行ってくるわ」くらいの感覚の、気軽で淡々とした口調。
だがそれは、この状況では超がつく爆弾発言だった。

 誰もが息を呑んだ、その瞬間。

 まるでそのセリフを待っていたかのように、教室の扉が音を立てて開いた。
 静まり返っていた教室内の注目が、一斉に音の方向へと集まる。

「はあ、はあ」

 夏目に続く第二の乱入者。
 教室の扉に手を掛けて立っていたのは、息を切らした幼馴染の日向千秋だった。

 そういえば。俺は首を傾げた。
 よく考えれば千秋の姿はずっと教室にいなかった。俺が犯人扱いされ夏目が登場するまでの一連のやり取りの間、千秋はどこにいたんだ?

「――千秋、お前」
「間にあった……かは微妙だけど、ちゃんと見つけてきたわ」

 そう言って、俺の顔を見ながら二カッと白い歯を見せて笑う。
 ちゃんと見つけたって、なんの話だろう。

「ほら」

 千秋は俺たちのいる場所に歩み寄ると、目の前の机にボンと袋を置いた。

 グレーの生地で作られた、見慣れないナップザックのような袋だ。運動部に所属をしている生徒が、練習着などを入れるのに使っているのを見たことがある。
 千秋が使っているところは一度も見たことがないので、千秋の持ち物ではない筈だ。一見して男物に見える。これは一体なんだろう。

「見つけてきたって……これのことか?」

 机を取り囲むクラスメイト達の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。
 見当がつかないが、この地獄のような状況でわざわざ引っ張りだしてきたのだ。よっぽどのものに違いない。

「お、おい」

 クラス全員の視線が謎の袋に集まる中、何故か高田が慌ててその傍に駆け寄ってきた。

 そして謎の袋を乱暴に掴み上げ、まるで隠すように胸に抱き抱える。そして辺りを警戒するように、キョロキョロと視線を動かしていた。

 えーと。言っちゃなんだが、その行動は明らかに挙動不審だ。

「ねえ、あなた。今日の移動教室の前、どこにいたの?」

 千秋は鋭い視線でクラスメイトを睨みながら、重々しく口を開く。
 以前のクラスメイトに怯えていた様子とは違い、その力強い声には確信に似た何かが滲んでいる。

「はあ?なんだそれ。なんか関係あんのかよ」

 高田は視線を泳がせながら吐き捨てるように呟いた。
 言葉尻に苛立ちを表しながらも、いつものような強気な態度は息を潜めている。そしてその表情からは明らかな狼狽が見られた。

「――顧問の先生に頼んでね、サッカー部の部室に入らせてもらったの。ついさっき、先生立会いのもとであなたのロッカーを開けさせてもらったわ。そしたら、これが出てきたの」

 そう言って千秋は高田の手元にある謎の袋を指さす。
 高田のこめかみから一筋の汗が流れたのを俺は見逃さなかった。そういえば、こいつ確かサッカー部に所属していたような。

「な、何を勝手に……」
「先生は午前中にあなたが忘れ物をしたとか言って、鍵を借りに来てたって言ってたわ」

 ――もしかして。いや、もしかしなくても、この展開は。

「……その袋の中身を見せてもらっても良いかしら?」

 千秋の言葉を次ぐように、夏目が身を乗り出して高田に迫る。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。これは違うんだ」
「何が、かしら」

 圧倒的な迫力を兼ね備えた夏目の淡々とした声。
 その声の調子とは裏腹に、その顔にはお嬢様のような百点満点のスマイルが浮かんでいる。この状況でその笑顔は、ある意味で見た者を恐怖で凍りつかせるには十分な威力だった。

「あっ」

 高田が怯んだ一瞬の隙に、夏目はひったくるようにして謎の袋を強引に奪った。あまりにスムーズな動作。お前は盗賊スキルの持ち主か。

 間髪入れずに紐を解いて、袋を勢いよくひっくり返す。
 転がるように出てきたのは、見間違いようもなく女子の体操服だった。

「これ……私のです」

 篠田さんが体操服を手に取って確認する。
 周囲を取り囲むクラスメイト達も覗き込むようにして顔を近づける。確かに首元についたタグには「篠田」の文字がマジックペンで記載されていた。

 盗難されたはずの体操服が、何故か高田の部室ロッカーに入っていた。
 そして体操服が盗難されたこの午前中に、部室の鍵を開けたのは高田のみ。

 見た目は子ども頭脳は大人の名探偵じゃなくたって見当くらいはつく。
 この状況から導き出される結論は、おそらく一つしかない。

「こ、これは言いがかりだ!証拠も無しに俺を陥れようとしてるんだ!」

 すっかり動揺しきった様子の高田が声を荒げる。
 しかしその顔は青ざめて、さっきまでの自信満々な表情からは程遠かった。

「証拠もないのに人を責めていたのは、アナタでしょ。変態くん」

 夏目が眉を寄せて唸るように呟く。その声には幾ばくかの怒気が含まれていた。夏目さんが怒ってらっしゃる……こわい。
 しかし、ブーメランが見事な放物線を描いて特大になって帰ってきたな、サッカー部の高田。

「――私、前から高田君を疑ってたの。なんだか、入学当初から様子がおかしかったから」

 今度は千秋が射抜くような鋭い視線を高田に向ける。
 完全に先ほどまでとは状況も立場も大逆転している。心強すぎるよ、この二人。

「疑ってたって……でも最初のときは皆犯人は神崎だって」
「春は――盗みなんかしないって、私知ってるから。陰キャだけど」
「おい」

 思わずツッコむ。陰キャ言うなし。

 でも、そのセリフは素直に嬉しかった。
 確かに最初の事件のときも、千秋はあくまで俺を疑ったり責めたりすることはしてなかったんだよな。

「もしかしたらと思って、移動教室のときはクラスメイトくんの動きを隠れて観察してたの。そしたら今日の二時間目。一人だけみんなと逆の方向に歩いくのを見かけたわ」
「あ、あれはトイレに行こうとして」

 必死に目を泳がせる高田。まるで逃げ道を探すネズミのようだ。

「じゃあ、この写真は何かしら」

 そう言って、千秋は水戸黄門の印籠のようにスマホを翳した。その瞳は確信に溢れている。

「こ、これは……」

 クラス中の視線が千秋の手元に集まる。
 そこには、高田が篠田さんの机を物色している姿がありありと映されていた。決定的過ぎる……千秋はこんな切り札を持っていたのか。最強すぎる。

「篠田さん、本当にごめんなさい。彼が篠田さんの荷物を漁ってるのを、私はわざと見逃した。春の無実を証明するためにはどうしても証拠が必要だったから……」

 千秋は篠田さんの方に向き直り、ペコリと頭を下げた。綺麗な髪が覆うようにして顔にかかる。

 千秋にとってもこれは賭けだったのだろう。
 悪事に手を染めた高田が悪いとはいえ、もし犯行を見逃せば篠田さんの心に傷を負わせる結果になったかもしれない。
 今回の件はいくら真犯人を見つけるためとはいえ、篠田さんをおとり捜査の餌のように扱ってしまったのだ。

「――ううん、日向さんが謝ることないよ」

 篠田さんはゆっくりと首を振って、千秋を励ますように小さく微笑んだ。

 自分の体操服を漁っていた男が目の前にいるなんて、耐性のない女生徒なら恐怖で泣き出してもおかしくない状況だ。

 夏目の全力の慟哭、千秋の懸命な姿に、きっと篠田さんなりに何かしら感じる部分があったのだろう。
 彼女はパッと見は小柄で大人しい女生徒だが、実は芯の強い子なのかもしれない。

 篠田さんの隣では、先ほどまで俺を攻め立てていた二宮女史が気まずそうな顔で俯いている。
 いつの間にかこの場の空気の流れはすっかり入れ替わっていた。

「ぐっ……こんなのおかしい、こんなの間違ってる」

 完全に追い詰められた高田はすっかり憔悴しきった様子で、俯きながらぶつぶつと抵抗の言葉を呟いている。
 ここまで綺麗な凋落劇を見るのも珍しい。あからさまに狼狽した人間を見るとむしろ可哀想な気持ちになってくるな。

「さて、どうするつもりかしら。今ならまだ、自白で済むわよ」

 夏目は肩に掛かる綺麗な髪を払いながら、完全なる高みから高田を見下す。
 ああ、校舎裏で俺を馬鹿にしまくっているときと同じように、夏目のドSモードが発動しているな。めちゃくちゃ楽しそうだ。

 いやしかし、この展開、どうしたものか。

「――おい、日向。いきなり部室から飛び出して走り出したと思ったら……なんだこの状況は?」

 覗き込むようにして顔を出し、教室に現れたのは体育教師だった。
 たしかうちの学校の体育教師はサッカー部の顧問を担当していたはずだから、千秋が鍵を借りてロッカーを開けてもらったのはこの先生だったようだ。

 教室の中央に集まって固まる一団。
 その中心の机の上には、クラスメイトのロッカーに入っていた袋と体操服。
 それを目の前にして、額に汗を浮かべながら立ち尽くす高田。
 そしてそれを取り囲むようにして注目する外野の生徒たち。

 一連の光景をグルリと見渡した体育教師は、一瞬で大方の事情を察したようだ。
 そういえば最初の体操服盗難事件の際も、職員室で俺に事情聴取をしたのはこの体育教師だったっけ。

「――はあ。とりあえず、話聞かせてもらえるか」

 頭を抱えながら、深い溜息をつく。
 それと同時に、クラスメイトは見事に膝から崩れ落ちた。
 こうして、今回の体操服盗難事件は幕を閉じたのだった。

 ――ちょっと待って。俺、何もしてなくね?
「良かったじゃん、疑いが晴れてさ」
「……まあな」
「私は最初から信じてたけどね」
「うそつけ」

 もうすっかり見慣れた高校へと続く長い坂道を、千秋と喋りながら歩く。

 約一ヶ月に渡って俺を悩まし続けた元凶は、意外なまでにあっさりとした解決を迎えた。

 クラス中の度肝を抜いた夏目の本音爆発、まさの交際宣言、そして千秋の登場による真犯人の発覚。

 たった数分間に起こった出来事とは思えない、ミステリー作家もビックリの超展開だ。我々の学年ではおそらく卒業まで語り継がれるであろう伝説の日になったな。

「まさか……こんな近くに犯人がいたとはね」
「俺も驚いたよ」

 まったく人は見た目によらないものだ。
 改めて考えてみると、高田のような一見人当たりも良く目立つタイプの男が陰であんな凶行に及んでいたというのはぞっとする話だ。

 サッカー部に所属し、容姿も優れている。もちろん夏目とは比べるべくもないが、高田は十分クラスの人気者といって差し支えないほどだった。

 当たり前みたいな顔をして俺を犯人扱いしていたことを思い出すと、その狂気に軽く寒気を覚える。
 まさに王道を行くうそつき、キングの称号を授けたいくらいだな。俺のうそつき度など彼の前では足元にも及ばないだろう。まあ、立派な犯罪なので笑えない話だが。

「……運が良かったのか、悪かったのか」

 そんな危険思想を持ち合わせながらも、今まで平気な顔して学校生活を送っていたのかと考えると、彼も役者だ。夏目とは違う、悪い意味で。

 クラスメイトはあの事件以来学校を休んでおり、その姿を見た者はいない。クラスメイトからの連絡も一切反応しないらしい。
 あんな大胆に騒ぎたてていた癖に、あいつ意外と豆腐メンタルだな。学校中から嫌われても登校し続けた俺を見習ってほしいぜ。

 風の噂で聞いたが、一度目の盗難事件も自分の犯行だと高田が自白したらしい。
 だが先生方も騒ぎが落ち着くまでは事を荒立てない方針らしく、生徒たちに詳しい事情は聞かされていないのだ。真相はまだ明らかにはなっていない。

 まあ、いずれにしても、初回の事件でまったく無関係の俺が勝手に自滅して疑われてくれたのは、犯人からしたらとても都合が良かっただろう。俺が疑われている間は、自分の身に捜査の手が及ぶ可能性はまずないのだから。

 しかし、まさかこんな形で露呈するとは、犯人の高田ですら想像していなかっただろう。もちろん俺も。
 教室にいた誰もが予想だにしなかった展開、そして幕切れだった。

 詳しい内容は知らないが、高田には学校側からそれなりの処分があるらしい。停学とかなのかな。

 特にテレビやネットでニュースになっていないところを見ると、警察には被害届を出さなかったようだ。まあそりゃそうか。学校的にも表沙汰になるとまずいのか、それとも青年の更生を期待して配慮がなされたのか。

 とはいえ窃盗犯の濡れ衣を着せられ、それが原因で学内カーストから追放された俺からすれば、クラスメイトには一切同情の余地がない。一発思いっきりぶん殴らせてほしいくらいだぜ。つーか絶対殴る。いや、やっぱ怖いからやめとく。

「でも……千秋は何であそこまでしてくれたんだ?こっそり写真撮ったり、もし高田に見つかってたらお前が危なかったかもしれないんだぞ」
「ん……まあ、なんとなくね」
「なんとなくって」

 千秋は斜め上に視線を泳がしながら、頬を赤く染めている。なんだコイツ。なるほど、もしかして実はいい奴なのか。

「なんとなくでいーの。もとはといえば、春がクラスに居場所無くなったのは私のせいだから。良心の呵責っていうか」
「……千秋」

 ここ数年は俺のことを「キモイ」としか言わなかった千秋にも、まだ呵責に苛まれるような良心が残っていたんだな……父さん嬉しいです。

「なんつーか、サンキューな」

 俺は照れ隠しに前髪を弄りながら軽く頭を下げた。なんか、改めて言うと恥ずかしいな、これ。

 夏目と同様に、今回は千秋には本当に助けられた。
 もし千秋が証拠を見つけてくれなかったら、俺が再び犯人認定さてもおかしくなかった。そうなれば今後の学生生活は超ハードモードと化していただろうことは想像に難くない。

 千秋は俺のストレートなお礼の言葉に、驚いたように目を丸くしてから、少し満足そうに頷いた。

「ま、夏目さんと付き合うなんて大変だと思うけど、これからはのんびり身の丈に合った生活をすることだね」
「……そのつもりだよ」

 諦めたように嘯く俺の横顔を眺めながら、なぜか千秋は満足そうに笑った。

☆☆☆

「……さて、行くか」

 昼休み。
 以前のような教室での居心地の悪さは無くなったものの、この時間になると俺の足は校舎裏のベンチへと向かっていた。もはやこれは習慣だ。

 あの場所じゃないと、どうも落ち着かない体質になってしまったらしい。まるでパブロフの犬にでもなったようで、我ながら情けない。

 廊下をのんびりと歩く。たったそれだけのことが、ひどく懐かしく思える。

 多少好奇の目を向けられることはあっても、かつてのようにクスクスと嘲笑に晒されたり、後ろ指を指されることはない。まったくもって学園は平和そのものだ。

 俺の悪い噂が光の速さで伝播したように、俺の無実が学校中へ広まるのもあっという間だった。

 もうクラスは俺とはまったく別の話題で盛り上がっている。
 悲劇のヒロインである俺に気を使って――とかそういうわけではなく、単純に新たな犯人の登場や夏目のキャラクターの豹変ぶりへと話題がシフトしただけだろう。

 まあ中には学校一美人なお嬢様の付き合っている相手はどんなもんだ、と俺を品定めしている生徒もいたりしたけど。

 相手が俺のような冴えない男子だという事実を知ったら驚愕すること請け合いだ。ビジュアル面でいえば夏目と釣り合う相手なんてのは、モデルか俳優くらいだもん。

 大衆なんてのはそんなもんだろう。

 騒いでいた連中も、テレビのワイドショーでゴシップ特集を見ているくらいの感覚でしかない。
 みんなセンセーショナルな話題を面白がっていただけで、俺という特定の人間を本気で憎んだり貶めようということではなかったのだ。

 高田の暴走には流石に腹が立ったが、後から騒ぎたてて話をぶり返すのは俺の本意ではない。もうクラスメイト同士でいがみ合いなんてウンザリだ。

 興味を持つのも早ければ、忘却するのもあっという間。
 無実が発覚した後、同情してくれるクラスメイトも中にはいたが、俺はむしろ彼らには申し訳なく感じるくらいだった。

 やはり最初に疑われる原因を作ったのは俺だ。俺が逆の立場だったとしても、庇ったりなんかしなかったと思う。疑ったことを謝ってくれるその気持ちだけで充分だよ、まったく。

 ――しかし。

「うーん」

 真犯人が捕まり、俺の誤解も解けた。
 夏目が公然で交際宣言をしてくれたこと以外、問題はすべて解決したといって良い。文句なんて一つもない。

 すべては平穏な生活に戻った。喉から手が出るほど欲した、いたって静かで平凡な日常。

 そのはずなのに。

 なんだろう、このモヤモヤとした感じ。
 名状し難い不安が、俺の心中で静かな警報を発していた。チクチクとした何かが、胸の辺りに引っかかっている。

 例えるなら、外出先で家の鍵を掛け忘れたんじゃないかと無性に不安になるような、そんな小さな感覚。何かを……忘れてる。

「――ちょっと待てよ」

 夏目との会話を思い返す。
 大勢が居合わせた教室で、己の本音をこれでもかと叫び倒した夏目。

 いや、それも衝撃的だったが、そこじゃない。

 春の生暖かい気温のせいで淀んだ脳内に散らかった、煩雑な記憶を一つずつ整理していく。

 夏目と過ごしたあのデート。お互いの人生初デート。
 映画、カフェ、ゲーセン。二人の足取りを追っていく。うわ、今思うとすげぇ楽しかったな。楽しかったけど。

 二人で並んで歩いた、駅までの帰り道。夕日に染め上げられた歩道。

 夏目の零した言葉。
 俺は校舎裏へと向かう足を止め、一人廊下で立ち尽くした。

「……そうだ」

 思い出した。
 己の愚かさにため息が漏れる。俺はなんてバカヤロウなんだ。なんで、気がつかなかったんだろう。

 夏目はあの時「なぜ演技をしているのかと聞いたことがあった」と言っていた。

 だが、思い出してみろ。俺がその話をしたのはいつだ?

 俺の記憶が確かなら、その話をしたのは夏目と出会ってからすぐのことだった。それ以降は夏目とそんな話は一度もしなかったはずだ。間違いない。

 つまり演技の話は、夏目と俺が事故に遭う前に交わされた会話。
 夏目が記憶をなくす前に。

「……」

 冷や汗がこめかみを伝って音もなく流れる。
 もしかして、夏目はもうすでに。

 まるで忍び寄る影のように、得体の知れない恐怖が身体を支配していく。息が詰まって、溜息すらも出ない。

 まるで何かから逃げるように、その場で静かに回れ右をする。行き先変更だ。行く当てはない。だが、とにかくもうあそこには行けない。

 俺はその日から、校舎裏へ行かなくなった。

☆☆☆

 昼休みの屋上はひどく静かだった。

 この空間に俺以外には誰もいない。
 まるで世界の営みが停止したように景色は動くのを止めて、ただ風が吹く音だけが聞こえる。

 行き先を無くした俺が向かったのは、なんてことのない校舎の屋上だった。

 屋上へは階段を上ってそのまま上がれた。
 屋上へ続く扉には工事中の張り紙が貼ったままだったが、ドアノブを捻ると鍵は空いており、驚くほどすんなりと侵入に成功。やはりこの学校の安全管理意識は甘い。
 生徒としては一抹の不安を感じざるを得ないが、一人になれるベストプレイスを探している身としては有難いことこの上ない。

 聞いた話によると以前事故を起こした業者はクビになり、学校側は他の業務委託先の会社を探している最中らしい。流石に二度目の事故は勘弁して欲しいね。

 どうやら今は工事が一旦中止されているようだ。辺りを見回す。
 人の気配は一切ないが、立ち入り禁止のフェンスなどがまだ残されており、工事途中の跡が散見された。

「よっと」

 俺は屋上の縁を取り囲む、座りやすそうな段差に腰を下ろした。
 少しばかりお尻が冷たいが、座り心地がベンチのような感じでちょうどいい。

「うぉ、すげぇ」

 眼前に広がる景色に、思わず感嘆の息を漏らす。
 ここからだと校庭どころか、街の景色が一望できるな。坂の下に鎮座する我が家の屋根が、まるでミニチュアのように遠く小さく見える。壮大な街の模型を眺めているような気分だぜ。

 不用心なことに、この屋上には周囲を取り囲むようなフェンスはない。いわば俺の座っているこの場所は、外に向かって剥き出しだった。こうして腰掛けている今も、足が空中をプラプラしている。

 落ちようと思えば簡単、一瞬で真っ逆さま。まあそもそも落ちようと思わないけど。
 一歩先は空中という非常にスリリングな光景だが、気をつけていれば問題ない。

「はぁ……」

 ゴロリと後ろに寝転がって、大の字になって綺麗な空を見上げる。
 見渡す限りの晴天だ。これが五月晴れってやつか。
 風もいい具合に吹いていて非常に気持ちが良い。こんな解放感は久しぶりに感じた気がする。

 何も考えず、ずっとこうしていたい気分だ。
 漫然とした気持ちで、穏やかに流れていく雲を観察する。あ、あの雲は羊さんに似てるなー。しかも大きいのと小さいの、親子みたいだ。可愛なー、うふふ。

「何か嫌なことでもあったんですの?」
「うおお⁈」

 ソプラノボイスと共に、繊細な長い髪が視界に揺れる。
 俺は驚きのあまり、思わず飛び跳ねるようにして身体を起こした。

「――夏目」
「うふふ」

 現実逃避中の俺の視界に突如として現れたのは、紛れも無い夏目本人だった。

 あまりの衝撃に心臓が停止するかと思ったぞ。お前は俺を殺す気か。

「ビックリしたぞ……音もなく現れるなよ」

 夏目は手を後ろに組んで、相変わらずの端正な顔でイタズラっぽく微笑んだ。
 たったそれだけのナチュラルな振る舞いが、景色も相まってまるで額縁に収まった絵のように様になる。

「ごめんなさい、足音を消して歩くの、癖なんですの」

 お前はどこの殺し屋一族だよ。そんな同級生嫌すぎる。

「うふふ、アホ面の男が空を見上げながら現実逃避をしていたのが目に入ったから、嘲笑ってあげようと思っていたんですの」

 なぜわざわざ嘲笑う必要がある。
 ビックリするくらい魅力的な笑顔のまま、当然のように毒舌を吐き出してくる。ヒマラヤ山脈とマリアナ海溝くらいの高低差に、俺は思わず耳がキーンとした。

「心の底からほっとけ……っていうかなんだ、その語尾は」
「イメチェンですの。これからは変な語尾の不思議ちゃんキャラでいこうと思うですの」
「絶対友だちなくすからやめとけ!」

 方向性がぶっ飛びすぎている。迷走中の地下アイドルかよ。というか今更イメチェンて。一ヶ月遅いわ。

 ――やれやれ、あれだけ色んなことがあったっていうのに。

 コイツはある意味まったくブレない奴だな。世界の果てまで行ったって変わることはなさそうだ。その精神力の強さは尊敬に値する。

「……なんで夏目がここにいるんだよ」

 俺は段差に座り直して居住まいを正しながら、訝しげに夏目を睨んだ。俺がこの場所にいることは誰も知らないはずだ。

「私がここにいちゃまずいのかしら」

 さり気なく語尾を戻した夏目は、当たり前のように俺の隣に腰を下ろした。相変わらずの不遜な表情。
 風に乗って夏目の石鹸のようなフレグランスがフワッと舞い、心地よく鼻に届いた。

「……べつに悪くないけどよ。もしかして俺を探しに来たのか」

 夏目の方から俺を探しにくるなんて、殊勝な心掛けだ。珍しいこともあるものだ。今日は午後から雨の代わりに槍が降るかもしれない。

「なんでアナタを探さないといけないのそもそも私はここ一週間ほどずっとこの屋上で昼食をとっていたのよ後から来てその態度は少しばかり傲慢じゃなくてほんとにふざけないでちょうだい」
「分かった分かった!」

 そうだったのかよ。知らなかったよ。ごめん。だからそんな早口を繰り出しながら俺を睨まないでくれ。

 ああ。なんだかこんなやりとりに、懐かしさすら覚えてしまう。

「じゃあ質問変えるよ。なんで先週は校舎裏のベンチに来なくなったんだ」
「あら、その質問、そっくりそのままお返しするわ。アナタこそなんで昨日は校舎裏に来なかったの」
「それは……べつに」

 なんとなく、と呟く。なんとなくなワケがない。理由なんて分かっている。

 俺が夏目に顔向け出来なかった理由は、たった一つ。
 言わなければいけないことは、たったの一つ。

「――夏目、俺はお前に言わなきゃいけないことがある」

 俺は静かに決意を固める。どうせ誤魔化しきれるものじゃない。もう遅すぎたくらいだ。ここでもう言ってしまわないと、傷口は広がるばかり。

「言わなくても分かるわ」

 俺は驚いて、隣に腰掛けている夏目の横顔を見た。
 まさか、すでに俺が言わんとしている事を察していたのか。コイツもコイツなりに、この一週間俺のことを考えていてくれたのかもしれない。

 夏目はゆっくりと、まるで聖女のような柔和な微笑みを浮かべた。

「……アナタが脳内で私を触手で陵辱していることに、私が気づいていないとでも?」
「してねぇよ⁈」

 シンプルに自意識過剰だよ。流石の俺もクラスメイトでそこまで妄想を膨らます趣味はない。よりによって触手て。そんなアウトサイダーな性癖は俺は所持していない。

「私を触手プレイで辱めるエロ同人誌をコミケで販売するんでしょ?」
「どんなサークル活動だよ!」

 おそるべき二次創作だ。夏目一族からの訴訟は免れないだろう。てかコミケとかエロ同人誌とか、お前絶対隠れオタクだろ。それも結構コアな感じの。

 いかんいかん、話が逸れまくっている。

「……そんな話じゃねぇよ」

 俺は軽く嘆息して、気を取り直す。
 ひたすら脱線し続ける夏目との楽しいおしゃべりをしていたい気持ちも山々だが、今回ばかりはそうもいかないんだよ。

 俺は深く息を吸って心を落ち着かせて、改めて夏目に身体を向き直す。

「俺はお前に嘘をついてた。本当はお前と俺は付き合ってなかったんだ。記憶を無くしたお前を騙したんだ」

 鉛のように重たい言葉で、真実を告げる。
 自分の吐き出した言葉が、まるで呪詛のように俺の心を縛り上げていく。

 もしかしたら夏目はもう気がついていたのかもしれない。今更懺悔したところで、これは後出しじゃんけんのズルなのかもしれない。

 だが今の俺には謝ることしかできない。

「だから、すまん。せっかくお前は俺のことを庇ってくれたのに、俺は最低な奴だ。すまん」

 俺は深く頭を下げる。

 夏目は沈黙していた。返答はない。
 今コイツがどんな表情をしているのか、俺には分からない。

「……それだけだ。じゃあな。もうお前の前には姿を現さない。迷惑かけてすまなかった」

 冷たいコンクリートの床に手を掛けて、ゆっくりと立ち上がる。
 どんな罵詈雑言を浴びせられても仕方がない。ちっぽけなプライドなんか全てゴミ箱に捨てた。絶縁される覚悟はしている。

 夏目は俺の言葉に何も言わず、ただ無表情なまま俯いていた。
 その大きくつぶらな瞳は、プラプラと宙に浮かぶ爪先をじっと見つめている。

 もう何も言ってくれないだろう。
 俺はクルリと背を向けて、扉に向けて歩き始めた。

 もう夏目と話すこともない。きっと、これが最後だ。
 さよなら。そんな言葉が喉まで出掛かった。

 するといきなり襟元を引っ掴まれた。

「待ちなさい」
「ああああぶねぇ!」

 首元を掴まれた反動で、危うく後ろにひっくり返りそうになる。

 もちろん背後はフェンスのない屋上の縁だ。
 このままひっくり返ったら、あの世への片道切符を手にするハメになってしまうだろう。今回ばかりはマジで死ぬぞ。

「そんな一方的なセリフを吐いて立ち去ろうなんて、都合が良すぎるわ」
「……っ」

 何も言い返すセリフが思いつかない。罵詈雑言ならまだいい。いくらでも怒りをぶつけてくれとさえ思う。

 だが、なにより夏目からの本当の失望のセリフこそ、俺は怖かった。どんな毒舌よりも、グッサリと心を抉られる。

 夏目との時間は、居場所を無くした俺にとっての唯一といっていい、何よりも価値のある時間だった。

 それが、夏目にとってすべて否定すべき過去に変わってしまう。
 それがなにより俺は恐怖だった。

「知ってたわよ。アナタが嘘をついてることくらい。私の目を侮らないでちょうだい」
「……いつくらいから?」
「そうね、アナタとデートした帰り、いえもう少し前から、なんとなくだけど記憶は戻りかけていたのよ」
「……そうだったのか」
「アナタは、なんでそんな嘘をついたのかしら?」

 夏目は溜息まじりに訊いた。至ってシンプルな問いかけ。

 だが俺は答えに窮していた。
 まるでフェルマーの最終定理のように、その短い問題文に答えるための証明材料は、膨大で複雑怪奇に絡み合っている。とにかく感情がごちゃ混ぜで、いくら頭の中を探しても適切な表現が見つからなかった。

「それは……」

 俺の持っていないモノをすべて兼ね備えている、夏目が羨ましかった。嫉妬、羨望。夏目に認められたかった。承認欲求。存在証明。夏目に必要として欲しかった。

 ――なんだそれ。
 いや、そんな建前じゃないだろ、神崎春。

 なあ、もっと答えはシンプルだろ。他でもない、俺が望んだこと。本当に言うべきたった一つは、これだったんだ。

「楽しかったから。お前といるのが。お前との時間がなくなってしまうのが怖かった。繋ぎ止めたかったんだ」
「……それが理由なのね?」

 夏目の鋭い双眸が俺の身体を貫く。俺は無抵抗のままそれを受け入れた。

「あぁ、こんな自分勝手な感情が、お前を騙した理由だ」

 まるで神に懺悔するように、俺はうなだれる。

 神様なら、いかなる罪も許して受け入れてくれるのかもしれない。だが相手は夏目だ。紛れも無い、一人の少女だ。
 暴力的なのに優しくて、無神経なのに繊細で、嘘つきなのに正直者の、ただの特別で平凡な一人の女の子なのだ。

 すべて許してもらえるなんて、あまりにも傲慢な希望。

 僅かばかりの沈黙。風の通り過ぎる音だけが聞こえる。
 夏目の綺麗で長い黒髪は風に弄ばれるように揺れているが、彼女が意に介す様子は微塵もなかった。

「私は怒っているわ、神崎くん」
「……ああ、そうだろうな。俺はお前を騙していたんだから」
「違うわ、そこじゃないの」

 今にも風に掻き消されそうなか細い声。

 俺はハッと顔を上げた。
 そこにはいつもの不遜な表情ではない、まるで泣いているかのような、でも笑っているかのような、不思議な感情を湛えた表情の夏目がいた。

「アナタは迷惑をかけたと言ったわね」
「……言った」
「私が迷惑だったなんて、アナタに一言でも言ったかしら?」

 夏目から飛び出した意外なセリフに、俺は思わず息を呑む。

「で、でも」
「私は、私のことを分かったような口を利かれるのが、一番嫌いなの」

 夏目は俺の言い訳を遮るように、力強くバシリと言い放った。

「楽しかったのは……私の方よ。私こそ、記憶が戻ってからも気がつかないフリをしてたのは、アナタとの時間を終わらせたくなかったから」

 夏目の口から紡がれた言葉。
 どれだけ探しても、そこに嘘や偽りはまるで感じられない。

 それはたしかに、夏目の本音だった。ああ、俺はなんて傲慢だったんだろう。一方的に俺の考えを押し付けて。

 俺は気がつかなかった。夏目がそんなことを思っていてくれたこと。俺との時間を大切にしていてくれたこと。

 文字通り、俺の嘘に付き合ってくれていたということ。

「一つ質問があるわ」

 夏目は縁に手をついて顔を近づけながら、真摯な瞳で俺の目を見つめた。

「私のことが好きなのも、嘘なの?」
「それは……」

 そんなの、決まっている。改めて聞くまでもない。一切の建前や掛け値無しで。ありとあらゆる神に誓う。

「――大好きだ」

 まるで初めから用意されていたかのように言葉が滑り出た。
 初めて心の底から伝える、本当の言葉。本当のことを言うのには、勇気が必要だ。やっと、言えたんだ。

「……嘘じゃない?」
「嘘じゃない。本当だ」

 そうか、そうだったんだ。
 俺はこの毒舌で、腹黒で、嘘つきな夏目のことが。
 誰よりも繊細で、優しくて、正直なこの少女のことが。
 大好きだったんだ。

 ええい、ままよ。言ってしまったものは仕方ない。もうどうにでもなれ。

「大好きだ、夏目」

 目を逸らしたら負けだと言わんばかりに、俺は夏目の潤んだ瞳を見つめ返した。もう逃げるのは飽きたんだ。意地でも逸らさないぞ。どうだこの野郎。

 造形美さえ感じるクッキリとした目鼻立ち。曲線美を描く長い睫毛。艶やかで厚みのある唇。ああ、クソ、やっぱり可愛いなコイツ。まるで悪いところが見当たらないぞ。

「……」

 何故か黙りこくる夏目。

「いや、なんか言えよ」
「……っ」

 ほんのりと蒸気していく表情。
 みるみる夏目の頰が朱色に染まっていく。

 あれ、もしかして、照れてる?夏目さんが照れてらっしゃる?
 おい世界中のみんな!あの夏目がガチで照れてるぞ!

「あ、あらそう。そ、それはまあ当たり前よね。うん、私ほど魅力的な女性はそうはいないもの。アナタみたいなクソ童貞が好きにならないはずはないわ」

 いや、めっちゃ動揺してんじゃん。
 「好きなのも嘘なの?」とか、したり顔で自分から聞いてきたクセに。

 そんなガチなリアクションされたら、こっちまで照れてしまう。俺の顔まで赤くなってきた気がする。

 まったく、こっちだってめちゃくちゃ恥ずかしいんだぞ。寝る前に布団の中で羞恥に悶え苦しむ系のヤツだ、これ。

 だけど、やめない。嘘をついて後から後悔するくらいなら。
 たとえ恥ずかしかろうと、今だけは本音を言ってやるんだ。

「……ああ、そうだな。間違いなく、お前は魅力的だよ」

 俺は半ば呆れながら、笑顔で肯定する。

「間違いないよ。本当に。お前みたいな奴、好きになるなって方が無理だぜ」

 夏目は顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いた。

 普段のつっけんどんな態度は何処へやら、目が太平洋で回遊するマグロのように泳ぎまくっている。相変わらず直球勝負になるとクソ弱いな、この子。

 照れている夏目。正直むちゃくちゃ可愛い。

「と、とにかく! 私はアナタのことを――」

 夏目はそう叫びながら、勢いよく立ち上がる。
 分かりやすい照れ隠しだ。これが世に言うツンデレってやつか。ツンデレとかリアルにいたら痛いだけの奴だと思っていたが、これが存外悪くない。うん、ありだな。

 そんなことを思った瞬間だった。

 夏目は身体のバランスを崩した。
 ふと頭を過ぎる。たった一週間前に、病院に運び込まれるような事故に巻き込まれたのだ。

 カクン、と聞こえた気がした。見ている俺にも、夏目の嫌な感覚が膝から伝わる。これは。屋上の縁で、絶対に感じてはいけない浮遊感。

 手を伸ばす暇もなく、身体は後ろ向きに倒れていく。

「しまっ、た」

 夏目の身体が傾き、大きく揺られる。
 まるで糸の切れたマリオネットのようだった。

 安定を失った夏目が倒れこむその先は、空中。屋上の外側。
 投げ出された夏目の身体を支えるものは、もう何もない。まるで風が彼女を連れ去ろうとしているかのようだった。

 ――くそ。

 俺は気がついたら夏目の後を追っていた。特に何か考えがあったわけじゃない。俺は足を掛け、思いっきり飛んだ。

 自らの意思で空中へ躍り出る。命がけの人生初体験。

 ガムシャラに手を伸ばす。
 夏目のスカートが風に吹かれて大きく膨らむ。もしかしたら下着が見えたかもしれない。だが、この瞬間にそんな呑気なことを考える暇はなかった。

 とにかく飛びついて、空中で抱え込むように夏目を強く抱きしめた。

 夏目の頭は俺の腕にスッポリと収まった。艶やかな髪からとても良い香りがする。まるで特上の抱き枕を抱いているかのように、不思議なくらい心地が良い。空中であることを除けば、最高のシチュエーションだな、これ。

 ああ、身体が落ちていく。
 当たり前のことだ。屋上から落ちたんだから。地球には重力が存在するんだ。俺たちを頭からつま先まで押さえつける、逃れようもない重力が。

 気持ちの悪い浮遊感が全身を包んでいく。だがそれに反するように、腕の中に収まった夏目の身体は、太陽のように安心する温もりを発していた。

 守らないと、夏目を。

 俺は夏目の驚くほど華奢な身体を、一層強く抱きしめた。
 俺はどうなってもいい、とにかく、夏目だけは。この胸に収まった温かみを絶対に失いたくないんだ。

 いや、助けるでしょ。助けるに決まってるよ。
 だって。
 だって夏目、お前はさ。
 俺を。

 こんなどうしようもなく救えない、うそつきの俺を。

 俺を救ってくれたんだから。
 目を覚ますと、俺はクラスの人気者になっていた。

 常に皆の話題の中心であり、誰からも注目される存在。
 挨拶を投げ掛けるだけで女子たちから黄色い歓声が沸き起こり、その一挙手一投足が学校中で注目されている――

「――そんなワケないでしょ」

 閑静な病室に、ポツリと響いた呟き。

「アナタ、寝言で願望がダダ漏れなのよ。気をつけた方がいいわよ」
「――夏目」

 なんだか見覚えのある、眼前に広がるシミ一つない真っ白な天井。
 大きな窓から絵の具を流したように差し込む赤い夕焼け。

 なんだこれ、デジャブか?
 それともこれが死後の世界ってやつなのか?俺は死んだのか?死んだ俺を夏目が迎えに来たって言うのか?

「まだ……夏目とケーキバイキングデートもしてないのに」
「何起き抜けに気持ち悪いセリフを吐いてるのこの変態」

 首を捻って辺りを見回す。
 よく見ると、俺は病室のベッドに横たわっていた。

 ベッドの脇には、制服姿の夏目が退屈そうな表情でパイプ椅子に腰掛けている。まるで親に無理矢理連れてこられて拗ねている子供のようだ。

 滲んだ視界でじっと夏目を見つめる。この不愛想な表情、そして辛辣な毒舌。たしかに本物だ。間違えようがない。

 アクション映画ばりの、屋上からの決死ダイブ。どうやら俺は助かっていたらしい。

「俺は……いたっ」
「まだ動かない方が良いわ。頭を打ったみたいだから」

 上半身を起こそうとすると、痺れるような痛みが頭部へ走る。
 シャツの袖から覗く俺の腕をよく見ると、細かい切り傷がいくもあった。

 やんちゃな少年の生傷のような跡を眺めていると、ふつふつと記憶が蘇ってきた。隣に座る夏目の表情、空中へと反転していく視界。

「……そうだ、夏目お前大丈夫だったのか⁈」
「無理しないでと言っているでしょ。これ以上頭にダメージを負って取り返しがつかないことにはなったらどうするつもり?私はこの通り、かすり傷一つないわ」

 夏目は呆れたように肩をすくめた。
 たしかに夏目の綺麗な顔には傷跡一つなく、つい少し前に屋上から落ちたとは思えないほど様子は落ち着いていた。

「アナタと私が屋上から落ちた場所ね。木の上で枝に引っかかってくれた上に、草むらの中に突っ込んだの。それで大分衝撃が和らいだのよ。だから無事だったみたい」

 本当に悪運が強いんだから、と夏目は半ば自嘲気味に笑った。それは、俺とお前どちらのことを指しているんだ。あるいは、お互い様か。

「そうだったのか……」

 無我夢中で夏目を助けようと、空中に身を投げ出した場面までしか記憶がない。その後はいちおう安全な場所に墜落してくれたらしい。俺の純粋無垢で力強い気持ちが幸運を引き寄せたのかもしれない。うん。神様、マジサンキュー。

 ――まさか屋上からダイブして、この短期間に二度目の病院に運ばれるとは。まだケガがマシなだけでも、不幸中の幸いというべきか。

「……本当にアナタは、無茶苦茶よ。なんで私を庇ったりしたのよ」

 俺だって、自分がとっさにそんな行動を取れるほど、度胸のある人間だなんて知らなかったよ。この年にして、我ながら新たな発見だぜ。若さって凄いねって自分で言っちゃいそうになるレベル。

「――もしかしたら、死んでいたかもしれない」

 夏目は俯いて、消え入るような声を漏らした。そこに普段の勝気な雰囲気はない。

 おいおい、殊勝なことに、夏目なりに俺のことを心配してくれているらしい。目の前の信じ難い光景に、思わず感涙してしまいそうだ。この姿を写真に撮って額縁に収めたいくらいだ。

「そんなこと言われてもな……気がついたらって感じだったから」
「何格好良い感じのセリフを言おうとしてるのウザいし寒いわやめてくれるかしら」
「それが少なくとも助けようとした人間に対する態度か⁈」

 流しかけた涙も一瞬のうちに枯れ果てたわ。別に恩着せがましくするつもりは毛頭ないが、せめて労いの言葉くらいくださいよ。

「……そういえば、最初の事故の時も、アナタは私を突き飛ばして助けようとしたわね」
「あー……そうだっけ」

 まだ少しだけボンヤリしている頭から、少し前の記憶を引っ張り出す。
 言われてみればそうだった気もしないでもない。あまりにイレギュラーな出来事過ぎて逆に記憶がない。

 というか、ずっと記憶喪失していた癖に、妙に物覚えの良い奴め。
 そんな咄嗟の行動、脊髄反射だったからほとんど覚えていないぞ。

「なんでそんなことばっかりするのよ。アナタって、相当のお馬鹿さんね」

 やれやれと首を振って、夏目は呆れたように溜息をついた。感謝されているのか、責められているのか、よく分からないぞ。

「なんでって……」

 俺は俯きがちに視線を下げる夏目の姿を見つめる。

 そのとき、少しだけ開いた窓の隙間から風が吹きこみ、まるで子供のイタズラみたいにカーテンがふわっと舞った。

 ふと、なんとなく思った。
 今こそ、言うべきなのかもしれない。あの日のことを。

 ポツリと言葉が俺の口の端から零れる。

「――多分お前は覚えてないけどさ、実は俺たち入学前に出会ってんだよ」

 突然のセリフに、夏目は眉を顰めて訝し気に俺の顔を見た。このエピソードを夏目にするのは初めてだ。いや人に話すこと自体初めてだな。千秋にすらずっと黙っていたこと。

「……前世的な?」
「ちげぇよ」

 あいにくそんなスピリチュアルな趣味は俺にない。そして運命の相手と入れ替わって隕石から世界を救ってもいない。

「入学式の二週間くらい前だったかな」

 誰にも話していない、俺だけが知っている物語。
 それは本編にもメインテーマにもまるでならないような、スピンオフといって差し支えないくらい小さな出会いだった。

「その頃は……ちょうどこっちに帰ってきたくらいだったかしら」

 夏目が思い出すように首を捻る。
 どうやら本当にその頃のことを覚えてはいないらしい。

「俺は中学の卒業式の帰りだった。俺は、道に荷物をぶちまけて困っている女の子に出会った」

 あの日の光景を思い出す。
 まだ二か月も経っていない、少しだけ前の話。

 緩やかな暖かさと晴天が心地よくて、風に舞って散った桜吹雪が嘘みたいに綺麗だった。
 坂の上から見下ろす街はやけに絵になって、卒業式の感動も相まって俺は柄にもなくエモーショナルな気分で道を歩いていたのだ。容姿は地味なくせに、気分は若手俳優くらいな勢いだったと思う。

 俺が彼女を見つけたのは、そんな月九ドラマのワンシーンみたいな瞬間だった。

「俺は声を掛けて、荷物を拾うのを手伝ったんだよ」

 ひっくり返った大荷物を前にして、見るからに困った様子で『困ったな―困ったなー』って頭抱えながらしゃがみこんでるんだもん。あからさまだもん。

「……それがお前だったんだ」

 うん、今思うとあの頃から夏目節は全開だったんだな。
 そういえば、巨大なスーツケースが転がっていたのを覚えている。まさに夏目が東京からコチラへ帰ってきたそのタイミングだったのだろう、多分。

 夏目は予想通り、いまいちピンと来ない表情でウンウン唸っていた。

「なんだかそんなこともあったような、なかったような……どうしてもその人の顔に靄がかかって思い出せないわ」
「今目の前に大ヒントがあるよ!」

 なぜ本人を目の前にして思い出せない。
 たしかにあの時の俺は、髪型もダサくて、厚底眼鏡をかけた超地味バージョンではあったけども。

「私、一人旅っていうのに憧れてて、あえて車じゃなくて電車を乗り継いで東京から帰ってきたの。その道中で色んな人に媚びを売って助けてもらっていたから……」
「すげぇなお前」

 ある意味最強のバックパッカーだな。歴戦のサーファー並みに世渡りが上手い。

 そういえば、声を掛けて荷物拾ってる時もほとんど俺が拾ってた気がする!俺はあの時すでに夏目の術中にはまっていたのか。今更判明した新事実!

「と、とにかくそのときにさ、お前が落としてた雑誌を拾い上げたんだよ」

 偶然の出会いの末に、俺がアスファルトから拾い上げたその雑誌。
 最近発売されたばかりの、春物特集が組まれたよくあるティーン向けの内容だった。

 その表紙に、踊るようにデカデカと書かれていた文字。

『高校デビュー』

 間違いない。
 あのとき、俺の人生に風が吹いた瞬間だった。

 夏目は二言三言交わした後、俺にその雑誌を押し付けるように渡して華麗に去っていった。俺はただ呆然と、その後姿を眺めていた。

「まあ、そんなやりとりがキッカケで、俺は高校デビューしようと決めたってわけだ」

 あの眩しいくらいにキラキラした女の子に出会った後、俺は地味な生活を脱却し、猛烈に自分を変えてみたくなったんだ。
 良くも悪くも、あのたった数秒のやり取りで、大きく人生のコース変更を余儀なくされたってわけ。

 話を聞き終わると、夏目は納得したように大きく首肯した。

「……ふむ、アナタが実は陰湿なストーカーだったということは分かったわ」
「やめてよ」

 誤解を招く表現は控えてくれ。高校デビューを志したキッカケではあったけど、べつにそのまま夏目を追いかけてこの高校に入ったわけじゃないんだから。

 入学式の答辞でコイツの姿を見つけたときは目玉が飛び出そうになった。マジで奇跡ってあるんだなって思ったもん。

 夏目は再び呆れたように大袈裟な溜息をついて、唇を小鳥のように尖らせた。

「……はあ。だったらなおさら、結局なんでアナタは私を助けるようなことをするのよ。もしその偶然の出会いを恩義に感じているなら、とんだお門違いよ。私にはなんら他意はなかったんだから」
「なんでって……それは」

 俺は夏目の言葉を遮るように、小さく笑った。
 なぜ俺はいつまでも夏目を追いかけて、なんとか手を伸ばそうとしてしまうのか。

 その質問に対する答えは分かっているんだよ。テストにしたって出来の悪い、簡単すぎる問題だ。恩義でもない、偶然でもない。

「それは?」
「夏目のことが好きだから」

 夏目は驚いたようにハッと顔を上げた。
 そしてみるみるうちに、その表情は蒸気したように朱色が刺していく。
 拗ねたように口を尖がらせるその仕草がやけに幼く見えて、まるで子供のようだ。ふふふ、やってやったぜ。普段嫌というほど振り回されている逆襲だ。

「バカ……あほ」
「お前はガキか」
「生ごみ、クソボケ」
「女子高生が使って良い言葉の汚さのレベル超えてるぞ」

 語彙力が小学生だ。それも口が悪いタイプのヤツ。

 まったく。
 普段は演説家のように滔々と喋り倒すくせに、直球で責めるととすぐタジタジになる。もう夏目のこともだいぶ分かってきたみたいだ、俺も。

 もっともっと、知りたいと思う。
 目の前で顔を赤らめているこの少女のことを。
 俺は病室にゆっくりと流れる暖かい空気を感じながら、夏目と過ごした時間を思い返す。

 青すぎるくらいの春に、俺は夏目と出会った。
 変態扱いされたり、事故に遭ったり、不慣れなデートを決行したり、教室のど真ん中で叫び倒したり、屋上から落ちたり。

 残念すぎるぜ、俺たちの高校生活。まさに七転八倒って感じ。次から次へ、よくもまあこんなトラブル続きになるもんだと逆に感心する。

 涙が出そうなくらいにダサいことばかりだ。青春小説にしたって出来が悪い。

 下手くそで、不器用で、一生懸命な。そんなたくさんの出来事も、今では愛おしくさえ思える。

 だってさ、夏目に出会えたんだから。

 もし出会っていなかったら。
 もし本性を知らずにすれ違っていたら。
 もし本音を吐き出さなかったら。
 そんな世界はもう想像できないくらい、夏目の存在は俺の中で大きくなってしまった。

 こうして二人で見つめ合っている。そんなことが、何より価値のあることに思えるんだから。

 これだけは嘘じゃない。すべてが真実の。

 うそつきで、情けない、二人だけの物語だから。

「良かったら、聞かせてくれ。お前の答えをさ」

 俺はあえて堂々とした素振りで、夏目の顔を正面から見つめる。

 うわー何格好つけっちゃてるんだよ、俺。内心はめちゃくちゃ恥ずかしいぞ。心臓が飛び出しそうなほど震えている。多分緊張で変な顔になっているな。

 俺の緊張を知ってか知らずか、夏目は口先を尖らせて、ツンとそっぽを向いた。
 普段の垢抜けた雰囲気とは真逆の、まるで素直になれない子供のようで笑える。

「あら、私はアナタなんて、心の底から、大大大、大嫌いなんだからっ」

 そう口にした夏目の頰は真っ赤に染まって、まるでリンゴのようだった。それは多分、窓から差し込む夕焼けのせいだけじゃない。

 俺は思わず喉を鳴らす。込み上げてくる笑いを抑えることが出来なかった。

 本当に、ホントに、彼女は。

 ――夏目七緒は、嘘つきだ。

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