柚子さんに別れの挨拶をして、『喫茶店 邂逅』を後にした俺たちは、俺の提案でゲームセンターへ寄ることになった。

 このゲーセンは規模こそそこまで大きくはないが、その外装の派手さから駅前の繁華街の中でも一際大きな存在感を放っている。
 様々な機体が発するゲームの効果音が入り混じり、店内は高架下のような喧しさだ。目が眩むほどの蛍光色がそこら中で交錯しており、その中では比較的若い年齢層の人たちが思い思いにゲームに興じている。

 ここも中学時代によく寄った場所だ。改めて今日のデートコースを思い返してみると、俺的には目新しさはゼロだな。

 しかし夏目とはどこも初めて一緒に行く場所なわけなので、まあ構わないだろう。

「……うるさいわね」

 ゲーセンのフロア中に響き渡るガチャガチャとした騒音に、両耳を塞いで不快そうな表情を浮かべる夏目。

 俺は一瞬場所のチョイスを失敗したかと思ったが、しばらくすると騒音にも慣れてきたようで、夏目は辺りを物珍しげに見回し始めた。

「あ、あれはなに?なんでコインが沢山箱の中に入っているの?」
「あー、あれは専用のコインを弾みたいに落として、数を増やしていくゲームだ」
「ちょっと見なさい!透明なゲージの中にモフモフしたものが押し込められてるわ。見世物小屋かしら?」
「そんな物騒なものじゃねーよ!あれはUFOキャッチャーだな」

 発想がフリークスだ。目をキラキラさせながらブラックなことを言うのはやめてくれ。

 矢継ぎ早にあちこちを指さして、疑問を口にする夏目。まるで親を質問攻めする幼稚園の子供のようだ。どうやら夏目は初めてゲーセンに来たらしい。

 この年齢でUFOキャッチャーすら知らないとは、相当な箱入り娘だ。夏目の実家が超がつく名家であることを考えれば得心がいくけど。おそらく昔から俗世的な遊びに興じる機会などほとんどなかったのだろう。

「お前ってさ、ゲームとかするの?」
「ほとんどないわ。親が厳しかったから」

 俺の質問に答えながら、面倒くさそうに肩に掛かる長い髪をかき上げる。

 学校での夏目のハイスペックぶりを見ていると、幼少期から習い事や勉強に労力を費やしていたであろうことは想像に難くない。きっと教育熱心な厳しい家庭環境で育ったに違いない。

「でも唯一、家にインターネットだけはあったの。だからゲームやアニメは情報としてはちょっとだけ知ってるわ」
「ああ、なるほど」

 どうりで漫画やゲームなんかの妙にオタクっぽい知識を持っていると思った。男兄弟でもいるのかと思ってたけど、ネットの影響だったのか。

「そういえば、トランプだったら分かるわ。コンピューター相手に一人でやっていたから」
「お前意外と寂しい奴だったんだな……」

 ソリティアやマインスイーパーをCPU相手に必死でカチカチやっている夏目の姿を想像したら、ちょっと涙が出そうになった。あまり知りたくない過去だ。

「一番好きだったのはポーカーね」
「ギャンブラーだな」

 よく知らないけど、ポーカーといったらそんなイメージ。でも夏目の傍若無人な振る舞いから、ギャンブラーな雰囲気は意外としっくりきそう。

「あなたはポーカーやらないの?」
「そんなオシャレなトランプはやったことねーよ」

 ババ抜きとか、七並べとか、そういう平和な奴が超楽しい。

「そういえば、クラスのイケてる奴らがポーカーで負けたら俺たちオタクグループに話しかけるっていう罰ゲームをやってたな」
「……さり気なく悲しいエピソードを放り込んでこないで」

 哀れみを含んだ瞳で俺を見つめる夏目。いや、そこは笑ってよ。引かれると逆に辛いよ?

「まあ、ルールもよくわからんレベルってことだ」
「あら、そう。ポーカーは簡単に言うとね、山札から手札を引いて、役を揃えてその強さを競うゲームなの」
「ああ、なるほど」

 細かいことは分からないが、言われてみればなんとなくそのイメージなら湧く。決められた役を目指して、狙った手札を引きに行く。麻雀みたいなものか。多分違うけど。

「たとえば、ポーカーではね、エースが強いのよ。上の番号にも下の番号にも繋げられる便利な番号なの」

 ほう、エースは役が揃え易いカードってことか。大富豪でいうジョーカーみたいな。

「ふーん、八方美人つーか、器用なカードなんだな」
「まあ、そんな感じね。だからエースがあれば強い役が作りやすいのよ」
「なんか……お前みたいだな。器用に立ち回って、強い役を作る」

 そして周囲を掌握し、クラスを支配する。別の意味でエースって感じだ。恐ろしい。

「それは褒めてるのかしら?セクハラで訴えるわよ」
「だからどこがセクハラだ!なんとなく思っただけだっつーの」

 ひどい言いがかりだ。痴漢冤罪並みに救いがないぞ、それ。

「――私はそんな器用なカードにはなれないわよ。ただ、持っているフリをしているだけなの」

 夏目はガラス張りのショーケースを眺めながら、ゆっくりと深い溜息をついた。

 ……夏目らしくないな。
 持っているフリなんてしなくても。勉学優秀、運動神経抜群、そして絶世の容姿。どれをとってもよりどりみどりだろ。揃える役も選び放題。なんでもいいからその才能を一つ分けてくれ、マジで。

「持っているフリをするのが、ポーカーで勝つ方法だから」

 そういえば、ポーカーはいかに自分の手札を強くみせて、相手を諦めさせたり勝負に引きずり出させるか、その駆け引きが重要なんだと聞いたことがある。
 相手を騙す、それがゲームの醍醐味だと。

「……相手のカードは、見えないもんだからな」
「そうよ。だから、配られたカードで戦うしかないのよ。たとえそれが、エース抜きだとしてもね」

 雨水を溜めたような、潤んだ瞳で俯く夏目。
 その表情は、何故か不思議なくらいに切なく映っていた。

 こいつの配られたカードなんて、考えるまでもなくそのままロイヤルストレートフラッシュが決まるくらい、飛びぬけてチートなはずだろう。悩むまでもない、くらいに。

 俺は突然流れた気まずい沈黙に居てもたってもいられなくなり、慌ててUFOキャッチャーの筐体を指さした。

「ほらこれ!やったことないんだろ?やってみるか」

 夏目は俺の話題転換に驚いたように顔を上げて、UFOキャッチャーの筐体に視線を移す。

「べ、べつにいいけど」
「よし、じゃあやろう!」

 二人並んでUFOキャッチャーの前に立ち止まる。
 透明なケースの中には、最近流行りのアニメに登場するキャラクターを模したぬいぐるみが所狭しと並べられていた。

 夏目はゲームなんて面倒くさがるかと思ったが、いざ機体を目の前にしたその表情は満更でもなさそうだ。意外と好奇心旺盛な性分らしい。

「これは一体どういう操作方法なの?神崎くん、丁寧且つ迅速に私に教えなさい」
「へいへい、不肖ながら見本をやらせていただきますよ」

 そう嘯きながらも、実は俺には確固たる自信があった。
 何を隠そうUFOキャッチャーは俺の得意なゲームに他ならない。中学時代はUFOキャッチャーのプレイのみで一日費やしたくらいだ。かなりコアなプレイヤーであると自称しても掛け値がない。

 俺は財布から百円硬貨を取りだして、チャリンと投入する。
 手の平サイズのボタンを押すと、ケース内に吊り下げられたアームが陽気なBGMと共に動き始めた。

「わ、動いたわ」
「これを操作してケース内の景品を獲るんだよ」
「このぬいぐるみたちは捕らえられるのをただただ待っているだけなのね……まるで家畜、いや思考することを忘れた現代人へのメタファーかしら」
「そこまで深い意味はねぇよ」

 コアなファンの俺が言うのもなんだけど、UFOキャッチャーごときにそんな哲学的要素はない。単なるキャトルミューティレーションだ。

 俺は手元のボタンを操作して、事前に目をつけていた標的の上でアームを一旦止める。

 狙いは虎柄のパンツを履いた、可愛らしい三頭身のクマである『オニクマくん』だ。よく見ると頭には鬼の角がチョコンと生えている。

 オニクマ君は最近テレビコマーシャルなどによく登場しており、子供を中心に大人気のキャラクター……らしいが詳しくは知らない。

「ねえ、その角度で大丈夫?もうちょっと手前じゃないかしら?これでいけるの?」
「集中したいから静かにしてくれ!」

 後ろでいちいち騒がないで欲しい。人が運転してるのを助手席でアレコレ指示したがるタイプか、お前は。

「よし……おりゃ!」

 タイミングよくボタンを叩く。するとアームが下降し、上手い具合にぬいぐるみのタグに引っかかってくれた。そのままアームを引き上げ、取り出し口の穴まで運ばれる。

 ガコンと音を立ててぬいぐるみが落ちて、取り出し口へと姿を現す。一発目で獲れるとは、俺のゲームスキルもまだ錆びてはいなかったようだ。少し嬉しい。

「すごっ……くはないけど、アナタにしてはまあまあな働きね」
「そりゃどーも」

 さっきまで子供みたいに騒いでいたくせに。

「ほら、やるよ」

 せっかくだ。取りだしたクマのぬいぐるみを、俺の背後で食い入るように観戦していた夏目にポンと手渡した。

 自分で取っておいてなんだが、こんな可愛らしいぬいぐるみを愛でる趣味は俺にはない。むさ苦しい男子高校生に所有されるよりも、見た目だけなら綺麗な女子高生の手に渡った方がコイツも本望だろう。

 夏目はしばらくオニクマくんを眺めた後、少し顔を赤らめてギュッと抱きしめた。

「ま、まあ、せっかくだし貰ってあげないこともないわ」

 夏目のそれなりに豊満な胸に抱かれて、窮屈そうに表情を歪めるオニクマくん。正直羨ましい。頼んだら代わってくれないだろうか。

「お前もやってみれば?」
「そうね、たまには庶民の遊びに興じるのもいいかしら」

 夏目は満更でもなさそうな表情を浮かべて、財布から小銭を取り出した。俺のプレイを間近に見て気が乗ったらしい。

 まずは一発目。
 慣れない操作のためか、目測を見誤った夏目は大きく狙いを外し、アームは掠りもせずに何もない空を切った。

「……惜しいわね」
「掠ってもないぞ」

 まるで見当違いのところだったぞ。まあUFOキャッチャーは見た目以上に難易度が高いゲームなので、初心者なら仕方ないが。

 俺のツッコミにも一切反応せずに、夏目は二発目の硬貨を投入する。獲物を狙うハンターの目で、食い入るようにゲージを睨んでいる。ゲームとはいえかなり集中しているようだ。

「あっ……」

 またもや失敗。
 今度はボタンを押すタイミングが若干遅かった。

 夏目は迷うことなくすぐさま三発目を投入する。
 いくら一回一回は大した金額ではないとはいえ、のっけから物凄いペースの速さだ。

「お、おい、少しは考えてやった方がいいんじゃ」

 チャリン。
 言ってる傍から、すかさず次の硬貨をエントリーする。どうやら俺が目を逸らした一瞬の隙にもう失敗したらしい。ワンゲームがあっという間だ。

「……」

 チャリン、チャリン、と無言で次々ゲームをコンテニューしていく夏目。しかしアームは空を切るばかりで、一向に景品をゲットできそうな様子はない。

 何か、空気が重たくなってきた気が……。
 あんなに上機嫌だったのに、夏目は先ほどから一切声を発していない。辺りは喧騒に包まれているはずだが、やけに静かに感じる。

「あ、あのー、夏目さん?」

 声を掛けてみるが、もちろん返答はない。ただ手元のみが業務的に硬貨投入口とボタンを行き来しており、哀れなロボットのようだ。

 あれ、よく見たら百円玉が投入口の近くに積んである。
 それゲーセンの中でも、かなりコアなプレイヤーがやるやつなんですけど。初心者のレベルじゃないんですけど。

 おそるおそる背後から夏目の顔を覗き込んでみると、明らかに目が血走っていた。手も中毒者のようにプルプルと震えており、焦点が定まっていない。

 ちょ、ちょっと待って。ヤバい。口元から「ふしゅー」とか謎の吐息が漏れちゃっている。

 ふと気がついて辺りを見回すと、その豪気なプレイスタイルを珍しがった他の一般客がケースの周囲に集まり、ちょっとした見世物のようになっていた。
なにこの少年漫画みたいな展開。

「や、やべえ……」

 取り囲む観客の上げる歓声を聞きながら、夏目の新たな一面を見た気がする、と思った。

☆☆☆

「ま、まあ元気出せよ」
「……私ってセンスがないのかしら」
「初めてなんだからあんなもんだよ」
「……」

 黙ってオニクマ君の頬をムニムニと引っ張る夏目。やめろ、可哀想だろ。

 結局、夏目は五千円近くをUFOキャッチャーに費やしたが、ついぞ景品をゲットすることは叶わなかった。

 プレイも後半の方になると、哀れに思った店員さんがぬいぐるみなどの景品を取りやすいポジションに動かそうと提案してくれたのだが、夏目はそのご好意をにべもなく拒否した。

 負けず嫌いな性分のわりに、ゲームセンスは皆無らしい。一番厄介なタイプだな……。

「お前って、完璧なイメージがあったけど、意外と苦手なものもあるんだな」

 あらゆる点において夏目の後塵を拝する立場である俺だが、少なくともゲームセンスでは勝っていたわけだ。だからどうってわけではないが。

 そういえば、初めて会ったときもコイツが虫に怯えて暴れたのが、その本性に気づいたキッカケだったんだっけ。
 あの時の暴れっぷりは恐怖でしかなかったけど、今思うと幼い子供みたいで可愛らしいもんだ。

「――べつに、完璧なんかじゃないわ」

 夏目は俯きがちに、消え入りそうな声で呟いた。
 あれ、今までならここぞとばかりにムキになって反論するはずのに。揶揄うつもりで言ったのだが、いつもの威勢の良い態度とは違った反応に、俺は少し戸惑った。

「――アナタ、私にどうして演技をしているかって聞いたことがあったわね」

 夏目は迷うように目線を動かした後、またポツリと言葉を漏らした。
 その言葉には覇気がなく、まるで他人のようだ。

「……そうだっけ」
「そうなのよ」

 念を押すように頷く夏目。

「それがなんだよ」
「喫茶店で東京の私立に通っていたって、私言ったでしょ。本当はね、そこでは演技なんてしていなかったの。学校でお嬢様ぶるようになったのは、高校に上がってから」
「……」

 意外な事実に、思わず唾を飲み込む。
 夏目は俺の驚いた表情を見て、クスッと可笑しそうに笑った。

「あの頃は言いたいことを言って、やりたいように行動していたわ。そしたら、何故か周りの人間に敬遠されるようになってね」
「まあ……想像に難くないな」

 それに関しては予想通り過ぎるくらいだ。夏目の暴言が届く範囲で心穏やかにいられる奴なんてのは、仏かキリストくらいだろう。

「それでも周りとは折り合いをつけてやっていたつもりだったわ。本気で他人が嫌がるようなことは流石に控えていたし、それなりに楽しかった」

 俺は黙って話を聞きながら、中学時代の夏目を想像する。
 わざわざ地元を離れてまで通っていたのだ。いわゆる名門とか、お嬢様学校って呼ばれる私立だろう。そこで今とは違いお嬢様を演じていない夏目。うーむどうもイメージしづらい。

「でもね、三年生の時、イジメの事件が起きたの。クラスメイトの大人しい子が、物を隠されたり、じつは陰湿なイジメを受けていたらしくて。それが問題になった。その子は自己主張が苦手な子だったから、表沙汰にしたくなかったらしくて、何も言わずに別の街へ引っ越してしまったわ。結局は学校側も生徒側も、それを大きな問題にせずただ黙認する形になったの。名門の私立だったし、エスカレーター式とはいえ生徒によっては外部受験も控えた時期だったから、みんな神経質になっていたのね」

 ありそうな話だ。学校という閉鎖されたコミュニティでは、目立たない形でのイジメが常態化しやすい。それはどの年代、どの場所でも共通することだろう。私立も金持ちも関係ない。往々にして、弱い立場の人間が犠牲になる。

 夏目は少し間を置いて、再び話し始めた。

「そして犯人に、素行が悪かった私が疑われたの。もちろん夏目財閥の娘である私をおおっぴらに非難する人なんていなかったわ。でも、明らかに周りの人たちは私を敬遠するようになって、離れていった。教師も、クラスメイトも、みんな。今まで仲が良いと思っていた連中も、きっと私を夏目家だからってチヤホヤしていただけなのよ。誰も私のことを信じなかった。だんだんと、教室に私の居場所はなくなっていった」
「……そんな」

 夏目はまるで他人の人生を俯瞰で語るように、淡々と言葉を紡いでいた。

「いざってときに助けてくれない。そんなの、友達とは呼べないわ」

 重たく冷たい深海を揺蕩うような、憂いを湛えた横顔。
 その表情からは少しの諦観と、悲哀を帯びた覚悟のようなものが感じられた。

「私はね、抵抗しようと思えばいくらでもできたわ。私を犯人扱いした学校側を追い詰めることも、真犯人を見つけ出すことだって、夏目家の力を使えば簡単なことよ。でも、そうじゃなくて、誰かが私を信じてくれると思っていたの。きっと私に代わって、無実を訴えてくれる仲間がいるって。でも、誰も私を庇おうとはしなかった。仲が良いと思っていた子たちでさえ、腫れ物に触るみたいに、みんなただ遠巻きに眺めていただけ。そのとき、思ったの。私は、本当は誰にも必要とされてなんていなかったって」

 俺は何も言わなかった。いや、言えなかった。この状況で掛けるべき言葉を俺は知らなかった。

 夏目が初めて語る、自分の心の内側。他人が、気安い言葉で、容易く踏み込んでいい領域じゃない。

「私はもう、ここには居られないと思ったわ。その状況に耐えられなかったの。だからエスカレーター式の進学を蹴って、地元に帰ってきた。ここではもう間違えない。周りに信じてもらえるように、周りが私を必要としてくれるように。信頼を勝ち取るために、良い子の仮面を被って、みんなを騙すことに決めた」

 そんなのは。
 見事に矛盾した、二律背反。
 信じてもらうために、騙す。

 完璧に見えたお嬢様の、悲しい覚悟だった。

「おかしいわよね。アナタの話を病室で初めて聞いたとき、まるでもう一人の自分と出会ったのかと思ったわ。あるいは、私の未来かも」

 夏目は自分の言葉に、また可笑しそうに微笑した。
 俺は笑わなかった。笑えなかった。

「お前と俺は、違うよ。俺はただ目立ちたかっただけ、なんだから」

 夏目が俺に共通点を求めるなんて、お門違いな話だ。

 裏切った人間と、裏切られた人間。
 信じなかった人間と、信じたかった人間。

 スタート地点が違いすぎる。
 そしておそらく、ゴールも。

「でも、まさか事故で記憶を失くすなんてね。それに……」
「それに?」
「――いえ、なんでもないわ」

 俺はなんとなく、夏目が濁したセリフの先が分かった気がした。
 でも、それ以上言及することは出来なかった。

 言葉を飲み込み、黙って歩道を歩き続ける。
 街並みは寂し気な夕日に照らされて、顔も知らない沢山の人々がこぞって帰途に着いていた。もう、今日という一日が終わりかけていることを知らせている。

「ねぇ、私のしていることって……正しいのかしら?最近、分からなくなってきたの。記憶をなくす前の私も、こんなことを思っていたのかしら?」
「そんな話……初めて聞いたよ」

 俺はそんな無難なセリフを口にするのが精一杯で、誤魔化すように目を逸らした。

 言わなきゃいけない。
 夏目、俺は、お前に。
 最低の嘘を。

「――ごめんなさい、今言ったことは忘れて。今日は楽しかったわ」

 ふと顔を上げる。
 黙々と歩いていたので気が付かなかったが、俺たちはすでに駅に到着していた。

 何も言えずに、人混みの中を立ち止まる。
 俺の沈黙をどう受け取ったのか、夏目はいつもの仏頂面に表情を戻していた。

 目の前に佇んでいる華奢な少女。
 その驚くくらいの儚さに、夏目が春の温かい風に吹かれて、今にも消えてしまうのではないかと俺は不安になった。

「じゃあ、また明日、学校で」

 夏目は小さく手を振って、俺とは反対方向の駅のホームに向かって歩き始めた。
 こうして俺と夏目の初デートは、幕を下ろしたのだった。

 次の日から、夏目は校舎裏に来なかった。