日曜日。
俺は夏目から一方的に取りつけられた約束を順守すべく、ブラック企業に長年勤めるサラリーマンが如く電車に揺られていた。
待ち合わせ場所である、駅前に燦然とそびえる時計塔へと足を運ぶ。この駅は市内じゃ一番開発されていて、周辺には様々な商業施設が立ち並んでいる。
昔からお出かけといったらこの辺りを利用していたが、ここに来るのも中学卒業以来と考えると地味に久しぶりだ。
休日という条件も手伝って、駅前はライブ会場のようにひどく混み合っていた。特に待ち合わせの目印によく利用される時計塔のお膝元は人々が群がり、異常なまでの人口密度を観測している。
辺りにたむろする人々の顔を見渡す。しかしその中に夏目の姿は確認できない。
「夏目は……まだか」
時計は集合時間の二十分前を指していた。少し早めに着いてしまったようだ。
もし一秒でも俺が遅れようものならば、夏目から古今東西多種多様に及ぶ罵詈雑言が、頭のテッペンから足のつま先まで隈なく浴びせられること間違いなしだ。せっかくの休日に、心無い毒舌による精神的負傷を負うわけにはいかない。
「――ふう」
ひとまず深呼吸。
俺は表情筋を巧みにコントロールする技術を駆使することで一見平静を装いながらも、その内心は眼前に迫った夏目とのデートに対してかなりの緊張状態だった。
異性とデートなんて、人生初めての経験だ。しかも、学園ナンバーワン美少女の夏目七緒だぞ。
そういえば、今まで何度か妹のショッピングの荷物持ち要因として駆り出されることはあった。しかし身内は異性との外出という点においては、例外的存在だろう。デート経験にはノーカン。
普通、女子高生との初デートと聞かれれば、ハーブミントのごとく鮮やかで爽快なイメージを皆さん思い浮かべることだろう。少女漫画を愛読する俺としても『青春ど真ん中、胸がときめくドキドキ展開!』なんて妄想を禁じ得ない。
しかしそんな持て余す純情も、毒舌女の夏目の前では一輪の花びらとなって儚く散ることは予想に難くない。一体どんな目に合わせられるか分かったものじゃないぜ。
『あーん』と称して駐車場の砂利を口に詰め込まれたり、季節外れの花を採取してこいと崖から蹴落とされるなんて可能性も決してゼロではないのだ。ちなみにこの街に崖は存在しない。
「――そういえば、誰かに見られたら、どうしようかな」
夏目を崇拝に近いレベルで信奉している連中は多い。特に男子。そんな奴らにお忍びデートを発見された暁には、たちまちフーリガンと化した男どもに袋叩きに遭い、俺は撲殺されてしまうかもしれない。
……そう考えると、夏目はどういうつもりなんだろう。
普段は演技しているくせに、自分からデートに誘うなんて。変態嘘つきなんかと二人で歩いていたことを学校の連中にバレたらどうするんだ?
分からん、アイツの考えていることが。人間観察には自信があったんだけどな……。
ポンポン。
どう転んでもこれから迫りくるだろう恐怖に身を縮め、プルプルと震えながら立ち尽くしていると、背後から軽快に肩を叩かれた。
「へーんたい☆」
「うるせぇよ」
そんな軽快な声で『まーきの』みたいに来られても反応に困る。ちなみに俺はドラマよりも原作漫画派。
こんなお茶目さんなことをしてくれる人間は、俺の知る限り一人しかいない。
「ちゃんと私より早く来てたのは、及第点ね」
ふふふ、と悪だくみを図る悪女のように静かな微笑みを零す。振り返ると夏目が立っていた。
当たり前だが、私服だった。
丈の長いホワイトワンピースを身に纏い、その上に暖色のカーディガンを羽織っている。暖かい春にお似合いの落ち着いた配色のコーディネイトで統一されており、見る者に上品な雰囲気を感じさせる。
シンプルだが垢抜けていて、まるでファッション雑誌のスナップ撮影をそのまま抜けだしてきたみたいだ。
……可愛いな、くそ。
いつもの制服姿とは少し違った大人っぽい印象に、また改めて夏目の容姿がいかに魅力的なのか気づかされる。ほら、まるで芸能人が街中に現れたみたいに、周りの人たちがちょっとざわついてるぞ。天性の人気者め。
「待ったかしら?」
「……今来たところだよ」
俺は諦めたように、手垢塗れのセリフを零した。総走行距離三十万キロメートルを超える中古車ぐらい使い古された返しだろう。だがこれが今の俺が返せるセリフの限界だ。我ながらダサい。
「まず私の私服を見て、何か言うことはないのかしら」
小洒落た革のバッグを持ちながら、腰に手を当ててファッションショーのモデルのようにポーズを取る夏目。
そんなありふれた振る舞いも、容姿端麗なコイツがやると本物さながらに様になる。足元のアスファルトがレッドカーペットに見えてきたぞ。
「……まあ、可愛いな、うん」
気のきいたセリフも特に思い浮かばず、シンプルに褒める。こういうところがダメなんだよな、俺。ホストクラブにでも行って女性を口説く修行しようかな。
「神崎くん、『死ぬほど』という修飾が抜けてるわよ」
「……」
当たり前といった表情で、自信満々な物言いをする夏目。
うむ、コイツの美しさは見た者の生命を強奪してしまうほどらしい。この場に辿り着くまでに恐らく百余名の尊い人命を天へと昇華してきたことだろう。国家レベルで危惧すべき現代のテロリズムだ。
「アナタもちゃんとオシャレしてきたかしら?私と並んで歩くという国民栄誉賞並みの光栄に与れるんだから、ね」
パチリとウィンクする夏目。その睫毛の隙間からいくばくかの流星が零れ落ちたような気がするが、おそらく気のせいだろう。
なんか、学校で見るよりも明らかにテンションが高くないですか、夏目さん。休日にお出かけともなると些かの浮つきは禁じ得ないらしい。
「俺だってそれなりの格好で来たつもりだぜ。このジャケットとか結構高かったんだから」
俺は自らのコーディネイトに目をやりながら弁明する。
自己研鑚及びリア充化計画の一環として、ファッションについてはかなり研究を重ねたのだ。
「そうね、とっても素敵なジャケットね。とっても格好良いジャケットだわ。いやーとてもイケてるわ、そのジャケット」
「着てるのは俺だからね⁉」
なにそのジャケットが主役みたいな言い方。服を褒め倒すことが転じて本人への罵倒へ繋がるという稀有な例を経験したぞ。
「……とりあえず、どこに行くつもりだよ」
俺の問いかけに、夏目は小首を傾げて微笑んだ。
「まずは私の考えたプランから行きましょう。ちゃんとアナタも考えてきたんでしょうね」
「まあ……一応は」
夏目の微笑みの中に隠れた鋭い眼光に竦みながら、俺はむにゃむにゃと頷いた。
そう、夏目との約束で、お互いがそれぞれのデートのプランを持ち合わせて、一日過ごそうという計画になっていた。
「じゃあ、行きましょうか」
夏目はそう言うが否やクルリと踵を返して、人の出入りが激しい大通りへ続く駅の出口に向かって足早に歩み始めた。
「ちょっと待ってくれよ」
俺は置いていかれた子供のように、慌てて夏目の隣に駆け寄った。なんとか追い付いて、人混みを避けるように並んで歩く。
「あら、時間は誰にも待ってくれないわよ」
「いや、少なくともお前は待てよ」
偉人の名言みたいなこと言ってるけど、使うタイミング違うから、それ。時もかけないからね。
「だから、どこ行くんだよ」
「決まってるでしょ?」
夏目は大股で歩を進めながら、微かに胸を張って微笑んだ。
「映画に、行きます」
☆☆☆
俺が夏目と仲良く肩を並べて鑑賞した映画は、突然変異によりザリガニ人間と化した主人公が化け物と認定され人間界を追われるが、マッドサイエンティストの実験によって暴走した合成犬人間と対峙し、激闘の末辛くも勝利を収め世界に平和をもたらすヒーローになり大団円という、イマイチしっくりこない内容だった。
そもそもなんだよザリガニ人間って。ニーズがニッチすぎるぞ。色物にもほどがある。
といいつつも、ストーリーは意外と良い感じだった。
優しい心を持つ主人公が醜い姿故に街の人々から迫害を受けるシーンは、俺の置かれた状況と重なるものがあり、思わず劇場内で「南無三!」と絶叫したくなるほどに心を揺り動かされた。
「いやー、最高ね」
映画館を出た後、夏目は満足そうな微笑みを浮かべていた。どうやらザリガニ人間は夏目の好みにうまく適合した作品だったらしい。
「あれは後世に残る名作映画ね。小学校の教科書に掲載して幼少期の情操教育に利用すべきだわ」
「どんだけハマったんだよ」
そんな恐ろしい義務教育があってたまるか。人格形成に多大なる障害をもたらすこと請け合いだ。破壊衝動に支配された幼き生徒たちが暴徒と化し、学級崩壊は避けられないだろう。
「……で、お前のプランとやらではこの後どうなってるんだ?」
連れ立って歩く夏目の横顔に目をやる。
俺の問いかけに、夏目はツンっと高い鼻先を反らしてそっぽを向いた。
「これで終わりよ」
「マジか」
「しょうがないでしょ、特に思いつかなかったんだから」
夏目が考えてきた予定は、映画を鑑賞することだけだったらしい。しかもザリガニ人間というチョイスよ。
不機嫌そうにそっぽを向く夏目。その横顔には若干の照れが隠れていた。
「――やれやれ」
なるほど、気位の高いお嬢様とはいえ、やはり初デートの初心さは隠し切れないようだ。
おそらく今日に至るまでどのようなデートを行うべきか、最適なプランの構築に日夜頭を悩ませ続けた結果、一周回って逆に映画しか思いつかない的な思春期の学生が陥りがちなジレンマへと身を投じたというわけだろう。
うんうん、分かるぜ。つっけんどな態度も、必死の照れ隠しと思えばむしろ可愛らしさすら感じる。
「痛い⁉」
「……何か腹が立つことを考えていたでしょう」
気がづくと、夏目のサンダルが俺のスニーカーをすり潰すように踏みしだいていた。おい、俺の足はうどんの生地じゃねぇぞ。あとテレパシーで俺の心を読むのは止めてください。
「暴力はナシで行こう……」
夏目の履いているサンダルは春らしいデザインでとても可愛いが、底が厚く何かに強い圧迫感と鈍痛を与えるのにはピッタリの形状をしていた。しかしメーカー側がより効率的にはダメージを与える目的でこのデザインを採用したとは俄かには考え辛い。
「あら、確かに最近の流行りは母性を感じさせる包容力のあるヒロインで、昔のような暴力的ワガママヒロインは受けが悪いものね」
「なんの話だよ!」
たしかに時代の潮流は確実にそっちの方向性に向かっているけども。
「アナタこそ、ちゃんと予定は組んできたのかしら?」
「……じゃあ、次の場所は俺が案内するよ」
俺は短く溜息をついて、スマートフォンで時間を確認した。デジタルの数字は時刻がお昼過ぎであることを示している。ちょうどいい時間だ。
「時間も時間だし、腹減ってるだろ?」
「ええ、それはもうペコペコね。お腹と背中がくっつきそうだわ」
「久しぶりにその表現聞いたよ」
おかあさんといっしょかよ。お腹と背中がくっつくって、想像したらかなり気持ち悪いよな。
「まあ、なんだ、俺がたまに行く喫茶店があるから、そこに行こうぜ」
デートと聞いて真っ先に思い浮かんだ場所がある。
駅から少し離れた場所にある喫茶店だ。
俺が中学時代から愛用し足繁く通ったお気に入り。せっかくの機会なので、そのお店を利用しない手はないと思ったのだ。
時間によってはガッツリ昼食をとってもいいし、歩き疲れたのなら甘いモノとお茶で休憩しても良い。喫茶店は実に汎用性が高い、まさにデートスポットの最適解と称しても差し支えない場所なのだ。
俺はこの事実に気がついたとき、我が頭脳のあまりの聡明さに小一時間武者震いが止まらなかった。
「あら、行きつけの喫茶店なんて、童貞のくせに洒落たことを言うのね」
「べつに俺の勝手だろ!」
童貞は喫茶店に行ってはいけないという法律でもあるのか。ハンムラビ法典もビックリのとんでも悪法だ。目を潰すぞこの野郎。
「まあお腹も空いたことだし、気は進まないけど行きましょうか」
夏目はやれやれといった具合に頭を振りながら溜息をついた。
「なんだよ、べつに気が進まないんなら行かなくてもいいけど……」
名家のお嬢様ともなると、庶民の食事処などお口に合わないのだろうか。
しかし高級なレストランなんて俺は一つも知らないし、そもそもそんな金も無い。
「そんなことは言っていないわアナタの勝手な思い込みで口を利くのは止めてくれるかしら本当にアナタのそういうところにウンザリさせられるわもうこちらはお腹がペコペコで困っているのよさっさと案内しなさいよ」
「分かった分かった!」
夏目の口から反論がマシンガンのように流れだす。行きたいなら素直にそう言えよ。どんだけ腹減ってんの。
正直なのか捻くれているのか、相変わらずよく分からない奴だ。まあいいや。とりあえず行き先は喫茶店に決定。
そんな通常営業なやりとりをしながら、俺たちはツカツカと人混みを抜けていく。
「少しだけ歩くけど、大丈夫か?」
チラリと夏目の足元に目をやる。
俺はスニーカーだから問題はないが、夏目のサンダルはあまり長距離を歩くには適していないように思えた。
俺の視線に気がついたのか、夏目は何故か顔を少し赤らめてそっぽを向いた。
「ふんっ。みくびらないでちょうだい。百キロだろうが二百キロだろうが歩き通す所存よ」
「いや、そこまでの覚悟は必要ないけど……」
トライアスロンするわけでもあるまいし。まあ本人がそう言うなら大丈夫なのだろう。
映画館を後にしてから、大通りに沿ってのんびりと歩いていく。相変わらず凄い人の多さだ。見ているだけで眩暈がしそう。
十五分ほど歩くと、まるで隠し通路のように狭い路地が脇に現れた。
まさに路地裏と称して差し支えない人通りの少ないそこは、街の喧騒から隔絶された静かで落ち着いた雰囲気がある。
ともすれば見逃してしまいそうになるその場所に、俺のお気に入りの喫茶店は店を構えていた。
「こんな道があったのね。知らなかったわ」
夏目は物珍しい景色を眺めるように、辺りをキョロキョロと見回す。
普段は罵倒されるばかりで、夏目を感心させる機会なんてのは殆どないので、少しだけ誇らしい気分になるな。
「地元の奴もあんまり知らない穴場だからな」
俺もこの路地を見つけたのは偶然だった。初めてここに来たときは異世界に出も迷い込んだのかと俄かに興奮したものだ。
「ほら、ここだよ」
俺は路地の更に奥まった場所に、まるで押し込まれたかのように存在している木造の建物を指さした。
大通りに立ち並ぶビル街とは明らかに一線を画す雰囲気。
ところどころ剥がれ落ちた外装は、まるで時代に取り残された過去の文明のような印象を受ける。
しかしそれが隠れ家的な味があり、俺は気に入っていた。
申し訳程度に置かれた小さい看板には『喫茶 邂逅』と彫られている。
「邂逅……?変わった名前ね」
「店主の趣味らしいぞ」
夏目は木彫りの看板と、その隣に鎮座している巨大な信楽焼きの狸をしげしげと眺めている。確かに初見からすると些か奇妙な光景だろう。まさに不思議な街並みに迷い込んだって感じ。
入り口の扉に手をかけて開く。木の軋む小気味良い音と共に、カランカランとベルが鳴り響いて客の来訪を告げた。
「こんちわー」
「いらっしゃいませー……って、少年じゃないか」
足を踏み入れた俺たちを出迎えてくれたのは、長いエプロンを掛けた痩身の女性だった。
女性は落ち着いた雰囲気に凛とした気品のようなものを漂わせており、喫茶店の空気に自然と溶け込んでいた。
わりかし背が高く、艶のある長い髪をうなじ辺りで纏めている。躍動感のある大きな瞳は爛々として、彼女の内に宿る若さを感じさせた。
「――柚子さん、ご無沙汰してます」
ペコリと頭を軽く下げる。
すると女性はニコッと笑って軽く手を振った。その笑顔はなんだか大型犬の喜んだ表情を想起させ、不思議な包容力を見る者に感じさせる。
「久し振りだね。あれ、今日は女の子連れかな?珍しいね」
「えぇ、まあ」
「ちょっと」
背中をコツリと小突かれて、振り返る。夏目が不満そうに口を尖らせていた。
「あ、ああ、こちらは『邂逅』でバイトしてる柚子さん。中学の時からたまにお世話になってるんだよ」
夏目に柚子さんを紹介すると、それに合わせて柚子さんも軽く頭を下げた。
「こんにちは、安食柚子です。普段は市内の大学に通ってます。アナタは少年の……彼女さんかな?」
柚子さんは意味ありげな笑みを浮かべて、俺の顔をジロジロと眺める。
「えーと、それは……」
俺はどう言えばいいものか、答えに困窮する。
一応今の形としては付き合っていることになるが、それは学内では誰にも教えられないトップシークレットだ。
下手に答えても後で夏目の怒りを買いかねない。かといって下手な答えをしても命取りになりそう。なにこのギリギリの状況。
「うふふ、彼女だなんて面白―い! 私は神崎くんの友達ですよー」
「⁉」
逡巡していた俺に代わって答えたのは夏目だった。
久しく聞いていなかった、明朗で軽快なソプラノボイス。
夏目の脳内でどういった思考が働いたのかは謎だが、どうやら柚子さんには余所行きのお嬢様バージョンで対応することにしたらしい。
「ね、神崎くん」
「お、おう、そうだな」
一見すると可愛らしい純朴な眼差しで、俺にアイコンタクトをかましてくる夏目。
だがその本性を知っている身としては、軽くブルってしまうほど恐怖を感じる。だってほら、目が笑ってないもん。ここは大人しく同意しておくのが吉だろう。
「あらら、そうなんだ。ま、少年にはまだ早かったかな」
「ハハハ……そうすっね」
俺は誤魔化すような乾いた笑い声を発する。色んな意味で複雑な心境だぜ。
店内には俺たちの他には、現役を引退し厭世の境地に達した雰囲気を持つご老人のお客がいるだけだった。休日の昼間にしては寂しい混み具合だ。まあそれがこの店の良いところでもあるんだけど。
「さ、いつもの席で良いかな」
柚子さんは、俺がいつも座る窓際のテーブルに案内してくれた。こういう気の利いたところもこの店の魅力の一つなのだ。
据え置きのメニューを広げて二人仲良く眺める。
少しだけ悩んだ後、俺は店長の気まぐれカレー、夏目は店長の気まぐれオムライスを注文した。
「気まぐれって……どういう意味かしら」
「もう初めてここに来てから三年ほど経つが、未だに俺にも分からん」
ここのマスターは口髭を蓄えたとてもダンディーな初老の男性だ。非常に寡黙で、ほとんど声を発しているのを聞いたことがない。少なくとも気まぐれ感はゼロだ。俺の予想としては、おそらく見た目に違わず渋みのある低音ボイスに違いない。
ちなみに気まぐれと言いながらもマスターの料理の腕は確かで、いつ来てもこの喫茶店の料理はとても美味しい。
「や、少年」
暇そうにポケットに手を突っ込んだ柚子さんが、俺と夏目の座るテーブルに近寄って話しかけてきた。
他に注文を待っている客もおらず、料理を作るわけでもないので、手持ち無沙汰なのだろう。
「いきなりイメチェンし始めたときはどーなるかと思ったけど、こうして女の子を連れてきたってことは、高校デビューは成功したのかな?」
「いや、その辺はいろいろと事情がありまして……」
そういえば体操服盗難事件が起きてから、この喫茶店に来たのは初めてだった。まだ柚子さんは、俺が地獄の底へと住民票を移したことを知らないのだ。
夏目との関係性といい、一体どこから説明すればいいのかも分からないぞ。すべて話したら半日はかかりそうだぜ。
「これは失敗した結果というか、なんというか」
「そうかそうか」
柚子さんは俺の煮え切らない返答から何をくみ取ってくれたのかは謎だが、ウンウンと唸りながら何度も頷いた。
「ま、少年には明るいキャラは似合わなかったんだよ。無理をする必要はないさ。のんびりやりなよ」
「そんなもん……ですかね」
事情を話したわけではないが、人生経験が豊富である年上の柚子さんにそう慰められると、なんだか気が楽になるよ、ホント。
「そういえば、彼女のお名前を聞いてなかったわね」
「私、神崎くんの『お友達』の、夏目七緒と申します」
……やけに友達という単語を強調してくるな。
「夏目って……」
柚子さんは夏目の苗字を反芻して、驚いたように目を丸くする。
「もしかして、夏目家のお嬢さん?」
「はい、そうです」
「ほえ~凄いわね~」
柚子さんはカバのように口をぽっかりと開けて、感心したように気の抜けた声を漏らした。ほえーって、漫画かよ。
「柚子さん、アホっぽいですよ」
「こらー、神崎くん。年上の人に向かってアホなんて、メッだよ!」
「体操のお姉さんかよ!」
夏目もかつてないほどにぶりっ子具合が極まっているな。もはやお嬢様キャラを飛び越えて別の何かになっている気がする。
ていうか桜子もそれやってたけど、流行ってるのか?もしかして俺が流行に遅れてるだけ?
「私、実家が夏目邸宅の近所なのよね。昔から通学するときに前通っていたの、懐かしい。もしかしたら同じ中学じゃないかしら?」
「あ、いえ、私は東京の私立中学に通っていたので……」
「え、そうなの?」
意外なセリフに、思わず反応する。
夏目が東京で私立中学に通っていたなんて、完全に初耳だ。
聞いたこともなかったが、てっきり同じ市内で育ったものだと勝手に思い込んでいた。地区が違うどころか、ここと東京じゃ新幹線でもかなり時間がかかるくらい離れている。
「じゃあ高校進学で地元に帰ってきたんだ」
「まあ、そんな感じです」
えへへ、と曖昧な笑顔を浮かべる夏目。
どうした。普段は持ち前の演技力を生かして臨機応変に対応する夏目にしては、妙に歯切れが悪い答えだ。その表情も心なしか硬く見える。
「そっか」
都合が悪そうな雰囲気を察したのか、柚子さんもそれ以上この話題を追求することはなかった。柚子さんはそういった距離の取り方を心得ている人だ。
この年上のお姉さんは、初対面の相手にズカズカ踏み入るような無粋な真似はしない。
大学生くらいになると、取得単位項目に『距離感』の講座があるのかもしれない。俺もいずれはその技術をなんとか会得したいところだ。
「しかし、少年がこんな美人な女の子を連れてくるなんて驚いたよ。昔はよく似たような男友達と来ていたじゃないか」
「あいつらは――違う高校に行ったんで」
ポツリと言い訳じみたセリフを零す。
ふと、中学生の頃によくつるんでいたクラスメイトの顔が頭を過ぎる。
学校が違うとかそんな建前以上に、中学時代の友人とは圧倒的に距離が離れてしまったことは間違いない。
オタク仲間と駅前に繰り出した際には、このお店をよく利用させてもらっていた。
『邂逅』は俺たちのような冴えない連中でも、まるで優しく包み込むように受け入れてくれた。
あの頃もパッとしない生活だったことは間違いないが、少なくとも趣味を共有できる仲間がいた。
だが今の俺はどうだ。
そういったかつて交友を築いた連中とは、一切連絡を絶っている。今更声をかけられる筈もない。
入学当初は自分が高校デビューに成功したと勘違いをして、かつての友人達を内心馬鹿にすらしていた。
その上にくだらない疑いから仮面は剥がれ、己の人望のなさから高校でもすぐに孤立してしまったのだ。
俺は、ひどく愚かな奴だ。救いようのない、そんな話。
「ならしょうがない。でも、こんな可愛い女の子が友達ならいいじゃないか。ね、夏目さん」
「そんなー、可愛いなんてとんでもないですよっ」
「ふふっ、謙遜しちゃって」
「このこのー」と夏目に肩を寄せる柚子さん。綺麗な女性が密着している様子は見ていて心が安らぐ。荒んだ砂漠と化した俺の魂に一滴の潤いを与えるようだ。いつまでも見ていられそうだよ。
すると、柚子さんが思いついたようにピッと指を立てた。
「でも、彼女じゃないなら私が少年を貰っちゃおっかなー?イメチェンしてからちょっと、私好みになってきたんだよね」
「――ま、まじですか」
柚子さんはニヤニヤと笑みを浮かべて、品定めするように俺の顔を見る。
何か不思議な感覚が背筋を走り、照れからかゾワゾワとむず痒くなる。
柚子さんのような綺麗な女性にそんなお褒めをいただいたのは人生で初めてだ。
やはり大学生だから、高校生と違って、その、大人のお付き合い的なアレがあるんですかね?
いやもちろん僕みたいなクソガキにはちょっと想像も及ばないんですけど、もしかしたら大人の階段というか、年上の女性から手解きみたいなものを頂戴しちゃったりなんだったり……。
そんなことを考えていると、ふと、目の前の席から不穏な気配を感じた。
「――へんた、神崎くん」
ザクッ。
気がつくと、夏目の手に握られたフォークがテーブルの上に突き立てられていた。
あの……そこさっきまで俺が手を置いてた場所なんですけど。
「もう、鼻の下が伸びてるわよ、神崎くんったらはしたない」
うふふ、と実に柔和な微笑を湛えながら、俺の鼻先をチョンと突っつく夏目。いや、普段はそんなアメリカのトレンディドラマみたいな仕草絶対しないでしょ。どういうキャラチェンですか。
しかし、そのガラス玉のように透き通った瞳は絶対零度を記録しそうなほどの冷たさだった。
ちなみにもう片方の手にはしっかりとフォークの柄が握られている。とりあえず料理はまだ来ていないのでそのフォーク置いてくれませんか。
「……やだなー、そんなわけないじゃないですかー」
「なんでそんな棒読みなの、へんた、神崎くん」
「ちょくちょく言いかけるの止めてくださいお願いします」
「なんのことかしら。しね、神崎くん」
「今死ねって言った⁉」
先生、今夏目さんが悪口を言いました!
おいおい。雰囲気や表情は完全なるお嬢様バージョンだが、口調から腹黒さが徐々に漏れ出しているぞ。そのどす黒いオーラから、死の呪文でも唱え出しそうな勢いだ。
鼻の下が伸びるのも仕方がないだろ。
女子大生のお姉さんに好みと言われて胸がドキドキしない男子高校生など、真っ白なカラス並みにこの世には存在しない。
……そう思いつつも、テーブルに突き立てられたフォークがさながらゴルゴダの丘に聳える十字架のように見えて、俄かに湧き上がる夏目への戦慄。
柚子さんは何故か嬉しそうな笑顔で俺と夏目のやり取りを眺めながら、
「あはは、二人はとっても仲が良いみたいね」
「そう見えますか……?」
俺と夏目の関係なんて、捕食者のライオンと、狩りから必死に逃げるシマウマぐらいのパワーバランスだ。世間一般ではこれをイジメという。
「そうね、まるで恋人みたいよ」
「またまた御冗談をー。柚子さんってとっても面白い人ですわ」
「でも少年はヘタレだからなぁ」
「そうですよねー」
何故か遠回りに悪口を言われている気がする。俺を庇ってくれる心優しき人はこの世にいないのか。誰か助けてください。
「……まったく」
いつもクラスメイトに囲まれている夏目だけど、実際に面と向かって他人と話しているのを見るのは、実はほとんど初めての経験だったりする。
猫被っているのは分かっていたことだが、こうして改めて見ているとなんだか新鮮に感じるな。
柚子さんが俺の中学時代のイケてない様子を懐かしむように語り、それを聞いた夏目はおかしそうに笑っている。
その笑顔はごくナチュラルで、傍から見ればまさか仮面を被っているとは思えない。
ふと、思った。
夏目は演技をしながら周りと接していて、楽しいのだろうか。
彼女の立ち回りは神がかり的と言っても過言ではない。嫌味ではなく、本気で感心する。
教室ではいつも沢山のクラスメイトに囲まれ、彼女の話題で他クラスまで盛り上がる。先生や先輩ですら彼女に一目置いているのが分かる。それは全て、他ならぬ夏目自身の魅力的な振る舞いがそうさせている。
ただ明るく振る舞うだけなら、意外と誰でもできるのものだ。絶対に不可能というわけじゃない。
事実、十五年間陰キャラを通した俺でさえ、努力次第である程度クラスの輪に溶け込むことはできた。だが、ここまで突き抜けて人気者を演じる技術と精神力が伴う人間は殆どいない。
誰もが彼女を信奉している。人は自分よりも強い人間に憧れる。逆に自分より下の人間を見て安心する。そういうものだ。俺が保証する。
自分に言い訳をして、自分に嘘をついて、納得するのだ。
他人に理想を押し付けて、自分を正当化して、日々の生活に安定を求める。それは誰もが同じようにやっていること。
『あの人は才能があるから自分とは違う』
『きっとあの人なら私のことを分かってくれる』
そんな他者の願望と憧憬を、夏目は丸ごと背負い込んで学園のアイドルを演じているのだ。
考えてしまう。もし俺の嘘がバレなかったら、俺にはコイツほどのことが出来たのだろうか?自らの理想を貫き、周囲を騙し続けるという重圧に俺は耐えられたのだろうか?
でもそこに、夏目を本当の意味で理解してあげられる人間はいない。
腹黒で、毒舌で、無茶苦茶なお嬢様の、隠された心の底に手を差し伸べる人間はいないのだ。
なにより、夏目自身が理解されることを望んでいないようにすら思える。皆に囲まれる人気者。そんな夏目という人間が、俺には世界で一番孤独に思えた。
この笑顔も心からの笑顔なのだろうか。ただ状況に合わせて仕方なく作っているだけなのか。俺にはその真意を知る術もない。
俺は夏目のことを、何も知らない。
「……お待ちどう」
「はっ⁉」
油断しきっていた柚子さんの後ろに、右手にカレーライス、左手にオムライスを携えた髭のマスターが仁王立ちしていた。
いつの間にか調理を終えて、話に夢中になっている柚子さんを待ちかねて自らフロアに現れたらしい。
「……マスターがしゃべった」
柚子さんが酸素を求める金魚のように、小さな口をパクパクさせている。
バイトを始めて長い柚子さんにとっても、マスターが喋るのを目撃することは珍しいらしい。
もちろん俺も完全に初見だ。
ちなみに、予想通りの響くような心地良い低音ボイスだった。
「……」
コツリと静かな音を立てて皿をテーブルに置き、柚子さんへ鋭い視線を向けるマスター。
「わ、私キッチンの掃除してきますね~。じゃ少年と夏目さん、ゆっくりしていって!」
そう言うが早いか、鋭い眼光から逃れるように柚子さんはお店の裏方へと姿を消した。さながら伊賀流忍者のような身のこなしだ。柚子さんの通う大学には忍術の実技科目も存在するのかもしれない。
「まったく、いつも元気だな、柚子さんは」
相変わらずの様子で、俺は内心でホッとしていた。
この喫茶店の雰囲気も、柚子さんも、マスターも、昔のままなんら変わりない。
思い返せば、たった一か月の間に俺の居場所は全て変わってしまった。
この喫茶店は、俺にとって数少ない変わらない憩いの場所なのだ。
教室に居るときのように、気まずい思いをすることもない。今の俺にはそれだけで本当にありがたい。柚子さんにからかわれるのはちょっと辛いところもあるが。
「……本当に、面白い人ね」
俄かに立ち上るカレーライスの湯気を払うように、夏目はポツリと呟いた。
俺は夏目から一方的に取りつけられた約束を順守すべく、ブラック企業に長年勤めるサラリーマンが如く電車に揺られていた。
待ち合わせ場所である、駅前に燦然とそびえる時計塔へと足を運ぶ。この駅は市内じゃ一番開発されていて、周辺には様々な商業施設が立ち並んでいる。
昔からお出かけといったらこの辺りを利用していたが、ここに来るのも中学卒業以来と考えると地味に久しぶりだ。
休日という条件も手伝って、駅前はライブ会場のようにひどく混み合っていた。特に待ち合わせの目印によく利用される時計塔のお膝元は人々が群がり、異常なまでの人口密度を観測している。
辺りにたむろする人々の顔を見渡す。しかしその中に夏目の姿は確認できない。
「夏目は……まだか」
時計は集合時間の二十分前を指していた。少し早めに着いてしまったようだ。
もし一秒でも俺が遅れようものならば、夏目から古今東西多種多様に及ぶ罵詈雑言が、頭のテッペンから足のつま先まで隈なく浴びせられること間違いなしだ。せっかくの休日に、心無い毒舌による精神的負傷を負うわけにはいかない。
「――ふう」
ひとまず深呼吸。
俺は表情筋を巧みにコントロールする技術を駆使することで一見平静を装いながらも、その内心は眼前に迫った夏目とのデートに対してかなりの緊張状態だった。
異性とデートなんて、人生初めての経験だ。しかも、学園ナンバーワン美少女の夏目七緒だぞ。
そういえば、今まで何度か妹のショッピングの荷物持ち要因として駆り出されることはあった。しかし身内は異性との外出という点においては、例外的存在だろう。デート経験にはノーカン。
普通、女子高生との初デートと聞かれれば、ハーブミントのごとく鮮やかで爽快なイメージを皆さん思い浮かべることだろう。少女漫画を愛読する俺としても『青春ど真ん中、胸がときめくドキドキ展開!』なんて妄想を禁じ得ない。
しかしそんな持て余す純情も、毒舌女の夏目の前では一輪の花びらとなって儚く散ることは予想に難くない。一体どんな目に合わせられるか分かったものじゃないぜ。
『あーん』と称して駐車場の砂利を口に詰め込まれたり、季節外れの花を採取してこいと崖から蹴落とされるなんて可能性も決してゼロではないのだ。ちなみにこの街に崖は存在しない。
「――そういえば、誰かに見られたら、どうしようかな」
夏目を崇拝に近いレベルで信奉している連中は多い。特に男子。そんな奴らにお忍びデートを発見された暁には、たちまちフーリガンと化した男どもに袋叩きに遭い、俺は撲殺されてしまうかもしれない。
……そう考えると、夏目はどういうつもりなんだろう。
普段は演技しているくせに、自分からデートに誘うなんて。変態嘘つきなんかと二人で歩いていたことを学校の連中にバレたらどうするんだ?
分からん、アイツの考えていることが。人間観察には自信があったんだけどな……。
ポンポン。
どう転んでもこれから迫りくるだろう恐怖に身を縮め、プルプルと震えながら立ち尽くしていると、背後から軽快に肩を叩かれた。
「へーんたい☆」
「うるせぇよ」
そんな軽快な声で『まーきの』みたいに来られても反応に困る。ちなみに俺はドラマよりも原作漫画派。
こんなお茶目さんなことをしてくれる人間は、俺の知る限り一人しかいない。
「ちゃんと私より早く来てたのは、及第点ね」
ふふふ、と悪だくみを図る悪女のように静かな微笑みを零す。振り返ると夏目が立っていた。
当たり前だが、私服だった。
丈の長いホワイトワンピースを身に纏い、その上に暖色のカーディガンを羽織っている。暖かい春にお似合いの落ち着いた配色のコーディネイトで統一されており、見る者に上品な雰囲気を感じさせる。
シンプルだが垢抜けていて、まるでファッション雑誌のスナップ撮影をそのまま抜けだしてきたみたいだ。
……可愛いな、くそ。
いつもの制服姿とは少し違った大人っぽい印象に、また改めて夏目の容姿がいかに魅力的なのか気づかされる。ほら、まるで芸能人が街中に現れたみたいに、周りの人たちがちょっとざわついてるぞ。天性の人気者め。
「待ったかしら?」
「……今来たところだよ」
俺は諦めたように、手垢塗れのセリフを零した。総走行距離三十万キロメートルを超える中古車ぐらい使い古された返しだろう。だがこれが今の俺が返せるセリフの限界だ。我ながらダサい。
「まず私の私服を見て、何か言うことはないのかしら」
小洒落た革のバッグを持ちながら、腰に手を当ててファッションショーのモデルのようにポーズを取る夏目。
そんなありふれた振る舞いも、容姿端麗なコイツがやると本物さながらに様になる。足元のアスファルトがレッドカーペットに見えてきたぞ。
「……まあ、可愛いな、うん」
気のきいたセリフも特に思い浮かばず、シンプルに褒める。こういうところがダメなんだよな、俺。ホストクラブにでも行って女性を口説く修行しようかな。
「神崎くん、『死ぬほど』という修飾が抜けてるわよ」
「……」
当たり前といった表情で、自信満々な物言いをする夏目。
うむ、コイツの美しさは見た者の生命を強奪してしまうほどらしい。この場に辿り着くまでに恐らく百余名の尊い人命を天へと昇華してきたことだろう。国家レベルで危惧すべき現代のテロリズムだ。
「アナタもちゃんとオシャレしてきたかしら?私と並んで歩くという国民栄誉賞並みの光栄に与れるんだから、ね」
パチリとウィンクする夏目。その睫毛の隙間からいくばくかの流星が零れ落ちたような気がするが、おそらく気のせいだろう。
なんか、学校で見るよりも明らかにテンションが高くないですか、夏目さん。休日にお出かけともなると些かの浮つきは禁じ得ないらしい。
「俺だってそれなりの格好で来たつもりだぜ。このジャケットとか結構高かったんだから」
俺は自らのコーディネイトに目をやりながら弁明する。
自己研鑚及びリア充化計画の一環として、ファッションについてはかなり研究を重ねたのだ。
「そうね、とっても素敵なジャケットね。とっても格好良いジャケットだわ。いやーとてもイケてるわ、そのジャケット」
「着てるのは俺だからね⁉」
なにそのジャケットが主役みたいな言い方。服を褒め倒すことが転じて本人への罵倒へ繋がるという稀有な例を経験したぞ。
「……とりあえず、どこに行くつもりだよ」
俺の問いかけに、夏目は小首を傾げて微笑んだ。
「まずは私の考えたプランから行きましょう。ちゃんとアナタも考えてきたんでしょうね」
「まあ……一応は」
夏目の微笑みの中に隠れた鋭い眼光に竦みながら、俺はむにゃむにゃと頷いた。
そう、夏目との約束で、お互いがそれぞれのデートのプランを持ち合わせて、一日過ごそうという計画になっていた。
「じゃあ、行きましょうか」
夏目はそう言うが否やクルリと踵を返して、人の出入りが激しい大通りへ続く駅の出口に向かって足早に歩み始めた。
「ちょっと待ってくれよ」
俺は置いていかれた子供のように、慌てて夏目の隣に駆け寄った。なんとか追い付いて、人混みを避けるように並んで歩く。
「あら、時間は誰にも待ってくれないわよ」
「いや、少なくともお前は待てよ」
偉人の名言みたいなこと言ってるけど、使うタイミング違うから、それ。時もかけないからね。
「だから、どこ行くんだよ」
「決まってるでしょ?」
夏目は大股で歩を進めながら、微かに胸を張って微笑んだ。
「映画に、行きます」
☆☆☆
俺が夏目と仲良く肩を並べて鑑賞した映画は、突然変異によりザリガニ人間と化した主人公が化け物と認定され人間界を追われるが、マッドサイエンティストの実験によって暴走した合成犬人間と対峙し、激闘の末辛くも勝利を収め世界に平和をもたらすヒーローになり大団円という、イマイチしっくりこない内容だった。
そもそもなんだよザリガニ人間って。ニーズがニッチすぎるぞ。色物にもほどがある。
といいつつも、ストーリーは意外と良い感じだった。
優しい心を持つ主人公が醜い姿故に街の人々から迫害を受けるシーンは、俺の置かれた状況と重なるものがあり、思わず劇場内で「南無三!」と絶叫したくなるほどに心を揺り動かされた。
「いやー、最高ね」
映画館を出た後、夏目は満足そうな微笑みを浮かべていた。どうやらザリガニ人間は夏目の好みにうまく適合した作品だったらしい。
「あれは後世に残る名作映画ね。小学校の教科書に掲載して幼少期の情操教育に利用すべきだわ」
「どんだけハマったんだよ」
そんな恐ろしい義務教育があってたまるか。人格形成に多大なる障害をもたらすこと請け合いだ。破壊衝動に支配された幼き生徒たちが暴徒と化し、学級崩壊は避けられないだろう。
「……で、お前のプランとやらではこの後どうなってるんだ?」
連れ立って歩く夏目の横顔に目をやる。
俺の問いかけに、夏目はツンっと高い鼻先を反らしてそっぽを向いた。
「これで終わりよ」
「マジか」
「しょうがないでしょ、特に思いつかなかったんだから」
夏目が考えてきた予定は、映画を鑑賞することだけだったらしい。しかもザリガニ人間というチョイスよ。
不機嫌そうにそっぽを向く夏目。その横顔には若干の照れが隠れていた。
「――やれやれ」
なるほど、気位の高いお嬢様とはいえ、やはり初デートの初心さは隠し切れないようだ。
おそらく今日に至るまでどのようなデートを行うべきか、最適なプランの構築に日夜頭を悩ませ続けた結果、一周回って逆に映画しか思いつかない的な思春期の学生が陥りがちなジレンマへと身を投じたというわけだろう。
うんうん、分かるぜ。つっけんどな態度も、必死の照れ隠しと思えばむしろ可愛らしさすら感じる。
「痛い⁉」
「……何か腹が立つことを考えていたでしょう」
気がづくと、夏目のサンダルが俺のスニーカーをすり潰すように踏みしだいていた。おい、俺の足はうどんの生地じゃねぇぞ。あとテレパシーで俺の心を読むのは止めてください。
「暴力はナシで行こう……」
夏目の履いているサンダルは春らしいデザインでとても可愛いが、底が厚く何かに強い圧迫感と鈍痛を与えるのにはピッタリの形状をしていた。しかしメーカー側がより効率的にはダメージを与える目的でこのデザインを採用したとは俄かには考え辛い。
「あら、確かに最近の流行りは母性を感じさせる包容力のあるヒロインで、昔のような暴力的ワガママヒロインは受けが悪いものね」
「なんの話だよ!」
たしかに時代の潮流は確実にそっちの方向性に向かっているけども。
「アナタこそ、ちゃんと予定は組んできたのかしら?」
「……じゃあ、次の場所は俺が案内するよ」
俺は短く溜息をついて、スマートフォンで時間を確認した。デジタルの数字は時刻がお昼過ぎであることを示している。ちょうどいい時間だ。
「時間も時間だし、腹減ってるだろ?」
「ええ、それはもうペコペコね。お腹と背中がくっつきそうだわ」
「久しぶりにその表現聞いたよ」
おかあさんといっしょかよ。お腹と背中がくっつくって、想像したらかなり気持ち悪いよな。
「まあ、なんだ、俺がたまに行く喫茶店があるから、そこに行こうぜ」
デートと聞いて真っ先に思い浮かんだ場所がある。
駅から少し離れた場所にある喫茶店だ。
俺が中学時代から愛用し足繁く通ったお気に入り。せっかくの機会なので、そのお店を利用しない手はないと思ったのだ。
時間によってはガッツリ昼食をとってもいいし、歩き疲れたのなら甘いモノとお茶で休憩しても良い。喫茶店は実に汎用性が高い、まさにデートスポットの最適解と称しても差し支えない場所なのだ。
俺はこの事実に気がついたとき、我が頭脳のあまりの聡明さに小一時間武者震いが止まらなかった。
「あら、行きつけの喫茶店なんて、童貞のくせに洒落たことを言うのね」
「べつに俺の勝手だろ!」
童貞は喫茶店に行ってはいけないという法律でもあるのか。ハンムラビ法典もビックリのとんでも悪法だ。目を潰すぞこの野郎。
「まあお腹も空いたことだし、気は進まないけど行きましょうか」
夏目はやれやれといった具合に頭を振りながら溜息をついた。
「なんだよ、べつに気が進まないんなら行かなくてもいいけど……」
名家のお嬢様ともなると、庶民の食事処などお口に合わないのだろうか。
しかし高級なレストランなんて俺は一つも知らないし、そもそもそんな金も無い。
「そんなことは言っていないわアナタの勝手な思い込みで口を利くのは止めてくれるかしら本当にアナタのそういうところにウンザリさせられるわもうこちらはお腹がペコペコで困っているのよさっさと案内しなさいよ」
「分かった分かった!」
夏目の口から反論がマシンガンのように流れだす。行きたいなら素直にそう言えよ。どんだけ腹減ってんの。
正直なのか捻くれているのか、相変わらずよく分からない奴だ。まあいいや。とりあえず行き先は喫茶店に決定。
そんな通常営業なやりとりをしながら、俺たちはツカツカと人混みを抜けていく。
「少しだけ歩くけど、大丈夫か?」
チラリと夏目の足元に目をやる。
俺はスニーカーだから問題はないが、夏目のサンダルはあまり長距離を歩くには適していないように思えた。
俺の視線に気がついたのか、夏目は何故か顔を少し赤らめてそっぽを向いた。
「ふんっ。みくびらないでちょうだい。百キロだろうが二百キロだろうが歩き通す所存よ」
「いや、そこまでの覚悟は必要ないけど……」
トライアスロンするわけでもあるまいし。まあ本人がそう言うなら大丈夫なのだろう。
映画館を後にしてから、大通りに沿ってのんびりと歩いていく。相変わらず凄い人の多さだ。見ているだけで眩暈がしそう。
十五分ほど歩くと、まるで隠し通路のように狭い路地が脇に現れた。
まさに路地裏と称して差し支えない人通りの少ないそこは、街の喧騒から隔絶された静かで落ち着いた雰囲気がある。
ともすれば見逃してしまいそうになるその場所に、俺のお気に入りの喫茶店は店を構えていた。
「こんな道があったのね。知らなかったわ」
夏目は物珍しい景色を眺めるように、辺りをキョロキョロと見回す。
普段は罵倒されるばかりで、夏目を感心させる機会なんてのは殆どないので、少しだけ誇らしい気分になるな。
「地元の奴もあんまり知らない穴場だからな」
俺もこの路地を見つけたのは偶然だった。初めてここに来たときは異世界に出も迷い込んだのかと俄かに興奮したものだ。
「ほら、ここだよ」
俺は路地の更に奥まった場所に、まるで押し込まれたかのように存在している木造の建物を指さした。
大通りに立ち並ぶビル街とは明らかに一線を画す雰囲気。
ところどころ剥がれ落ちた外装は、まるで時代に取り残された過去の文明のような印象を受ける。
しかしそれが隠れ家的な味があり、俺は気に入っていた。
申し訳程度に置かれた小さい看板には『喫茶 邂逅』と彫られている。
「邂逅……?変わった名前ね」
「店主の趣味らしいぞ」
夏目は木彫りの看板と、その隣に鎮座している巨大な信楽焼きの狸をしげしげと眺めている。確かに初見からすると些か奇妙な光景だろう。まさに不思議な街並みに迷い込んだって感じ。
入り口の扉に手をかけて開く。木の軋む小気味良い音と共に、カランカランとベルが鳴り響いて客の来訪を告げた。
「こんちわー」
「いらっしゃいませー……って、少年じゃないか」
足を踏み入れた俺たちを出迎えてくれたのは、長いエプロンを掛けた痩身の女性だった。
女性は落ち着いた雰囲気に凛とした気品のようなものを漂わせており、喫茶店の空気に自然と溶け込んでいた。
わりかし背が高く、艶のある長い髪をうなじ辺りで纏めている。躍動感のある大きな瞳は爛々として、彼女の内に宿る若さを感じさせた。
「――柚子さん、ご無沙汰してます」
ペコリと頭を軽く下げる。
すると女性はニコッと笑って軽く手を振った。その笑顔はなんだか大型犬の喜んだ表情を想起させ、不思議な包容力を見る者に感じさせる。
「久し振りだね。あれ、今日は女の子連れかな?珍しいね」
「えぇ、まあ」
「ちょっと」
背中をコツリと小突かれて、振り返る。夏目が不満そうに口を尖らせていた。
「あ、ああ、こちらは『邂逅』でバイトしてる柚子さん。中学の時からたまにお世話になってるんだよ」
夏目に柚子さんを紹介すると、それに合わせて柚子さんも軽く頭を下げた。
「こんにちは、安食柚子です。普段は市内の大学に通ってます。アナタは少年の……彼女さんかな?」
柚子さんは意味ありげな笑みを浮かべて、俺の顔をジロジロと眺める。
「えーと、それは……」
俺はどう言えばいいものか、答えに困窮する。
一応今の形としては付き合っていることになるが、それは学内では誰にも教えられないトップシークレットだ。
下手に答えても後で夏目の怒りを買いかねない。かといって下手な答えをしても命取りになりそう。なにこのギリギリの状況。
「うふふ、彼女だなんて面白―い! 私は神崎くんの友達ですよー」
「⁉」
逡巡していた俺に代わって答えたのは夏目だった。
久しく聞いていなかった、明朗で軽快なソプラノボイス。
夏目の脳内でどういった思考が働いたのかは謎だが、どうやら柚子さんには余所行きのお嬢様バージョンで対応することにしたらしい。
「ね、神崎くん」
「お、おう、そうだな」
一見すると可愛らしい純朴な眼差しで、俺にアイコンタクトをかましてくる夏目。
だがその本性を知っている身としては、軽くブルってしまうほど恐怖を感じる。だってほら、目が笑ってないもん。ここは大人しく同意しておくのが吉だろう。
「あらら、そうなんだ。ま、少年にはまだ早かったかな」
「ハハハ……そうすっね」
俺は誤魔化すような乾いた笑い声を発する。色んな意味で複雑な心境だぜ。
店内には俺たちの他には、現役を引退し厭世の境地に達した雰囲気を持つご老人のお客がいるだけだった。休日の昼間にしては寂しい混み具合だ。まあそれがこの店の良いところでもあるんだけど。
「さ、いつもの席で良いかな」
柚子さんは、俺がいつも座る窓際のテーブルに案内してくれた。こういう気の利いたところもこの店の魅力の一つなのだ。
据え置きのメニューを広げて二人仲良く眺める。
少しだけ悩んだ後、俺は店長の気まぐれカレー、夏目は店長の気まぐれオムライスを注文した。
「気まぐれって……どういう意味かしら」
「もう初めてここに来てから三年ほど経つが、未だに俺にも分からん」
ここのマスターは口髭を蓄えたとてもダンディーな初老の男性だ。非常に寡黙で、ほとんど声を発しているのを聞いたことがない。少なくとも気まぐれ感はゼロだ。俺の予想としては、おそらく見た目に違わず渋みのある低音ボイスに違いない。
ちなみに気まぐれと言いながらもマスターの料理の腕は確かで、いつ来てもこの喫茶店の料理はとても美味しい。
「や、少年」
暇そうにポケットに手を突っ込んだ柚子さんが、俺と夏目の座るテーブルに近寄って話しかけてきた。
他に注文を待っている客もおらず、料理を作るわけでもないので、手持ち無沙汰なのだろう。
「いきなりイメチェンし始めたときはどーなるかと思ったけど、こうして女の子を連れてきたってことは、高校デビューは成功したのかな?」
「いや、その辺はいろいろと事情がありまして……」
そういえば体操服盗難事件が起きてから、この喫茶店に来たのは初めてだった。まだ柚子さんは、俺が地獄の底へと住民票を移したことを知らないのだ。
夏目との関係性といい、一体どこから説明すればいいのかも分からないぞ。すべて話したら半日はかかりそうだぜ。
「これは失敗した結果というか、なんというか」
「そうかそうか」
柚子さんは俺の煮え切らない返答から何をくみ取ってくれたのかは謎だが、ウンウンと唸りながら何度も頷いた。
「ま、少年には明るいキャラは似合わなかったんだよ。無理をする必要はないさ。のんびりやりなよ」
「そんなもん……ですかね」
事情を話したわけではないが、人生経験が豊富である年上の柚子さんにそう慰められると、なんだか気が楽になるよ、ホント。
「そういえば、彼女のお名前を聞いてなかったわね」
「私、神崎くんの『お友達』の、夏目七緒と申します」
……やけに友達という単語を強調してくるな。
「夏目って……」
柚子さんは夏目の苗字を反芻して、驚いたように目を丸くする。
「もしかして、夏目家のお嬢さん?」
「はい、そうです」
「ほえ~凄いわね~」
柚子さんはカバのように口をぽっかりと開けて、感心したように気の抜けた声を漏らした。ほえーって、漫画かよ。
「柚子さん、アホっぽいですよ」
「こらー、神崎くん。年上の人に向かってアホなんて、メッだよ!」
「体操のお姉さんかよ!」
夏目もかつてないほどにぶりっ子具合が極まっているな。もはやお嬢様キャラを飛び越えて別の何かになっている気がする。
ていうか桜子もそれやってたけど、流行ってるのか?もしかして俺が流行に遅れてるだけ?
「私、実家が夏目邸宅の近所なのよね。昔から通学するときに前通っていたの、懐かしい。もしかしたら同じ中学じゃないかしら?」
「あ、いえ、私は東京の私立中学に通っていたので……」
「え、そうなの?」
意外なセリフに、思わず反応する。
夏目が東京で私立中学に通っていたなんて、完全に初耳だ。
聞いたこともなかったが、てっきり同じ市内で育ったものだと勝手に思い込んでいた。地区が違うどころか、ここと東京じゃ新幹線でもかなり時間がかかるくらい離れている。
「じゃあ高校進学で地元に帰ってきたんだ」
「まあ、そんな感じです」
えへへ、と曖昧な笑顔を浮かべる夏目。
どうした。普段は持ち前の演技力を生かして臨機応変に対応する夏目にしては、妙に歯切れが悪い答えだ。その表情も心なしか硬く見える。
「そっか」
都合が悪そうな雰囲気を察したのか、柚子さんもそれ以上この話題を追求することはなかった。柚子さんはそういった距離の取り方を心得ている人だ。
この年上のお姉さんは、初対面の相手にズカズカ踏み入るような無粋な真似はしない。
大学生くらいになると、取得単位項目に『距離感』の講座があるのかもしれない。俺もいずれはその技術をなんとか会得したいところだ。
「しかし、少年がこんな美人な女の子を連れてくるなんて驚いたよ。昔はよく似たような男友達と来ていたじゃないか」
「あいつらは――違う高校に行ったんで」
ポツリと言い訳じみたセリフを零す。
ふと、中学生の頃によくつるんでいたクラスメイトの顔が頭を過ぎる。
学校が違うとかそんな建前以上に、中学時代の友人とは圧倒的に距離が離れてしまったことは間違いない。
オタク仲間と駅前に繰り出した際には、このお店をよく利用させてもらっていた。
『邂逅』は俺たちのような冴えない連中でも、まるで優しく包み込むように受け入れてくれた。
あの頃もパッとしない生活だったことは間違いないが、少なくとも趣味を共有できる仲間がいた。
だが今の俺はどうだ。
そういったかつて交友を築いた連中とは、一切連絡を絶っている。今更声をかけられる筈もない。
入学当初は自分が高校デビューに成功したと勘違いをして、かつての友人達を内心馬鹿にすらしていた。
その上にくだらない疑いから仮面は剥がれ、己の人望のなさから高校でもすぐに孤立してしまったのだ。
俺は、ひどく愚かな奴だ。救いようのない、そんな話。
「ならしょうがない。でも、こんな可愛い女の子が友達ならいいじゃないか。ね、夏目さん」
「そんなー、可愛いなんてとんでもないですよっ」
「ふふっ、謙遜しちゃって」
「このこのー」と夏目に肩を寄せる柚子さん。綺麗な女性が密着している様子は見ていて心が安らぐ。荒んだ砂漠と化した俺の魂に一滴の潤いを与えるようだ。いつまでも見ていられそうだよ。
すると、柚子さんが思いついたようにピッと指を立てた。
「でも、彼女じゃないなら私が少年を貰っちゃおっかなー?イメチェンしてからちょっと、私好みになってきたんだよね」
「――ま、まじですか」
柚子さんはニヤニヤと笑みを浮かべて、品定めするように俺の顔を見る。
何か不思議な感覚が背筋を走り、照れからかゾワゾワとむず痒くなる。
柚子さんのような綺麗な女性にそんなお褒めをいただいたのは人生で初めてだ。
やはり大学生だから、高校生と違って、その、大人のお付き合い的なアレがあるんですかね?
いやもちろん僕みたいなクソガキにはちょっと想像も及ばないんですけど、もしかしたら大人の階段というか、年上の女性から手解きみたいなものを頂戴しちゃったりなんだったり……。
そんなことを考えていると、ふと、目の前の席から不穏な気配を感じた。
「――へんた、神崎くん」
ザクッ。
気がつくと、夏目の手に握られたフォークがテーブルの上に突き立てられていた。
あの……そこさっきまで俺が手を置いてた場所なんですけど。
「もう、鼻の下が伸びてるわよ、神崎くんったらはしたない」
うふふ、と実に柔和な微笑を湛えながら、俺の鼻先をチョンと突っつく夏目。いや、普段はそんなアメリカのトレンディドラマみたいな仕草絶対しないでしょ。どういうキャラチェンですか。
しかし、そのガラス玉のように透き通った瞳は絶対零度を記録しそうなほどの冷たさだった。
ちなみにもう片方の手にはしっかりとフォークの柄が握られている。とりあえず料理はまだ来ていないのでそのフォーク置いてくれませんか。
「……やだなー、そんなわけないじゃないですかー」
「なんでそんな棒読みなの、へんた、神崎くん」
「ちょくちょく言いかけるの止めてくださいお願いします」
「なんのことかしら。しね、神崎くん」
「今死ねって言った⁉」
先生、今夏目さんが悪口を言いました!
おいおい。雰囲気や表情は完全なるお嬢様バージョンだが、口調から腹黒さが徐々に漏れ出しているぞ。そのどす黒いオーラから、死の呪文でも唱え出しそうな勢いだ。
鼻の下が伸びるのも仕方がないだろ。
女子大生のお姉さんに好みと言われて胸がドキドキしない男子高校生など、真っ白なカラス並みにこの世には存在しない。
……そう思いつつも、テーブルに突き立てられたフォークがさながらゴルゴダの丘に聳える十字架のように見えて、俄かに湧き上がる夏目への戦慄。
柚子さんは何故か嬉しそうな笑顔で俺と夏目のやり取りを眺めながら、
「あはは、二人はとっても仲が良いみたいね」
「そう見えますか……?」
俺と夏目の関係なんて、捕食者のライオンと、狩りから必死に逃げるシマウマぐらいのパワーバランスだ。世間一般ではこれをイジメという。
「そうね、まるで恋人みたいよ」
「またまた御冗談をー。柚子さんってとっても面白い人ですわ」
「でも少年はヘタレだからなぁ」
「そうですよねー」
何故か遠回りに悪口を言われている気がする。俺を庇ってくれる心優しき人はこの世にいないのか。誰か助けてください。
「……まったく」
いつもクラスメイトに囲まれている夏目だけど、実際に面と向かって他人と話しているのを見るのは、実はほとんど初めての経験だったりする。
猫被っているのは分かっていたことだが、こうして改めて見ているとなんだか新鮮に感じるな。
柚子さんが俺の中学時代のイケてない様子を懐かしむように語り、それを聞いた夏目はおかしそうに笑っている。
その笑顔はごくナチュラルで、傍から見ればまさか仮面を被っているとは思えない。
ふと、思った。
夏目は演技をしながら周りと接していて、楽しいのだろうか。
彼女の立ち回りは神がかり的と言っても過言ではない。嫌味ではなく、本気で感心する。
教室ではいつも沢山のクラスメイトに囲まれ、彼女の話題で他クラスまで盛り上がる。先生や先輩ですら彼女に一目置いているのが分かる。それは全て、他ならぬ夏目自身の魅力的な振る舞いがそうさせている。
ただ明るく振る舞うだけなら、意外と誰でもできるのものだ。絶対に不可能というわけじゃない。
事実、十五年間陰キャラを通した俺でさえ、努力次第である程度クラスの輪に溶け込むことはできた。だが、ここまで突き抜けて人気者を演じる技術と精神力が伴う人間は殆どいない。
誰もが彼女を信奉している。人は自分よりも強い人間に憧れる。逆に自分より下の人間を見て安心する。そういうものだ。俺が保証する。
自分に言い訳をして、自分に嘘をついて、納得するのだ。
他人に理想を押し付けて、自分を正当化して、日々の生活に安定を求める。それは誰もが同じようにやっていること。
『あの人は才能があるから自分とは違う』
『きっとあの人なら私のことを分かってくれる』
そんな他者の願望と憧憬を、夏目は丸ごと背負い込んで学園のアイドルを演じているのだ。
考えてしまう。もし俺の嘘がバレなかったら、俺にはコイツほどのことが出来たのだろうか?自らの理想を貫き、周囲を騙し続けるという重圧に俺は耐えられたのだろうか?
でもそこに、夏目を本当の意味で理解してあげられる人間はいない。
腹黒で、毒舌で、無茶苦茶なお嬢様の、隠された心の底に手を差し伸べる人間はいないのだ。
なにより、夏目自身が理解されることを望んでいないようにすら思える。皆に囲まれる人気者。そんな夏目という人間が、俺には世界で一番孤独に思えた。
この笑顔も心からの笑顔なのだろうか。ただ状況に合わせて仕方なく作っているだけなのか。俺にはその真意を知る術もない。
俺は夏目のことを、何も知らない。
「……お待ちどう」
「はっ⁉」
油断しきっていた柚子さんの後ろに、右手にカレーライス、左手にオムライスを携えた髭のマスターが仁王立ちしていた。
いつの間にか調理を終えて、話に夢中になっている柚子さんを待ちかねて自らフロアに現れたらしい。
「……マスターがしゃべった」
柚子さんが酸素を求める金魚のように、小さな口をパクパクさせている。
バイトを始めて長い柚子さんにとっても、マスターが喋るのを目撃することは珍しいらしい。
もちろん俺も完全に初見だ。
ちなみに、予想通りの響くような心地良い低音ボイスだった。
「……」
コツリと静かな音を立てて皿をテーブルに置き、柚子さんへ鋭い視線を向けるマスター。
「わ、私キッチンの掃除してきますね~。じゃ少年と夏目さん、ゆっくりしていって!」
そう言うが早いか、鋭い眼光から逃れるように柚子さんはお店の裏方へと姿を消した。さながら伊賀流忍者のような身のこなしだ。柚子さんの通う大学には忍術の実技科目も存在するのかもしれない。
「まったく、いつも元気だな、柚子さんは」
相変わらずの様子で、俺は内心でホッとしていた。
この喫茶店の雰囲気も、柚子さんも、マスターも、昔のままなんら変わりない。
思い返せば、たった一か月の間に俺の居場所は全て変わってしまった。
この喫茶店は、俺にとって数少ない変わらない憩いの場所なのだ。
教室に居るときのように、気まずい思いをすることもない。今の俺にはそれだけで本当にありがたい。柚子さんにからかわれるのはちょっと辛いところもあるが。
「……本当に、面白い人ね」
俄かに立ち上るカレーライスの湯気を払うように、夏目はポツリと呟いた。