『……高校デビュー?』
『あれ、興味あるの? この雑誌』

『え、いやべつに……』
『はい、これさしあげますよ』

『いや、そんな、悪いよ』
『いーの、手伝ってくれたお礼です!』

『――あ、ありがとう』
『中学の制服にその筒を持ってるってことは……もしかして今日卒業式だった?』

『そ、そうだけど……よく分かったね』
『うふふ。アナタもきっと、高校ではこの雑誌の表紙みたいになれるよ』

『いや、俺にはこんなキラキラした感じ……無理に決まってるし』
『そんなことない! 頑張ればきっとなれるはずだよ』

『そ、そうかな……』
『私が言うんだから間違いない』

『――きっと、素敵な姿に変われるはずだよ』

☆☆☆

 この街は坂が多い。
 もとは山だった土地を切り開いて開発したという経緯があり、町内を歩きまわろうと思えばそれなりの覚悟がいる。

 俺が通学している高校も例に漏れず、日本海の絶壁さながらに、首をもたげて見上げるほど勾配のキツイ坂の頂上に存在している。

 この高校に自転車で通学しようと思うものなら、ツールドフランスに出場するロードレーサーばりの脚力を必要とし、毎朝地獄のトレーニングを己に課しているものといって掛け値ない。

 俺はべつに日本人初のオリンピック自転車種目金メダリストを目指しているわけでも、毎朝かかなくてもいい汗をダラダラと流しながら身体能力の向上に努める勤勉なスポーツマンなわけでもないので、大人しくバス通学をしている。文明の利器、最高。

 坂道を登るなんてのは余計な手間だし、面倒くさいことこの上ないと内心思いながらも、俺は一つだけ気に入っている部分がある。

 それは、暖かい風が坂の上に向かって吹き上げてくれることだ。
 特に五月なんて春真っ盛りには暖かい春風が身体を包み込むように吹き、のんびり日向ぼっこでもしていると小高い丘の上にピクニックに出も来たような気分になれる。

 ああ、この気持ちの良い天気。癒しの時間。雲一つない快晴。

 ある日の昼休み、俺はそんなことを考えながら校舎裏のベンチに腰掛けていた。

「はー、いい天気だな」
「余生を楽しむジジイみたいなことを言うのね、アナタ。きっと教室に居場所がないあまり、現実逃避でもしていないと生きていけないのでしょうね。あー可哀想な人」
「天気が良いって呟いただけでそこまで言う⁉」

 独り言に対する判定が厳しすぎる。

 怒涛の悪口を流水の如くスラスラと並べたてるこの女。
 夏目七緒が、俺の真横で同じベンチに腰掛けていた。

 腰掛けているといっても、端と端。
 そこまで長くない小さなベンチの面積を最大限に使って、まるで近寄りたくもないと訴えかけるかのように距離を離して座っている。他所から見たらまったくの他人同士だと思われるレベル。

「――そういえば、工事業者の人が謝りに来たわ」
「あー俺のとこにも来たよ」

 屋上からの鉄パイプ落下事件。
 どうやら原因は昼休み中に工事を行っていた業者のミスだったらしい。

 積んであった建設材料が何かの拍子で崩れたそうだ。その真下に俺たちがいた。どんな偶然だよって思わずツッコみたくなる。

 入院していた病室で、親方という呼び名が相応しい厳ついオッサンにとにかく平謝りされた。二回りも年が上の男性にここまで謝られることなんて人生でもそうないだろう。
 まあ、あってはならない事故だったけれど、大事には至らなかったのでまだ良かったとしよう。直前に叫ばれた「危ない」という言葉のおかげでなんとか避けられたしな。

「でも事故の時のことも覚えてないんだろ?」
「ええ、まったく」

 夏目は澄ました顔で頷いた。

「だから、いまだに信じられないわ。アナタみたいな学校の最底辺を這いつくばっている存在と、高貴で華々しい存在の私が付き合っているなんて」
「そんなの――俺だってそう思うよ」

 夏目はフンッとそっぽを向いて、片手に握ったお気に入りの『紅茶エデン』を口へと運んで傾ける。

 事故の後、夏目は入学式後の約一か月間の記憶を喪失した。

 お医者さんによると、事故による衝撃が原因で、自然に記憶が戻ることを期待する以外に治療のしようがないらしい。そしていつ頃記憶が復活するかもまったく分からない。

 俺はそんな状態の夏目に、ある嘘をついた。

『俺と夏目は付き合っている』

 どうしても、この奇跡的ともいえる偶然で掴んだ繋がりを、手放したくなかった。
 だから、嘘をついた。俺は最低な野郎だ。

 夏目を騙すことになる罪悪感。
 言い訳をするわけじゃないが、もちろん夏目を傷つけるようなことをするつもりはない。

 もう少しの間だけ、この下らない会話を繰り広げるだけの時間を、延長したいだけなんだ。もう俺に、このベンチ以外に居場所はない。

 俺の言葉を聞いた夏目は当初は激しく不信感を露わにしたが、夏目が周りを騙して演技していること、瀬野さんの存在、そして校舎裏で出会ったことがキッカケで仲良くなったことを説明したところ、しぶしぶだが納得してくれた。

 やはり誰にも演技のことは明かしていなかったようだ。
 だからこそ、それを知っていた俺は近しい存在だったと認めてもらうことが出来た。

 後から誤解されることを恐れて、すでに俺の抱えている事情は説明してある。
 かなり俺に都合の良いように贔屓目に説明した効果か、思ったよりも拒絶されることはなかった。初対面のとき同様、苛烈な毒舌に晒されることにはなったけどね。うん、辛い。

 そして事故から数日。
 やっとこさ退院した俺たちは、再び昼休みになると校舎裏のベンチで顔を突き合わせるようになった。

 ベンチはもともとお世辞にも綺麗とはいえない外装だったが、事故を受けてところどころの塗装が剥げてしまって、さらにボロい感じになっていた。むしろその傷跡が苦楽を共にした盟友のような気がして、俺は嫌いじゃない。

「ねえ、一応聞いておくけど、告白はどちらからしたのかしら」
「あー……俺からだね」

 俺は夏目の質問に、目を合わせないようにして空を見上げながら口からデマカセを吐く。その漆黒が彩る瞳に目を合わせてしまえば、心の奥底まで見透かされてしまいそうな気がした。
 だが夏目は特に疑う素振りもなく、深く詮索することもなく、短く溜息をつく。

「ふーん……なんでそのときの私はオーケーしたのかしらね」
「さあな、俺の魅力にやられちまったんじゃねぇか」
「つまんない」

 シンプルにすんません。
 しかし夏目の様子を見る限り、俺の吐いた交際しているという嘘を一応だが信じてくれている。攻撃的な性格に見えて、意外と夏目は根が素直なところがあるのかもしれない。

「まあ、少なくともお前の学園のマドンナみたいな演技は、みんなに通用してるよ。俺以外気づいてる人間は皆無だろうな」
「それは教室で過ごしていてすぐに分かったわよ。退院してから初めて教室に入ったとき、男女問わず大勢のクラスメイトに囲まれて大騒ぎだったもの。まったく、人気者は辛いわね」
「あーそうかい。そりゃ重畳で」

 俺なんて、ケガの心配をしてくれるどころか「帰ってきたのかよ、チッ」的な批難がましい視線すら感じたぞ。国会答弁を通じて与党に学校内人気格差の是正を訴えたいぜ。まあ圧倒的大差で反対多数だろうが。

「――知らない人間が親し気な口をきいてくるのは、不気味な光景だったわ」
「まあ……そうかもな」

 普段の生活の一か月間分の記憶が消えただけなら、まだそこまで大きい弊害はないだろう。
 だがコイツが記憶を失った期間は、入学式からの一か月間という、人間関係の構築や生活の根幹を成すうえで、非常に大切な時期だったのだ。

 クラスメイトのほとんどが、自分がまったく知らない人間たち。だが向こうは自分のことを知っている。

 夏目はお利口さんな演技を崩さず気丈に振る舞ってはいるが、本人が置かれている状況は、さぞかし奇妙で不安なものだろう。
 それなりにストレスも堪っているのかもしれない。でもだからといって悪口で人を傷つけるのは良くないよ?

「これも確認だけど……私たちのお付き合いは、他の誰も知らないわよね?」

 夏目は俺の方に身体を向き直して、疑うような視線を向けた。それは純真さからはかけ離れた、意地の悪そうなジト目。とはいえモデルのような容姿を持った夏目に見つめられると、思わず緊張で鼓動が早まる。

「知らねぇよ。誰にも言えるわけないだろ」
「そう、良かったわ」

 夏目は俺の言葉に、満足したようにコクリと頷いた。

「そんなに知られるのが嫌か?」
「当たり前でしょ。私はみーんなの夏目七緒なんだから」
「アイドルみたいなこと言うな、お前」
「そうね、なんなら流行りのスクールアイドルとして私もデビューしようかしら。たしか私の父と懇意にしているテレビ局の社長がいたから」
「コネ使う気まんまんじゃねぇか!」

 夏目財閥ともなるとフツーにありえそうで困る。これが社会の闇というやつか。そしてスクールアイドルって。コイツ意外とそういう流行りの今っぽい言葉を知っているんだな。

「ところで」

 夏目は何かを思い出したような表情で、髪をかき上げた。

「アナタは私のどこが好きなのかしら?」
「す、好きって」
「あら、好きだから告白したんじゃないの?」
「そりゃそうだけどさ……」

 平然とした表情でズバズバ聞いてくるな、コイツ。照れとかないのか。それとも俺が過剰に反応しているだけか。

「早く言いなさいよ。それとも沢山ありすぎて何から言えばいいものか途方に暮れているのかしら」
「お前のその絶対的な自信はどっから湧いてくるんだよ」

 ある意味コイツも鋼のメンタルしてるよ、俺とは別の意味で。
 面倒くさそうに脚を組んで毛先を指で弄んでいる夏目を眺めながら、なんと答えたものかと頭を働かせる。

 どこが好きかって?
 そもそも、俺は夏目のことが好きなのだろうか?

 俺はコイツとこうして下らない会話をする時間を引き延ばすために、付き合っているという嘘をついた。

 だがその感情は、単純な男女の好意とは少し離れた場所にある。
 自分でもよく分かっていないし、上手く言語化できない感情だけど、そんな気がするのだ。

「……しっかりしているところ」

 数秒悩んだ結果、すごく味気ない無難な返答になってしまった。しっかりしてるってなんだよ。オカンか何かなのか。

「なにそれ」

 夏目は呆れたように膝を軽く叩いて、溜息をついた。

「気の利かない男ね。そこは『全部だぜ、マイベイビー』っていうところでしょ」
「それを言った時点で俺は全てを失う気がするんだが……」

 お前の中で俺はどういうキャラなんだよ。そんなバブル期の勘違い男を演じた記憶はないぞ。

「揶揄い甲斐があるわね、アナタって」
「うるせえ、心臓に悪いことすんな。俺が心筋梗塞で緊急搬送されたらどうするつもりだ」
「あら、大丈夫よ。通報せずに放置するから病院に搬送されることはないわ」
「それ絶対何らかの罪に該当するぞ……」

 これが孤独死というやつか。現代社会に生きる人々の精神的病巣の一端を垣間見た気がする。

 夏目はまた呆れたように微笑んで、紅茶エデンの表面に伝う水滴を指先で拭った。

「ふふ……本当に。本当に不思議だわ。世界七不思議に次ぐ不思議ね」
「なんだそりゃ」

 お前はネッシーかよ。

「だってアナタみたいな人を、初めての恋人に選ぶなんて」
「えっ、付き合うのとか、初めてなのか⁉」

 あまりにあっさりとした口調で、衝撃の告白。
 俺は驚きのあまり、思わず身を乗り出して素っ頓狂な声を張り上げる。

「ええ、そうよ。悪いかしら」

 俺の動揺を他所に、特に動じることもなく表情を崩さない夏目。今度は冗談、というわけではないらしい。

「いや、べつに悪くはねーけど……」

 そういうの、臆面もなく言うもんか?
 夏目の堂々とした振る舞いにも驚きだが、交際経験がないというのも意外なことだ。
 夏目ほどの美少女ともなれば、トップレベルのイケメンから将来を約束された医学部学生まで彼氏候補として立候補し大挙し押し寄せ、あらゆる男どもから引く手数多であろうに。

「あら、私が初心な女だということはアナタにとっては朗報だと思うわ。アナタみたいなゴミクズ妄想異常性癖男、ろくに女子と付き合ったことなんてないんでしょ」
「もう悪口が俺のフルネームよりも遥かに文字数多くなっちゃってるよ!」

 中学まで陰キャラまっしぐらで、妹と母親以外の女子と会話したことなど数えるほどしか経験がない男。それが俺。女子と付き合うだなんてもってのほかだ。

 我ながらなんて悲しい青春。どどど童貞ちゃうわ!ってリアルに言っちゃうレベル。

「初心者同士の方が気楽でしょ?格闘ゲームだって玄人よりも実力が同じくらいの素人の方が楽しめるし成長のしがいがあるじゃない」
「それはたしかにそうだけど……」

 相変わらずたとえがよく分からない。

「とにかく、私はあまりそういった不純異性交遊には精通していないんだけど……」
「不純って」

 べつにいかがわしい行為を試みた記憶はない。後ろめたくはあるけど。

「フツーの男女は、その、付き合ったりしたらどんなことをするのかしら?」
「そりゃ……お昼を一緒に食べたり、デートしたりとかじゃないか」

 俺は適当に思いついた事柄を並べる。
 情けないことに、俺はそれぐらいしか知識がない貧相な経験値の持ち主なのだ。アールピージーでいえば職業すら与えられていない段階の始まりの村くらい。

「ふむ、なるほどね」

 何故か実験結果をサンプリングする科学者みたいな口調になって頷く夏目。もしコイツが研究職にでも就いた暁には、違法な人体実験の末に悲しき合成魔獣が生成されるマッドな結末を迎えることだろう。

「それは有意義なものなのかしら? 私はよく分からないんだけど」
「そりゃ……楽しいんじゃねぇの。好きな奴とだったら」

 自分でそんなセリフを言いながらも、実際俺もよく分かっていない。

 眩暈のするような人混みの中にわざわざ繰り出して、好きでもないウィンドウショッピングに興ずるなど、ともすれば徒労ともとれる行為にも思えなくもないが、日本中のあらゆるカップルが右に倣うようにこぞって同じデートを重ねている現状を鑑みれば、おそらくそれはとても有意義なことなのだろう。

「じゃあ……そうね。今週の日曜はデートをしましょうか」
「は⁉」
「あら、嫌なのかしら?」
「べべべつに嫌じゃないけど……」

 思わぬ展開に鼓動が一段飛ばしで大きく躍動する。この俺が夏目とデートだと?

「そう……ね。デートがいいわ。うん、そうしましょう」

 俺がもじもじと内股を擦りながら悶える様子を、提案を承諾したサインだと解釈したのか、夏目は満足そうに大きく頷いた。

「神崎くん。アナタは私とデートしなさい」

 夏目七緒は、有罪判決を宣告する裁判官のように、高らかに言い放った。