昼休み。それは高校生にとって憩いの時間。

 ここで行われる食事は、単純に昼食をとるという行為に留まらず、交流を深めるためにとても大切な機会だ。

 昼休みの時間を一緒に食卓を囲み、世間話に花を咲かすことは、それ自体がなにより友情を育んでいる証明に他ならない。

 教室では仲の良い者同士が集まり、それぞれのグループを形成している。
 そこで繰り広げられるのは、教師への不満とか、昨日見たバラエティー番組の面白かったところとか、そんな数時間後には忘れてしまうようなどうでもいい話。

 しかしなんでもないそんな時間こそが、なによりも楽しい青春の一コマなのだ。

 ――かくいう俺は。
 人気の無い校舎裏。一体誰が利用するのだろうと不思議になるほど、ポツンと寂し気に佇んでいる小さなベンチ。
 さらに、そこにポツンと座っている俺。

 五月に差し掛かり、もう季節は春真っ盛り。
 桜は散って、木々は青々とした葉を纏って風にそよいでいる。
 しかし、そんな肌に心地よい暖かさも、俺の切ない心を温めてはくれない。
 俺に与えられた汚名は『変態嘘つき』。

 体操服盗難事件の後、俺はスクールカーストで断トツの最下位に転落した。
 順位でいえば、だいたいバクテリアのちょっと下くらい。まさか高校生にもなって細菌と存在価値を僅差で争うことになろうとは想像もしなかった。もはや涙を通り越して笑えてすらくる。ははは、ウソ、やっぱり泣ける。

 そんな『変態嘘つき』な俺に居場所などあるはずもない。
 昼休みになると息苦しい教室を離れて人気の無い校舎裏に向かい、そこで一人寂しくメシを食っているというわけだ。

 初めは「屋上でひとり昼食ってちょっと青春っぽくね?」と思って屋上への進出を目指したが、工事中のため立ち入り禁止になっており、あえなく断念。
 神様は捨て犬の如き哀れなこの俺に、一かけらの青春要素すらも与えてはくれないらしい。
 もしその神様とかいう空想上のオッサンがあの空の上から眺めているのだとしたら、そいつは相当性格の悪い奴に違いない。嘲笑う声が聞こえてきそう。

 そんなこんなで校舎を彷徨っていた俺は、校舎裏に誰も使っていないこのベンチを見つけたのだ。
 通りかかる人間すらいない、世界から忘れられたように、そこに鎮座するベンチ。

「お前も……独りなのか」
「……」

 土砂降りの雨の日に、捨て猫に傘を差しだすヤンキーみたいなセリフを呟いてみたが、ベンチは何も答えない。
 ですよねー。当たり前だよ、ベンチだもん。

 もういい。今日からコイツが俺の相棒だ。決定。
 そんな運命的な出会い以来、俺は昼休みになると通い妻のように足繁く校舎裏へ足を運んでいた。

 ここにいれば、少しでも教室で気まずい時間を過ごさなくて済む。
 俺にとってありがたい、唯一の安息の地だ。

 そういえばベンチのすぐ近くには自動販売機も一機だけ設置してあり、飲み物の供給にも事欠かない。
 いったいこんな辺鄙な場所に誰が飲み物を買いに来るのか謎だ。果たして採算は取れているのだろうか。

 さて、今日もここでゆっくりと食事をとろう。
 ベンチに腰を下ろし、コンビニのパンをむしゃむしゃとワイルドに頬張る。
 誰も見ている人間などいないので、食べ方など気にしない。気楽なものだ。

 別に部活で運動をしているとか、そういうわけでもないのに、昼休みになると食欲は定時出勤するビジネスマンのように律儀に訪れる。
 授業を生真面目に聞くという行為が及ぼす脳への過度な負荷は、なぜだかお腹が空くという事象に変換されるらしい。まったくもって不思議な話だ。
 しかしながら、およそ理解の外である英文を解読することを放棄し、世界を守るヒーロー物語の空想に耽ったところで同じくお腹はペコペコになるもので、そのメカニズムは難解極まりない。いったいどういう等価交換が働いているのだろうか。
 そうだ!このメカニズムを解明し、独自の理論体系を完成させたら、もしかしてノーベル賞も夢ではないのでは。俺はとんでもない世界の秘密に気がついてしまったのかもしれない――

「……はあ」

 思わず漏れ出る嘆息。
 虚しい妄想で時間を潰す。なんて悲しい青春だろう。
 イケてない青春選手権があるなら入賞間違いなしだ。

 これが俺の望んでしまった、大き過ぎる願いの代償か。
 ここまで多大なる犠牲を払うことになろうとは、想像もしてなかったぜ。

「世知辛えなー」

 ベンチに深く腰掛け、空を見上げる。
 雲一つない晴天、清々しいほどの五月晴れ。

 あ、あの雲なんだか羊に似てる。こんな静かなところで昼寝したら気持ち良いだろうなー。昼寝でもしてこんな現実から逃避したい。

「あら、何か辛いことでもあったんですか?」

 空を見上げる俺の視界に、突然覗き込むように人影がにゅっと現れた。

「うお⁉」

 いきなり現れた人影に、のけ反って飛び上がる。

「うふふ、ごめんなさい、驚かせて」

 人影がイタズラっぽく笑う。
 鈴を鳴らしたような、聞き心地の良い声。

 そこに、ものすごい美少女が立っていた。

 俺はあまりに辛い現実から、遂に頭がやられてしまって幻覚を見ているのかと自分の目を疑った。
 学ランの袖で目をゴシゴシと擦る。いや、確かにこれはリアルらしい。

 ものすごい美少女が、俺を見て笑顔を浮かべていた。
 こんな美少女が笑ってくれるほどなのだから、今の俺は相当マヌケな表情をしていたに違いない。

 その少女は恐ろしいほど可憐な美しさを纏っていた。
 まるでテレビ画面からアイドルが飛び出してきたみたいだ。ものすごく頭の悪い表現であることは自覚している。でも実際にそうなのだから他に言いようがない。

 腰まで伸びた綺麗な黒髪が、風に揺れて流砂のようにサラサラと流れる。どこか儚げで、幼さを残す顔立ち。
 触れたら消えてしまいそうな透明感のある肌に、太陽の光がプリズムのように乱反射している。

 さっきまで雄大に感じていたはずの青空や周りの風景が、途端に彼女の美しさを引き立てるだけの役に成り下がってしまった。こんなの、三次元で許されてもいいのか。

 なんで、この女の子はここに。
 あまりの驚きに口のきけないロボットのように固まっていると、美少女は再び俺の顔を覗き込んだ。

「あの……本当に大丈夫ですか?」
「えっ、あっ、いや、全然大丈夫だけど……」

 やべ、またコミュ障モード全開になってる。
 早く対リア充用モードにならないと!

 ……ってもうその必要はないんだったか。

「ごめんなさい、あまりにも油断しきった顔をしてたから、ついイタズラしたくなっちゃいました」

 イタズラしたくなったとかなんですかその遊び心。最高なんですけど。

「いや、別にいいよ、死ぬほど驚いたけど……」

 俺の言葉に、美少女はクスリと微笑みを零す。

「お昼ご飯を食べてたんですか?」

 その言葉と同時に彼女の視線が俺の右手へと動く。
 俺の右手には食べかけの惣菜パンが握られている。うわ、ぼっち飯していたのがバレた。
 なんかものすごく恥ずかしい。穴があったら五体投身で潜りたい。

「あ、うん。ココはあんまり人がいないから……」
「この辺り静かでいいですよね、穴場って感じです」

 美少女は俺の動揺具合を指摘するでもなく、のんびりと辺りを見渡す。
 俺の場合は単純に教室に居場所がないから逃げ込んだだけだけど、確かに捉え方によっては静かに過ごせる穴場と言えなくもない。
 しかしこんな美少女が、こんな辺鄙な場所にわざわざなんの用だろう。

「あの……君は」

 俺は緊張で震える腕で、その八頭身ばりに小さい顔を指さす。

「あ、ごめんなさい、まだ名乗ってなかったわね。私は—―」
「――夏目七緒さん、でしょ」

 知ってる、知ってるから。
 だって。

「驚きました! よくご存じですね」

 脳裏に浮かんだおぼろげな光景が、驚嘆のソプラノボイスに掻き消される。
 目の前の美少女は豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くしていた。

「あー、その、入学式で答辞読んでたからさ」

 そっか、そうだよな。
 俺は思わず零しそうになった言葉を飲み込んで、慌てて誤魔化す。

 街を歩けば、全ての人が振り返るような美しさの持ち主、夏目七緒。

 俺と同じ学年で、入学式は新入生代表として舞台に立っていた。
 入試の成績が一位の人間が代表に選ばれるとたしか聞いたことがある。ということは相当勉強ができるはずだ。

 今でもハッキリ覚えているが、入学式で答辞を読んでいたその端正な容姿と凛とした振る舞いに、見惚れなかった生徒は一人もいないだろう。もちろん俺も例外ではない。

「あ、覚えてらっしゃったんですね。私目立つのとか得意ではなくて……恥ずかしいです」

 照れたように頬を朱色に染める夏目さん。
 壇上で見た堂々とした姿とは違って、どうやら普段は控えめな性格らしい。

「いや、夏目さんはもとから有名人じゃん。学校で知らない奴はいないと思うよ」

 それもそう。夏目という苗字は、この土地では特別な意味を持つ。

 容姿端麗、勉学優秀であるというだけでも相当なハイスペックな存在なのに、夏目七緒は国内でも有名な夏目財閥のご令嬢であられるのだ。

 夏目財閥といえば、日本有数の巨大な企業集団を束ねる一族で、その規模は色んな意味で半端じゃない。
 系列の企業や扱っている製品を挙げ始めれば枚挙に暇がないくらいで、国内に住んでいるのなら、誰もがその恩恵を何かしらの形で享受しているはずだと断言できる。

 その総本家がこの高校と同じ市内にあるのだ。
 市内に住んでいる者なら、夏目家の所有する大豪邸を知らない者はいない。
 広大な土地に豪勢な日本庭園を構えており、一部では観光名所として扱われているほどである。

 その夏目家のご令嬢が同学年にいるということで、他クラスのウチまで大きな話題になっていた。
 そういえばなぜかウチの母親まで彼女のことを知っていたな。とにかくそれくらい夏目家はこの辺りじゃ有名なのだ。

「そ、そんなことはありませんよ、たまたま家が少し有名なだけで、私は全然」

 夏目さんは手を振りながら顔を背けた。どうやら彼女はえらく謙虚な性格のようだ。
 お嬢様といったら高飛車なイメージを勝手に抱いていたが、むしろ褒められ慣れていないくらいに反応が初々しい。まさに清純、といった感じだ。

 チートなステータスをまるで鼻に掛けていない、謙虚な姿勢。素直で可愛らしいその素朴な素振り。
 非の打ち所がないぞ、この子。まさに学園のアイドルの称号が相応しい。なにより、とにかく可愛い。

「……ん?」

 ――はずなのに。
 俺は一瞬息を止めて、拙い思考に考えを巡らせる。

 あれ、なんだろう、この不思議な感じ。
 モヤモヤとした形を持たない違和感が、心の中でゆっくりと首をもたげる。

 それはまるで「好きな漫画がアニメ化したときに吹き替えの声がイメージしていたのと全然違った」みたいな、小さなズレ。

 俺は頬を朱色に染める彼女を眺めながら、ふと言葉を漏らした。

「――なんで、演技してるの?」
「え?」

 夏目さんの表情が、まるで絶対零度で瞬間冷凍されたかのように固まる。
 しまった、一体何を言っているんだ俺は。孤独のあまり遂に頭がおかしくなってしまったかこのポンコツめ。

 ――ただ一瞬だけ。
 そう、楽しそうに笑う夏目さんの振る舞いが、どこか台本を読んでいるかのように感じられたのだ。そんなはずは絶対にないのに。

「ご、ごめん、なんでもない」

 俺は慌てて手を振って誤魔化そうとする。

「……演技だなんて、とっても面白いことを仰るんですねっ」

 眉を寄せて、拗ねたように笑う夏目さん。
 口先を尖らせたその表情はナチュラルそのもので、わざとらしさなど微塵もない。ああ、やっぱり可愛い。完全に俺の気のせいだったんだ。

「あはは、何言ってんだろ、俺」

 乾いた笑いを浮かべながら、自らの頭を拳で殴りつけて己へ制裁を加える。このアホ!春は悪い子!

 あの超絶人気者で知られる夏目さんだぞ。
 こんな校舎裏で一人飯を食っている初対面の俺相手に、満点の笑顔を向けてくれる天使だぞ。
 まさか下らない「良い人」の演技なんてするはずがない。

 でも、なんでだろう。なんか、チグハグに見えたんだけど。

 夏目さんは小首を傾げて少し考えるような素振りを見せてから、思いついたように俺を指さした。

「――そういえば、あなたのお名前を聞いてませんでした。伺ってもよろしいですか?」
「あー、俺は二組の神崎春」

 ――名乗ってから、しまったと思った。
 俺の悪評はおそらく、武功を挙げた有名な武将の如く他クラスにも轟いていることだろう。三国志でいう呂布もかくやといったところだ。まったく誇らしくないけど。

 目の前にいる男が、学校一の嫌われ者である『変態嘘つき』だと知られたら、こんなおっとりとした彼女でも幻滅するに違いない。
 気持ち悪がらないで欲しい、という方が無理な相談だ。絶対嫌われる。

 ――いや、待てよ。
 もしかしたら……この純真無垢で麗らかな彼女だったら、罪深い俺を許してくれるのでは?

 優しい夏目さんなら、学校で唯一フツーに話せる、友達になってくれるかも!

「……なるほど。あなたが噂の変態」
「え?」

 何て言ったんだろう。
 夏目さんが何か小さい声で呟いたが、上手く聞き取れなかった。
 なぜか「うんうんなるほど、どうりで……」と納得しながら小さく頷いている。え、どういうこと?

「いえ、なんでもないです。それより、そこ退いてもらえますか?」
「え、ああ、ごめん……」

 あれ?
 なんか急に夏目さんの態度が強気になったような……?

 まあ気のせいだろう。
 こんな赤ちゃんをコウノトリが運んでくると未だに信じていそうな、花も恥じらう美少女が、粗暴な態度など取るはずがない。

 夏目さんの視線の先を追って振り向く。
 どうやら俺の立っていた背後に設置されている自動販売機が目当てだったらしい。

「こんな校舎裏の自販機までわざわざ買いに来るなんて、珍しいね」

 採算が取れているのか疑いたくなるほど、ほとんど人通りのない立地だ。
 この自販機が役目を果たしているのを目撃するのは、俺以外では初めて。
 こんな美少女が喉を潤すためにコイツを必要としていると考えれば、自動販売機冥利に尽きるというものだろう。よかったな、自動販売機。

「えーと、そうですね。ここにしか『紅茶エデン』が売ってないんですよ。他の場所は全部『午前の紅茶』なので。それだけです」
「へ、へー、そうなんだ」

 夏目さんがこちらをチラリとも見ずに、抑揚のない早口で答える。無感情で塗りつぶしたような横顔。
 つい先ほどまでずっと浮かべていた可愛らしい微笑も、彼女の表情から抜け落ちていた。

 気のせいじゃない。明らかに態度が変わってきている。
 ――やはり俺の悪評を知っていたのだろうか。

 話していた相手がうんこマンだと知って気を悪くしたのだろう。
 流石の優しいお嬢様も、うそつき窃盗犯には嫌悪感を抱いたに違いない。

 少し喋っただけなのに、初対面の相手にもう嫌われてしまったとは、かなり泣ける。とんでもない業の深さだ。俺は前世でいったいどんな罪を犯したというのだろう。

「あれっ……ない」

 夏目さんは制服のポケットをポンポンと叩いて、慌てたようにその中を覗いた。
 もしかして、財布を教室に忘れてきたのだろうか。まあ、ありがちなミスだな。俺もたまにやる。

 まあ俺の場合はお金を借りる相手もいないし、賑やかな教室にわざわざ戻るのも気が引けるので、そういう時はひたすら断食に徹する。お手軽なダイエットができます。

 ちょうどさっきコーヒーを買ったおつりがポケットに入っていたので、

「あの、良かったらお金貸そうか?」

 相手の態度が余所余所しくなったからといって、俺は邪険にしたりはしない。ここはあくまで紳士的な態度で、援助を申し込む。少しずつでも同級生たちからの信頼回復を目指さないとな。

「ちっ」

 え、今この子舌打ちしなかった?俺の気のせい?

「……ありがとうございます」

 明らかに不満そうな表情を浮かべながら、手を差し出して俺から小銭を受け取る。
 そこまで機嫌を損ねるようなことを俺言ったかな?

「……って足りないじゃないの!」
「え、マジで、ごめん」

 夏目さんの手の平を覗くと、七十円しかなかった。
 紅茶エデンは百三十円。ミスった!

「……使えないわね」
「えっ、今使えないって」
「……ゴミ」
「ゴミ⁉」

 まさか今、俺のことを廃棄物扱いした?

 ちょっと待ってくれ。夏目七緒。
 もしかしてこの子フツーじゃない。

 不満そうにこちらを睨みつける夏目さん。
 先ほどまでのお嬢様のような振る舞いは幻覚だったのか?
 もう何が何だか。あまりの態度の変化に混乱を禁じ得ない。

 そんなことを考えながら彼女を眺めていると、ふと夏目さんの肩の辺りに目が留まった。

「あのー、夏目さん、肩にカナブンがとまってるよ」

 俺としては「いやーカナブンだなんて春らしいねー」くらいの感覚で何気なく言ったつもりだった。

 しかし。
 それは彼女の視線が、肩にとまったカナブンへ動いた瞬間だった。
 一瞬の静寂の後、落雷のように空気が張り裂けた。

 閑静な辺りに響き渡る金切り声のような悲鳴。
 女性の本気の叫び声を、生まれて初めて聞いたかもしれない。

「いいいいやあああああキモイキモイしねしね‼」
「ちょ、ええ、死ね⁉」

 夏目さんは声帯が破れるんじゃないかってくらいの勢いでもう無茶苦茶に叫びまくり。
 まるで時限爆弾が装着されたかのように取り乱しようだ。
 整った顔も取れたてのリンゴのように真っ赤で、綺麗な髪は台風に晒されたかのようにグシャグシャ。

 もはや見境なし。
 突然の事態だが、ここは俺が何とかするしかない。

 暴れまわる夏目さんにぶん殴られないように、俺はボクサーよろしくステップを踏むことでなんとか身体を近づけた。

 そして一瞬の隙をついて、肩にへばりついたカナブンを掴んで引きはがす。オーバーハンドですぐさまキャッチアンドリリース。

「ほらっ、とれた!カナブンは自然に帰りました!バイバイ!だから落ち着けって」

 全力疾走した直後のように肩を揺らす夏目さんを必死に宥める。
 そうだね、怖かったよね、もうカナブンのおバカさん!

 ……ていうかなにこれ、どういう状況?

 俺のパフォーマンスの甲斐あってか「ふしゃー、ふしゃー」と発情期の猫のように息を荒げながらも、次第に夏目さんの呼吸は徐々に落ち着いてきた。

「あの……もしかして夏目さんって、虫苦手?」
「そんなの見ればわかるでしょこのウスラトンカチ‼」

 夏目さんは鬼の形相で俺に向かって唾を飛ばして叫ぶ。
 おいおい、そんな怒らんでも。そしてウスラトンカチって。久しぶりに聞いたわ。お前さてはうちは一族の末裔か。

 いやいや、問題はそこじゃない。
 ちょっと待て。なんだこの女、キャラ変わり過ぎだろ⁉

「超怖いよ‼ さっきまでのお嬢様はどこ行ったんだ⁉」

 出会った当初の可憐で柔和な雰囲気など風速八十メートルで吹っ飛び、今俺の目の前には暴言を吐きまくる粗暴で輩のような女の子が立っていた。

 夏目さんはこめかみをひくひくと動かせながら、俺の顔を鋭い双眸で睨んだ。

「あーーもう!いやいやいや!なんでこの美人で成績優秀でお金持ちの私が、アンタみたいな底辺変態嘘つき野郎に気を遣って話さないといけないのよ!」
「底辺ヘンタっ……え⁉」

 突如雪崩れ込む土砂の如く吐き出された矢継ぎ早の暴言に、俺の頭はまったく理解が追い付かない。
 なるほど、分からん。いやー、人間って本当に驚くと逆に冷静になるって本当なんだね。

「まったく、私が『こっち来るなオーラ』出してるのを察しなさいよ!アンタみたいな奴と話してるのを誰かに見られたら、どうするのよ!」

 今にも刀を抜こうとする人斬りのような物凄い剣幕に、思わず圧倒される俺。

「私はクラスじゃ大人しい謙虚なお嬢様で通ってるの!変態嘘つきと関わってるなんてばれたら、せっかく努力してゲットしたポジションが台無しよ!」
「お前のどこが大人しいお嬢様だよ!」

 思わず怒鳴り返すようにしてツッコむ。
 こいつ、めちゃくちゃ性格悪いじゃねぇか!

 週刊誌もビックリの驚愕の事実が発覚だ。皆さん聞いてください、学校一のマドンナは、演技派女優の超腹黒女でした!

 夏目さんはハッとしたように顔を上げ、まるで己を守るように自分の両肩に手を添えて抱きしめた。

「まさか、アナタ私に近づこうとして罠にハメたわね!」
「どんな罠だよ! お前が勝手に取り乱したんだろうが!」

 もしこれが夏目さんの本性を暴くために俺が仕組んだ策略だとしたら、諸葛亮公明も驚きの騙しトラップだろうよ。
 こちとら、そもそも夏目さんにそんな裏側の顔があるなんて、想像もしてなかったわ。

 古いブリキの玩具のように、もうお嬢様のペルソナはメッキが剥がれまくりだった。
 そこには、当初の深窓の令嬢らしい雰囲気はゼロ。いやむしろマイナス。氷点下だ。

「私の本性をネタに、私を強請る気ね⁉ 『言うことを聞かないと言いふらすぞ』って脅して、私にあんなことやこんなことを」
「どんな悪役だよ!」

 自分で本性って言っちゃってるし。自覚症状アリかよ。

「お前……さっきまでのお嬢様な感じも、あのイタズラっぽい素振りも、全部演技なのか?」
「そうよっ、悪い?」

高慢な態度で腕を組み、ツンっとそっぽを向く夏目さん。
いや、こんな奴には『さん』づけすらおこがましい。
もとい夏目は、本性がばれたのにも関わらず、平然とした態度で口をへの字にしている。

 やっぱりさっきの俺の違和感は正解だったのだ。俺の人間観察眼もまだ腐ってはいないらしい。
 僅かな違和感。それはこの女から滲み出る恐ろしいほどの内面と外見のギャップが原因だったのだ。

「ふーん……」
「なによ、みんなにバラしたければ勝手にしなさいよ」

 夏目はその細い腕を組んで、怒ったような目つきで俺に睨みを利かせている。

 今目の前にいるのは、学校一の端麗な容姿を持ち、成績トップで家がお金持ち、それなのに人当たりの良いとんでもないチート美少女。

 しかしてその本性は、乱暴で口の悪い傲岸不遜な無茶苦茶な少女。
 ……はあ。なんじゃそりゃ。

「いや、言わねーよ、別に」

 俺は未だに混乱する脳内処理からくる疲弊に、思わず嘆息する。もはや呆れを通り越して諦めに近い。漫画かよ、こいつのキャラクター。

「――知ってんだろ。俺が高校デビューして明るい奴を振る舞ってたけど、本当はただの腐れ陰キャだったってことは」

 逡巡する余地もない。
 俺は改めて目の前の、睨みを聞かせ続けている美少女を見つめた。

「言わねーよ、アンタのことは誰にも」

 言えるわけがない。
 そんな、俺と同じ状況の人間を貶めるようなこと。

 無関係の他人を自分のいる底辺まで引きずり降ろそうなんて、それこそ最低な奴のやることだ。そこまで俺は落ちてはいない。

 夏目がどういう理由で優等生を演じているのか俺は知らない。
 だが、まあ、何かしらあるんだろ、抱えている事情ってやつが。

 夏目は俺の言葉に、肩透かしを受けたようにぽかんとした表情を浮かべている。
 もしや本当に脅されてとんでもない要求をされるとでも思っていたのだろうか。

 いちおう高校に入ってからは、清潔感とか見た目にはかなり気を遣っているのだけど……俺ってそんなあくどい奴に見える?

「ま、まあそうね、アナタみたいなうそつきが周りにチクったところで、誰も信じたりなんかしないだろうし!」

 夏目は強気な態度を持ちなおそうと、慌てたように辛辣な言葉を紡ぐ。

「はは……それに関しては反論できねー」

 あまりにも情けない事実に、自嘲する。

 こいつはそのアカデミー賞主演女優賞ばりの演技力を持ってして、仮面を被りお嬢様を演じている。
 人間観察に自信のある俺ですら、僅かな違和感に気づくのがやっとだったくらいだ。

 俺は無謀にもコイツと同じことをやろうとして、見事に失敗した。それだけの話だ。

「ま、とにかく、べつに誰にもバラさないから、安心して夢のお嬢様ライフを満喫してくれ」

 もう社会的に抹殺された俺には全く縁のない話だ。入り込む余地は一切ない。勝手にやってくれって感じです。

 夏目は納得しかねるような顔で逡巡したあと、

「……ふんっ、まあいいわ。もう話しかけないでね」

 そう吐き捨てて、クルリと踵を返し校舎の方へツカツカと音を立てて去っていった。
 後ろ姿が見えなくなるまで眺めていたが、彼女は一度も振り向かなかった。

 あの様子じゃ、もう俺に二度と関わることもあるまい。
 さらば、腹黒お嬢様。俺の関係ないところで元気にやってくれ。

「……ったく、なんなんだ、アイツは」

 夏目七緒。
 学校一の美少女にして、名家のお嬢様。

 学校の誰も知らないであろう、まさかの二面性を今日俺は知ってしまったのだ。

 彼女の言った通り、クラスの誰かに言ったところで、信じてもらえそうにない。むしろ俺が再びうそつき扱いされてしまうだろう。
 これ以上クラスで信用を失いでもしたら、神崎なら暴力振ってもオーケーみたいな治外法権が適用されても不思議ではない。

 まったく、嵐のようなやつだったな、ホント。
 そんなことをぼーっとしばらく考えていると、昼休み終了の予鈴が鳴った。

「やべっ、急がないと……って、あ」

 そこでふと思い出す。
 アイツ、俺の七十円パクっていきやがった。