夏目七緒は、嘘つきだ。

 中学校の卒業式。
 妹系の生意気な後輩女子が第二ボタンを貰いに来るとか、仲の良かったボーイッシュな女の子から「君のこと、実は好きだったんだよねっ」と告白されるとか、そんな青春イベントは特に起きるはずもなく、つつがなく卒業式は終了した。
 俺の地味過ぎた中学生活は、最後までとことん地味だった。

 ――そのはずだった。

 そんな帰り道に、俺は彼女に出会った。
 神崎春。性別は男。
 血液型はA型。年齢はフレッシュ極まる十五歳。
 この四月から晴れて高校一年生。

 好きな言葉、高校デビュー。

 高校デビュー。なんて聞き心地の良い、甘美な響きだろう。
 半紙に書いて部屋の壁に張り、毎朝復唱したいくらいだ。しないけど。

 ここで一つ話を聞いて欲しい。

 学校っていうのはもれなく、様々なキャラクターの人間がいるものだ。
 似たような奴ばかりで構成される教室、なんてのはなかなかないだろう。

 そうだな、たとえばスポーツができる奴、盛り上げるのが得意な奴、勉強ができる奴。
 挙げ始めればきりがない。まさに十人十色って感じ。
 皆それぞれの特技や個性を生かして、思い思いの学校生活を楽しんでいる。

 でも、よくよく考えていただきたい。
 それはあくまで学校生活の見せる表情の一面でしかないのではないだろうか?

 いわば陽の部分。
 強く眩い光が差せば、その背後には濃い影が映し出されるのが世の常。エジソンが偉い人ってことぐらい常識。

 俺は中学を卒業するまで、いわば陰の役割を担当していた。
 学校生活を謳歌しまくっている陽だまりの住人たち。その背後でひっそりと生きる存在。

 俺の中学時代。
 ああ、それは暗黒時代と表現して差し支えない。

 コミュ力という名の武器を片手に、学内カースト上位に君臨するリア充グループ。
 そんな連中を羨望の眼差しで教室の隅からただ眺める、という役目に俺はひたすら徹していたのだ。
 教室での俺の存在感は、観葉植物といい勝負を演じるレベルだっただろう。

 誰もが楽しめるはずの文化祭や体育祭などのイベントもまるで目立てなかった。
 当たり前だ、わざわざ観葉植物の振る舞いに注目しその役割を称賛する人間などどこにもいない。

 その類のイベントは全員参加と銘打ってはいるが、俺たち陰キャラはリア充連中の踏み台としてお膳立てをさせられるばかりで、まるで良い所無しってのが話のオチ。
 う、思い出すだけでちょっとお腹痛くなってきたぜ……。

 いつも教室の隅で似たような暗い連中と固まっている、地味すぎる存在。
それが中学までの俺。

 しかし、だ。
 中学までの暗鬱とした生活から卒業し、イケてない自分を明るい陽キャラへと一変させ、華やかな高校生ライフを満喫する。
 そんな嘘みたいな術があることを、俺は中学の卒業式の後、偶然読んだ雑誌で知った。

 高校デビュー。

 俺が教室の片隅でただリア充どもを傍観していた頃、想像していた夢の光景。

 その輪に加わるためのあらゆる手段が、その雑誌には記されていたのだ。
 そう、例えるなら、まるで身体に稲妻が走ったかのような衝撃だったね。

 俺だって可愛い女子ときゃっきゃうふふな、リア充デイズを謳歌したい!
 仲良しグループで海に行ってひと夏のアバンチュールを経験したり、夕焼け差し込む放課後の教室で意中の女の子と見つめ合う……なんて青春を味わってみたい!

 人生一度きりの高校生活。
 もうひたすら地味な学生生活はウンザリなのだ!

 俺は不甲斐ない己に誓った。
 クラスの隅でオタク友達と昨日見た深夜アニメについて「デュフフ……」と気持ち悪い笑いを浮かべながら語り合ったり、勇気を振り絞って挨拶したクラスの女子から「えっ、ああ……」って愛想笑いを浮かべられたり、そんな過去は忘却の彼方へと捨て去ろう。

 偽りだって、嘘だって、なんだっていい。
 これが、俺が前に進むための最善策なんだ。
 なにがなんでも希望を手にしてやる。形振り構ってなどいられない。
 俺は変わってやる。

 演じよう、誰もが憧れる人気者を。

☆☆☆

「おはよ、春」

 通学路の途中、快活な声に名前を呼ばれ、ふいに足を止める。
 頬にかかる温い風を感じながら後ろを振り向くと、そこには制服を身に纏った女生徒が通学鞄片手に立っていた。

「なんだ、千秋か」

 日向千秋は俺の返事に不機嫌そうに頬を膨らませると、少し歩調を早めて俺の隣に並んだ。

「なんだとはなによ」
「なんだとはなによとはなんだ」
「……不毛ね」

 俺の顔を睨みながら、呆れたように溜息をつく。
 あれ、俺なりにコミュニケーションを取ったつもりだったんだけど、千秋の心には届かなかったようだ。
 思春期の娘を持つ父親もきっとこんな心境なのだろう。

「早めに出るくらいならチャイムくらい押してってよ。ただでさえ学校遠くて朝早いんだから」

 千秋の家は俺の家のすぐ向かいに面しており、登下校の際には嫌でも顔を突き合わせることになる。
 いわゆるご近所の幼馴染ってやつだ。

 とにかく、まあ小学生の頃からの付き合いで、高校生になっても同じ学校に通っている。
 この関係はもはや腐れ縁といっていいだろう。

「いや、もう寝ぼけたお前にぶん殴られるのは勘弁だ……」

 幼い頃から朝が弱かった千秋は、たびたび遅刻を繰り返していた。
 そんなときはよく俺が家まで迎えに行ったものだ。あー懐かしい。

 中学校に上がる頃だったか、あまりに起床が遅いため部屋まで上がり叩きおこしに行ったのだが、逆に寝起きの千秋にいきなりアッパーカットを食らったことがある。
 あれは痛かったな、脳が揺れたもん。世界目指せるよマジで。

「昔の話なんかしないでよ、マジでキモイ!」
「キ、キモって……お前から話しかけてきたんだろ!」

 あまりに横暴なリアクションに、思わず反論する。
 人のことをキモイとか失礼な人!き、キモくなんてないわい!

「……まったく」

 千秋は幼馴染ではあるが、俺とは正反対の存在だった。
 いつも暗く教室の隅に居る俺とは違い、いつもクラスの中心的グループで楽しそうに騒いでいるタイプなのだ。いわゆる陽キャラってやつ。

 小さい頃はそんなカーストなど関係なくよく遊んだものだったが、今ではすっかり距離が開いてしまい、学校で会話することは殆どなくなった。
 たとえ話すタイミングがあったとしても、一方的に俺を見下した発言ばかりするんだ、こいつ。

 昔は「春くん春くん」と俺の後ろに着いてきて、かぐや姫もかくやといった可愛いらしさだったのに。俺はそんな口の悪い子に子に育てた覚えはありません!

「千秋は高校生になっても変わらないな」

 テクテクと歩を進めながら、流し目で千秋の横顔を眺める。

「私は高校に進もうと何も変わらないわよ」

 そう言って風に揺れる長い髪を手ではらう千秋。
 その身を包む、折り目一つない新品の制服。
 地味だと評判が悪かった中学時代の制服とは異なり、新しい高校の制服のデザインは妙に垢抜けていて、春という季節も相まったフレッシュな雰囲気を醸し出していた。

「……春は、ホントにイメチェンするの」

 千秋は複雑そうな表情を浮かべて、俺の顔をじっと眺めた。
 まるで息子の初めての一人暮らしを心配する母親のようだ。お前は俺のお袋さんか。

「当たり前だろ、どんだけ苦労したと思ってんだよ」

 千秋の不機嫌そうな雰囲気を吹き飛ばすように、俺は全力で変顔をしながら「べろべろばあ~」と舌を出した。
 ふふ、もう中学時代のように、コイツに根暗な生活を馬鹿にされる筋合いはないのだ。華やか人生の始まりだぜ!ざまあみろ!

「……」

 俺のおどけたリアクションに、無表情で冷たい目を向ける千秋。
 いや、無視は止めてよ?振りきっててもわりと辛いよ?

 ……まあいい。俺はもう昔の俺ではない。死ぬ気の努力で変わったのだ。
 高校生活の華々しいスタートを切るため、俺はコツコツと地道な準備をしてきた。もちろん抜かりはない。

 ファッション雑誌を読み漁り、ダサいボーダーの服を脱ぎ捨ててオシャレなジャケットに身を包んだ。

 めっちゃ話しかけてくる美容師さんの陽気過ぎる雰囲気に耐えながら、流行りのヘアースタイルに変えた。

 アニメや漫画を見るのを止め、夜九時から放送されているドラマのラブストーリーから恋愛のいろはを学んだ。

 おやつも一切禁止し、毎日一時間のランニングで弛んだ身体をシェイクアップさせた。

 諸葛孔明も舌を巻くほどの布石の打ちよう、まさに稀代の策士。
 ここまで用意周到な地盤固めを行った俺に死角はない。

 髪もワックスでガチガチに固めて、流行りのアイドル風に仕上がっているはずだ。セットに一時間もかかったんだぜ。

「……急にどうしてよ」

 シンプルな問いかけ。
 なぜか千秋は眉間に皺を寄せて、怒っているように顔をしかめた。なんだよ、急に。

「――だから言ったろ、コンビニで雑誌を見て目覚めたんだよ。いやーあれは衝撃だったな」

 軽い調子でそう口にしながら、過去を回想するように遠くを見つめる。
 脳裏に浮かぶあのときの光景。

 地味で暗かった俺とは対照的なその姿。
 春の太陽に照らされて揺れる、清涼剤のような爽やかな声に、端麗なシルエット――

「そんなん今更じゃん。中学まであんなに地味だったのに。なんか他に理由があるんじゃないの」

 まるで政治家を問い詰める新聞記者のように詰問を繰り出す千秋。
 ずいぶんと理由にこだわるな、意外としつこいタイプかお前は。

「いいんだよ理由なんて。大事なのは努力したという過程なんだから」

 俺は金曜八時にドラマ放送されてそうな、不良生徒に相対するベテラン教師のように、優しく千秋を諭す。参加することに意義があるのだ、うん。

「……あっそ」

 どうやら俺の吐いた名言は特に響かなかったらしい。ぷいっと目を逸らして、俺を置いて足早に進んでいく。
 まったく今時の子は冷めてるな。少しチョイスの世代が古かったかな。

 千秋は俺の目の前に立つと、不意にスカートをはためかせながらクルリと振り返った。

「髪型、似合ってないよ」
「え⁉ どのへんが⁉」

 千秋はそう吐き捨てて、再び俺を無視してどんどん歩いていく。
 え、ちょっと待って!すぐにセットし直すから!
 だから似合ってないところ具体的に教えてよ、ねぇ!

☆☆☆

 期待と決意が入り混じる感情を胸に、俺は入学式に参列していた。
 さあ、ここからが高校デビューの記念すべき一歩目だ。
 もう陰キャとは呼ばせないぜ、リア充どもめ!

 そう気合を入れて乗り込んだ入学式だったが、釈迦の説法のような校長の演説を延々と聞かされいきなり辟易とさせられた。
 どうやら校長先生の話が長いのは中高共通の事項らしい。

 斜め後ろに座っていた千秋をちらっと目をやると、完全に爆睡していた。
 気持ちは分かるが目を覚ませ。顔に落書きすんぞ。

「――よし」

 こんなところで挫けているわけにはいかない。
 この日のために、一体どれだけ労力を掛けたと思ってるんだ。
 高校デビューでは初日こそが肝心の要。ミスるわけにはいかない。

 某関取ばりに両頬をパチパチと叩いて、なんとか己に気合を入れ直し、新しいクラスが待つ教室に向かう。
 そこには、これから一年間苦楽を共にするクラスメイト達が待っているわけだ。

 さて、ここで俺の特技を一つ披露しよう。
 俺は一目見ればその人間がどんなキャラクターをしていて、クラスでどれくらいのランクに位置しているのか、だいたい理解できる力がある。

 なぜなら中学時代は休み時間の間、ずっと教室の斜め後ろからクラスメイトを観察していたからな!
 友達がいなかったからとかそういうわけではなく、趣味でな!
 あれ、なんか目から汗が……。

 とにかく、俺は相手をじっくり観察すれば、そいつの癖や行動原理を予測することができるのだ。
 経験上、これが自分でも驚くほど当たる。

 昔、内心では周囲をバカにしている猫被った女子の本性を言い当てて何故か俺が皆からめっちゃ嫌われた。

「どれどれ……」

 まず目につくのは頭髪を茶髪に染めていたり、アクセサリーを身に纏ったり、見た目からしてチャラチャラしたイケてる連中。
 教室の中央を陣取って大きな声で騒いでいるが、誰もそれを咎めたりはしない。
 彼らはクラスのリーダーであり、言うまでもなくカーストのトップの地位にいる。

 さて、次は待ち時間の間も入学の手引をまじまじと眺めて黙読しているような、真面目で勉強ができそうなグループ。
 彼らは無駄に群れたりはしないが、それぞれがしっかりと自立していてお互いに高いレベルの信頼関係を築くことができる力を持っている。
 実際社会に出て活躍するのは彼らのような人達だろう。知らんけど。

 そして最後に、アニメやらアイドルやらのグッズを学校に持ち込んでいる、オタク趣味を持ってそうな集まり。
 見た目からしてパッとしない。言うまでもないだろうが、クラスカーストの最底辺。

「ふむ」

 大抵は予想通りだな。いかにも公立の高校らしい、平均的な配分だといって良い。
 ちなみにだけど、今挙げた例は並べた順番に権力が強い。これ豆知識な。

 もちろん中学までの俺が属していたのは、完全なるオタクグループ。
 だいたい似たようなタイプの人間が、同じグループに引き寄せられるものだ。
 そしてクラスのグループは階層化され、権力と存在感がそのままクラス内カーストに直結する。それに時間はそうかからない。

 しばらく教室を観察した後、俺は小さく頷いた。

「――よし、イケる」

 そう、今の俺は雰囲気だけなら、決してイケてるグループの人間と相違ない。
 血の滲むような努力の末、我が容姿バージョンアップ計画は成功したのだ。

 今の俺からオタクっぽい雰囲気を察することは、太平洋で一滴の青いインクを見つけ出すのに匹敵するほど困難を極めることだろう。ほぼ不可能だ。

 さて、さっそく取り掛かろう。
 俺は予め用意していた作戦通りに行動を開始した。

 あくまで自然に、リア充っぽい連中の輪にそっと加わる。

「あれ、神崎って西中なんだぁ、めっちゃ遠いじゃーん」
「お、おう、バス通学だから、超ダリーわー」
「神崎くんって部活入るのー?スポーツ得意そー」
「そうかー?まだ全然考えてねぇー」

 俺、イケてるグループと会話できてる!俺すげぇ!
 特に中身のない会話だが、それでも中学時代からは想像もできないくらいの進歩だ。

 大したことでもないのに面倒くさがったり、語尾を無駄に伸ばしたり、対リア充用の会話シミュレーション通り。

 ちなみに中学まではこんな感じ。
『神崎くん、なんか先生が呼んでたよー』
『あ、う、うん……』
『おい神崎、当番だろ。さっさとこのプリント回収しろよ』
『ご、ごめん……』

 イケてるグループの連中に話しかけられただけで、キョドってしまう。
 うん、思い出すだけで胸の辺りがキュってなる。今すぐシュレッダーにかけて消し去りたい過去だ。

 しかし、俺はもうかつての神崎春ではない!

「神崎って面白いやつだな!このあと皆でカラオケ行くんだけど、お前も行くっしょ?」
「マジか、行く行く、皆で盛り上がろうぜ!」

 これが……リア充が遊ぶ際に多用するという、世に言い伝えられし伝説の『放課後カラオケ』か!すげぇ、放課後カラオケすげぇ!

「……うん?」

 ふと視線を感じて、振り返る。

「……」

 淀んだ視線で俺を見つめていたのは、偶然同じクラスになった千秋だった。
高校も一緒、クラスまで同じとは。
 不思議なことに、本当にコイツとは縁があるらしい。べつに嬉しくないけどね!

「なんだよ」
「……べつに」

 千秋はそう言いながらも、不満そうに唇を尖らせる。
 朝から俺に対してはずっとそんな調子だ。なんだその態度は。

「なんだ、お前もカラオケ行きたいのか?」

 俺はリア充グループに混じれた嬉しさを隠すことが出来ず、思わず千秋にどや顔を浮かべる。
 ふはは、珍しく俺が上手に立っているぜ。

「いや、私の方が先に誘われてるから」
「あ、そうなのね……」

 なんかすいません。流石もともとイケてる人間は違う。
 俺のようにわざわざ無理をしなくとも、最初からリア充グループに参加できてしまうらしい。羨ましい奴め。

「一応言っとくが、俺の昔の話は絶対にするなよ」
「……しないわよ」

 千秋は興味なさげにそっぽを向く。
 むしろそれくらいの態度を取ってくれる方がありがたい。

 こうして新天地でデビューをするうえで、過去の繋がりは邪魔になる。そのためにもわざわざ家から遠くの高校を選んだのだ。

「ま、気をつけてくれよ。ちなみに俺とお前は中学が一緒だったってだけで、べつに知り合いじゃない設定だからな」

 ここは念を押しておかないとな。
 実際中学の頃は学校で会話を交わすことなんて殆どなかったのだから、事実と相違ないし。

 思い出すまでもない。昔から俺はクソオタクの陰キャラで、千秋は人気者グループのキラキラ系女子。
 幼馴染でお互い小さい頃を知ってはいるが、クラスでのカーストではずっと月とすっぽんだった。

「……アンタがそれでいいなら、べつにいいわよ」

 千秋は吐き捨てるようにそう言うと、席を立って教室を出ていった。
 なんだか終始不機嫌なままだったな。そんなに俺が目立ってるのが妬ましいのか。
 ふふふ、まったく人気者も苦労するものだぜ。

☆☆☆

 千秋と同じクラスでバッティングするという想定外はあったものの、こうして高校生活のスタートダッシュに成功した俺は、それ以来クラスのカースト上位の人間としての立ち位置をゲットした。

 日が経つほどに増していく確信。
 俺は間違いなくリア充を演じられている。

 教室に入れば誰彼問わず無駄に挨拶しまくり、休み時間になればイケてるクラスメイトとくだらない鼻くそみたいな世間話をし、放課後には男女混合のグループでギャーギャー騒ぎながら寄り道をする。

 うん、言葉にすると途端に悪口みたいになるけど、これが俺が求めていた光景なのだ。
 夢にまで見た、夢のような毎日。

 ビバ、高校デビュー!
 ビバ、リア充生活!

 ――なんて。

 そう、あまりにも簡単にことが進んでしまった。
 世の中そうそう甘い話なんてものはない。

 俺は高校デビューに成功したという浮ついた気持ちから、完全に油断してしまっていたのだ。
 上手い話には、必ず落とし穴がある。バカな奴はいつか足元を掬われる。

 そう、まさにこのときの俺が典型的なそれだったのだ。
 それは高校の入学式から、二週間が経とうとした頃だった。

「あれ……ない」
「どうしたの?」

 家庭科の授業で、移動教室からみんなが帰って来たその時だった。
 クラスメイトの一人である女子が、あることに気がつき戸惑いの声を挙げた。

「私の体操服が――ない」

 これがのちに伝えられし『体操服盗難事件の乱』である。
 ちなみに命名は俺。呼んでいるのも俺だけ。

 移動教室でクラスが空いていた隙に、女子の体操服が盗まれるという事件が発生したのだ。
 当然クラスは騒然とした。
 当たり前だよな、そんな非日常的な緊急事態になって、好奇心旺盛な高校生たちが騒がない筈がない。
 教室の雰囲気はざわつきを増して、ちょっとした祭りのようになった。

 しかし、そもそもの問題はここから。
 あろうことか、そこから教室内で犯人探しが始まったのだ。

「誰だよこんなことする奴は、フツーに犯罪だぞ」
「いいこと思いついた! ひとりひとり、バッグの中身見れば解決じゃね?」
「それいいな!」

 面白がった男子の一部が、そんなことを言い出したのだ。

 まあ俺は全く関係ないし、ここでそれを反対するってのも、逆に怪しまれかねない。
 中学時代に培った、黙って周りに同調するステルス能力を駆使することで、俺はその流れに従った。

 というわけで犯人探しスタート。
 衆人環視のもと、一人ずつ鞄の中身を見せていく。

 盗まれた体操服は一向に出てこない。
 そりゃそんな犯罪行為をしてそのまま自分の鞄に入れておくなんて、相当なバカだろう。どこかに隠したか持ち去ったに決まってる。
 まあ、そもそも窃盗自体がどうしようもなく愚かな行為に変わりないけど。

 そうして俺の番が回ってくる。
 流石に昔は陰気なキャラだった俺といえど、体操服を盗むほど人間終わっていない。
 そもそもこのクラスに犯人がいるのかも分からないし。

 被害にあった女性徒には同情するが、我が身は純白、もとい潔白だ。
 こんなことしたところで時間の無駄というもの。

 さっさと終わらせて、休み時間にリア充どもと話す世間話のネタを練らなければ。
 特に逡巡することもなく、気軽に鞄を開く俺。

「――なっ⁈」

 俺は目を疑った。
 そこにありえないモノが入っていたからだ。

 女子の体操服。上下セット。

 他の誰でもない、紛れもなく俺の通学鞄に、きっちりと寸分の狂いもなく収まっていた。
 堰を切ったように、ざわつく教室内。

 嘘だろ、なんで。
 俺は状況がまったく受け入れられず、全身からサッと血の気が引いていくのを感じた。
 色白な額からは、じわりと嫌な冷汗が涙のように流れる。

「あああ、ありえねーって! 俺じゃねぇよ!」
「神崎、まさか……」
「神崎ってそういう奴だったのか……」

 俺の明らかな動揺っぷりに、周りの疑念の視線が一層強まっていく。

 ちょっと待ってくれよ、ありえない。
 なんだこれ、なにこの状況。

 本当に俺じゃない!
 これは何かの陰謀だ!

 そう叫びたかった。
 しかし、喉は乾燥した真綿を詰め込まれたかのように塞がれ、まったく声が出ない。
 か細い息がふしゅふしゅと漏れるばかりで、まるで自分の喉じゃないみたいな状態になっていた。

 たった数週間も経っていない嘘の仮面は、簡単に剥がれ落ちる。

 ただ適当に、上手く誤魔化せればそれでよかったはずだ。
 だが、俺はあり得ない事態に直面した動揺のあまり、完全にかつてのコミュ障全開モードに戻っていた。

 こんな大人数に囲まれて、一身に視線を浴びて注目されるなんて。冷静でいられるわけがない。
 少し前までクラスメイトとの僅かな会話さえ、まともに交わせなかった男だぞ。

 緊張で手は震えまくり、目は太平洋を循環するマグロのように泳ぎまくり。
 どうすればいい、どう弁明すれば。
 これじゃまるで「僕こそが犯人です!」と宣言しているようなものじゃないか。

「俺、さっき神崎が最後まで教室に残ってるの見たぞ」

 突然、男子生徒が声を挙げた。
 教室の全員の注目が、一気に男子生徒に集まる。

 ソイツはまだ名前もよく覚えてない、クラスメイトの一人だった。
 確か、高田とか言うサッカー部員だった気がする。

「そっ、それは……」

 俺は返答に困窮し、口ごもった。
 誰にも言えない。

 家庭科の調理実習に備えて、『男が料理をするときのカッコいい仕草』についてまとめサイトを検索していたなんて、みんなの前では口が裂けても言えない。言えるはずがないじゃん。

 なぜなら俺は、そんなダサいことはしないキャラで通ってるから。
 カッコ良くて明るい、オタクなんかとは一線を画す、そんな奴を演じているのだから。

「あああ、その、あれだ!」

 どんよりと重たい空気の中、慌てて口を動かして適当な言葉を並べる。
 この際何でもいい、とにかく無実を証明しないと。誰かに信じてもらわないと。

「間違えて俺の鞄に入れたとかじゃね?マジありえないっしょ!それか誰か他の犯人が俺に罪を擦り付けたとか!と、とにかく俺は――」

 我ながら苦しい言い訳。誰がそれで納得してくれる。
 だが本当に身に覚えがないのだから、どうしようもない。

「――春、やっぱりキャラ違うよ」

 俺の醜い言い訳を遮るように、騒がしい空間に響いた低い声。

「ち、千秋」

 端を発したのは、千秋だった。
 クラスの中で唯一、昔の俺を知る人間。

 千秋はハッキリと明言はしなかったものの、入学式以来の俺のはしゃぎまくりな振る舞いに、違和感を覚えていたはずだ。
 しかし千秋は周囲に対して沈黙を守ってきた。千秋なりに気を遣ってくれてはいたのだと思う。

 だがこうして俺の悪評が立った以上、その流れを止めることなどできるはずもなかった。
 千秋は周囲の勢いに促されるがまま、ポツリポツリと語り始めた。

 俺の中学時代の黒歴史や、高校デビューするために必死に演技をしていたこと。
 それらすべてが、あっという間に白日のもとに晒されていく。
 もはやざわつきを超えて、静まり返るクラスメイトたち。

「マジかよ……ただの嘘つきじゃん」
「フツーに引くわー……」
「――っ」

 言葉が出ない。
 あれだけ練習したはずの対リア充用会話シミュレーションも、まるで壊れたパソコンのように全く機能しない。オールエラーだ。

 クラスメイトの顔を見なくても分かる。
 今この状況で、俺を信じている奴は、一人だっていやしない。
 これが、嘘で塗り固めた結果。上辺だけの人間の末路。

 たった二週間といえど、俺は少しでも誰かが自分を庇ってくれるような人間関係を、一つも構築できていなかったのだ。

 ああ、終わったんだ、なにもかも。
 人の夢と書いて、儚い――

「――で、でも春は盗みなんてし」
「おい、何やってんだ!」

 千秋が何か言おうととしたその前に、騒ぎを聞きつけた教師たちが教室へ到着した。

 慌てながらも騒然としている生徒たちを席につかせ、ひとまずその場を収める。
 しかし生徒間の囁きはすぐには終わらなかった。

 クラスメイトの目には、俺が完全なる嘘つきのクソ野郎として映っていただろう。

 その後俺は重要参考人として、職員室に呼び出された。
 悪さとは無縁の、それなりに真面目に過ごしていた俺にとっては初の経験だった。呼び出し童貞卒業だ。嬉しくねえ。

 教師陣の目の前で、鞄から件の体操服を取りだして机に広げる。
 すると、あら不思議。

「……これは」

 胸のロゴには「西中」のマーク。
 タグには「神崎桜子」の文字。

 刻まれた刺繍を教師と共にまじまじと見つめる。
 そう、その体操服は盗まれたモノでも何でもなく、中学生になる俺の妹の体操服だったのだ。
 まあそれもおかしいんだけどね。

 担任の先生に、憐みの表情で肩をポンと叩かれた。
 うん、どういう意味だよ。

「神崎、今日はもう戻っていい」

 ひとまず窃盗犯の疑いが晴れ、俺は静かに職員室から返された。
 担任を始めとした教師陣は、なんとも言えない複雑な表情をしていた。
そりゃそうだ。

 体操服泥棒の不名誉は免れたものの、また別の特殊性癖の持ち主だと勘違いされた可能性大である。
 あるいは、別の場所に盗んだ体操服を隠しただけで、まだ俺が犯人だと疑っている人もいたかもしれない。

 その後、トボトボと家に帰ると、妹に「間違えてお兄ちゃんの鞄に私の体操服を入れちゃってたー、うふふごっめーん☆」と物凄く軽いノリで謝られた。

 泣きたい。というか泣いた。さめざめと泣いた。

 結局犯人は捕まらなかった。
 一方で、俺の噂だけが独り歩きした。

 体操着盗難の容疑者となったことや、実は高校デビューの陰キャラだったこと、妹の体操着を鞄の中に所持していたことなど諸々含め、俺は『変態嘘つき』という有難い称号を頂戴することになった。

 シンプルかつ鋭いパワーワードだ。
 誰が命名したのか教えてくれ。そんで殴らせろ。

 学校という狭いコミュニティ。その噂が回るスピードの速いことよ。
 結果として、特殊性癖の疑いをかけられ、それを必死で弁明した俺は、超気持ち悪い奴として学校中の生徒から嫌われ者になってしまったのだ。

 入学から高校デビュー、そして噂が広がり学校一の嫌われ者になるまで、約一か月。ボルトもビックリの世界速記録だろう。
 目まぐるしすぎて、もはや自分でも実感がないくらいだ。だれかデカい看板もって「実はドッキリでしたー」って言ってくれよ。

 次の日から、教室に入っても誰も目を合わせてくれなくなった。
 特に女子の近くを通り過ぎると「うわ、キモ……」とささやかな罵声が俺のハートを鎌鼬のように切り裂いてくれる。
 お手軽にメンタルをやられたい人にはオススメだ。高校デビュー失敗ダイエット。俺はこれで三キロ痩せた。

 唯一初めから事情を知っていた千秋も、たまに遠巻きに俺に視線を向けるだけで、会話は一言も交わさなくなった。
 アイツはアイツで、もう自分のグループがすでに完成している。
 クラス中から嫌われた俺に話しかけることは、もはや自殺行為も同然だ。俺を避けるのも仕方がない。

 辛い、辛すぎるよ、現実。
 これじゃあ、地味ながらもひっそりと暮らしていけた中学時代の方が断然マシだ。

 何がいけなかったのか。
 高校デビューを目論み、周囲を欺いて演技していたことか。
 それとも不運にも妹の体操服を鞄に入れて登校し、それに気づけずに窃盗事件に遭遇したことか。

 どれだけ後悔しようとも、もう時間は戻ってはこない。
 グッバイ、夢見た俺の青春よ。
 でも一言だけ。
 全力で、心の底から、一言だけ言わせてもらおう。

 高校デビューなんて、クソくらえだ。
 昼休み。それは高校生にとって憩いの時間。

 ここで行われる食事は、単純に昼食をとるという行為に留まらず、交流を深めるためにとても大切な機会だ。

 昼休みの時間を一緒に食卓を囲み、世間話に花を咲かすことは、それ自体がなにより友情を育んでいる証明に他ならない。

 教室では仲の良い者同士が集まり、それぞれのグループを形成している。
 そこで繰り広げられるのは、教師への不満とか、昨日見たバラエティー番組の面白かったところとか、そんな数時間後には忘れてしまうようなどうでもいい話。

 しかしなんでもないそんな時間こそが、なによりも楽しい青春の一コマなのだ。

 ――かくいう俺は。
 人気の無い校舎裏。一体誰が利用するのだろうと不思議になるほど、ポツンと寂し気に佇んでいる小さなベンチ。
 さらに、そこにポツンと座っている俺。

 五月に差し掛かり、もう季節は春真っ盛り。
 桜は散って、木々は青々とした葉を纏って風にそよいでいる。
 しかし、そんな肌に心地よい暖かさも、俺の切ない心を温めてはくれない。
 俺に与えられた汚名は『変態嘘つき』。

 体操服盗難事件の後、俺はスクールカーストで断トツの最下位に転落した。
 順位でいえば、だいたいバクテリアのちょっと下くらい。まさか高校生にもなって細菌と存在価値を僅差で争うことになろうとは想像もしなかった。もはや涙を通り越して笑えてすらくる。ははは、ウソ、やっぱり泣ける。

 そんな『変態嘘つき』な俺に居場所などあるはずもない。
 昼休みになると息苦しい教室を離れて人気の無い校舎裏に向かい、そこで一人寂しくメシを食っているというわけだ。

 初めは「屋上でひとり昼食ってちょっと青春っぽくね?」と思って屋上への進出を目指したが、工事中のため立ち入り禁止になっており、あえなく断念。
 神様は捨て犬の如き哀れなこの俺に、一かけらの青春要素すらも与えてはくれないらしい。
 もしその神様とかいう空想上のオッサンがあの空の上から眺めているのだとしたら、そいつは相当性格の悪い奴に違いない。嘲笑う声が聞こえてきそう。

 そんなこんなで校舎を彷徨っていた俺は、校舎裏に誰も使っていないこのベンチを見つけたのだ。
 通りかかる人間すらいない、世界から忘れられたように、そこに鎮座するベンチ。

「お前も……独りなのか」
「……」

 土砂降りの雨の日に、捨て猫に傘を差しだすヤンキーみたいなセリフを呟いてみたが、ベンチは何も答えない。
 ですよねー。当たり前だよ、ベンチだもん。

 もういい。今日からコイツが俺の相棒だ。決定。
 そんな運命的な出会い以来、俺は昼休みになると通い妻のように足繁く校舎裏へ足を運んでいた。

 ここにいれば、少しでも教室で気まずい時間を過ごさなくて済む。
 俺にとってありがたい、唯一の安息の地だ。

 そういえばベンチのすぐ近くには自動販売機も一機だけ設置してあり、飲み物の供給にも事欠かない。
 いったいこんな辺鄙な場所に誰が飲み物を買いに来るのか謎だ。果たして採算は取れているのだろうか。

 さて、今日もここでゆっくりと食事をとろう。
 ベンチに腰を下ろし、コンビニのパンをむしゃむしゃとワイルドに頬張る。
 誰も見ている人間などいないので、食べ方など気にしない。気楽なものだ。

 別に部活で運動をしているとか、そういうわけでもないのに、昼休みになると食欲は定時出勤するビジネスマンのように律儀に訪れる。
 授業を生真面目に聞くという行為が及ぼす脳への過度な負荷は、なぜだかお腹が空くという事象に変換されるらしい。まったくもって不思議な話だ。
 しかしながら、およそ理解の外である英文を解読することを放棄し、世界を守るヒーロー物語の空想に耽ったところで同じくお腹はペコペコになるもので、そのメカニズムは難解極まりない。いったいどういう等価交換が働いているのだろうか。
 そうだ!このメカニズムを解明し、独自の理論体系を完成させたら、もしかしてノーベル賞も夢ではないのでは。俺はとんでもない世界の秘密に気がついてしまったのかもしれない――

「……はあ」

 思わず漏れ出る嘆息。
 虚しい妄想で時間を潰す。なんて悲しい青春だろう。
 イケてない青春選手権があるなら入賞間違いなしだ。

 これが俺の望んでしまった、大き過ぎる願いの代償か。
 ここまで多大なる犠牲を払うことになろうとは、想像もしてなかったぜ。

「世知辛えなー」

 ベンチに深く腰掛け、空を見上げる。
 雲一つない晴天、清々しいほどの五月晴れ。

 あ、あの雲なんだか羊に似てる。こんな静かなところで昼寝したら気持ち良いだろうなー。昼寝でもしてこんな現実から逃避したい。

「あら、何か辛いことでもあったんですか?」

 空を見上げる俺の視界に、突然覗き込むように人影がにゅっと現れた。

「うお⁉」

 いきなり現れた人影に、のけ反って飛び上がる。

「うふふ、ごめんなさい、驚かせて」

 人影がイタズラっぽく笑う。
 鈴を鳴らしたような、聞き心地の良い声。

 そこに、ものすごい美少女が立っていた。

 俺はあまりに辛い現実から、遂に頭がやられてしまって幻覚を見ているのかと自分の目を疑った。
 学ランの袖で目をゴシゴシと擦る。いや、確かにこれはリアルらしい。

 ものすごい美少女が、俺を見て笑顔を浮かべていた。
 こんな美少女が笑ってくれるほどなのだから、今の俺は相当マヌケな表情をしていたに違いない。

 その少女は恐ろしいほど可憐な美しさを纏っていた。
 まるでテレビ画面からアイドルが飛び出してきたみたいだ。ものすごく頭の悪い表現であることは自覚している。でも実際にそうなのだから他に言いようがない。

 腰まで伸びた綺麗な黒髪が、風に揺れて流砂のようにサラサラと流れる。どこか儚げで、幼さを残す顔立ち。
 触れたら消えてしまいそうな透明感のある肌に、太陽の光がプリズムのように乱反射している。

 さっきまで雄大に感じていたはずの青空や周りの風景が、途端に彼女の美しさを引き立てるだけの役に成り下がってしまった。こんなの、三次元で許されてもいいのか。

 なんで、この女の子はここに。
 あまりの驚きに口のきけないロボットのように固まっていると、美少女は再び俺の顔を覗き込んだ。

「あの……本当に大丈夫ですか?」
「えっ、あっ、いや、全然大丈夫だけど……」

 やべ、またコミュ障モード全開になってる。
 早く対リア充用モードにならないと!

 ……ってもうその必要はないんだったか。

「ごめんなさい、あまりにも油断しきった顔をしてたから、ついイタズラしたくなっちゃいました」

 イタズラしたくなったとかなんですかその遊び心。最高なんですけど。

「いや、別にいいよ、死ぬほど驚いたけど……」

 俺の言葉に、美少女はクスリと微笑みを零す。

「お昼ご飯を食べてたんですか?」

 その言葉と同時に彼女の視線が俺の右手へと動く。
 俺の右手には食べかけの惣菜パンが握られている。うわ、ぼっち飯していたのがバレた。
 なんかものすごく恥ずかしい。穴があったら五体投身で潜りたい。

「あ、うん。ココはあんまり人がいないから……」
「この辺り静かでいいですよね、穴場って感じです」

 美少女は俺の動揺具合を指摘するでもなく、のんびりと辺りを見渡す。
 俺の場合は単純に教室に居場所がないから逃げ込んだだけだけど、確かに捉え方によっては静かに過ごせる穴場と言えなくもない。
 しかしこんな美少女が、こんな辺鄙な場所にわざわざなんの用だろう。

「あの……君は」

 俺は緊張で震える腕で、その八頭身ばりに小さい顔を指さす。

「あ、ごめんなさい、まだ名乗ってなかったわね。私は—―」
「――夏目七緒さん、でしょ」

 知ってる、知ってるから。
 だって。

「驚きました! よくご存じですね」

 脳裏に浮かんだおぼろげな光景が、驚嘆のソプラノボイスに掻き消される。
 目の前の美少女は豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くしていた。

「あー、その、入学式で答辞読んでたからさ」

 そっか、そうだよな。
 俺は思わず零しそうになった言葉を飲み込んで、慌てて誤魔化す。

 街を歩けば、全ての人が振り返るような美しさの持ち主、夏目七緒。

 俺と同じ学年で、入学式は新入生代表として舞台に立っていた。
 入試の成績が一位の人間が代表に選ばれるとたしか聞いたことがある。ということは相当勉強ができるはずだ。

 今でもハッキリ覚えているが、入学式で答辞を読んでいたその端正な容姿と凛とした振る舞いに、見惚れなかった生徒は一人もいないだろう。もちろん俺も例外ではない。

「あ、覚えてらっしゃったんですね。私目立つのとか得意ではなくて……恥ずかしいです」

 照れたように頬を朱色に染める夏目さん。
 壇上で見た堂々とした姿とは違って、どうやら普段は控えめな性格らしい。

「いや、夏目さんはもとから有名人じゃん。学校で知らない奴はいないと思うよ」

 それもそう。夏目という苗字は、この土地では特別な意味を持つ。

 容姿端麗、勉学優秀であるというだけでも相当なハイスペックな存在なのに、夏目七緒は国内でも有名な夏目財閥のご令嬢であられるのだ。

 夏目財閥といえば、日本有数の巨大な企業集団を束ねる一族で、その規模は色んな意味で半端じゃない。
 系列の企業や扱っている製品を挙げ始めれば枚挙に暇がないくらいで、国内に住んでいるのなら、誰もがその恩恵を何かしらの形で享受しているはずだと断言できる。

 その総本家がこの高校と同じ市内にあるのだ。
 市内に住んでいる者なら、夏目家の所有する大豪邸を知らない者はいない。
 広大な土地に豪勢な日本庭園を構えており、一部では観光名所として扱われているほどである。

 その夏目家のご令嬢が同学年にいるということで、他クラスのウチまで大きな話題になっていた。
 そういえばなぜかウチの母親まで彼女のことを知っていたな。とにかくそれくらい夏目家はこの辺りじゃ有名なのだ。

「そ、そんなことはありませんよ、たまたま家が少し有名なだけで、私は全然」

 夏目さんは手を振りながら顔を背けた。どうやら彼女はえらく謙虚な性格のようだ。
 お嬢様といったら高飛車なイメージを勝手に抱いていたが、むしろ褒められ慣れていないくらいに反応が初々しい。まさに清純、といった感じだ。

 チートなステータスをまるで鼻に掛けていない、謙虚な姿勢。素直で可愛らしいその素朴な素振り。
 非の打ち所がないぞ、この子。まさに学園のアイドルの称号が相応しい。なにより、とにかく可愛い。

「……ん?」

 ――はずなのに。
 俺は一瞬息を止めて、拙い思考に考えを巡らせる。

 あれ、なんだろう、この不思議な感じ。
 モヤモヤとした形を持たない違和感が、心の中でゆっくりと首をもたげる。

 それはまるで「好きな漫画がアニメ化したときに吹き替えの声がイメージしていたのと全然違った」みたいな、小さなズレ。

 俺は頬を朱色に染める彼女を眺めながら、ふと言葉を漏らした。

「――なんで、演技してるの?」
「え?」

 夏目さんの表情が、まるで絶対零度で瞬間冷凍されたかのように固まる。
 しまった、一体何を言っているんだ俺は。孤独のあまり遂に頭がおかしくなってしまったかこのポンコツめ。

 ――ただ一瞬だけ。
 そう、楽しそうに笑う夏目さんの振る舞いが、どこか台本を読んでいるかのように感じられたのだ。そんなはずは絶対にないのに。

「ご、ごめん、なんでもない」

 俺は慌てて手を振って誤魔化そうとする。

「……演技だなんて、とっても面白いことを仰るんですねっ」

 眉を寄せて、拗ねたように笑う夏目さん。
 口先を尖らせたその表情はナチュラルそのもので、わざとらしさなど微塵もない。ああ、やっぱり可愛い。完全に俺の気のせいだったんだ。

「あはは、何言ってんだろ、俺」

 乾いた笑いを浮かべながら、自らの頭を拳で殴りつけて己へ制裁を加える。このアホ!春は悪い子!

 あの超絶人気者で知られる夏目さんだぞ。
 こんな校舎裏で一人飯を食っている初対面の俺相手に、満点の笑顔を向けてくれる天使だぞ。
 まさか下らない「良い人」の演技なんてするはずがない。

 でも、なんでだろう。なんか、チグハグに見えたんだけど。

 夏目さんは小首を傾げて少し考えるような素振りを見せてから、思いついたように俺を指さした。

「――そういえば、あなたのお名前を聞いてませんでした。伺ってもよろしいですか?」
「あー、俺は二組の神崎春」

 ――名乗ってから、しまったと思った。
 俺の悪評はおそらく、武功を挙げた有名な武将の如く他クラスにも轟いていることだろう。三国志でいう呂布もかくやといったところだ。まったく誇らしくないけど。

 目の前にいる男が、学校一の嫌われ者である『変態嘘つき』だと知られたら、こんなおっとりとした彼女でも幻滅するに違いない。
 気持ち悪がらないで欲しい、という方が無理な相談だ。絶対嫌われる。

 ――いや、待てよ。
 もしかしたら……この純真無垢で麗らかな彼女だったら、罪深い俺を許してくれるのでは?

 優しい夏目さんなら、学校で唯一フツーに話せる、友達になってくれるかも!

「……なるほど。あなたが噂の変態」
「え?」

 何て言ったんだろう。
 夏目さんが何か小さい声で呟いたが、上手く聞き取れなかった。
 なぜか「うんうんなるほど、どうりで……」と納得しながら小さく頷いている。え、どういうこと?

「いえ、なんでもないです。それより、そこ退いてもらえますか?」
「え、ああ、ごめん……」

 あれ?
 なんか急に夏目さんの態度が強気になったような……?

 まあ気のせいだろう。
 こんな赤ちゃんをコウノトリが運んでくると未だに信じていそうな、花も恥じらう美少女が、粗暴な態度など取るはずがない。

 夏目さんの視線の先を追って振り向く。
 どうやら俺の立っていた背後に設置されている自動販売機が目当てだったらしい。

「こんな校舎裏の自販機までわざわざ買いに来るなんて、珍しいね」

 採算が取れているのか疑いたくなるほど、ほとんど人通りのない立地だ。
 この自販機が役目を果たしているのを目撃するのは、俺以外では初めて。
 こんな美少女が喉を潤すためにコイツを必要としていると考えれば、自動販売機冥利に尽きるというものだろう。よかったな、自動販売機。

「えーと、そうですね。ここにしか『紅茶エデン』が売ってないんですよ。他の場所は全部『午前の紅茶』なので。それだけです」
「へ、へー、そうなんだ」

 夏目さんがこちらをチラリとも見ずに、抑揚のない早口で答える。無感情で塗りつぶしたような横顔。
 つい先ほどまでずっと浮かべていた可愛らしい微笑も、彼女の表情から抜け落ちていた。

 気のせいじゃない。明らかに態度が変わってきている。
 ――やはり俺の悪評を知っていたのだろうか。

 話していた相手がうんこマンだと知って気を悪くしたのだろう。
 流石の優しいお嬢様も、うそつき窃盗犯には嫌悪感を抱いたに違いない。

 少し喋っただけなのに、初対面の相手にもう嫌われてしまったとは、かなり泣ける。とんでもない業の深さだ。俺は前世でいったいどんな罪を犯したというのだろう。

「あれっ……ない」

 夏目さんは制服のポケットをポンポンと叩いて、慌てたようにその中を覗いた。
 もしかして、財布を教室に忘れてきたのだろうか。まあ、ありがちなミスだな。俺もたまにやる。

 まあ俺の場合はお金を借りる相手もいないし、賑やかな教室にわざわざ戻るのも気が引けるので、そういう時はひたすら断食に徹する。お手軽なダイエットができます。

 ちょうどさっきコーヒーを買ったおつりがポケットに入っていたので、

「あの、良かったらお金貸そうか?」

 相手の態度が余所余所しくなったからといって、俺は邪険にしたりはしない。ここはあくまで紳士的な態度で、援助を申し込む。少しずつでも同級生たちからの信頼回復を目指さないとな。

「ちっ」

 え、今この子舌打ちしなかった?俺の気のせい?

「……ありがとうございます」

 明らかに不満そうな表情を浮かべながら、手を差し出して俺から小銭を受け取る。
 そこまで機嫌を損ねるようなことを俺言ったかな?

「……って足りないじゃないの!」
「え、マジで、ごめん」

 夏目さんの手の平を覗くと、七十円しかなかった。
 紅茶エデンは百三十円。ミスった!

「……使えないわね」
「えっ、今使えないって」
「……ゴミ」
「ゴミ⁉」

 まさか今、俺のことを廃棄物扱いした?

 ちょっと待ってくれ。夏目七緒。
 もしかしてこの子フツーじゃない。

 不満そうにこちらを睨みつける夏目さん。
 先ほどまでのお嬢様のような振る舞いは幻覚だったのか?
 もう何が何だか。あまりの態度の変化に混乱を禁じ得ない。

 そんなことを考えながら彼女を眺めていると、ふと夏目さんの肩の辺りに目が留まった。

「あのー、夏目さん、肩にカナブンがとまってるよ」

 俺としては「いやーカナブンだなんて春らしいねー」くらいの感覚で何気なく言ったつもりだった。

 しかし。
 それは彼女の視線が、肩にとまったカナブンへ動いた瞬間だった。
 一瞬の静寂の後、落雷のように空気が張り裂けた。

 閑静な辺りに響き渡る金切り声のような悲鳴。
 女性の本気の叫び声を、生まれて初めて聞いたかもしれない。

「いいいいやあああああキモイキモイしねしね‼」
「ちょ、ええ、死ね⁉」

 夏目さんは声帯が破れるんじゃないかってくらいの勢いでもう無茶苦茶に叫びまくり。
 まるで時限爆弾が装着されたかのように取り乱しようだ。
 整った顔も取れたてのリンゴのように真っ赤で、綺麗な髪は台風に晒されたかのようにグシャグシャ。

 もはや見境なし。
 突然の事態だが、ここは俺が何とかするしかない。

 暴れまわる夏目さんにぶん殴られないように、俺はボクサーよろしくステップを踏むことでなんとか身体を近づけた。

 そして一瞬の隙をついて、肩にへばりついたカナブンを掴んで引きはがす。オーバーハンドですぐさまキャッチアンドリリース。

「ほらっ、とれた!カナブンは自然に帰りました!バイバイ!だから落ち着けって」

 全力疾走した直後のように肩を揺らす夏目さんを必死に宥める。
 そうだね、怖かったよね、もうカナブンのおバカさん!

 ……ていうかなにこれ、どういう状況?

 俺のパフォーマンスの甲斐あってか「ふしゃー、ふしゃー」と発情期の猫のように息を荒げながらも、次第に夏目さんの呼吸は徐々に落ち着いてきた。

「あの……もしかして夏目さんって、虫苦手?」
「そんなの見ればわかるでしょこのウスラトンカチ‼」

 夏目さんは鬼の形相で俺に向かって唾を飛ばして叫ぶ。
 おいおい、そんな怒らんでも。そしてウスラトンカチって。久しぶりに聞いたわ。お前さてはうちは一族の末裔か。

 いやいや、問題はそこじゃない。
 ちょっと待て。なんだこの女、キャラ変わり過ぎだろ⁉

「超怖いよ‼ さっきまでのお嬢様はどこ行ったんだ⁉」

 出会った当初の可憐で柔和な雰囲気など風速八十メートルで吹っ飛び、今俺の目の前には暴言を吐きまくる粗暴で輩のような女の子が立っていた。

 夏目さんはこめかみをひくひくと動かせながら、俺の顔を鋭い双眸で睨んだ。

「あーーもう!いやいやいや!なんでこの美人で成績優秀でお金持ちの私が、アンタみたいな底辺変態嘘つき野郎に気を遣って話さないといけないのよ!」
「底辺ヘンタっ……え⁉」

 突如雪崩れ込む土砂の如く吐き出された矢継ぎ早の暴言に、俺の頭はまったく理解が追い付かない。
 なるほど、分からん。いやー、人間って本当に驚くと逆に冷静になるって本当なんだね。

「まったく、私が『こっち来るなオーラ』出してるのを察しなさいよ!アンタみたいな奴と話してるのを誰かに見られたら、どうするのよ!」

 今にも刀を抜こうとする人斬りのような物凄い剣幕に、思わず圧倒される俺。

「私はクラスじゃ大人しい謙虚なお嬢様で通ってるの!変態嘘つきと関わってるなんてばれたら、せっかく努力してゲットしたポジションが台無しよ!」
「お前のどこが大人しいお嬢様だよ!」

 思わず怒鳴り返すようにしてツッコむ。
 こいつ、めちゃくちゃ性格悪いじゃねぇか!

 週刊誌もビックリの驚愕の事実が発覚だ。皆さん聞いてください、学校一のマドンナは、演技派女優の超腹黒女でした!

 夏目さんはハッとしたように顔を上げ、まるで己を守るように自分の両肩に手を添えて抱きしめた。

「まさか、アナタ私に近づこうとして罠にハメたわね!」
「どんな罠だよ! お前が勝手に取り乱したんだろうが!」

 もしこれが夏目さんの本性を暴くために俺が仕組んだ策略だとしたら、諸葛亮公明も驚きの騙しトラップだろうよ。
 こちとら、そもそも夏目さんにそんな裏側の顔があるなんて、想像もしてなかったわ。

 古いブリキの玩具のように、もうお嬢様のペルソナはメッキが剥がれまくりだった。
 そこには、当初の深窓の令嬢らしい雰囲気はゼロ。いやむしろマイナス。氷点下だ。

「私の本性をネタに、私を強請る気ね⁉ 『言うことを聞かないと言いふらすぞ』って脅して、私にあんなことやこんなことを」
「どんな悪役だよ!」

 自分で本性って言っちゃってるし。自覚症状アリかよ。

「お前……さっきまでのお嬢様な感じも、あのイタズラっぽい素振りも、全部演技なのか?」
「そうよっ、悪い?」

高慢な態度で腕を組み、ツンっとそっぽを向く夏目さん。
いや、こんな奴には『さん』づけすらおこがましい。
もとい夏目は、本性がばれたのにも関わらず、平然とした態度で口をへの字にしている。

 やっぱりさっきの俺の違和感は正解だったのだ。俺の人間観察眼もまだ腐ってはいないらしい。
 僅かな違和感。それはこの女から滲み出る恐ろしいほどの内面と外見のギャップが原因だったのだ。

「ふーん……」
「なによ、みんなにバラしたければ勝手にしなさいよ」

 夏目はその細い腕を組んで、怒ったような目つきで俺に睨みを利かせている。

 今目の前にいるのは、学校一の端麗な容姿を持ち、成績トップで家がお金持ち、それなのに人当たりの良いとんでもないチート美少女。

 しかしてその本性は、乱暴で口の悪い傲岸不遜な無茶苦茶な少女。
 ……はあ。なんじゃそりゃ。

「いや、言わねーよ、別に」

 俺は未だに混乱する脳内処理からくる疲弊に、思わず嘆息する。もはや呆れを通り越して諦めに近い。漫画かよ、こいつのキャラクター。

「――知ってんだろ。俺が高校デビューして明るい奴を振る舞ってたけど、本当はただの腐れ陰キャだったってことは」

 逡巡する余地もない。
 俺は改めて目の前の、睨みを聞かせ続けている美少女を見つめた。

「言わねーよ、アンタのことは誰にも」

 言えるわけがない。
 そんな、俺と同じ状況の人間を貶めるようなこと。

 無関係の他人を自分のいる底辺まで引きずり降ろそうなんて、それこそ最低な奴のやることだ。そこまで俺は落ちてはいない。

 夏目がどういう理由で優等生を演じているのか俺は知らない。
 だが、まあ、何かしらあるんだろ、抱えている事情ってやつが。

 夏目は俺の言葉に、肩透かしを受けたようにぽかんとした表情を浮かべている。
 もしや本当に脅されてとんでもない要求をされるとでも思っていたのだろうか。

 いちおう高校に入ってからは、清潔感とか見た目にはかなり気を遣っているのだけど……俺ってそんなあくどい奴に見える?

「ま、まあそうね、アナタみたいなうそつきが周りにチクったところで、誰も信じたりなんかしないだろうし!」

 夏目は強気な態度を持ちなおそうと、慌てたように辛辣な言葉を紡ぐ。

「はは……それに関しては反論できねー」

 あまりにも情けない事実に、自嘲する。

 こいつはそのアカデミー賞主演女優賞ばりの演技力を持ってして、仮面を被りお嬢様を演じている。
 人間観察に自信のある俺ですら、僅かな違和感に気づくのがやっとだったくらいだ。

 俺は無謀にもコイツと同じことをやろうとして、見事に失敗した。それだけの話だ。

「ま、とにかく、べつに誰にもバラさないから、安心して夢のお嬢様ライフを満喫してくれ」

 もう社会的に抹殺された俺には全く縁のない話だ。入り込む余地は一切ない。勝手にやってくれって感じです。

 夏目は納得しかねるような顔で逡巡したあと、

「……ふんっ、まあいいわ。もう話しかけないでね」

 そう吐き捨てて、クルリと踵を返し校舎の方へツカツカと音を立てて去っていった。
 後ろ姿が見えなくなるまで眺めていたが、彼女は一度も振り向かなかった。

 あの様子じゃ、もう俺に二度と関わることもあるまい。
 さらば、腹黒お嬢様。俺の関係ないところで元気にやってくれ。

「……ったく、なんなんだ、アイツは」

 夏目七緒。
 学校一の美少女にして、名家のお嬢様。

 学校の誰も知らないであろう、まさかの二面性を今日俺は知ってしまったのだ。

 彼女の言った通り、クラスの誰かに言ったところで、信じてもらえそうにない。むしろ俺が再びうそつき扱いされてしまうだろう。
 これ以上クラスで信用を失いでもしたら、神崎なら暴力振ってもオーケーみたいな治外法権が適用されても不思議ではない。

 まったく、嵐のようなやつだったな、ホント。
 そんなことをぼーっとしばらく考えていると、昼休み終了の予鈴が鳴った。

「やべっ、急がないと……って、あ」

 そこでふと思い出す。
 アイツ、俺の七十円パクっていきやがった。
「変態うそつき」

 静かに、しかし確実に空気を揺らすような、芯のあるソプラノボイス。
 不名誉な呼称で呼ばれた方向を見ると、夏目七緒が腰に腕を当てて仁王立ちしていた。

「なんだよ。学校一のお嬢様は、学校一の嫌われ者には話しかけないんじゃなかったのか」

 昨日の件から、一日が経った。
 もう二度と会うこともないと思っていたが、次の日の昼休みも夏目は、何故か校舎裏のベンチに再び現れた。
 今日はもう初めからお嬢様スタイルの演技は無し、粗暴で高慢な態度全開だ。

「べつに、紅茶エデンを買いに来ただけよ。それと」

 ベンチに座っている俺に対して、スッと握りこんだ手を差し出す。

「ん?」
「昨日の七十円、持って帰っちゃったから。返しに来たわ」
「ああ、なるほど」

 粗暴な二面性を持ち合わせているくせに、意外と律儀な性格らしい。

「わざわざサンキューな」

 小銭を受け取ろうとすると、夏目は俺の手に触れないように一メートルほど上空から手の平を開いて七十円を落下させた。

「うおっ、ちゃんと渡せよ!」
「嫌よ、だって触ったら変態嘘つき菌が移るじゃない」
「移らねぇよ! どんなウィルスだ!」

 菌とか、小学生かっての。そんな残念すぎる感染病があってたまるか。

「ったく、イジメで訴えてやるぞ」
「あら、なら私は訴え返すわ」
「いや、裁判ってそういうシステムじゃねーから」

 リバース効果発動するカードゲームかよ。

 ……なんだこの死ぬほど下らない会話は。
 傍から聞いたら漫才としか思えないだろう。もしくはイジメの現場。

 俺たちは短い昼休みの間に、いつもそんなヘンテコやり取りをダラダラと繰り広げた。
 夏目七緒という女は、意外とお喋りな性格らしい。

 次の日も、そして次の次の日も。
 夏目は昼食時になると、決まって校舎裏のベンチへ足を運んできた。そして俺のメンタルを傷つける暴言を言い放って去っていく。ここは俺殴り放題のボクシングジムじゃねぇぞ。会員費よこせ。

 といいつつも、俺には昼休みに他に行くアテもない。
 結果的に示し合わせたように、毎日顔を突き合わせることになった。

「――なんだお前、俺とのお喋りがそんな好きになっちまったか?」
「は?マジでキモイんですけど一秒以内にこの世で生きた全ての証を処分してから死んでくれない?」
「ひどい……」

 めっちゃ言うやん。
 ちょっとした冗談が、百倍の暴力になって帰ってきた。俺が鋼のメンタルの持ち主じゃなきゃとうの昔に再起不能だぞ。

 夏目は仏頂面のまま、ふんっと鼻を鳴らす。なんて不遜な態度。まるで中世の貴族のようにお高くとまってやがる。「パンがないならケーキがあるじゃない、ただし私が全部食べるけど」とか言いそう。

 ……しかし、やはりこいつが美少女なことには変わりない。
 その横顔はヨーロッパの画家が描いた聖女のように美しい造形で、油断したら思わず見惚れそうになってしまうほどなのだ。

「私はお昼は必ず紅茶エデンを飲むって決めてるの。むしろ私の方がここを見つけたの先なんですけど」
「あ、そうなの」

 初めてこの場所を発見したときは、俺だけのベストプレイスと思っていたが、どうやら先客がいたらしい。
 まさかこんな辺境に目をつけていた人間が他にいたとは、軽い驚きだ。

「まったく、アナタみたいな変態うそつきが思い上がらないでちょうだい」
「すんません……」
「生理痛みたいな顔して」
「どんな顔だよ!」

 悪口の表現が抽象的過ぎる。前衛的な芸術家か何かか。ぶっ飛び過ぎだぞ。

「お前な、言っていいことと悪いことがあるぞ」
「死ね」
「お前に倫理観とかはないのか⁉」
「あるわよ、だって私は小学校の頃は『倫理ちゃん』って呼ばれていたぐらいだから」
「そんな小学生イヤだわ!」

 どんな義務教育時代の思い出だ。つーか多分そのあだ名悪口だから。むしろお前の方が周りの子を虐めてそうだし。

 ――まったく、この口の悪さと態度のデカさ。
 ここまでの性根の悪さを隠し通している鉄仮面。いったい何製なんだろう。

「……なあ、お前さ、教室ではなんで演技してんの」

 俺は単純な疑問を口にした。
 クラスが違うので直接的な関わりはないが、移動教室のときなど、廊下でたまに夏目とすれ違うことがある。

 腹が立つことに、こいつは他所じゃ借りてきた猫のように大人しく、いい子ちゃんをしっかりと上手に演じてやがるのだ。
 外面は鋼鉄でコーティングされているんじゃないかってぐらい頑丈で、それが演技だと気づいている人間は恐らく学校には一人もいないだろう。

 俺だけがその本性を知ってるってのも、なんとも奇妙な話だ。

「べつに。私の勝手でしょ」

 夏目はそっぽを向いて、紅茶エデンのプルタブを弾くように開ける。プシュッと、気の抜けた音が辺りに響いた。

「私はみんなに平等に愛情を振りまいてるだけよ」
「そーかい。俺に対してはえらく不愛想なくせによ」

 愛情とまでは言わないが、俺にだってもっと優しくしてほしいものだぜ。とりあえず暴言は無しの方向でお願いします。

 俺の何気ない言葉に、何故か夏目はムキになったように眉をひそめた。

「な……それはアナタが」
「アナタが?」

 俺がなんだってんだ。

「……アナタが変態の嘘つきだから、わざわざ演技してあげる必要もないと思ったのよ」

 少しタメを作った後、吐き捨てるみたいに表情を歪める夏目。
 どんだけ俺のこと毛嫌いしてんだよ。さては潔癖症か。夏目にとっての騙す対象にすらならないとは、やはり俺のランクはカースト最下層を爆走中らしい。

「アナタこそ……なんで演技なんかしてたのよ」

 今度は夏目が呟くように疑問を投げかける。
 せっかく買って開けた缶には口もつけず、両手で握ったままだ。飲まないなら俺にくれ。

「なんでって……そもそも、お前どこまで俺のこと知ってんの?」
「中学まではクソ陰キャだったこと、高校デビューしようとして失敗した恥ずかしい奴だってこと、そのうえ体操着コレクターだったことがバレたこと」
「最後のは訂正させてくれ!」

 俺は断じて窃盗犯でも体操着コレクターでもねぇ。ていうか、なんで俺の起こした事件をこんなに知ってるの。実は俺マニアなんじゃないか、コイツ。

 まったく。他クラスの女子にまで事件の話が拡散してしまったとは、本格的に俺の居場所はもう学校には無くなったらしい。

「どう広まってるかは知らんが、俺は女子の体操服なんざ盗んじゃいねー。本当に偶然、不運なことに妹が俺の鞄に体操着を入れ間違えて、事件の容疑者になっちまっただけだ」
「すごい偶然ね。そういえばこの前ニュースで痴漢で捕まったサラリーマンが『偶然手の先に女性のお尻があって』と証言してたけど、似たようなものかしら」
「確かに嘘っぽいのは認めるけど本当なんだよ!」

 当人である俺ですら、他人が同じ状況だったら絶対信じないと思うもん。なんという神様のイタズラ。
 こんな不幸な偶然が世界に存在することを、俺は身をもって体験したのだ。どうせならもっと良い奇跡が起きてくれたらありがたかったのに。

「鞄の中じゃなくて、制服の下に着ていたらバレなかったのにね」
「変態度がよりアップしてるじゃねぇか!」

 そこまでいったら、もはやバレるバレないのレベルではなく、人として戻ってこれない領域に到達してしまったといえるだろう。というか、そもそも俺は変態じゃねぇ。

「とにかく、俺は窃盗もしてないし、特殊な性癖も持ってねぇよ」
「あらそう。なら、高校デビューしようとしたってことは認めるのね」
「うっ……」

 痛いところをついてくる。なにこの誘導尋問。警察署の取調室か。
 俺は黙秘を諦めた容疑者のように、諦観の表情でベンチに大きくもたれかかった。

「――まあ、そうだよ。目立たない地味だった奴が、背伸びして人気者を演じようとした末路だ」

 寓話にしてもデキの悪い、どうしようもない話。
 とあるキッカケで俺が身に付けようと思い立った偽りの仮面は、たった一か月もしないうちに破綻した。

 結局は、たったそれだけの話なのだ。
 盗難事件はただのキッカケで、みんなを騙せると調子に乗っていた事実は変わらない。

「いやー、夢は見るもんじゃねぇな」

 肺の中の空気を全て吐き出すように、深い溜息を吐く。
 もう戻ってこない時間の重大さを考えるだけで、改めて気が重くなる。

「――夢、ね」

 普段の威勢はどこにやら、夏目はどこか憂いを含んだ表情で手に収まったアルミ缶を見つめていた。

 ……なんだよ、そんな顔もできるのか。

「その、なんだ。お前もせいぜい気をつけるんだな、お嬢様。性悪な暴言女ってことがばれないようにな」

 俺は不意に流れた沈黙になんだか虫の居所が悪くなって、思わず適当な言葉を並べた。
 我ながら下手くそな誤魔化し方だ。俺はこんなときに伝えるべき言葉を、知らない。

 すると夏目は自慢気な笑みを浮かべて、ふんぞり返って腕を組んだ。

「……ふんっ、アナタと一緒にしないで。アナタのようなヘマはしないし、何よりスペックが違うもの」

 そう言って紅茶のエデンに口をつけると、豪快にグビグビと飲み干す。
 よく分からないが、どうやら機嫌は回復したらしい。

「否定できないのが腹立つわ……」

 やっぱり、可愛くない奴だ、コイツは。
 とんでもない名家のご令嬢で、誰もが振り向くほどの美人で、高校に主席入学するほど頭も良い。

 こんなチート女が、あえて性格も良いお嬢様を演じている理由。
 それはいったい、何なのだろう。なんだか気になる。
 夏目の持っている、ホントの部分。

「あのさ……」

 俺が口を開いた瞬間。
 何を言おうとしたのか、自分でも覚えていない。
 とにかくそれは、突然の出来事だった。

「危ない‼」

 閑静な辺りに似合わない、鬼気迫る怒鳴り声が響いた。
 怒鳴り声の発生源は、上の方向からだった。

 声につられるように上空を見上げると、舞っていた。
 何が?
 数えきれないくらいの、鉄パイプが。

 ――屋上の扉に貼ってあった、工事中の文字。
 みるみる上空から落下してくる鉄パイプを見て、そんなことが脳裏を過ぎった。

 考えている暇はない。

 俺は弾けるようにベンチから立ち上がると、隣で呑気に空を見上げたまま固まっている夏目を、本能的に身体ごと突き飛ばした。

 瞬間。
 身体を打ち付けるとんでもない衝撃と、辺りに響き渡る耳を覆いたくなるほどの轟音。

 気がついたら俺の身体は、寝そべるようにして地に伏していた。
 いったい身体のどこに、何がぶつかったのすら分からない。

 視界がだんたんと暗くなっていく。
 身体もまるで糸の切れた人形のように動かない。
 手の平からするすると力が抜けていく感覚。

 やべえ、これ、死ぬんじゃね?

 薄れゆく視界の先に、地面に転がったいくつかの鉄パイプと、少し離れたところに俺と同じように地面に倒れこんで動かない夏目の姿が見えた。

 あまりに突然な非日常すぎる光景。
 だが頭に浮かんだことはたった一つだった。

 夏目は大丈夫なのだろうか。
 分からない。

 もう、意識が保つことが出来ない。
 校舎から響いた昼休みの終わりを告げるチャイムだけが、妙にハッキリと聞こえた。
 目を覚ますと、俺はクラスの人気者になっていた。
 常に皆の話題の中心であり、誰からも注目される存在。
 挨拶を投げ掛けるだけで女子たちから黄色い歓声が沸き起こり、その一挙手一投足が学校中で注目されている――

「――夢か」

 鉛のように重たい瞼を、やっとの思いで持ち上げる。

 真っ先に飛び込んできた眩しい光が、窓から差し込む夕焼けであることに気がつくのに、数秒かかった。

 どうやら俺は眠っていたらしい。
 目の前に広がっていたのは、見慣れない白い天井。

「ここは……いつっ」

 辺りを見回そうと上半身を起こすと、肩や腕に鈍い痛みが走った。
 味わったことのない倦怠感が身体を包んでいる。不思議なほどに頭がぼーっとする。

 一目で分かった。ここは明らかに病室だ。俺は、どうして。

 部屋を眺めているうちに、眠っていた意識が徐々に冴えていく。
 そうだ、思い出した。

「夏目……!」

 俺と夏目は事故に巻き込まれたのだ。
 カメラのシャッターを切るように、事故の瞬間がフラッシュバックする。

 血の気がサッと引いていくのを感じた。
 そうだ、あのとき俺と夏目は一緒に鉄パイプの雨に襲われた。アイツは大丈夫だったのか。こうしてはいられない。とにかく確認しなければ。

 重たい身体を無理矢理起こそうとした瞬間、前触れもなく病室の引き戸が音を立てて開いた。

「お兄ちゃん!」
「――桜子」

 病院には相応しくない大きな張りのある声と共に現れたのは、紛れもなく俺の妹、神崎桜子だった。
 中学のセーラー服を身に纏った姿で、顔を上気させている。

 桜子は手に持っていた通学鞄を投げ捨てて、俺が横たわるベッドに飛びついてきた。

「もーー、すっごく心配したんだよ!」

 桜子は年相応のか細い手を震わせながら、白いシーツをギュッと握る。
 まるで感動ドラマのワンシーンのようだ。なにこの泣けるシチュエーション。

「桜子……お前そこまで俺のことを」

 家では生意気を言ったり、体操服を俺の鞄に入れ間違えたりと非常に困った妹だが、こんなときばかりはしっかりと俺のことを心配してくれているらしい。

 やはり腐っても俺たちは大切な家族なんだ。
 血を分けた肉親が俺の身体を想う気持ちに、思わず目頭が熱くなる。

「ぐす……病院に担ぎ込まれたって聞いて、遂に頭がおかしくなったのかと」
「なんで精神的な病気を心配してんだよ!」

 全身に響く鈍い痛みに耐えながらも、我慢できずにツッコむ。それが入院した兄貴に対して開口一番に言うことかよ。

 桜子は「てへぺろ☆」イタズラっぽい笑みを浮かべた後、少しだけ真面目な顔つきになった。

「ウソウソ、本当に心配したんだよ。家に帰ったら事故に遭ったって連絡が来て。パパもママもお仕事でどうしても来れないから、私が飛んで来たんだよ」
「――そうか、ありがとな」

 どうやら俺が意識を失っていたのは短い時間のようだ。
 窓から見える太陽の傾き具合は、夕方過ぎといったところか。事故が起きた昼休みからは半日と経っていないだろう。

 身体も部分的に鈍い痛みは残っているが、出血や骨が折れたような様子はない。手や足を揺り動かしてみたが、特に動作に支障は無さそうだ。

 空から降ってくる鉄パイプを一身に浴びたわりには、身体は比較的無事だったらしい。
 別にボディの頑丈さに自信があるわけではなかったが、これが本当の不幸中の幸いというやつだろうな。

「お兄ちゃん、昔からホントに運が悪いんだよねー」
「まあ……心当たりはあるな」

 入学してわずか一か月ちょい。
 学校中の生徒に嫌われた上に事故に遭うとか、怒涛の不幸ラッシュだ。とんでもねぇな、俺の今年の運勢。六星占術もビックリの運気の落ち込み具合だろう。とはいえ己の運勢を呪っている場合ではない。

「――そうだ! 俺ともう一人、事故に巻き込まれたんだ。桜子はそいつがどうなったか知らないか?」
「うーん、私は今来たばかりだから分からないけど……看護師さんに聞いてみる?」
「ああ、頼めるか」
「分かったよ、お兄ちゃん」

 桜子はコクリと頷くと、病室から出て、ナースステーションから看護師さんを呼んで戻ってきてくれた。

 看護師さんの話によると、夏目は俺と同じく病院に運ばれたらしい。
 外的な損傷は俺よりも少なかったが、頭を打ったためか意識はまだ戻っておらず、病室のベッドで今も眠り続けているそうだ。

「意識はまだ、か……」
「大丈夫ですよ。外傷は少ないですし、精密検査もすでに行いましたが特に異常はないので、明日には意識は戻るはずです」

 深刻そうな俺の表情を察したのか、看護師さんはそうフォローを入れて励ましてくれた。
 優しい。将来は看護師の女性と結婚したいな……。

 その後、桜子が持ってきてくれた最低限の着替えを受け取って、今夜は病院に泊まることになった。
 検査で異常がなければ、数日以内には退院できるそうだ。
 入院というほど大袈裟なものでもない。ケガが軽いもので本当に良かった。

 まったく、工事中の屋上から鉄パイプが降ってくるなんて、誰が予想できただろう。学校という公的な施設にしては、安全性に問題ありだ。退院したら、工事会社に管理体制の是正を訴えてやる。

「あれ、なんだこれ」

 俺はベットの小脇に置かれた小さいテーブルに、一本の造花が置かれているのに気がついた。種類は分からないが、薄いピンクの花びらが鮮やかだ。

「……造花かな? たしかこの病院の売店に売ってるやつだよ」

 桜子は造花の茎を手に取って、手遊びするようにクルクルと回す。

「この病室の、前の患者の忘れ物か?」
「いや、それはないでしょ……私より先に誰か来たのかな?」

 確かに俺が運び込まれてから桜子が来るまで数時間の空白があったわけだが、妹よりも先に俺の見舞いに来る人間なんているだろうか?

「お兄ちゃんが事故に遭ったのを知ってるのは……学校の人かな?」

 うーんと腕を組んで頭を捻る桜子。
 高校の人間ならなおさらだ。たとえ事故が起きたことを知っても、俺の身体を心配して、あまつさえ見舞いに来る人間など皆無だろう。

「……まあいいや」

 とりあえず、妹には高校で起きた惨劇については一切話していない。
 結局造花を置いていったのが誰かは迷宮入りだが、下手に俺の失態がバレる前にもうこの話題は打ち切りにしよう。

 話が終わると、桜子は「しっかり安静にしてるんだよー。ムリしたら『メッ』だからね!」と言って病室を後にした。メッて。

 しかし兄貴の非常事態に駆けつけてくれるとは、中学生になってもまだまだ可愛い妹には変わりないな。
 そうだ、今度お返しに甘いものでも何か買っていってやろう。たしか駅前で売っているモンブランが好物だったっけ。行列に並ぶくらいの対価は払ってあげてもいい。

「……はあ」

 俺以外は誰もいない静かな病室で、深い溜息をつく。

「しっかし……まさか事故に遭うとは」

 事故に巻き込まれるなんて経験、小学生の時にトラックに轢かれかけてコケた以来だぜ。その時は膝を擦りむいた程度だったけど。まあ今回も軽傷だったことが救いだ。

 それより、夏目の様態が心配だ。
 どうしたものかと、しばらく横になって窓から夕暮れを眺めていると、

「トイレ……行きてぇな」

 看護師さんには安静にしていてください、と言われたが、トイレくらいは許されるだろう。

 俺は先ほど看護師さんから拝借した松葉杖を手元に引き寄せて、ベットから降りて立ち上がった。
 改めて身体の状態を確認するが、打撲傷以外は足腰にも特に問題はない。

 松葉杖に軽く頼りながら廊下を歩く。
 もう時間が遅いためか、お見舞いの来客はほとんどおらず、他の入院患者が行き来しているのがちらほらと散見された。

 トイレからの帰り、廊下を歩いている途中だった。

「……ん?」

 俺はある病室の前で他の入院客とは明らかに性質を異なる、漆黒のスーツを身に纏った人影が立っているのが目に入った。

 近づいてよく見てみると、白髪交じりの老年の男性なのが分かった。
 一昔前の紳士のような上品な雰囲気で、その存在感は病院には似つかわしくない。病院の関係者には見えないな。

「失礼、そこのお兄さん」
「は、はい?」

 すれ違い様にスーツの老紳士に呼び止められた。
 ヤバい、物珍しい目であまりにジロジロ見ていたので、気分を害してしまったのだろうか。

「間違っていたら申し訳ありません。もしや神崎春さんではありませんか?」
「あ、そうですけど……」

 名前を言い当てられ、驚きのあまり思わず息を呑む。こんな老紳士の知り合いは寡聞にして存じ上げない。
 俺はどこかで会ったことがあっただろうかと思い、脳内を必死に検索した。

「良かった。私は夏目家で執事を務めております、瀬野と申します。この度はお見舞い申し上げます」
「ど、どうも」

 夏目家の執事、か。
 瀬野さんは胸に手を当てて、深々とお辞儀をした。礼儀作法などはよく分からないが、とりあえず慌ててお辞儀を返す。

 でもなぜ俺の名前を知っているのだろう。

「夏目って……」

 俺は瀬野さんが立っているその背後にある病室の扉を見つめる。
 辺りは依然として静かで、中からは物音は聞こえない。

「はい、七緒お嬢様はこちらで眠っておられます」

 執事にお嬢様って。まるでアニメの世界の話だな。本物の執事なんて現実では初めて見たよ。

 改めて、本当に夏目が名家の令嬢であることを再確認する。
 その振る舞いからは想像もできないが、たしかに現実らしい。

「じゃあ、まだ夏目……さんは意識が?」
「はい、お医者様が仰ることにはすぐに目が覚めるとのことでしたが、今はまだ眠っておられます」
「なるほど……」

 夏目のか細く華奢な身体と、穢れを知らないような透き通った肌を思い出す。軽傷といわれても、意識が戻っていないとなると心配になる。

 瀬野さんは左手をかざすように突き出して、落ち着いた配色の高級そうな腕時計に目をやった。やべえ、ただ時間を確認しただけなのにすげースタイリッシュ。

「もうすぐ面会時間が終わりますので、私は失礼しようと思います。神崎さん、よかったらお嬢様の顔を見ていってやってください」
「えっ、いいんですか」

 瀬野さんの意外な提案に、俺は思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまった。

「意外ですか?」
「そ、そうですね。なんか、お金持ちの家って、俺みたいな庶民、お嬢さんに関わらせたくないんじゃないかなってイメージがあったんで……」

 瀬野さんは俺の自虐的な発言を馬鹿にするでもなく、目尻を下げて優しく微笑んだ。

「本家の方々はあまり良い顔はしないかもしれません。しかし、私はお嬢様のお付きの執事ですので、ご学友に無礼な態度を取るわけにはいきませんよ。それに」
「それに?」
「お昼休みにお嬢様とご一緒されていたということは、それなりに親しい間柄でおられるのと思いまして」

 瀬野さんは再び優し気に微笑んだ。
 なんだかその笑顔は年齢にそぐわない、不思議な少年のような子供っぽさがあった。落ち着いた雰囲気の紳士だが、意外と愛敬がある人なのかもしれない。

「い、いや、べつに、たまたまですよ。そんなんじゃありません」

 べつに後ろめたいことがあるわけでもないのに、慌てて言葉を濁す。
 そういえば俺と夏目の関係って、いったい何なんだろう。

 話すようになってまだ数日しか経ってないし、友達ってわけでもない。
 彼女でも、もちろんない。クラスも違うし……ただの同級生?

「お嬢さんが同級生の方と仲良くされていることは、あまりありませんでしたから」

 瀬野さんは扉の向こうを見つめるようにして、少し寂しそうに呟いた。まるで何かを思い出しているような物憂げ表情。

「……意外ですね」

 俺は瀬野さんの言葉に驚きを隠せなかった。あの人心掌握に長けた性悪女のことだ。小さい頃から周りを騙して、女王様としてクラス内カーストのトップに君臨している姿を勝手にイメージしていた。昔は違ったのだろうか?

「お嬢様は昔から不器用な方ですから」
「不器用……ですか」

 学校中を騙す驚異の演技力。俺から見たらあんなに二面性を上手に使い分ける、器用な奴は他に知らないんだが。もちろん、夏目のすべてを知っているわけではないけれど。

 そういえば、瀬野さんは夏目の演技のことを知っているのだろうか?

「おっと、長居してしまいましたね。それでは今度こそ、失礼いたします」

 瀬野さんは慇懃な一礼と共に「お嬢様をよろしくお願いします」とセリフを残して去っていった。
 そんな芝居がかった動作も様になるような、紳士的で格好良いご老人だった。あんな風に年を取りたいな……。

 瀬野さんが去った後、人気がなく閑静な廊下に一人で立ち尽くす。
 この扉の向こうに、あの夏目が今も眠っている。

 不幸な事故だ。
 べつに巻き込んでしまった罪悪感とか、何があるわけじゃない。あんな辺鄙な場所にピンポイントで鉄パイプが降ってくるなんて、どんな有能な天気予報士でも予測は不可能だっただろう。なんなら俺だって完全なる被害者なんだ。

「――まあ、顔だけでも見てくか」

 俺はしばらく逡巡したあと、扉のノブに手を掛けた。
 考えても、問題が解決するわけじゃない。夏目が目を覚ますわけでもない。
 いちおう軽くノックをしてから、ゆっくりと扉を横にスライドさせる。

 お姫様が、眠っていた。

 病室のベットに目を閉じて横たわっている夏目が目に飛び込んできた瞬間、そんなセリフが頭に浮かんだ。

 夏目は静かなこの空間で、寝息が聞こえてきそうなほど、安らかな顔で眠っている。
 ガラス細工のように整った造形の顔は、まるで絵本の世界から抜け出してきたような美しさで、神聖さすら感じさせた。
 毒リンゴを食べて眠りに落ちた白雪姫も、こんな感じだったのかもしれない。

「――よう、入るぞ」

 声を掛けてみたが、反応はない。
 いちおう許可は取ったのだ、上がらせてもらうことにする。

 扉の近くに置かれていたパイプ椅子を手元に引き寄せる。パイプ椅子は床と擦れて、乾いた音を病室に響かせた。それをベッドの脇まで動かして、ゆっくりと腰を下ろす。

 もう夕暮れも過ぎて、夜の帳が降り始めていた。
 廊下から漏れる明かりと、外から照らされる街灯が僅かに辺りを照らす程度で、すっかり暗くなった病室。

 窓からは外の景色が一望でき、遠くまで立ち並ぶ家の明かりが煌々と光って見えた。

 夏目の綺麗な寝顔を眺めながら、あの校舎裏のベンチを思い起こす。
 『変態うそつき』の汚名を着せられ、教室に居場所がなくなり、逃げ込んだあのベンチ。
 まさかあの場所で、学校のマドンナである夏目と巡り合うことになるとは。

 そしてその本性を知り、そのうえ事故に巻き込まれて、こうして俺は病室で夏目の寝顔を眺めている。

 まったく、不思議なもんだな。
 中学までのひたすら地味な生活からしたら、目を張るような変化だ。それもほとんどが良くない方向性で、だけど。

「――なあ」

 ふと、思う。
 このケガが治って退院したところで、学校に俺の居場所はないことは自明の理だ。俺を必要としている人間は一人もいない。
 また、誰からも白い目で見られるだけの、つまらない毎日が続くだけだ。

 しかし、夏目は違う。
 とんでもない腹黒の毒舌女であることを知る人間は、俺以外誰もいない。持ち前の端麗な容姿と卓越した演技で、学園のマドンナの座を欲しいままにしているのだ。

 きっと、事故から戻れば皆が心配していたと夏目に声をかけるはずだ。
 周りから必要とされ、憧れの視線を向けられる。それはさぞかし楽しい生活だろう。

 耳をつくような静けさが、やけにうるさく感じた。

 考えれば考えるほど、モヤモヤとした形容し難い感情が、次々と現れては胸の中で渦巻く。

 なんだ、この感情は。
 どうしてだろう、暗がりで静かに横たわっているこの美少女を、直視することが出来ない。

 俺は自分が今考えていることに、自分自身で驚愕した。
 これは嫉妬、なのか。俺はこの目の前でスヤスヤと眠っているお嬢様に、嫉妬を覚えているのだ。
 俺みたいな陰キャラあがりの冴えない庶民が、成績と人気ともに学年トップの名家のお嬢様に嫉妬するなんて、とんでもなくおこがましい話。

 頭では分かっている。
 だが、心が分かってくれない。

「――夏目、どうしたら」

 お前みたいに。
 そう口を開きかけたとき、ある変化に気がついた。

 夏目の瞼がピクリと動いたのだ。
 驚きも束の間、電源の入ったロボットのように夏目の目がゆっくりと開いた。

「――ここは」

 少し掠れた声で、夏目はポツリと言葉を漏らした。

「おい、夏目! 目が覚めたのか!」

 俺の問いかけに呼応するように夏目はゆっくりと頭をもたげて、上半身を起こす。まだ顔色は良くないように見えたが、意識は戻ったようだ。

「お、お前、なかなか目を覚まさないのは流石に心配したぞ。さっきまで執事の瀬野さんも一緒だったんだけど、もう帰っちまったよ」

 まったく、心配させやがって。いやべつに心配とかしてねーけど、いちおう同じ事故の被害者としてはね。

 夏目は陶器のように表情が固定されて、なぜか反応がない。
 そして黙ったまま俺の顔を見つめている。まるで脳内でシステム処理を行っている最中のコンピューターのようだ。

 どうして何も答えないのだろう。何か様子がおかしい。
 もしかして事故で負った怪我の後遺症があるのだろうか。

「……夏目?大丈夫か?」

 俺の問いかけに、夏目は長い睫毛を動かしてパチパチと瞬きをして、まるで不思議な景色を眺めるようにこちらを凝視している。
 いったいどうしてしまったんだ。看護師さんを呼んでくるべきか。

 夏目はゆっくりと、でもしっかりとした口調で、衝撃的な言葉を発した。

「アナタは――誰ですか?」
「……は?」

 ゲリラ豪雨並みに瞬間的に訪れた、あまりに唐突な発言。
 夏目の言葉の意味が理解できず、俺は思わずマヌケな声を漏らした。

「夏目、なんて」
「あの……ごめんなさい。私、アナタとどこかでお会いしましたか?」
「お前……」

 今までの俺に対する傍若無人な態度とは打って変わって、妙に丁寧で落ち着いた口調。なぜか懐かしくすら感じられる。

 まるで、俺と出会う前の、あのお嬢様を演じていたときの振る舞いじゃないか。これは新手の冗談か?それともまたお決まりの悪ノリか?

「ここがどこかご存知ですか?私眠っていたみたいですけど……頭がボーっとして」
「そ、そうか、まだ意識が戻ったばっかで混乱してるんだな」

 意識を失っていたということは、頭を強く打ったのだろう。まだハッキリと思考が覚醒していないのかもしれない。

「ここは病室だ。俺たちは事故に巻き込まれたんだよ。もしかして覚えてないのか?」

 よく事故に遭った人や試合に負けたボクサーが、頭に強い衝撃を受けた前後の記憶が吹き飛ぶことがあると、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがある。もしかして、夏目もそのケースなのだろうか。

「事故……ですか」

 夏目は必死に過去の記憶を捻りだそうとするように、目をつぶって眉をギュッと寄せた。
 しばらく流れるシンキングタイム。

 しかし。

「……思い出せません」

 夏目は纏わりつく靄を振り払おうとするように、ブンブンと大袈裟に頭を振った。まさか本当に記憶が飛んじまったっていうのか。

「今は何日でしょうか?私はどれくらい眠っていたのでしょう?」
「お前は半日も眠ってないぞ。だから今日は――」

 夏目に今日の日付を伝える。
 すると夏目はそのパッチリとした目を見開き、そしてその表情はみるみる驚きの色に変わった。

「ウソ……私、ほんの昨日に入学式に出席したはずなのに……」
「は⁉」

 夏目の言葉に驚愕する。
 唖然とした表情で、静かに見つめ合う高校生の男女が二人。もしこのタイミングで看護師さんが入ってきたら、いったい何事かと思われたことだろう。

夏 目の演技力を踏まえても、この驚きの反応がどうも嘘をついているようには思えない。冷静に考えて、この二人きりの場面で嘘をつくメリットもないだろう。

 夏目は俺の顔すらも覚えていない。俺の存在自体が記憶から完全にデリートされている。いや、この場合はリセットか。

 なにより、昨日が一か月前に終えたはずの入学式だと思っている。
 明らかに記憶の整合性が取れていない。

 ここから導き出される結論は、一つしかない。

「まさか……記憶喪失ってやつなのか」

 今まさに、目の前に記憶喪失をした美少女がいる。

 なんだこりゃ。俺が普段愛読しているラブコメ漫画もビックリの超展開だ。
 まったくの人生初経験に、もう俺の脳内はお玉でかき混ぜたくらい混乱していた。

「そんな……! 私、どうすれば」

 俺以上に混乱した表情で、慌てふためいている絶世の美少女。
 しかし、あの虫を気持ち悪がって暴れ倒したあのときの反応に比べると、まだ大人しい。

 驚いてもなお上品な雰囲気を保っているこのリアクション。
 これは紛れもなく、俺に腹黒な二面性が露呈する以前の夏目で間違いない。

 俺が学校中から嫌われて、逃げ込んだ先で夏目と下らない話をする関係になった、約一か月間の出来事がコイツの記憶からは抜け落ちている。

 だから今の夏目は『変態嘘つき』の俺のことを知らない。夏目の毒舌にツッコミまくる俺も、知らない。

「瀬野のことを知っているということは、もしかしてアナタは私と仲良くしてくださっていたのでしょうか……?」

 夏目はその潤んだ瞳で俺の顔を覗き込むようにして見つめた。
 そのぱっちりとした目に漆黒の瞳は、まるで綺麗なガラスの球に閉じ込められた宇宙の銀河のようだった。俺が宇宙飛行士なら、スペースシャトルに乗って瞳の中へと旅に出そうな勢いだ。

「い、いや仲良くっていうか……」

 俺はなんと説明すればいいのか分からず、目を逸らして言い淀む。
 その庇護欲をそそるような、幼く純粋な表情。

 あの日の光景がフラッシュバックする。
 そういえば、こんな風に純粋そうな瞳で、俺のことを。

 ああ、何言ってんだ俺は。これは演技なのだ。
 べつに高校進学以前の昔の夏目を知っているわけではないが、入学式当時はすでに腹黒な性格を隠して優等生の仮面を被っていたことは間違いない。

 夏目は俺が自身の本性を知っていることに、まるで気がついていない。
 俺がクラスでどれだけ嫌われているのかも、知らないのだ。いったい何から話せばいいものか。

 俺の抱えている事情を一から夏目に説明するのか?
 夏目とのファーストコンタクト。あの俺の存在に気づいた途端、急に不愛想になった夏目の表情を思い出す。どうせまた生理的嫌悪感を剥き出しにされて拒絶されるだけだ。

 それに加えて、あの昼休みに過ごした時間も忘却の彼方なのだ。
 こうなった以上、もう一度あの校舎裏で駄弁っていたときの関係を構築し直す、なんてこと不可能に近いだろう。

「――っ」

 最低な考えが、頭に浮かんだ。
 黙っている俺を、不思議そうな表情で見つめている夏目。

 これを言ってしまったら、もう後には戻れない。
 心臓が飛び出しそうなほど大きく鼓動している。
 シーツの衣擦りの音さえ聞こえる静かな二人だけの空間で、ドクンドクンと脈打つ音がこだましている。

 俺はクラスメイト全員から白い目で見られたあの瞬間に失ったはずのプライドの、さらに残った全てを根こそぎ手放して、覚悟を決めた。

 ゆっくりと口を開く。

 いいさ、もうどうにでもなれ。
 なぜなら俺は。
 学校一の嫌われ者で。
 変態の、大嘘つき、なんだから。

 最低な嘘を。
 取り戻せない嘘を。

「仲が良いなんて、当たり前だろ。だって」
「だって?」

「俺たちは、付き合ってるんだから」
『……高校デビュー?』
『あれ、興味あるの? この雑誌』

『え、いやべつに……』
『はい、これさしあげますよ』

『いや、そんな、悪いよ』
『いーの、手伝ってくれたお礼です!』

『――あ、ありがとう』
『中学の制服にその筒を持ってるってことは……もしかして今日卒業式だった?』

『そ、そうだけど……よく分かったね』
『うふふ。アナタもきっと、高校ではこの雑誌の表紙みたいになれるよ』

『いや、俺にはこんなキラキラした感じ……無理に決まってるし』
『そんなことない! 頑張ればきっとなれるはずだよ』

『そ、そうかな……』
『私が言うんだから間違いない』

『――きっと、素敵な姿に変われるはずだよ』

☆☆☆

 この街は坂が多い。
 もとは山だった土地を切り開いて開発したという経緯があり、町内を歩きまわろうと思えばそれなりの覚悟がいる。

 俺が通学している高校も例に漏れず、日本海の絶壁さながらに、首をもたげて見上げるほど勾配のキツイ坂の頂上に存在している。

 この高校に自転車で通学しようと思うものなら、ツールドフランスに出場するロードレーサーばりの脚力を必要とし、毎朝地獄のトレーニングを己に課しているものといって掛け値ない。

 俺はべつに日本人初のオリンピック自転車種目金メダリストを目指しているわけでも、毎朝かかなくてもいい汗をダラダラと流しながら身体能力の向上に努める勤勉なスポーツマンなわけでもないので、大人しくバス通学をしている。文明の利器、最高。

 坂道を登るなんてのは余計な手間だし、面倒くさいことこの上ないと内心思いながらも、俺は一つだけ気に入っている部分がある。

 それは、暖かい風が坂の上に向かって吹き上げてくれることだ。
 特に五月なんて春真っ盛りには暖かい春風が身体を包み込むように吹き、のんびり日向ぼっこでもしていると小高い丘の上にピクニックに出も来たような気分になれる。

 ああ、この気持ちの良い天気。癒しの時間。雲一つない快晴。

 ある日の昼休み、俺はそんなことを考えながら校舎裏のベンチに腰掛けていた。

「はー、いい天気だな」
「余生を楽しむジジイみたいなことを言うのね、アナタ。きっと教室に居場所がないあまり、現実逃避でもしていないと生きていけないのでしょうね。あー可哀想な人」
「天気が良いって呟いただけでそこまで言う⁉」

 独り言に対する判定が厳しすぎる。

 怒涛の悪口を流水の如くスラスラと並べたてるこの女。
 夏目七緒が、俺の真横で同じベンチに腰掛けていた。

 腰掛けているといっても、端と端。
 そこまで長くない小さなベンチの面積を最大限に使って、まるで近寄りたくもないと訴えかけるかのように距離を離して座っている。他所から見たらまったくの他人同士だと思われるレベル。

「――そういえば、工事業者の人が謝りに来たわ」
「あー俺のとこにも来たよ」

 屋上からの鉄パイプ落下事件。
 どうやら原因は昼休み中に工事を行っていた業者のミスだったらしい。

 積んであった建設材料が何かの拍子で崩れたそうだ。その真下に俺たちがいた。どんな偶然だよって思わずツッコみたくなる。

 入院していた病室で、親方という呼び名が相応しい厳ついオッサンにとにかく平謝りされた。二回りも年が上の男性にここまで謝られることなんて人生でもそうないだろう。
 まあ、あってはならない事故だったけれど、大事には至らなかったのでまだ良かったとしよう。直前に叫ばれた「危ない」という言葉のおかげでなんとか避けられたしな。

「でも事故の時のことも覚えてないんだろ?」
「ええ、まったく」

 夏目は澄ました顔で頷いた。

「だから、いまだに信じられないわ。アナタみたいな学校の最底辺を這いつくばっている存在と、高貴で華々しい存在の私が付き合っているなんて」
「そんなの――俺だってそう思うよ」

 夏目はフンッとそっぽを向いて、片手に握ったお気に入りの『紅茶エデン』を口へと運んで傾ける。

 事故の後、夏目は入学式後の約一か月間の記憶を喪失した。

 お医者さんによると、事故による衝撃が原因で、自然に記憶が戻ることを期待する以外に治療のしようがないらしい。そしていつ頃記憶が復活するかもまったく分からない。

 俺はそんな状態の夏目に、ある嘘をついた。

『俺と夏目は付き合っている』

 どうしても、この奇跡的ともいえる偶然で掴んだ繋がりを、手放したくなかった。
 だから、嘘をついた。俺は最低な野郎だ。

 夏目を騙すことになる罪悪感。
 言い訳をするわけじゃないが、もちろん夏目を傷つけるようなことをするつもりはない。

 もう少しの間だけ、この下らない会話を繰り広げるだけの時間を、延長したいだけなんだ。もう俺に、このベンチ以外に居場所はない。

 俺の言葉を聞いた夏目は当初は激しく不信感を露わにしたが、夏目が周りを騙して演技していること、瀬野さんの存在、そして校舎裏で出会ったことがキッカケで仲良くなったことを説明したところ、しぶしぶだが納得してくれた。

 やはり誰にも演技のことは明かしていなかったようだ。
 だからこそ、それを知っていた俺は近しい存在だったと認めてもらうことが出来た。

 後から誤解されることを恐れて、すでに俺の抱えている事情は説明してある。
 かなり俺に都合の良いように贔屓目に説明した効果か、思ったよりも拒絶されることはなかった。初対面のとき同様、苛烈な毒舌に晒されることにはなったけどね。うん、辛い。

 そして事故から数日。
 やっとこさ退院した俺たちは、再び昼休みになると校舎裏のベンチで顔を突き合わせるようになった。

 ベンチはもともとお世辞にも綺麗とはいえない外装だったが、事故を受けてところどころの塗装が剥げてしまって、さらにボロい感じになっていた。むしろその傷跡が苦楽を共にした盟友のような気がして、俺は嫌いじゃない。

「ねえ、一応聞いておくけど、告白はどちらからしたのかしら」
「あー……俺からだね」

 俺は夏目の質問に、目を合わせないようにして空を見上げながら口からデマカセを吐く。その漆黒が彩る瞳に目を合わせてしまえば、心の奥底まで見透かされてしまいそうな気がした。
 だが夏目は特に疑う素振りもなく、深く詮索することもなく、短く溜息をつく。

「ふーん……なんでそのときの私はオーケーしたのかしらね」
「さあな、俺の魅力にやられちまったんじゃねぇか」
「つまんない」

 シンプルにすんません。
 しかし夏目の様子を見る限り、俺の吐いた交際しているという嘘を一応だが信じてくれている。攻撃的な性格に見えて、意外と夏目は根が素直なところがあるのかもしれない。

「まあ、少なくともお前の学園のマドンナみたいな演技は、みんなに通用してるよ。俺以外気づいてる人間は皆無だろうな」
「それは教室で過ごしていてすぐに分かったわよ。退院してから初めて教室に入ったとき、男女問わず大勢のクラスメイトに囲まれて大騒ぎだったもの。まったく、人気者は辛いわね」
「あーそうかい。そりゃ重畳で」

 俺なんて、ケガの心配をしてくれるどころか「帰ってきたのかよ、チッ」的な批難がましい視線すら感じたぞ。国会答弁を通じて与党に学校内人気格差の是正を訴えたいぜ。まあ圧倒的大差で反対多数だろうが。

「――知らない人間が親し気な口をきいてくるのは、不気味な光景だったわ」
「まあ……そうかもな」

 普段の生活の一か月間分の記憶が消えただけなら、まだそこまで大きい弊害はないだろう。
 だがコイツが記憶を失った期間は、入学式からの一か月間という、人間関係の構築や生活の根幹を成すうえで、非常に大切な時期だったのだ。

 クラスメイトのほとんどが、自分がまったく知らない人間たち。だが向こうは自分のことを知っている。

 夏目はお利口さんな演技を崩さず気丈に振る舞ってはいるが、本人が置かれている状況は、さぞかし奇妙で不安なものだろう。
 それなりにストレスも堪っているのかもしれない。でもだからといって悪口で人を傷つけるのは良くないよ?

「これも確認だけど……私たちのお付き合いは、他の誰も知らないわよね?」

 夏目は俺の方に身体を向き直して、疑うような視線を向けた。それは純真さからはかけ離れた、意地の悪そうなジト目。とはいえモデルのような容姿を持った夏目に見つめられると、思わず緊張で鼓動が早まる。

「知らねぇよ。誰にも言えるわけないだろ」
「そう、良かったわ」

 夏目は俺の言葉に、満足したようにコクリと頷いた。

「そんなに知られるのが嫌か?」
「当たり前でしょ。私はみーんなの夏目七緒なんだから」
「アイドルみたいなこと言うな、お前」
「そうね、なんなら流行りのスクールアイドルとして私もデビューしようかしら。たしか私の父と懇意にしているテレビ局の社長がいたから」
「コネ使う気まんまんじゃねぇか!」

 夏目財閥ともなるとフツーにありえそうで困る。これが社会の闇というやつか。そしてスクールアイドルって。コイツ意外とそういう流行りの今っぽい言葉を知っているんだな。

「ところで」

 夏目は何かを思い出したような表情で、髪をかき上げた。

「アナタは私のどこが好きなのかしら?」
「す、好きって」
「あら、好きだから告白したんじゃないの?」
「そりゃそうだけどさ……」

 平然とした表情でズバズバ聞いてくるな、コイツ。照れとかないのか。それとも俺が過剰に反応しているだけか。

「早く言いなさいよ。それとも沢山ありすぎて何から言えばいいものか途方に暮れているのかしら」
「お前のその絶対的な自信はどっから湧いてくるんだよ」

 ある意味コイツも鋼のメンタルしてるよ、俺とは別の意味で。
 面倒くさそうに脚を組んで毛先を指で弄んでいる夏目を眺めながら、なんと答えたものかと頭を働かせる。

 どこが好きかって?
 そもそも、俺は夏目のことが好きなのだろうか?

 俺はコイツとこうして下らない会話をする時間を引き延ばすために、付き合っているという嘘をついた。

 だがその感情は、単純な男女の好意とは少し離れた場所にある。
 自分でもよく分かっていないし、上手く言語化できない感情だけど、そんな気がするのだ。

「……しっかりしているところ」

 数秒悩んだ結果、すごく味気ない無難な返答になってしまった。しっかりしてるってなんだよ。オカンか何かなのか。

「なにそれ」

 夏目は呆れたように膝を軽く叩いて、溜息をついた。

「気の利かない男ね。そこは『全部だぜ、マイベイビー』っていうところでしょ」
「それを言った時点で俺は全てを失う気がするんだが……」

 お前の中で俺はどういうキャラなんだよ。そんなバブル期の勘違い男を演じた記憶はないぞ。

「揶揄い甲斐があるわね、アナタって」
「うるせえ、心臓に悪いことすんな。俺が心筋梗塞で緊急搬送されたらどうするつもりだ」
「あら、大丈夫よ。通報せずに放置するから病院に搬送されることはないわ」
「それ絶対何らかの罪に該当するぞ……」

 これが孤独死というやつか。現代社会に生きる人々の精神的病巣の一端を垣間見た気がする。

 夏目はまた呆れたように微笑んで、紅茶エデンの表面に伝う水滴を指先で拭った。

「ふふ……本当に。本当に不思議だわ。世界七不思議に次ぐ不思議ね」
「なんだそりゃ」

 お前はネッシーかよ。

「だってアナタみたいな人を、初めての恋人に選ぶなんて」
「えっ、付き合うのとか、初めてなのか⁉」

 あまりにあっさりとした口調で、衝撃の告白。
 俺は驚きのあまり、思わず身を乗り出して素っ頓狂な声を張り上げる。

「ええ、そうよ。悪いかしら」

 俺の動揺を他所に、特に動じることもなく表情を崩さない夏目。今度は冗談、というわけではないらしい。

「いや、べつに悪くはねーけど……」

 そういうの、臆面もなく言うもんか?
 夏目の堂々とした振る舞いにも驚きだが、交際経験がないというのも意外なことだ。
 夏目ほどの美少女ともなれば、トップレベルのイケメンから将来を約束された医学部学生まで彼氏候補として立候補し大挙し押し寄せ、あらゆる男どもから引く手数多であろうに。

「あら、私が初心な女だということはアナタにとっては朗報だと思うわ。アナタみたいなゴミクズ妄想異常性癖男、ろくに女子と付き合ったことなんてないんでしょ」
「もう悪口が俺のフルネームよりも遥かに文字数多くなっちゃってるよ!」

 中学まで陰キャラまっしぐらで、妹と母親以外の女子と会話したことなど数えるほどしか経験がない男。それが俺。女子と付き合うだなんてもってのほかだ。

 我ながらなんて悲しい青春。どどど童貞ちゃうわ!ってリアルに言っちゃうレベル。

「初心者同士の方が気楽でしょ?格闘ゲームだって玄人よりも実力が同じくらいの素人の方が楽しめるし成長のしがいがあるじゃない」
「それはたしかにそうだけど……」

 相変わらずたとえがよく分からない。

「とにかく、私はあまりそういった不純異性交遊には精通していないんだけど……」
「不純って」

 べつにいかがわしい行為を試みた記憶はない。後ろめたくはあるけど。

「フツーの男女は、その、付き合ったりしたらどんなことをするのかしら?」
「そりゃ……お昼を一緒に食べたり、デートしたりとかじゃないか」

 俺は適当に思いついた事柄を並べる。
 情けないことに、俺はそれぐらいしか知識がない貧相な経験値の持ち主なのだ。アールピージーでいえば職業すら与えられていない段階の始まりの村くらい。

「ふむ、なるほどね」

 何故か実験結果をサンプリングする科学者みたいな口調になって頷く夏目。もしコイツが研究職にでも就いた暁には、違法な人体実験の末に悲しき合成魔獣が生成されるマッドな結末を迎えることだろう。

「それは有意義なものなのかしら? 私はよく分からないんだけど」
「そりゃ……楽しいんじゃねぇの。好きな奴とだったら」

 自分でそんなセリフを言いながらも、実際俺もよく分かっていない。

 眩暈のするような人混みの中にわざわざ繰り出して、好きでもないウィンドウショッピングに興ずるなど、ともすれば徒労ともとれる行為にも思えなくもないが、日本中のあらゆるカップルが右に倣うようにこぞって同じデートを重ねている現状を鑑みれば、おそらくそれはとても有意義なことなのだろう。

「じゃあ……そうね。今週の日曜はデートをしましょうか」
「は⁉」
「あら、嫌なのかしら?」
「べべべつに嫌じゃないけど……」

 思わぬ展開に鼓動が一段飛ばしで大きく躍動する。この俺が夏目とデートだと?

「そう……ね。デートがいいわ。うん、そうしましょう」

 俺がもじもじと内股を擦りながら悶える様子を、提案を承諾したサインだと解釈したのか、夏目は満足そうに大きく頷いた。

「神崎くん。アナタは私とデートしなさい」

 夏目七緒は、有罪判決を宣告する裁判官のように、高らかに言い放った。
 日曜日。

 俺は夏目から一方的に取りつけられた約束を順守すべく、ブラック企業に長年勤めるサラリーマンが如く電車に揺られていた。

 待ち合わせ場所である、駅前に燦然とそびえる時計塔へと足を運ぶ。この駅は市内じゃ一番開発されていて、周辺には様々な商業施設が立ち並んでいる。
 昔からお出かけといったらこの辺りを利用していたが、ここに来るのも中学卒業以来と考えると地味に久しぶりだ。

 休日という条件も手伝って、駅前はライブ会場のようにひどく混み合っていた。特に待ち合わせの目印によく利用される時計塔のお膝元は人々が群がり、異常なまでの人口密度を観測している。

 辺りにたむろする人々の顔を見渡す。しかしその中に夏目の姿は確認できない。

「夏目は……まだか」

 時計は集合時間の二十分前を指していた。少し早めに着いてしまったようだ。

 もし一秒でも俺が遅れようものならば、夏目から古今東西多種多様に及ぶ罵詈雑言が、頭のテッペンから足のつま先まで隈なく浴びせられること間違いなしだ。せっかくの休日に、心無い毒舌による精神的負傷を負うわけにはいかない。

「――ふう」

 ひとまず深呼吸。
 俺は表情筋を巧みにコントロールする技術を駆使することで一見平静を装いながらも、その内心は眼前に迫った夏目とのデートに対してかなりの緊張状態だった。

 異性とデートなんて、人生初めての経験だ。しかも、学園ナンバーワン美少女の夏目七緒だぞ。

 そういえば、今まで何度か妹のショッピングの荷物持ち要因として駆り出されることはあった。しかし身内は異性との外出という点においては、例外的存在だろう。デート経験にはノーカン。

 普通、女子高生との初デートと聞かれれば、ハーブミントのごとく鮮やかで爽快なイメージを皆さん思い浮かべることだろう。少女漫画を愛読する俺としても『青春ど真ん中、胸がときめくドキドキ展開!』なんて妄想を禁じ得ない。

 しかしそんな持て余す純情も、毒舌女の夏目の前では一輪の花びらとなって儚く散ることは予想に難くない。一体どんな目に合わせられるか分かったものじゃないぜ。

 『あーん』と称して駐車場の砂利を口に詰め込まれたり、季節外れの花を採取してこいと崖から蹴落とされるなんて可能性も決してゼロではないのだ。ちなみにこの街に崖は存在しない。

「――そういえば、誰かに見られたら、どうしようかな」

 夏目を崇拝に近いレベルで信奉している連中は多い。特に男子。そんな奴らにお忍びデートを発見された暁には、たちまちフーリガンと化した男どもに袋叩きに遭い、俺は撲殺されてしまうかもしれない。

 ……そう考えると、夏目はどういうつもりなんだろう。

 普段は演技しているくせに、自分からデートに誘うなんて。変態嘘つきなんかと二人で歩いていたことを学校の連中にバレたらどうするんだ?
 分からん、アイツの考えていることが。人間観察には自信があったんだけどな……。

 ポンポン。

 どう転んでもこれから迫りくるだろう恐怖に身を縮め、プルプルと震えながら立ち尽くしていると、背後から軽快に肩を叩かれた。

「へーんたい☆」
「うるせぇよ」

 そんな軽快な声で『まーきの』みたいに来られても反応に困る。ちなみに俺はドラマよりも原作漫画派。

 こんなお茶目さんなことをしてくれる人間は、俺の知る限り一人しかいない。

「ちゃんと私より早く来てたのは、及第点ね」

 ふふふ、と悪だくみを図る悪女のように静かな微笑みを零す。振り返ると夏目が立っていた。

 当たり前だが、私服だった。
 丈の長いホワイトワンピースを身に纏い、その上に暖色のカーディガンを羽織っている。暖かい春にお似合いの落ち着いた配色のコーディネイトで統一されており、見る者に上品な雰囲気を感じさせる。
 シンプルだが垢抜けていて、まるでファッション雑誌のスナップ撮影をそのまま抜けだしてきたみたいだ。

 ……可愛いな、くそ。

 いつもの制服姿とは少し違った大人っぽい印象に、また改めて夏目の容姿がいかに魅力的なのか気づかされる。ほら、まるで芸能人が街中に現れたみたいに、周りの人たちがちょっとざわついてるぞ。天性の人気者め。

「待ったかしら?」
「……今来たところだよ」

 俺は諦めたように、手垢塗れのセリフを零した。総走行距離三十万キロメートルを超える中古車ぐらい使い古された返しだろう。だがこれが今の俺が返せるセリフの限界だ。我ながらダサい。

「まず私の私服を見て、何か言うことはないのかしら」

 小洒落た革のバッグを持ちながら、腰に手を当ててファッションショーのモデルのようにポーズを取る夏目。
 そんなありふれた振る舞いも、容姿端麗なコイツがやると本物さながらに様になる。足元のアスファルトがレッドカーペットに見えてきたぞ。

「……まあ、可愛いな、うん」

 気のきいたセリフも特に思い浮かばず、シンプルに褒める。こういうところがダメなんだよな、俺。ホストクラブにでも行って女性を口説く修行しようかな。

「神崎くん、『死ぬほど』という修飾が抜けてるわよ」
「……」

 当たり前といった表情で、自信満々な物言いをする夏目。
 うむ、コイツの美しさは見た者の生命を強奪してしまうほどらしい。この場に辿り着くまでに恐らく百余名の尊い人命を天へと昇華してきたことだろう。国家レベルで危惧すべき現代のテロリズムだ。

「アナタもちゃんとオシャレしてきたかしら?私と並んで歩くという国民栄誉賞並みの光栄に与れるんだから、ね」

 パチリとウィンクする夏目。その睫毛の隙間からいくばくかの流星が零れ落ちたような気がするが、おそらく気のせいだろう。

 なんか、学校で見るよりも明らかにテンションが高くないですか、夏目さん。休日にお出かけともなると些かの浮つきは禁じ得ないらしい。

「俺だってそれなりの格好で来たつもりだぜ。このジャケットとか結構高かったんだから」

 俺は自らのコーディネイトに目をやりながら弁明する。
 自己研鑚及びリア充化計画の一環として、ファッションについてはかなり研究を重ねたのだ。

「そうね、とっても素敵なジャケットね。とっても格好良いジャケットだわ。いやーとてもイケてるわ、そのジャケット」
「着てるのは俺だからね⁉」

 なにそのジャケットが主役みたいな言い方。服を褒め倒すことが転じて本人への罵倒へ繋がるという稀有な例を経験したぞ。

「……とりあえず、どこに行くつもりだよ」

 俺の問いかけに、夏目は小首を傾げて微笑んだ。

「まずは私の考えたプランから行きましょう。ちゃんとアナタも考えてきたんでしょうね」
「まあ……一応は」

 夏目の微笑みの中に隠れた鋭い眼光に竦みながら、俺はむにゃむにゃと頷いた。

 そう、夏目との約束で、お互いがそれぞれのデートのプランを持ち合わせて、一日過ごそうという計画になっていた。

「じゃあ、行きましょうか」

 夏目はそう言うが否やクルリと踵を返して、人の出入りが激しい大通りへ続く駅の出口に向かって足早に歩み始めた。

「ちょっと待ってくれよ」

 俺は置いていかれた子供のように、慌てて夏目の隣に駆け寄った。なんとか追い付いて、人混みを避けるように並んで歩く。

「あら、時間は誰にも待ってくれないわよ」
「いや、少なくともお前は待てよ」

 偉人の名言みたいなこと言ってるけど、使うタイミング違うから、それ。時もかけないからね。

「だから、どこ行くんだよ」
「決まってるでしょ?」

 夏目は大股で歩を進めながら、微かに胸を張って微笑んだ。

「映画に、行きます」

☆☆☆

 俺が夏目と仲良く肩を並べて鑑賞した映画は、突然変異によりザリガニ人間と化した主人公が化け物と認定され人間界を追われるが、マッドサイエンティストの実験によって暴走した合成犬人間と対峙し、激闘の末辛くも勝利を収め世界に平和をもたらすヒーローになり大団円という、イマイチしっくりこない内容だった。

 そもそもなんだよザリガニ人間って。ニーズがニッチすぎるぞ。色物にもほどがある。
 といいつつも、ストーリーは意外と良い感じだった。

 優しい心を持つ主人公が醜い姿故に街の人々から迫害を受けるシーンは、俺の置かれた状況と重なるものがあり、思わず劇場内で「南無三!」と絶叫したくなるほどに心を揺り動かされた。

「いやー、最高ね」

 映画館を出た後、夏目は満足そうな微笑みを浮かべていた。どうやらザリガニ人間は夏目の好みにうまく適合した作品だったらしい。

「あれは後世に残る名作映画ね。小学校の教科書に掲載して幼少期の情操教育に利用すべきだわ」
「どんだけハマったんだよ」

 そんな恐ろしい義務教育があってたまるか。人格形成に多大なる障害をもたらすこと請け合いだ。破壊衝動に支配された幼き生徒たちが暴徒と化し、学級崩壊は避けられないだろう。

「……で、お前のプランとやらではこの後どうなってるんだ?」

 連れ立って歩く夏目の横顔に目をやる。
 俺の問いかけに、夏目はツンっと高い鼻先を反らしてそっぽを向いた。

「これで終わりよ」
「マジか」
「しょうがないでしょ、特に思いつかなかったんだから」

 夏目が考えてきた予定は、映画を鑑賞することだけだったらしい。しかもザリガニ人間というチョイスよ。

 不機嫌そうにそっぽを向く夏目。その横顔には若干の照れが隠れていた。

「――やれやれ」

 なるほど、気位の高いお嬢様とはいえ、やはり初デートの初心さは隠し切れないようだ。
 おそらく今日に至るまでどのようなデートを行うべきか、最適なプランの構築に日夜頭を悩ませ続けた結果、一周回って逆に映画しか思いつかない的な思春期の学生が陥りがちなジレンマへと身を投じたというわけだろう。

 うんうん、分かるぜ。つっけんどな態度も、必死の照れ隠しと思えばむしろ可愛らしさすら感じる。

「痛い⁉」
「……何か腹が立つことを考えていたでしょう」

 気がづくと、夏目のサンダルが俺のスニーカーをすり潰すように踏みしだいていた。おい、俺の足はうどんの生地じゃねぇぞ。あとテレパシーで俺の心を読むのは止めてください。

「暴力はナシで行こう……」

 夏目の履いているサンダルは春らしいデザインでとても可愛いが、底が厚く何かに強い圧迫感と鈍痛を与えるのにはピッタリの形状をしていた。しかしメーカー側がより効率的にはダメージを与える目的でこのデザインを採用したとは俄かには考え辛い。

「あら、確かに最近の流行りは母性を感じさせる包容力のあるヒロインで、昔のような暴力的ワガママヒロインは受けが悪いものね」
「なんの話だよ!」

 たしかに時代の潮流は確実にそっちの方向性に向かっているけども。

「アナタこそ、ちゃんと予定は組んできたのかしら?」
「……じゃあ、次の場所は俺が案内するよ」

 俺は短く溜息をついて、スマートフォンで時間を確認した。デジタルの数字は時刻がお昼過ぎであることを示している。ちょうどいい時間だ。

「時間も時間だし、腹減ってるだろ?」
「ええ、それはもうペコペコね。お腹と背中がくっつきそうだわ」
「久しぶりにその表現聞いたよ」

 おかあさんといっしょかよ。お腹と背中がくっつくって、想像したらかなり気持ち悪いよな。

「まあ、なんだ、俺がたまに行く喫茶店があるから、そこに行こうぜ」

 デートと聞いて真っ先に思い浮かんだ場所がある。
 駅から少し離れた場所にある喫茶店だ。

 俺が中学時代から愛用し足繁く通ったお気に入り。せっかくの機会なので、そのお店を利用しない手はないと思ったのだ。

 時間によってはガッツリ昼食をとってもいいし、歩き疲れたのなら甘いモノとお茶で休憩しても良い。喫茶店は実に汎用性が高い、まさにデートスポットの最適解と称しても差し支えない場所なのだ。
 俺はこの事実に気がついたとき、我が頭脳のあまりの聡明さに小一時間武者震いが止まらなかった。

「あら、行きつけの喫茶店なんて、童貞のくせに洒落たことを言うのね」
「べつに俺の勝手だろ!」

 童貞は喫茶店に行ってはいけないという法律でもあるのか。ハンムラビ法典もビックリのとんでも悪法だ。目を潰すぞこの野郎。

「まあお腹も空いたことだし、気は進まないけど行きましょうか」

 夏目はやれやれといった具合に頭を振りながら溜息をついた。

「なんだよ、べつに気が進まないんなら行かなくてもいいけど……」

 名家のお嬢様ともなると、庶民の食事処などお口に合わないのだろうか。
 しかし高級なレストランなんて俺は一つも知らないし、そもそもそんな金も無い。

「そんなことは言っていないわアナタの勝手な思い込みで口を利くのは止めてくれるかしら本当にアナタのそういうところにウンザリさせられるわもうこちらはお腹がペコペコで困っているのよさっさと案内しなさいよ」
「分かった分かった!」

 夏目の口から反論がマシンガンのように流れだす。行きたいなら素直にそう言えよ。どんだけ腹減ってんの。
 正直なのか捻くれているのか、相変わらずよく分からない奴だ。まあいいや。とりあえず行き先は喫茶店に決定。

 そんな通常営業なやりとりをしながら、俺たちはツカツカと人混みを抜けていく。

「少しだけ歩くけど、大丈夫か?」

 チラリと夏目の足元に目をやる。
 俺はスニーカーだから問題はないが、夏目のサンダルはあまり長距離を歩くには適していないように思えた。

 俺の視線に気がついたのか、夏目は何故か顔を少し赤らめてそっぽを向いた。

「ふんっ。みくびらないでちょうだい。百キロだろうが二百キロだろうが歩き通す所存よ」
「いや、そこまでの覚悟は必要ないけど……」

 トライアスロンするわけでもあるまいし。まあ本人がそう言うなら大丈夫なのだろう。

 映画館を後にしてから、大通りに沿ってのんびりと歩いていく。相変わらず凄い人の多さだ。見ているだけで眩暈がしそう。

 十五分ほど歩くと、まるで隠し通路のように狭い路地が脇に現れた。
 まさに路地裏と称して差し支えない人通りの少ないそこは、街の喧騒から隔絶された静かで落ち着いた雰囲気がある。

 ともすれば見逃してしまいそうになるその場所に、俺のお気に入りの喫茶店は店を構えていた。

「こんな道があったのね。知らなかったわ」

 夏目は物珍しい景色を眺めるように、辺りをキョロキョロと見回す。
 普段は罵倒されるばかりで、夏目を感心させる機会なんてのは殆どないので、少しだけ誇らしい気分になるな。

「地元の奴もあんまり知らない穴場だからな」

 俺もこの路地を見つけたのは偶然だった。初めてここに来たときは異世界に出も迷い込んだのかと俄かに興奮したものだ。

「ほら、ここだよ」

 俺は路地の更に奥まった場所に、まるで押し込まれたかのように存在している木造の建物を指さした。

 大通りに立ち並ぶビル街とは明らかに一線を画す雰囲気。
 ところどころ剥がれ落ちた外装は、まるで時代に取り残された過去の文明のような印象を受ける。

 しかしそれが隠れ家的な味があり、俺は気に入っていた。
 申し訳程度に置かれた小さい看板には『喫茶 邂逅』と彫られている。

「邂逅……?変わった名前ね」
「店主の趣味らしいぞ」

 夏目は木彫りの看板と、その隣に鎮座している巨大な信楽焼きの狸をしげしげと眺めている。確かに初見からすると些か奇妙な光景だろう。まさに不思議な街並みに迷い込んだって感じ。

 入り口の扉に手をかけて開く。木の軋む小気味良い音と共に、カランカランとベルが鳴り響いて客の来訪を告げた。

「こんちわー」
「いらっしゃいませー……って、少年じゃないか」

 足を踏み入れた俺たちを出迎えてくれたのは、長いエプロンを掛けた痩身の女性だった。

 女性は落ち着いた雰囲気に凛とした気品のようなものを漂わせており、喫茶店の空気に自然と溶け込んでいた。
 わりかし背が高く、艶のある長い髪をうなじ辺りで纏めている。躍動感のある大きな瞳は爛々として、彼女の内に宿る若さを感じさせた。

「――柚子さん、ご無沙汰してます」

 ペコリと頭を軽く下げる。
 すると女性はニコッと笑って軽く手を振った。その笑顔はなんだか大型犬の喜んだ表情を想起させ、不思議な包容力を見る者に感じさせる。

「久し振りだね。あれ、今日は女の子連れかな?珍しいね」
「えぇ、まあ」
「ちょっと」

 背中をコツリと小突かれて、振り返る。夏目が不満そうに口を尖らせていた。

「あ、ああ、こちらは『邂逅』でバイトしてる柚子さん。中学の時からたまにお世話になってるんだよ」

 夏目に柚子さんを紹介すると、それに合わせて柚子さんも軽く頭を下げた。

「こんにちは、安食柚子です。普段は市内の大学に通ってます。アナタは少年の……彼女さんかな?」

 柚子さんは意味ありげな笑みを浮かべて、俺の顔をジロジロと眺める。

「えーと、それは……」

 俺はどう言えばいいものか、答えに困窮する。
 一応今の形としては付き合っていることになるが、それは学内では誰にも教えられないトップシークレットだ。

 下手に答えても後で夏目の怒りを買いかねない。かといって下手な答えをしても命取りになりそう。なにこのギリギリの状況。

「うふふ、彼女だなんて面白―い! 私は神崎くんの友達ですよー」
「⁉」

 逡巡していた俺に代わって答えたのは夏目だった。
 久しく聞いていなかった、明朗で軽快なソプラノボイス。

 夏目の脳内でどういった思考が働いたのかは謎だが、どうやら柚子さんには余所行きのお嬢様バージョンで対応することにしたらしい。

「ね、神崎くん」
「お、おう、そうだな」

 一見すると可愛らしい純朴な眼差しで、俺にアイコンタクトをかましてくる夏目。
 だがその本性を知っている身としては、軽くブルってしまうほど恐怖を感じる。だってほら、目が笑ってないもん。ここは大人しく同意しておくのが吉だろう。

「あらら、そうなんだ。ま、少年にはまだ早かったかな」
「ハハハ……そうすっね」

 俺は誤魔化すような乾いた笑い声を発する。色んな意味で複雑な心境だぜ。

 店内には俺たちの他には、現役を引退し厭世の境地に達した雰囲気を持つご老人のお客がいるだけだった。休日の昼間にしては寂しい混み具合だ。まあそれがこの店の良いところでもあるんだけど。

「さ、いつもの席で良いかな」

 柚子さんは、俺がいつも座る窓際のテーブルに案内してくれた。こういう気の利いたところもこの店の魅力の一つなのだ。

 据え置きのメニューを広げて二人仲良く眺める。
 少しだけ悩んだ後、俺は店長の気まぐれカレー、夏目は店長の気まぐれオムライスを注文した。

「気まぐれって……どういう意味かしら」
「もう初めてここに来てから三年ほど経つが、未だに俺にも分からん」

 ここのマスターは口髭を蓄えたとてもダンディーな初老の男性だ。非常に寡黙で、ほとんど声を発しているのを聞いたことがない。少なくとも気まぐれ感はゼロだ。俺の予想としては、おそらく見た目に違わず渋みのある低音ボイスに違いない。

 ちなみに気まぐれと言いながらもマスターの料理の腕は確かで、いつ来てもこの喫茶店の料理はとても美味しい。

「や、少年」

 暇そうにポケットに手を突っ込んだ柚子さんが、俺と夏目の座るテーブルに近寄って話しかけてきた。
 他に注文を待っている客もおらず、料理を作るわけでもないので、手持ち無沙汰なのだろう。

「いきなりイメチェンし始めたときはどーなるかと思ったけど、こうして女の子を連れてきたってことは、高校デビューは成功したのかな?」
「いや、その辺はいろいろと事情がありまして……」

 そういえば体操服盗難事件が起きてから、この喫茶店に来たのは初めてだった。まだ柚子さんは、俺が地獄の底へと住民票を移したことを知らないのだ。

 夏目との関係性といい、一体どこから説明すればいいのかも分からないぞ。すべて話したら半日はかかりそうだぜ。

「これは失敗した結果というか、なんというか」
「そうかそうか」

 柚子さんは俺の煮え切らない返答から何をくみ取ってくれたのかは謎だが、ウンウンと唸りながら何度も頷いた。

「ま、少年には明るいキャラは似合わなかったんだよ。無理をする必要はないさ。のんびりやりなよ」
「そんなもん……ですかね」

 事情を話したわけではないが、人生経験が豊富である年上の柚子さんにそう慰められると、なんだか気が楽になるよ、ホント。

「そういえば、彼女のお名前を聞いてなかったわね」
「私、神崎くんの『お友達』の、夏目七緒と申します」

 ……やけに友達という単語を強調してくるな。

「夏目って……」

 柚子さんは夏目の苗字を反芻して、驚いたように目を丸くする。

「もしかして、夏目家のお嬢さん?」
「はい、そうです」
「ほえ~凄いわね~」

 柚子さんはカバのように口をぽっかりと開けて、感心したように気の抜けた声を漏らした。ほえーって、漫画かよ。

「柚子さん、アホっぽいですよ」
「こらー、神崎くん。年上の人に向かってアホなんて、メッだよ!」
「体操のお姉さんかよ!」

 夏目もかつてないほどにぶりっ子具合が極まっているな。もはやお嬢様キャラを飛び越えて別の何かになっている気がする。
 ていうか桜子もそれやってたけど、流行ってるのか?もしかして俺が流行に遅れてるだけ?

「私、実家が夏目邸宅の近所なのよね。昔から通学するときに前通っていたの、懐かしい。もしかしたら同じ中学じゃないかしら?」
「あ、いえ、私は東京の私立中学に通っていたので……」
「え、そうなの?」

 意外なセリフに、思わず反応する。
 夏目が東京で私立中学に通っていたなんて、完全に初耳だ。

 聞いたこともなかったが、てっきり同じ市内で育ったものだと勝手に思い込んでいた。地区が違うどころか、ここと東京じゃ新幹線でもかなり時間がかかるくらい離れている。

「じゃあ高校進学で地元に帰ってきたんだ」
「まあ、そんな感じです」

 えへへ、と曖昧な笑顔を浮かべる夏目。
 どうした。普段は持ち前の演技力を生かして臨機応変に対応する夏目にしては、妙に歯切れが悪い答えだ。その表情も心なしか硬く見える。

「そっか」

 都合が悪そうな雰囲気を察したのか、柚子さんもそれ以上この話題を追求することはなかった。柚子さんはそういった距離の取り方を心得ている人だ。
 この年上のお姉さんは、初対面の相手にズカズカ踏み入るような無粋な真似はしない。
 大学生くらいになると、取得単位項目に『距離感』の講座があるのかもしれない。俺もいずれはその技術をなんとか会得したいところだ。

「しかし、少年がこんな美人な女の子を連れてくるなんて驚いたよ。昔はよく似たような男友達と来ていたじゃないか」
「あいつらは――違う高校に行ったんで」

 ポツリと言い訳じみたセリフを零す。
 ふと、中学生の頃によくつるんでいたクラスメイトの顔が頭を過ぎる。

 学校が違うとかそんな建前以上に、中学時代の友人とは圧倒的に距離が離れてしまったことは間違いない。

 オタク仲間と駅前に繰り出した際には、このお店をよく利用させてもらっていた。
 『邂逅』は俺たちのような冴えない連中でも、まるで優しく包み込むように受け入れてくれた。

 あの頃もパッとしない生活だったことは間違いないが、少なくとも趣味を共有できる仲間がいた。

 だが今の俺はどうだ。
 そういったかつて交友を築いた連中とは、一切連絡を絶っている。今更声をかけられる筈もない。

 入学当初は自分が高校デビューに成功したと勘違いをして、かつての友人達を内心馬鹿にすらしていた。
 その上にくだらない疑いから仮面は剥がれ、己の人望のなさから高校でもすぐに孤立してしまったのだ。

 俺は、ひどく愚かな奴だ。救いようのない、そんな話。

「ならしょうがない。でも、こんな可愛い女の子が友達ならいいじゃないか。ね、夏目さん」
「そんなー、可愛いなんてとんでもないですよっ」
「ふふっ、謙遜しちゃって」

 「このこのー」と夏目に肩を寄せる柚子さん。綺麗な女性が密着している様子は見ていて心が安らぐ。荒んだ砂漠と化した俺の魂に一滴の潤いを与えるようだ。いつまでも見ていられそうだよ。

 すると、柚子さんが思いついたようにピッと指を立てた。

「でも、彼女じゃないなら私が少年を貰っちゃおっかなー?イメチェンしてからちょっと、私好みになってきたんだよね」
「――ま、まじですか」

 柚子さんはニヤニヤと笑みを浮かべて、品定めするように俺の顔を見る。

 何か不思議な感覚が背筋を走り、照れからかゾワゾワとむず痒くなる。
 柚子さんのような綺麗な女性にそんなお褒めをいただいたのは人生で初めてだ。

 やはり大学生だから、高校生と違って、その、大人のお付き合い的なアレがあるんですかね?
 いやもちろん僕みたいなクソガキにはちょっと想像も及ばないんですけど、もしかしたら大人の階段というか、年上の女性から手解きみたいなものを頂戴しちゃったりなんだったり……。

 そんなことを考えていると、ふと、目の前の席から不穏な気配を感じた。

「――へんた、神崎くん」

 ザクッ。
 気がつくと、夏目の手に握られたフォークがテーブルの上に突き立てられていた。

 あの……そこさっきまで俺が手を置いてた場所なんですけど。

「もう、鼻の下が伸びてるわよ、神崎くんったらはしたない」

 うふふ、と実に柔和な微笑を湛えながら、俺の鼻先をチョンと突っつく夏目。いや、普段はそんなアメリカのトレンディドラマみたいな仕草絶対しないでしょ。どういうキャラチェンですか。

 しかし、そのガラス玉のように透き通った瞳は絶対零度を記録しそうなほどの冷たさだった。
 ちなみにもう片方の手にはしっかりとフォークの柄が握られている。とりあえず料理はまだ来ていないのでそのフォーク置いてくれませんか。

「……やだなー、そんなわけないじゃないですかー」
「なんでそんな棒読みなの、へんた、神崎くん」
「ちょくちょく言いかけるの止めてくださいお願いします」
「なんのことかしら。しね、神崎くん」
「今死ねって言った⁉」

 先生、今夏目さんが悪口を言いました!

 おいおい。雰囲気や表情は完全なるお嬢様バージョンだが、口調から腹黒さが徐々に漏れ出しているぞ。そのどす黒いオーラから、死の呪文でも唱え出しそうな勢いだ。

 鼻の下が伸びるのも仕方がないだろ。
 女子大生のお姉さんに好みと言われて胸がドキドキしない男子高校生など、真っ白なカラス並みにこの世には存在しない。

 ……そう思いつつも、テーブルに突き立てられたフォークがさながらゴルゴダの丘に聳える十字架のように見えて、俄かに湧き上がる夏目への戦慄。

 柚子さんは何故か嬉しそうな笑顔で俺と夏目のやり取りを眺めながら、

「あはは、二人はとっても仲が良いみたいね」
「そう見えますか……?」

 俺と夏目の関係なんて、捕食者のライオンと、狩りから必死に逃げるシマウマぐらいのパワーバランスだ。世間一般ではこれをイジメという。

「そうね、まるで恋人みたいよ」
「またまた御冗談をー。柚子さんってとっても面白い人ですわ」
「でも少年はヘタレだからなぁ」
「そうですよねー」

 何故か遠回りに悪口を言われている気がする。俺を庇ってくれる心優しき人はこの世にいないのか。誰か助けてください。

「……まったく」

 いつもクラスメイトに囲まれている夏目だけど、実際に面と向かって他人と話しているのを見るのは、実はほとんど初めての経験だったりする。
 猫被っているのは分かっていたことだが、こうして改めて見ているとなんだか新鮮に感じるな。

 柚子さんが俺の中学時代のイケてない様子を懐かしむように語り、それを聞いた夏目はおかしそうに笑っている。
 その笑顔はごくナチュラルで、傍から見ればまさか仮面を被っているとは思えない。

 ふと、思った。

 夏目は演技をしながら周りと接していて、楽しいのだろうか。

 彼女の立ち回りは神がかり的と言っても過言ではない。嫌味ではなく、本気で感心する。

 教室ではいつも沢山のクラスメイトに囲まれ、彼女の話題で他クラスまで盛り上がる。先生や先輩ですら彼女に一目置いているのが分かる。それは全て、他ならぬ夏目自身の魅力的な振る舞いがそうさせている。

 ただ明るく振る舞うだけなら、意外と誰でもできるのものだ。絶対に不可能というわけじゃない。
 事実、十五年間陰キャラを通した俺でさえ、努力次第である程度クラスの輪に溶け込むことはできた。だが、ここまで突き抜けて人気者を演じる技術と精神力が伴う人間は殆どいない。

 誰もが彼女を信奉している。人は自分よりも強い人間に憧れる。逆に自分より下の人間を見て安心する。そういうものだ。俺が保証する。

 自分に言い訳をして、自分に嘘をついて、納得するのだ。
 他人に理想を押し付けて、自分を正当化して、日々の生活に安定を求める。それは誰もが同じようにやっていること。

『あの人は才能があるから自分とは違う』
『きっとあの人なら私のことを分かってくれる』

 そんな他者の願望と憧憬を、夏目は丸ごと背負い込んで学園のアイドルを演じているのだ。

 考えてしまう。もし俺の嘘がバレなかったら、俺にはコイツほどのことが出来たのだろうか?自らの理想を貫き、周囲を騙し続けるという重圧に俺は耐えられたのだろうか?

 でもそこに、夏目を本当の意味で理解してあげられる人間はいない。
 腹黒で、毒舌で、無茶苦茶なお嬢様の、隠された心の底に手を差し伸べる人間はいないのだ。

 なにより、夏目自身が理解されることを望んでいないようにすら思える。皆に囲まれる人気者。そんな夏目という人間が、俺には世界で一番孤独に思えた。

 この笑顔も心からの笑顔なのだろうか。ただ状況に合わせて仕方なく作っているだけなのか。俺にはその真意を知る術もない。

 俺は夏目のことを、何も知らない。

「……お待ちどう」
「はっ⁉」

 油断しきっていた柚子さんの後ろに、右手にカレーライス、左手にオムライスを携えた髭のマスターが仁王立ちしていた。

 いつの間にか調理を終えて、話に夢中になっている柚子さんを待ちかねて自らフロアに現れたらしい。

「……マスターがしゃべった」

 柚子さんが酸素を求める金魚のように、小さな口をパクパクさせている。
 バイトを始めて長い柚子さんにとっても、マスターが喋るのを目撃することは珍しいらしい。

 もちろん俺も完全に初見だ。
 ちなみに、予想通りの響くような心地良い低音ボイスだった。

「……」

 コツリと静かな音を立てて皿をテーブルに置き、柚子さんへ鋭い視線を向けるマスター。

「わ、私キッチンの掃除してきますね~。じゃ少年と夏目さん、ゆっくりしていって!」

 そう言うが早いか、鋭い眼光から逃れるように柚子さんはお店の裏方へと姿を消した。さながら伊賀流忍者のような身のこなしだ。柚子さんの通う大学には忍術の実技科目も存在するのかもしれない。

「まったく、いつも元気だな、柚子さんは」

 相変わらずの様子で、俺は内心でホッとしていた。
 この喫茶店の雰囲気も、柚子さんも、マスターも、昔のままなんら変わりない。

 思い返せば、たった一か月の間に俺の居場所は全て変わってしまった。
 この喫茶店は、俺にとって数少ない変わらない憩いの場所なのだ。

 教室に居るときのように、気まずい思いをすることもない。今の俺にはそれだけで本当にありがたい。柚子さんにからかわれるのはちょっと辛いところもあるが。

「……本当に、面白い人ね」

 俄かに立ち上るカレーライスの湯気を払うように、夏目はポツリと呟いた。
 柚子さんに別れの挨拶をして、『喫茶店 邂逅』を後にした俺たちは、俺の提案でゲームセンターへ寄ることになった。

 このゲーセンは規模こそそこまで大きくはないが、その外装の派手さから駅前の繁華街の中でも一際大きな存在感を放っている。
 様々な機体が発するゲームの効果音が入り混じり、店内は高架下のような喧しさだ。目が眩むほどの蛍光色がそこら中で交錯しており、その中では比較的若い年齢層の人たちが思い思いにゲームに興じている。

 ここも中学時代によく寄った場所だ。改めて今日のデートコースを思い返してみると、俺的には目新しさはゼロだな。

 しかし夏目とはどこも初めて一緒に行く場所なわけなので、まあ構わないだろう。

「……うるさいわね」

 ゲーセンのフロア中に響き渡るガチャガチャとした騒音に、両耳を塞いで不快そうな表情を浮かべる夏目。

 俺は一瞬場所のチョイスを失敗したかと思ったが、しばらくすると騒音にも慣れてきたようで、夏目は辺りを物珍しげに見回し始めた。

「あ、あれはなに?なんでコインが沢山箱の中に入っているの?」
「あー、あれは専用のコインを弾みたいに落として、数を増やしていくゲームだ」
「ちょっと見なさい!透明なゲージの中にモフモフしたものが押し込められてるわ。見世物小屋かしら?」
「そんな物騒なものじゃねーよ!あれはUFOキャッチャーだな」

 発想がフリークスだ。目をキラキラさせながらブラックなことを言うのはやめてくれ。

 矢継ぎ早にあちこちを指さして、疑問を口にする夏目。まるで親を質問攻めする幼稚園の子供のようだ。どうやら夏目は初めてゲーセンに来たらしい。

 この年齢でUFOキャッチャーすら知らないとは、相当な箱入り娘だ。夏目の実家が超がつく名家であることを考えれば得心がいくけど。おそらく昔から俗世的な遊びに興じる機会などほとんどなかったのだろう。

「お前ってさ、ゲームとかするの?」
「ほとんどないわ。親が厳しかったから」

 俺の質問に答えながら、面倒くさそうに肩に掛かる長い髪をかき上げる。

 学校での夏目のハイスペックぶりを見ていると、幼少期から習い事や勉強に労力を費やしていたであろうことは想像に難くない。きっと教育熱心な厳しい家庭環境で育ったに違いない。

「でも唯一、家にインターネットだけはあったの。だからゲームやアニメは情報としてはちょっとだけ知ってるわ」
「ああ、なるほど」

 どうりで漫画やゲームなんかの妙にオタクっぽい知識を持っていると思った。男兄弟でもいるのかと思ってたけど、ネットの影響だったのか。

「そういえば、トランプだったら分かるわ。コンピューター相手に一人でやっていたから」
「お前意外と寂しい奴だったんだな……」

 ソリティアやマインスイーパーをCPU相手に必死でカチカチやっている夏目の姿を想像したら、ちょっと涙が出そうになった。あまり知りたくない過去だ。

「一番好きだったのはポーカーね」
「ギャンブラーだな」

 よく知らないけど、ポーカーといったらそんなイメージ。でも夏目の傍若無人な振る舞いから、ギャンブラーな雰囲気は意外としっくりきそう。

「あなたはポーカーやらないの?」
「そんなオシャレなトランプはやったことねーよ」

 ババ抜きとか、七並べとか、そういう平和な奴が超楽しい。

「そういえば、クラスのイケてる奴らがポーカーで負けたら俺たちオタクグループに話しかけるっていう罰ゲームをやってたな」
「……さり気なく悲しいエピソードを放り込んでこないで」

 哀れみを含んだ瞳で俺を見つめる夏目。いや、そこは笑ってよ。引かれると逆に辛いよ?

「まあ、ルールもよくわからんレベルってことだ」
「あら、そう。ポーカーは簡単に言うとね、山札から手札を引いて、役を揃えてその強さを競うゲームなの」
「ああ、なるほど」

 細かいことは分からないが、言われてみればなんとなくそのイメージなら湧く。決められた役を目指して、狙った手札を引きに行く。麻雀みたいなものか。多分違うけど。

「たとえば、ポーカーではね、エースが強いのよ。上の番号にも下の番号にも繋げられる便利な番号なの」

 ほう、エースは役が揃え易いカードってことか。大富豪でいうジョーカーみたいな。

「ふーん、八方美人つーか、器用なカードなんだな」
「まあ、そんな感じね。だからエースがあれば強い役が作りやすいのよ」
「なんか……お前みたいだな。器用に立ち回って、強い役を作る」

 そして周囲を掌握し、クラスを支配する。別の意味でエースって感じだ。恐ろしい。

「それは褒めてるのかしら?セクハラで訴えるわよ」
「だからどこがセクハラだ!なんとなく思っただけだっつーの」

 ひどい言いがかりだ。痴漢冤罪並みに救いがないぞ、それ。

「――私はそんな器用なカードにはなれないわよ。ただ、持っているフリをしているだけなの」

 夏目はガラス張りのショーケースを眺めながら、ゆっくりと深い溜息をついた。

 ……夏目らしくないな。
 持っているフリなんてしなくても。勉学優秀、運動神経抜群、そして絶世の容姿。どれをとってもよりどりみどりだろ。揃える役も選び放題。なんでもいいからその才能を一つ分けてくれ、マジで。

「持っているフリをするのが、ポーカーで勝つ方法だから」

 そういえば、ポーカーはいかに自分の手札を強くみせて、相手を諦めさせたり勝負に引きずり出させるか、その駆け引きが重要なんだと聞いたことがある。
 相手を騙す、それがゲームの醍醐味だと。

「……相手のカードは、見えないもんだからな」
「そうよ。だから、配られたカードで戦うしかないのよ。たとえそれが、エース抜きだとしてもね」

 雨水を溜めたような、潤んだ瞳で俯く夏目。
 その表情は、何故か不思議なくらいに切なく映っていた。

 こいつの配られたカードなんて、考えるまでもなくそのままロイヤルストレートフラッシュが決まるくらい、飛びぬけてチートなはずだろう。悩むまでもない、くらいに。

 俺は突然流れた気まずい沈黙に居てもたってもいられなくなり、慌ててUFOキャッチャーの筐体を指さした。

「ほらこれ!やったことないんだろ?やってみるか」

 夏目は俺の話題転換に驚いたように顔を上げて、UFOキャッチャーの筐体に視線を移す。

「べ、べつにいいけど」
「よし、じゃあやろう!」

 二人並んでUFOキャッチャーの前に立ち止まる。
 透明なケースの中には、最近流行りのアニメに登場するキャラクターを模したぬいぐるみが所狭しと並べられていた。

 夏目はゲームなんて面倒くさがるかと思ったが、いざ機体を目の前にしたその表情は満更でもなさそうだ。意外と好奇心旺盛な性分らしい。

「これは一体どういう操作方法なの?神崎くん、丁寧且つ迅速に私に教えなさい」
「へいへい、不肖ながら見本をやらせていただきますよ」

 そう嘯きながらも、実は俺には確固たる自信があった。
 何を隠そうUFOキャッチャーは俺の得意なゲームに他ならない。中学時代はUFOキャッチャーのプレイのみで一日費やしたくらいだ。かなりコアなプレイヤーであると自称しても掛け値がない。

 俺は財布から百円硬貨を取りだして、チャリンと投入する。
 手の平サイズのボタンを押すと、ケース内に吊り下げられたアームが陽気なBGMと共に動き始めた。

「わ、動いたわ」
「これを操作してケース内の景品を獲るんだよ」
「このぬいぐるみたちは捕らえられるのをただただ待っているだけなのね……まるで家畜、いや思考することを忘れた現代人へのメタファーかしら」
「そこまで深い意味はねぇよ」

 コアなファンの俺が言うのもなんだけど、UFOキャッチャーごときにそんな哲学的要素はない。単なるキャトルミューティレーションだ。

 俺は手元のボタンを操作して、事前に目をつけていた標的の上でアームを一旦止める。

 狙いは虎柄のパンツを履いた、可愛らしい三頭身のクマである『オニクマくん』だ。よく見ると頭には鬼の角がチョコンと生えている。

 オニクマ君は最近テレビコマーシャルなどによく登場しており、子供を中心に大人気のキャラクター……らしいが詳しくは知らない。

「ねえ、その角度で大丈夫?もうちょっと手前じゃないかしら?これでいけるの?」
「集中したいから静かにしてくれ!」

 後ろでいちいち騒がないで欲しい。人が運転してるのを助手席でアレコレ指示したがるタイプか、お前は。

「よし……おりゃ!」

 タイミングよくボタンを叩く。するとアームが下降し、上手い具合にぬいぐるみのタグに引っかかってくれた。そのままアームを引き上げ、取り出し口の穴まで運ばれる。

 ガコンと音を立ててぬいぐるみが落ちて、取り出し口へと姿を現す。一発目で獲れるとは、俺のゲームスキルもまだ錆びてはいなかったようだ。少し嬉しい。

「すごっ……くはないけど、アナタにしてはまあまあな働きね」
「そりゃどーも」

 さっきまで子供みたいに騒いでいたくせに。

「ほら、やるよ」

 せっかくだ。取りだしたクマのぬいぐるみを、俺の背後で食い入るように観戦していた夏目にポンと手渡した。

 自分で取っておいてなんだが、こんな可愛らしいぬいぐるみを愛でる趣味は俺にはない。むさ苦しい男子高校生に所有されるよりも、見た目だけなら綺麗な女子高生の手に渡った方がコイツも本望だろう。

 夏目はしばらくオニクマくんを眺めた後、少し顔を赤らめてギュッと抱きしめた。

「ま、まあ、せっかくだし貰ってあげないこともないわ」

 夏目のそれなりに豊満な胸に抱かれて、窮屈そうに表情を歪めるオニクマくん。正直羨ましい。頼んだら代わってくれないだろうか。

「お前もやってみれば?」
「そうね、たまには庶民の遊びに興じるのもいいかしら」

 夏目は満更でもなさそうな表情を浮かべて、財布から小銭を取り出した。俺のプレイを間近に見て気が乗ったらしい。

 まずは一発目。
 慣れない操作のためか、目測を見誤った夏目は大きく狙いを外し、アームは掠りもせずに何もない空を切った。

「……惜しいわね」
「掠ってもないぞ」

 まるで見当違いのところだったぞ。まあUFOキャッチャーは見た目以上に難易度が高いゲームなので、初心者なら仕方ないが。

 俺のツッコミにも一切反応せずに、夏目は二発目の硬貨を投入する。獲物を狙うハンターの目で、食い入るようにゲージを睨んでいる。ゲームとはいえかなり集中しているようだ。

「あっ……」

 またもや失敗。
 今度はボタンを押すタイミングが若干遅かった。

 夏目は迷うことなくすぐさま三発目を投入する。
 いくら一回一回は大した金額ではないとはいえ、のっけから物凄いペースの速さだ。

「お、おい、少しは考えてやった方がいいんじゃ」

 チャリン。
 言ってる傍から、すかさず次の硬貨をエントリーする。どうやら俺が目を逸らした一瞬の隙にもう失敗したらしい。ワンゲームがあっという間だ。

「……」

 チャリン、チャリン、と無言で次々ゲームをコンテニューしていく夏目。しかしアームは空を切るばかりで、一向に景品をゲットできそうな様子はない。

 何か、空気が重たくなってきた気が……。
 あんなに上機嫌だったのに、夏目は先ほどから一切声を発していない。辺りは喧騒に包まれているはずだが、やけに静かに感じる。

「あ、あのー、夏目さん?」

 声を掛けてみるが、もちろん返答はない。ただ手元のみが業務的に硬貨投入口とボタンを行き来しており、哀れなロボットのようだ。

 あれ、よく見たら百円玉が投入口の近くに積んである。
 それゲーセンの中でも、かなりコアなプレイヤーがやるやつなんですけど。初心者のレベルじゃないんですけど。

 おそるおそる背後から夏目の顔を覗き込んでみると、明らかに目が血走っていた。手も中毒者のようにプルプルと震えており、焦点が定まっていない。

 ちょ、ちょっと待って。ヤバい。口元から「ふしゅー」とか謎の吐息が漏れちゃっている。

 ふと気がついて辺りを見回すと、その豪気なプレイスタイルを珍しがった他の一般客がケースの周囲に集まり、ちょっとした見世物のようになっていた。
なにこの少年漫画みたいな展開。

「や、やべえ……」

 取り囲む観客の上げる歓声を聞きながら、夏目の新たな一面を見た気がする、と思った。

☆☆☆

「ま、まあ元気出せよ」
「……私ってセンスがないのかしら」
「初めてなんだからあんなもんだよ」
「……」

 黙ってオニクマ君の頬をムニムニと引っ張る夏目。やめろ、可哀想だろ。

 結局、夏目は五千円近くをUFOキャッチャーに費やしたが、ついぞ景品をゲットすることは叶わなかった。

 プレイも後半の方になると、哀れに思った店員さんがぬいぐるみなどの景品を取りやすいポジションに動かそうと提案してくれたのだが、夏目はそのご好意をにべもなく拒否した。

 負けず嫌いな性分のわりに、ゲームセンスは皆無らしい。一番厄介なタイプだな……。

「お前って、完璧なイメージがあったけど、意外と苦手なものもあるんだな」

 あらゆる点において夏目の後塵を拝する立場である俺だが、少なくともゲームセンスでは勝っていたわけだ。だからどうってわけではないが。

 そういえば、初めて会ったときもコイツが虫に怯えて暴れたのが、その本性に気づいたキッカケだったんだっけ。
 あの時の暴れっぷりは恐怖でしかなかったけど、今思うと幼い子供みたいで可愛らしいもんだ。

「――べつに、完璧なんかじゃないわ」

 夏目は俯きがちに、消え入りそうな声で呟いた。
 あれ、今までならここぞとばかりにムキになって反論するはずのに。揶揄うつもりで言ったのだが、いつもの威勢の良い態度とは違った反応に、俺は少し戸惑った。

「――アナタ、私にどうして演技をしているかって聞いたことがあったわね」

 夏目は迷うように目線を動かした後、またポツリと言葉を漏らした。
 その言葉には覇気がなく、まるで他人のようだ。

「……そうだっけ」
「そうなのよ」

 念を押すように頷く夏目。

「それがなんだよ」
「喫茶店で東京の私立に通っていたって、私言ったでしょ。本当はね、そこでは演技なんてしていなかったの。学校でお嬢様ぶるようになったのは、高校に上がってから」
「……」

 意外な事実に、思わず唾を飲み込む。
 夏目は俺の驚いた表情を見て、クスッと可笑しそうに笑った。

「あの頃は言いたいことを言って、やりたいように行動していたわ。そしたら、何故か周りの人間に敬遠されるようになってね」
「まあ……想像に難くないな」

 それに関しては予想通り過ぎるくらいだ。夏目の暴言が届く範囲で心穏やかにいられる奴なんてのは、仏かキリストくらいだろう。

「それでも周りとは折り合いをつけてやっていたつもりだったわ。本気で他人が嫌がるようなことは流石に控えていたし、それなりに楽しかった」

 俺は黙って話を聞きながら、中学時代の夏目を想像する。
 わざわざ地元を離れてまで通っていたのだ。いわゆる名門とか、お嬢様学校って呼ばれる私立だろう。そこで今とは違いお嬢様を演じていない夏目。うーむどうもイメージしづらい。

「でもね、三年生の時、イジメの事件が起きたの。クラスメイトの大人しい子が、物を隠されたり、じつは陰湿なイジメを受けていたらしくて。それが問題になった。その子は自己主張が苦手な子だったから、表沙汰にしたくなかったらしくて、何も言わずに別の街へ引っ越してしまったわ。結局は学校側も生徒側も、それを大きな問題にせずただ黙認する形になったの。名門の私立だったし、エスカレーター式とはいえ生徒によっては外部受験も控えた時期だったから、みんな神経質になっていたのね」

 ありそうな話だ。学校という閉鎖されたコミュニティでは、目立たない形でのイジメが常態化しやすい。それはどの年代、どの場所でも共通することだろう。私立も金持ちも関係ない。往々にして、弱い立場の人間が犠牲になる。

 夏目は少し間を置いて、再び話し始めた。

「そして犯人に、素行が悪かった私が疑われたの。もちろん夏目財閥の娘である私をおおっぴらに非難する人なんていなかったわ。でも、明らかに周りの人たちは私を敬遠するようになって、離れていった。教師も、クラスメイトも、みんな。今まで仲が良いと思っていた連中も、きっと私を夏目家だからってチヤホヤしていただけなのよ。誰も私のことを信じなかった。だんだんと、教室に私の居場所はなくなっていった」
「……そんな」

 夏目はまるで他人の人生を俯瞰で語るように、淡々と言葉を紡いでいた。

「いざってときに助けてくれない。そんなの、友達とは呼べないわ」

 重たく冷たい深海を揺蕩うような、憂いを湛えた横顔。
 その表情からは少しの諦観と、悲哀を帯びた覚悟のようなものが感じられた。

「私はね、抵抗しようと思えばいくらでもできたわ。私を犯人扱いした学校側を追い詰めることも、真犯人を見つけ出すことだって、夏目家の力を使えば簡単なことよ。でも、そうじゃなくて、誰かが私を信じてくれると思っていたの。きっと私に代わって、無実を訴えてくれる仲間がいるって。でも、誰も私を庇おうとはしなかった。仲が良いと思っていた子たちでさえ、腫れ物に触るみたいに、みんなただ遠巻きに眺めていただけ。そのとき、思ったの。私は、本当は誰にも必要とされてなんていなかったって」

 俺は何も言わなかった。いや、言えなかった。この状況で掛けるべき言葉を俺は知らなかった。

 夏目が初めて語る、自分の心の内側。他人が、気安い言葉で、容易く踏み込んでいい領域じゃない。

「私はもう、ここには居られないと思ったわ。その状況に耐えられなかったの。だからエスカレーター式の進学を蹴って、地元に帰ってきた。ここではもう間違えない。周りに信じてもらえるように、周りが私を必要としてくれるように。信頼を勝ち取るために、良い子の仮面を被って、みんなを騙すことに決めた」

 そんなのは。
 見事に矛盾した、二律背反。
 信じてもらうために、騙す。

 完璧に見えたお嬢様の、悲しい覚悟だった。

「おかしいわよね。アナタの話を病室で初めて聞いたとき、まるでもう一人の自分と出会ったのかと思ったわ。あるいは、私の未来かも」

 夏目は自分の言葉に、また可笑しそうに微笑した。
 俺は笑わなかった。笑えなかった。

「お前と俺は、違うよ。俺はただ目立ちたかっただけ、なんだから」

 夏目が俺に共通点を求めるなんて、お門違いな話だ。

 裏切った人間と、裏切られた人間。
 信じなかった人間と、信じたかった人間。

 スタート地点が違いすぎる。
 そしておそらく、ゴールも。

「でも、まさか事故で記憶を失くすなんてね。それに……」
「それに?」
「――いえ、なんでもないわ」

 俺はなんとなく、夏目が濁したセリフの先が分かった気がした。
 でも、それ以上言及することは出来なかった。

 言葉を飲み込み、黙って歩道を歩き続ける。
 街並みは寂し気な夕日に照らされて、顔も知らない沢山の人々がこぞって帰途に着いていた。もう、今日という一日が終わりかけていることを知らせている。

「ねぇ、私のしていることって……正しいのかしら?最近、分からなくなってきたの。記憶をなくす前の私も、こんなことを思っていたのかしら?」
「そんな話……初めて聞いたよ」

 俺はそんな無難なセリフを口にするのが精一杯で、誤魔化すように目を逸らした。

 言わなきゃいけない。
 夏目、俺は、お前に。
 最低の嘘を。

「――ごめんなさい、今言ったことは忘れて。今日は楽しかったわ」

 ふと顔を上げる。
 黙々と歩いていたので気が付かなかったが、俺たちはすでに駅に到着していた。

 何も言えずに、人混みの中を立ち止まる。
 俺の沈黙をどう受け取ったのか、夏目はいつもの仏頂面に表情を戻していた。

 目の前に佇んでいる華奢な少女。
 その驚くくらいの儚さに、夏目が春の温かい風に吹かれて、今にも消えてしまうのではないかと俺は不安になった。

「じゃあ、また明日、学校で」

 夏目は小さく手を振って、俺とは反対方向の駅のホームに向かって歩き始めた。
 こうして俺と夏目の初デートは、幕を下ろしたのだった。

 次の日から、夏目は校舎裏に来なかった。