神崎春。性別は男。
 血液型はA型。年齢はフレッシュ極まる十五歳。
 この四月から晴れて高校一年生。

 好きな言葉、高校デビュー。

 高校デビュー。なんて聞き心地の良い、甘美な響きだろう。
 半紙に書いて部屋の壁に張り、毎朝復唱したいくらいだ。しないけど。

 ここで一つ話を聞いて欲しい。

 学校っていうのはもれなく、様々なキャラクターの人間がいるものだ。
 似たような奴ばかりで構成される教室、なんてのはなかなかないだろう。

 そうだな、たとえばスポーツができる奴、盛り上げるのが得意な奴、勉強ができる奴。
 挙げ始めればきりがない。まさに十人十色って感じ。
 皆それぞれの特技や個性を生かして、思い思いの学校生活を楽しんでいる。

 でも、よくよく考えていただきたい。
 それはあくまで学校生活の見せる表情の一面でしかないのではないだろうか?

 いわば陽の部分。
 強く眩い光が差せば、その背後には濃い影が映し出されるのが世の常。エジソンが偉い人ってことぐらい常識。

 俺は中学を卒業するまで、いわば陰の役割を担当していた。
 学校生活を謳歌しまくっている陽だまりの住人たち。その背後でひっそりと生きる存在。

 俺の中学時代。
 ああ、それは暗黒時代と表現して差し支えない。

 コミュ力という名の武器を片手に、学内カースト上位に君臨するリア充グループ。
 そんな連中を羨望の眼差しで教室の隅からただ眺める、という役目に俺はひたすら徹していたのだ。
 教室での俺の存在感は、観葉植物といい勝負を演じるレベルだっただろう。

 誰もが楽しめるはずの文化祭や体育祭などのイベントもまるで目立てなかった。
 当たり前だ、わざわざ観葉植物の振る舞いに注目しその役割を称賛する人間などどこにもいない。

 その類のイベントは全員参加と銘打ってはいるが、俺たち陰キャラはリア充連中の踏み台としてお膳立てをさせられるばかりで、まるで良い所無しってのが話のオチ。
 う、思い出すだけでちょっとお腹痛くなってきたぜ……。

 いつも教室の隅で似たような暗い連中と固まっている、地味すぎる存在。
それが中学までの俺。

 しかし、だ。
 中学までの暗鬱とした生活から卒業し、イケてない自分を明るい陽キャラへと一変させ、華やかな高校生ライフを満喫する。
 そんな嘘みたいな術があることを、俺は中学の卒業式の後、偶然読んだ雑誌で知った。

 高校デビュー。

 俺が教室の片隅でただリア充どもを傍観していた頃、想像していた夢の光景。

 その輪に加わるためのあらゆる手段が、その雑誌には記されていたのだ。
 そう、例えるなら、まるで身体に稲妻が走ったかのような衝撃だったね。

 俺だって可愛い女子ときゃっきゃうふふな、リア充デイズを謳歌したい!
 仲良しグループで海に行ってひと夏のアバンチュールを経験したり、夕焼け差し込む放課後の教室で意中の女の子と見つめ合う……なんて青春を味わってみたい!

 人生一度きりの高校生活。
 もうひたすら地味な学生生活はウンザリなのだ!

 俺は不甲斐ない己に誓った。
 クラスの隅でオタク友達と昨日見た深夜アニメについて「デュフフ……」と気持ち悪い笑いを浮かべながら語り合ったり、勇気を振り絞って挨拶したクラスの女子から「えっ、ああ……」って愛想笑いを浮かべられたり、そんな過去は忘却の彼方へと捨て去ろう。

 偽りだって、嘘だって、なんだっていい。
 これが、俺が前に進むための最善策なんだ。
 なにがなんでも希望を手にしてやる。形振り構ってなどいられない。
 俺は変わってやる。

 演じよう、誰もが憧れる人気者を。

☆☆☆

「おはよ、春」

 通学路の途中、快活な声に名前を呼ばれ、ふいに足を止める。
 頬にかかる温い風を感じながら後ろを振り向くと、そこには制服を身に纏った女生徒が通学鞄片手に立っていた。

「なんだ、千秋か」

 日向千秋は俺の返事に不機嫌そうに頬を膨らませると、少し歩調を早めて俺の隣に並んだ。

「なんだとはなによ」
「なんだとはなによとはなんだ」
「……不毛ね」

 俺の顔を睨みながら、呆れたように溜息をつく。
 あれ、俺なりにコミュニケーションを取ったつもりだったんだけど、千秋の心には届かなかったようだ。
 思春期の娘を持つ父親もきっとこんな心境なのだろう。

「早めに出るくらいならチャイムくらい押してってよ。ただでさえ学校遠くて朝早いんだから」

 千秋の家は俺の家のすぐ向かいに面しており、登下校の際には嫌でも顔を突き合わせることになる。
 いわゆるご近所の幼馴染ってやつだ。

 とにかく、まあ小学生の頃からの付き合いで、高校生になっても同じ学校に通っている。
 この関係はもはや腐れ縁といっていいだろう。

「いや、もう寝ぼけたお前にぶん殴られるのは勘弁だ……」

 幼い頃から朝が弱かった千秋は、たびたび遅刻を繰り返していた。
 そんなときはよく俺が家まで迎えに行ったものだ。あー懐かしい。

 中学校に上がる頃だったか、あまりに起床が遅いため部屋まで上がり叩きおこしに行ったのだが、逆に寝起きの千秋にいきなりアッパーカットを食らったことがある。
 あれは痛かったな、脳が揺れたもん。世界目指せるよマジで。

「昔の話なんかしないでよ、マジでキモイ!」
「キ、キモって……お前から話しかけてきたんだろ!」

 あまりに横暴なリアクションに、思わず反論する。
 人のことをキモイとか失礼な人!き、キモくなんてないわい!

「……まったく」

 千秋は幼馴染ではあるが、俺とは正反対の存在だった。
 いつも暗く教室の隅に居る俺とは違い、いつもクラスの中心的グループで楽しそうに騒いでいるタイプなのだ。いわゆる陽キャラってやつ。

 小さい頃はそんなカーストなど関係なくよく遊んだものだったが、今ではすっかり距離が開いてしまい、学校で会話することは殆どなくなった。
 たとえ話すタイミングがあったとしても、一方的に俺を見下した発言ばかりするんだ、こいつ。

 昔は「春くん春くん」と俺の後ろに着いてきて、かぐや姫もかくやといった可愛いらしさだったのに。俺はそんな口の悪い子に子に育てた覚えはありません!

「千秋は高校生になっても変わらないな」

 テクテクと歩を進めながら、流し目で千秋の横顔を眺める。

「私は高校に進もうと何も変わらないわよ」

 そう言って風に揺れる長い髪を手ではらう千秋。
 その身を包む、折り目一つない新品の制服。
 地味だと評判が悪かった中学時代の制服とは異なり、新しい高校の制服のデザインは妙に垢抜けていて、春という季節も相まったフレッシュな雰囲気を醸し出していた。

「……春は、ホントにイメチェンするの」

 千秋は複雑そうな表情を浮かべて、俺の顔をじっと眺めた。
 まるで息子の初めての一人暮らしを心配する母親のようだ。お前は俺のお袋さんか。

「当たり前だろ、どんだけ苦労したと思ってんだよ」

 千秋の不機嫌そうな雰囲気を吹き飛ばすように、俺は全力で変顔をしながら「べろべろばあ~」と舌を出した。
 ふふ、もう中学時代のように、コイツに根暗な生活を馬鹿にされる筋合いはないのだ。華やか人生の始まりだぜ!ざまあみろ!

「……」

 俺のおどけたリアクションに、無表情で冷たい目を向ける千秋。
 いや、無視は止めてよ?振りきっててもわりと辛いよ?

 ……まあいい。俺はもう昔の俺ではない。死ぬ気の努力で変わったのだ。
 高校生活の華々しいスタートを切るため、俺はコツコツと地道な準備をしてきた。もちろん抜かりはない。

 ファッション雑誌を読み漁り、ダサいボーダーの服を脱ぎ捨ててオシャレなジャケットに身を包んだ。

 めっちゃ話しかけてくる美容師さんの陽気過ぎる雰囲気に耐えながら、流行りのヘアースタイルに変えた。

 アニメや漫画を見るのを止め、夜九時から放送されているドラマのラブストーリーから恋愛のいろはを学んだ。

 おやつも一切禁止し、毎日一時間のランニングで弛んだ身体をシェイクアップさせた。

 諸葛孔明も舌を巻くほどの布石の打ちよう、まさに稀代の策士。
 ここまで用意周到な地盤固めを行った俺に死角はない。

 髪もワックスでガチガチに固めて、流行りのアイドル風に仕上がっているはずだ。セットに一時間もかかったんだぜ。

「……急にどうしてよ」

 シンプルな問いかけ。
 なぜか千秋は眉間に皺を寄せて、怒っているように顔をしかめた。なんだよ、急に。

「――だから言ったろ、コンビニで雑誌を見て目覚めたんだよ。いやーあれは衝撃だったな」

 軽い調子でそう口にしながら、過去を回想するように遠くを見つめる。
 脳裏に浮かぶあのときの光景。

 地味で暗かった俺とは対照的なその姿。
 春の太陽に照らされて揺れる、清涼剤のような爽やかな声に、端麗なシルエット――

「そんなん今更じゃん。中学まであんなに地味だったのに。なんか他に理由があるんじゃないの」

 まるで政治家を問い詰める新聞記者のように詰問を繰り出す千秋。
 ずいぶんと理由にこだわるな、意外としつこいタイプかお前は。

「いいんだよ理由なんて。大事なのは努力したという過程なんだから」

 俺は金曜八時にドラマ放送されてそうな、不良生徒に相対するベテラン教師のように、優しく千秋を諭す。参加することに意義があるのだ、うん。

「……あっそ」

 どうやら俺の吐いた名言は特に響かなかったらしい。ぷいっと目を逸らして、俺を置いて足早に進んでいく。
 まったく今時の子は冷めてるな。少しチョイスの世代が古かったかな。

 千秋は俺の目の前に立つと、不意にスカートをはためかせながらクルリと振り返った。

「髪型、似合ってないよ」
「え⁉ どのへんが⁉」

 千秋はそう吐き捨てて、再び俺を無視してどんどん歩いていく。
 え、ちょっと待って!すぐにセットし直すから!
 だから似合ってないところ具体的に教えてよ、ねぇ!

☆☆☆

 期待と決意が入り混じる感情を胸に、俺は入学式に参列していた。
 さあ、ここからが高校デビューの記念すべき一歩目だ。
 もう陰キャとは呼ばせないぜ、リア充どもめ!

 そう気合を入れて乗り込んだ入学式だったが、釈迦の説法のような校長の演説を延々と聞かされいきなり辟易とさせられた。
 どうやら校長先生の話が長いのは中高共通の事項らしい。

 斜め後ろに座っていた千秋をちらっと目をやると、完全に爆睡していた。
 気持ちは分かるが目を覚ませ。顔に落書きすんぞ。

「――よし」

 こんなところで挫けているわけにはいかない。
 この日のために、一体どれだけ労力を掛けたと思ってるんだ。
 高校デビューでは初日こそが肝心の要。ミスるわけにはいかない。

 某関取ばりに両頬をパチパチと叩いて、なんとか己に気合を入れ直し、新しいクラスが待つ教室に向かう。
 そこには、これから一年間苦楽を共にするクラスメイト達が待っているわけだ。

 さて、ここで俺の特技を一つ披露しよう。
 俺は一目見ればその人間がどんなキャラクターをしていて、クラスでどれくらいのランクに位置しているのか、だいたい理解できる力がある。

 なぜなら中学時代は休み時間の間、ずっと教室の斜め後ろからクラスメイトを観察していたからな!
 友達がいなかったからとかそういうわけではなく、趣味でな!
 あれ、なんか目から汗が……。

 とにかく、俺は相手をじっくり観察すれば、そいつの癖や行動原理を予測することができるのだ。
 経験上、これが自分でも驚くほど当たる。

 昔、内心では周囲をバカにしている猫被った女子の本性を言い当てて何故か俺が皆からめっちゃ嫌われた。

「どれどれ……」

 まず目につくのは頭髪を茶髪に染めていたり、アクセサリーを身に纏ったり、見た目からしてチャラチャラしたイケてる連中。
 教室の中央を陣取って大きな声で騒いでいるが、誰もそれを咎めたりはしない。
 彼らはクラスのリーダーであり、言うまでもなくカーストのトップの地位にいる。

 さて、次は待ち時間の間も入学の手引をまじまじと眺めて黙読しているような、真面目で勉強ができそうなグループ。
 彼らは無駄に群れたりはしないが、それぞれがしっかりと自立していてお互いに高いレベルの信頼関係を築くことができる力を持っている。
 実際社会に出て活躍するのは彼らのような人達だろう。知らんけど。

 そして最後に、アニメやらアイドルやらのグッズを学校に持ち込んでいる、オタク趣味を持ってそうな集まり。
 見た目からしてパッとしない。言うまでもないだろうが、クラスカーストの最底辺。

「ふむ」

 大抵は予想通りだな。いかにも公立の高校らしい、平均的な配分だといって良い。
 ちなみにだけど、今挙げた例は並べた順番に権力が強い。これ豆知識な。

 もちろん中学までの俺が属していたのは、完全なるオタクグループ。
 だいたい似たようなタイプの人間が、同じグループに引き寄せられるものだ。
 そしてクラスのグループは階層化され、権力と存在感がそのままクラス内カーストに直結する。それに時間はそうかからない。

 しばらく教室を観察した後、俺は小さく頷いた。

「――よし、イケる」

 そう、今の俺は雰囲気だけなら、決してイケてるグループの人間と相違ない。
 血の滲むような努力の末、我が容姿バージョンアップ計画は成功したのだ。

 今の俺からオタクっぽい雰囲気を察することは、太平洋で一滴の青いインクを見つけ出すのに匹敵するほど困難を極めることだろう。ほぼ不可能だ。

 さて、さっそく取り掛かろう。
 俺は予め用意していた作戦通りに行動を開始した。

 あくまで自然に、リア充っぽい連中の輪にそっと加わる。

「あれ、神崎って西中なんだぁ、めっちゃ遠いじゃーん」
「お、おう、バス通学だから、超ダリーわー」
「神崎くんって部活入るのー?スポーツ得意そー」
「そうかー?まだ全然考えてねぇー」

 俺、イケてるグループと会話できてる!俺すげぇ!
 特に中身のない会話だが、それでも中学時代からは想像もできないくらいの進歩だ。

 大したことでもないのに面倒くさがったり、語尾を無駄に伸ばしたり、対リア充用の会話シミュレーション通り。

 ちなみに中学まではこんな感じ。
『神崎くん、なんか先生が呼んでたよー』
『あ、う、うん……』
『おい神崎、当番だろ。さっさとこのプリント回収しろよ』
『ご、ごめん……』

 イケてるグループの連中に話しかけられただけで、キョドってしまう。
 うん、思い出すだけで胸の辺りがキュってなる。今すぐシュレッダーにかけて消し去りたい過去だ。

 しかし、俺はもうかつての神崎春ではない!

「神崎って面白いやつだな!このあと皆でカラオケ行くんだけど、お前も行くっしょ?」
「マジか、行く行く、皆で盛り上がろうぜ!」

 これが……リア充が遊ぶ際に多用するという、世に言い伝えられし伝説の『放課後カラオケ』か!すげぇ、放課後カラオケすげぇ!

「……うん?」

 ふと視線を感じて、振り返る。

「……」

 淀んだ視線で俺を見つめていたのは、偶然同じクラスになった千秋だった。
高校も一緒、クラスまで同じとは。
 不思議なことに、本当にコイツとは縁があるらしい。べつに嬉しくないけどね!

「なんだよ」
「……べつに」

 千秋はそう言いながらも、不満そうに唇を尖らせる。
 朝から俺に対してはずっとそんな調子だ。なんだその態度は。

「なんだ、お前もカラオケ行きたいのか?」

 俺はリア充グループに混じれた嬉しさを隠すことが出来ず、思わず千秋にどや顔を浮かべる。
 ふはは、珍しく俺が上手に立っているぜ。

「いや、私の方が先に誘われてるから」
「あ、そうなのね……」

 なんかすいません。流石もともとイケてる人間は違う。
 俺のようにわざわざ無理をしなくとも、最初からリア充グループに参加できてしまうらしい。羨ましい奴め。

「一応言っとくが、俺の昔の話は絶対にするなよ」
「……しないわよ」

 千秋は興味なさげにそっぽを向く。
 むしろそれくらいの態度を取ってくれる方がありがたい。

 こうして新天地でデビューをするうえで、過去の繋がりは邪魔になる。そのためにもわざわざ家から遠くの高校を選んだのだ。

「ま、気をつけてくれよ。ちなみに俺とお前は中学が一緒だったってだけで、べつに知り合いじゃない設定だからな」

 ここは念を押しておかないとな。
 実際中学の頃は学校で会話を交わすことなんて殆どなかったのだから、事実と相違ないし。

 思い出すまでもない。昔から俺はクソオタクの陰キャラで、千秋は人気者グループのキラキラ系女子。
 幼馴染でお互い小さい頃を知ってはいるが、クラスでのカーストではずっと月とすっぽんだった。

「……アンタがそれでいいなら、べつにいいわよ」

 千秋は吐き捨てるようにそう言うと、席を立って教室を出ていった。
 なんだか終始不機嫌なままだったな。そんなに俺が目立ってるのが妬ましいのか。
 ふふふ、まったく人気者も苦労するものだぜ。

☆☆☆

 千秋と同じクラスでバッティングするという想定外はあったものの、こうして高校生活のスタートダッシュに成功した俺は、それ以来クラスのカースト上位の人間としての立ち位置をゲットした。

 日が経つほどに増していく確信。
 俺は間違いなくリア充を演じられている。

 教室に入れば誰彼問わず無駄に挨拶しまくり、休み時間になればイケてるクラスメイトとくだらない鼻くそみたいな世間話をし、放課後には男女混合のグループでギャーギャー騒ぎながら寄り道をする。

 うん、言葉にすると途端に悪口みたいになるけど、これが俺が求めていた光景なのだ。
 夢にまで見た、夢のような毎日。

 ビバ、高校デビュー!
 ビバ、リア充生活!

 ――なんて。

 そう、あまりにも簡単にことが進んでしまった。
 世の中そうそう甘い話なんてものはない。

 俺は高校デビューに成功したという浮ついた気持ちから、完全に油断してしまっていたのだ。
 上手い話には、必ず落とし穴がある。バカな奴はいつか足元を掬われる。

 そう、まさにこのときの俺が典型的なそれだったのだ。
 それは高校の入学式から、二週間が経とうとした頃だった。

「あれ……ない」
「どうしたの?」

 家庭科の授業で、移動教室からみんなが帰って来たその時だった。
 クラスメイトの一人である女子が、あることに気がつき戸惑いの声を挙げた。

「私の体操服が――ない」

 これがのちに伝えられし『体操服盗難事件の乱』である。
 ちなみに命名は俺。呼んでいるのも俺だけ。

 移動教室でクラスが空いていた隙に、女子の体操服が盗まれるという事件が発生したのだ。
 当然クラスは騒然とした。
 当たり前だよな、そんな非日常的な緊急事態になって、好奇心旺盛な高校生たちが騒がない筈がない。
 教室の雰囲気はざわつきを増して、ちょっとした祭りのようになった。

 しかし、そもそもの問題はここから。
 あろうことか、そこから教室内で犯人探しが始まったのだ。

「誰だよこんなことする奴は、フツーに犯罪だぞ」
「いいこと思いついた! ひとりひとり、バッグの中身見れば解決じゃね?」
「それいいな!」

 面白がった男子の一部が、そんなことを言い出したのだ。

 まあ俺は全く関係ないし、ここでそれを反対するってのも、逆に怪しまれかねない。
 中学時代に培った、黙って周りに同調するステルス能力を駆使することで、俺はその流れに従った。

 というわけで犯人探しスタート。
 衆人環視のもと、一人ずつ鞄の中身を見せていく。

 盗まれた体操服は一向に出てこない。
 そりゃそんな犯罪行為をしてそのまま自分の鞄に入れておくなんて、相当なバカだろう。どこかに隠したか持ち去ったに決まってる。
 まあ、そもそも窃盗自体がどうしようもなく愚かな行為に変わりないけど。

 そうして俺の番が回ってくる。
 流石に昔は陰気なキャラだった俺といえど、体操服を盗むほど人間終わっていない。
 そもそもこのクラスに犯人がいるのかも分からないし。

 被害にあった女性徒には同情するが、我が身は純白、もとい潔白だ。
 こんなことしたところで時間の無駄というもの。

 さっさと終わらせて、休み時間にリア充どもと話す世間話のネタを練らなければ。
 特に逡巡することもなく、気軽に鞄を開く俺。

「――なっ⁈」

 俺は目を疑った。
 そこにありえないモノが入っていたからだ。

 女子の体操服。上下セット。

 他の誰でもない、紛れもなく俺の通学鞄に、きっちりと寸分の狂いもなく収まっていた。
 堰を切ったように、ざわつく教室内。

 嘘だろ、なんで。
 俺は状況がまったく受け入れられず、全身からサッと血の気が引いていくのを感じた。
 色白な額からは、じわりと嫌な冷汗が涙のように流れる。

「あああ、ありえねーって! 俺じゃねぇよ!」
「神崎、まさか……」
「神崎ってそういう奴だったのか……」

 俺の明らかな動揺っぷりに、周りの疑念の視線が一層強まっていく。

 ちょっと待ってくれよ、ありえない。
 なんだこれ、なにこの状況。

 本当に俺じゃない!
 これは何かの陰謀だ!

 そう叫びたかった。
 しかし、喉は乾燥した真綿を詰め込まれたかのように塞がれ、まったく声が出ない。
 か細い息がふしゅふしゅと漏れるばかりで、まるで自分の喉じゃないみたいな状態になっていた。

 たった数週間も経っていない嘘の仮面は、簡単に剥がれ落ちる。

 ただ適当に、上手く誤魔化せればそれでよかったはずだ。
 だが、俺はあり得ない事態に直面した動揺のあまり、完全にかつてのコミュ障全開モードに戻っていた。

 こんな大人数に囲まれて、一身に視線を浴びて注目されるなんて。冷静でいられるわけがない。
 少し前までクラスメイトとの僅かな会話さえ、まともに交わせなかった男だぞ。

 緊張で手は震えまくり、目は太平洋を循環するマグロのように泳ぎまくり。
 どうすればいい、どう弁明すれば。
 これじゃまるで「僕こそが犯人です!」と宣言しているようなものじゃないか。

「俺、さっき神崎が最後まで教室に残ってるの見たぞ」

 突然、男子生徒が声を挙げた。
 教室の全員の注目が、一気に男子生徒に集まる。

 ソイツはまだ名前もよく覚えてない、クラスメイトの一人だった。
 確か、高田とか言うサッカー部員だった気がする。

「そっ、それは……」

 俺は返答に困窮し、口ごもった。
 誰にも言えない。

 家庭科の調理実習に備えて、『男が料理をするときのカッコいい仕草』についてまとめサイトを検索していたなんて、みんなの前では口が裂けても言えない。言えるはずがないじゃん。

 なぜなら俺は、そんなダサいことはしないキャラで通ってるから。
 カッコ良くて明るい、オタクなんかとは一線を画す、そんな奴を演じているのだから。

「あああ、その、あれだ!」

 どんよりと重たい空気の中、慌てて口を動かして適当な言葉を並べる。
 この際何でもいい、とにかく無実を証明しないと。誰かに信じてもらわないと。

「間違えて俺の鞄に入れたとかじゃね?マジありえないっしょ!それか誰か他の犯人が俺に罪を擦り付けたとか!と、とにかく俺は――」

 我ながら苦しい言い訳。誰がそれで納得してくれる。
 だが本当に身に覚えがないのだから、どうしようもない。

「――春、やっぱりキャラ違うよ」

 俺の醜い言い訳を遮るように、騒がしい空間に響いた低い声。

「ち、千秋」

 端を発したのは、千秋だった。
 クラスの中で唯一、昔の俺を知る人間。

 千秋はハッキリと明言はしなかったものの、入学式以来の俺のはしゃぎまくりな振る舞いに、違和感を覚えていたはずだ。
 しかし千秋は周囲に対して沈黙を守ってきた。千秋なりに気を遣ってくれてはいたのだと思う。

 だがこうして俺の悪評が立った以上、その流れを止めることなどできるはずもなかった。
 千秋は周囲の勢いに促されるがまま、ポツリポツリと語り始めた。

 俺の中学時代の黒歴史や、高校デビューするために必死に演技をしていたこと。
 それらすべてが、あっという間に白日のもとに晒されていく。
 もはやざわつきを超えて、静まり返るクラスメイトたち。

「マジかよ……ただの嘘つきじゃん」
「フツーに引くわー……」
「――っ」

 言葉が出ない。
 あれだけ練習したはずの対リア充用会話シミュレーションも、まるで壊れたパソコンのように全く機能しない。オールエラーだ。

 クラスメイトの顔を見なくても分かる。
 今この状況で、俺を信じている奴は、一人だっていやしない。
 これが、嘘で塗り固めた結果。上辺だけの人間の末路。

 たった二週間といえど、俺は少しでも誰かが自分を庇ってくれるような人間関係を、一つも構築できていなかったのだ。

 ああ、終わったんだ、なにもかも。
 人の夢と書いて、儚い――

「――で、でも春は盗みなんてし」
「おい、何やってんだ!」

 千秋が何か言おうととしたその前に、騒ぎを聞きつけた教師たちが教室へ到着した。

 慌てながらも騒然としている生徒たちを席につかせ、ひとまずその場を収める。
 しかし生徒間の囁きはすぐには終わらなかった。

 クラスメイトの目には、俺が完全なる嘘つきのクソ野郎として映っていただろう。

 その後俺は重要参考人として、職員室に呼び出された。
 悪さとは無縁の、それなりに真面目に過ごしていた俺にとっては初の経験だった。呼び出し童貞卒業だ。嬉しくねえ。

 教師陣の目の前で、鞄から件の体操服を取りだして机に広げる。
 すると、あら不思議。

「……これは」

 胸のロゴには「西中」のマーク。
 タグには「神崎桜子」の文字。

 刻まれた刺繍を教師と共にまじまじと見つめる。
 そう、その体操服は盗まれたモノでも何でもなく、中学生になる俺の妹の体操服だったのだ。
 まあそれもおかしいんだけどね。

 担任の先生に、憐みの表情で肩をポンと叩かれた。
 うん、どういう意味だよ。

「神崎、今日はもう戻っていい」

 ひとまず窃盗犯の疑いが晴れ、俺は静かに職員室から返された。
 担任を始めとした教師陣は、なんとも言えない複雑な表情をしていた。
そりゃそうだ。

 体操服泥棒の不名誉は免れたものの、また別の特殊性癖の持ち主だと勘違いされた可能性大である。
 あるいは、別の場所に盗んだ体操服を隠しただけで、まだ俺が犯人だと疑っている人もいたかもしれない。

 その後、トボトボと家に帰ると、妹に「間違えてお兄ちゃんの鞄に私の体操服を入れちゃってたー、うふふごっめーん☆」と物凄く軽いノリで謝られた。

 泣きたい。というか泣いた。さめざめと泣いた。

 結局犯人は捕まらなかった。
 一方で、俺の噂だけが独り歩きした。

 体操着盗難の容疑者となったことや、実は高校デビューの陰キャラだったこと、妹の体操着を鞄の中に所持していたことなど諸々含め、俺は『変態嘘つき』という有難い称号を頂戴することになった。

 シンプルかつ鋭いパワーワードだ。
 誰が命名したのか教えてくれ。そんで殴らせろ。

 学校という狭いコミュニティ。その噂が回るスピードの速いことよ。
 結果として、特殊性癖の疑いをかけられ、それを必死で弁明した俺は、超気持ち悪い奴として学校中の生徒から嫌われ者になってしまったのだ。

 入学から高校デビュー、そして噂が広がり学校一の嫌われ者になるまで、約一か月。ボルトもビックリの世界速記録だろう。
 目まぐるしすぎて、もはや自分でも実感がないくらいだ。だれかデカい看板もって「実はドッキリでしたー」って言ってくれよ。

 次の日から、教室に入っても誰も目を合わせてくれなくなった。
 特に女子の近くを通り過ぎると「うわ、キモ……」とささやかな罵声が俺のハートを鎌鼬のように切り裂いてくれる。
 お手軽にメンタルをやられたい人にはオススメだ。高校デビュー失敗ダイエット。俺はこれで三キロ痩せた。

 唯一初めから事情を知っていた千秋も、たまに遠巻きに俺に視線を向けるだけで、会話は一言も交わさなくなった。
 アイツはアイツで、もう自分のグループがすでに完成している。
 クラス中から嫌われた俺に話しかけることは、もはや自殺行為も同然だ。俺を避けるのも仕方がない。

 辛い、辛すぎるよ、現実。
 これじゃあ、地味ながらもひっそりと暮らしていけた中学時代の方が断然マシだ。

 何がいけなかったのか。
 高校デビューを目論み、周囲を欺いて演技していたことか。
 それとも不運にも妹の体操服を鞄に入れて登校し、それに気づけずに窃盗事件に遭遇したことか。

 どれだけ後悔しようとも、もう時間は戻ってはこない。
 グッバイ、夢見た俺の青春よ。
 でも一言だけ。
 全力で、心の底から、一言だけ言わせてもらおう。

 高校デビューなんて、クソくらえだ。