自転車を庭先に止める。

 家に入ろうとして鍵が開いていることに気がつく。母はまだ仕事のはずなので、いるとしたら裕司さんだろう。

 予想通り、裕司さんが居間に何もせずに座っていた。

「お帰りなさい」
「ただいま、です」

 裕司さんは仕事が終わればいつも母の働いている店に行き、母と一緒に帰宅する。

 この家で二人きりになるのは滅多にないことだった。どう声をかけていいのかわからず、緊張から喉が渇く。先に動いたのは裕司さんだった。

 冷蔵庫から未開封の二リットルのミネラルウォーターを取り出して開けてしまう。

「朱鳥くんも飲む?」
「いいえ。それにそれは母のなので」

 喉は乾いていたが、僕が飲んだと知られたら殴られるだろう。僕が許されている飲み物は水道水だけだ。色々なことがあったけれど、母との関係は何も変わっていない。それどころか金づるを逃がしたと罵られたりもした。

「そうか。そういうルールだったね」

 見ていられないというように視線を逸らして、コップに注いでいく。

「でも、ばれなきゃ問題ないよ」

 そう言ってコップをもう一つ取ると、飛び跳ねるほどに勢いよく注ぐ。並々みと注がれた水を零れるのもいとわずに僕に勢いよく差し出す。

「飲みたいときに、飲みたいものを飲むのが一番だよ」
「ありがとうございます」
「乾杯」

 今日の裕司さんはどこか変であった。水を飲んでいる間もちらちらと僕の様子を伺ってくる。まるで何かのタイミングを計っているようだった。

「もう一杯どう」
「いやそれはさすがに」

 気づけば二リットルのミネラルウォーターは半分ほどなくなっている。裕司さんはかなりのペースで飲んでいた。

「大丈夫。新しいの買ってきたから。むしろ中途半端に残っていると、ばれてしまうよ」

 なんだか共犯にされてしまった気がする。

「でしたらいただきます」
「水だけだと飽きてしまうね」
「でしたらおかずがありますよ」
「いいね。一緒に食べよう」

 僕たちは居間に戻って酒盛りでもするように、作り置きしていた食事をつつきながらミネラルウォーターを飲み干した。ふと父親とはこういうものなのかと意識してしまう。

 ただの水だというのに今日の水には味があったような気がする。

「予餞会の準備はどう?」
「順調です。何もなければ明日にも完成します」
「そうか。楽しみだな。朱鳥くんの絵」

 天井を見上げて想像を膨らませる裕司さんは幸せそうに頬を緩ませる。
「たいしたことないですから」
「謙遜しても良いことはないよ」
「謙遜ではないです。僕なんてまだまだ、それに納得のいく出来ではないので」
「自分の作品にこだわりを感じられるのは進歩している証だと思うけどね。まあ出来の良さは二の次だよ。なにより息子の晴れ舞台……」

 裕司さんは自分の失敗に気づいて言葉を止める。僕の反応を伺うように視線だけを僕に向ける。

「息子みたいなものでしょ」

 それに、近いうちに本当の息子になるのだから。

「そうだね」

 何かを決意したように裕司さんは胡坐から正座に変えて居住まいを正す。

「実はね、大事な話があるんだ」
「はい」

 その真剣なまなざしに僕も正座をする。

 他人の男二人が一つ屋根の下で正座している状況は、どんな状況だろうと考える。

「お母さんと結婚しようと思う」
「……そうですか」

 それ以外に答えようがなかった。

 もちろん反対なんかしないし、あんな母を貰ってくれるのならありがたいことはない。

 かといっておめでとうございます、も他人事のようで違う気がする。

「それだけかい?」
「よろしくお願いします」
「あ、はい。よろしくお願いします」

 まるで娘さんを下さいと、言いにきた男のようにがちがちに緊張している裕司さんを見て笑ってしまう。僕に何か気をつかわなくて構わないというのにこの人は本当にお人好しだ。

「笑うのはなしだろう」
「裕司さんが緊張しすぎなんですよ」

 四十代の大人が子供相手に結婚の報告でしどろもどろになっていたら笑ってしまう。

「こういう経験はなかったからね」
「経験してどうでしたか」
「二度はいらないね」

 お互い視線を合わせてふっと笑う。

「母のどこが良かったんですか?」
「全て。と言うとありきたりだけど、放っておけないんだよ」

 照れながらも素直に気持ちを吐露する裕司さんは本当に母にもったいない。この町が活気づいていたならば、母よりも良い相手が見つかっただろうに。

「言っておくけど、同情ではないからね」
「わかってます。ですけど、子供を殴る人と良く結婚しようと思えましたね」

 少し嫌味っぽくなってしまった。機嫌を損ねたかと思ったが、裕司さんは、にへら、と笑って頭をかいていた。

「ああ見えて繊細なんだよ。朱鳥くんを殴った事はいつも後悔しているよ。もちろんそれだから許してやれなんて言わないけれど、それだけは知っておいてほしい。彼女はもうそれくらいしかコミュニケーションの取り方がないと思い込んでしまっているんだ」

 そんなことを言われてもどんな反応をしていいか困る。残念なことだけれど、僕はもう母のことを諦めている。それにもうすぐ僕はこの町を出て行く。

「改めて母のことよろしくお願いします」

 深々と頭を下げる。一つの未練を断ち切ったような気分だった。

 話す事がなくなって、再び気まずい空気が訪れる。手持ち無沙汰になって空いた皿を重ねていく。

「ところで、母のところに行かなくて良いんですか?」
「行くよ」

 しかし、まだ話は終わったわけではなかったようで、裕司さんは立ち上がらない。僕をじっと見つめたまま何かを吟味している。

「どうかしましたか?」
「変わったね。朱鳥くん」
「そんなことは」
「あるよ。昔は人前では決して笑わなかったもの。やっぱり、彼女が影響しているのかな」
「あの人とは別に、噂は嘘ですから」
「隠す必要はないよ。渡会杞沙、彼女が何物かは知っている」

 皿が手元を離れて机に落ち大きな音がなる。割れはしなかったが、気まずい空気を打ち消すには十分だった。

「もちろん何をしようとしているのかも」

 今すぐにでも逃げ出してしまいたい気分だった。今まで誰にもばれずにいた計画が今になって露呈するなんて。焦りで焦点が合わない。

「そのこと、他の人には」
「言っていない」

 それ聞いてとりあえず安堵する。しかし問題はこの後だ。
裕司さんが何を考えているのかわからない。それまでお人好しに見えていた裕司さんが得体のしれない人間に感じてしまう。

「なぜです?」
「この計画には賛同しているからね」
「賛同?」
「不思議に思わなかった? 彼女はいったいどこからあれだけの物資を得ているのか」

 言われてみればそうだ。深く考えることを放棄していた僕は、日が高いうちにどこかから入手していると漠然と思っていた。

「今回の件、物資を供給していたのはうちなんだ。彼女からお金をもらってそれを卸していた。言うならば協力者だね」

 食材の中に紛れていた謎の荷物。あそこに爆薬が詰め込まれていたということか。

 僕は良いが大河にあれを運ばせていたのは申し訳ない気持ちになる。

「この町は病魔に侵されている。そのことはみんな知っているが痛みを恐れて治療することが出来ないんだ。子供の君にこんなことを託すのは大人として失格だと自覚しているけれど、だからこそ私たちごと、一思いにやってほしい」

 理解するのに数秒の時間を要する。計画が実行されれば店だって吹き飛んでしまう。それでも構わないと言っているのだ。正気の沙汰とは思えない。

「それじゃ、そろそろ行こうかな」
「待ってください。裕司さんはそれで何を得られるんですか?」
「朱鳥くんの作品が現実になる。それだけで満足だよ」
「でも、そんなことしたら」

 母との結婚どころではなくなってしまう。それは僕の本意ではない。

「これは止められない。朱鳥くんの気持ちがどんなに変わろうとも」

 キサさんと同じ言葉を残して、裕司さんは家を出て行った。

 その後も混乱した思考は正常な判断を下せず、僕は居間でぼうっと立ったままでいた。

 僕の知らないところで、色々なことが起こっている。

 いったい何が起こるのか。

 ことの顛末は僕の思っているものとは違っているのかもしれない。

 次の日の日暮れに作品は完成した。制作の遅れや、大きなトラブルも起こらず、計画通りに進んだのは唯織の的確な指示もあるがそれだけではない。

 かつては芸術の町と言われていただけあって、その子供たちにも制作の精神が受け継がれていた。唯織の指示を皆が共有して理解し、手が足らない場所にはすかさず手伝いに向かう。大人たちも直接制作にかかわることはできないが、差し入れの提供や帰りの遅くなった生徒の送迎など出来ることをしてくれた。

 外部の人間を拒絶しやすい住人は、内部の結束はかなり強固なものだと改めて思い知らされた。

 後は一枚一枚のベニヤ板を繋ぎ合わせて組んだ足場に固定するだけ。危険を伴うこの作業はだけは町の大人たちが担うことになっている。

「こんなにあっさり出来てしまうなんて」

 完成した巨大貼り得を前にして呟く。最終確認のために校庭で繋げられた絵は下絵の通りに描かれていた。校舎の二階から眺める、校庭に敷かれた貼り絵は特別にライトで照らされている。地上絵のように圧巻の大きさである。これが明日には壁画のように校舎の壁に飾られるのだから、さぞかし圧倒されることだろう。

 ただ、下絵を描き上げた日から抱いていた不満は消えることはない。

 何かが足らない気がしているのだ。

 それが何なのかはわからない。

 背景まで拘って細かい書き込みをしている。草の葉一つ一つや鳥たちの動き、羽の細部にまで拘ったつもりである。

 それでもこの胸に残る隙間は埋められなかった。

 キサさんならわかるのだろうか。

 ふと、僕はあの人から芸術に関することはほとんど教えられていないことに気づく。

 ポケットからスマホを取り出して意見を聞こうと思ったけれど、すぐに思い直してポケットにしまった。こんなことを気軽に聞いて良い相手ではないし、僕は弟子にしてもらうことを断られている。

「こんなところにいたのか」
「大河か。体育館にいなくて良いのか?」

 現在は完成の祝賀会が体育館で開かれており、裕司さんの店から提供された飲み物やお菓子で大いに盛り上がっていた。

「いなくちゃいけないのは朱鳥の方だろ」
「僕はああいうのは苦手だから」

 一応、最初のあいさつだけは済ませてある。

 それだけで、見ず知らずの生徒から声をかけられたり、スマホで写真を取られたりですっかり疲れてしまった。

「あっという間にここまで来ちまったな」

 大河は校庭に敷かれた貼り絵を眺めて呟く。

「そうだね。まさかこんなことになるなんて思わなかったよ」
「それもあの人の影響なのか?」
「まさか大河も噂を信じているの?」
「全部が噂通りとは思っていないけど、半分くらいは当たっているんだろう」

 当たらずも遠からずではあるけれども素直に答えたくはなかった。

「それより、あの絵どう思う?」

 うまく話を逸らすために感想を聞いてみる。

「どうって……良いんじゃないか?」
「普通ってことだよな」

 こちらの指摘が正しかったようで黙ってしまう。嘘をつけない大河のそういうところは美徳である。

「気にしなくて良いよ。僕もそう思っているから」

 これが巨大な貼り絵ではなかったら、普通の作品だろう。今さら遅いけれど、もっと何か出来たような気がしてならない。これも僕が逃げ続けていたことの結果なのだ。

 もっと早くから向き合っていれば、訂正の機会はいくらでもあった。

「ああ、こんなところにいた」

 唯織が教室の入り口でひょっこり顔を出す。

「唯織まで抜け出して来たの?」
「私だけじゃないよ」

 唯織の手招きで中に入ってきたのは館山だった。

「館山?」
「朱鳥は何処だってうるさいから一緒に探してたの。朱鳥のこと好きすぎでしょう」
「そういうことは本人のいねとこで言えよ」
「本人がいなきゃ良いんだ」
「別に聞こえてなけりゃ問題ねえだろ。文句あんのか」

 相変わらず口は悪いけれど、表情はだいぶ和らいだように思える。最近は一部のせクラスメイトとも打ち解けはじめている。

「図らずとも四人そろったな」
「懐かしいね」

 絵画教室に通っていた頃はよく四人で集まっていた。

「そうか? 俺は別に」
「正直になりなさいよ」
「うるせえな、お前はもう帰れ」
「はあ? 誰のおかげで朱鳥に会えたと思ってるのよ」
「おいおい、喧嘩はよせって」

 それまで静かだった教室が急に賑わいだす。あの頃もそうだった。唯織と館山が頻繁に衝突して大河がなだめる。それを僕が少し離れた場所で見ている。

「ところで、館山は僕に用があったんじゃないの?」
「そうだった。こいつの相手する意味なかったわ」
「なにその言い方。もう絶対に助けてやんない」

 唯織は歯を見せて不満の表情を向ける。本気で思っているわけではないだろう。

「まあ、そう言わずに仲良くやろうぜ」
「え? 大河は館山の味方なわけ?」
「みんなの味方じゃダメか?」
「優柔不断!」

 唯織の怒りが大河に飛び火していたが放っておこう。僕にも飛び火しかねないし、大河なら容易く鎮火させるだろう。

 館山は窓際に歩いて行き、貼り絵を見下ろす。

「昔描いた絵のことは覚えてるか?」
「覚えているよ」

 何度も忘れようとした。忘れようとしてその絵は記憶の中で色褪せて行ったけれど、構図はいまでも思い出せる。鳥がこの町を見下ろしている風景。ちょうど、学校の屋上から見たようなそれに似ている。実際はもっと高所からだが。

「そうか……それならいい」

 何か言おうとして館山は口を噤む。

「普通だよね。この作品」
「そうだな。普通だ。普通に上手い」

 けどそれだけだ。と言葉の後には続くのだろう。全てを言いきらないけれど何が言いたいのかは伝わる。

「やっぱり僕には」
「おい、あそこ!」

 才能がない。と言おうとしたけれど、その言葉は大河の大きな声に驚いて飲み込んでしまった。

「誰かいるね」
「あれって先輩じゃ」

 校庭に人の影があるが、髪の色からすぐに誰かわかった。キサさんにバイクを爆破されてから大人しくなっていたリーダー格の先輩。左手にスチールの缶を持ち、右手に何かを握っている。暗いうえに遠いので何を持っているのかわからないが嫌な予感がした。

「まさかあいつ!」

 真っ先に行動を越したのは大河だった。

 鉄砲玉のように教室を飛び出して校庭へ向かう。僕らもその後に続いた。

 靴に履き替えることもせずに校庭へ急ぐ。

「なにやってんだ!」
「うるせえ。はなせ!」

 大河ともみ合っていた先輩は手にしていた火のついたマッチを貼り絵に向かって投げる。
次の瞬間には這うような火が起こり、火は腹を空かせた怪物のように貼り絵を飲み込んでいく。

「うそっ」

 唯織は目の前の惨劇に立ち尽くしていた。

「犯罪者の息子が作った作品なんて見たくもねえ」

 先輩は大河に押さえつけられたまま笑い混じりに喚いていた。

 もうどうしようもない。何も手にしていない僕らに炎を消す術はなかった。このまま炎にのまれて灰となるのを見ているしかない。穏やかだった心に再び暗澹とした感情が芽生え始める。

「どけ」

 火が炎になるのを茫然と眺めている僕らをどかして、館山は消火器で消火剤を散布する。白い粉のようなものが火にかかり勢いは弱まるが、完全に消し切れていない。

「何が犯罪者の息子だ。勝手なこと言いやがって」
「大河! そんなやつ放っておけ!」

 馬乗りになった大河は石のような拳を先輩に容赦なく振り下ろす。

 傍で冷静さを失っている人間を見ると意外と正気に戻れるもので僕は館山が用意した消火器の安全ピンを抜いて駆け寄る。

「大河はダメだ。僕が手伝うよ」
「わかった」

 風上に立ち火の根元に向かって消火剤をかける。2本での消化が功を制したのか、それとも火の手が上がってから比較的にすぐであったことが幸いしたのか、火の勢いは弱まっていき、最終的に抑え込むことになんとか成功する。

 大きな火災にはならずとりあえず安堵する。

 それでも貼り絵の左下部分が焼けてしまう。

 まるで巨大な手で千切られたような姿になってしまった。

「みんなで作った作品台無しにしやがって! 何が楽しい!」
「大河! もうやめろ!」

 冷静さを失った大河はまさに野生の熊のようにのしかかって一方的に殴り続けている。先輩の方はとっくに気を失って泡を吹いていた。

 今さら、大河が熊と呼ばれた本当の理由を思い出してしまう。背が大きいとか、大らかだとか、ではない。大河はキレると誰にも手がつけられなくなるのだ。

「いい加減にしなさいよ!」

 バケツを持った唯織が本来なら消化のために用意した水を大河の頭に向かって思い切りかける。

「そんな奴殴っても意味ないじゃない」
「わかってる。でも、許せないんだ。普通、壊して良いものと、悪いものの区別くらい出来るだろう。壊れちまったら……元には戻せないじゃないか」

 怒り狂っていた大河は今度はぼろぼろと涙を流し始めた。

「もう。大きな男が泣かないでよ」

 みっともなく泣き顔を見せる大河の頭を叩いて、沈痛な面持ちで視線を足元に向ける。

 壊して良いものと悪いもの。
僕がこれから破壊しようとしているものはどちらであろうか。焼け野原になった町で大河は再び泣くのだろうか。それとも僕に対して怒りをあらわにするのだろうか。

「聞いてんのか?」

 ぼうっと考えていると館山に肩を叩かれる。

「ごめん。聞いてなかった」
「直せそうか」

 焼けてしまった個所は錆びた看板や、倒れて錆びた信号機、壁に穴のあいた古民家など、古く朽ちた物を描いた場所だ。

 今は完全に焼け落ちてしまっている。

『お前のこんな絵は認めない』

 誰かにそう言われているような気分だった。

 自分でもそう思っていた。

 何か違うと。こんなものでは僕は認めてもらえないと。
 
 何かが足りない。それを教えてくれる人は僕の傍にはもういない。

 考えている時間的余裕はない。
 
 こんなことならキサさんがしたようにいろんな色で塗りつぶして……

「そうか……」

 目の前の作品が色を失っていき、やがて違う色に塗りつぶされていく。

「そうだったのか」
 
 忘れようとして本当に忘れてしまっていた。

 自分の才能は描くことではない。

「このままにしよう」
「は? お前何を」

 館山は理解できないと言いたげに僕を睨む。

 焼けてしまった部分を見て人々は何を思うのだろう。それは各々によって違う。

 見る人の解釈によってこの作品は完成する。

 今回は時間がないから、そうせざるを得ない。自分の目には全く違う色に塗られた作品を前に悔しさが込み上げてくる。

「これで良いんだ」
「まあお前がそれで良いって言うなら俺は良い」
「私も朱鳥がいいなら反対する気はない」
「俺も」
「じゃあ、みんなを説得するのを伝だってくれる?」

 騒ぎを聞いて多くの生徒達が駆けつけてくるのが見える。僕一人ではあの数の生徒を説得する方法が思いつかない。

「しょうがない。やるわよ」
「俺は断る。こいつを駐在につきだす必要があるからな」
「逃げんな」
「逃げてねえよ。俺がいたら皆が委縮するだろうが。で、大河はどうする。一緒に行くか?」
「行く」

 鼻声の大河はのそりと立ち上がると先輩を軽々担ぎあげる。

 その後の説得にはかなり難儀した。苦労して作った作品が壊されたのだ、感情的になっている生徒もいたし、泣きだす生徒もいた。それでも説得することができたのは、唯織の人望もあってだろう。本当に納得がいっている人数は半数もないと思う。

 もちろん、その後に祝賀会の続きなんて出来るわけもなく、その日はその場でお開きなる。

 僕らも戸締りをしてから学校を後にした。

 長かったような短かったような一日が終わって行く。夜が明ければ、予餞会当日であり計画実行の日でもある。

 あんな事があったからなのか僕たちの足取りは重く、話しだす機会も失っていた。

 結局何も話さないままに、別れ道のとこまで来てしまう。

「朱鳥は本当にあれで良かったって思ってる?」
「ごめん」

 僕の告白に唯織は安堵ともとれるため息を漏らす。

「でも、手抜きをしたわけじゃないんだ。直さなかったのは本当にそっちの方が良いと思ったからで」
「わかってる。私も何となくだけど直さない方がいいと思ったし。朱鳥が納得していないのは別の事でしょ?」
「どうしてわかるの?」
「わかるよ。幼馴染だもん。それに私は朱鳥の作品のファンだから」

 吹っ切れたように笑顔を見せる。それでも、口の端は悔しそうに強く結ばれていた。

「ごめん。うまくできなくて」
「いいよ。私は朱鳥がもう一度、向き合ってくれただけで嬉しいから。それじゃあまた明日、おやすみ」
「おやすみ」

 別れの言葉を言ってそれぞれの道に歩き始める。

 これは僕が逃げ続けていた報いだ。芽生えた悔しさは誰の所為にもできない。

 だからもう一つ、今度は間違えない為にやらなきゃいけないことがある。

 僕は唯織が見えなくなったのを確認してからポケットにしまっていたスマホを取り出す。

『話があります。会えませんか?』

 決心が鈍る前に送信ボタンを押す。

 僕は確かめなくてはならない。この計画の本当の意味を。

 僕らが仕掛けていた爆弾が何を壊そうとしているのか。

 待っている間、僕は一睡もできずに、天井と睨めっこを続けていた。日付はとっくに今日に変わり、そろそろ東の空が明るくなり始める時間だ。

 キサさんが言うには決行日は今日であるが、時間の指定まではされていない。つまりいつ爆発してもおかしくないのだ。

 今この瞬間に爆発してしまえば、僕らは瓦礫の下敷きになる。

 キサさんがそんなことをしないと僕は信じている。しかし、仕掛けた爆弾が誤った目的で仕掛けられたのならば、それを正せるのは僕しかいない。
それを確認しようにもキサさんと連絡が取れないようではどうしようもなかった。

 もう一度、メッセージの確認をするがメールは届いていない。

 こんなもの窓から投げ捨ててしまいたい。

 このまま逃げきろうとするなんてずるい。このまま本当に姿を現すことなく消えてしまうのだろうか。

 ふてくされて毛布にくるまっていると、断続的に何かが震える音がする。

 それが着信であることにようやく気付いて慌てて手に取る。相手はもちろん一人しかいない。

『もしもし? もしかして寝てた?』
「寝てないです」
『久しぶりだね。電話をするのはなじめてだね』
「はい」

 耳元で囁かれているようでくすぐったくなる。そんなことを考えている場合ではなかった。

「今どこですか?」
『久ぶりの再会にコメントはなし?』
「まだ再会していませんから。会って話がしたいです」
『積極的だね』

 キサさんはいつも通り、呑気な話し方をする。決行日が今日だというのに声に全く緊張がない。

『でも何のために会うの? 後は待つだけだよ』
「聞きたい事があるんです」
『電話で駄目なのかい?』
「駄目です」

 ちゃんと目を見て本心を聞き出したい。逸る気持ちを抑えて冷静に答えているつもりだが、キサさんは僕の気持ちを持て遊ぶように答えを返してくれない。判断しかねているのだろう。僕がただ寂しさに負けて連絡をよこしたのか、そうでないのか。

「キサさんがこの町に復讐をしたいのは誰のためですか?」

 電話の向こうで息を飲む気配がする。

「本当は何を壊す気なんですか?」
『学校の屋上で待っているよ』

 平坦な声でそれだけ言って電話は切れた。

 これでキサさんと会えるのは最後になるかもしれない。クローゼットを開けて制服に着替えていると、ふと白いマフラーが目に留まる。キサさんと出会った日に借りたままになっていた。それを首に巻くと微かにキサさんの匂いが残っていた。

 それからさらに奥にしまい込んであった白い筒状に丸められた紙を取り出す。

 これを取り出す日がくるなんて思いもしなかったけれど、これが僕らが出会う最初のきっかになっていることは間違いない。

 これで最後だ。この町を本当の意味で壊せるかは僕にかかっている。


 学校に着く頃にはだいぶ空は明るくなっていたが、まだ日の出の時間ではなかった。

 施錠したはずの校門は鍵が外されて開けたままになっており、左下端が焼かれた巨大貼り絵を横目に屋上を目指す。昇降口の扉も開けたままで、僕を手招きしているように思えた。

 この先にキサさんはいる。

 そう考えると心臓が早鐘を打ち呼吸が乱れる。

 屋上の扉を開けると、町の風景を背景にしてキサさんは缶コーヒーを片手にフェンスに寄りかかっていた。いつも着ていたカーキ色のロングコートを纏って立つ姿はモデルのように綺麗で芸術的でもある。

「久しぶりの再会に見とれているのかい?」
「あまりにも綺麗だったので」
「ありがとう」

 こんな話をしに来たわけではない。武骨な起爆スイッチを持っている可能性も考えていたが、手にしているのは缶コーヒーだけ。それも僕が近づくと床に置いてしまう。

「それにしてもたいそうなものになったね。君の絵は」
「納得してないですけどね」
「だろうね。焼かれて少しましになったかな」

 厳しいことをきっぱりと言う。やっぱり玄人からみたらあの作品は駄作なようだ。残念だがこれが現実だ。僕にはやはり才能がない。

「それで、電話の問いに答えてもらえませんか?」

 気を取り直して本題に入る。今は僕の絵の評価を聞いている場合ではない。

「朱鳥ためだよ。なんて言ったら私凄く格好悪いね。これは個人的な復讐であり、芸術だよ」

 キサさんは振り返って町を見下ろす。

「そして壊すのはこの町の凝り固まった概念だ」

 東の山から太陽が顔を出し、暗く沈んだ町を照らしはじめる。上空では白い渡り鳥が結末を見届けようと旋回していた。

「僕たちが仕掛けていたあれって、本当に爆弾ですか?」

 キサさんは何も答えずに僕に視線を戻す。答え合わせはこれからだ。

「こんな町を吹き飛ばしても芸術はできませんよね」

 この町の人間は殻に閉じこもって盲目になり、何も変わろうとしない。それは僕も同じだった。いくら小さな町だといっても町一つを爆破すればテロリズムと化してしまう。それはもはや芸術ではない。そういった過激な思想はないわけではないけれど、キサさんはそうではないと一緒に過ごしてきた時間が証明している。

 だったらどうして、この爆破を芸術と言ったのか。

 それは仕掛けていたのが爆弾ではなかったからに他ならない。

「キサさんの本当の目的は芸術の町を復活させることですね」

 僕の絵を現実にする。それが目的の根幹であることは裕司さんも言っていたので嘘ではない。

 なら問題はどの絵を現実にするかだ。

「こんな絵を本当に現実する気なんですか?」

 僕は持ってきた筒状に丸められた紙をキサさんの足元に投げる。風に弄ばれ広がったそれは拙い線で描かれた一枚の絵。

 ちょうど、上空を旋回している白い渡り鳥から見た風景を小学生の僕が想像して描いたもの。ただ、その絵に塗られている色は多種多様な極彩色で彩られており、およそ自然に存在しているようなものではなかった。

 キサさんは足元の絵を拾うとまじまじと見つめて口角を上げる。

「正解だ。よく辿りついたね」
「こんなの無理ですよ。それにどうやって再現するんですか?」
「私を誰だと思っている?」

 まっすぐに僕を捉える目の色が変わっていた。

 本物だけが持っている目の色に圧倒される。

「私は君が憧れる芸術家だよ」

 その言葉を合図に遠くの方から何かが弾ける音が響く。

 その音は爆発というには軽く、つい先日どこかで聞き覚えのある破裂音だった。


「始まったね」
「何がですか?」
「仕掛けた爆弾が爆発したのさ」

 初めの音を皮切りに次々と破裂音が追随する。その音は山にぶつかり反響し町を包み込んでいく。まるで町全体が大きな生き物となり声を上げて空気を振動させているようであった。産声のような空気の振動が全身に伝わってくる。

「さすがにあの量だとかなりの音だね」
「いったい何が起こってるんですか?」
「見ればわかるよ。そのためにここに呼んだのだからね」

 キサさんはフェンスから身を乗り出して町を見下ろす。僕もそれにならって町を見下ろすと、そこには想像もしていない光景が広がっていた。

「町が変わっていく」

 先ほどから続いている破裂音の正体はペイント弾であった。一軒一軒に大量に仕掛けられたペイント弾は照射されるたびに弾けて、周囲に極彩色を撒き散らしていく。

 言ったとおり、僕の描いた絵が現実になっていた。

「ちなみに、これ生放送中だから」

 いたずらな笑みを見せたキサさんはスマートフォンで動画配信サイトを見せてくる。映像から推測するにここのさらに上から撮っている。よく見れば給水タンクの上に完全防寒着姿の須藤さんが待機していた。

 なんだかんだあの人も振り回されて大変そうである。

 その後も町の全てを極彩色に染めるまで爆弾は爆発し続けた。廃れた田舎町はあという間に変換を遂げる。それは芸術の町と呼ぶにふさわしい風景だった。

「復讐完了だね。この動画もかなりの人が見ているし、今日にも大勢の人が訪れるだろうね」

 慌てふためく町の人達を想像したのか、キサさんはお腹をかかえて笑いを堪えている。

 僕は茫然と一変してしまった町を眺めていた。

 あれほど破壊したいと思って、頭の中で破壊し続けた町はもうない。

 子供が気のままに色を塗り重ねたような規則性のない色配置は僕の中で眠っていた好奇心を惹き起す。

 僕はあの頃を忘れようとして、忘れ過ぎていた。

「絵画の世界に決まった色は存在しない」

 あの絵画教室で教えてもらった唯一のことを思い出して呟く。林檎は赤、草は緑、そうやって型にはめ込んでしまうと絵は途端に表情を失う。

「やっと思いだしね」
「これを伝えるためにわざわざこんなことしたんですか?」
「どうだかね」

 本当のところはどんなに問い詰めても頑なに語らないだろう。

 撮影を終えた須藤さんが寒さに震えながら給水塔を下りてくる。唇まで真っ青で本当に気の毒になる。

「そろそろ時間です」
「そうか」

 結局、僕はこれからどうするのだろう。今は圧倒的な才能の前に打ちひしがれ、先の事を考えられそうにない。

「えーっと、鳥海朱鳥くん。あなたに伝えなくてはいけない事があります」

 キサさんは咳払いをすると口調を改めて姿勢を正す。

「コンクールの応募ありがとうございます。しかし、未完成の作品を送ってこられても評価に困ります」

 急に何を言い出すのか理解に苦しむ。コンクールに応募? 僕はそんなこと。

「破壊の衝動をそのまま表現することは大変よろしいですが、色が塗られていなければ評価のしようがありません。以上」
「唯織が送ったやつか」
「やっぱり。君が送るわけがないか」

 大げさな態度で肩をすくめる。

「私はあのコンクールの選評の仕事をしているわけでさ、はじめ君の名前を見た時は期待したんだけどね。蓋を開けてみたら未完成なんだもの。頭にきちゃうよ」
「それでいきなり飛び出されても困りますけれど」

 すかさず須藤さんが非難の声を上げる。先ほどの扱いも含めて抗議しているように見えた。

「つまり、キサさんは僕の絵を見てここに来たということですか?」
「そうだよ。君があまりにもふざけた絵を描いているからね。ま、本人は真面目に描いていたようだけれど」

 責めるような視線を僕に向けると一枚の紙を渡す。

「来年はちゃんと完成した作品を頼むよ」

 渡された紙は来年度のコンクールの応募用紙だった。入選者は表彰のためにパーティに招待される趣旨が書かれている。あの夜の返事はその時にしてくれるということだろう。

「じゃあ僕からも」

 ポケットからスマートフォンを取り出してマフラーを外す。

「これ返します」

 キサさんと繋がっていないのであればこれはゴミと同じだ。マフラーは未練を残さない為に返した方がいいだろう。それにこんな物がなくてもまた会うつもりだ。僕はキサさんのことを思い出にする気はない。

 言葉の意味が伝わったようでキサさんは不敵に笑う。

「それじゃ」
「はい」

 特に別れの言葉も交えずキサさんは去っていく。

 いまここで想いを伝えなかったことを後悔する日が来るかもしれない。けれど伝えたところであの人は、僕のことをまだちゃんと見てくれていない。

 追いかけるべき背中を忘れないように、強烈に脳裏に焼き込んでいく。迷った時にはこれが標となって僕を導いてくれる。

 今やあの人は憧れだけの存在ではないのだから。





「あいつ大丈夫かな」

「その台詞もう何回目よ。だったらついていけばよかったじゃない」

「そんなこと出来るかよ。バカか?」

「あんたには一番言われたくないんだけど。今まで散々やんちゃしてたくせに」

「はいはい、二人とも喧嘩はやめて。それより西川のじいさん英語習い始めたらしいよ」

「あれから観光客凄いからね」

「親父も施設の建設で大忙しだよ」

「活気が戻ったってことで良いことだよね」

「そうだな。それよりあいつそろそろ着いたころだよな」

「またその話すんの。朱鳥ラブにも程があるわ!」

「ラブじゃねえよ。リスペクトだよ」

「どっちにしても大声で言うことじゃないと思うけど……」





 僕たちが仕掛けた爆弾が爆発して以降、世界がひっくり返ったようになった。

 町はミグラトーレの新作を一目見ようと押し寄せてくるし、誰も住んでいない空家は引っ越しの希望が大量に来て町の行政は一週間でパンクした。

 それでも人間は生きていかなくてはならず、次第に住人は適応していった。今ではミグラトーレに負けまいと、暇な老人たちが自宅庭に変なオブジェを立てたり、米農家は田んぼアートでSNSを騒がせている。

 一方の僕と言えば、

「疲れた」

 初めての人ごみに酸欠気味だった。

 ようやく表彰式の会場になっているホテルに着いた僕はラウンジで項垂れている。

 唯織がかつて言っていた鉄道が何本も重なっているという表現がようやくわかった。地下鉄の路線にどれを乗れば良いのかわからず、何回も間違えてしまう。スマートフォンがあれば迷うことはなかったのだろうな。と一年前のことを違う意味で後悔していた。

「お隣いいですか?」
「はい。どうぞ」

 人混みに酔ってしまったのであまり近くに人を寄せたくなかったけれど、駄目と言って余計なトラブルになっては敵わない。唯織曰く、都会人は短気らしい。ここに来る途中にもぶつかりそうになって、かなり舌打ちをされた。もう帰りたい。

「お疲れですね」
「はい。慣れていないので」
「そうですよね。あんなド田舎じゃ、観光客増えてもここまでは」

 よくやくここで隣に誰が座っているのか気がつく。

「久しぶりだね」
「お久しぶりです」
「まさか本当に来るとはね。たった一年であそこまで腕を磨くのはお見事だよ。無理したんじゃない?」
「追いかけてる背中が遠いですからこれくらい早く走らないと」

 当然、ここにいるということは僕の描いた絵画が受賞したということである。金賞でないのだが、そこは許してほしい。

「ところで日本一高い電波塔には行った?」
「いいえ。もうホテルから出るのは止そうかと」

 表彰式の後は帰る電車はないので、ここで一泊することになっている。正直一歩も出たくない。周囲からの舌打ちがトラウマになりそう。

「もったいないね。見聞を広めることは財産になるよ」
「だったらキサさんが案内してくださいよ」
「それってデートのお誘い?」

 ミグラトーレとしての活動も順調で今や破壊の対象は概念にまで達したと世間は大騒ぎであるが、当の本人はあの日とあまり変わらず僕の事をからかってくる。

「そうですね。デートですね」

 だけど、僕はあの頃のままではない。少しは成長したところを見せつけてやる。

「キサさん」
「なに?」

 耳元であの日に言わなかった言葉をささやく。

 僕が恥ずかしがって顔を赤く染めることを期待している表情は、驚きの色に変わり次第に赤く染まっていった。

「ああ、そう。そうなんだ」

 いい年の大人が高校生に対して顔を真っ赤に染める光景は周りから見たら滑稽に映るのだろう。

「それで返事の方は」
「もう、いいから観光に行くよ」
「その前に表彰式ですけどね」

 耳まで赤くしたキサさんの背中はあの日と全く変わらない。

 芯が強くて魅力的で追いかけずにはいられない。

 その背中に追いつきたくて僕は絵を描いている。

 少しは近づけただろうか。それは僕が判断すべきことではない。

 追いかけ続けているあの背中はまごうことなく憧れで、揺らぐことない恋である。



作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:12

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作品のキーワード

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア