まず二年生の階へ行った。A組とD組を見てみた。そこにはいなかった。
D組には何人か男子がいたので「あの、久保田くんはいますか」と聞いてみた。
けれどいい返事はなかった。
「知らないなぁ。俺、掃除に行ってたし」
「俺もだなー」
いたひとたちからはいい情報が得られなかった。
けれど最後に「今日、部活でもあるんじゃね」と聞いて、美久は「そこかもしれない」と思った。
今日、部活がないのは知っていた。それで快が「水曜日に図書室で」と言ってくれたのだし。
でも快がいそうな場所ではある。急に部活の用事でも入ったのかもしれない。それで部室か体育館に行ったのでは。
よって「ありがとうございます」とそのひとたちにお礼を言って、美久は階段を降りた。
体育館のほうへ行ってみるつもりだった。バスケ部の部室の場所はもう知っていた。何回か待ち合せたり、迎えに行ったりしたことがあるのだ。
もうバスケ部のひとにも美久が快の彼女になったことは知られていたから、「久保田ー、彼女が来たぞー」なんてたまにからかわれてしまうのだけど。
今日もそんなふうに平和に終わるといい、と思った美久。
しかしそんなわけにはいかなかったのだ。
体育館への通路を渡って、体育館のある建物へ。ホールには何人かのひとがいた。運動部のひとたちだ。
そこにはバスケ部のひとたちはいなかった。何人かのひとは顔くらい覚えていたのだけど。
やっぱりいないのかなぁ、部活がある日じゃないし。
美久は思ったけれど、体育館の重い扉を開けて、中を見た。
やはりバスケ部は活動していない。バレー部が活動していた。
じゃあ部室かな。
部室でミーティングなんかが入ったのかも。
思って、扉を閉めて運動部の部室が並ぶ棟へ向かった。体育館から繋がっているのですぐに入ることができた。
両側にドアが並んでいる、運動部の部室。主に体育館で活動する部活の部室がここにあるのだ。
男子バスケ部、女子バスケ部、そしてバレー部。体操部……といった具合だ。
バスケ部は一番奥だ。廊下を進んでいった美久。そのうちバスケ部の部室のドアが見えた。
ドアから明かりが洩れているのが見える。ひとがいそうだ。
ああ、やっぱり急な部活が入ったのかも。
快くんもいるかもしれないよね。
少し前に、『快くん』と呼び方が変わっていて、美久のクセである頭の中の独り言でもそう変わっていたのだけど、それはともかく。
「……」
「……!」
バスケ部の部室のドアに近づくと、声も聞こえた。ドアが少し開いているかなにかで、声が洩れていたのだ。
でもそれはなんだか穏やかではない声の大きさだった。廊下まで聞こえているくらいなのだ。
おまけに漂ってくる空気でもわかる。なんだか険悪な感じ、が伝わってきて。
美久は息を飲んでしまう。
ここで「お邪魔します」とドアを叩くわけにはいかないだろう。今、部外者が入っていいところではない気がする。
そしてそれはその通りだったようなのだ。
思わず美久の足は止まってしまった。
どうしよう。引き返したほうがいいのかな。
快くんがいるみたいだから、終わったら連絡くれるかもしれない。
スマホに『どうしたの?』って送ってるし。
そうしたほうがいい。
思ったのに、美久の足は動かなかった。ひやりと心の奥が冷たくなって。
そこへ聞こえてきた。
「……だから、そういう気持ちなら、転部したらって……」
「そうだよ。……久保田の能力、もっと生かせるところ……あるだろ」
男子の声だった。声だけで誰とわかるほど親しくないけれど、快の名前が出て、どきっとしてしまった。
転部?
穏やかでない話なのがそれではっきりわかってしまう。
快がそこにいて、話題になっていることも。
……転部?
どうしてそんな話……。
美久の心臓がもっと、もっと、ゆっくり冷えていった。
これは聞いてはいけないことかもしれない。いくらドアが開いているらしくて聞こえてしまっているだけとはいえ。
引き返そう。それでどこかで待とう。
美久が思って、一歩後ずさったときだった。
「お前らになにがわかるんだよ!?」
大声がした。
美久がびくりとしてしまうほどに、それははっきりと怒りの声だった。
……快の、声。
美久の心臓が冷凍庫に放り込まれたように、はっきりと凍り付いた。
快がこんな声を出すところなんて聞いたことがない。
いつも穏やかで、優しい物言いをしている快なのに。
大声なだけでなく、まったく声音が違っていた。
「そりゃ俺だって、わかってるよ! でも普通にプレイができてるお前らに言われたくない!」
快の声が続いていく。
その内容は美久にはちっともわからなかった。
でも快の気持ちはわかる。
含まれているのは、怒りだけではなかったから。
悲痛、ともいえる声色。なにか、快の心の中に刺さっていることがあるのだろう。それが痛みになっているのだろう。そして、その部分を部員に言われたくなかったのだということも。
声とその内容だけで事情がわからない美久にも伝わってきた。
ダメ、聞いては、だって、こういうのは快くんから言ってくれるのを、待たないと。
じわじわと思った。
けれど美久の足は動かない。自分が怒鳴られたわけでもないのにショックだったのだ。
そしてそれはどうやら悪かったらしい。すぐに踵を返してその場から離れなくてはいけなかったはず。
バタン!
大きな音がした。
美久はびくりとしてしまう。
ドアが開いた音だった。
そしてそこから出てきたのは快だったのだから。
「お前らとこれ以上、話してもムダだよな! もう帰……」
中に向かってもう一度怒鳴る。美久が見たこともないほど険しい顔だった。
帰る、と言いかけたのだろう、その途中でこちらを見て、美久と目が合ってしまった。
快の顔が驚きになる。
「……美久」
呆然と、美久の名前を呼んだ。当たり前だ、美久がこんなところにいるわけがないのだから。
でも理由はわかるだろう。
快が待ち合わせに行かなかったから。
探しに来たのだと。
そのくらいはわかるはず。
快はドアを開けて、外に出かけたところで止まってしまった。固まった、と言ってもいい。
「……快、くん……」
美久の声は震えた。その声は、快に『さっきの内容を聞いていた』と伝えてしまったのかもしれない。
快はなにも言わなかったから。
どうしたらいいのかわからない。そんな顔になる。
数秒、どちらも動かなかった。
快もそうだったのだろう。どうしたらいいのかわからない。その気持ちは。
数秒後。動いたのは快だった。
ずかずかと、というほど乱暴な足取りで美久に近づいてきた。こんな歩き方も見たことなどなかったので、美久はまたびくりとしてしまう。
多分、動揺していたのだと思う。それから気持ちも荒立っていたのかもしれない。
美久がそのとき思い至ることはできなかったけれど。
普段とあまりに違う快の様子に動揺してしまっていて。
快は美久のそばまで来て、言った。固い声だった。
「待ち合わせ……行かなくて、悪い」
美久は答えられなかった。快が、美久がここに来た理由をわかっているようだったのには、ちょっとほっとしたけれど。
「なんでこんなところに」なんて言われたら違う意味でショックだっただろうから。
でもそのあと言われたこと。
もう一度、美久の心臓が凍り付いた。
「悪いけど……今は……。また、今度でいいか」
やっと言った、という声だった。
美久の答えなんてひとつしかない。
「……うん」
なんとか言った。快はそれにほっとしたのかどうなのか。
「ごめん」
言ってくれたのはそれだけ。すっと美久の横を通過して、行ってしまう。その足取りはやはり普段からは考えられないほど乱暴なもので。
しかしそれは示していた。
快の怒りだけでなく、その中になにか悲しみがあることを。美久は確かに感じたのだ。
美久はしばらくその場に立ちつくしていた。
聞いてしまったこと。
快にそれを知られてしまったこと。
そして、快のこんな様子を見てしまったこと。
すべてに後悔しかない。
どのくらいぼうっとしていただろう。
こんなところにいても、と、はっとして震える足で廊下を戻って、部室棟を出て校舎へ戻っても。
美久の心臓は騒いだままだった。
ざわざわとした嫌な感覚で騒ぐ。
なにがあったのだろう。
そしてこれからどうなるのだろう。
まったくわからなかった。
独りでの帰り道。
どう歩いて電車に乗って帰ったのかもほとんど覚えていない。
気が付いたときには自分の部屋に辿り着いていた。
安心できる場所へ帰ってきて、ほっとしたのだろう。
ほぅ、と息をつく。
とりあえず落ちつかなくてはいけないことはわかる。
そうでなければ、快と話をすることなんかできやしない。
スマホを見てみたけど、快から連絡はなかった。
なにか送られてきたら返事をしようと思ったのだけど。
でも美久のスマホは、その夜一晩、鳴ることはなかったのだった。
その夜は眠れなかった。
夕方あったことが頭の中をぐるぐるしていて。
快のあんな姿、初めて見た。
いつも穏やかで優しくて……そういう面ばかり見ていたのだ。
でも快が持っているのはきっとそれだけではなかった。それをいきなり見てしまったのだから驚いて当然だと思うのだけど、今までちっとも知らなかったことについては後悔もある。
そしてある意味、それより重要なこと。
快の抱えている『事情』。
思えば最初から『なにか事情があるんだろうなぁ』と思っていたのだ。
図書室に通っていることも、合同体育のレクリエーションでちょっとだけプレイをしてすぐ引っ込んでしまったのも、たまに見せる物悲しいような表情や様子も。
端々から感じ取っていたのに、美久は毎回突っ込んで聞くことはしなかった。
当時はただの知り合いや友達だったのだから、軽々しく聞いていいことだとは思わなかったのもある。
けれど今はもう彼女になったのだ。知り合いや友達よりずっと近い関係だ。
だから聞く資格はあったのだと思う。むしろ知っておいたほうが良いことだった。
でも自分はそれをしなかった。
眠れないままに布団にくるまりながら、美久は思って息が詰まるような思いを感じていた。
機会がなかっただけともいえる。
軽いことではないだろうから、快から話してくれるまで待ったって悪くはなかったとも思う。
でも、いきなりあんな展開になってしまったのを、こっそり聞いたようになってしまったこと。
わざとではないにしろ、いいタイミングでなかったのは確かなことだ。
眠れないまま時間だけが過ぎていく。
美久は、はぁ、とため息をついた。真っ暗な部屋の中。月のひかりも届かない。
誰かに相談したいと思ったけれど、これに関しては他人に相談するのははばかられた。
親友である留依にも、だ。おまけに留依は、快のことを知っていても転校してきて数ヵ月しか経っていないのだ。だから事情を知っているはずもないし、そこへ聞かれても困ってしまうかもしれない。
だから、今のところ美久は誰かにこのことを相談するつもりはなかった。
でも一人で抱えているつもりもない。
快と話をしなければなのだ。そして事情や快の気持ちを聞かなければならない。
そりゃあ、このこと……おそらくバスケ部に関する重要なことだろう。このことに関しては、快の問題で美久は関係ないのかもしれない。
でも恋人としてはまるで無関係なわけはないから。恋人の持つ事情を知らないなんて良くないことだし、美久はそういう冷たい人間にもなりたくなかった。
それに快は言ってくれた。
『また、今度でいいか』と。
それは話してくれるつもりがあると、そういう気持ちで言ってくれたのだろう。
今度、落ちついた状態で話してくれる、と。
だから今の美久はそれを待つのが一番いいことだと思った。
けれどやきもきしてしまったり、悶々としてしまったりするのはどうしようもなくて。
その気持ちが美久を眠れなくしていた。
私は快くんの立派な彼女でいられてるのかな。
そんなことまで心配になってしまう。
それは『快が決めること』であり、美久が思い悩んだところで変わらないのだけど……。
思考はぐるぐる巡るばかり。
おまけにちっとも楽しいことでも面白いことでもない。
カーテンの隙間から太陽の白いひかりが差し込んできて、朝が近づいてきていると感じられたときは、心底ほっとした。
ぐるぐる悩んでいても仕方がない。
待つのだ。美久のほうだって、落ちついて待たないといけないのだ。
そうでなければ、快の軽くはない『事情』。ちゃんと受け止めることなんてできないだろう。
そのときは意外と早くやってきた。
放課後、今日は図書室での待ち合わせはない。だって昨日が水曜日だったのだ。
今日は木曜日。快はバスケ部がある日だ。
そして美久のスマホはやっぱり沈黙したままで。普段なら少なくとも「おやすみ」か「おはよう」のどちらかはあるのだったがそれもない。この状況では仕方がないだろうが。それでも寂しくなってしまう。
なのでまだ快も準備ができていないだろうし、することもあるだろうからと美久は放課後、文芸部へいくことにしていた。
コンテストへ小説を出したので急いですることはない。けれど過ごしていて楽しい場所なのは確かだから。自分も気分転換になるといいと思った。
でも文芸部へ行くことはなかった。
午後の最後の授業が終わったとき。授業が終わってざわざわしているA組へ来客があったのだ。
それは快。
こんこんとドアを叩いて、顔をのぞかせた。
冬休み明けの席替えで廊下側の席になっていた美久はすぐにそれに気付くことができた。
どきんとする。
快が用事があるのは自分だろう。そう感じられたからだ。
「美久。今日、時間あるか?」
美久が気がついてこちらを見てくれたと知って、快は近づいてきた。
そして言われたのはお誘いだった。
快の顔は固かった。昨日の表情ほど険しくはない。けれど今までとは明らかに違っていた。
美久はごくりと唾を飲んだ。きっとこれからなにか話してくれるのだ。
文芸部へ行くつもりだったのだが、それは明日とか……また今度にしようとすぐに決めた。別に今日は全員収集もかかっていない。休んだところでそれほど困らないだろう。
「うん。大丈夫だよ」
美久の言葉に快は笑った。でもやはりそれはどこか固い表情のままで。
「ありがとう。じゃ、一緒に帰るか」
帰る道すがら、会話はぽつぽつとしかなかった。それもどうでもいいものだ。
今日の授業が楽しかったとか、でもちょっとわからないところがあったとか、じゃあ今度一緒に図書室で復習してみようとか。そんなこと。
美久はそわそわしていたけれど、自分がそわそわしていることを快もわかっていただろうなと思う。
そして快本人はもっとそわそわしていただろう。
それを探り合うような帰り道だった、なんて思ってしまう。
快が向かったのは駅だった。
けれど構内へ入ったものの、通過してしまう。
どこへ行くのかな。
思った美久だったけれど、快が向かったのは、逆側の出口を出て少し歩いたところだった。
「座って話せるから」
行き場所に関しては快はそうとしか言わなかった。美久はただ快についていくしかなかった。
そして着いた公園。夕方なので子供たちが遊んでいた。
けれど離れたところにある遊具で遊んでいるようで、こちらを気にした様子はない。
ちょっとほっとした。
入り口から公園内へ入っていった快が示したのはベンチだった。
「寒い中、悪いけど」
美久は首を振る。
「ううん。外のほうがいいんでしょう」
お店などで話すことではないかもしれないし、そういう雰囲気も似合わないのかもしれない。だから外でも構わない。
「うん、まぁ、そう、なんだ」
快の言葉は濁った。快らしくない物言いだ。
昨日から、快の知らなかった面をいくつも見ている、と思いつつ美久はベンチに腰を下ろした。快も隣に座ってくる。
「まず、謝らないといけないことがあるんだ」
快の話はその言葉ではじまった。
謝らないといけないこと、なんて美久にはちっとも心当たりがなかった。けれど快の言葉を聞いて、なんとなく思い至ってしまった。
「美久にはちゃんと話しておくべきだった。こんなことになる前に」
それは昨夜、眠れないうちに美久が考えたことだった。
自分もちゃんと聞いておくべきだった。
同じだ。思っていたことは。
でももう起こってしまったことは仕方がない。タイミングが悪くても、もう、今、現実になってしまっているのだから。
「ごめんな、俺の思い切りが悪いせいで」
「ううん。……。……」
謝ってきた快の顔は固かった。美久は小さく首を振った。
けれどそのあとどう続けていいのかわからなくなってしまう。
なにか言おうと口を開いたけれど、なにも出てこなかった。
それを察したように、快が言う。
「情けない話だけど、聞いてくれるか」
美久はその言葉に心底ほっとしてしまったのだった。
ずるいことかもしれない。自分から聞きもしないで。
でも快から話すか、それとも美久から尋ねるのかが正しかったのかなんて、今はもうやはりわからない。
だから聞く。快が話してくれることを。全部。
「うん。聞かせて」
美久が聞く体勢に入ったことに安心したのか。快の顔がちょっとだけ緩んだ。すぐ元の固い表情に戻ってしまったけれど。
「俺、バスケ部のマネージャーだって言っただろう。でも喜んで務めてるわけじゃないんだ」
美久は息を飲みたい思いで聞いていった。
快の『事情』を。
美久に話さなかっただけあって、きっとほとんどひとに話していないことなのだろう。
「一年の半ばくらいまではプレイヤーだった。選手だったんだ。自分で言うのもなんだけど、中学時代は毎回試合に出てたし、下手じゃなかったと思う」
快はどっかりとベンチに腰を下ろした姿勢で、手を組んだ。パズルをするように両手を組み合わせる。まるでそこに答えがあって、それが解けずにいるように。
美久はそれをただ聞く。
「一年のときは当たり前だけど選手なんかできなかったよ。入学したばっかじゃ先輩にかなうわけないだろ。でも二年になったら絶対選手になってやるって思ってたし、そのために頑張ってた」
快はそこで美久をちょっとだけ見た。美久はどきっとしてしまったけれど、快は目元だけで笑った。すぐ前を向いてしまったけれど。
「でも俺はバカだったのかもしれないな。頑張りすぎて……怪我、しちまったんだ」
美久は息を飲んだ。
怪我。
快はひとことで言ったけれど、きっとそれはとても大きなものだったのだろう。
「それがあまりいい経過じゃなくて……リハビリとかもしたんだけど、……うん」
つまり、怪我が原因でプレイができなくなった、ということだろう。
それで今はマネージャーをしていると。
そしてそれなら快が『喜んでマネージャーを務めてるわけじゃない』という気持ちに繋がるのだろう。
しかしそこで美久は、あれ、と思った。
プレイができなくなったのなら、もう秋のことだが合同体育。レクリエーションのバスケ。
あのときは一体……?
「あの」
口をはさんでいいものかちょっとためらったのだけど、美久は声を出した。
疑問を持ったままというのも良くないと思って。
「うん?」
快がこちらを見る。
ちょっとどきどきしつつ、これは心臓が冷えそうなどきどきであったが、美久は聞いた。
「秋の合同体育……出てなかった、っけ」
美久の言葉を聞いて、快は目を丸くした。
「ああ……」
もう随分前なのだ。懐かしそうな声になる。
そしてそれはどこか悲しげであった。
「まるでできなくなったってわけじゃないんだ。実際、日常生活に支障はないし、あのとき合同体育で出たくらい短時間なら問題ない」
確かに、と美久は思った。
怪我をしたと聞いた割には、そもそもどこにも不自由なところは見えない。
日常生活、図書室で会ったり話したり出掛けたり……そういうときだって、そんな様子はまったくなかったのだ。
しかし快はそこで動いた。
右腕に左手で触れる。右腕の肘だった。
美久はそれで察する。怪我をしたというのはそこなのだろう。
「でも、強度がなくなっちまったんだよ。ハードな運動ができないんだ」
美久は目を丸くしてしまった。
強度。
美久はスポーツをしているわけではないから、詳しいことなどなにもわからない。
けれどなんとなくは想像できる。
バスケは激しく動くスポーツだ。腕ではボールをドリブルして、運んで、パスして、そしてシュート。めちゃくちゃ『ハード』である。
おまけにそれは一時間近く続くのである。通してプレイをするならハードどころではない。
全部わかった。
あのとき快が少しだけコートに入ったことも。
何故か急いているような様子だったのも。
長くプレイができないから、その中で少しでも結果を出したいとか、そういう気持ちだったはずだ。
美久が理解したのはわかってくれたのだろう。快はまたこちらを見てくれた。
安心させるように微笑んでくれる。
でもそれは心からの笑みとは言いがたかった。
その証拠にすぐに顔を前に向けて、独り言のように続けたのだ。
「ただ……半端にできるのが悪いのかな。なんか、思いきれなくて。なんとか頑張ればまたプレイができるんじゃないかって。そういう、ありもしないこと考えて悶々としてたんだよ」
快の気持ち。
痛いほど伝わってきた。
美久にはやはり実感としてはわからない。
けれど、大切なものを失ってしまって、でもカケラだけは手元に残っている。そういう状態なのだろうな、と想像することはできた。
丸っきり失ってしまうより、それは厄介かもしれなかった。
「だから図書室に通って、バスケの次に好きな本でも読んで、気晴らしでもしようと思ってた」
それは快が図書室にいた理由だった。
魔法学校の本が置いてある、棚の前。初めて会ったあのとき、快がいたのはそういう理由だったのだ。
「こういう事情だ。話さなくて悪った」
快はこちらを見て、ちょっと頭を下げた。そんなふうに謝ることはないのに。美久は迷惑をこうむったわけでもないのに。
美久はしばらく黙ってしまった。
どう言ったらいいのかわからなかったのだ。
快の抱いているつらい気持ちとか、自分で言ったような『悶々とするような』気持ち。
わかるよ、なんて言えない。自分はそういう経験をしたことがないのだから。そんな半端な慰めのようなことは言いたくない。
でもなにか言わないと。
考えて、出てきたのは、つまらない言葉だった。
「つらかった……ん、だね」
言ってから後悔した。なにを、そんなこと快が一番わかっているじゃないか。
美久の心臓が冷えた。もっと快を理解したり励ましたりするようなことを言うべきだったのに。こんなことしか出てこなかったなんて。
しかし。
「……ありがとう。そう、だな」
快の声が震えた。ぎゅっと拳が握られる。まるで泣きたいのを我慢しているような様子と声だった。
もしかして、悪くはなかったのでは、ないか。
美久はつまらない、と思ってしまった言葉が間違いなどではなかったことを感じた。
そうだ、理解することはできない。
でもその痛みに寄り添うことならできる。
口から出てしまったこと。快にこういう反応をされてやっとわかった。
美久はごくっと唾を飲む気持ちでおなかに力を込めた。
言うべきこと。今度はわかって言葉に出す。
「話してくれて、ありがとう」
快がこちらを見た。今は微笑んでいなかった。
「快くんの、深いところにあることでしょう。話してもらえて、とても嬉しい」
自分の気持ち。それを伝えたい。