「あれ? 桐生さん? それに……」
立っていたのはあかりとその何人かの友達。たまたま出くわしたのだと思ったのは数秒のことだった。
美久はわかってしまう。これは自分を待っていた……というか、待ち伏せのようにされていたのだと。
そこから理解した。あの子が「先生は体育館前で待ってる」と言ったのも嘘だったのだろう。
美久を職員室からこちらへこさせるための、罠だったのだ。
そして待ち伏せのようなことをされた理由。
あかりに「ちょっと時間ある?」と聞かれたことでそれも理解した。
時間ある、なんて聞いてきた割にはそれはほぼ強制だった。「こっち」と促されてしまう。美久はそれに従うしかなかった。
急に心臓が冷えてきた。なにをされるのだろうか。
暴言を吐かれるのかもしれない。殴られたりするのかもしれない。
そんなことに縁などなかった美久はなにが起こるかもわからずに、おろおろするしかなかった。
ただ、はっきりと恐ろしさが這い上がってくる。
あかりとその友達数人によって、体育館脇まで連れられてしまった。こんなところ、普段は誰も通りかからない。余計に恐ろしくなってしまう。
そこであかりは、じっと美久を見つめた。美久は踏みとどまったものの、内心は数歩後ずさったような気持ちを感じていた。
美久がびくびくしているのを感じたのだろう。あかりは余裕ありげな様子で、でも冷たい声で言った。
「綾織さん。快に近付かないでくれる?」
思った通りのことだった。最初に快と街中で過ごして、帰りの駅であかりに出くわしてから。
事あるごとに面白くないような視線を寄越されていた。
その理由がこれというわけである。
「ち、近付く……なんて」
美久はやっと口を開いた。でも声は震えた。今のものは純粋な恐ろしさからだ。こんなふうに囲まれて問い詰めるように言われて、怖くないはずがない。
「話しかけたり髪型変えたりさぁ」
「あからさまなのよ」
周りの子が口々に言った。それは確かにその通りだった。
近付いている、なんて嫌な言葉で言われるいわれはないけれど、話しているのも、髪型を変えたのも、それは事実だ。
でもあからさま、なんて。そう思われているということは。
「きれいになれば久保田くんも振り向いてくれる、って期待してるわけ?」
一人の子が言って、それは美久の頬を赤く染めさせた。
振り向いてくれる、なんて。勿論、恋愛的な意味であるに決まっているだろう。
好きだとか、恋をしているだとか、まだ美久の中でははっきりしていなかった。
けれど気になっているのは確かだったのだ。だからすぐ「違う」とも言えない。
美久の反応で、とりあえず快に好意を持っているのは知られたのだろう。あかりはじめ、その場の子たちが鬼の首を取ったようになる。
「そんなわけないじゃん。快は見た目をちょっと変えたくらいで釣られるような男じゃないって」
あかりのあとに、ほかの子も追撃してくる。
「それに、髪型変えてコンタクトつけたくらいじゃ、顔は変わらないしね」
「やだー、言いすぎだよ」
悪口まで言われて、美久の心に今度は怒りが生まれた。もう一人の子がそう言ったけれど、明らかにフォローではなかったことも手伝って。
面白がっているのだ。この状況を。
顔立ちのことなんて言われる筋合いはない。
以前の美久だったら怯えて「ごめんなさい」と謝ってしまっていたかもしれない。
でも今の美久は違う。
ひとはすぐにそんなに変われるはずはない。恐れて、謝って済ませてしまいたい気持ち、今の美久の中にもたっぷりあった。
でももう一歩、二歩。確かに進んだのだ。ここで「ごめんなさい」なんて言ったら後戻りだ。
だから口を開いた。
「ごめんなさい」ではない言葉を言う。
声はやっぱり震えてしまったけれど。
「き、桐生さんは……久保田くんと、付き合ってる、の?」
もしそうであれば、美久の返事は決まっていた。
「邪魔をしてごめんなさい」だ。付き合っているのなら、確かに快に近付くのは良くないことだろうから。
友達付き合いが悪いとは思わないけれど、それは彼女である子には失礼だから。
「幼馴染みよ。昔から知ってるの」
でもあかりの答えは違っていた。付き合ってはいないのだ。
ただ、美久はわかった。
あかりは快のことが好きなのだ。そしてそれはきっととても深い想いなのだろう。
片想いをしている相手の近くにほかの女の子がいるようになれば、面白く思わなくて当然。
その気持ちは美久にもわかる。
ただ……それなら美久に文句をつける理由にはならないだろう。
「でも今の快は誰かと付き合ったりしてる余裕はないの」
なのにあかりは続けた。もっともらしく聞こえる理由を。
それで美久が『あかりの片想いを優先させて、身を引く』と思ったのだろう。美久が引っ込み思案でおとなしい性格なくらい、もう同じクラスで長いのだからよく知られているし。
でもやっぱり。
ここで理不尽に負けたくない。
美久は思った。
見た目を変えたこと。
それは美久に勇気をくれることだった。
こんなことを言えば、恐れていたようにいじめられたり、殴られたりするかもしれない。
それでも、美久がためらったのは数秒だった。震えるくちびるを動かす。
心臓は冷えていたけれど、ここで逃げてしまったら後悔する。その確信が美久を奮い立たせた。
「それは……」
絞り出した。あかりがちょっと眉を寄せる。
その瞳を見つめた。
もう、クリアに見えるようになった視界で。
まだ声は震えていたけれど、美久は言い放った。
「それは桐生さんじゃなくて、久保田くんが決めることだと思う!」
美久が反撃するようなことを言うとは思わなかったのだろう。あかりの目が丸くなった。
以前の美久なら怯えて「ごめんなさい、ごめんなさい」と言っていたから、その通りになると思っていたのだろう。美久を捕まえて、文句をつけはじめたときと同じだ。自分のほうが力があって、上だと思っていたのだ。
その美久が噛みつくようなことを言うなんて、という顔をしていた。
でもその顔はすぐにしかめられる。不快だ、という気持ちが顔いっぱいに広がる。
「そんなこと……。少なくとも私はあなたよりは快のことわかってるわよ! あなたに言われなくたってわかるんだから!」
その理屈は無理があった。けれどあかりはそう言うしかなかったのだろう。
引くつもりも、美久を追い払う気もなかっただろうから。
でも美久だって、逃げるつもりはない。お腹の下に力を込めて、逃げたい気持ちを必死にこらえた。
しばらく、あかりと美久は睨み合っているという状態になる。沈黙が落ちた。
周りの子が戸惑っているのが感じられた。まだ優位に立っている、という気持ちも伝わってきたけれど。
なにしろ美久は一人きりで、あちらは複数なのだ。余裕があって当然。
数秒後。不意にあかりが動いた。
殴られるのか。
美久は流石にびくりと体を震わせた。
けれどあかりのしたことは違っていた。
美久の腕を掴む。その力は強く、美久は思わず呻いた。
そんな美久の腕をあかりは無理やり引っ張った。どこかへ連れて行く、という仕草を見せる。
なに、いったい、どこへ。
思ったけれど、「やめて!」と振り払うことは、今度はできなかった。腕を握られたことで恐怖が生まれてしまったのだ。
「わからないなら、ここで思い知ってもらうから」
連れられたのは、そばにあったドアだった。
なに、ここ。
美久は知らないところだった。あかりのしようとしていることを知ったらしく、一人の子がそのドアを開けた。
中を見て、美久はそこがなにかを知った。
なにか、学校の整備に使う用具が入っている倉庫のようなところだ。
そしてどうされようとしているのかも知った。
……閉じ込められようとしているのだ。
心臓が一気に冷えて、美久は今度こそ抵抗しようとした。
「やめ、こんな……っ!!」
でも美久が抵抗するより早かった。あかりが美久の腕を離すやいなや、ドン、と美久の体を突き飛ばした。
「やっ……!」
美久は思い切り用具室の中に突っ込まれた。勢いが良すぎて、どさっと床に倒れ込んでしまう。頭などを打たなかったのは幸いだろう。
その美久をあかりは冷たい目で見降ろしてきた。
「自分が図々しくて無力だってこと、思い知るといいわ」
恐ろしさが美久の身を満たした。あかりの言ったことよりも、こんなところへ閉じ込められそうになっていることが。
だって、もうすぐ夕方になる。学校から誰もいなくなってしまうだろう。
誰か来てくれるかもしれないが、その保証なんてない。恐ろしい。
「やめて! こんなこと……」
「じゃ、ね。大丈夫よ。明日の朝には用務員さんが仕事に来るだろうから」
それだけ言い残して、無慈悲にもドアは閉じられた。バタン、ガチャンと音がする。鍵をかけられたらしい。
まさか、最初から、自分が抵抗すればこうするつもりで。
美久はやっと思い知った。呆然とする。
こんなことになるなんて思わなかった。
やっと起き上がって、座る。今さらながら体が震えてきた。
恐ろしかった。あかりのことも、周りの子のことも、言われたことも、突き飛ばされたことも、閉じ込められたことも、全部。
がくがくと震える体を抱きしめる。
入り口を見たけれど、内側から開けられそうなツマミなどはない。それはそうだろう、用具室にこもるひとなんていやしない。外からしか鍵はかからないし、開けられないのだ。
うすうすわかっていたけれど、目にしてしまって絶望した。
用具室は真っ暗ではなかった。上のほうに窓があって、そこから夕方になりかけのひかりが差し込んでいる。
あそこから、出られるかな。
ぼうっと思ったけれど、高すぎる、とすぐ思った。
なにか、倉庫の中にあるものを積み上げたら窓に届くことはできるだろう。そして脱出できないこともない大きさの窓だ。
でも、外に出るのはいいが、そこから地面にはどうして降りるのか。飛び降りれば確実に怪我をしてしまう。足を折ってしまうかもしれないのだ。
想像して、美久はもう一度ぶるっと震えた。
一体どうなってしまうのだろう。
美久はへたりこみ、ぼうっとし続けるしかなかった。
明日の朝になれば、用務員さんが来る、と言っていた。だから閉じ込められたまま誰にも見つからずに死んでしまうということはないだろう。
でも一月の寒さの中だ。風邪を引いたり体を壊したりということはあるだろう。
それに水も食べ物も、トイレもない。すぐになにかしら困ったことが起こってしまうことは想像できた。
どうしよう。
けれどいい考えなど思いつくはずもなく。どのくらい経ったのだろうか。
多分十分程度だったのだろうが、美久にとっては既に永遠にも思えてしまった。
と、そのとき。
不意にがたっと音がした。
美久はびくっと震える。
なにか落っこちたのだろうか。棚にあったものとか、積んであったものとかが。
もしくは猫でも入りこんでいたのだろうか。
でもそうでないことはすぐにわかる。
がたがた、と音がして、それは近付いてきているようだったのだから。
ひっと声が洩れた。まさか、誰かいるのだろうか。
助けてもらえる可能性もあったけれど、こんな密室では恐ろしい。悪いひとである可能性もあるのだ。
しかし。
ああ、美久にとってこれは神様からの手助けともいえるようなことだった。
「あれ、綾織さん? こんなところでどうしたんだ?」
奥から顔を見せたのは、快だった。なにかの道具を手にしている。
久保田くん!?
美久は幻覚を見ているのではないかと思った。
不安と混乱のあまり、幻覚でも。
でもどうやら幻覚ではなかったようなのだ。
「……どうしたの?」
美久が床にへたり込んでいるのを見て、おかしな事態だと知ってくれたらしい。不思議そうな顔になった。
そしてゆっくり近付いてきて、そっと美久の前にしゃがんだ。
「なにか、あったのか?」
この時点で快は、この倉庫が閉じられ、鍵までかけられたということはわかっていなかったに違いない。なのでまだ余裕があったのかもしれないが、美久にそっと手を伸ばした。スカートの上で握っていた手に触れる。
そのあたたかくてしっかりした感触。美久の体を震わせた。
助かるわけではない。解決するわけではない。
けれど、一人じゃない。
胸にそれが迫って、じわっと染み込んで、それは雫になった。
ぼろぼろと涙が零れ出す。
あかりと対峙して、恐ろしくなったときも出なかったのに。
突き飛ばされて閉じ込められたときも出なかったのに。
安心と不安が混ざり合って、ぼろぼろと涙になってしまったのだ。
「大丈夫だ」
快は泣きだした美久の手をぎゅっと握ってくれた。彼にはまだ理由も状況もわからないだろうに、美久を力づけるように。
「大丈夫だから。話してくれ」
その手のあたたかさと優しい言葉に、美久の心があたたまってくる。
恐ろしさや不安に凍り付いていた心が少しずつ緩んでいって。
今度は違う意味で涙が零れたけれど、快に触れられていないほうの手で、ぐっと拭う。
「うん」と、小さく頷いた。
「なんだそりゃ!? じゃ、俺たちはここに閉じ込められたってことか」
事情を聞いた快は目を丸くした。それは当然だろう、こんなところに閉じ込められた、なんて事実を聞かされたら。
「ごめんなさい、私のせいで……」
ひと通り事情を話した美久は目を伏せた。ここへ閉じ込められたのは自分のせいではないが、快を巻き込んでしまったのはどうやら自分のせいらしいのだ。
快はバスケ部で使う道具を取りに、この用具室へやってきていたそうだ。探すのに手間取って、奥のほうまで探して……としていたので、入り口での出来事は気付かなかったということだ。
美久も同じだ。あの状況に戸惑いすぎていて、奥に誰かひとがいるなんてこと、思いつきもしなかった。
でもわかっていれば「ほかのひともいるんだから!」とあかりを止めることができたかもしれない。そう思ってうなだれてしまったのだけど、快はきっぱりと否定した。
「綾織さんのせいじゃないだろう! くそ、あかりめ……なんてことしやがる」
言いつけるようで気が引けたのだが、言わないわけにはいかない。あかりとその友達によってここへ閉じ込められてしまったのだと。
快は『信じられない』という顔をしたものの、美久に嘘をつく理由なんてないのだ。
それに快だって、少しは感じていただろう。自分が美久と仲良くすることで、あかりが面白くないと感じていたことだって。それほど鈍いひとではないから。
「しまったな……鍵を持ってくればよかった。ああ、でも結局内側からじゃ鍵があっても無意味か」
快も動揺していたらしい。そのように言って、すぐ自分で否定した。
「窓から出られるかな」
快は立ち上がって、美久と同じように、窓から出られないか考えたらしい。窓の様子を見ると言った。
そこにあった棚に足をかけて「よっと」と窓へしがみつく。美久はそれを見てはらはらしてしまった。
落っこちてしまったらどうしよう。怪我をしてしまうだろう。
けれど快は落ちることはなかった。
でも解決策も見つからなかったらしい。
しばらく窓から外を見ていたけれど、首を小さく振って、慎重に降りて戻ってきた。
「ダメだ、出られないことはないだろうが、外が問題だ。この窓からだと、建物の二階から飛び降りるくらいには高さがある。飛び降りるのは無謀だと思う」
「そう、……だよね……」
快は美久の隣へきて、どさっと腰を下ろした。積んでいたマットらしきものに座っていた美久の隣へ座る。
「綾織さんに怪我をさせるわけにはいかないからな」
言ってくれたこと。そんな場合ではないのに、美久の胸を高鳴らせてしまった。
自分のことを心配してくれるのだ。こんなときなのに。
そしてこんなときなのに思い出してしまった。
ここへ閉じ込められることになった発端の、あかりたちとのやりとりだ。
『きれいになれば久保田くんも振り向いてくれる、って期待してるわけ?』
それで自分は詰まってしまったけど、と美久は思う。
詰まってしまったのは、否定なんかできなかったから。
すぐに否定できないほどには、自分の中に、快に対する気持ちがあること。
皮肉だが、あれで思い知らされてしまった。
自分は快のことが好き、なのかもしれない。
再び思ってしまって、顔が熱くなった。
こうして二人きりで密室になんている。
それを意識してしまって、急に緊張してきてしまった。もう快と隣同士で座っても緊張などしなくなっていたというのに。状況が違いすぎる。
美久の様子をおかしく思ったのか、快がちょっと顔を覗き込んできた。美久の心臓がどきりと跳ねる。
「どした? 具合でも悪いか?」
また気遣われてしまった。でもそれは誤解だ。
「うっ、ううん! ただ、どうしたらいいのかなって……」
それも本当のことなのでそう言っておいた。快も眉をしかめて「うーん……」とうなる。
でもいい考えなどあるものか。
入り口と窓のほかに出られそうなところなどない。
そして一番運の悪いことに、二人ともスマホをここへ持ってきていなかったのだ。
美久は学校ではいつもそうするように電源を切って通学バッグにいれたままであったし、快は快で部活中にスマホを持ち歩くものか。同じく部室に置いてきてしまったと言っていた。
つまり外との連絡手段はまったくない、ということだ。
「朝になれば用務員さんが仕事に来るって言ってたけど……」
美久の言ったことは希望でもあり、絶望でもあった。
「そうか、じゃあずっと閉じ込められたままはない、ってことだな」
「そうだと……思う……」
「用務員さんが来るなら、戸締まりをしに、もしかしたら来るかもしれない。それか先生とかが見回りに来るか……」
それは希望的観測であったけれど、ありえないことではない。快は、ぱっと立ち上がった。ポケットからなにかを出す。
それはペンライトであった。
「奥は暗いから、探し物をするのに手間取るかと思って持ってきておいたんだ」
そう言って、どうするのかと思えばもう一度窓のところへ行った。よっと、と同じように棚に足をかけて窓を掴む。
美久はよくわからないままに見守るしかなかったのだけど、すぐに理解した。
快はペンライトをつけて、窓の外に向くようにセットしたのだ。
そして、よっと、とまた降りてきた。美久の隣へ戻る。
「こうすれば不自然に明かりが見えるかもしれない。そしたら、気付いてくれるひともいるかもしれない」
確実ではなかったけれど、見つけてもらえる可能性が少しだけ上がった。美久も少しだけほっとする。
「かもしれない、ばっかで悪いけど、見つけてもらえるといいな」
でも明かりが見えるということは、あたりが暗くなってしまうということだ。
夜までここにいるのだろうか。
いや、運が悪ければ一晩いることになるのだけど……。
快と。
一晩、二人きりになるというのか。
違う意味でどきどき心臓が騒ぎだした。
そんな場合ではないというのに。
今のところできることは終わってしまった気がする。
ほっとしている場合ではないが、とりあえず焦っても仕方がない。二人ともマットの上で力を抜いた。
そして座ったまま力を抜いてから気付く。ぶるっと体が震えた。
寒い。
日が落ちてきて、気温も下がったのだろう。一月の、暖房もない用具室だ。風は当たらないといっても、夜になれば冷えるだろう。
美久が震えたのを感じたのだろう。快は美久を心配そうに見た。
「寒いか?」
気遣ってもらえたけれど、だからといって出られるわけではない。美久は笑ってみせた。強がりだったけれど。
「う、うん……大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないだろう。……やっぱり、冷えてるじゃないか」
そっと手に触れられた。冷えを確かめるためだというのに、どくんと美久の心臓は跳ね上がってしまう。
「女子はスカートだしな……」
確かに。女子制服はスカートなので、長ズボンの男子制服より寒さを感じやすいだろう。美久は以前は長めだったスカートを、少し前から丈を詰めていた。
留依に「このくらいなら怒られないよ」と教えてもらったのだ。「適度に短いほうがかわいいからさ」と。そのときは嬉しかったし、実際そっちのほうがかわいかったので満足していたのだけど。
今ばかりはちょっと後悔した。
「脚も冷えるだろ。……これ、かけとけ」
唐突に快は身を起こして、ジャケットを脱いだ。美久は驚いてしまう。
ジャケットを差し出されても、すぐにはわからなかった。でもブランケットのように脚にかけておけ、と言われたのがわかる。
「え、そ、そんな、久保田くんが寒いよ」
ジャケットなしでは快が寒いに決まっている。
なのに快は「ほら」と促してくる。
「大丈夫だ。今日は厚いセーター着てきたから」
それが本当なのかはわからないけれど、確かに快はセーターを着ていた。ベージュのシンプルなセーター。
促されているのに「いいよ」と二度言うのも悪い。
美久はおそるおそる、手を出した。快がジャケットを渡してくれる。
ためらったけれど、美久は自分の脚にそれをかけた。
ほわっとあたたかさが伝わってくる。それはジャケットをかけたあたたかさではなく。
残っていた、……快の体温、だ。
実感してしまって、かっと体が熱くなった。顔も赤くなっただろう。
体温をこんなふうに感じてしまうなんて思わなかった。
無性に恥ずかしい。
でも、……嬉しい。
じんわり美久の心に染み込んでいった。
快の体温やジャケットで脚を覆ったことによるあたたかさだけではない。
自分にジャケットを貸してくれた、快の気持ちが。
そのあたたかさは美久にまた実感させてしまった。
このひとのことが好きだなぁ、という。ほんのり想っていた気持ちを。
とても優しいこのひとのことを。
「ありがとう。……あったかい」
ちょっとためらったけれど、あったかい、と付け加えた。体温を指しているようで恥ずかしくなったけれど、快はただ、にこっと笑った。
「そりゃ良かった。しっかりかけておけよ」
「うん」
それからぽつぽつと話した。外はもう薄暗い。腕時計をつけていたので時間はわかる。午後の五時半になろうとしていた。
下校のチャイムももう鳴るだろう。
本当に朝まで誰も助けに来てくれないのかな。
思ったけれど、今は何故かさっきよりは不安ではなかった。
それはジャケットのあたたかさが伝えてくれたからかもしれない。一人ではないから、と。
快と一緒なら、本当に一夜誰も助けてくれないことになっても大丈夫だろう。
「ほんとにごめんな、あかりのやつが……」
ぽつぽつと話すうちに、心底すまなそうな顔で謝ってくれた。まったく快のせいではないというのに。幼馴染みといっていたのだから、快も責任を感じてしまったのだろう。
「ううん、桐生さんも久保田くんのことを心配してるのはわかったから……」
今、少し落ちついているからかあかりのことを悪く言う気にはならなかった。
そりゃあ、こんな、ひとを用具室に閉じ込めてくるなんて良くないことだ。突き飛ばされたのもある。助け出されたら先生に言って、叱ってもらうことは当たり前だろう。
でも、あかりの気持ちもわからないことはないから。
好きなひとがほかの女の子と仲良くしている。その面白くない気持ちというのは。
実際、あかりが言っていたのもある。
『でも今の快は誰かと付き合ったりしてる余裕はないの』
それは確かに、快を思いやっての言葉だろう。
自分の叶わない片想いと、美久を邪魔にする気持ちを正当化する言葉だったのかもしれない。
でもまったく根拠がなければ、こんな言葉、出るだろうか。
だから引っかかっていたのだ。どうして余裕がないというのだろう。
付き合う、というのは美久の気持ちをちょっと恥ずかしくしてしまったけれど。
快への気持ちを自覚してしまった今では。
だって、好きだということは、そのあとは付き合いたい、という思考になって当然だから。
「まぁ、それはあると思うけど……でも度が過ぎるから……」
快は困ったように言った。快自身も『それはある』と言った。つまり心配される要素があるということだ。
だけど美久は困ってしまう。快に「どうして余裕がないの?」なんて聞けるものか。
快にはなにか事情がある。それは前から色々な場面で感じていたけれど、自分が聞いていいことではないとも感じていた。だから今回も美久は聞かなかった。「そうだね」とだけ返事をする。
「それに綾織さんの言う通りだよ」
ふと顔をあげて快は美久を見た。随分暗くなった用具室の中だけど、これだけ近いのだ、顔ははっきり見えた。
快の瞳は美久をまっすぐに見つめていた。優しい色の瞳が何故か今はちょっと固いように見える。
「俺がどうするかは俺が決めることだ。いくら幼馴染みだとかいっても、余裕がないとか決めつけられるいわれはない」