あかりはしばらく黙っていた。周りにいた子たちもちょっと張りつめた様子で見守っている。
 やがて手を出した。美久の手から、袋をひょいっと取ってくれる。
「ありがと」
 言われたのはそれだけ。すぐにさっさと「ね! 部活、行こ」とほかの子のほうへ行ってしまった。
 でも美久はほっとした。美久だけでなく、周りの子たちも同じだろう。その場の空気が緩む。
 周りにいたあかりと仲のいい子たちにも「良かったら」と渡していきながら、美久はほんのりあたたかいような気持ちを感じていた。
 ただの友チョコだけど。
 あかりが少なくともクラスメイトとしては、うまくやろうとしている、と言ってくれたように感じられたから。
 そのあとは呆気ないほどに教室からはひとがいなくなっていった。
 それはそうだろう、みんな『用事』があるだろうから。
 彼氏がいる子はデートがあるだろうし、片想いの子は……あるだろう、告白とか。そういうものが。
 つまり、みんな『好きなひと』に会うのである。
 恋の行方がどうなるかはわからないし、それぞれであろうけれど、とても素敵な時間だと美久は思った。
 ただチョコレートが行き交うだけではない。
 行き来するのはもっと大切な『優しい気持ち』だ。
 そして美久がその『優しい気持ち』をあげたいひと。
「お待たせ」
 こんこん、と、教室の開いていたドアが叩かれる。そこに立っていたのは勿論。
「快くん!」
 帰り支度をすっかり整えた、快であった。
 椿の花もそろそろ終わりである。真冬が見ごろだから。
 だからここの椿を見に来るデートも終わりに近づいているのかもしれない、と美久は思った。
 帰り道に、例の椿の遊歩道へ行った。静かに話せるからだ。
「椿もそろそろ終わりかな」
 駅を出て、遊歩道に入って、回りを見て歩きながら快が言った。その声はちょっと寂しそう。
「そうだね。でもあと半月くらいで桜になるよ」
 ほら、と美久が指差したもの。それは桜の樹。遊歩道の両脇に植えられている桜は、どれも大きくて立派なものだ。
 あと半月もすれば、きっと。
「お、もうつぼみが……」
 快も気付いたようだ。声が明るくなった。
 半月先ではまだ色づいてもいない。
 けれど枝の先に、小さいけれどしっかりとした確かなふくらみがついている。
「咲いたら見に来たいな」
 美久の言ったことには、笑みと、きゅっと握られる手の感触が返ってきた。
「ああ、来よう」
 椿を見ながら遊歩道の奥まで来て、ベンチに辿り着いた。幸い、ひとはいなかった。
 腰かけて、美久はバッグに手を入れた。
 快もなにが出てくるかはわかり切っているだろう。それでもちょっと構えるような空気が漂う。
 美久も同じだったけれど。なにしろ付き合っているひとにチョコを渡すなんて初めてなのだから。喜んでくれるとわかっていても、緊張はしてしまう。
「快くん、これ、もらってくれる?」
 差し出したのは箱だった。平たい箱。
 箱にはピンク色の包み紙に、赤いリボンは二重。薄い赤と濃い赤の細いリボンが重ねて結ばれている、とても凝ったラッピング。
 勿論、留依が提案して手伝ってくれたものだ。この特別な日にふさわしいものになったと思う。
「ありがとう。すっげぇ凝ってるな」
 快は驚いたような声を出して受け取ってくれた。手の上のそれを、まじまじと見つめてくる。そう見られてはちょっと恥ずかしいのだが。
「留依ちゃんが手伝ってくれて……」
「そうなのか」
 それで留依と一緒にチョコを作ったのだとか、ラッピングは留依が提案してくれたのだとか話した。
 その間に快は「開けていいか」と聞いて、中身を見てくれて。
「うまい……」
 ひとくち食べて、感嘆の声で言ってくれた。噛みしめるような声だった。
「……ありがとう」
 快に手作りのものを食べてもらうなんて初めてだった。美久はくすぐったくなってしまう。
 心から言ってくれているのがわかるのだ。味見はしていても口に合うかはわからなかったから、おいしいと思ってくれたことに、ほっとする。
「美久はお菓子作り、得意なのか?」
「う、うん。割と好きなの」
「じゃあ今度、また作ってくれよ」
 そうまで言われては嬉しくなってしまう。心の中がぽかぽかしてきてたまらない。
 チョコも半分ほどなくなった。快は「残りは家でじっくりもらうな」と蓋をした。確かに一度に食べるにはたくさんだったから。

 今ならいいかな。

 美久は思って、心の中でごくっと唾を飲んだ。
 そうしてからバッグにもう一度手を入れる。
「快くん、あの」
 チョコの箱を軽く包み直して自分のバッグに入れたところである快に、声をかける。快が何気ない様子でこちらを見た。
 その瞳を見たことで、急にどきどきしてきてしまった。
 だけど、これはとても大切なこと。
 美久はもう一度、心の中でぐっと力を入れて。

「これ、もらってくれる、かな」

 あるものを差し出した。
 それは封筒だった。薄いピンク色で、小さな赤いリボンをつけている。
 こんなラッピングのようなことをするほど価値があるものなのか、美久に自信があるかといったら、あまりなかった。
 少なくとも、チョコにラッピングしたときに比べたら随分少ない。
 けれど剥き出しで渡すような軽いものではないから。
 だから、ちょっとだけ飾ってみた。
「なんだ?」
 快は不思議そうな顔をした。けれど手を出して受け取ってくれる。
「あの、……読んでくれるって、快くんに言ってもらった……」
「え! あの小説か!?」
 美久の説明に、快の目が丸くなる。声も高くなった。
「そ、そんな、たいしたものじゃないけど……」
「いや、そんなことないだろ! えっ、すげぇ楽しみにしてたんだよ。見ていいか?」
 目の前で広げられるのは恥ずかしかったけれど、見て欲しい気持ちも確かにあって。たっぷりすぎるくらいあって。
 美久は「どうぞ」と言った。
 快は留めていたテープをていねいにはがして封筒を開ける。中からそっと、紙の束を取り出した。
 いや、これは紙の束ではない。
「えっ。……本じゃないか、これ」
 手にした快もすぐに気付いたらしい。もう一度目を丸くする。
「え、ううん! ただ、まとめて留めただけだよ!」
 自分ではそう言ってしまったけれど、思っていた。
 『本』の形にしようと。
 勿論、お店で売っているようなものは作れない。どうやって作るのかも知らない。
 だからスマホで調べて、ミニ冊子といえるようなものの作り方を知って、それにしようと思って。
 中身を家のiPadで苦戦しつつ整えて、コンビニのコピー機で刷った。それを折って、何枚か重ねて、真ん中をホッチキスで、ぱちんと留めただけだ。
 だから本当に立派なものではない。
 けれど、……頑張って作ったのは確かだから。
 未熟でも『本』にしたいと思ったのも確かだから。
「こんなすごいもの……もらっていいのか……?」
 快は手の中のそれを、しみじみと見つめた。その声も言葉も、持ってくれる優しい手も、すべて快がこれを大切なものとして扱ってくれているのが伝わってくる。
「快くんに手にしてほしくて、作ったんだよ」
 だから、気持ちはするっと出てきた。
 快の顔も綻ぶ。
「ありがとう。すっげぇ嬉しい」
 それから快はぱらぱらと冊子をめくってくれた。「ちょっと長めだし、それに目の前で書いたものを読まれるのは恥ずかしいから……」と美久は言い、快は「じゃあじっくり読むのは、家で、にしよう」と言ってくれた。それで簡単にめくるだけにしてくれたのだ。
「すごいな……こんな長くて、ちょっと見ただけでもすげぇ面白そうだ」
「あ、ありがとう……」
 書いたもの。こんな形でひとに見せるのは初めてだった。
 見てくれるひとが快で、本当に良かったと思う。
 見てもらえる自分のほうが幸せだと思ってしまう。
「そ、それでね」
 美久が言いかけたとき、ちょうど快の手は最後のページにかかったときだった。
 どきんと美久の心臓が高鳴る。
 その最後のページに載せたものは、自分で書いたものではないのだ。
 なにを載せたかというと……。
「コンテスト、やっぱり落ちちゃった。でも、作品にコメントをもらえたの。選評……っていうんだって」
「選評……!?」
 快の目が、もう何回目かわからないほど丸くなる。
 そこにはこう書いてあった。

 『飾らない文体が素直で好感が持てます。
  具体的なエピソードがより目立つように、ほかを控えめにすると良いでしょう』

 それだけ。たった二文。
 でも美久にとって、自分の書いたものをこんなふうに、公の場で褒められたことなんて初めてだったのだ。嬉しくてならなかった。数日前、文芸部で発表されて先生からその紙を受け取ったときには、夢ではないかと思ったくらいだ。
「……すげぇ」
 快の視線はそれを最後まで追い、最初へ戻り、また辿っていった。
 その視線は自分を見られているようで、くすぐったい。
 誇らしい評価。快に見てもらえて、おまけにすごいと評してもらえたら。
「すごいじゃん! 頑張ったんだな」
「う、……うん。がんば、った」
 手放しで評価されて、美久は違う意味でもじもじしてしまう。
 嬉しすぎて心臓が熱くてとまってしまいそうだ。
 頑張って書いてよかったと思う。努力が報われたのもそうだし、快に恥じない自分になれたとも思う。
「読むのがますます楽しみだ」
 改めて言われてしまって、またくすぐったさが増えてしまう。
「ひ、一人で読んでね!?」
「当たり前だろ。ほかのひとに見せるなんて勿体ない」
 そんなやりとりをしたあとに、ふっと笑ってしまった。自分も、快も。
「ありがとう。見せてくれただけじゃない。こんな立派な形にしてくれて」
 快の手が、閉じた『本』の表紙をなぞった。優しい手つきで。
「俺、前に言ったよな。デートに行ったときだけど、『なにか記念になるものが欲しい』って」
 美久はすぐに頷く。
 勿論覚えていた。
「うん」
 どきどきしてくる。快もあれを覚えていてくれたのだし、それにこの口ぶりでは。
「すごいもの、もらっちまったな。記念どころじゃない」
 どきんと心臓が高鳴ったけれど、それは嬉しさにだ。快がくれた評価にだ。
「記念になるようなものに、できたかな」
 どきどきとする胸を抱えつつ言ったけれど、快ははっきり言った。
「できてるどころじゃないよ。最高のものだ」
「……ありがとう」
 もはや泣き笑いしたい気持ちを美久は感じる。こんなよろこびを感じたのは初めてかもしれなかった。
「私が頑張ってきたことだから……これで、快くんに少しでも分けられたらって思って」
 でも美久は笑った。花の零れるような笑みになっただろう。
 気持ちは伝わったはずだ。快が頷いてくれたから。
「ああ。……勇気、分けてもらったな」
 再び本に視線を落として、軽く撫でる。そうしてから、不意に美久に向き直った。
「美久」
 その声は落ちついていて、でも何故か、どこか固くて。
 美久は不思議に思った。
 けれど、直後わかってしまう。かっと頭の中が一瞬で煮え立った。
 快の手が静かに美久に触れる。やわらかな頬へ。
 優しく包み込まれて、撫でられた。
 どくっと心臓が跳ねて、そのままばくばくと速くなってしまう。
 どうしたらいいかなど、わからなかった。理屈としてはわかっても、こんな場面に初めて直面すれば。
 なにも反応できなかったけれど。
 美久が嫌だと思わなかったのは伝わってくれたのだろう。快の瞳は固いまま、でもふっと緩んだ。まつげが落ちて、その優しい瞳が隠される。
 そして次のことは一瞬だった。
 くちびるにやわらかなものが触れる。
 まるでまだ早すぎる春風になでられたようにあたたかかった。
 そしてふわっと漂ったのは、チョコレートの甘い香り。
 甘い春の風は、一瞬で過ぎてしまった。
 そっと顔を引かれて、美久はまだばくばくと速い心臓を抱えたまま、間近の快の瞳を見つめるしかできなかった。
 快の瞳はまだ固かった。それはそうだろう、快だって緊張しないはずがないから。
 快の手が動く。美久の前髪に触れた。
 すぐにわかった。そこにつけているのは、金色の星のついたヘアピン。
 今日にふさわしいと思ってつけてきたものだ。気付いてくれたらしい。
 その通り、快は愛おしそうにそれを見つめて、軽く髪を撫でてくれた。
 それから手は移動する。さっきと同じように頬へ。
 優しく撫でられた。大きな手がやわらかく美久の頬を包み込む。
「美久が好きだ。優しいところも、強いところも、全部」
 あまりに嬉しいその言葉。
 初めて交わしたキスも。
「……うん」
 夢を見ているような気持ちで美久はただ答えた。ありがとう、と言葉にすることも思いつかないくらい、目の前の快でいっぱいだった。
「だから、その勇気。分けてもらったから、俺も頑張れる」
 それは決意だった。
 快の瞳。
 その奥にははっきりと、強い決意が宿っていた。
 二月ももうすぐ終わる。三学期の終わりも近づいてきた。
 二年生も終わるということだが、なにしろあと一年はこの十色高校での日々は続くのだ。美久も、そして多分周りの子たちもそうだろうが、あまり構えてはいなかった。
 いよいよ最高学年で受験生である三年生になるというちょっとした緊張はあるけれど、それでも卒業や入学などはなのだ。ある意味呑気な年だといえる。
 だから月末にレクリエーションの球技大会があったときも、体育の授業の延長のような気軽さだった。
 けれど今回のものは学年末。秋のものより規模が大きく、学年全体でのものになった。
 選べる種目まである。
 あのときと同じバスケだけではなく、バレー、サッカー、ドッジボール……好きなものに出ることができた。
 美久は運動部ではないので、部活と同じ種目を選ぶということはない。ひとが足りないというのでドッジボールに出た。
 運動は苦手ではないし、それに。
「綾織さん!」
 不意に名前を呼ばれた。そちらを向くと、同じチームにいた子が美久に向かってボールを振りかざすところで。
 美久は一瞬で理解した。どきっと心臓が高鳴る。
 でもすっと腰を落として、手を出した。小さく頷く。
 ヒュッとボールが飛んできた。美久に向かって、まっすぐ。
 それをしっかり捕まえて、持ち直して、美久はすぅっと息を吸い込んだ。
 前を向いて、ボールを持った手を大きく振りかざして。
 コートの自分の正面にいた子に向けて、投げる。敵チームの子が目を丸くして、とっさに手を出すのが見えた。
 パシッと小さな音がした。その子がボールをなんとか受け止めた音。
 取られてしまうだろうか。美久の心臓が一瞬ひやりとしたけれど、その子の手からボールは落ちた。
 ぽろっと零れて、とんとんっと転がっていく。
 ピーッと笛が鳴った。
「やったぁ!」
 隣から美久に飛びついてきた子がいた。それは留依。一緒にドッジボールに参加していたのだ。
「綾織さん、すごいじゃん!」
 パスを投げてきた子もやってきて、逆から肩を叩いてくれる。
 その子がパスを投げてくれたのは、敵チームを狙うのに美久が一番いい位置にいたからだ。
 けれど前までの美久にだったら、その子はパスを投げてくれなかっただろう。美久が受け取れないと思うのではなく、受け取る気構えができないだろうと思っただろうから。
 でも信じてくれた。
 それはその子が優しかったのもあるけれど、自分が変わったことで得ることができた信頼でもあるはず。
 今の美久なら、はっきりそう思える自信がついていた。
 ふと、視線をコートの外に向けると、見ている生徒たちの中に、快がいるのが見えた。
 美久が快に気付いた、と向こうも気付いてくれると、その瞳がふっと緩んだ。音は聞こえないけれど、ぱちぱちと手を叩いてくれる。
 美久の心がかぁっと熱くなった。
 見ていてくれたのだ。自分のプレイを。格好良くできたところを。
 誇らしかった。
 にこっと笑う。ぐっと拳を握って、ちょっと持ち上げた。
 それだけ。
 でも快は同じように、にっと笑って、同じ仕草をしてくれたのだった。
「ほら美久! まだ時間あるよ!」
 留依に呼ばれて、美久はコートに向き直った。
 プレイ時間はあと五分ほどだろうか。このまま持ちこたえれば、美久たちのチームの勝ちとなる。気は抜けない。
 美久の意識はすぐに試合に集中していった。
 その様子を快が優しい目で見つめている。
 立って見てくれていた快が制服姿であった、意味。
 美久はなんとなく、わかるような気がしていた。
「今日、大活躍だったじゃん」
 帰り道。今日はなんだかあたたかいような気がしていた。
 スポーツをして実際に体があたたまったというのはあるだろうけれど。
 レクリエーションの日だったので、夕方になる前には学校が終わってしまった。よって、早めに帰れることになる。
 いつも通り快と待ち合わせて帰り道を歩きはじめながら、快が褒めてくれた。
 美久はそれににこっと笑う。
「ありがとう!」
 快も同じように笑顔になる。
 今日はまっすぐ帰る予定ではなかった。せっかく時間があるのだ。ちょっと寄り道をしようということになっていた。
 ひと駅、隣だと言われて、駅からいつもと違う方向の電車に乗る。
 ひと駅なのでほんの五分もしないで着いてしまう。
「こっちだ」
 快はこのへんのことも知っているようだ。美久に手を差し出してくれた。
 美久はその手を取る。
 どこかに連れて行ってくれるようだ。
 どこなのか、なにがあるのかはわからないけれど、きっと素敵なものがあるのだろう。
 思って、美久は手を引かれるままについていった。
 そして快が行きたかった場所と、その目的を知る。
「わぁ! もう咲いてるの!?」
 着いたのは河川敷。大きな川が流れていて、太い樹がたくさん植えてあった。
 そしてそこに広がっていたのは、薄いピンク色だった。
 まだ満開なはずがない。五分(ごぶ)咲きくらいでちらほらとしたものだ。
 でも五分咲きだって早すぎるだろう。だってまだ二月だ。
 春が近づいているとはいえ、どうして。
「『河津(かわづ)桜』っていうんだ。学校とかに植えてあるのはソメイヨシノだけど、それより一足早く咲くんだよ」
「そうなんだ。二月にもう桜が見られるなんて思わなかったなぁ」
 快の説明で納得して、また感心してしまった。
 桜のことなど自分は知らなかった、と改めて思う。
 自分が知らなくて快が知っていること。また、その逆も。
 たくさんあるだろう。
 それを共有して分け合っていけたら、どんなに素敵なことだろう。
 下に降りて、桜の咲く道を歩く。まだ半分ほどしか咲いていないのだから、ほとんど散ってこない。
 ただ、桜の花を見上げながら歩くだけだ。
 でも頭上にうつくしいピンク色があるというだけで、特別過ぎる光景で、場所であった。
「美久」
 不意に、快が名前を呼んできた。美久は何気なく振り返って、ちょっと目を丸くした。
 快は固い瞳をしていたのだから。
 あのときと同じ。
 決意のこもった、強さを持った瞳だ。
 すぐにわかった。
 快の中で変わったこと。そしてそれを伝えてくれるために、ここへ連れてきてくれたのだろうということ。
「バスケ部、辞めてきた」
 静かに言われたこと。
 それは驚いてしまうような事実かもしれなかったのに、美久の心は落ちついていた。
 大切なことを言われる緊張はとくとくと胸を騒がせているけれど、心の中は静かだ。
「……そうなんだ」
 辞めてきた、とは言われた。
 けれどそれがマイナスの意味ではないのが伝わってくる。
「やりたいこと、見つけたんだ。だからそっちに集中したいと思う」
 そこから快が話してくれたこと。
 河川敷に立って、桜の下、流れていく川を見ながらだった。
「バスケのコーチングの勉強をしようと思うんだ」
 快はバスケ部を辞めた、と言った。
 けれど出てきたことはやはりバスケだった。
「やっぱりバスケが好きだから。プレイができないなら、違う形で携わりたいと思った。そこでコーチを目指すのはどうだろうと思ったんだ」
 それは快の計画。
 きっと高校でのことだけでなく、もっと先も見すえた計画だ。
「今まで通り、バスケ部でマネージャーをするのも悪くはないと思う。でも、あのままじゃ中途半端だった。俺の気持ちも、環境も。だからもう選手にしがみついてないで違う道に行く」
 きゅっと口を結んでから、快は言った。一番強く思っていることだろう。
「大学のスポーツ科学科で、コーチング科学を学びたいんだ」
 それは夢。
 今は、夢。
 でも目標なのだ。
 来年、三年生の一年をかけて、受験のための勉強をする。そして受かってみせる。
 そういう、目標。
「……快くんなら、できるよ」
 美久は言った。心からの言葉だった。
 おかしなことかもしれない、急に聞いたというのに。
 でも確信があった。
 快ならやってのけるだろう。
 ここまで強い決意を持っていれば。
 元々強いひとなのだ。決意が加わればきっと、なしとげてしまう。