「ありがとう」
日もほとんど落ちそうになっていた。なので快は美久を家の近くまで送ってくれた。
わざわざ電車に乗ってだ。
「快くんが遅くなっちゃうよ」と言ったけれど、快は「心配だから」とかたくなだった。
美久の家は駅から近いので、そう歩かない。五分ほどでいいのだ。
その五分ほど。美久の最寄り駅から歩く間は美久が「こっち」と先導する形になった。快が家を知っているわけもないので当たり前かもしれないが。
でもそれは美久に感じさせてきた。
自分にもできることがある。
そしてそれは小さなことではない。
直接手助けにはならないかもしれないけれど、少なくとも、快に勇気を分けてあげることはできるだろうから。
「ここだから」
自宅の前。美久は立ち止まった。
快は頷いて、繋いでくれていた手を離す。
「今日は本当にありがとう」
もう一度お礼を言われた。本当に優しいひとだ。お礼を言いたいのは美久のほうだというのに。
「私こそだよ」
それだけで良かった。見つめ合った瞳が両方笑みになる。
快が笑みを浮かべてくれること。美久はとても嬉しく感じた。
快は「まだどうしたらいいかわからない」と言った。
色々考えることがあるのだろう。
バスケ部の部員に言われて、選択を迫られてしまっている状態かもしれないし。
そこは快が自分でどうにかしていく領域だ。
それなら自分はその『心』をサポートするだけ。
それが一番大きな『できること』だ。
「じゃ、また明日な」
「うん。送ってくれてありがとう」
言いあったのはそれだけだった。
快は軽く手を振って、元来た道を歩いていく。
ほとんど一本道だから迷うことはないだろう。
美久はその背中を見ながら、胸の中に安心する気持ちが溢れるのを感じていた。
きっと大丈夫だ。
先のことなんてわからないけれど。
独りじゃない。
それはとても大きくて、大切で、そして強さをくれるものだとわかっていたから。
その頃、女子の間で話題になっていることがあった。この時期定番の話題。
そう、十日ほどあとに迫ったバレンタインである。
片想いの子は勿論告白のチャンスであるし、彼氏がいる子にとっても大切な日である。
どちらにしてもチョコレートを用意する日だ。
学校では私立校だからか『お菓子の持ち込み禁止』という校則はないので、そのへんは心配しなくていい。美久の通っていた中学はお菓子禁止だったので、みんなこっそりやりとりしていたものだったけれど。
バレンタイン。
美久は勿論、快にあげることにしていた。彼女として当然のことだろう。
そして料理が苦手ということもないので、なにか手作りしようと考えていた。
そこへ声をかけてきたのは留依であった。
「美久、お菓子作りとか得意だったよね?」
声をかけてきた意図はすぐにわかった。美久は頷く。
「得意かはわからないけど、できなくはないよ」
「またまた、謙遜しちゃって。昔クッキー作ってくれたじゃん」
言われたことには恥ずかしくなってしまった。まだ小学生の頃のことだ。
「あ、あれは……お母さんが手伝ってほとんどやってくれたんだし……」
「えー? でもおいしかったって覚えてるよ。それでさ……」
予想通り。チョコ作りを手伝ってほしいという話だった。
断る理由もないどころか、ほかならぬ留依の頼みだ。
それに楽しそうでもある。二人でチョコ作りができるなんて。
とんとん拍子で、週末に美久の家で作ろうという話になった。
週末の前に、なにを作るか相談して決めて、一回スーパーへ行って材料を買って……と計画は立っていく。
わくわくする気持ちが高まっていく、週末前。
まだ快からあの話はないけれど、バレンタイン。甘いチョコレートでちょっとでも気分が上向きになってくれたらいい、と。美久は留依とレシピの検索をしながら思ったのだった。
「えーと、まず小麦粉をふるうんだっけ」
週末、美久の家。いよいよ一緒にチョコレート作りだ。
エプロンをして、手もきれいに洗った。材料や道具を並べた前で、留依が勢い込んで言った。
「その前に材料を全部、測るんだよ、留依ちゃん」
美久はちょっとおかしく思いつつも、はかりを示した。
「ああ、なるほど……いっぺんに最初に測っちゃったほうが効率がいいってことだね」
「そういうことだよ」
というわけで、まずは材料計測。最近のはかりは優秀なので、ボウルなどの容れ物の重さを勝手に引いてくれて測ることができる。
小麦粉、バター、それから砂糖、チョコレート。計測は留依に任せた。美久は測る前のバターを切ったり、チョコレートやくるみを刻んだりと包丁を使う。
「全部ぴったりだよー!」
小さなボウルにそれぞれきちんと分けられた材料。留依は得意げに言った。
「ありがとう。じゃあ、これを混ぜていこうか」
「了解!」
まずはバターを練る。そうしてから卵や砂糖を加えて混ぜていくのだ。
今回作ろうと決めたのはチョコレートブラウニー。材料を混ぜて焼くだけなので、作るのも簡単で、初心者の留依にもおすすめだと思ったのだ。
それに混ぜて焼くだけなのに、くるみを入れるので香ばしくておいしいし、ラッピングでいくらでもアレンジができる。バレンタインにもってこいだ。
ラッピング用品も留依と一緒に見に行っていた。百均にだ。
百均はまさにバレンタインシーズンということで、かわいいラッピングの素材がたくさん並べられていた。なんならチョコを作るキットまで売っているくらいだ。
ピンク、緑、赤……ポップだったりゆめかわだったりと、印象もさまざま。どれにしようか随分目移りしてしまった。
最終的にちょっと多めに買い込んだ。友達にも友チョコとして配るからである。
友チョコとしては、小さめのキューブチョコを作ることにしていた。これは本当に溶かして固めるだけである。でもそれだけでは味気ないので、中心にドライフルーツやナッツを入れることで変化を付けるのだ。
それはまた後日……簡単なので放課後にでも作ろうかということになっていた。
ブラウニーに先に取り組んだのは理由がある。
ブラウニーは焼き立てあつあつが、勿論とってもおいしい。
けれど、数日寝かせるとバターが馴染んで別のおいしさになるのだ。
大切なひとに贈るのだ。一番おいしい状態を食べてほしいではないか。それで先に本命チョコ作成になった次第。
「じっくり練ってね。時間がかかって大丈夫だから」
「う、うん!」
美久がボウルを押さえて、留依が中身のバターと砂糖を混ぜていく。ここは電動泡立て器があるので簡単。
時間をかけてじっくり練ることでおいしくなる。留依は中身を零さないようにだろう、注意しながら中身を混ぜていく。
混ざったら次は卵を入れて、また練って……材料が全部入ったところで、最後だ。
最後は小麦粉。最初のほうにふるって準備をしておいたものだ。
「じゃ、今度はこっちね」
美久が取り出したのは、へら。
留依は首をかしげる。
「なんで? 泡立て器じゃだめなの?」
確かに疑問かもしれない。美久は小麦粉を示して説明した。
「へらで、さっくりと空気を含ませるように混ぜるんだよ。泡立て器だとべったり混ざっちゃうの」
美久の説明に、留依は感心した、という声を出した。
「へー……混ぜるって言っても違いがあるんだねぇ。全然思いつかなかったよ」
「私も最初、料理のレシピとか見て、『なんで? そのまま混ぜちゃっていいじゃん』って思ったよー」
そういうわけで、次はへら。留依は美久の言った通り、空気を含ませるように、そっと優しく混ぜていく。
チョコレートが入ったので、一気に甘い香りが漂うようになった。
「いい香りだねぇ」
留依がうっとりとした、という声で言った。その声は幸せそうだったので、美久まで嬉しくなってしまう。
チョコレートは愛のお菓子だと昔から言われているそうだ。それでバレンタインに贈られるようになったのだと。
とても素敵なことだと思う。甘いお菓子で大切な気持ちを伝えるなんて。
「うまくできるかな」
それはきっと心配ではなく、期待。留依の声は明るかったから。
「できるよ」
美久のそれも確信だった。
やがて生地が全部混ざって、あとは焼くだけの状態になった。
オーブンの天板に平らに広げて、余熱をしておいたオーブンに入れて、時間の設定をしたら、あとは待つばかり。
ふぅ、とため息をついた留依。
美久も「お疲れ様」と言った。
しかしすぐに休憩というわけにはいかない。まずは使った道具を洗って片付けなければ。
ボウルに、まな板、包丁、へら……洗うものはいっぱいあった。
紙でくっついた生地を拭って、スポンジと洗剤で洗って、拭いて……。協力して片付けていく。
「へー、いきなり洗うんじゃないんだねぇ」
へらやボウルにくっついたブラウニー生地を、キッチンペーパーでまず拭ってきれいにするのだと教えて、その作業をしながら留依は感心したという様子だった。
「それだと洗うのが大変になるし、洗剤や水もたくさん使っちゃうからね」
「知恵だねぇ」
その片付けも終わり、リビングへ移動した。
「お疲れ様」
美久が出したのはマグカップに入った紅茶。留依は「ありがとう」とにこっと笑ってくれた。
「いやー、楽しかったなぁ」
「ほんと? それなら良かったよ」
美久は紅茶に砂糖を入れて、ひとくち飲んだ。留依はミルクもプラスして入れていた。まろやかなのが好きなのだ。
留依が満足した、という声だったので美久まで嬉しくなってしまう。
バレンタインに重要なのはできあがるチョコレートだけではない。
それを作ったり、もしくは買ってくるなら選んだり……そういう気持ちも大切なものだから。
「きっと喜んでくれるよね」
留依が言ったのは、自分の彼氏である青柳のこともあっただろうけれど、もう半分は美久の彼氏の快のこともあっただろう。
美久も自信たっぷりに「うん!」と肯定する。
絶対に喜んでくれるという確信があった。
前の美久なら「うまくいくかな……」「好みじゃなかったら……」なんてマイナス思考になってしまっていたかもしれない。
でも今は、もう昔の美久とは違う。
快は甘いものが嫌いでないどころか、むしろ好きなほうであるし、なにより美久が頑張って作ったことだってわかってくれるはず。
それを喜んでくれないような、冷たいひとであるものか。
美久が強くなったのと、それから快に対する信頼。
両方から自信が持てるのだ。
「ラッピングするのも楽しいだろうなー」
留依はテーブルの上に、買ってきたラッピング用品を並べて、どれにしようかといじくっている。実に楽しそうな表情だった。
「留依ちゃんはセンスがいいから、教えてよ」
美久が言ったことには、留依が、にっと自信ありげに笑う。
「ありがと! じゃ、今度は私が手伝ってあげるね」
こうして得意なことを生かして手伝いあえるのが嬉しいし、幸せなことだと思う。
自分は快に寄り添いたい、と美久は思ったし、実際、快にそう伝えた。
でも美久のそばにいてくれるのは快だけではない。
たとえば、今一緒に過ごしている留依だってそうだ。
親友として、一番近くにいてくれる存在。
大切な存在は一人だけなはずはない。
そういうひとたちのことを大切にしていきたいと思うし、優しい気持ちで寄り添っていたいと思うようになったのだった。
快を好きになって知ったのは、成長だけではなく、そんな優しい気持ち。
快という優しい恋人だけでなく、いろんな、いろんな素敵なものを自分は手に入れたのだ。
こうして一緒に過ごしていると、強くそう感じられた。
「あ! 焼けたみたいだよ!」
そのとき、チン、とオーブンが鳴った。時間が来た合図だ。
「見てみよう!」
美久は立ち上がり、留依と一緒にいそいそとキッチンへ向かった。
オーブンから取り出し、こんがりといい具合に焼けたブラウニーを目にして喜びあう。
美久が噛みしめた『素敵なこと』。
それは今、漂ってくるブラウニーの甘い香りがそう感じさせてくれたのかもしれなかった。
きっとこれは、幸せの香り。
ブラウニーを作った二日後、月曜日のこと。
美久にとって小さな事件があった。
事件、というのは正しくないかもしれない。
とても喜ばしいこと、だったのだから。
珍しく文芸部に全員収集がかかった。
美久はすぐ理由に思い至った。それでどきどきしつつ部活へ向かって、そしてその『喜ばしいこと』を聞いたのだ。
胸が熱くなってしまうような、それ。
快に真っ先に報告しようと思った。
けれど、少し考えて美久はそれをやめておくことにする。
もう少しあとにしよう。
あと数日。
一番いいだろうタイミングがあるから。
あと数日後に、だ。
バレンタインは平日だった。そのために学校では朝からそわそわした空気が漂いっぱなしだった。
それは放課後にピークを迎える。
教室で堂々と行われるのは、女子同士の友チョコ交換だ。
「トリュフ作ったんだよ!」
「私はチョコクッキー!」
かわいいラッピングをしたチョコが飛び交う。
美久もそれに参加した。作ってきていたキューブチョコを配る。
自分でもたっぷりもらった。
クラスのほとんどの女子からもらってしまったくらいだ。
美久の周りのひとたちも随分変わった。
変わった、というか、増えた。
今まで仲の良かった子たち以外のひとたちとも、前より話すようになっていた。
それは美久の見た目や、それ以上に心が変わったからだろう。周りの子たちもそれに好感を持ってくれたようだ。きっと良いこと、なのだろう。
どきどきしつつ、あかりの元にも行った。
あかりは勿論、快と美久が付き合うことになったのはとっくに知っているはずだった。快から話していないわけはないし。
なので美久とも仲良くしてくれるはずがなかった。クラスの係など、することはしてくれるけれど、やっぱりツンツンした様子で最低限しか口をきいてくれない。
でも美久はそれでじゅうぶんだった。無理に仲良くしなくてもいいし、それに自分があかりの立場だったら、本当は意地悪のひとつでもしたい気持ちになってしまうだろうから。それをしないのは、あかりの心の深い部分がきっと優しいからなのだ。
「桐生さん、良かったらもらってくれないかな」
まだ内心はびくびくしていたけれど、それでも袋を差し出した。あかりはそれを見て、ちょっと眉を寄せる。
「なんで私に」
口調もつっけんどんだった。けれど美久は手を引かない。
「みんなにあげてるから、桐生さんにももらってほしいなって」
あかりはしばらく黙っていた。周りにいた子たちもちょっと張りつめた様子で見守っている。
やがて手を出した。美久の手から、袋をひょいっと取ってくれる。
「ありがと」
言われたのはそれだけ。すぐにさっさと「ね! 部活、行こ」とほかの子のほうへ行ってしまった。
でも美久はほっとした。美久だけでなく、周りの子たちも同じだろう。その場の空気が緩む。
周りにいたあかりと仲のいい子たちにも「良かったら」と渡していきながら、美久はほんのりあたたかいような気持ちを感じていた。
ただの友チョコだけど。
あかりが少なくともクラスメイトとしては、うまくやろうとしている、と言ってくれたように感じられたから。
そのあとは呆気ないほどに教室からはひとがいなくなっていった。
それはそうだろう、みんな『用事』があるだろうから。
彼氏がいる子はデートがあるだろうし、片想いの子は……あるだろう、告白とか。そういうものが。
つまり、みんな『好きなひと』に会うのである。
恋の行方がどうなるかはわからないし、それぞれであろうけれど、とても素敵な時間だと美久は思った。
ただチョコレートが行き交うだけではない。
行き来するのはもっと大切な『優しい気持ち』だ。
そして美久がその『優しい気持ち』をあげたいひと。
「お待たせ」
こんこん、と、教室の開いていたドアが叩かれる。そこに立っていたのは勿論。
「快くん!」
帰り支度をすっかり整えた、快であった。
椿の花もそろそろ終わりである。真冬が見ごろだから。
だからここの椿を見に来るデートも終わりに近づいているのかもしれない、と美久は思った。
帰り道に、例の椿の遊歩道へ行った。静かに話せるからだ。
「椿もそろそろ終わりかな」
駅を出て、遊歩道に入って、回りを見て歩きながら快が言った。その声はちょっと寂しそう。
「そうだね。でもあと半月くらいで桜になるよ」
ほら、と美久が指差したもの。それは桜の樹。遊歩道の両脇に植えられている桜は、どれも大きくて立派なものだ。
あと半月もすれば、きっと。
「お、もうつぼみが……」
快も気付いたようだ。声が明るくなった。
半月先ではまだ色づいてもいない。
けれど枝の先に、小さいけれどしっかりとした確かなふくらみがついている。
「咲いたら見に来たいな」
美久の言ったことには、笑みと、きゅっと握られる手の感触が返ってきた。
「ああ、来よう」
椿を見ながら遊歩道の奥まで来て、ベンチに辿り着いた。幸い、ひとはいなかった。
腰かけて、美久はバッグに手を入れた。
快もなにが出てくるかはわかり切っているだろう。それでもちょっと構えるような空気が漂う。
美久も同じだったけれど。なにしろ付き合っているひとにチョコを渡すなんて初めてなのだから。喜んでくれるとわかっていても、緊張はしてしまう。
「快くん、これ、もらってくれる?」
差し出したのは箱だった。平たい箱。
箱にはピンク色の包み紙に、赤いリボンは二重。薄い赤と濃い赤の細いリボンが重ねて結ばれている、とても凝ったラッピング。
勿論、留依が提案して手伝ってくれたものだ。この特別な日にふさわしいものになったと思う。
「ありがとう。すっげぇ凝ってるな」
快は驚いたような声を出して受け取ってくれた。手の上のそれを、まじまじと見つめてくる。そう見られてはちょっと恥ずかしいのだが。
「留依ちゃんが手伝ってくれて……」
「そうなのか」
それで留依と一緒にチョコを作ったのだとか、ラッピングは留依が提案してくれたのだとか話した。
その間に快は「開けていいか」と聞いて、中身を見てくれて。
「うまい……」
ひとくち食べて、感嘆の声で言ってくれた。噛みしめるような声だった。
「……ありがとう」
快に手作りのものを食べてもらうなんて初めてだった。美久はくすぐったくなってしまう。
心から言ってくれているのがわかるのだ。味見はしていても口に合うかはわからなかったから、おいしいと思ってくれたことに、ほっとする。
「美久はお菓子作り、得意なのか?」
「う、うん。割と好きなの」
「じゃあ今度、また作ってくれよ」
そうまで言われては嬉しくなってしまう。心の中がぽかぽかしてきてたまらない。