帰る道すがら、会話はぽつぽつとしかなかった。それもどうでもいいものだ。
 今日の授業が楽しかったとか、でもちょっとわからないところがあったとか、じゃあ今度一緒に図書室で復習してみようとか。そんなこと。
 美久はそわそわしていたけれど、自分がそわそわしていることを快もわかっていただろうなと思う。
 そして快本人はもっとそわそわしていただろう。
 それを探り合うような帰り道だった、なんて思ってしまう。
 快が向かったのは駅だった。
 けれど構内へ入ったものの、通過してしまう。
 どこへ行くのかな。
 思った美久だったけれど、快が向かったのは、逆側の出口を出て少し歩いたところだった。
「座って話せるから」
 行き場所に関しては快はそうとしか言わなかった。美久はただ快についていくしかなかった。
 そして着いた公園。夕方なので子供たちが遊んでいた。
 けれど離れたところにある遊具で遊んでいるようで、こちらを気にした様子はない。
 ちょっとほっとした。
 入り口から公園内へ入っていった快が示したのはベンチだった。
「寒い中、悪いけど」
 美久は首を振る。
「ううん。外のほうがいいんでしょう」
 お店などで話すことではないかもしれないし、そういう雰囲気も似合わないのかもしれない。だから外でも構わない。
「うん、まぁ、そう、なんだ」
 快の言葉は濁った。快らしくない物言いだ。
 昨日から、快の知らなかった面をいくつも見ている、と思いつつ美久はベンチに腰を下ろした。快も隣に座ってくる。
「まず、謝らないといけないことがあるんだ」
 快の話はその言葉ではじまった。
 謝らないといけないこと、なんて美久にはちっとも心当たりがなかった。けれど快の言葉を聞いて、なんとなく思い至ってしまった。
「美久にはちゃんと話しておくべきだった。こんなことになる前に」
 それは昨夜、眠れないうちに美久が考えたことだった。
 自分もちゃんと聞いておくべきだった。
 同じだ。思っていたことは。
 でももう起こってしまったことは仕方がない。タイミングが悪くても、もう、今、現実になってしまっているのだから。
「ごめんな、俺の思い切りが悪いせいで」
「ううん。……。……」
 謝ってきた快の顔は固かった。美久は小さく首を振った。
 けれどそのあとどう続けていいのかわからなくなってしまう。
 なにか言おうと口を開いたけれど、なにも出てこなかった。
 それを察したように、快が言う。
「情けない話だけど、聞いてくれるか」
 美久はその言葉に心底ほっとしてしまったのだった。
 ずるいことかもしれない。自分から聞きもしないで。
 でも快から話すか、それとも美久から尋ねるのかが正しかったのかなんて、今はもうやはりわからない。
 だから聞く。快が話してくれることを。全部。
「うん。聞かせて」
 美久が聞く体勢に入ったことに安心したのか。快の顔がちょっとだけ緩んだ。すぐ元の固い表情に戻ってしまったけれど。
「俺、バスケ部のマネージャーだって言っただろう。でも喜んで務めてるわけじゃないんだ」
 美久は息を飲みたい思いで聞いていった。
 快の『事情』を。
 美久に話さなかっただけあって、きっとほとんどひとに話していないことなのだろう。
「一年の半ばくらいまではプレイヤーだった。選手だったんだ。自分で言うのもなんだけど、中学時代は毎回試合に出てたし、下手じゃなかったと思う」
 快はどっかりとベンチに腰を下ろした姿勢で、手を組んだ。パズルをするように両手を組み合わせる。まるでそこに答えがあって、それが解けずにいるように。
 美久はそれをただ聞く。
「一年のときは当たり前だけど選手なんかできなかったよ。入学したばっかじゃ先輩にかなうわけないだろ。でも二年になったら絶対選手になってやるって思ってたし、そのために頑張ってた」
 快はそこで美久をちょっとだけ見た。美久はどきっとしてしまったけれど、快は目元だけで笑った。すぐ前を向いてしまったけれど。

「でも俺はバカだったのかもしれないな。頑張りすぎて……怪我、しちまったんだ」

 美久は息を飲んだ。
 怪我。
 快はひとことで言ったけれど、きっとそれはとても大きなものだったのだろう。
「それがあまりいい経過じゃなくて……リハビリとかもしたんだけど、……うん」
 つまり、怪我が原因でプレイができなくなった、ということだろう。
 それで今はマネージャーをしていると。
 そしてそれなら快が『喜んでマネージャーを務めてるわけじゃない』という気持ちに繋がるのだろう。
 しかしそこで美久は、あれ、と思った。
 プレイができなくなったのなら、もう秋のことだが合同体育。レクリエーションのバスケ。
 あのときは一体……?
「あの」
 口をはさんでいいものかちょっとためらったのだけど、美久は声を出した。
 疑問を持ったままというのも良くないと思って。
「うん?」
 快がこちらを見る。
 ちょっとどきどきしつつ、これは心臓が冷えそうなどきどきであったが、美久は聞いた。
「秋の合同体育……出てなかった、っけ」
 美久の言葉を聞いて、快は目を丸くした。
「ああ……」
 もう随分前なのだ。懐かしそうな声になる。
 そしてそれはどこか悲しげであった。
「まるでできなくなったってわけじゃないんだ。実際、日常生活に支障はないし、あのとき合同体育で出たくらい短時間なら問題ない」
 確かに、と美久は思った。
 怪我をしたと聞いた割には、そもそもどこにも不自由なところは見えない。
 日常生活、図書室で会ったり話したり出掛けたり……そういうときだって、そんな様子はまったくなかったのだ。
 しかし快はそこで動いた。
 右腕に左手で触れる。右腕の肘だった。
 美久はそれで察する。怪我をしたというのはそこなのだろう。
「でも、強度がなくなっちまったんだよ。ハードな運動ができないんだ」
 美久は目を丸くしてしまった。
 強度。
 美久はスポーツをしているわけではないから、詳しいことなどなにもわからない。
 けれどなんとなくは想像できる。
 バスケは激しく動くスポーツだ。腕ではボールをドリブルして、運んで、パスして、そしてシュート。めちゃくちゃ『ハード』である。
 おまけにそれは一時間近く続くのである。通してプレイをするならハードどころではない。
 全部わかった。
 あのとき快が少しだけコートに入ったことも。
 何故か急いているような様子だったのも。
 長くプレイができないから、その中で少しでも結果を出したいとか、そういう気持ちだったはずだ。
 美久が理解したのはわかってくれたのだろう。快はまたこちらを見てくれた。
 安心させるように微笑んでくれる。
 でもそれは心からの笑みとは言いがたかった。
 その証拠にすぐに顔を前に向けて、独り言のように続けたのだ。
「ただ……半端にできるのが悪いのかな。なんか、思いきれなくて。なんとか頑張ればまたプレイができるんじゃないかって。そういう、ありもしないこと考えて悶々としてたんだよ」
 快の気持ち。
 痛いほど伝わってきた。
 美久にはやはり実感としてはわからない。
 けれど、大切なものを失ってしまって、でもカケラだけは手元に残っている。そういう状態なのだろうな、と想像することはできた。
 丸っきり失ってしまうより、それは厄介かもしれなかった。
「だから図書室に通って、バスケの次に好きな本でも読んで、気晴らしでもしようと思ってた」
 それは快が図書室にいた理由だった。
 魔法学校の本が置いてある、棚の前。初めて会ったあのとき、快がいたのはそういう理由だったのだ。
「こういう事情だ。話さなくて悪った」
 快はこちらを見て、ちょっと頭を下げた。そんなふうに謝ることはないのに。美久は迷惑をこうむったわけでもないのに。
 美久はしばらく黙ってしまった。
 どう言ったらいいのかわからなかったのだ。
 快の抱いているつらい気持ちとか、自分で言ったような『悶々とするような』気持ち。
 わかるよ、なんて言えない。自分はそういう経験をしたことがないのだから。そんな半端な慰めのようなことは言いたくない。
 でもなにか言わないと。
 考えて、出てきたのは、つまらない言葉だった。
「つらかった……ん、だね」
 言ってから後悔した。なにを、そんなこと快が一番わかっているじゃないか。
 美久の心臓が冷えた。もっと快を理解したり励ましたりするようなことを言うべきだったのに。こんなことしか出てこなかったなんて。
 しかし。
「……ありがとう。そう、だな」
 快の声が震えた。ぎゅっと拳が握られる。まるで泣きたいのを我慢しているような様子と声だった。
 もしかして、悪くはなかったのでは、ないか。
 美久はつまらない、と思ってしまった言葉が間違いなどではなかったことを感じた。
 そうだ、理解することはできない。
 でもその痛みに寄り添うことならできる。
 口から出てしまったこと。快にこういう反応をされてやっとわかった。
 美久はごくっと唾を飲む気持ちでおなかに力を込めた。
 言うべきこと。今度はわかって言葉に出す。
「話してくれて、ありがとう」
 快がこちらを見た。今は微笑んでいなかった。
「快くんの、深いところにあることでしょう。話してもらえて、とても嬉しい」
 自分の気持ち。それを伝えたい。
 快はしばらく無表情だった。
 けれど目じりが下がった。泣き出しそうな顔になる。
 泣かなかったけれど。
 泣き出しそうな顔で、それでも笑う。頷いてくれた。
「そう言ってくれると、俺も嬉しいな」
 美久はちょっとためらった。
 でも、今は自分が動くべきときだ。
 そう、ここまで自分に勇気をくれて、前に連れてきてくれた快に、今度は自分から。
 そっと手を伸ばした。
 快の手に触れる。
 快が目を丸くして美久を見た。
 こんなことをするのは初めてなのだから、心臓はばくばくしていた。
 けれど、こうしたい。
 快のため、という以上に、自分がこう動きたいのだ。
「私、快くんのバスケについてのことなんてわかってないと思う。それに、快くんが感じているつらい思いだって、想像することはできても本当にはわかってないと思う」
 自分で言ったそのことは、自分で心が痛むことだったけれど。
 それで終わらせやしない。

「でも、私。快くんのそばにいるよ。快くんを独りにしないことはできるから」

 恥ずかしかった。それにためらった。大口をたたくようなことだから。
 でも今、言うべきときだから。
 ぎゅっと、快の大きな手を上から包んで力を込める。
 快の手はごつごつしていた。いつも美久の手を優しく握ってくれる手。
 今は、自分から。
 美久の決意は言葉とその手から伝わってくれたのだろう。
 快の顔が歪んだ。また泣き出しそうな顔になる。
 でもやはり快は泣くことはなかった。
 美久の手をそっと外した。
 嫌だったかな、とちょっとひやっとした美久だったけれど、それは違ったようだ。
 快は腕を伸ばした。美久の肩に回す。そっと引き寄せてくれた。
 美久はちょっと驚いたけれど、そのままでいた。
 快に抱きしめられる。優しいけれど、確かな力で。
「ありがとう。それが一番、嬉しいことだよ」
 快の声はちょっと震えているようにも聞こえた。
 けれど、涙ではない。
 その中に強さが確かにある。
「まだ、どうしたらいいかなんてわからないんだ。情けないけど」
 美久を抱きしめたまま、快はぽつぽつと話していった。話は多分これで最後、昨日あった出来事のことだ。
「バスケ部のやつらと話してるうちに転部したらどうかなんて話が出て……触られたくないとこに触れられた、っていうかな。そういうふうに感じちまって。それであんなふうになっちまった。みっともない」
 快の気持ちは本当にはわからない。でもわかる部分もある。
「そんなこと、ないよ。誰だって言われたくないこと、あるよ」
 それなら自分はその『わかる部分』に共感して寄り添っていたい。
「そう、か……ありがとう」
 美久はそっと手を持ち上げた。快の背中に触れる。
 そこもやはりがっしりとしていた。
 初めて触れた、と思う。今までは恥ずかしくて背中に腕なんて回せなかったのだ。
 でも今はしっかり触れ合っていたい。

 独りにしない。

 自分でそう言った。
 そしてそう伝えるのには、今、しっかりと体も触れ合っていることが大切だと思ったのだ。
「ありがとう」
 日もほとんど落ちそうになっていた。なので快は美久を家の近くまで送ってくれた。
 わざわざ電車に乗ってだ。
 「快くんが遅くなっちゃうよ」と言ったけれど、快は「心配だから」とかたくなだった。
 美久の家は駅から近いので、そう歩かない。五分ほどでいいのだ。
 その五分ほど。美久の最寄り駅から歩く間は美久が「こっち」と先導する形になった。快が家を知っているわけもないので当たり前かもしれないが。
 でもそれは美久に感じさせてきた。

 自分にもできることがある。

 そしてそれは小さなことではない。
 直接手助けにはならないかもしれないけれど、少なくとも、快に勇気を分けてあげることはできるだろうから。
「ここだから」
 自宅の前。美久は立ち止まった。
 快は頷いて、繋いでくれていた手を離す。
「今日は本当にありがとう」
 もう一度お礼を言われた。本当に優しいひとだ。お礼を言いたいのは美久のほうだというのに。
「私こそだよ」
 それだけで良かった。見つめ合った瞳が両方笑みになる。
 快が笑みを浮かべてくれること。美久はとても嬉しく感じた。
 快は「まだどうしたらいいかわからない」と言った。
 色々考えることがあるのだろう。
 バスケ部の部員に言われて、選択を迫られてしまっている状態かもしれないし。
 そこは快が自分でどうにかしていく領域だ。
 それなら自分はその『心』をサポートするだけ。
 それが一番大きな『できること』だ。
「じゃ、また明日な」
「うん。送ってくれてありがとう」
 言いあったのはそれだけだった。
 快は軽く手を振って、元来た道を歩いていく。
 ほとんど一本道だから迷うことはないだろう。
 美久はその背中を見ながら、胸の中に安心する気持ちが溢れるのを感じていた。
 きっと大丈夫だ。
 先のことなんてわからないけれど。

 独りじゃない。

 それはとても大きくて、大切で、そして強さをくれるものだとわかっていたから。
 その頃、女子の間で話題になっていることがあった。この時期定番の話題。
 そう、十日ほどあとに迫ったバレンタインである。
 片想いの子は勿論告白のチャンスであるし、彼氏がいる子にとっても大切な日である。
 どちらにしてもチョコレートを用意する日だ。
 学校では私立校だからか『お菓子の持ち込み禁止』という校則はないので、そのへんは心配しなくていい。美久の通っていた中学はお菓子禁止だったので、みんなこっそりやりとりしていたものだったけれど。
 バレンタイン。
 美久は勿論、快にあげることにしていた。彼女として当然のことだろう。
 そして料理が苦手ということもないので、なにか手作りしようと考えていた。
 そこへ声をかけてきたのは留依であった。
「美久、お菓子作りとか得意だったよね?」
 声をかけてきた意図はすぐにわかった。美久は頷く。
「得意かはわからないけど、できなくはないよ」
「またまた、謙遜しちゃって。昔クッキー作ってくれたじゃん」
 言われたことには恥ずかしくなってしまった。まだ小学生の頃のことだ。
「あ、あれは……お母さんが手伝ってほとんどやってくれたんだし……」
「えー? でもおいしかったって覚えてるよ。それでさ……」
 予想通り。チョコ作りを手伝ってほしいという話だった。
 断る理由もないどころか、ほかならぬ留依の頼みだ。
 それに楽しそうでもある。二人でチョコ作りができるなんて。
 とんとん拍子で、週末に美久の家で作ろうという話になった。
 週末の前に、なにを作るか相談して決めて、一回スーパーへ行って材料を買って……と計画は立っていく。
 わくわくする気持ちが高まっていく、週末前。
 まだ快からあの話はないけれど、バレンタイン。甘いチョコレートでちょっとでも気分が上向きになってくれたらいい、と。美久は留依とレシピの検索をしながら思ったのだった。
「えーと、まず小麦粉をふるうんだっけ」
 週末、美久の家。いよいよ一緒にチョコレート作りだ。
 エプロンをして、手もきれいに洗った。材料や道具を並べた前で、留依が勢い込んで言った。
「その前に材料を全部、測るんだよ、留依ちゃん」
 美久はちょっとおかしく思いつつも、はかりを示した。
「ああ、なるほど……いっぺんに最初に測っちゃったほうが効率がいいってことだね」
「そういうことだよ」
 というわけで、まずは材料計測。最近のはかりは優秀なので、ボウルなどの容れ物の重さを勝手に引いてくれて測ることができる。
 小麦粉、バター、それから砂糖、チョコレート。計測は留依に任せた。美久は測る前のバターを切ったり、チョコレートやくるみを刻んだりと包丁を使う。
「全部ぴったりだよー!」
 小さなボウルにそれぞれきちんと分けられた材料。留依は得意げに言った。
「ありがとう。じゃあ、これを混ぜていこうか」
「了解!」
 まずはバターを練る。そうしてから卵や砂糖を加えて混ぜていくのだ。
 今回作ろうと決めたのはチョコレートブラウニー。材料を混ぜて焼くだけなので、作るのも簡単で、初心者の留依にもおすすめだと思ったのだ。
 それに混ぜて焼くだけなのに、くるみを入れるので香ばしくておいしいし、ラッピングでいくらでもアレンジができる。バレンタインにもってこいだ。
 ラッピング用品も留依と一緒に見に行っていた。百均にだ。
 百均はまさにバレンタインシーズンということで、かわいいラッピングの素材がたくさん並べられていた。なんならチョコを作るキットまで売っているくらいだ。
 ピンク、緑、赤……ポップだったりゆめかわだったりと、印象もさまざま。どれにしようか随分目移りしてしまった。
 最終的にちょっと多めに買い込んだ。友達にも友チョコとして配るからである。
 友チョコとしては、小さめのキューブチョコを作ることにしていた。これは本当に溶かして固めるだけである。でもそれだけでは味気ないので、中心にドライフルーツやナッツを入れることで変化を付けるのだ。
 それはまた後日……簡単なので放課後にでも作ろうかということになっていた。
 ブラウニーに先に取り組んだのは理由がある。
 ブラウニーは焼き立てあつあつが、勿論とってもおいしい。
 けれど、数日寝かせるとバターが馴染んで別のおいしさになるのだ。
 大切なひとに贈るのだ。一番おいしい状態を食べてほしいではないか。それで先に本命チョコ作成になった次第。
「じっくり練ってね。時間がかかって大丈夫だから」
「う、うん!」
 美久がボウルを押さえて、留依が中身のバターと砂糖を混ぜていく。ここは電動泡立て器があるので簡単。
 時間をかけてじっくり練ることでおいしくなる。留依は中身を零さないようにだろう、注意しながら中身を混ぜていく。
 混ざったら次は卵を入れて、また練って……材料が全部入ったところで、最後だ。
 最後は小麦粉。最初のほうにふるって準備をしておいたものだ。
「じゃ、今度はこっちね」
 美久が取り出したのは、へら。
 留依は首をかしげる。
「なんで? 泡立て器じゃだめなの?」
 確かに疑問かもしれない。美久は小麦粉を示して説明した。
「へらで、さっくりと空気を含ませるように混ぜるんだよ。泡立て器だとべったり混ざっちゃうの」
 美久の説明に、留依は感心した、という声を出した。
「へー……混ぜるって言っても違いがあるんだねぇ。全然思いつかなかったよ」
「私も最初、料理のレシピとか見て、『なんで? そのまま混ぜちゃっていいじゃん』って思ったよー」
 そういうわけで、次はへら。留依は美久の言った通り、空気を含ませるように、そっと優しく混ぜていく。
 チョコレートが入ったので、一気に甘い香りが漂うようになった。
「いい香りだねぇ」
 留依がうっとりとした、という声で言った。その声は幸せそうだったので、美久まで嬉しくなってしまう。
 チョコレートは愛のお菓子だと昔から言われているそうだ。それでバレンタインに贈られるようになったのだと。
 とても素敵なことだと思う。甘いお菓子で大切な気持ちを伝えるなんて。
「うまくできるかな」
 それはきっと心配ではなく、期待。留依の声は明るかったから。
「できるよ」
 美久のそれも確信だった。
 やがて生地が全部混ざって、あとは焼くだけの状態になった。
 オーブンの天板に平らに広げて、余熱をしておいたオーブンに入れて、時間の設定をしたら、あとは待つばかり。
 ふぅ、とため息をついた留依。
 美久も「お疲れ様」と言った。
 しかしすぐに休憩というわけにはいかない。まずは使った道具を洗って片付けなければ。
 ボウルに、まな板、包丁、へら……洗うものはいっぱいあった。
 紙でくっついた生地を拭って、スポンジと洗剤で洗って、拭いて……。協力して片付けていく。
「へー、いきなり洗うんじゃないんだねぇ」
 へらやボウルにくっついたブラウニー生地を、キッチンペーパーでまず拭ってきれいにするのだと教えて、その作業をしながら留依は感心したという様子だった。
「それだと洗うのが大変になるし、洗剤や水もたくさん使っちゃうからね」
「知恵だねぇ」
 その片付けも終わり、リビングへ移動した。
「お疲れ様」
 美久が出したのはマグカップに入った紅茶。留依は「ありがとう」とにこっと笑ってくれた。
「いやー、楽しかったなぁ」
「ほんと? それなら良かったよ」
 美久は紅茶に砂糖を入れて、ひとくち飲んだ。留依はミルクもプラスして入れていた。まろやかなのが好きなのだ。
 留依が満足した、という声だったので美久まで嬉しくなってしまう。
 バレンタインに重要なのはできあがるチョコレートだけではない。
 それを作ったり、もしくは買ってくるなら選んだり……そういう気持ちも大切なものだから。
「きっと喜んでくれるよね」
 留依が言ったのは、自分の彼氏である青柳のこともあっただろうけれど、もう半分は美久の彼氏の快のこともあっただろう。
 美久も自信たっぷりに「うん!」と肯定する。
 絶対に喜んでくれるという確信があった。
 前の美久なら「うまくいくかな……」「好みじゃなかったら……」なんてマイナス思考になってしまっていたかもしれない。
 でも今は、もう昔の美久とは違う。
 快は甘いものが嫌いでないどころか、むしろ好きなほうであるし、なにより美久が頑張って作ったことだってわかってくれるはず。
 それを喜んでくれないような、冷たいひとであるものか。
 美久が強くなったのと、それから快に対する信頼。
 両方から自信が持てるのだ。
「ラッピングするのも楽しいだろうなー」
 留依はテーブルの上に、買ってきたラッピング用品を並べて、どれにしようかといじくっている。実に楽しそうな表情だった。
「留依ちゃんはセンスがいいから、教えてよ」
 美久が言ったことには、留依が、にっと自信ありげに笑う。
「ありがと! じゃ、今度は私が手伝ってあげるね」
 こうして得意なことを生かして手伝いあえるのが嬉しいし、幸せなことだと思う。
 自分は快に寄り添いたい、と美久は思ったし、実際、快にそう伝えた。
 でも美久のそばにいてくれるのは快だけではない。
 たとえば、今一緒に過ごしている留依だってそうだ。
 親友として、一番近くにいてくれる存在。
 大切な存在は一人だけなはずはない。
 そういうひとたちのことを大切にしていきたいと思うし、優しい気持ちで寄り添っていたいと思うようになったのだった。
 快を好きになって知ったのは、成長だけではなく、そんな優しい気持ち。
 快という優しい恋人だけでなく、いろんな、いろんな素敵なものを自分は手に入れたのだ。
 こうして一緒に過ごしていると、強くそう感じられた。
「あ! 焼けたみたいだよ!」
 そのとき、チン、とオーブンが鳴った。時間が来た合図だ。
「見てみよう!」
 美久は立ち上がり、留依と一緒にいそいそとキッチンへ向かった。
 オーブンから取り出し、こんがりといい具合に焼けたブラウニーを目にして喜びあう。

 美久が噛みしめた『素敵なこと』。

 それは今、漂ってくるブラウニーの甘い香りがそう感じさせてくれたのかもしれなかった。
 きっとこれは、幸せの香り。