きみの手が生み出す世界

「それ、悩んでるのか?」
 話が絵の具に戻ってきて、いくつか手に取って話したあとに蘇芳先輩が言った。
 浅葱が手に取っていた絵の具は五本。でも絵の具は一本五百円くらいはする。色によってはもっと高い。全部買ってしまったら三千円は越してしまうだろう。
 全部は買えない、お小遣いを使いこんでしまうことになるのだから。よって厳選して、ほかにどうしても欲しいものがあったら家で「部活で使うから」と相談しようと思っていたのだ。
「はい、ちょっと……予算が」
「絵の具は安くないもんな」
 お金の問題で買えないのはちょっと恥ずかしいけれど、高校生としてはおかしなことでもない。
 蘇芳先輩もバイトはしていないからそれほど事情は変わらないだろう。
 私立の進学校で部活もしていて、しかも部長で。バイトなんてしている余裕があるものか。
「あ、……そうだ」
 そのとき蘇芳先輩が、なにかに思い至った、という顔をした。なんだろう、と思ったとき、蘇芳先輩は手にしていた絵の具を棚に戻して、ポケットに手を入れた。出てきたのはスマホだ。
「その、千円くらいするやつだけど」
 トットッといくつかタップしてなにか調べるような様子を見せる。浅葱は絵の具を手にしたまま、疑問に思いつつ待った。
 確かに今、手に取っていたものは一番値段が高い。だけどサンプルの色がとても美しくて、ちょっと高いけどほしいなぁ、と思っていたのだ。
「あ、あった」
 蘇芳先輩は目的のページを見つけたらしい。それを画面に表示させて見せてくれる。
「……え、これ、このお値段で……?」
 そのサイトはアウトレットの店かなにかなのだろうか。八百円とちょっとと表示されていた。随分安い。
「このサイト。ちょっと高めの画材のアウトレットがあるんだ。地球堂は安いから、基本的な色ならこの店のほうが安いと思う。でも、これなかなか出回ってない色だから……。基本的な色は地球堂で揃えて、これはこのサイトで買ったら、ちょっと金額が抑えられるんじゃないか?」
 浅葱はぱちぱちまたたきしてしまった。
 確かに。八百円なら出せる。ほかの色と合わせても予算内で買えるだろう。
「そうですね! それ、良さそうです」
 すぐに胸の中が明るくなった。欲しいものが手に入りそうなのだ。嬉しくて当前。
 そしてそれだけでなく蘇芳先輩が教えてくれたこと。自分のことを気にして協力してくれたこと。それが嬉しくてたまらない。
「ああ。……そうだ、ここ、ほかの珍しい色も扱ってるんだよ。良かったらゆっくり探さないか?」
「はい! 楽しそうで、……えっ?」
 目を輝かせて言ってしまったけれど直後、きょとんとしてしまった。だって、蘇芳先輩の言い方によると。
 え、え、まさか。
 期待が溢れてしまった。そして、なんとそれは間違っていなかったのである。
 蘇芳先輩はにこっと笑ってスマホをちょっと振った。促すように。
「店の中で長々スマホ見てたら迷惑だろ。だから、良かったらちょっと外とかで」
 えええ……!?
 浅葱は胸の中で絶叫していた。一気に胸が熱くなる。今度は嬉しさだけではない。驚きと嬉しさと、ちょっとの照れにだ。
 外で?
 二人で?
 公園とか……もしくは、お店、とか、で?
 ばくばく速い鼓動を刻みはじめた心臓。でも断るはずなんてない。こんな大ラッキー。
 ごくっと唾を飲んだ。顔が赤くなっていないことを祈るばかりだ。
「せ、先輩が、良かったら……ぜひ」
 地球堂で基本的な色の絵の具を三本買った。ついでに予算も抑えられたので例の特売の筆も買った。
 ワゴンの中に気になる筆があった、という浅葱の言葉に「じゃあそれ、見てみよう」と見てくれた蘇芳先輩。
「これ、掘り出し物だぞ。コシがあって描きやすいんだけど天然毛だから高いんだ。……ああ、やっぱ定価、高いじゃないか」
 実際、そういう値札がついていた。千五百円くらいはする。絵筆としてはかなり高価な部類だ。それが50%オフ。ちょっと目を丸くして勧めてくれたのでもう迷わなかった。
 その筆と絵の具を包んでもらって蘇芳先輩と外へ出た。繫華街を歩いているときから既に緊張してしまう。
 だって、こんなのまるでデートのよう。付き合っているなら『放課後デート』というやつではないか。
 蘇芳先輩とこんなふうに、楽しいお店の並ぶ街中を歩けるなんて信じられなかった。
「あ、あの店。クラスで話題になってた」
 歩くうちに先輩が一軒の店を指差した。そこには割合長い行列ができている。新しくできたタピオカ屋だ。
「あっ、私も聞きました! 今度のお休みに行ってみたいって友達と話して……」
 ちょっと変わったお店で、紅茶のミルクティーではなく緑茶のミルクティーなのだと話題になっていた。
「そうなのか。緑茶、好きなのか?」
「はい! 緑茶も抹茶も、日本茶が好きで……あのお店も緑茶以外にもほうじ茶とかもあるみたいですよ」
 歩いているうちに緊張もほぐれてきた。元々学校で話すならこんなに、必要以上に緊張なんてしないのだ。楽しさもはっきり感じられるようになってくる。
「そりゃおいしそうだな。今度、飲んでみよう」
 先輩は興味を示したようでにこっと言ってくれた。そこでちょっとだけ浅葱の頭に浮かんだこと。
『今度、飲んでみよう』
 それが自分とだったらいいな、なんて。
 すぐに恥ずかしくなってしまって打ち消したけれど。
 そんなのは完全にデートだ。ありえるはずがない。
 でもこうしてお店のそばを通ってこんな話ができるだけでも。また胸には嬉しさが戻ってきた。
 そして入った先はカフェだった。ある意味、タピオカを買って外で飲むよりすごいのでは。既に浅葱はどきどきしてしまう。
「六谷、なんにする?」
 カフェといってもチェーン店。ムーンバックス、という名前のそこはオシャレであるけれどカジュアルに入れるところだ。フラペチーノが人気で季節限定のものはいつも話題になっている。
「え、えーと……じゃ、さつまいもフラペチーノにします」
 実は飲んでみたかったんだよね。心の中で嬉しくなってしまう。
 浅葱も例にもれず、現在の季節限定のものを飲みたいと思っていた。なのでちょうど良かった。
 それにおいしいフラペチーノを蘇芳先輩と飲めるなんて。嬉しさは何倍にもなってしまうではないか。
「そうか、じゃあ俺もそれにしよう」
 えっ、同じのが飲めるの?
 そんなのすごい、もっとデートみたい。
 そう思った浅葱だったけれど。
 先輩は空いていたレジにつかつかと向かって「さつまいもフラペチーノをふたつ、お願いします」と注文してしまった。
 浅葱はきょとんとしてしまい、すぐにかぁっと頬が熱くなるのを感じた。
 一緒に注文してもらってしまった。同じメニューを、ふたつ。デート感は増すばかり。
 もしかして、レジのお姉さんとかに「デートなのね」とか思われたりして。
 そんな妄想までしてしまって心の中でぶんぶんと首を振った。
 それは図々しすぎる。
 図々しすぎる、けれど。
 まるでなくは、ないんじゃないかなぁ。
 なにしろ高校生の男子と女子が一緒にいるのだ。そう見えたっておかしくはないだろう。
 胸を熱くしながら「あちらでお待ちください」と言われて待機カウンターへ向かった蘇芳先輩を追いかけた。肩にかけていたバッグからお財布を取り出す。
「すみません、注文お任せしてしまって……650円ですよね」
 お財布を開けて、小銭を摘まもうとしたのだけど「ああ、いい、いい」と手を振られてしまってまた驚いた。
「俺が誘ったんだから、奢るよ」
 またきょとんとしてしまった。
 奢るとは。
 いや、意味がわからないわけはないけれど。
 そしてその意味はすぐに飲み込めて慌ててしまう。
「え!? えっ、いえいえ、そんな、悪いです!」
 そう言ったのに蘇芳先輩は笑顔のまま。
「いいって。実は夏休みに短期バイトをしたんだよ。それが結構収入になったから」
 それでさっさと先輩は「さつまいもフラペチーノ、おふたつ。お待たせしましたー」と店員さんが差し出してくれたカップをふたつ持って、おまけに「さ、あっちで飲もう」と促してきた。
 あわあわしつつも、ここで無理やりお金を押し付けるのも失礼になる。
 え、え、いいのかな。こんな、誘ってもらっただけでもありがたいのに、奢ってくれるなんて。
 これは夢ではないだろうか。
 浅葱には最早そんなふうにしか思えなかった。
 先輩をそのまま追いかけて「ここでいいかな」と勧められた、窓際のカウンタ席につくしかなかったのである。
 男の子に飲み物を奢ってもらったなんて、初めて、だった。
「お、これうまいな。さつまいものモンブランみたいだ」
 座った窓際の席。蘇芳先輩が隣に座っている。
 先輩はいただきます、とカップを手にし、太いストローから一口飲んだ。嬉しそうに感想を述べる。
 しかし浅葱は最早さつまいもフラペチーノどころではなかった。あんなに飲みたいと思っていたのに、今となっては気軽にこれにしたいと言ってしまったことを後悔していた。こんな……デートのようになるとは思っていなかったのだ。
 嬉しいに決まっているけれど、心がまるで追いつかない。ただ一人で画材を見に来ただけだったのに、こんなラッキーが降ってくるとは誰が思っただろう。
 おまけに。
 ……これ、向かい合うより距離が近い。
 思い知ったのは、促されるまま椅子に腰かけてからだった。
 余計に恥ずかしくなってしまう。
 隣同士、座るなんて初めてだった。
 横に座る蘇芳先輩の気配がはっきり伝わってくる。なんだかほんのりあたたかい気がした。
 体が触れているわけもない。数十センチは距離が空いている。
 でもなんだかあたたかい気がするのだ。不思議なことだ。
 『ひとがそこにいる気配』がこんなにあたたかくて、はっきり感じられること。浅葱は初めて知った。
「溶けちまうぞ?」
 ちょっと不思議そうに言われてはっとした。おかしいと思われただろうか。そう思ってしまったことにまた恥ずかしくなる。
 今日は先輩に出くわしてから全く気持ちが落ちついてくれない。でも飲まないと溶けてしまう。
「は、はい! では」
 やっと口を開いて、そこで思い当たった。このまま飲んでしまっては。
 ちょっとためらった。
 こんなことラッキーすぎるし、それがちょっと恥ずかしくもある。
 でも言うべきことを言えない、言わない女の子だなんて思われるわけにはいかない。
「……ごちそうに、なり、ます……」
 言った。小さすぎる声になった。こんな声になってしまうこと、もう滅多にないというのに。
 でも先輩はくすっと笑った。なんだか楽しそうにも見えた。
「律儀だなぁ。はい、どうぞ」
 言われた言葉も楽しそうだった。それにほっとするやらまた恥ずかしくなるやら。
 でも嬉しいのは確かで。確かどころか胸が火傷しそうなほど嬉しくて。
 そっと持ち上げた、フラペチーノのカップ。ストローから一口飲めば、甘いほっくりした味が口の中に広がった。
 おいしい。
 純粋な、おいしいものを口にした嬉しさが生まれる。
「すごくおいしいです! ほんとに味がモンブランみたいですね」
 モンブランは基本的に栗のスイーツだけど、さつまいもでできているものもある。それを飲んでいるように感じてしまったのだ。
 そのおいしさと甘さに助けられたように普段に近い声で言うことができた。
 そんな浅葱を見てか蘇芳先輩は微笑む。
「ああ。さつまいもでできた、冷たいモンブランって感じで不思議だな」
 横にいる先輩を何気なく見て、しかしすぐ後悔した。
 近い。
 やっぱり近かった。
 顔がはっきり見えてしまう。
 三十センチくらいしかないだろう、こんな近い距離。
 かぁっと顔が熱くなるのを感じてしまって、浅葱は咄嗟にフラペチーノに視線を戻した。
 そこで目に入った。カップに描いてあるものが。
 ムーンバックスは店員がカップに絵を描いてくれることがある。コーヒー、トールサイズ、とか注文をメモするのだけど、それのおまけに描いてくれる、という具合だ。
 今日のそれは。
 『LOVE』という文字。流れるような線で描かれていた。しかもそれが同じ線のハートでくるりと囲まれている。
 くらっと意識が揺れた。
 これは。
 店員さんが。
 ……『LOVE』をつけたくなるような関係に見えたってこと?
 思ってしまったけれど丸っきり的外れとも思えなかった。
 ムーンバックスに入ってから驚きやらどきどきやらが多すぎて、もう心臓がもたない、と思ってしまう。
 けれどただお茶を飲むために来たわけではないのであって。
「さ、じゃあ見るか。えーとな、ここ会員制だから俺のスマホで見るか」
 言われてやっと本来の目的を思い出した。そしてそのことにまた恥ずかしくなった。目的も忘れてしまうほどこのデートのようなカフェ模様に夢中になってしまっていたことを。
「は、はい! ありがとうございます」
 そうだ、先輩が紹介してくれたサイトで絵の具を見るのだった。やっと浅葱の意識は本来の目的に戻ってきた。
 蘇芳先輩はスマホをカウンターの上に置いてこちらに向けてくれる。
 私が見やすいように、だ。
 浅葱は知ってしまう。
 この置き方では蘇芳先輩は見づらいだろうに。自分は普段見慣れているから浅葱のことを気遣ってくれたのだろう。
 その推測でいくと隣同士のこの席もその理由で選んでくれたのかもしれなかった。そういう気持ちがとても嬉しい。
 それに、そういうところが好き。
 思ってしまってまた頭の中が沸騰しそうになったけれど我慢する。先輩が折角見せてくれているのだ。こんな場合では。
「さっきの青が、これだよな。使ってる顔料が割と高価だから、絵の具になっても高めの値段らしいんだけど……」
 いくつかページを開きながら解説してくれる。浅葱が知らないことばかりだった。絵の具の種類は知っていても、どうして高価なのかとか、材料の顔料がなにかで……とか。そういうことは詳しくなかった。
 けれどそういう知識はあって困ることはない、と思った。むしろ自分にとって身近なものなのだからよく知ってみたい。そうも思った。
「で。登録すると会員価格で買える」
「……そうなんですね」
 一通りの説明のあと、浅葱はほぅ、とため息をついてしまった。
 絵がうまいだけではない。技術が高いだけではない。
 画材、つまり絵を描くことに関連した知識も多かったのだ。蘇芳先輩は。
 また尊敬する部分が増えてしまった、ということに感嘆してしまったのである。
 自分もこんなふうになりたい。浅葱は噛みしめた。
 今すぐには無理かもしれないけれど、たくさん絵を描いて勉強もして……三年生になる頃には今、隣にいる蘇芳先輩のような立派な先輩になりたい。
 そこで自分が『先輩』という立場になるということはもう同じ学校には蘇芳先輩はいないのだということがちらっと頭に思い浮かんで、ちょっとだけ胸が痛んだけれど今は関係ない。頭の隅に追いやった。
「じゃあ、登録したらいいんですよね」
 浅葱は自分のスマホを取り出した。先輩の教えてくれたサイトにアクセスする。
「ああ。別に特別な情報がいるわけじゃないからすぐできるよ」
 ここから登録画面に進む、とか、メールアドレスと名前と、あと生年月日が必要……などと指差して教えてくれた。
 ただ、浅葱が個人情報を入力するところは見ないでいてくれた。そういう気遣いもしてくれるのだ。じんわり胸が熱くなった。
 そして無事に登録も済んだ。これであの絵の具が安く買える。それにほかにも絵の具や用具もたくさんあった。ゆっくり見てみたい。それでいいものがあったら一緒に……。
 浅葱がそう思ったのはわかっている、とばかりに蘇芳先輩はまた微笑んだ。
「予算の都合や欲しいものもあるだろうし。家に帰ってゆっくり見て決めるといいよ」
 また気を回してもらってしまった。胸は熱くなるばかりだった。
「はい! ありがとうございます!」
「いいや。お役に立てたなら良かった」
 スマホでサイトを見ているうちにフラペチーノはほとんどなくなっていた。
 溶けてしまうのだから早めに飲まなくてはいけないものだとはいえ、なくなりそうになっているのはちょっと寂しい。
 それに、フラペチーノがなくなったということはそろそろ帰らねばだろう。外も陽が暮れてきている。まだ暗いとまではいかないけれど、外はオレンジ色の気配になっていた。
「いつのまにか秋になってたんだなぁ」
 ずず、と残り少ないフラペチーノを飲みながら蘇芳先輩が言った。
「ほんとですね。ついこの間夏休みだった気がするのに」
 窓の外では多くのひとが行き交っていた。繫華街の外れなのだ。それなりにひとも多い。
 今日は平日だからまだ少ないほうだろうけど、夕方なのでこれから帰宅するとか、もしくは仕事や学校が終わったから遊んだり買い物をして帰ろう、とか。そういうひとたちだろう。
 もしくは自分たちのように放課後に遊びに来ている学生、とか。
 思って、またこの状況を噛みしめてしまった。
 今日は素敵な日だった、と思う。
 まるでデートの体験。
 恋人同士なんかじゃない。
 けれど後輩としてだって自分のことを少しでも良く思ってくれているから、今日のことをしてくれたのだろうし、それだけでとても嬉しい。
「そろそろ帰るか。こんな時間まで付き合わせて悪かったな」
 蘇芳先輩も窓の外を眺めていたけれど、ふとこちらを見て言った。その言葉はどこまでも優しくて。浅葱は首を振っていた。
「いいえ。付き合っていただいたのは私です。たくさんお世話になってしまって……」
 その返事には、またにこっと笑われた。
「六谷は律儀だなぁ。真面目だし……あ、でも俺の話、つまらなくなかったか? 部活じゃないのにあれこれ……」
 ちょっと表情が変わって、蘇芳先輩は先程の話について心配になった、という口調になる。
 そんなこと、とんでもない。浅葱はもう一度首を振ることになる。
 律儀で真面目なのは蘇芳先輩のほうだろう。
 絵に対する気持ちもそうだし、後輩を大事にしてくれるのもそうだし。憧れの先輩だ。片想いをしている意味以外でも尊敬している。
「そんなことありません! 先輩の話を聞いているの、とても楽しいんです。新しいことをどんどん知っていけて……」
 感じた気持ちはぽろっと出てきていた。素直に口から零れたのだ。
「私も先輩みたいになりたいです」
 浅葱の心からの言葉。先輩はちょっと目を丸くした。意外だという顔になる。
 けれどすぐにその顔は崩れた。ほろっと優し気な顔になる。目元が緩んだ。
「そうか。そりゃ光栄だ」
 あたたかな空気が流れていた。まだ秋のはじめ、店内に暖房などは入っていないのにぽかぽかする。
 こんなあたたかい気持ちだから素直に言えたのかもしれない。浅葱は思った。
「じゃ、帰ろう」
 がた、と椅子を鳴らして蘇芳先輩は立ち上がった。浅葱も「そうですね」と同じように立ち上がる。
 空になったフラペチーノのカップを持った。手を伸ばして先輩のカップも手に取る。蘇芳先輩がちょっと驚いたような顔をした。
「ああ、いいよ、自分で……」
「いえ、ごちそうしてもらっちゃいましたし……このくらいさせてください」
 にこっと笑って回収して、トレイや食器を下げる場所へ向かった。先輩が「悪いな。ありがと」と言ってくれるのが聞こえる。
 緊張はすっかり……ではないけれどかなりほどけてきていた。
 こういう気持ちで一緒に過ごせてよかった、と思う。どきどきする気持ちだって嫌なものではないけれど、こういう気持ちになれればもっと嬉しい。
「今日はありがとうございました」
 解散は駅だった。先輩は逆方向、ここからふたつ程先の駅から登校しているのを知っていた。住んでいる場所がちょっと離れているので高校で初めて同じ学校になったのだ。だからそれが初めての出会い。
 ……ということは、実はないのだけど。
 いや、出会ったのはこの重色高校で間違いない。けれどそれより以前に浅葱は先輩に『出会って』いたといえる。
 それはともかく、浅葱は駅の改札を通ってホームへ向かう構内で先輩におじぎをした。
 たくさんお世話になってしまった。絵の具のこともそうだし、飲み物をごちそうになってしまったこともそうだし、ほかにもたくさんのことを教えてもらって……。先輩から今日もらったものは多すぎた。
 でも蘇芳先輩は、なにも気にしていない、という様子でにこっと笑った。
「いいや。こちらこそ」
 浅葱もつられるように微笑んでいた。
 今日は素敵な一日だった、と思う。
 デートのようなことができただけではない。教わることが多くて実になることも多かった。自分の中で引き出しが増えたようだ、と浅葱は思った。
「それに六谷と一緒に過ごせてよかったよ」
 蘇芳先輩が言ったこと。浅葱はきょとんとした。
 それは純粋に『自分といられて楽しかった』と思ってくれている、ということだろうか。
 しかしそういう意味しかなかった。その言葉ならそう取って当たり前だろう。
「学校や部活ではできないことがたくさんできて。六谷の知らなかった面も見られて。とても嬉しかった」
 続けて言われた言葉はもっと嬉しかった。かぁっと胸の中が熱くなる。まるで火が付いたようだった。顔にまで熱がのぼってきそうだ。
「良かったらまた画材とか見に行かないか」
 おまけにそんなことまで言ってもらって。答えなんてひとつしかない。
 浅葱はこくこくと即座に頷いていた。
「は、はい! 私で良かったら、ぜひご一緒したいです」
 浅葱のその反応に安心したように蘇芳先輩はにこっと笑ってくれた。
「ああ。また機会があったら誘わせてもらうよ。じゃあ、な。気を付けて帰るんだぞ」
 それで本当に解散になった。ひらひらと手を振ってくれる先輩は、浅葱が帰りのホームへエスカレーターであがるのを見送ってくれたのだった。
 エスカレーターで上へ運ばれながら浅葱は下のほうを見て、見守ってくれる蘇芳先輩を見た。目が合ってちょっと恥ずかしくなったけれど、ぺこりとおじぎをしておく。
 やがてホームへついた。電光掲示板を見ると電車が来るまでにはあと三分くらい。ちょうどいい。待つというほどではなく、降りるのに適したあたりへ歩いていれば来るだろう。
 いつも乗る場所、最寄り駅に着いたらエスカレーターに近いところで降りられるところへ向かいながら、まるで夢を見ていたのではないか、と噛みしめた。
 放課後、地球堂へ行って一人で画材を見ていたときまではただの日常だったのに、そこで蘇芳先輩と偶然会ってからはまるで日常などではなくスペシャルな時間になってしまったのだ。
 でも夢などではない。口の中にはさっきの甘くておいしかったさつまいもの味が残っているし、なにより、ほんわりあたたかくなった胸がはっきりとさっきの出来事の素晴らしさを示していた。
 おまけに、また出掛けたい、なんて誘ってもらえて。
 偶然だったのかもしれないけれど、きっと偶然は現実へといつのまにか姿を変えていたのだ。
 誘ってもらったし、勇気を出してお誘いしてみても、いいのかなぁ。
 思ってみて恥ずかしくなったけれど、先輩に言ってもらったのだ。一緒にいるのが楽しかった、と。
 だからきっと迷惑ということはない。それなら少しの勇気を出して、また素敵な時間を過ごせるように動いてみてもいいのだろう。
 そこへアナウンスが入った。間もなく電車が到着します、という機械的な声。
 すぐに電車がきた。それに乗りこめば浅葱を家のある駅まで運んでいってくれる。そう遠いわけではないからドアの前に立って外を眺めた。外はすっかり暗くなって街の明かりが綺麗に見えた。
 これから寒くなっていくのだ。街の明かりはなんだか秋冬のほうが魅力的に見える、と浅葱は思う。
 ああいうものを蘇芳先輩と見られたら。ふと思ってしまって、またちょっと顔が熱くなった。
 けれどこういう気持ちになれることはとても幸せなこと。
 明るくてきらきらしていて、胸をあったかくしてくれるような、明かりの黄色やオレンジ色は、ゆっくりと窓の外を流れていった。