夏祭りの数日前から、髪振神社の参道では、長い竹で建築現場の足場のようなものが組まれ始めた。
 車も走る道路を跨いで建っている一の鳥居ではなく、歩いてしか潜ることのできない二の鳥居の脇から始まるそれは、幅三メートルほどの参道の左右に、長い石段も含めて延々と、拝殿と手水舎の前まで続く。
 祭りの当日は、そこに紙製の燈籠がずらりと提げられ、光の道標のようになるのだそうだ。

 階段では数段ごとに、頭上に橋を渡すようにして竹が組まれており、そこにも大きな横長の燈籠が掲げられるのだと、ハナちゃんが教えてくれた。
 燈籠に描かれた絵や文字は、どれも地域の子どもたちや有志の手書きで、私ももう少し早く越してきていたら、参加できたのにと残念に思う。
「来年こそやね」
「うん……」

 その代わりと言ってはなんだが、父が町役場の人に頼まれて描いたものならばあると、教えてもらった。
 どこに掲げられるのかは本人にも不明だが、それを探すのも祭りの楽しみの一つだとハナちゃんは笑う。
「知っとる者の燈籠を探すのが楽しみじゃけぇ」

 実は椿ちゃんの燈籠もあるのだと、列車で隣街まで行こうとしたあの日の帰りに、田んぼ道を歩きながら打ち明けられていた。
『学校で無理やり描かされた下手なやつだから……』
 本人はとても不服そうだったが、その理由の一つが今ならば少しわかる。

 写真のように綺麗な絵を描く誠さんに、椿ちゃんはおそらく自分の絵を見られたくないのだろう。
 だが、二人でそれを見つけるのも、話のきっかけになっていいのではないかと私は思う。
(だって二人は……)

 偶然知ってしまった事実を、一人で思い出してはにやにやとする私を、ハナちゃんがやんわりとたしなめた。
「和奏嬢ちゃん、じっとしちょかんと着せられんよ」
「ごめん! ハナちゃん!」
 私は慌てて、両腕を肩と水平の高さに上げるという最初の体勢に戻った。

 夏祭りの当日――。
「せっかくなら浴衣を着て行きんしゃい」
 ハナちゃんが、自分の若い頃の浴衣を私のためにわざわざ持ってきてくれたのだった。

「こんな柄、今では流行らんかのう……やっぱり新しく誂えたほうがよかったかねぇ……」
 紺地に朝顔の柄の浴衣を、私の肩に当ててみてはため息を吐くハナちゃんに、私は懸命に首を振ってみせる。
「ぜんぜんおかしくなんかないよ! すごくステキな浴衣じゃない!」
「そうけ? 和奏嬢ちゃんがそう思うならいいけど……」

 帯は紫にしようか、白のほうがいいだろうかと、ハナちゃんが私の足もとに帯を広げて悩んでいる時に、ふらりと父がやって来た。
「和奏、今日の夜だけど……あ!」

 私が浴衣の着付け中だとわかったらしく、慌てて帰ろうとする。
「すまんすまん。下の神社で夏祭りがあると教えたかったんだが……もう知ってたな」

 私は急いで呼びかけた。
「お父さん大丈夫だよ! もう帯を選んでるだけだから」

「そうか?」
 それでも心配そうに、障子の影からこっそりと顔を出した父を、ハナちゃんは笑う。
「なんじゃろ。子どもみたいに……ふぉふぉ」

「そんなこと言ったって……」
 父はなぜだか部屋の入り口で正座し、ハナちゃんが白に決めたらしい帯を締めるのを、静かに見学することになった。

「すっかり大人になったなぁ……」
 ため息交じりに呟かれた言葉には、私も笑ってしまう。
「何言ってるの、私、まだ十七歳だよ?」

「もう十七歳だよ……あ……そうだ!」
 父はふと、何かに思い当たったかのように立ち上がった。

 隣の部屋へ行き、箪笥の引き出しを開けるような音がバタンバタンと何度かしていたが、そのうちてのひらに乗るほどのサイズの小さな箱を持って帰ってくる。
 よく使いこまれた木製の、かなり年代物の箱のように見えた。

「実はこれ、母さんの……和奏のお祖母ちゃんの形見なんだけど……」
 お父さんが蓋を取ると、箱の中には丸いブローチのようなものが現われる。
 細かな銀細工が縁を飾っているが、中央に嵌めこまれているのはおそらく焼きものだ。

「ああ、帯留めじゃねえ、懐かしい……」
 目を細めるハナちゃんに父はそれを渡そうとした。
「もしよかったら、これを和奏に使って……」

 大きな声でそれを制止したのは私だった。
「そんなの無理だよ! もし失くしたらどうするの? お祖母ちゃんの形見なんでしょ?」
「帯留めがなくなるなんてことはないよ」
「そうそう」
 父もハナちゃんも笑っているが、私は必死だった。

「無理無理! さすがに遠慮します! どうしてもと言うならもっと特別な日に! そう、例えばお見合いとか……結納とか……?」
 祖母の形見を身に着けるという大任から逃れたくて、私は適当に今後着物を着る機会がありそうな例を挙げたのだったが、目に見えて父がしょんぼりとした。

「そう……だな……」
 あからさまに肩を落として、隣の部屋へ箱を返しに行こうとする様子を、ハナちゃんがふぉふぉふぉと笑う。

 父は悔しそうにふり返って、私に問いかけた。
「和奏……ひょっとして今日、一緒に祭りに行くのって……」
 まるで捨てられた仔犬のように悲し気な瞳で、縋るように訊いてくるので、思わず大きな声で叫んでしまう。
「女の子よ! 女の子! この間言っていた、この町に来て初めてできた友だち!」

「そうか」
 ほっとしたような表情で、父は部屋を出ていこうとしたが、せっかくの機会なので私は伝えておくことにした。
「その子が、『成宮』の子なの」

「「え?」」
 驚きの声は、父とハナちゃんの両方から聞こえた。

(そんなに『成宮』ってすごい家なのかな……)
 確かにかなり大きなお屋敷だし、椿ちゃんのお父さんはいかにも地元の名士といったふうの貫禄と迫力の人物だった。
 椿ちゃんが自由に出かけることを禁止されていることもあるし、ひょっとすると私ごときが『友だち』と言える人ではないのではないかという疑惑さえ浮かんでくる。

(今時そんなの……って思うけど、このあたりではそれが当たり前なのかもしれないし……)
 ひそかに不安に思っていると、父が長く詰めていた息を吐いた。
「そうか……いつの間にあの子と知りあってたんだ?」

 私は懸命に説明する。
「上之社を探しに行った時、偶然会って……その次の日も、一緒に隣街へ行こうって約束して……それは中止になったんだけど、夏祭りは一緒に行く約束をしてるの」
「そうか……」

 父に心配をかけないため、上之社を探しに行った時崖から落ちてしまったことや、椿ちゃんの家へ遊びに行き、彼女のお父さんと対面したことはまだ話さないでおいた。
 そうでなければただでさえ強張ってしまった顔が、ますます困惑の表情になるような気がした。

 私と父を交互にちらちらと見ながら、ハナちゃんが口を開く。
「あの……」
 しかし、父が鋭くそれを制した。

「悪い、ハナさん。和奏には俺からちゃんと説明するから……」
「……はい」
 二人の深刻な表情を見ているだけで、『成宮』というのは何なのか、とても不安になるが、今はそれをゆっくりと教えてもらっている時間がない。

 腕時計をちらりと見た父も同じことを思ったようで、今度こそ本当に隣の部屋へ移動していった。
「もう時間がないな……ハナさん、和奏を仕上げてやってくれ」
「はい」

 仕事小屋へ帰る前に、父は一旦、ハナちゃんに帯を締められている私のところへ顔を出して、真剣な表情で約束する。
「今はもう時間がないから、帰ってきてからにするが……『成宮』について、お前に話したいことがある」

(――――!)
 どきりと胸を鳴らしながらも、私もしっかりと頷いた。
「うん。花火が上がる前には帰ってくるつもりだから……その時に……ここからも見えるよね?」

 父は懐から煙草の箱を出し、そこから一本抜いて口にくわえながら、にやりと笑う。
「見えるなんてものじゃない。直撃だ」

 ようやくいつもの調子に戻った父の様子が嬉しくて、私は笑いながら言った。
「じゃあ、一緒に見ようね!」

「ああ」
 頷いて去っていく背中を見送り、ほっと胸を撫で下ろした。