田んぼ道をずっと歩き、突き当りの丘を登る道へ入ると、椿ちゃんは急に口数が少なくなった。
それまでは、小さな頃の夏休みの思い出などをしきりに私と言いあっていたのだが、それも途中でやめてしまった。
道は綺麗に舗装されており、両側に剪定された植え込みが続いているので、もうすでに椿ちゃんの家の敷地内に入っているのではないかと思う。
そう訊ねてみると、「そうだ」と肯定された。
「ちょっとここで待っててくれる? 和奏」
丘を登りきると椿ちゃんは私にそう言い、どこまでも続く白塀の曲がり角から顔だけを出して、左の方角を確認した。
どうやら入り口付近に誰もいないかを確かめているようだ。
私はといえば、自分の背丈の二倍ほども高さがある白塀を、山の上から見た時に、椿ちゃんの大きな家をぐるりと取り囲んでいたあの塀だと、感嘆の思いで見上げていた。
(やっぱり……すごく立派なお家……)
上に瓦を乗せたいかにも歴史ある造りの塀の向こうには、よく手入れされた大きな木々が連なる。
松の木一本とっても、梯子を掛けなければてっぺんの剪定ができない高さの立派なものだ。
(すごいなぁ……)
父の住居兼作業小屋のあの庭の、いったい何倍の規模だろうなどと考えていると、椿ちゃんに腕を引かれた。
「よし、今よ! 和奏行くわよ!」
「え? え?」
促されるまま小走りで角の先にある門へ近づき、椿ちゃんと共にそれを潜る。
まるで時代劇に出てくる武家屋敷のような、大きな木製の門だったが、椿ちゃんによるとあれは正門ではなく、裏門だったらしい。
「正門になんて回って、もし私を探している連中がいたら、たいへんなことになるわ!」
「椿ちゃん……?」
実は彼女は、ちょっと散歩に行ってくると言っただけで、今日出かける許可を、正式に両親から取っていなかった。
(そういえば出がけにちらっと、そんなことを言っていたような……)
椿ちゃんの自室だという離れの縁先に、まるで泥棒のように足音を忍ばせて近づきながら、私は声をひそめる。
「そんなことして、もしバレたら、今後ますます出かけにくくなるよ……?」
私の忠告に、それでも仕方がなかったのだと椿ちゃんはぷーっと頬を膨らます。
「お父さまがどんなに頑固で、私の話にどれだけ聞き耳を持たないか……和奏は知らないから……お母さまはお父さまの言いなりだし……」
「でも……」
これは、迂闊に家へ遊びに行く約束などしている事態ではなかったのではないかと、不安を大きくしながら椿ちゃんと共に濡れ縁へ上がり、真っ白な障子を開けた時、暗い室内から押し殺した声がした。
「お嬢さまぁ……よかったぁ……」
部屋の中央に赤い着物姿の女の子が座っており、目に涙を浮かべてふり返ったので、私は驚きのあまり椿ちゃんに抱きついた。
「――――!」
椿ちゃんは、まあまあと私の肩を叩き、女の子の前に座る。
椿ちゃんと背格好がよく似たその女の子は、急いで着ているものを脱ぎ始める。
「すぐにバレるんじゃないかと、もう、生きた心地がしませんでしたよ」
「誰にも気づかれなかったでしょ? 次もぜひお願いね、百合」
「もう絶対に嫌です!」
「ええーっ」
椿ちゃんはテキパキと、女の子が脱いだ着物に袖を通し、女の子のほうは押入れから出したもう少し落ち着いた色の着物に着替える。
二人のやり取りから、どうやら女の子は椿ちゃんの身代わりとして、この部屋に座っていたらしいと察した。
「それに『百合』はやめてください。そんなたいそうな名前、お嬢さまに呼ばれると恥ずかしくて……名付けた両親を恨んでるっていつも言ってるじゃないですか」
私たちより少し年上くらいの女の子は、椿ちゃんの家で働いているのだろうか。
彼女のことを『お嬢さま』と呼ぶ。
「名前じゃなきゃ、なんて呼べばいいのよ?」
「それは……『おい』とか、『お前』とか、適当でいいです」
「そんなわけにはいかないわよ」
二人の着替えを凝視しているのも申し訳なく、純和風の部屋の中をもの珍しくきょろきょろと見回していた私に、女の子がふと視線を向けた。
「あの、こちらは……?」
私は慌てて、畳の上に正座で座り直す。
「こんにちは、はじめまして。青井和奏といいます。椿ちゃんの……友人です」
これでいいのかよくわからないながらも、畳に指をついて頭を下げた。
ちょうど着替えが終わったらしい女の子も、慌てて座り直す。
「そんな! どうか頭を上げてください! 私は、お嬢さまのご友人に頭を下げていただくような人間じゃ……」
焦りながら手を振る途中で、はたとその動作をやめ、信じられないようなものを見る目で、ゆっくりと椿ちゃんをふり返った。
「ご友人……お嬢さま……ついにお友だちができられたんですね……」
感動的に目を潤ませ、鼻をすする百合さんを、椿ちゃんは不服そうな目で見る。
「まるで、これまで全然友だちがいなかったみたいに言わないで! まあ……遠からずだけど……」
「よかった。本当によかった……」
百合さんはずずいと私の前に膝を進め、私の両手を取った。
「どうぞ末永く、仲良くしてあげてくださいね。ちょっとわがままで頑固ですけど、根は優しい方なんです……」
「はい……」
頷く私の手を、椿ちゃんが百合さんから取り上げる。
「いいから! お茶とお菓子かなんか持ってきて。くれぐれもお父さまには見つからないようにね」
「はい」
百合さんは着物の袖で涙を拭いながら、部屋から出て行った。
「ごめんね、騒がしくて」
縁側を遠くなっていく足音が聞こえなくなると、椿ちゃんは恥ずかしそうに肩をすくめて、部屋の隅に置いてある文机へ向かった。
二段目の引き出しから螺鈿が施された漆塗りの小さな箱を取り出して、蓋を持ち上げる。
中に何が入っているのか私のいる位置からは見えなかったが、誠さんがさっきくれた髪飾りを、大切そうにしまったことはわかった。
「和奏……ありがとうね」
「え?」
私に背を向けたままの椿ちゃんが、らしくもなく消え入りそうな声で呟くので、何のことを言われたのだか、一瞬わからない。
しかし椿ちゃんの真っ黒な髪の間から、赤く染まった耳の先が見え、帰りの列車での出来事を感謝されているのだろうと察した。
「あ……」
椿ちゃんは誠さんを好きなのだろうとは気づいているが、言葉にして言っていいのかはわからない。
なんと答えていいのか返答に困り、私は遠回しな言い方をしてみた。
「夏祭り……楽しみだね」
「……うん」
椿ちゃんが、細い首が折れてしまいそうに頷くので、これでよかったのだとほっとする。
「とても盛大なお祭りなのよ。といっても、田舎基準だけど……」
当日は出店が出て、太鼓の演奏があったり、のど自慢大会があったり、抽選会があったり、いつもは静かな髪振神社に多くの人が集まるのだと、椿ちゃんは教えてくれた。
「最後には花火まで上がるの。数は少ないけど……」
「花火って……どこで?」
「もちろん、神社で」
「えっ?」
驚く私を、椿ちゃんは面白そうに笑う。
「真下から見上げることになるから首は痛いし、燃えカスは降ってくるし、火薬の匂いもするけど、それもなかなかできない経験でしょ?」
「確かに」
「一緒に見ようね」
「う……」
期待に胸をわくわくさせて、当然のように頷きかけたが、私はそれを途中で止めた。
せっかく誠さんと三人で行く予定なのだから、そこは気を利かせて早目に退散し、二人きりにしてあげたほうがいいのではないかと気を回す。
「何よ……嫌なの?」
途中で黙ってしまった私を不審がり、椿ちゃんが首を傾げた時、さっき百合さんが出て行った縁側へと続く障子が、スパーンと音をたてて大きく開け放たれた。
「――――!」
驚いてふり返った先には、厳めしい顔をした大柄な和服の男性が立っている。
髭に囲まれた口を気難しそうにひき結び、着物の袖に手の先を隠すようにして腕組みし、ぎろりと鋭い目を私に向けてくるその人から、目が逸らせない。
「椿、出かけていたそうだな? どこへ行っていた? これは誰だ?」
男性の後ろに、今にも泣きだしそうな顔をした百合さんが控えていることに気がついて、私はまた畳の上に座り直した。
「今日のぶんの課題と練習が終わったので、少し散歩に出かけただけです……彼女は私の友人です」
いかにも不服そうに答える椿ちゃんに続き、私は畳に指をついて頭を下げる。
さっき百合さんにした時よりも、さらに丁寧さを心がけたつもりだった。
「はじめまして、こんにちは。青井和奏といいます」
「青井? 聞いたことがないな……どこの者だ?」
「え……」
何と答えたらいいのか困惑する私に代わって、椿ちゃんの鋭い声が飛ぶ。
「どこの者でもないわ! 和奏はこの町に越してきたばかりだもの」
椿ちゃんの父親だと思われる男性は、ふんと鼻を鳴らした。
「余所者か……勝手に成宮の敷居を跨ぐな」
「お父さま!」
叫ぶ椿ちゃんに、彼女のお父さんは指をつきつける。
「お前もだ、椿。今日、駅のあたりでお前を見たという者がいた……何が散歩だ。勝手をするなら家から出ることを禁じる。学校が休みの間はずっと部屋にこもっていろ」
「――――!」
言いたいことを言うと、椿ちゃんの返事もまたず、彼女のお父さんは行ってしまおうとする。
椿ちゃんは顔を俯けてぶるぶると震えているので、私が代わりにひき止めようと腰を浮かしかけた。
「あの……」
しかし椿ちゃんにブラウスの袖を引かれ、制止される。
「…………」
椿ちゃんのお父さんが行ってしまってから、百合さんが足をもつれさせながら部屋の中へ駆けこんできて、椿ちゃんの前に平伏した。
「お嬢さま! 申し訳ございません! 申し訳ございません!」
「百合のせいじゃないわ。気にしなくていいのよ」
椿ちゃんは力なく呟いてから、私に向き直る。
「和奏もごめん。嫌な思いさせちゃったわね……私が浅はかだったわ」
私の心配より、椿ちゃんのほうこそ、とても悲しい顔をしているのにと、声をかけてあげることができず、私はただ懸命に首を横に振るしかなかった。
帰りは百合さんの案内で、裏門からお屋敷を出た。
「どうかこれからも、お嬢さんと仲良くしてくださると嬉しいです……」
さっきから恐縮しっぱなしの百合さんが気の毒で、私は笑顔で答える。
「もちろんです」
椿ちゃんはお父さんに言われたように部屋から出ず、すでに三日先のぶんだという難しい数学の問題集を、黙々と解いていた。
文机の引き出しの二段目を時々開けて、悲しそうに中を見ていたことが印象的だった。
そこにしまった誠さんからのお土産を、おそらく見ているのだと思うと、私も切なくなる。
(夏祭り……ちゃんと行けるといいけど……)
日の傾きかけた田んぼ道を進み、父の仕事小屋兼住宅がある山に着いたのは、もう辺りが暗くなりかける頃だった。
日が暮れても月明かりがけっこう明るいことを椿ちゃんに教えてもらった私は、それを不安に思うことはなかったが、頂上へ通じる山道を逸れて、家へ向う小道に入ると、庭に佇む人物の姿が見えて、どきりとした。
「お父さん!」
また心配させてしまったのかと慌てて駆け寄ろうとしたが、そうではなかった。
父は仕事の合間の休憩だったようで、手にしていた煙草を唇で挟み、私に向かって手を上げてみせる。
私はほっと胸を撫で下ろしながら、ゆっくりと父に近づいた。
紺色の作務衣を緩く着て、頭には手拭いの、いつもどおりの格好。
父はこの家では常にこの格好をしている。
作業がしやすくて、その上楽なのだそうだ。
都会で一緒に暮らしていた頃は、いかにもサラリーマンという、スーツにネクタイ姿しか見たことはなかったが、今のほうが父らしい気はした。
他の何も気にせず、ただ自分の好きなものだけに向かっている姿は、いつも羨ましくさえある。
ふと――椿ちゃんのお父さんも和服姿だったのに、ずいぶん違うものだと思った。
もっともあちらは羽織まで着た、正装ではあるけれど――。
父の隣に立って、しばらく庭の木花を眺めながら、私は今日の顛末を簡単に話した。
「友だちと隣街へ行く予定だったんだけど、途中でやめたの。その子が、体調悪くなっちゃって……」
「大丈夫だったのか?」
「うん、少し休んだら治ったみたい」
「そうか……」
やはりそれ以上会話は続かない。
その居心地の悪さには多少慣れたつもりだが、並んで立っているのならばやはり何か話したほうがいい気がして、私は問いかけた。
「ねえ、お父さん。成宮って知ってる……?」
昨日初めて椿ちゃんに会った時、「この町の住人で、『成宮』を知らない者はいないもの」と彼女が言っていたのを思い出し、訊いてみたのだった。
父が「知っている」と答えたら、「その成宮の子と友だちになったんだよ」と話を続けるつもりだった。
ところが――。
父は唇の端にくわえていた煙草をぽとりと地面に落とし、それすら気にせずに両手で私の肩を掴んだ。
「誰に聞いた?」
力ずくで父のほうを向かされ、怒気をはらんで問いかけられた声は、これまで聞いたこともないほど低かった。
「え……?」
椿ちゃんのお父さんを彷彿とさせる鋭い眼差しで、睨むように見据えられる。
「いったい誰に聞いたんだ?」
「お父さん……?」
戸惑う私に初めて気がついたように、父ははっと肩から手を放し、足もとに落ちた煙草を拾うため身を屈める。
しかし声の刺々しさは変わらない。
「ハナさんか?」
何がこれほど父を怒らせてしまったのかがわからず、私はうまく言葉が出てこなかった。「ち、ちがう……」
「そうか……」
父は煙草を拾うと、仕事小屋へ向かって歩き出す。
「しばらく小屋から出てこれないと思う」
「……うん」
遠くなっていく背中は、私がこれ以上何かを問いかけることも、説明することも拒んでいるような気がして、悲しかった。
「和奏嬢ちゃん……またこんなところで寝ちょるの?」
呑気な声に呼びかけられて、はっと縁側で身を起こした瞬間、お腹の上に乗せていたらしいスマホが、ごつっと庭に落ちた。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げた私を笑いながら、ハナちゃんがそれを拾い、軽く手で汚れを払って渡してくれる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう……」
三角に切られた西瓜を並べたお盆を私の横に置き、ハナちゃんもその向こうに腰を下ろす。
「太陽の下で小さい画面を眺めちょったら、目が悪くなるよ」
「うん」
スマホは時計としてしか使っていないと、わざわざ説明することはしなかった。
ハナちゃんが持ってきてくれた西瓜を食べるため、手を洗ってこようと立ち上がると、問いかけられる。
「お父さんには和奏嬢ちゃんが持っていくかい?」
「あー……」
きまり悪い思いで、私はハナちゃんの隣に座り直した。
「実は昨日、怒らせちゃって……」
「珍しい……」
私はハナちゃんに、簡単に昨夜の父とのやり取りを話した。
「それで……『成宮』って知ってるか? て訊ねたら、急にお父さんが怖い顔して、『誰に聞いた?』って……」
それまで私の説明を黙って聞いていたハナちゃんが、大きく頷く。
「あーなるほど」
いかにも事情を知っているふうのハナちゃんに、私は向き直った。
「どうしてなの?」
ハナちゃんはふぉふぉふぉと笑って、首を横に振った。
「それは私じゃなく、お父さん本人に訊いたほうがいいねえ」
「でも……」
父と再び暮らし始めたのは最近だし、それ以前も今も、あまり会話をする関係性ではない。
父にとってあまり好ましいと思われない話題を振るのは、不安なのだと、昨日の突然硬化した態度を思い返しながら、私はハナちゃんに説明しようとした。
しかしその前に、笑顔で後押しされてしまう。
「大丈夫。お父さんは和奏嬢ちゃんを、大切に思っちょるけえ」
「でも……」
「持っていって一緒に食べんしゃい」
強引に西瓜の載ったお盆を渡され、父のところへ行くしかなくなってしまった。
「うん……」
不安な思いで靴を履き、お盆を手に庭を歩き出した私を、ハナちゃんは笑顔で見送った。
父の仕事小屋は、庭を左手に見ながら敷地を一番奥まで進んだ突き当りにある。
焼き物を焼く窯と、焼き上がったものに絵を描くための部屋にわかれており、靴のまま行き来することができた。
屋根はあっても壁がなく、外から丸見えの窯のほうには姿がなかったので、部屋のほうにいるのだろうと思う。
父は作業中にはラジオを流していることが多いので、聞こえるだろうかと訝りながらも、入り口で呼びかけてみた。
「お父さーん?」
返事がなかったので、中を覗く。
壁際にも部屋の中央にも、空いているスペースがないほどに置かれたいくつものテーブルの上には、様々な工程の焼きものが、ところ狭しと並べられている。
焼き上がったばかりのもの、地塗りが施されたもの、絵付けが終わったもの、上塗りされてあとは乾燥するのを待つだけのもの――。
それぞれがテーブルを分けられているわけではなく、雑多に混在しているのが父らしい。
父本人は陶器の中に埋もれるようにして、部屋の左奥に置かれた椅子に座っていた。
思ったとおりラジオがかなりの音量で流れているので、私の声は父に届かなかったらしい。
忙しく作業しているふうではないのを確かめて、私はもう一度呼びかけた。
「お父さん」
父が弾かれたようにこちらをふり返った。
私の姿を見てすぐに椅子を立ち、歩み寄ってくる。
「どうした? 和奏」
その様子には、昨夜の緊迫した表情の片鱗も残っていない。
鷹揚で朴訥といった雰囲気の、いつもどおりの父だ。
私はほっと胸を撫で下ろした。
「ハナちゃんが、西瓜を切ってきてくれたから……」
父は私が手にしたお盆を見て、頬を緩める。
私と同じように少し緊張していたのではないかと思った。
(お父さんも昨日のこと、気にしていたのかもしれない……)
そう思うと、これまでより少し歩み寄ってみようかという気持ちが湧いた。
「私も一緒にここで食べていい?」
「ああ」
父は頷いて、周囲を見回す。
どのテーブルも焼きものでいっぱいだと気づいたようで、困ったようにさっきまで自分が座っていた椅子のあるほうを指した。
「あっちでいいか? ちらかっててすまんな」
「ううん、仕事の部屋だもん。当たり前だよ」
父の仕事小屋を入り口から覗いてみたことはこれまでにもあるが、中まで入るのは初めてで、私はどきどきしながら足を踏み入れた。
他のテーブルと違って焼きものが置かれていることはなく、本や写真や紙や色鉛筆が、重なりながら広げられている奥のテーブルは、どうやら父が焼きものの柄を考える時に使っているスペースのようだった。
描きかけの草花の絵の束を、父は雑に掴んで本の山の上に乗せる。
「ここでいいか?」
「うん」
私は西瓜の乗ったお盆をそのテーブルの上に置いた。
父がそれまで使っていた椅子を勧められるので、私がそこへ座ると、父は木枠の箱をどこからか持ってきて、縦に置いて座る。
向きあう格好で一緒に西瓜を食べながら、私は仕事小屋の中をもの珍しく見回していた。
(どうしよう……)
昨夜のことについて話したいのだが、なんと切り出していいのかわからない。
父も同じらしく、ちらちらと時々私の様子をうかがいながら、黙って西瓜を食べている。
(もう食べ終わっちゃうよ……)
困った思いで何気なく視線を横向けた時、机として使われているテーブルの上に、思いもよらないものを発見した。
(え? あれって……)
テーブルの正面には大きめのコルクボードが立てられ、焼きものの絵柄の参考にするらしい植物の写真が何枚も貼られているのだが、その中に私の写真があった。
(私……?)
真新しい制服を着て、桜の木の下で笑ってポーズを決めている写真。
おそらく中学校の入学式で、母が撮ってくれた写真だ。
(そういえばお父さんへの手紙に入れたんだった……)
ぼんやりとそんなことを考えながら、西瓜を食べ続けている私の視線が、どこへ向いているのかに気がついたらしく、父がはっと立ち上がった。
「和奏! それは……!」
なぜだか大慌てしながら、私とテーブルの間に割って入る。
まるで私に、あの写真を見せまいとするかのように――。
あまり大きくはない父の体を、避けて私がテーブルを見ようとすると、父もそちらへ体を動かす。
逆に動くと、父も逆に――。
何度かそれをくり返した末に、私はこらえきれなくなって笑い出した。
「あはは……大丈夫だよ、お父さん。私、嫌だなんて思ってないから……」
父は驚いたように私の顔を見て、それからきまり悪そうに指で頬を掻いた。
「そうか? だったらいいんだが……高校生にもなったら、『キモイ』とか言われるんじゃないかと思って……」
真剣な顔でそんなことを言いながら箱に座り直すので、私の笑いはますます止まらなくなる。
「そんなこと言わないよ! あはは……お父さん、そんなこと気にしてたの?」
「ああ……」
父は手にしていた西瓜をお盆に置き、首からかけていたタオルで手を拭いてから、写真が貼られたコルクボードを裏返した。
そこには小学生くらいからつい最近までの私の写真が、満面に貼られていた。
「――――!」
私が思わず言葉を失ったのは、母と住んでいたマンションのリビングに飾られていたコルクボードのことを思い出したからだ。
父から送られてくるこの家や髪振町の写真を、母は丁寧に並べて貼っていた。
決してコルクボード一面の自分の写真にたじろいだわけではなかったのだが、父は探るように私の顔を見る。
「やっぱり……『ドン引き』とか思ったか?」
山の中の一軒家で焼きものを焼くという、いかにも世俗とはかけ離れた生活をしているのに、いったいどこで父はそんな若者言葉を覚えるのだろう。
真面目な印象と真逆すぎな言葉が父の口から出てくることに、私はこらえきらずにやっぱり吹き出した。
「そんなこと思わないよー、あはは」
「そうか?」
私の前に置かれた箱に座り直して、父はもう一度西瓜へ手を伸ばしたが、その表情は嬉しそうだった。
「造形がうまくいかない時や、絵柄のアイデアに詰まった時なんかに、和奏の顔を見ると癒されるんだ……いつの間にか時間が過ぎてて、仕事にならない時もあるけどな……」
父は少し恥ずかしそうに私から目を逸らし、コルクボードに私の写真が貼ってある理由を教えてくれた。
「これって……親バカか?」
照れくさそうな様子に、私まで恥ずかしくなる。
「親バカ……だね」
父は、はははと笑って、西瓜の皮と種が乗ったお盆を隣のテーブルへ移す。
机の代わりに使っているテーブルに紙を置き、すらすらと色鉛筆を走らせた。
「これ……なんだかわかるか?」
訊ねられるので、父の横から顔を出して、描かれたものを確かめる。
「わかる! わかるよ!」
私は急いで、いつも首から提げているペンダントを服の中から引っ張り出した。
小学校初めての授業参観で、父と一緒に作ったペンダントだった。
そこに描かれた私の絵と、よく似た花の絵を、父は紙に描いていた。
「なんだ? いつも提げてるのか?」
いつになく大きな声で驚く父に、私は笑いながら答える。
「違うよ。でもここに来てからは提げてるかな……やっぱり気づいてなかったんだ」
父は照れたように頬を指で掻いた。
「高校生の娘の胸もとなんて、じろじろ見るわけにはいかないだろ……『セクハラ親父』って言われたら悲しいし……」
「言わないよ!」
十年近く離れて暮らしていた娘が、突然一緒に暮らすことになり、父も思うことがあったのだろう。
私の知らないところで、いろいろと気を遣ってくれていたのだ。
どこで仕入れたのか怪しい知識ではあるが――。
「そうか……大事にしてくれてるんだな……父親らしいことなんて何一つしてやってないのに……嬉しいな……」
独り言のように呟きながら、父は花の絵の周りに、タッチはよく似ているが違う種類の花の絵を次々と描き始める。
「可愛い……」
私が呟くと、嬉しそうに肩を竦めた。
「最初に描いたのはお前だろ……まだ一年生なのに、なんて上手に描くんだって、我が子ながらすごいと思った。その絵をずっと残しておけるものに加工できたあの授業は、本当に感動だったな……」
私が向かいあっているのではなく、横にいるからだろうか。
今日の父は普段よりかなり饒舌だ。
「あれからすぐにこっちへ来て、何をして暮らそうかと考えた時に、親父が趣味で使っていたこの窯で、本気で焼きものを作ってみようと思ったのは……お前の絵を思い出したからだ」
「私の絵?」
「ああ……俺の親父も、趣味で絵を後付けする焼きものを作ってたが、ああいうのに和奏が描いたような絵を入れたらどうだろうって思った……結果、仕事としてやっていけてるんだから、和奏に感謝しないといけないな……」
「そんな……私は何もしてないよ……」
父は、近くに置いてあったまだ絵を描いていない小さな皿を私に手渡した。
「描いてみるか?」
「え……?」
私が返事もできないでいるうちに、次々と目の前に絵の具の入った皿と絵筆などが並べられる。
「お前が使う用にするから、好きに描いていいぞ」
「そんな……! 描けないよ!」
「描ける、描ける」
父はすっと、私が首から提げたペンダントを指した。
そこに描かれているのは、たどたどしい子どもの絵で、私から見ればとても下手なのだが、父にとってはそうではないらしい。
「和奏は天才だから」
にやりと笑われて、脱力する思いだった。
「ほんとに、かなりの親バカだよ……」
「ははは、そうかな」
笑う父の声を聞きながら、私は絵筆を手に取った。
何を描こうかと思う間もなく、一つの光景が頭に浮かび、私は筆を動かし始める。
父は興味津々といったふうに、それを見ていた。
この家に来てから、私は毎日縁側に座って庭を眺めているが、真夏なこともあり、花はほぼ咲いていない。
その中にあって、なぜか遠くのほうに、赤い花が咲いているのを見つけた。
家の敷地内ではなく、その外の竹やぶの中の、それもかなり高い位置に、ぽつぽつと咲いている真っ赤な花。
その名前をハナちゃんに教えてもらって、思わず笑ってしまったことを思い出す。
「できた!」
描き上げた絵を父に見せると、あの日の私と同じように吹き出した。
「ハイビスカス! なんで? って……ああ、そうか……!」
父は懐かしそうに目を細めながら、私の手から小皿を取り上げた。
「家にいながら南国気分が味わえるとか言って、母さんが……お前のお祖母ちゃんが庭に植えたんだよ。うまく育たなかったけど、いつの間にか家の外で育って……」
「面白いお祖母ちゃんだったんだね」
「そうだな……数えられるぐらいしか会わせてやれなかったけど、お前をとても可愛がっていたよ……」
少ししんみりした雰囲気を払拭するように、父は声を弾ませる。
「それにしても……やっぱり和奏は絵がうまいな! うん、天才だ!」
「だから、それはさすがに買いかぶり過ぎだって」
「お絵描き帳をすぐ使い切るくらい、いつも絵ばっかり描いてただろ? 今は、もう描いてないのか?」
「それって、小学校に入る前の話じゃない! 今は……うん、描いてないかな……」
父に訊かれて、私は初めて気がついた。
自分はいったいいつから、絵を描かなくなったのだろう。
確かに小さな頃は、母に呆れられるほど絵ばかり描いていた。
(それと同じくらい楽しいことが出来たから……じゃないかな? 友だちと遊ぶとか、テレビを見るとか……学校に行くようになったら、宿題だってあって、忙しくなったのもあるだろうし……)
心の中で考えているうちに、気づいてしまった。
理由はいろいろ考えられるが、最大のものは、おそらく手放しでそれを褒めてくれていた父がいなくなったからだ。
今されたように、「和奏は天才だ!」と笑顔で私の描いた絵を褒めてくれる父が、いなくなったから――。
そう思うと、目頭が熱くなり、涙が溢れないようにするのがせいいっぱいだった。
仕上げの場所へと私が絵を描いた小皿を運んでいた父には、私の心の中の葛藤などわかるはずもないのに、うしろ姿のまま、ますます私の涙腺を緩めてしまうような言葉をくれる。
「うちはこんな山の中だし、テレビもなくて、都会から来た和奏には退屈だろうけど……来てくれたことは嬉しく思ってるんだ……でもそれは、和奏に家のことをしてほしいからじゃない」
「え……?」
小皿を置いて戻ってきた父は、手に大きなスケッチブックを持っていた。
「十年近くも一人で暮らしてきたんだから、俺もたいていのことは自分で出来る。と言ってもハナさんに頼ってる部分は大きいが……とにかく、掃除でも洗濯でも料理でも、時間が空いたら俺もやるんだから、和奏はもっと自分のことに時間を使っていいんだ」
思いがけないことを言いながら、父はスケッチブックを私に渡した。
「なんてかっこいいこと言いながらも、これは親の欲目なんだが……描いて見せてくれよ、小さな頃みたいに……この町のいろんな景色、和奏だったらどんなふうに描くんだろうって思いながら、いつも写真を撮ってた……」
「あ……」
父から送られてきたこの町の写真の数々が、脳裏にぱあっと蘇った。
気がついたら私はスケッチブックを強く握りしめて、叫んでいた。
「私も見てみたいと思ったの! お父さんが送ってくれた写真の町をこの目で……それがここへ来た一番の目的だったの!」
父はにやりと笑いながら、近くのテーブルの上に置いてあった煙草を一本取り出し、先に火を点ける。
「作戦成功」
唇に挟んで大きな壺の一つに向きあったので、私はスケッチブックを脇に抱え、お盆を持って、その部屋から帰ることにした。
「お仕事邪魔してごめんね」
父は煙草をくわえたまま、目尻を下げて笑ってみせる。
「和奏を邪魔だと思ったことなんて、お前が生まれてからこれまでに一度もないよ」
その言葉が、私にどれほどの自信とやる気をくれるか、父にはわからないだろう。
「これ片づけたら、ちょっと絵を描きに行ってくるね!」
駆け出ていく私をふり返らず、父は言葉だけで見送った。
「気をつけろよー」
「はーい」
来る時とは別人のように軽くなった足取りで、私はハナちゃんが待つ母屋へ駆け戻った。
母屋へ戻ると、縁側にもうハナちゃんの姿はなかった。
待っていると言われたわけでもなかったが、父といろんな話をした報告が果たせなかったことは残念だった。
(ハナちゃんのおかげだもんね……)
明日になるか明後日になるかは不明だが、また来てくれた時に話そうと心しながら、私は台所で西瓜の皮を片づけ、出かける準備をした。
(水筒と、タオルと、財布と、ペンケース……)
荷物が多くなりそうなので、必要なものを、昨日椿ちゃんと出かけた時のショルダーバッグから、リュックに詰め替える。
迷った末にスマホも、時計代わりと非常時の照明として持っていくことにした。
(電話としての機能は期待できないけど……まあいいか……)
履き慣れたスニーカーを履いて、帽子を被り、リュックを背負ってスケッチブックを抱える。
(出発!)
目的地は山の上のほうだと決めていた。
椿ちゃんと眺めたあの街全体を見下ろす光景を、父がくれたスケッチブックの一ページ目に描いておきたいと思った。
しかし――。
(そうだった……そうだったわ……)
父の仕事場兼住居の近くを通っている道は、地域の人たちからは『獣道』と呼ばれており、人が登る用のものではなかった。
頂上まで脇道もなければ、景色を眺めるような場所もない。
私が望んだように麓の町の風景を描きたければ、山の頂上にある髪振神社の上之社まで行くしかなかった。
(失敗したわ……)
どこか景色のいいところで絵が描きたいのなら、いったん麓まで下り、椿ちゃんが教えてくれた山の反対側から登る道を行くべきだったのだ。
そうすれば頂上まで行かなくても、休憩できる眺めのいい場所があったはずだ。
(仕方ない……今更もうひき返せないもの……)
かなり登ってきてしまった急斜面の道をふり返り、私はため息を吐く。
(次に山を登る時こそ、もう絶対にまちがえない!)
強く心しながら、私は息を切らせてその道を登り続けた。
(やっと着いたぁ……)
上之社へと続く最後の石段前にたどり着いた時、私はもう虫の息だった。
先日と同じように湧き水で手と顔を洗い、ついでに喉も潤す。
「おいしい……」
口の中をゆすぐだけで、飲むのはやめておきなさいと、初詣の参拝のマナーでは母に教わったが、この山頂の澄みきった湧き水では話が別だ。
火照った頬を濡らすと同時に、喉の奥も冷えて、上がりきった身体の温度が瞬く間に下がる。
(今日もお邪魔します……)
石の鳥居の前で軽く頭を下げて、私は石段を登った。
しばらくすると、石段の終わりが見えてきた。
登りきって落下防止用の柵沿いに境内をぐるりと裏手へ廻ると、どれほど素晴らしい景色が待ち構えているのかを、私は忘れていない。
最後のひと踏ん張りとばかりに石段を登りきって、たどり着いた上之社の境内は、今日も静けさに満ちていた。
(本当に誰もいないな……こんなに素敵なところなのに……)
簡単に参拝できる大きな社が山の麓にあるのだから当然なのだろうが、少しもったいない気がする。
拝殿にお参りして、私は展望台のほうへと進んだ。
転落防止用の柵と原生林の向こうに広がる見事な景色。
私は新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんで見渡したが、少し違和感を覚えた。
(あれ……?)
私が描こうと思っていた景色と、微妙に違う気がする。
そんなことがあるだろうかと首を傾げて、すぐに気がついた。
(あ! そうか!)
いつの間にか私の頭の中で、上之社からの景色が、椿ちゃんと初めて会ったあの場所で見た景色とすり替わっていた。
おそらくここより低い位置から見た景色だったのだから、違うように感じて当然だ。
(どうしようかな……)
考えながら私の足はすでに、転落防止用の柵を越えている。
私はやっぱり、椿ちゃんと一緒に見た、夕焼けに染まる町の風景が忘れられない。
絵に残すのならばやはりあの景色がいいと、彼女に手を引かれてあの場所から戻ってきた道を探すことにした。
(確かこのへんだったと思うんだけどな……)
目印となるはずの大岩はすぐに見つかったが、その影に隠れるようにしてあるはずの抜け道への入り口が、どうしても見つからない。
(そんなはずないんだけどな……)
諦め悪く岩の周りをぐるぐると回っているうちに、木の根につまずき、私は足を滑らせた。
「きゃあっ!」
近くには崖もあったのになどと、考える余裕もない。
落ち葉や枯れ木が折り重なった上をごろごろと転がり、空中へ放り出された。
「きゃああああっ!」
急速で下へ落ちていく感覚に、これでもう私の人生は終わりかもしれないと覚悟して、固く目をつむった。
しかし、そうはならなかった。
恐怖のあまりに手放した意識を私がとり戻した時、背中にはしっかりと地面の感触があったし、手も足も、ひとまず不自由なく動かせた。
(助かった……?)
固く閉じていた目も開いてみる。
すると目の前に、私を心配そうに見下ろす人物の顔があった。
「え? ええっ!?」
驚きの声を発してしまったのは、それが知っている顔だったからだ。
色白で澄んだ目をした、いかにも優しそうな風貌のその人は、私が目を開いたのを見て、ほっと安心した表情になった。
「よかった……気がついたね」
「はい……」
その人――椿ちゃんの幼なじみで想い人の誠さんは、先日彼女がそうしていたのと同じように、倒れた私の顔を上から覗きこんでいた。
「ここで絵を描いていたら、突然上から何かが降ってきたんだ。てっきり猪だと思って……」
(猪……)
「驚いてふり返ったら、和奏ちゃんが倒れてて、もっと驚いたよ」
「すみません……ここへ来る道を探してたら、足を滑らせて落ちちゃって……」
「大丈夫? 怪我はない?」
「はい。大丈夫みたいです」
前回と同じように特にけがはしていないことを確認してから、白詰草が咲き乱れる地面の上に座り直した私を、誠さんは笑いながら見守る。
大きなイーゼルの前に立ち、パレットと絵筆を手にしている彼は、私がそうしようと思っていたのと同じように、この場所から見る町の景色を描いていたらしい。
キャンバスには夕焼けの綺麗な色が塗られていた。
「――――!」
私は慌てて、父からもらったスケッチブックを探し、自分のすぐ傍に落ちているのを見つけ、大切に拾い上げる。
(よかった……)
スケッチブックを抱える私を見て、誠さんが目を細めた。
「和奏ちゃんも絵を描くの?」
彼が向かっている立派なキャンバスに目をやって、私は小さく笑う。
「少しですけど……」
誠さんは絵筆とパレットを片手に持ち替え、空いた手を私にさし伸べて立たせてくれながら、また笑った。
「僕もだよ。趣味で描いてるんだ」
「趣味……ですか?」
それにしては本格的な道具に、私が首を傾げると、誠さんは恥ずかしそうに頬を指で掻く。
「凝り性でね。そのくせいろんなことに手を出しては、周りに呆れられてる……今は、絵と細工物と盆栽だな……」
「盆栽……」
それはまた広範囲だと思いながら、私ははっとした。
「椿ちゃんにあげた髪飾り……ひょっとして手作りですか?」
誠さんの肩がびくりと揺れた。
「よくわかったね……」
笑顔で答えてくれたが、彼が少なからず動揺していることはわかる。
(あれ……ひょっとして……?)
嬉しい手ごたえを感じながら、私は少しずつ質問を重ねていった。
「ここって、椿ちゃんが『私の秘密の場所』って言ってたんですけど……?」
誠さんは動揺を隠そうとしているのか、キャンバスに向き直り、色を重ねていきながら、私には背を向けて答える。
「そうかもね……僕は子供の頃に、椿と一緒にここを見つけたから……」
「一緒に見つけたんですか?」
「ああ、そうだよ。森で迷子になって、なんとか帰り道を探そうと彷徨っているうちに、迷いこんだ感じかな……」
「そうだったんですね……」
それならばこの場所は、椿ちゃんにとってより一層特別な場所のはずだ。
そこに彼女の想い人の誠さんと一緒にいることが、なんだか申し訳なくなる。
「私……」
ここで絵を描くことは諦めて、帰ろうかと思った。
暮れかけた日に照らされた町の、まるで違う世界に迷いこんだかのように美しい景色ならば、もう私の脳裏にしっかりと焼きついた。
父の仕事小屋兼住居の縁側に座ってでも、描くことはできるだろう。
帰ると声をかけようとして、誠さんが熱心に向かっているキャンバスに何げなく目を向け、茜色に染まる雲の情景に、少女の横顔が見える気がした。
「それ……椿ちゃんですか……?」
思わず声に出てしまった問いかけに、誠さんはかわいそうになるくらい大慌てした。
「え? 何が? え、あ……そ、そう見えるかな……いや、そんなつもりは……」
ゆったりと落ち着いた人物だという彼への印象が、まるで真逆になってしまいそうな慌てように、私は申し訳なくなってしまい、慌てて背を向けた。
「ごめんなさい! 私、もう帰りますね!」
「え? ああ……気をつけてね」
「はい!」
その場所から出ていく道へ向かいながら、最後にもう一度ふり返って、誠さんに叫んだ。
「夏祭り! 楽しみですね! 絶対いい思い出作りましょうね!」
「うん……そうだね」
困ったように笑ってくれたことを確認して、今度こそ本当にその場所から出る道へ一歩を踏み出した。
(椿ちゃん……きっとうまくいくよ!)
彼女の恋の成り行きを、まるで自分のことのようにわくわくしながら、暗くなり始めた帰りの道を、私は急いだ。
夏祭りの数日前から、髪振神社の参道では、長い竹で建築現場の足場のようなものが組まれ始めた。
車も走る道路を跨いで建っている一の鳥居ではなく、歩いてしか潜ることのできない二の鳥居の脇から始まるそれは、幅三メートルほどの参道の左右に、長い石段も含めて延々と、拝殿と手水舎の前まで続く。
祭りの当日は、そこに紙製の燈籠がずらりと提げられ、光の道標のようになるのだそうだ。
階段では数段ごとに、頭上に橋を渡すようにして竹が組まれており、そこにも大きな横長の燈籠が掲げられるのだと、ハナちゃんが教えてくれた。
燈籠に描かれた絵や文字は、どれも地域の子どもたちや有志の手書きで、私ももう少し早く越してきていたら、参加できたのにと残念に思う。
「来年こそやね」
「うん……」
その代わりと言ってはなんだが、父が町役場の人に頼まれて描いたものならばあると、教えてもらった。
どこに掲げられるのかは本人にも不明だが、それを探すのも祭りの楽しみの一つだとハナちゃんは笑う。
「知っとる者の燈籠を探すのが楽しみじゃけぇ」
実は椿ちゃんの燈籠もあるのだと、列車で隣街まで行こうとしたあの日の帰りに、田んぼ道を歩きながら打ち明けられていた。
『学校で無理やり描かされた下手なやつだから……』
本人はとても不服そうだったが、その理由の一つが今ならば少しわかる。
写真のように綺麗な絵を描く誠さんに、椿ちゃんはおそらく自分の絵を見られたくないのだろう。
だが、二人でそれを見つけるのも、話のきっかけになっていいのではないかと私は思う。
(だって二人は……)
偶然知ってしまった事実を、一人で思い出してはにやにやとする私を、ハナちゃんがやんわりとたしなめた。
「和奏嬢ちゃん、じっとしちょかんと着せられんよ」
「ごめん! ハナちゃん!」
私は慌てて、両腕を肩と水平の高さに上げるという最初の体勢に戻った。
夏祭りの当日――。
「せっかくなら浴衣を着て行きんしゃい」
ハナちゃんが、自分の若い頃の浴衣を私のためにわざわざ持ってきてくれたのだった。
「こんな柄、今では流行らんかのう……やっぱり新しく誂えたほうがよかったかねぇ……」
紺地に朝顔の柄の浴衣を、私の肩に当ててみてはため息を吐くハナちゃんに、私は懸命に首を振ってみせる。
「ぜんぜんおかしくなんかないよ! すごくステキな浴衣じゃない!」
「そうけ? 和奏嬢ちゃんがそう思うならいいけど……」
帯は紫にしようか、白のほうがいいだろうかと、ハナちゃんが私の足もとに帯を広げて悩んでいる時に、ふらりと父がやって来た。
「和奏、今日の夜だけど……あ!」
私が浴衣の着付け中だとわかったらしく、慌てて帰ろうとする。
「すまんすまん。下の神社で夏祭りがあると教えたかったんだが……もう知ってたな」
私は急いで呼びかけた。
「お父さん大丈夫だよ! もう帯を選んでるだけだから」
「そうか?」
それでも心配そうに、障子の影からこっそりと顔を出した父を、ハナちゃんは笑う。
「なんじゃろ。子どもみたいに……ふぉふぉ」
「そんなこと言ったって……」
父はなぜだか部屋の入り口で正座し、ハナちゃんが白に決めたらしい帯を締めるのを、静かに見学することになった。
「すっかり大人になったなぁ……」
ため息交じりに呟かれた言葉には、私も笑ってしまう。
「何言ってるの、私、まだ十七歳だよ?」
「もう十七歳だよ……あ……そうだ!」
父はふと、何かに思い当たったかのように立ち上がった。
隣の部屋へ行き、箪笥の引き出しを開けるような音がバタンバタンと何度かしていたが、そのうちてのひらに乗るほどのサイズの小さな箱を持って帰ってくる。
よく使いこまれた木製の、かなり年代物の箱のように見えた。
「実はこれ、母さんの……和奏のお祖母ちゃんの形見なんだけど……」
お父さんが蓋を取ると、箱の中には丸いブローチのようなものが現われる。
細かな銀細工が縁を飾っているが、中央に嵌めこまれているのはおそらく焼きものだ。
「ああ、帯留めじゃねえ、懐かしい……」
目を細めるハナちゃんに父はそれを渡そうとした。
「もしよかったら、これを和奏に使って……」
大きな声でそれを制止したのは私だった。
「そんなの無理だよ! もし失くしたらどうするの? お祖母ちゃんの形見なんでしょ?」
「帯留めがなくなるなんてことはないよ」
「そうそう」
父もハナちゃんも笑っているが、私は必死だった。
「無理無理! さすがに遠慮します! どうしてもと言うならもっと特別な日に! そう、例えばお見合いとか……結納とか……?」
祖母の形見を身に着けるという大任から逃れたくて、私は適当に今後着物を着る機会がありそうな例を挙げたのだったが、目に見えて父がしょんぼりとした。
「そう……だな……」
あからさまに肩を落として、隣の部屋へ箱を返しに行こうとする様子を、ハナちゃんがふぉふぉふぉと笑う。
父は悔しそうにふり返って、私に問いかけた。
「和奏……ひょっとして今日、一緒に祭りに行くのって……」
まるで捨てられた仔犬のように悲し気な瞳で、縋るように訊いてくるので、思わず大きな声で叫んでしまう。
「女の子よ! 女の子! この間言っていた、この町に来て初めてできた友だち!」
「そうか」
ほっとしたような表情で、父は部屋を出ていこうとしたが、せっかくの機会なので私は伝えておくことにした。
「その子が、『成宮』の子なの」
「「え?」」
驚きの声は、父とハナちゃんの両方から聞こえた。
(そんなに『成宮』ってすごい家なのかな……)
確かにかなり大きなお屋敷だし、椿ちゃんのお父さんはいかにも地元の名士といったふうの貫禄と迫力の人物だった。
椿ちゃんが自由に出かけることを禁止されていることもあるし、ひょっとすると私ごときが『友だち』と言える人ではないのではないかという疑惑さえ浮かんでくる。
(今時そんなの……って思うけど、このあたりではそれが当たり前なのかもしれないし……)
ひそかに不安に思っていると、父が長く詰めていた息を吐いた。
「そうか……いつの間にあの子と知りあってたんだ?」
私は懸命に説明する。
「上之社を探しに行った時、偶然会って……その次の日も、一緒に隣街へ行こうって約束して……それは中止になったんだけど、夏祭りは一緒に行く約束をしてるの」
「そうか……」
父に心配をかけないため、上之社を探しに行った時崖から落ちてしまったことや、椿ちゃんの家へ遊びに行き、彼女のお父さんと対面したことはまだ話さないでおいた。
そうでなければただでさえ強張ってしまった顔が、ますます困惑の表情になるような気がした。
私と父を交互にちらちらと見ながら、ハナちゃんが口を開く。
「あの……」
しかし、父が鋭くそれを制した。
「悪い、ハナさん。和奏には俺からちゃんと説明するから……」
「……はい」
二人の深刻な表情を見ているだけで、『成宮』というのは何なのか、とても不安になるが、今はそれをゆっくりと教えてもらっている時間がない。
腕時計をちらりと見た父も同じことを思ったようで、今度こそ本当に隣の部屋へ移動していった。
「もう時間がないな……ハナさん、和奏を仕上げてやってくれ」
「はい」
仕事小屋へ帰る前に、父は一旦、ハナちゃんに帯を締められている私のところへ顔を出して、真剣な表情で約束する。
「今はもう時間がないから、帰ってきてからにするが……『成宮』について、お前に話したいことがある」
(――――!)
どきりと胸を鳴らしながらも、私もしっかりと頷いた。
「うん。花火が上がる前には帰ってくるつもりだから……その時に……ここからも見えるよね?」
父は懐から煙草の箱を出し、そこから一本抜いて口にくわえながら、にやりと笑う。
「見えるなんてものじゃない。直撃だ」
ようやくいつもの調子に戻った父の様子が嬉しくて、私は笑いながら言った。
「じゃあ、一緒に見ようね!」
「ああ」
頷いて去っていく背中を見送り、ほっと胸を撫で下ろした。