帰りは百合さんの案内で、裏門からお屋敷を出た。
「どうかこれからも、お嬢さんと仲良くしてくださると嬉しいです……」
 さっきから恐縮しっぱなしの百合さんが気の毒で、私は笑顔で答える。
「もちろんです」

 椿ちゃんはお父さんに言われたように部屋から出ず、すでに三日先のぶんだという難しい数学の問題集を、黙々と解いていた。
 文机の引き出しの二段目を時々開けて、悲しそうに中を見ていたことが印象的だった。
 そこにしまった誠さんからのお土産を、おそらく見ているのだと思うと、私も切なくなる。

(夏祭り……ちゃんと行けるといいけど……)
 日の傾きかけた田んぼ道を進み、父の仕事小屋兼住宅がある山に着いたのは、もう辺りが暗くなりかける頃だった。

 日が暮れても月明かりがけっこう明るいことを椿ちゃんに教えてもらった私は、それを不安に思うことはなかったが、頂上へ通じる山道を逸れて、家へ向う小道に入ると、庭に佇む人物の姿が見えて、どきりとした。
「お父さん!」

 また心配させてしまったのかと慌てて駆け寄ろうとしたが、そうではなかった。
 父は仕事の合間の休憩だったようで、手にしていた煙草を唇で挟み、私に向かって手を上げてみせる。
 私はほっと胸を撫で下ろしながら、ゆっくりと父に近づいた。

 紺色の作務衣を緩く着て、頭には手拭いの、いつもどおりの格好。
 父はこの家では常にこの格好をしている。
 作業がしやすくて、その上楽なのだそうだ。

 都会で一緒に暮らしていた頃は、いかにもサラリーマンという、スーツにネクタイ姿しか見たことはなかったが、今のほうが父らしい気はした。
 他の何も気にせず、ただ自分の好きなものだけに向かっている姿は、いつも羨ましくさえある。

 ふと――椿ちゃんのお父さんも和服姿だったのに、ずいぶん違うものだと思った。
 もっともあちらは羽織まで着た、正装ではあるけれど――。

 父の隣に立って、しばらく庭の木花を眺めながら、私は今日の顛末を簡単に話した。
「友だちと隣街へ行く予定だったんだけど、途中でやめたの。その子が、体調悪くなっちゃって……」
「大丈夫だったのか?」
「うん、少し休んだら治ったみたい」
「そうか……」

 やはりそれ以上会話は続かない。
 その居心地の悪さには多少慣れたつもりだが、並んで立っているのならばやはり何か話したほうがいい気がして、私は問いかけた。
「ねえ、お父さん。成宮って知ってる……?」

 昨日初めて椿ちゃんに会った時、「この町の住人で、『成宮』を知らない者はいないもの」と彼女が言っていたのを思い出し、訊いてみたのだった。
 父が「知っている」と答えたら、「その成宮の子と友だちになったんだよ」と話を続けるつもりだった。
 ところが――。

 父は唇の端にくわえていた煙草をぽとりと地面に落とし、それすら気にせずに両手で私の肩を掴んだ。
「誰に聞いた?」

 力ずくで父のほうを向かされ、怒気をはらんで問いかけられた声は、これまで聞いたこともないほど低かった。
「え……?」

 椿ちゃんのお父さんを彷彿とさせる鋭い眼差しで、睨むように見据えられる。
「いったい誰に聞いたんだ?」
「お父さん……?」

 戸惑う私に初めて気がついたように、父ははっと肩から手を放し、足もとに落ちた煙草を拾うため身を屈める。
しかし声の刺々しさは変わらない。
「ハナさんか?」

 何がこれほど父を怒らせてしまったのかがわからず、私はうまく言葉が出てこなかった。「ち、ちがう……」
「そうか……」

 父は煙草を拾うと、仕事小屋へ向かって歩き出す。
「しばらく小屋から出てこれないと思う」
「……うん」

 遠くなっていく背中は、私がこれ以上何かを問いかけることも、説明することも拒んでいるような気がして、悲しかった。