キミのココロは何色ですか?

 雑居ビルの階段を上がった二階に、母さんが申し込んだという塾があった。
 塾の入口のドアノブに手をかけようとした時、心臓が早く脈打つのを感じた。
 今思えば…退院してから、こんなにドキドキするような出来事は初めてだったかもしれない。
 少し冷えたドアノブを握り、扉を開けようとした時、後ろから声がして僕は身体をビクつかせた。
 
「あれ?テツ君??」
 
 その声と呼び方…思ったとおり、そこにはキョトンとした顔をする梢がいた。
 部活帰りなのだろうか、白い半袖のYシャツに紺色のネクタイ姿の梢は、左手をパタパタと仰いで自分に向かって風を送っていた。
 
「もしかして…テツ君、この塾の生徒?」
 先程まで階段下に見えていた、小さな梢の姿がどんどん鮮明で大きくなってくる。
「い、いや…、母さんに夏期講習の体験授業を受けろって言われただけ……」
 僕は久しぶりの梢との会話に緊張して、無意識に早口になっていた。
 段差一つ分を残して立ち止まった梢は、鞄からピンク色のハンカチを取り出して首元を流れる汗を拭く。
「あっ、そうなん?なら、私と一緒やね!とりあえず、暑いから中入って涼しくなろ」
 驚く僕をよそに、梢はドアノブを捻り中へ入った。
 
 扉を開けると事務員の人が挨拶をしてくれたので、僕らは体験授業に来たことを説明した。
 事務員の人から近くにある椅子にかけて待つように言われた僕らは、二人で後ろにある椅子に腰を下ろした。
 
 塾内には「有名国立大合格!」と書かれた紙が、大衆食堂のお品書きのように壁を埋め尽くしていた。
 緩めたネクタイの先を団扇(うちわ)代わりにパタパタと仰ぎながら、梢もキョロキョロと周りを見渡していた。
 
 梢の仰ぐ風がこちらに吹くたびに、ほんのり甘い香りがして、僕は少し緊張した。
「なんか、すごいね…」
 梢は目の前にいる事務員が忙しなくしている様子を見ながら、艶やかな髪を左耳にかけた。
 その艶美(えんび)な髪を掻き上げて見える白い肌の横顔から、チラリと泣きボクロが見える。
 椅子が小さいのもあり、隣にいる梢が暇を持て余して足をばたつかせるたびに、白いYシャツの袖が僕の肌に触れる。
 
 ―こんなに梢の近くにいるのは小学生以来だろうか。
 
 知っているはずなのに、知らない子が隣にいる感覚に僕の心は騒ぎ出す。

「そうやね…」
 僕は、遅れてその言葉を返すのが精一杯だった。
 
 しばらくして、僕らは少し大きな部屋へ案内された。
 室内には思ったよりたくさんの人が座っており、部屋の中の空気は冷房が効いているのもあり、少し張り詰めている感じがした。
「好きな席に座っていいですから」と事務の人に言われたので、辺りを見回したが二人分の席が無かったので、僕は一番後ろにあった壁際の席に座った。
 梢は、同じ列の前から三番目の席に座り、紺のギンガムチェックのスカートに巻いていたベージュのカーディガンに袖を通した。
 席に座って数分後にガラガラガラと扉をスライドさせる音が静寂を破ると同時に、溌剌(はつらつ)とした男性の声が部屋に響き渡った。
 
 英語の体験授業だったが、いつもの学校の授業と違う緊張感を味わった。
 講師の《教える》という熱量の高さを肌で感じ、こんな授業を受けている人達と一年後に同じ受験生となるのかと思うと、さすがに焦りを感じて真剣に授業に聞き入った。
 
 ー…授業が終わり、アンケート用紙を記入して部屋を出る支度をしていると、先に支度を終えた梢が声をかけてきた。
「テ、テツ君…良かったら、一緒に帰らない?」
「えっ⁉︎」
 突然の彼女の誘いに驚いて変な声が出てしまったが、僕はあの時の謝罪をするチャンスだと思い、一緒に帰ることにした。
 
 体験授業のアンケート用紙を事務員に渡すと入塾関係の資料一式を手渡された。
 僕らはそれらを受け取り、雑居ビルを出て駅へ向かった。
 陽が落ちてきて、昼間の酷暑が少し和らいで歩くのが楽になっていた。
 空に滲む青と赤が人々を見下ろすなか、眉山の山肌の緑は夏の暑さを楽しんでいるかのように、生き生きとその葉を茂らせていた。
 
 僕らは近くを流れる川の爽涼(そうりょう)な音を聞きながら、しばらく無言で歩いた。
 久しぶりに歩く梢の隣から見る景色は、あの頃より鮮やかで、張り替えたばかりの弦のような空気を(まと)っていた。
「今日は、部活やったん?」
 僕は、目に前に映る紅色の木々から梢の方へゆっくり目線を送る。
 梢は夕焼けが残した空気をフワリと揺らすと、目尻を下げてこちらを向いた。
 
「そやお。あんま筆が乗らんかったけど…」
 へへへ…と苦笑いをする彼女は前を向き直して、俯きながら歩みを進める。
 
 少し出遅れたヒグラシの美声が僕らの間をうめる。
 
「ねぇ、テツ君…あのね…お母さんから聞いたんやけど…手術できて、病気、ちゃんと治ったんやってね。良かった…本当に…」
 言葉を選ぶようにゆっくりと柔らかく話すその言葉に、物悲しさを誘う声が重なる。
 僕は、梢の思いがけない言葉に戸惑いながら隣にいる彼女を見る。
 梢は俯いたまま、じっと(くう)を見ているようだった。
 
「お、おう…。でも、俺は運が良かったんよ。たまたまドナーが見つかって…まぁ、前みたいに、激しい運動とかはできんけど…」
 動揺した僕は、何と答えていいか分からず、頭はフル回転させつつ、浮かんだ言葉を声に乗せた。
 少し間があった後、俯きながらもチラチラと見ながら梢がゆっくりと口を開いた。
 
「そっか…。…それでも、私は…テツ君がこうやって隣におって…嬉しいよ」
 
 梢の温かな言葉が胸に突き刺さる。
 何と答えていいか分からない僕を冷やかすように、夏虫達の黄色い声が聞こえてくる。
 
 僕が答えあぐねていると、梢が再度話しかけてきた。
「ねぇ…テツ君。テツ君は、あの塾の夏期講習、受けるん?」
「多分、母さんが無理矢理にでも受けさせるから…行くと思う」
 脈絡のない話に少し困惑したが、僕は今までよりもはっきりとした声で答えた。
 
「そっか……。じゃあ…私、買いたい参考書あるから、こっち行くね…」
 梢はこちらを向いて、駅とは反対方向を指さした。
「お、おぅ、じゃあ…」
 僕は、河渡橋へ向かう彼女の背中に声をかけた。
 
(あの時こと、謝らないと…呼び止めて…言わないと…!)
 僕はそんなことを思いながら、動かないスニーカーをジッと見つめる。
 
「ねぇ!!テツ君!」
 
 いきなり上がった声に驚き、僕は顔を上げた。
 
 目の前には河渡橋を少し渡り、こちらに向き直る彼女の姿があった。
 少し後ろに手をやり、何か言いたげな様子で身体をくねらせたかと思うと、声を反響させるために口の両端に両手を置いて喋り出した。
 
「あんね!今日、久しぶりに二人で話せて嬉しかった!」 
 
 僕にはその言葉を素直に喜ぶ資格はない。
 
 ーお、俺も…!!
 
 その言葉は声に乗らない。
 僕は何も返事をすることが出来ず、手を上げることが精一杯だった。
 それを見てあどけない笑顔を見せる彼女は、僕の知る梢の顔だった。
  
 ふわりと揺れる薄オレンジ色の上着が、濃藍色の彼方へ溶けていく。
 
 橋に落ちた小さな影は、スカートの描く流麗な弧を只々、名残惜しそうに見つめていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 家の鍵を開けて、油の匂いが漏れ出すリビングの扉の取手を捻った。
「おかえりなさい。どうだった?」
 台所で揚げ物をしている母さんがこちらを見て、塾の感想を聞いてきた。
「まぁ、悪くはなかったよ」
 僕は、パチパチとなる音を聞きながらソファへ仰向けになった。
 
「なら良かったわ!夏期講習の資料とか貰ったんでしょ?テーブルに出しといて!あと、汗だくのままソファに寝転がらない!さっさとお風呂入っちゃて!パジャマ、そこにあるから」
「はい…はいっと…」
 面倒な事になる前に塾から渡された資料をテーブルへ置き、ソファの横に置かれたパジャマを持って脱衣所へ向かった。
 
 少し重くなった上着とズボンを洗濯機に入れ、夏に似つかわしくない肌を(さら)して風呂場に入る。
 頭と身体に(まと)ったフローラルな匂いのする泡を洗い流して、湯船に浸かった。
 帰り道での梢とのやり取りを何度も頭で思い返しては、自分の不甲斐なさに嫌悪する。
 
 静かに落ちる滴が、湯船に綺麗な水面を作った。
 僕は、理想の自分が放つ叱責から身を守るように、抱え込んだ膝に濡れた額を押しつけた。
 
 湯船の水を(すく)って、勢いよく顔にかける。
 濡れた両手で頬を叩く。
「よし…」
 灰汁(あく)の出た湯船から上がり、陽の光でフカフカになったバスタオルで身体を包んだ。
 
 パジャマに着替えてリビングに戻ると、テーブルに大きなエビフライが置かれていた。
「どうしたの?これ?」
 何か祝い事でもあったのかと怪訝(けげん)に思い、揚げ物の片付けをしている母さんに話しかけた。
 
「お父さんがね、こないだ送ってくれたのよ。哲也、エビフライ好きでしょ?」
「好きだけど…。そういえば…父さん、今どこいんの?」
 エアコンの風が直撃する場所へ移動して、湯上りで火照った身体を冷やしながら、父さんの居場所を聞いてみた。
 
「大阪あたりにいたみたいだけど、運が良ければ明日の朝、家に寄るって言ってたわよ」
「ふぅん」
 エアコンの前で、冷たい風が名一杯当たるように腕を上げながら返事をした。
「ほら!エビフライ、冷めちゃうから温かいうちに食べちゃって!」
 
 母さんに急かされたので、椅子に座りテレビの電源を点ける。
 どのチャンネルも先月の大雨の被害についての特別放送が流れていた。
 
「これさぁ、父さんこっちに帰って来れるの?」
 目の前に置かれたサクサクの衣を(まと)うエビフライを味わいながら、母さんに話しかけた。
「新幹線は動いてるみたいよ、一応。本数は少し減らしてるみたいだけど…」
 味噌汁とご飯をテーブルに置いて、母さんが向かいに座った。
 
「それより、塾はどうだったの?分かりやすかった?」
 母さんから聞かれるであろうと思っていた質問が早速投げかけられた。
「さっきも言ったけど…悪くなかったって。授業は…分かりやすかったよ。英語だったから少しは理解できたし…」
 揚げた衣のサクサク感とエビのプリプリした食感を味わいながら、僕は白米を急いで口へ入れる。
 
「本当はテツヤが苦手な数学の授業予約しようとしたんだけど、一杯だったのよ。良かったのなら、数学の夏期講習…受けなさい。アンタも来年は受験生なんだから、そろそろちゃんと勉強しないとね」
 何度も言われた言葉を耳に入れたくない一心で、ソースが付いたエビフライを味わいもせず、味噌汁を流し込んだ。
 
「そうだね」
 
 これ以上の言葉を言わないように、最後に残った一口サイズの白米でその口を塞いだ。
「申し込み期限、明日までなのね。じゃあ、お母さん…申し込んどくから、8日から12日までの5日間だから忘れないでよ!」
「はい…はい」
 淡々と大雨の被害状況を話すアナウンサーの声を聞きながら、残った味噌汁と千切りキャベツを一気に胃へと流し込んで、席を立った。
 
「ごちそうさま」
 
 食器を軽く水洗いして食洗機に入れた後、ソファに置いた鞄を持って、リビングの扉に手をかけながら、少し目線を外して母さんの方を向いた。
「おやすみなさい」
「明日は、早めに朝ご飯にするからね!」
 その言葉を最後まで聞く前に扉で母さんの声を遮って階段へ向かった。
 
 自分の部屋を開けると湿った重たい空気が肌にのしかかってきた。
 すぐに、壁に掛けてあるエアコンのリモコンを手に取り、電源を入れる。
 滞留する重い空気とエアコンからのカビ臭い空気を外へ出す為に窓を開けると、ギィーとキリギリスの鳴く声が静かな部屋を埋める。
 けたたましく鳴き叫ぶ駆動音を聞きながら、ベッドへ仰向けになった。
 ガタンっとベットが軋むと同時に、洗濯したばかりのタオル地の敷マットから柔軟剤の香りが宙を舞う。
 
「はぁ…」
 
 鞄から取り出した携帯電話を開くと、健一からメールが届いたので開いてみる。
 
 <俺、花火大会までに彼女作るわ>
 
 健一らしい、何にでも積極的な物言いだ。
 僕は、天井の照明カバーの中で生を全うした虫達をしばらく見つめて、<がんばれ~期待してるわ>と返信した。
 
(なんで、健一は梢を花火大会に誘ったんだろう?梢の事、好きなんだろうか?健一からそんな話、今まで一度もふられた事、無かったのに…)
 
 考えれば考えるほど、胸の奥がモヤモヤする。
 気持ちを落ち着かせるためにゆっくりと目を閉じた。
 
(今日は何か疲れたな…)
 
 自然と機械が奏でる音に耳を傾けながら、僕の意識は徐々に黒い世界へ落ちていった。
 
 
 
 
 
 …ギャハハハ
 
 楽しそうな子供の声が途切れ途切れに聞こえる。
 腕からは堅い物が当たっている感覚が伝わってくる。
 後ろから聞こえる椅子と床の擦れる音が耳を(つんざ)く。
 
 僕は重い頭をゆっくりと上げて前を見た。
 
 目の前には黒板。
 整然と並ぶ小さな机と椅子。
 そして、走り回る小さな子供達。
 
 状況が飲み込めず、ふと目線を落とすと自分の机の上にはケロッピーの筆箱とロケット鉛筆があった。
 
(これは…昔、使ってた筆箱…?)
 
 そんなことを思っていると、ゾクゾクと背中を何かが這うような感覚がした。
 驚いて後ろを見ると、一人の男の子がニヤニヤしながらこちらを向いていた。
 
「ハハハハハッ!ビビリ過ぎやわ。哲也。お前、さっきの授業寝とったやろ」
 楽しげに話す彼の口から上は、黒い線がいくつも乱雑に入り混じって、誰なのか判断できない。
 
「だ、誰?」
 
 久しぶりに聞く自分の高い声に驚いたが、状況はある程度は理解できつつあった。
 彼は一瞬、驚いた様子を見せたがすぐに口角を上げて話し出した。
「えっ、何?そういう遊び?鈴木だよ、鈴木。お前の後ろの席の…」
 
 僕は頭の中を駆け回りながら<鈴木>という人物の記憶を探してみたが、全く思い出せなかった。
 
「あぁ…悪りぃ悪りぃ。そうだったわ。鈴木だよな!…で、今は何の時間?」
 少し話を合わせるようにして、鈴木から今の状況について聞き出そうとした。
「今?今は10分休み。次は6時間目の社会」
 鈴木は頬杖をついて気怠そうに淡々と答えてくれた。
 これ以上聞くと煙たがれそうな雰囲気だったので、最後の質問を鈴木に投げかけた。
「あとさ、何年生で、今日は何日だっけ?」
 
「はぁ。まだやんの?…6年で11月6日」
 予想通り、鈴木はため息混じりに面倒くさそうに答えた。
「そっか…ありがとう」
 礼を言いながら頭で鈴木から得た情報を処理する。
 
(小6の11月か…)
 
 背中を教室の壁につけて窓際の席を見る。
 同じクラスにいるはずの彼女を探そうとするが、目の前の群がって騒ぐクラスメイト達がそれを阻む。
 
 …キーンコーンカーンコーン
 
 不意に5分前の予鈴が鳴り、目の前にいるクラスメイト達が徐々にその数を減らしていった。
 ようやく、秋風にたなびくレースのカーテンを見ることができたので、目線を一番後ろの席へ移す。
 
 腰のあたりまで伸びた長い髪。
 文庫本を捲る細い指。
 夕陽を乱反射する眼鏡。
 
 彼女の席だけ、時が止まっているかのような厳かな空気を(まと)い、その周りには誰もいない。
 
 ーそう、僕の知る梢の姿がそこにはあった。
 
「おい、哲也。お前、結城の事…好きなん?さっきからずっと見とるなぁ…」
 鈴木がニヤニヤと白い歯を見せながら話しかけてきた。
「はぁ?何言ってんの?お前!」
 不意に振られた話題に動揺して答えると、鈴木は僕の肩をバシバシと叩いて笑い出した。
「冗談やって、怒んなし。まぁ、真面目な話、…結城、ゴリラに目つけられとるから、教室ではあんま話しかけられんわぁ。まぁ…哲也は幼馴染やから、気になるんはしゃあないか…」
 
(ゴリラ?……あぁ、ハハハ。猿渡の事か。確かに…そんなヤツいたな)
 
 鈴木は更に何かを思い出したのか、話を続けた。
「結城といえば…こないだ家に帰る時にうちの近くにある川の近くにおって、座って何か描とったんよ。アイツん家、うちと反対方向なんに…。相変わらず、頭良いヤツの考えることはよう分からん」
 梢の方へ顔を向けて喋る鈴木の口から冷ややかな矢が飛ぶ。
「そうか…梢が…」
 僕はこのやり取りに既視感を覚えたが、その先は頭の中に(もや)がかかって思い出せない。
 
「哲也には悪いけど、俺、実は…結城、結構タイプなんよ。やけ、仲良くなりたいんやけど…。はぁ。結城もなぁ…、修学旅行の班決めん時にゴリラに歯向かわんかったら良かったんよ。あれから半年くらいゴリラに睨まれとるからな。あのゴリラ、歯向かうヤツには容赦せんからなぁ。男子もゴリラに嫌われたらクラスの女子に総スカンされるけ、なかなか結城には話しかけられんし…」
 驚く自分を横に、頬杖をつきながら梢の方を向いて鈴木がぼやいていると、隣の席に座ったクラスメイトの女子が興味深々に話かけてきた。
 
「なになに?今、結城さんの話しとらんかった?」
 僕らの前に立ちはだかった女の子の顔には鈴木と同じ乱雑な線が入り乱れている。
 
「いやね、哲也が結城の事好きって話」
「は、はぁ⁉︎な、何言ってんの!お前!」
 不意打ちを食らって、慌てふためく僕を見て鈴木は隣でゲラゲラと笑っている。
 
 獲物を見つけて獣となった名もなき少女は、更に僕の方へ身を乗り出してきた。
「やぁぁん。何それ!マジ⁉斎藤君と結城さんって幼馴染やんね⁉︎いつから?いつから好きやったん?もう、コクったん?」
 楽しそうに質問攻めをする甘い声に誘われて、周りの席に座っていた女子達も集まり始めた。
 
 …キーンコーンカーンコーン
 
 10分休み終了のゴングと同時に前方にある扉が勢いよく開くと同時に先生が入ってきた。
 
「はぁい。じゃあ、最後の授業始めるよ。はい、そこ!もう、チャイム鳴ってるんだから自分の席に着きなさい!」
 
「ちぇっ…」
「え~、斎藤君、後で詳しく聞かせて」
「良いとこやったんに~」
 各々が捨て台詞を吐いて自分の席へ戻っていき、教室には静寂が作り出されようとしていた。
 
 ふと、教室の奥の方から、文庫本に向けられていたはずの目線がこちらへ向けられていることに気が付いた。
 彼女の方へ目線を配ると、その眼鏡の奥から向けられる生気のない目線は直ぐに外されてしまった。
 
「はぁ…」
 
 ため息をついて、教科書を探して机の中を探っていると、冬雨交じりの重く囁く鈴木の声が耳元から聞こえた。
 
 
「なぁ…。なんで、あの時、お前は、守ってあげなかった?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 驚いて後ろを振り向くと、そこに鈴木の姿はなく、夜を迎え入れる準備に勤しむ赤い空が目の前に広がっていた。
 先程まで座っていたはずの椅子や机はいつの間にか無くなり、僕は橋の上に立っていた。
 
(さすが、夢だな…。たしかに…僕はあの話を聞いた後、梢を探しにこの場所へ向かった…気がする)
 
 雑草の生茂(おいしげ)る川縁の斜面に座って、スケッチブックに向かい、懸命に何かを描いている梢の姿が橋の上から見える。
 橋を渡り切って、梢のいる場所まで静かな川縁を歩く。
 葡萄(ぶどう)色のクコの花と晩秋の風が魅せたワルツの跡が、色の少ない川縁に色を飾る。
 その色を見ていると、頭の中で陽炎のように揺らめく記憶が徐々に鮮明になってきた。
 赤いランドセルを椅子代わりにして座る梢の後ろに立ってみたが、余程集中しているのか、僕の気配には気付かず、赤い色鉛筆で懸命に白地を埋めている。
 僕はあまり驚かさないように、声量を抑えて話しかけた。
 
「梢、こんなトコで何しよん?」
 梢は身体をビクつかせて、持っていた色鉛筆を落とした。
「て、て、テツ君⁉︎な、なんで、ここにおるん?」
 落とした色鉛筆を拾いながら、後ろを振り返る梢の目は、いつにも増して大きく見開かれていた。
 
「ご、ごめん。そんな驚くと思わんかった。いや、鈴木から梢がここで何か描いちょるって聞いたもんで…」
 バツが悪いと感じた僕は、無意識に頭を掻きながら、驚く梢にここに来た経緯を話したが、彼女は首を捻って質問をしてきた。
 
「ふぅん…。鈴木君?その子って…うちのクラスの子?」
 ーそう、当時の彼女は周りの人間に興味などなかった。
 
「せやね。俺の後ろの席のヤツ」
 首を傾げたまま、梢は腕を組む。
 長い髪からチラリと見える首筋は、夕闇とのコントラストもあり、漆喰(しっくい)のように白く見える。
「テツ君の後ろの席……。あぁ、あの人か。そういえば…6時間目の前に、何か盛り上がっとったみたいやけど…」
 
 眼鏡の奥から放たれる無機質な目線が、珍しく右往左往していた。
「あぁ…そ、それは…鈴木が変な事言っとっただけやけ、気にせんでええよ」
 背中に背負っているランドセルを外して梢の隣に座り説明するが、少し動揺していたこともあり、無意識に身振り手振りが激しくなる。
 
「ふぅん…。まぁ、テツ君に迷惑かけとらんのやったらええけど…」
 体育座りをした膝に頬を当ててこちらを向く彼女は、悪戯っぽく微笑んだ。
「いや、迷惑とか…かかっとらんけ、大丈夫。それより、梢って絵も描くんやな!梢の書いた絵、見てみたいんやけど…見てもええ?」
 少し間があった後に、梢が蚊の鳴くような声を発する。
「テツ君なら…ええよ。…でも、何か恥ずかしい。下手でも笑わんでね」
 梢は、太ももに乗せていたボロボロのスケッチブックを恐る恐るこちらに手渡してくれた。
 
 擦り傷だらけのオレンジと黒の表紙に、左手を重ねて、ゆっくりと開く。
 最初のページには、学校で描いたと思われる校庭の風景が鉛筆で描かれている。
 綺麗な濃淡で描かれた遊具と草花は、とても素人が描いたものには見えなかった。
 その後、破られたページが数枚続く。
 
 今の僕(・・・)はこのページの意味を知っている。
 
 僕は、その泣き出しそうな切れ端を慰めるかのようにそっと指でなぞる。
「あっ、そこは……気に入らんくて、破っちゃったトコやけ、気にせんで…」
 僕の仕草を見た梢が、横から説明してくれる。
 
「そっ…か…」
 たとえ、現実ではない梢だとしても、その顔で、その声で、その言葉を聞くのは胸が苦しくなる。
 大人になった僕ならその細く、小さな身体を優しく抱きしめてあげられるのだろうか。
 
 破れたページを数枚捲ると、今描いていると思われる河原の絵が出て来た。
 力強く色付けられた藍色と淡い赤色をした空の下には、雄大な川が描かれていた。
「凄いやん!この絵、俺は好きやよ。いつから描いとん?」
 僕は、水彩画のような優しいタッチの絵を色鉛筆で描ける彼女を単純に凄いと思った。
 梢は咄嗟に前方へ向き直ったが、彼女の横顔には、えくぼができている。
「んふふ、ありがと。へへへ…好きだなんて、初めて言われた。絵はね、夏休みから描き始めたの。私、あの空を描きたくて…ここからやと、遮るもんがないけ、空が綺麗に見えるんよ」
「いや、普通に凄いと思う。まだ、4か月くらいしか経っとらんのに、このクオリティやろ?…でも、何で絵なんて描き始めたん?」
 現実で思い出せていないその答えを僕は聞きたかった。
 
「それはね………ヒミツ…」
 梢は川の流れを見ながら、膝に顎をつけて答える。
 予想に反した答えが返ってきた僕は狼狽(ろうばい)した。
「えっ⁉何で?…ええやん」
「嫌ややって…そんなん、笑われそうやし」
 そっぽを向いて頑なに教えてくれない素振りをみせる彼女に、手を合わせてもう一度、懇願してみる。
「笑わんて。絶対。幼馴染…やろ?」
 瞑った目をゆっくりと開けると、口をへの字に曲げてこちらを見る梢がいた。
「テツ君…それ、ずるい。……笑わんてちゃんと約束してくれる?」
「約束する」
 僕は梢の目を見て力強く頷いた。
 
 梢は前に向き直り、目の前の川に綺麗な水面が作り出されるような速さで喋り始めた。
「…夏休みに図書館に行った時、オススメの図書コーナーに絵本があったんやけど、その絵本…表紙の絵が綺麗やって、気になって読んで見たら凄く感動したんよ。絵本でこんなに感動するなんて思わんくて…。私もこんな素敵な絵本、書いてみたいな…って」
 思いもよらない理由に驚いたが、梢が感動したという絵本の内容にとても興味が沸いた。
「へぇ、どんな本なん?」
「ドラゴンがお姫様をお城から連れ出して旅をする話やよ」
 狼男が喜びそうな寒月(かんげつ)が映る水面を見つめながら梢が答える。
「ふぅん…冒険かぁ。楽しそうやなぁ。でも、すごいよ…梢は。思ったことをすぐに行動できるなんて…」
 高校生になった自分と小さな梢を重ねて、自分の幼稚さに腹ただしくなる。
 目の前で雄々しく流れる水の尾の先へ行けない僕は、ココでその様をただ眺めることしかできない。
 
 少し間が空いて、隣から乾いた空気に混じって柔和な声が聞こえてくる。
「そう…かな?…私からしたら、ギター弾けるテツ君の方が凄いと思うよ。でも、テツ君に好きって言ってもらえたし、もうちょっと頑張ろうかな。なかなか、絵って難しくて…諦めかけとったんよ」
 これから先も彼女の絵を見てみたいと思う僕は、梢と視線を交わして言葉を渡す。
「いやいや、ギターは弾けるって程でもないよ。父さんに教えてもらっただけやし。それより、せっかく頑張ったんやし、絵…もうちょい頑張ってもええんちゃう?」
「うん。…もう少しだけ…頑張ってみる。それより、テツ君…今日、柔道場に行かんでええん?」
 梢の言葉を聞いて、頭の中にこれから起きる出来事の断片が走馬灯のように流れ込んできた。
 
「あっ、忘れとった。もう…ええ時間やし、一緒に帰る?」
 僕は臀部(でんぶ)に付いた砂や草を払いながら、隣に置いていたランドセルを背負う。
「う〜ん。もうちょっと描いてく」
 僕を見上げる梢の手にはすでに別の色鉛筆を握っている。
「そっか、あんま遅くなるなよ。オバさん心配するけぇ」
「うん。分かっとる」
 返答する梢は既にスケッチブックに向かっていた。
 
 空は陽が西へ落ちて、一番星の差すような輝きが地上へ降り注いでいた。
 橋を渡ると左手にある山から強く空っ風が吹いた。
 鼻先をひり付かせるほどの風に紛れて、この季節には似合わないアイリスの花が目の前を舞う。
 
 ー何を恐れてる?
 
 僕は立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をして来た道を戻る。
 そして、紺色のパーカーを着る梢の後ろに立ち、首に巻いていたボルドー色のマフラーを梢の背中にかけた。
 
 梢は何が起こったのか分からず、こちらを向いた。
「まだ、おるんやったら…そ、その冷えるけ、これ…使ったらええよ。明日、返してくれたらええから」
 あまりの恥ずかしさでチラリと横目で梢の反応を確認する。
「う、うん…。温かい。テツ君、ありがとう」
 マフラーを抱きしめて見せるその無垢な笑顔は、僕が今までに見たことがないものだった。
 
 ー…梢、こんな笑い方するんだな。
 
「おう、じゃあ、がんばれよ」
 梢の方を見ずに、背中越しに手を振って歩き出す。
 目の前には、あの頃の葛藤に打ち勝った先の景色が広がり、軽やかになった足取りで橋へ向かう。
 
 橋を渡り切り、これから起こるであろうことに心の準備が十分にできていないまま、身覚えのある路地へ入る。
 
 家の近くまで来た時、突然、目の前の道路が歪んで見えた。
 直後、急に胸が苦しくなり、僕はその場に膝をつく。
 まるで溺れているかのように息ができない。
 
 久しぶりに感じる心臓を握り潰されているかのような痛みと、閉塞感。
 粗いアスファルトの粒子を頬に感じる。
 
 朦朧とする意識の中、耳の奥から季節外れのキリギリスの声が聞こえる。
 愛を叫ぶ夏虫に混じって、弱々しい女性の声が聞こえてきた。
 その声に導かれるかのように、か細い灯はゆっくりと後悔の宵へ溶けていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
「-…っと!…ぇ!」
 
 湿った土と青い草の匂いがする。
 耳障りな蛙の声の中に、聞き慣れない音が混じっていた。
 女性の声のような気がするが、母さんにしてはハリがある気がする。
 
「ちょっと〜!起きろ〜!!おーい!」
 
 頭の中にハッキリと聞こえたその声は、明らかに初めて聞く女性の声だった。
 僕は反射的にベッドから飛び起きて、辺りを見回した。
 使い古された机と椅子。
 ピックが弦に挟まったアコースティックギターとエレクトーン。
 見慣れた部屋には自分しかいない。
 
「あっ、起きた」
 声の主らしき人物の声が頭の中から聞こえてくるが、やはり姿は見えない。
 重い夜風を吐き出す窓の外を覗いてみるが、街灯に誘惑された蛾がこちらを見ているだけだった。
 
「そうそう。窓、開け放しで寝落ちしてたんだよ。う~ん。私にはまだ、気づかないのかぁ。ベッドの横にいるのになぁ…」
 僕は窓を閉めてベッドの横に立ち、目を細めてみるが、そこには誰もいない。
 
「だ、誰かいるの?」
 すぐに恐怖が身体を支配して、腰を引きながら姿なき来訪者に問いかけてみる。
 
「…!やっと気付いてくれた!!!ねぇねぇ!私の声…聞こえてるんだよね?」
 僕は声を出せずに、素早く何度も頷いた。
「はぁ…。疲れた~。もう、気付くの遅いぞ~。私、凄く頑張ったんだから!」
 不満の声を漏らしている女性が、こちらを襲ってくる様子は無さそうなので、ホッと胸をなでおろす。
 自分を落ち着かせるために、小さく深呼吸をした。
 
「き、君……誰?」
 僕は、姿を見せない彼女に恐る恐る話かけてみる。
「私⁉…私はサエキアオイ。君はサイトウテツヤ君…でしょ?」
「えっ!?…サ、サエキって…う、嘘だろ?」
 サエキアオイ…その名前を僕は知っている。
 しかし、姿なき彼女が自分の名前を知っていたという恐怖心の方が優って再度、その身を強張らせる。
 
「あれ⁉私の事、知ってるんだ。…そう、私が君の心臓のドナーなのだよ!君の名前は、ママ達が言ってたの…聞こえてたから。それに、机に置いてる教科書にも君の名前が書いてあったしね」
 <どうだ!>と言わんばかりに胸を張って話しているであろう彼女の姿は、相変わらず見えない。
 自分の置かれている状況が全く飲み込めない。
「どういう事、これ…。ドナーってことは…あの…いつから僕の部屋にいたんですか?」
 記憶を探るような唸り声をあげながら、彼女はポツリポツリと話し始めた。
「んとね~、今日から…多分。正確には君が寝落ちする少し前…かな?私もね、どうしてこうなってるのか、よく分からないんだ。気が付いたら君の家にいて…。いきなり目の前に知らない人達がいてね、こっちもビックリしたんだから!」
 
「な、なるほど…」
 何故か怒られているような気がして(かしこ)まっていると、間髪入れずに彼女が質問してきた。
「ねぇ、私も聞きたいことあるんだけど…君は私の姿、見えてるの?」
 何処にいるか分からないが、目の前で右手を左右に振って見えていない意思を伝える。
 きっと、(はた)から見たら、僕は完全に変質者だろう。
「いや、全く見えてないです。サエキさんの声が頭の中に聞こえるだけ…サエキさんは僕が見えてるんですよね?」
「やっぱりそうなの⁉だって今、君が向いてる方向に私いないもん。声だけかぁ…。まぁ、気付かれないよりマシかぁ」
 この数分間、僕は立派な変質者だったようだ。
 
 緊張の糸が取れて、ベッドに座って仰向けになる。
「マジか…。じゃあ、僕はさっきから誰に向かって話してたんですか!で、サエキさんは今、何処にいるんです?」
「ハハハ。ごめん、ごめん。今はね、椅子に座ってる。でも、分かったんだぁ。人にね、気付かれないってこんなに辛いんだなって。幽霊が生きてる人にちょっかい出す気も今なら分かるかな。あっ、私も今は幽霊みたいなもんかぁ、ハハハ」
 
「そういうものですか…」
 日焼けした天井を見ながら聞こえてくる明るい幽霊の話は、僕には実感が湧かない。
「そういうもんだよ。はい、ここで私から提案があります!」
「はい、何でしょうか?」
 突然の事に驚き、上半身を起こして彼女の話に耳を傾けた。
 
「<さん>付けとか辞めない?だって、私達…これから二人で一つ、みたいな感じだし…。私は君の事、<テツヤ>って呼ぶから」
 彼女が言うことも理解できるが、僕には一つ気になることがある。
「まぁ、サエキさんが言うなら僕はいいですけど…」
「サエキさんは却下です」
 有無を言わさぬ物言いで、彼女は僕の言葉をバッサリと切り捨てる。
「だって、サエキさんが僕よりかなり年上かもしれないし…」
「私、高三だったよ。多分、テツヤと変わらないでしょ?」
 彼女は僕の話を途中で遮ってきた。
 しかし、僕は年上の女性と話した経験が少ないのもあり、タメ口で話すのは少し抵抗があった。

「僕は高二で、サエキさんは先輩になるわけで…名前で呼ぶのは気が引けますって…」
「え~!一個しか違わないのは誤差だよ、誤差。<さん>付けとか他人行儀な気がして何か寂しいよ…私」
 萎れた蕾のように話す彼女に負けて、僕は腹をくくった。
「あぁ~。…分かりました。じゃあ、<アオイ>…これでいいです?」
 梢以外の女性の名前を呼び捨てにするのが、こんなに勇気がいることだとは知らなかった。
「よくできました!あとね、敬語もダメ!」
「はい、分かりました」
 逆らうと大変になりそうなことが容易に想像できたので、彼女が言う事を大人しく聞いた方が賢明な気がした。
 
 梢と話していると頭で思い込んで、いつもの調子で言葉を発する。
「…あのさ、アオイは…まだ椅子に座ってるのか?」
 僕は彼女に伝えるべき言葉がある。
 
「うん、いるよ」
 僕はベッドから起き上がり、背筋を伸ばして椅子の前に立つ。
「ど、どうしたの?いきなり」
 突然の出来事に驚くアオイが、身構えているかのように恐々しく話しかける。
「えっと…言うのが…遅くなっちゃったんだけど…」
 驚く彼女に反して、僕は少しの緊張と照れくささが胸の中で混じり合う。
「んっ?なに?」
 アオイは先程までとは打って変わって、落ち着いた口調で聞き返した。
 
 強く握った手を太ももに沿わすように伸ばして、僕は椅子へ向かって精一杯のお辞儀をする。
「助けてくれてありがとう。アオイ。君のおかげで…僕はここにいる」
 
 少し間があった後、密《ひそ》やかな声が鼓膜を揺らす。
 
「…ううん…どういたしまして」
 鼻をすする音がする。
 
「あのね、…テツヤ…」
 震える声が頭に響く。
 
「ん?…どうかした?」
 顔を上げて、僕は静かに声を重ねる。
 
 姿は見えない。
 でも、今のアオイの表情は分かる。

 絞り出すように、微笑みかけるように、アオイは声の断片を届けてくれた。
 
 
「私をね…見つけてくれて…ありがとう」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 僕の頭には、封を切ったように泣きじゃくる女の子の声が響き渡る。
 星が見守る部屋では、冷たい吐息が僕らに吹きかかる。
 
 <認識されない>という辛さを経験したことがない僕は、彼女には寄り添えない。
 姿が見えないので、その涙を拭ってあげることすら叶わない。
 僕は突然の事で、どういった気の利いた言葉をかければ良いのか頭を抱えていた。
 
 しばらくして、深く息を吐く音が聞こえ、アオイがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ゴメンね…驚かせちゃった…よね」
「いや、それより…大丈夫か?」
 結局、ありきたりな言葉しか思い浮かばず、鼻をすすっている音を漏らすアオイに声をかけた。
 
「うん…ありがとう。あぁ…これ、目腫れちゃってるヤツだぁ〜。もう、哲也が泣かせるような事言うから!」
「えっ⁉︎俺⁉︎俺、泣かせるような事、言った?」
 身に覚えがないことをアオイから指摘されて、僕は困惑した。
「ん〜…言ってないけど…言った!」
「どっちなんだよ、それ」
 声に明るさが戻った彼女の様子に、ホッと胸を撫で下ろす。
「そういうことなの!はい、この話はもう…おしまい!」
 僕も湿っぽい雰囲気は居心地が悪かったので、話題を変えて彼女に質問をした。
 
「素朴な疑問なんだけど、アオイは物とか掴めたりしないのか?」
 姿が見えない彼女がどのような状態なのか、僕は単純に気になっていた。
 話題が変わって部屋の空気も軽くなり、アオイも打って変わって軽快に話し始めた。
「物はね、残念ながら掴めないみたい。テツヤが全く起きてくれなかったから、机にある教科書で起こそうとしたんだけど、教科書、掴めなかったんだぁ。残念だよ〜。テツヤに触ろうとしてもすり抜けちゃう」
 
 何やら物騒な事を言っていた気がしたが、僕は少し安心して話を続けた。
「俺としては良かったよ。いきなりモノが動いたりしたら、ビビるから。マジで。あとさ、壁とかすり抜けたりできたりするの?」
 
 僕の質問を聞いて、アオイは高揚した声を発する。
「そうそう!幽霊って、本当に壁とかすり抜けられるんだよ!ほら…あっ、そうだった。ん〜見せられないのが残念だなぁ…。そうだ!あとね、何処でも移動できるわけじゃないみたい。私、テツヤからある程度の距離までしか離れられないんだよ。こう、足が鎖に繋がれてる感じで…」
 何やら自分の中の幽霊のイメージと違う様子に興味が沸いた。
「何だそれ。じゃあ、今だと何処らへんまで行けるんだ?」
「ちょっと待っててね………」
 
 音の消えた頭を左右に振る。
 夢の続きや幻聴ではないかと思ったが、(つね)った頬からは痛みを感じる。
「お待たせ。んっ⁉テツヤ、何してるの?」
 部屋に戻ってきたアオイが、驚きの声を上げる。
「いや、これ…夢じゃないかなって…」
「私だってそう思ってるけど…私は夢だったとしても…こうやってテツヤとお話できて嬉しいよ」
 その心地よい言葉に、夕方の梢の言葉が重なる。
 
「まぁ…俺も、こうやって直接お礼も伝えられたし、話せて嬉しいよ。ってか、よくそんな事、恥ずかし気もなく言えるな」
 少しの間のあと、アオイが言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「だって、思いはね…口に出して言葉にしないと伝わらないから。後悔は、したくないんだ…もう」
 その柔和な声色の中には、強い意志が混じっている。
「そっか…」
 彼女に何があったのか、僕には分からない。
 ただ、それは聞き出してはいけない気がした。
 彼女自身については、彼女の口から語られるべきだと思う。
 
 再び重い空気になったことを察して、アオイが咄嗟に声をあげた。
「あっ、そうだった!忘れてた、忘れてた。何処まで行けるか…って話だけど、今はね、玄関まで行けるみたい。それ以上行こうとすると、足と背中が引っ張られる感じがして、先へ行けないよ」
 
「なるほど…」
 もし、これからも彼女が現れるなら最低限のことは知っておく必要があると思い、僕はアオイに再度質問をした。
「あとさ、俺が触れた物の感覚とか…こう、五感みたいなのは、どうなってるんだ?俺と共有してたりするのかなって…。例えば、ほら。今、そっちは何か感じてる?」
 僕は隣にあった、枕に触ってみる。
「ん〜、何も感じないよ」
「じゃあ、これは?」
 僕は自分の目を手で覆い隠した。
「どうだ?暗くなったか?」
「ううん。目を隠してるテツヤが見えてる」
 アオイは、フフッと笑い声をあげて、楽しそうに実情を伝えてくれた。
 
「ふぁぁ。何か、気付いてもらって安心したら眠くなってきちゃった」
「えっ⁉︎幽霊って寝るの?」
「分かんないけど、私は眠いよ。ふぁぁ、テツヤ…今、何時?」
 僕はベッドに置いた携帯電話を開いた。
 照らし出された画面が、すでに午前三時を過ぎていることを教えてくれた。
 
「三時過ぎだね」
「マジ⁉︎そりゃ眠いわけだぁ。お肌にも良くないし、よし…もう寝よう!テツヤ」
 肌の調子を気にする幽霊なんて聞いたことがないが、母さんが明日の朝食は早くすると言ったのを思い出した。
「そうだな。俺も眠いし…あっ、ちょっと待って。眠るなら、俺は床で寝るからアオイはベッドで寝ろよ」
 座っていたベッドから立ち上がり、両手を上にあげて大きく伸びをした。
「いやいや、大丈夫だよ!私、プカプカ浮いてるからベッドとかいらないって!」
「まぁ、そうなんだろうけど…女の子が部屋にいるのに、自分だけベッドに寝るってなんか嫌なんだよ」
 僕はそう言いながら、クローゼットを開けて奥にあるはずの敷布団を探す。
 
「じゃあ…一緒に…寝る?」
 ゆっくりと甘い声が耳元で囁かれた。
「は、はぁ⁉︎な、何言ってんだよ!」
 僕は気が動転して、クローゼット内の棚に頭をぶつけた。
「アハハハッ。もう、冗談だって!頭、大丈夫?それに私…幽霊なんだから、一緒に寝ても何もできないってぇ」
 鈍い音を出したところを摩りながら、枕代わりになりそうな座布団を足元に置いた。
「勘弁してくれ…。まぁ、とりあえず…ここは俺のわがままを聞いてよ、アオイ」
「まぁ、テツヤがそこまで言うなら…お言葉に甘えて、使わせてもらいます」
 少し笑いが残る声で、アオイが礼を言った。
 
「おう、…さてと…」
 クローゼットの中から出した予備の敷布団をベッドの隣に敷く。
「じゃあ、電気消すぞ」
「りょーかい」
 
 振り向くと真っ暗になった部屋には誰もいないベッドが横たわる。
 僕は、その隣に敷いた敷布団に体重を乗せて仰向けになった。
 
 少し早起きな太陽が、僕らの部屋を覗きに来ていた。
「何か、男の子と一緒に寝るなんて…ドキドキする。死んでから、こういう事するなんて、思ってもみなかった」
 しみじみと感じ入っている声を漏らすアオイは、きっと遠い目をしているのだろう。
 左を向くと空のベッドが見える。
 僕は再び、朝日と宵の混じる天井を見つめる。
「変なこと言ってないで、寝ろよ」
「はぁい」
 
 心地よい眠気に誘われて、目を閉じる。
 虚ろな足取りで、あちらの世界へ向かって行く。
 大きく威厳に満ちた扉を目の前にした時、不意に頭の中で呼び止められた。
「ねぇ、テツヤ」
「ぅん?」
 意識の半分をあちらに置いてきたので、反応が鈍くなる。
「目が覚めても…また、お話できるよね?」
 子守歌のような、優しく、寂しげな声が頭に響く。
 
 肺に名一杯、冷たい酸素を送り込んで、細く温かな二酸化炭素を吐き出す。
「……当然だろ。俺たちは二人で一つ…じゃなかったっけ?」
「フフフ。うん、そうだね。ありがと、テツヤ。…おやすみなさい」
 耳元で家族以外に言われたことがない言葉を聞く。
 僕は頬を緩めて身体をベッドの方へ向けると、姿なき隣人にそっと声をかけた。
「…おやすみ、アオイ」
 
 
 再び扉のある場所まで戻り、少し錆びついた取っ手に手をかける。
 
 取っ手を捻ると、金属の擦れる音がした。
 
 黒々と(いかめ)しい扉が、押すと同時に甘い吐息を漏らして高らかに鳴く。
 
 僕は、その扉が開けた小さな口の中へゆっくりと歩みを進めた。
 
 
 
 
 
 
 扉の先へ進むと、ゆりかごに揺れているような心地よさを身体に感じた。
 懐かしさにも似たその揺れは、僕の意識を徐々に奪っていった。
 
 ブォーーン
 
 空気を鈍く切るような音がしている。
 服が身体に吸い付いているような感覚がする。
 冬の刺すような寒さが身体を襲う。
 特に、下半身はいつもと違う開放感を感じる。
 呼吸をすると、胸が少し締め付けられている感覚がする。
 そして、同時に少し硫黄に似た匂いが鼻を刺激した。
 朦朧とした意識の中で、自分にただならぬ事が起きている予感を感じ、僕は勢いよく瞼を上げた。
 
 目の前には黒い壁があった。
 
 瞬時に、この空間の異様な空気が僕の身体を強張らせる。
 様子を(うかが)うため、金縛りにあったかのようにゆっくりと眼球を左右に動かしてみる。
 右手に洋式の便座、左手には先程と同様の黒色の扉があることを確認し、自分がトイレにいることだけは確認できた。
 
 あまりの寒さに身体が震える。
 本能に従って、無意識に左右の腕を両手で(さす)って暖をとろうとした。
 しかし、何かが違った。
 今までに触れたことのない柔らかさを掌に感じる。
 僕は状況を理解するために、少し頭を下げて自分の腕を見る。
 すると、頭を下げたと同時に前髪から滴が落ちてきた。
 そして、先程から首元から感じていた違和感の意味を知った。
 自分に起こったことを確認するために更に真下を見る。
 
 胸元にはリボン。
 そして、足元を隠すかのような膨らみ。
 モノクロのチェック柄のスカート。
 肌にまとわりつく黒いソックス。
 濡れて不快さが増した灰色の靴。
 
 僕は、自分が間違いなく女性となっていることを確認した。
 
 何故、ずぶ濡れになっているのかはまだ分からない。
 
 半袖のシャツに触れてじっくりと見てみるが、自分の通っている制服ではないのは確かなようだ。
 個室のトイレの上下にある隙間から、夕焼けのような赤色の光が漏れている。
 
 暗闇に慣れてきたのか、今まで色がなかった場所に色が付き始める。
 目の前にある黒い壁が黒でないことが分かった。
 目を凝らして見ると、血液が凝固したような黒紅色だった。
 
 外に出ようと、ドアのスライド錠を右へ動かしてロックを外そうとするが、ビクともしなかった。
 僕は、無意識に扉を叩いた。
 
 バンバンバン!!
 
 鈍く乾いた音が鳴ると同時に、粘つく何かが右手に付着して飛び散った。
 右手の掌が赤く染まる。
 粘性のあるヘドロのようなものをスカートで拭くが、掌の《《赤》》は落ちない。
 
「誰か!誰かいませんか!!誰か!」
 
 そう口に出しているはずなのに、僕の耳にその言葉は聞こえない。
 僕は、喉に両手を当てて、声を捻り出そうとするが、いくらやってもその声は出てこない。
 大声を出すために大きく空気を吸い、横隔膜を収縮させていく。
 そして、背中を曲げ、拳を力強く握りしめる。
 肺に貯め込んだ空気を一気に吐き出して声帯を震わせてみる。
 
 ブォーーン
 
 羽虫のような耳障りな音が、鼓膜を振動させる。
 
 声が出せないことを悟り、僕はここから脱出するために周りを見回した。
 後ろを振り向くと白い洋式便座があった。
 そして、その後ろにある黒紅色の壁に白い紙が貼ってある。
 
 <あなたはなにいろ?>
 
 白い紙に赤色で書かれたその文字は、指で書かれたものなのか、所々擦れて指紋が付いている。
 
(なんだよ、これ…)
 
 書かれた文字の意味も分からず、混乱していると便座の横にボロボロの黒いバッグを見つけた。
 
 肩掛けの紐を手に取ると、鞄の右下に見たことがない校章があった。
 僕は持ち主に申し訳ないと思いながら、そのくたびれた鞄のファスナーをゆっくりと開けた。
 中には化粧ポーチやお菓子など様々なものが入っていたが、全て白か黒色で色が無い。
 携帯電話を見つけて開いてみるが、電源を入れても反応しなかった。
 僕は、すぐに取り出せるように携帯電話だけスカートのポケットに入れた。
 さらに鞄を探ると、異様な雰囲気を放つ教科書があり、手に取った。
 
 <高等学校 数学Ⅰ>
 
 そう書かれた表紙の所々には<消えろ>や<キモい>、<ビッチ>といった黒く書き殴った文字が散りばめられていた。
 
 ページをめくると、数学の教科書なのに数字が見当たらない。
 破られていないページに塗られた黒が、高らかに笑っている気がする。
 
 僕はその声をかき消すように、力強く教科書を閉じて鞄に戻す。
 《《彼女》》が置かれている状況を僕は理解した。
 
(…もしかしたら生徒手帳があるかもしれない)
 しかし、いくら探してもモノクロの鞄の中には、生徒手帳は見つからなかった。
 
「ヒャハハハ…」
「フフフ…」
 
 扉の外から突然、複数の女性の汚い笑い声が聞こえた。
 僕は扉へ向き直り、渾身の力を込めてスライド錠を開けようとするが、扉はガタガタと鳴るだけで相変わらずビクともしない。
 その様子を見ているのか、再び醜い笑い声が聞こえてくる。
 
「ヒャハハハ…ヒー、ヒー、腹痛い」
「フフ、フフフ…」
「アハハ、ハハハッ!やばぁ、マジ、ウケる~」
 
 その笑い声が僕の理性を失わせる。
 
(ふざけんじゃねぇ!!!)
 
 僕は細い身体を使って、扉に体当たりする。
 扉に体当たりする度に、黒紅色の何かが血しぶきのように飛び散る。
 
 ドン!ドン!
 
 何度体当たりしても扉は開かない。
 その間にさらにも増して品のない声が僕を苛立たせる。
 
「ヒャハハハ!コイツ、マジで必死になってる。ヒヒヒッ、ウケるんですけど!」
「ンッフフフ…フフフ…これ以上、近づかないでって私、言ったはずなんだけど…」
「マジそれな」
 
(うるさい、黙ってろ…)
 
 僕は後ろの壁まで下がり、助走をつけて扉に体当たりした。
 すると、スライド錠が外れて扉が開いたので僕は勢いよく床に転がってしまった。
 扉を出るといつしか笑い声が消え、そこにいると思っていたヒト達の姿は無かった。
 
 灰色のトイレの小窓から、鮮やかな真朱色の光が差し込んでいた。
 僕は脱力感が残る身体を起き上がらせ、便器横にあった鞄を肩にかけてトイレの出口へ歩き出す。
 
 その途中、悲しく佇む鏡を見つけた。
 僕は恐怖心を胸にしまい込んで、恐る恐る鏡を覗き込む。
 
 肩まで伸びた濡れた髪の毛、殺人を犯したように濡れたシャツを真っ赤に染めたあげた女子生徒の姿がそこにあった。
 肝心の顔は、鏡が水垢で曇っていてはっきりと分からない。
 そして、洗面台には水に浸かって無惨な姿になった生徒手帳を見つけた。
 念のため中身を確認してみたが、顔写真や名前、生年月日などが記載されたページには予想通り、血のりのような黒色で塗りつぶされていた。
 僕はみすぼらしい姿になった生徒手帳を鞄に閉まい、この不快な世界から出るために、トイレの扉を開く。
 
 しかし、その先で出迎えてくれたのは(おぞ)ましい空だった。
 陽を遮るかのような厚い雲と今にも滴り落ちそうな重い赤色が、窓の外の世界を染め上げている。
 首を左右に振って状況を確認してみるが、薄気味悪くて長い廊下は、恐ろしいほど静かだった。
 左奥の部屋には<音楽室>と書いた部屋があった。
 一方、右側はどれくらいの距離があるのか見当がつかないほど長い廊下が続いていたが、その先には白く淡い光が見えていた。
 
 僕は、その光を目指して右側の廊下を歩いてみることにした。
 呼吸をする度に、夏服を着ている僕から白い吐息が出て、張り詰めた空気と混ざり合う。
 濡れた衣類が体温を奪い、身震いする度にカタカタと歯がリズミカルな音を奏でる。
 しばらく歩いても淡い光に近づいている感覚が無かった。
 しかし、少しずつ暖かい空気を感じるようになってきたので、僕はこのまま歩みを進めた。
 
 さらに進むと<1-A>という文字が見えた。
 教室の扉をスライドさせてみるが、ビクともしなかった。
 仕方がないのでそのまま進もうとした時、教室から女性か男性ともつかぬ声が聞こえた。 
 
「アイツ…サイキン…チョウシノッテル」
「マジ…アリエナイワ…」
「マタ、ヒルカラ…ゴシュッキン?」
 
 獣の咆哮(ほうこう)のような声が段々と大きくなってきた。
 僕は耳を塞ぎ、光の射す方へ走った。
 <1-B>、<1-C>と進む度に、塞いだ耳に襲い掛かる声は大きくなっていった。
 淡い光が少し大きく見えてきたように思える。
 
 <1-G>まで来た時、スカートに入っている携帯電話のバイブレーションを感じた。
 歩みを止めて、ポケットの中で泣き叫ぶ携帯電話に手を伸ばす。
 鳴るはずのない携帯電話を開くと、怪しく光る画面には非通知の文字が映っていた。
僕は震える手でその電話に出て、携帯電話を耳に当てる。
 
「……」
 
 周りが騒がしいか、笑い声や話し声が聞こえる。
 
「……あんたが裏切ったんだからネ!!…」
 
 鼓膜を切り裂くほどの金切り声とともに、廊下にヒビが入って足元がぐらつく。

 次の瞬間、僕は崩れる廊下とともに奈落の底へ落ちていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「…い!…〜い!テツヤ〜!朝だよ〜!携帯の目覚まし、鳴ってるってばぁ!」
 
 いつもと違う起こされ方。
 少し前と同じような起こされ方。
 きっと、ここだけ切り取れば、これからラブコメみたいな展開があるのだろうが、残念ながら僕のヒロインは姿が見えない。
 
 僕は朧げな意識の中、嘶《いなな》く携帯電話の方へ左手を伸ばす。
 耳に容赦なく叩きつける音を止め、重い瞼を開けて画面を見ると、時刻は午前七時を回っていた。
 カーテンからは、先程の悪夢が嘘だったかのように煌々とした光が漏れている。
 快適な部屋で大きく伸びをして、肺に涼やかな風を送り込む。
 
「やっと起きた〜。おはよ、テツヤ」
 呆れた声でアオイが、話しかけてきた。
「ふぁ〜。おはよう…アオイ。とりあえず、良かった。目が覚めても、アオイとちゃんと話せて…」
 何処にいるのか分からないが、誰もいないベッドの方へ身体を向けて、アオイと朝の挨拶をかわす。
「うん…。私もね、眠っちゃったら、もう…こっちの世界から消えちゃうかも…って思ってたから、目が覚めたらテツヤの部屋で、隣にテツヤがいて嬉しかった」
 噛み締めるように、はにかむように、アオイは言葉を僕の頭に置いていく。
 未だ呆然としている頭の中で、その言葉がゆっくりと染み渡る。
 
「良かったよ、ほんと…。ってか、幽霊って朝日とか大丈夫なのか?何か、夜に活動してるイメージだけど…」
 カーテンを開けて、もしもの事があったら嫌なので念のために確認してみる。
「えっ⁉︎何か…私、ドラキュラみたいじゃん!た、多分…大丈夫だと思うけど…ちょっと、待ってて…」
「大丈夫っぽいよ!今、テツヤの部屋から足出してみたけど、消えてないし…」
 しばらく反応が無く心配していた僕をよそに、アオイが楽しそうな声で報告してくれた。
 
「えっ⁉︎アオイって…足、あるの?」
 僕の中の幽霊のイメージは、人魂みたいなものを想像していた。
「あるよ!!失礼だなぁ、もう!綺麗な足があるんだから!テツヤに見せてあげられないのが残念だなぁ!」
「いやぁ…、それは残念だわ…」
 口を尖らせている様子の声を出している彼女の機嫌をこれ以上悪くしないように、なるべく悔しさをにじませる声を出してみる。
 
「浮いてるけど、足も手もあるし…パッと見は、普通の人間なんじゃないかな?まぁ、鏡を見たわけじゃないけど…あっ!そっか!…もしかしたら、テツヤが鏡を見たら私の姿とか見えたりしない?」
 姿が見えずとも、前のめりになっていることが分かるようなその声は期待に満ちていた。
「どうだろ?」
 正直、アオイがどのような姿をしているのかは確かに気になるが、それよりもホラー映画に出てくるような生気のない顔が鏡に出てきた時のことを思うと、あまり乗り気にはなれなかった。
「よし、じゃあ…試しに行こ!」
 その声からは、今にも飛び出して試したい気持ちがヒシヒシと伝わってくる。
 
「…もうちょと、寝かせて…昨日、遅かったし…」
 二度寝の快楽を貪りたい気持ちの僕は、再び布団で横になり寝ようとするが、アオイはそれを認めてくれなかった。
「えぇ〜、テツヤって朝弱い系男子なの?はい、とりあえず、顔、洗う!」
「はぁ…。母親が二人いる気分なんですけど…。ふぁ〜…それにしても…アオイは朝から元気だなぁ」
 僕は観念して、再び布団から身を起こして伸びをする。
「ちょっとぉ!!お母さんとか、冗談でも止めてよね!せめてお姉ちゃんにして!実際に妹だっているんだから!」
 頬膨らませているかのように、アオイは鼻を鳴らした。
「その妹さんも大変だな。朝からうるさいお姉ちゃんがいて…」
 僕はアオイに妹がいることに驚きながらも、冗談混じりにからかった。
「ヒナはそんなこと言わないから!私達、仲良し姉妹だし!」
 <仲良し姉妹>、その言葉が胸に重くのしかかり、僕は押し黙ってしまう。
  
「哲也!!起きなさい!朝ご飯、食べちゃって!!」
 
 不意に、いつもの母さんの声が家の中に響き渡った。
「はい、はい…起きてるって!」
 一階に声が届くように、声を張る。
「ありゃ、テツヤのお母さんに怒られちゃった。朝ご飯って何なんだろ?人の家の朝ご飯なんて…ワクワクする!テツヤ、早く行こ!」
 アブラナ畑に舞う蝶のように、甘い蜜に誘われたアオイが、僕を急かす。
 しかし、そんな無邪気に舞う蝶を僕は指で捕まえる。
 
「なぁ、アオイ」
「んっ?なぁに?」
 アオイが狐に摘まれたような声を出す。
 
「アオイの事なんだけど、しばらくは母さん達には内緒にしたいんだけど…いいか?この状況、素直に話して信じてくれるって思えないし…それに、もう母さんには心配かけたくないんだ…」
 アオイの存在を隠すような事をお願いしている自分の胸にトゲが刺さる。
 しかし、アオイからは予想だにしなかった悠々とした言葉が返ってきた。
「うん。私は問題ないよ!普通、こんな事が起こってるって言っても、テツヤが頭おかしくなったって思われるだけだし…」
 
 アオイの前向きな性格に感謝しつつ、もう一つ、気になることを彼女にお願いしてみる。
「ですよね。多分、アオイの言葉は母さんには聞こえないと思うんだけど…念のため、リビングに入る時に挨拶とかしてみてくれないか?」
「うん、いいよ」
 こちらも彼女は快諾してくれたので、僕は重い腰を上げて、カーテンを開ける。
「眩しっ」
 僕は反射的に目を瞑る。
「暑そうだよね、外…」
 アオイもその刺すような日差しを見て呟く。
 僕は携帯電話をポケットに入れて、扉へ向かった。
 
「もし、母さんがアオイの声が聞こえてないようだったら、今までどおり話してくれて構わないから。あっ…でも、俺は今みたいにアオイと話せないからな」
 念のため、彼女と最終確認をする。
「いいよ〜。一人で楽しむから!あっ、でもたまには頭の中とかで私とお話…してよね」
 急に萎んだ声を出す彼女をなだめるように声をかける。
「たまにな、たまぁに」
 
 今まで朝食を食べに行く時に、胸がはずむような気持ちになることなんて無かった。
 
 冒険者になった気分で、僕は新たな世界の扉に手をかけた。


 階段を降りる度に、密度の高い空気が顔を撫でる。
 聞こえてくるはずだと思っていた野太く、大きな声が聞こえてこなかった。
 
「うわぁ、美味しそうな匂い!この匂いは…ウィンナーじゃない⁉︎」
 アオイが嬉しそうな声を上げる。
「えっ⁉︎…アオイ、ウィンナーの匂いするのか?」
 昨日確認した時は、僕と触覚や視覚は共有していなかったはずだ。
 一つでもアオイと共有できる感覚があることを知り、少し安心する。
「あっ、そういえば…そうだね!うん、ちゃんと匂いを感じるから、匂いに関しては分かるみたいだね!それより、この美味しそうな匂い嗅いでたら、なんか…お腹空いてきちゃったぁ」
 アオイが子供のように、食欲を満たせと要求してくる。
 
 幽霊の食欲を満たす方法を知らない僕は、素朴な疑問をアオイに投げかけてみる。
「いや、幽霊ってお腹とか空くのか?ってかさ、空いてたとしても食べれなくないか?」
「そんな事言われてもなぁ…お腹空いたものは空いたんだもん…」
 口を尖らせているように言う彼女から、幽霊のお腹を満たすための解答は得られなかった。
 言われてみれば…アオイにつられたのか、自分もお腹が空いてきたような気がする。
 
 洗濯機の回る音が漏れる洗面所の扉を開く。
「わぁ、ワクワクする~!。ねぇ、テツヤ!私、映るかな?」
 アオイが、スタッカートのように言葉は弾ませる。
「頼むから、貞子みたいな姿だけは勘弁して…マジで」
 ホラー映画の主人公になった気分の僕は、洗面台の隣までゆっくりと足を運ぶ。
 そんな僕をよそにアオイが抗議の声をあげる。
「酷いなぁ。もしかしたら、隣にめっちゃ美少女が映ってるかもよ?」
「…もしそうだったら、恋でもしちゃうかもな」
 気を紛らわせるために冗談を言ってみたが、アオイから意外な反応が返ってきた。
 
「やだぁ。幽霊と人間の恋とか、なんかロマンチックじゃない?」
 夢見る少女となった彼女の声は、期待に満ちている。
「いやいや、ロマンチックじゃないだろ?ってか、冗談だから真に受けるなって」
 これ以上変な方向に行かないように、黄色い声を漏らすアオイをこちらの世界に呼び戻す。
「ちぇ~、テツヤ、つまんない」
 現実に戻されて、ふてくされる彼女をよそに、僕は洗面台の手前で大きく深呼吸をして、目を瞑りながら重い足を一歩踏み出す。
「よし、行くぞ…」
「うん、うん!」
 その声だけで、子供のように胸を躍らせている彼女の様子が想像できた。
 
 洗面台前に立ちゆっくり目を開こうとした時、頭の中にアオイの大きな声が響き渡った。
「えぇ~!私、テツヤの隣にいるのに映ってないじゃん!何でよ~」
 落胆する声を耳に置いて、目を開けると鏡には寝癖頭の見慣れた顔しか映っていなかった。
 
「ふぅ…」
 僕は無意識に安心した声を漏らす。
「ふぅ…じゃないよ!なんで映ってないの?ホラー映画とかだったら映ったりするじゃん!!ホラ、これでどうだ!」
 納得がいかないアオイは、なにやら鏡の前で懸命に動き回っているらしい。
 
「まぁ…現実はそんなに甘くないってことだな…」
 蛇口を捻って、朝日を浴びた生温かな水で顔を濡らしながら、(うつむ)く彼女の肩を叩く。
「えぇ~。テツヤはさ、見たくなかったの?私の姿…」
 項垂(うなだ)れた声が、滴となって洗面台に落ちる。
 僕は掌に洗顔料を出し、両手で擦り合わせて出来たキメ細やかな泡を顔につけて、正直な気持ちを彼女に伝える。
「いや、見たくないか?って言われたら見たいけど、半分…怖いって気持ちもある」
 
 白粉(おしろい)を塗ったようになった顔を冷水で流し、タオルで水気を吸い取った後に化粧水で肌を馴染ませた。
「そっかぁ…うわっ、何?…テツヤ、それ、ミントみたい匂いがする」
 頭の中で、アオイが訝しげに声かけてきた。
「あぁ、メンソールが入ってるからな。スウスウして涼しいんだよ」
 濡れた手をタオルで拭いて、脱衣所から出て、廊下を歩く。
 
「ふぅん。何か…パパもそんなの付けてた気がするけど、確かに夏とかは涼しくて良さそうだね」
 そんなに特別な物でもなかった僕は何故、彼女からそのような言葉が出るのか分からなかった。
「女子のやつには無いのか?」
 記憶をたどるアオイが、少し間を置いて答えてくれた。
「ん~…あんまり無いんじゃないかなぁ?、多分」
 トイレの前に立ち、僕は最重要項目をアオイに言い放った。
「へぇ…そうなのか、おっと、アオイ、今からトイレに行くから覗くなよ」
「覗かないよ!!私、変態じゃないし!」
 アオイの怒った声が、初めて頭に響いた。
 
 触覚や視覚が共有されていないことに感謝しつつ、用を足して、再び洗面所へ向かった。
「鏡に映らなかったし、こうなったらお腹だけでも一杯にならなきゃ!」
 ハンドソープで手を洗う僕の耳に意気込む声が聞こえる。
 しかし、僕は彼女がどうやって食べ物を食べようとしているかを知らない。
「いやさ、どうやって食べるんだ?」
 僕の質問に、即時にアオイが快活な声で答える。
「テツヤのご飯にかぶりつく!」
「おいおい…それをやるならせめて俺が一口、食べてからにしてくれ」
 何か案があるのかと期待したいたが、考えが甘かったようだ。
「分かった。りょーかいであります!」
 敬礼でもしているかのように、無駄に切れのある返事が返ってきた。
 
「さて、と…じゃ、行きますか…」
 
 僕は不安と期待が混じる手で、お腹を空かせた幽霊をリビングへと招き入れた。
 
 
 
 
 
 
 

キミのココロは何色ですか?

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