- 私を描いてよ -
夏休みも終盤。宿題は全て終え、後は残された自由を享受するだけ。僕は、友人の買い物に付き合い、繁華街に来ていた。
僕は特に買いたいものは無かったのだが、友人が入った雑貨屋で偶然見かけたあるものから、目を離せないでいた。
「正直さ、お前、鈴村さんのことどう思ってんの?」
友人が商品を見定めながら、急にハルの名前を出した。飛び上がりそうなほど驚いたが、何とか平静を装った。
「……何の話?」
「とぼけるなよー。お前部活時間はいっつも鈴村さんといるじゃんか。俺の見立てでは、まだ付き合ってないみたいだけど、お前あの子のこと好きなの?」
何でそんなこと平然と聞くんだ。「好きだ」なんて恥ずかしくて言えるか。
「……そういうお前はどうなんだよ。誰かいるのか?」
「お、はぐらかすってことは怪しいねぇ。おじさん妄想膨らませちゃうよ」
「やめろ気持ち悪い。お前だってはぐらかしてるじゃないか」
「俺かぁ? ふっふっふ、よくぞ聞いた。実はな、夏休みに彼女が出来たのだ」
「なっ……」
一瞬時間が止まった。こいつに彼女だって? いつの間に……
「夏ってのは人をアグレッシブにするもんだぜ。それで、もうすぐ彼女の誕生日だから、今日はそのプレゼント探しに来たってわけ。お前も、関係を進展させたいなら、プレゼントでも贈ってみろよ。さっきからずっと見てるそれ、気になってるんだろ?」
迂闊……気付いていたのか。
「ははっ、微笑ましいねぇ。……あの子、桜好きだもんな」
「なんだよ、全部知ってるんじゃないか……」
僕が見ていたのは、控えめだけど上品な桜の花のモチーフが付いたヘアピンだった。ハルが付けたら抜群に似合いそうだと思っていた。プレゼントか……。ハル、喜んでくれるかな。高いものではないから、あげたとしても重荷にはならないだろう。……こういう弱気さが僕のダメな所なんだろうか。
女の店員さんがやけにニヤニヤしているのが気になったけど、勇気を出して購入した。夏は人をアグレッシブにする……本当かもしれない。
店を出て、友人の惚気話を聞き流しながら、夏休みが終わったら部活の時間ででも渡そうかなどと考えていると、友人に腕を小突かれた。
「おいおい、これは偶然じゃねぇな。鈴村さんがいるぞ」
「えっ」
指をさす方を見ると、確かにハルがいた。彼女も買い物に来ていたんだろうか、クラスメイトの女の子と一緒に、こちら側に歩いて来る。
「今渡しちゃえよ。ほらっ、行け!」
背中を押しやがる。まだ心の準備がっ
「ちょっと待て、おいっ」
「お前の未来はおじさんが保証するって。いいから、行くんだよ!」
どん、と一際力を込めて押された。バランスを崩して、四、五歩前に進み出て、ハルの前に来てしまった。まだ何も、言葉を考えていない。
「ア、アキっ?」
「よ、よう、奇遇だな」
ハルは驚いた表情をしている。隣にいたクラスメイトの子は僕の顔を見るとなぜか嬉しそうに笑ってこちらに駆け寄り、振り向いてハルに声をかけた。
「じゃ、私先に行ってるね。喫茶店にでも入ってるから、ゆっくりでいいからね」
「えっ、ちょっと待って――」
そのまま彼女は走り去って行ってしまった。
「あー、……なんかごめんな。買い物の邪魔しちゃったかな」
「ううん。そんなことないよ。アキも、お買い物?」
「まあ、そんなところ……」
心臓の鼓動がおかしいくらいに高鳴っていた。夏よ、僕に力を。
「それでさ、偶然見つけたんだけど、これ、ハルに似合うかと思って……あげるよ」
小さな紙の袋に入った、大事なプレゼントを手渡した。
「え、……いいの? なにこれ?」
「季節外れかもしれないな。安物だし、気に入らなかったら、捨てちゃっていいからな。じゃあ、また学校で」
早口でそう言うと、走ってその場を去った。遠くで笑ってる友人を見つけると、全力で走り寄って飛び蹴りした。
「痛ってぇ。何すんだよ!」
「お前こそ何すんだよ。僕は僕のタイミングで渡そうと思ってたのに」
「結果的に渡せたんだからいいじゃねぇか。それにしてもお前ヘタレだなー」
「うるさい。お前が勝手なことするからだろ」
「そういう割には嬉しそうな顔してるじゃないか」
顔が燃えるように赤くなっていて、無意識に口元がにやけているのに気付いた。友人が「うひゃひゃひゃ」と下品に笑った。今度は軽めに足を蹴った。まあ、嬉しいし、お前に感謝もしてるよ。
夏休みが終わって始業式の日、ハルは僕があげたピンをしてくれていた。嬉しくて、教室の右前の方に座るハルを遠くから眺めていたら、ふとこちらを向いたハルと目が合った。ハルはヘアピンを指さして、にっこりと微笑んだ。
僕は、もうだめだ。もう、君から逃げられない。
*
夏が夕焼けと共に、赤と青と紫の間の、果てなく遠い空の階段を上って行った。夏は嫌いだけど、夏の終わりはなんだか切なくて心地いい。そして、遠い北の地から涼しい風に乗って、秋がやって来た。僕の生まれた季節だ。
今までは、荒涼とした冬に向かう、物寂しい季節としか思っていなかった。でも、ハルと出会い、彼女にアキと呼ばれ、秋という季節の魅力を聞かされているうちに、自分が秋に生まれたことを誇りに思うようにさえなっていた。今では、一番好きな季節だ。もちろん、二番目は春だ。
「涼しさ」「もみじ」
「夕焼け」「落ち葉」
「並木道」「虫の声」
「すすき」「金木犀」
ハルとモネの丘にイスを並べ、秋の景色を描きながら、秋の良い所を順番に挙げていった。
「ドングリ」
「松ぼっくり」
「コスモス」
「あ、それ言いたかったなあ」
こんな時間が、幸福で仕方ない。穏やかで心地よくて、僕はまだ、想いを打ち明けられずにいた。
「うーん……、ジャケット」
「あ、分かる。夏には出来ないお洒落が出来るもんね」
「いい加減思いつかなくなってきたな。次ハルの番だよ」
「うーん……」
彼女は真剣に悩み、やがてポツリと答えた。
「……キンセンカ」
「何それ。秋の花か何か?」
「ううん。春だったかな」
「じゃあハルの負けね」
「えー、これ勝負だったの?」
キンセンカ。春に咲くというその花がどんな花なのか、後で調べてみようと思った。
ハルは絵を描く手を止め、少し視線を落とした。やがて、身を乗り出して僕の描く絵を覗き込んだ。
「この景色、ちょっと構成が寂しくない? 中心部分に主役がないというか」
「え、そう?」
ハルが僕の絵に意見を言うのは初めてだ。少し驚いた。
彼女は立ち上がり、ゆっくりと歩いて、秋の空と、僕のカンバスの間に立った。丘に一本だけ立つ桜の木に片手を軽く触れ、こちらには背中を向けている。そのまま、暫く静かな時間が流れた。
僕は、色付き始めた遠くの山と、澄んだ空気を湛える空と、ハルに、見とれていた。彼女が触れる桜は枯れていたが、その時だけは僕の目には、薄桃色の花々が、彼女の呼吸に合わせて揺れているようにも見えた。
美しい風景。自由な時間。平和な世界。全てが満ち足りているのに、胸の辺りが微かに苦しい。心臓を優しく掴まれているようだ。
もう少し。もう少し、手を伸ばしても、いいですか。君の心に、触れるくらいに。
神々しさすら感じる景色と、日々募り溢れる想いに、思わず涙が零れそうになった時、ようやくハルは振り向いた。フワリと膨らむスカートに、桜の花びらが舞った気がした。以前にも、こんな光景を僕は見た気がする。
「ね、私を描いてよ」
何となく、予想と期待はしていた提案だった。それでも、入部当初より多少腕は上がったとはいえ、目に映るこの奇跡のような風景を、僕の手で描けるとは到底思えなかった。
「え……。でも、僕、人物画苦手なんだって」
「絵は腕じゃなくて心だって前に言ったじゃん。いいから、お願い」
ハルは微笑んではいたが、その声はどことなく真剣さが感じられた。
「……わかった。やってみるよ」
「うん」
絵は腕じゃなくて心か。ハルは、どういう意図でこの言葉を僕に伝えたんだろう。目の前の輝く風景、そこに佇む彼女に向かう心なら、僕は溢れるほどに持ち合わせている。
筆を持って、彼女を見つめた。自然に目が合う。こんなに真剣に、彼女と向き合うのは初めてだ。恥ずかしさに耳まで赤くなりそうだった。ハルは気付いていただろうか。
短く深呼吸をして、描きかけの風景画の上に、ハルの色を重ねた。
*
- 好きだったんだよ -
それから一週間ほど、部活時間はハルを描く時間になった。
放任主義のこの部活は、特に課題も期限もない。誰が何をしていようと、仲のいいグループ以外にはほとんど干渉しないのが、僕にとってはいい所でもあった。中には美術部に在籍していながら、何一つ作品を作らずに友達とお喋りに興じているグループもあった。
ハルの絵は、六割ほど出来ていた。今までのような他愛無い会話はほとんどなかったが、秋の柔らかな風の中、向き合って、静かに彼女を描く時間は、幸福でもあった。
描いている間、ハルは色んな表情を見せた。微笑んでいたり、真剣そうになったり、今にも泣き出しそうな、悲しげな顔をすることもあった。その全てが、僕の心を満たし、締め付け、震わせた。
「アキ……」
「ん?」
不意に彼女が僕の名を呼んだ。夏合宿の星空の下で聞いたような、弱々しい声だった。
「アキ……」
「なんだ?」
「アキ……」
「どうした? ここにいるぞ」
「……展覧会の約束、覚えてる?」
「もちろん。僕の絵も飾ってくれるって話、期待してるからな」
「……うん。忘れないでね」
忘れないよ。忘れるものか。君の夢はもう、僕の願いでもあるんだ。
下校のチャイムが鳴り、切り上げることにした。
今日は金曜日。完成は、来週になりそうだな。
よし、完成したら、思い切ってハルにこの想いを伝えよう。
別れ際、ハルは笑顔で手を振ってくれた。
その翌日、ハルは世界からいなくなった。
*
月曜日のホームルームで、担任から周知があった。
ハルは、来春に転校を控えていたようだ。父親の仕事の都合らしい。
新しい住居の見定めと、近隣の親戚への挨拶を兼ね、土曜日に車で移転先に向かっている途中で、対向車と正面衝突したらしい。乗っていた父親、母親を含めて、全員が亡くなったそうだ。
ハルと親しくしていた女生徒が数人咽び泣いている。
何人か、憐れむような目で僕を見る視線を感じた。
体育館に全校生徒が集まることになった。
移動中、美術部の友人に肩を叩かれた。
「おい、大丈夫か?」
何を言っているのか分からない。
「……何がだ?」
彼は軽く首を振り、僕の肩に置いた手を離し、暫く無言で並んで歩いた。
校長の合図で、全員で黙祷を捧げた。
現状を、理解できない。
こういう集会では、ハルは左側の列の前方にいる。
ハルの姿を探してみたけど、いつも彼女が立っている場所は、不自然な空白があるだけだった。
あれ、ハルはなんでここにいないんだ?
どこに行ったんだ?
僕は、何をすればいいんだ?
どうすればいいんだ?
全身の血液が、眼球の周辺に急速に集まっているような感覚がした。
僕はそこで、意識を失った。
*
保健室のベッドの上で目覚めたら、窓の外では校庭の脇に立つイチョウから、枯葉がひらひらと散っていた。
ベッドの横に女生徒が座っていた。彼女は確か、クラスの保健委員だ。藤岡、だったかな。ハルにプレゼントをあげた日、ハルと一緒に歩いていた気がする。
「あ、気が付いた? 気分はどう?」
目元が赤くなっている。泣いていたのか?
上半身をベッドから起こしてみた。
「頭が……、ぼんやりする」
掠れた声しか出なかった。口と喉がひどく渇いていた。
「……授業、出なくていいのか?」
「私たちの学年は、早退になったよ」
「……なんで?」
彼女は困ったように口をつぐんで、俯いた。
ぽろぽろと、涙が頬を伝っている。
「その……。ハルちゃんのことは、私も、すごく悲しいよ……」
やめろ。
「正直、信じられないっていうか……」
言うな。
「でも、あんまり、思いつめないでね」
黙れ。
「きっと、アキくんや皆が笑ってた方が、天国のハルちゃんも、喜ぶから……」
そう言いながら、彼女は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
僕は震える右手で、自分の額を触ってみた。手も顔も、驚くほど冷たい。感覚が薄くて、自分の体じゃないみたいだ。
「天国……」
そう呟いてみた。藤岡が、声を上げて泣き出した。
分かってる。ハルは死んだ。それは分かってる。
ただ、あまりにも、唐突で、呆気なさ過ぎた。
何とかしたら、また会えるんじゃないかとか、本当は遠いどこかにいるんじゃないかとか、明日になれば登校してくるんじゃないかとか、そんな考えが、グルグルと、頭を回り続けていた。
藤岡が泣き止むまで、暫くかかった。
やがて彼女は、時折すすり泣きながら、話し始めた。
「みんなはね、二人が付き合ってるって思ってるみたいなんだけど、本当は、そうじゃないんだよね。私はハルちゃんと仲良いから、色々相談を受けたり、話を聞いたりしてたから、知ってるんだ」
初耳だ。教室内でハルと話した事もないのに、いつの間にそんな噂が立っていたんだ。
「それでね、私が今日残ってたのは、保健委員ってのもあるけど、アキくんに伝えておきたいことがあったんだ。……本当は、ハルちゃんは自分で言うつもりだったと思うんだけど、もう、それは出来ないし、このままじゃ、ハルちゃんがかわいそう過ぎて……」
ハルが、自分で言うつもりだったこと……。胸がチクリと痛んだ。
ずっと聞きたかった事な気がするのに、今はそれを聞くのが怖かった。
「ハルちゃんはね、ずっと、アキくんのことが、好きだったんだよ」
黒く冷たい鉄の塊で思い切り殴られたような、そんな衝撃だった。頭がグラグラする。胸がズキズキと痛む。
「今日初めて話せたとか、アキって呼ぶことにしたとか、今日は将来の約束をしたとか、素敵なプレゼントをもらったとか、すごく嬉しそうに話してたよ」
全てが思い当たる。その時の光景を、彼女の言葉を、鮮明に思い出せる。心臓を抉られるようだ。
ハル……。ハル……。
「転校するってのは、夏頃決まったみたい。お父さんの都合ってのは、先生も言ってたっけ。アキくんに伝えるかどうか、すごく悩んでたよ」
そうか……。今思うと、夏合宿の頃からハルは少し寂しげだった。
「伝えた時に、そんなに寂しそうじゃなかったら、どうしようって。それが怖かったみたい」
僕と同じだ。穏やかな関係が壊れるかもしれないのが、一番怖かった。
「絵は、……完成したの? ハルちゃんを描いてた、絵」
そんな事まで聞いていたのか。ハルは余程この子と仲が良かったんだろうな。
「完成、してない……」
「そう……」
彼女は俯いて、暫く黙っていたが、やがて僕を見据えてこう言った。
「ねえ、……これは、私の個人的な思いだから、答えなくてもいいんだけど……。アキくんも、ハルちゃんのこと、……好き、だった?」
僕にだって、伝えたいことはいっぱいあった。苦しい想いを打ち明けたかった。こんなにも君を好きな事を。君と過ごす時間が、何よりも嬉しくて輝いていた事を。伝えたかった。……のに、もう、伝えられないなんて!
ハル……! ハル……! ハル……!
胸の痛みを抑えるように、胸元のワイシャツを握り締めて、答えた。
「そう、だよ……」
「そっか……。よかった。ハルちゃんに、教えてあげたいな……」
彼女は泣きながら微笑んだ。
暫く休んでいていいと、担任と保健の先生の許可を得ていることを告げて、彼女は部屋を出て行った。
一人きりになって、ベッドに倒れ伏せて、子供のように、大声で泣いた。
*
- 僕に出来ることは -
それから僕は、何日も学校を休んだ。部屋に篭ることもあったし、親に余計な気を使ってもらいたくない時は、制服を着て学校に行くフリをして、公園や図書館などで一日を過ごした。
友人から、心配してくれている旨のメールが何通か来たが、どれも返事を出していなかった。
ハルと交わした会話を、彼女の放つ一つ一つの言葉を。彼女の柔らかな仕草を、表情を。ハルの全てを、何度も思い出して、反芻していた。
晩春の陽に輝く笑顔。初夏の緑の風の中口ずさんだ万葉のことば、桜に込めた想い。真夏の夜の消え入りそうな声。黄金の夕焼けに揺れる寂しげな表情。
秋の日に聞いた、キンセンカについても調べた。金盞花。キク科の植物。別名はカレンデュラ。秋に種を撒き、翌春に花を楽しむ。花言葉は、別れの悲しみ。静かな思い。忍ぶ恋。変わらぬ愛。
彼女は、何を思って、この言葉を、あの話を、僕に伝えたのか。どんな気持ちだったのか。それを思うだけで、心はいつでも張り裂けそうになり、涙は何度でも溢れた。
その頃、空を飛ぶ夢を、よく見た。
両手を広げて、軽く地面を蹴ると、ふわりと宙に浮いた。
空を飛んで、ハルに会いに行く夢だった。蜘蛛の巣のような電線が邪魔をしてうまく飛べず、ハルに会えない時もあったし、すんなり会える時もあった。ハルを見つけ、彼女の前に降り立っても、僕は何も言えずに目が覚めた。ハルはいつも寂しそうな顔をしていた。目覚めてから、布団でしばらくさめざめと泣いた。
あの時、あの時、あの時。いつでも、何度でもチャンスはあったはずだった。ハルに想いを伝え、ハルの想いを受け止めること。何もしなかった自分が、変化を恐れてただ安穏と過ごしていた自分が、どうしようもなく憎く、もし、自分が動いていれば、もしかしたら、万が一でも、ハルの運命が変わっていたかもしれないと思うと、とても自分が許せなかった。
欠席が続いたので、学校から家に連絡が行き、親と共に教師に呼び出されたこともあった。が、担任は事情を知っていたのか、僕を詰責することはせず、優しく扱ってくれた。もしかしたら、あの保健委員の子が話したのだろうか。
両親も、僕の突然の変化に戸惑ってはいたようだが、問い詰めたり、叱るようなことはしなかった。これは、とても助かった。できるなら今は、世界に放っておいて欲しかった。
誰かを癒し、元気づける絵を描く。
大好きな桜の絵の個展を開く。
自分が世界に生きていたという証明を残す。
彼女がえがいた夢は、絵に込めた願いは、叶うことはなかった。
僕に出来ることは、彼女を忘れないことだった。
僕が生きる事が、彼女の生きた証となること、それだけを願った。
* * *
胸が痛い。
息が苦しい。
悲しくて、前に進めない。
ここは、涙で出来た海。悲しみの海。
ノートに付けたペン先を止め、心を過去に引き戻す。
あれから、なんとか高校を卒業し、大学受験にも成功した。
ハルのいなくなった日々は灰色の世界で、鋭く尖った鉄屑の中を歩き続けるようだった。一日一日を生きる度に、心が血を流していた。思い返せば、たった三つの季節を共に過ごしただけなのに、ハルが僕に与えた影響は、計り知れない。
これは、後で知ったことだが、高校卒業に必要な出席日数が僅かに足りなかったようだが、担任の先生が校長と懸け合い、何とかしてくれたらしい。先生は、特に恩着せがましいことを言うこともなく、僕を送り出してくれた。有難いことだ。
高校の卒業式を終えた後、何年かぶりに美術室の扉をくぐった。顧問にお願いして、ハルが描いた全ての絵と、僕が描いていたハルの絵を、引き渡してもらった。ハルがいなくなってから美術部へは一度も顔を出さなかったし、在籍していた頃もあんなに放任だった顧問の先生さえ、僕を気遣ってくれた。僕とハルの関係が、学校中に知れ渡ってでもいるのかと、思える程だった。
ハルの絵を入れた袋を抱えて校舎を出ると、咲き始めの桜の花に迎えられた。
ハルに会えなくなってから、それはもう三回目の桜だった。彼女のいない世界で、生命力に満ち溢れ、季節が巡る度に力いっぱい咲き誇る桜を、忌々しく感じることもあった。
モネの丘に佇む桜も、花を付け始めているだろう。ハルの隣で、見たかった。あの丘には、ハルがいなくなってから、一度も訪れていない。
クラスメイト達が、笑いながら校舎を離れていくのを見ていたら、ハルと僕だけが、まるで世界に置いていかれているような、そんな錯覚を覚えた。
一人暮らしをしたかったので、大学は、他県の私立大学にした。
僕を知らない人々の中では、なるべく明るく振舞い友人も数人できたが、アパートの部屋に帰ると、ハルの桜の絵に囲まれて、一人静かに涙を零していた。
秋の黄金色の景色の中で、ハルと向き合い彼女を描いた絵が中断されてから、僕は、絵を描くことを、やめていた。
*
波音が強くなった気がした。
北風が勢いを増したのか、身を切り裂くように寒い。
この海は、ハルの命を奪った交通事故現場の近くだった。
大学に入って二か月程経った頃にふと思い立ち、その頃始めたばかりのインターネットや、図書館で過去の新聞を漁り、ハルの事故の詳細を知った。ハルを乗せた車は普通の乗用車で、海沿いの国道、見通しの悪いカーブ地点で、車線を乗り出してカーブしてきた軽トラックと衝突したようだ。トラックの運転手に激しい憎悪をぶつけたかったが、相手側も死んだというのだから仕方ない。図書館の裏にある木を思い切り殴るだけで済ませた。殴った手は血だらけになったが。
帰宅後、その海への最寄り駅と乗換方法を調べ、翌日の朝、早速向かった。現場と思われるカーブ地点を見つけたが、当然だが何の痕跡も残っておらず、ハルの気配を感じ取ることも出来なかった。ただ、この場所で、ハルが苦しんで死んだと思うと気が気ではなく、彼女を救えなかった愚かな自分を呪った。
気持ちが落ち着くと、近くにあった浜辺へ下りる階段に座り、夕日が海に沈むまでそこで、ハルといた日々を思い返して過ごした。
それから毎週、僕はこの海辺に来ている。
世界も、僕を取り囲む環境も、僕自身の身体も、流れ続ける時の奔流に押され、前に歩き続けているというのに、僕の心のベクトルだけは、いつでも過去になびいていた。いつでも、ハルに向かっていた。
置いてきてしまったのか
置いていかれてしまったのか
足元で繰り返す波音に
果てなく遠い
記憶を想う
私の歴史に息づく人よ
セピア色にほほえむ人よ
今もあなたの優しい肩には
白く哀しく故郷の桜が
幸福のように舞っていますか
空では星が 涙を零し
人の願いを儚く誘う
指の間から滑り落ちるのは
愛しい刻を忘れたくなくて
かき集めた思い出か
波音が 蘇らせるためいきは
果てなく遠い
あなたを想う
「へえー、歌詞でも書いてるの?」
突然、頭上で人の声がした。
心は死んでいるようでも、正常な驚愕はできるようだ。
「うわぁ!」
僕は全身で驚き、立ち上がり際にバランスを崩し、石の階段を踏み外して砂浜に尻もちをついた。
声の主を見上げて、さらに全身が総毛立つ。雷に打たれたようだ。青天の霹靂とはこういう事を言うんだろう。最も、今日の天気は世界の終りのような曇り空なんだが。
そこには、ハルが立っていた。
- cafe cerisier -
忘れもしない。華奢な体。穏やかな目。桜色の唇。細い指。セミロングの黒髪。……いや、髪は少し短くなっている。左手には買い物袋を提げていた。
どれだけ待ち望んだだろう。いや、完全に諦めていた。まさかまた、ハルに逢えるなんて!
心臓が、爆発しそうな程に激しく暴れる。鼓動が自分の耳にまで聞こえる気さえした。
「どうしたの? 大丈夫?」
恐らく驚愕を全身で体現し続けているであろう僕を見て、彼女は少し心配そうにしている。
ようやく、掠れた声を絞り出すことが出来た。
「ハ……ハル!」
「え、私を知ってるの……?」
その答えに、一瞬混乱した。
知っているも何も……。君は忘れてしまったのか?
隣で絵を描いていた思い出も。
展覧会の約束も。
一緒に見た流れ星も。
初めて君を描いた秋も。
いや、そもそも、
ハルは、
死んだはずではないのか。
混乱する頭を押さえつけて、なんとか質問をしてみる。脈絡なんてどうでもいい。
「……君、……名前は?」
「あれ、知ってるんじゃないの?」
「いいから、名前を、教えてくれ」
その声は震えていたかもしれない。顔は青ざめていたかもしれない。他人からしたら不審者でしかない僕に、彼女は丁寧に答えてくれた。
「私の名前は、宮里春です。宮殿の宮に、古里の里。名前は漢字で春。Springの春。いい名前でしょ。それよりお兄さん大丈夫なの?」
現実が伸し掛かる。目の前が暗くなる。
当たり前だ。
ハルは死んだ。
もう二度と会えない。
とっくに知っていたことだし、理解もしていたつもりだったのに、傷跡を無理やり開かれて、真実を再度叩き付けられたような気分だ。
この人は、僕を知らないし、僕も、この人を知らない。
それにしても、ミヤザト……ハルだって? それに、瓜二つの容姿。声までそっくりだ。
これは何だ。ただの偶然なのか。神が僕を躍らせて嘲笑っているのか。驚愕と混乱と悲嘆で発狂しそうだ。
「ちょっと尋常じゃない感じだね。うち、近いから、寄っていきなよ。あったかいコーヒーでも出すからさ」
彼女はそう言いながら石の階段を駆け下り、僕の左腕を持ち上げて首に回し、僕を立ち上がらせようとした。
「う、ちょっと、厳しいかも」
至近距離でもたつく彼女を見て、多少心は落ち着いてきた。
「いや、大丈夫。……自分で、立てる……」
「そう?」
何とか立ち上がったが、眩暈がする。
「きっと身体が冷えたんだよ。こんな寂しい所に何時間もいたんでしょ。ほら、こっち。歩ける?」
彼女はそう言って、右手を延ばして僕の左手を掴み、優しく引っ張った。
「うちね、喫茶店やってるんだ。すぐそこだから」
僕の手を取ったまま歩きだした。仕方なく付いていくが、正直乗り気ではなかった。この子を見ているだけでも、泣き出しそうになってしまう。だけど、繋いだ小さな手が暖かくて、振り払えずにいた。
僕たちは、手を繋いだままゆっくりと歩いた。春と名乗った彼女は、時折こちらを振り向いて僕の体を気遣ってくれた。
ハルを殺したカーブを曲がり、道なりに歩き、数軒の家並を越えると、小さな木の看板を掲げた喫茶店の前に辿りついた。木造りの二階建ての建物だ。中からオレンジ色の明かりが零れている。
『cafe cerisier』と、看板には掘られていた。cafeの次の単語を僕は知らない。何の言語だろうか。
「ここだよ。さ、遠慮せず入って」
春は古びた茶色の扉を押し開き、中に僕を引き入れた。
店内もほとんどが木造りで、全体的に明るめの茶色で統一されていた。四つの椅子が向き合うテーブルが十セットの、そんなに大きくはない店だ。暖房が効いているのかとても暖かい。ジャズ調のピアノの曲が、静かに流れていた。客は一人もおらず、店員と思えるような人もいない。
部屋の奥の方に、素朴な印象の店内には多少不釣り合いな、黒く輝く縦置きのピアノが佇んでいるのが見えた。アップライトピアノと言うんだったか。
「ま、この辺にでも座ってよ」
そう言うと春は壁際の席の椅子を引いて僕を座らせ、店の奥の方に向けて声をあげた。
「おじいちゃーん、帰ったよー! コーヒー淹れてー!」
店の奥の階段から、一人の老人が降りて来た。髪は豊かな白髪だが、すらりとした背筋はまっすぐ伸び、細い目からは優しい雰囲気が溢れていた。老齢の執事といった感じだ。この人が春の言った「おじいちゃん」であり、店主なのだろう。
「おかえり、春。その人は、友達かい?」
見た目通りの、落ち着いた優しい声だ。
「うーん、まあそんなもんかな。すごく凍えてるみたいだから、あったかいやつ淹れてあげて」
「分かった。待ってなさい」
春は僕の向かいの席に座った。
「ちょっと待っててね。おじいちゃんのコーヒーは美味しいんだよ」
「なんだか、悪いな」
「気にしないでよ。この季節はお客さんいなくてヒマなんだし」
彼女はそう言って笑った。ハルの笑顔がオーバーラップし、胸が痛む。
「お兄さん、大学生? 何歳?」
「……大学生。今年で十九歳」
「わあ! 同い年なんだね。やった!」
春は大げさに喜んだ。何が嬉しいのか分からない。
「ね、名前は何ていうの?」
躊躇った。答えれば、苦しくなることが分かり切っていた。
「名乗るくらいはしてくれていいんじゃない?」
彼女が身を乗り出す。答えを待っている。
暫くの躊躇と沈黙の後、仕方なく、力なく口を開いて、音を発した。
「アキ……」
居た堪れない。胸が潰れそうになる。
記憶を完全に失った最愛の人に、自己紹介をしているような気分だった。
「あき? 季節の秋?」
「そうだよ……」
正確には違う漢字だし、名前の一部でしかないのだが、説明が面倒で、どうでもよくなった。
……いや、違うな。心のどこかで、目の前の彼女に、ハルを重ねようとしていたのかもしれない。昔のように、その名前で呼んで欲しかったのかもしれない。
「そっか! じゃあ私とは一番遠い季節だね。よろしく、秋くん」
屈託なく彼女は言う。
(じゃあ、君はアキだね。私はハル。一番遠い季節だね)
錆びついた刃物が、心臓に突き刺さるようだ。もう、耐えられない。右手で、胸元のシャツを掴んだ。
「うぅ……」
涙が溢れ出し、それを隠すように、僕は下を向いた。
「えっ、何? どうしたの!?」
「いや……。何でもない……。気にしないで」
「気にするよ! すごく辛そうだけど、どこか痛いの?」
春が立ち上がり、僕の横に駆け寄るのを感じた。
「大丈夫、体が痛いわけじゃないから」
「……じゃあ、心が、痛いの?」
僕は答えなかった。今日初めて会った女の子に、こんな姿を見せるのが恥ずかしかった。急いで手で涙を拭い、心を落ち着かせる。突然溢れだす悲しみを飼い馴らすのは、今までに何度もしてきたことだ。
「もう、大丈夫。ごめん。心配かけた」
「本当に大丈夫?」
「うん」
春は心配そうな顔をしながら、自分の椅子に戻った。
店の奥から、おじいさんがコーヒーを持ってきた。香ばしい香りが広がる。
「お待たせ。これを飲んで、落ち着きなさい」
「すみません、頂きます」
焦げ茶色の液体を啜った。美味しい。苦過ぎず、酸味も控えめで、温かさが全身に沁み渡るようだ。心が落ち着く。
おじいさんは店の奥に戻ったのか、もう見えなくなっていた。春は暫く何も言わずに僕を眺めていた。
僕がカップをテーブルに置き、深い息を吐き出した所で、彼女が切り出した。
「ねえ、辛いことを聞いちゃうかもしれないんだけど……」
真剣な表情をしている。
「なに?」
「もし、言いたくなかったら、言わなくてもいいし、私が間違ってたら、笑い飛ばしてもいいんだけど……」
「うん」
彼女は少し黙り、迷っているようだったが、やがて決意したように、視線を僕に真っすぐ向けて、言った。
「秋くん、『はる』っていう名前の女の子と、付き合ってたね?」
- 君が好きです -
思わず目を見開いてしまった。心臓を掴まれた気がする。脂汗が滲み出る。
「そして、その子は、……私にそっくりなんだね?」
再度、全身に電撃が走る。全てを見透かされているようで、怖くなった。ここから逃げ出したくなったが、体が動かない。辛うじて声は出た。
「な、なんで……それを……」
春はそれを聞くと、視線を落とし、椅子の背もたれに寄りかかり、ため息のような吐息を零した。
「やっぱり、そうか……。これは、てこずりそうだなぁ」
独り言のように言っている。どういうことだ?
春は視線を僕に戻し、凍りつく僕の表情を見て、ふわりと笑った。まるで、桜のつぼみが開いたようだった。
「ふふ、じゃあ最後に、もうひとつだけ驚かせてあげよう」
春は姿勢を正し、真剣な表情で僕を見据えて、最後の一撃をくれた。
「秋くん。私は、君が好きです」
目の前で、春の突風が吹いた気がした。
しばらく放心してしまった。
意味が分からない。意味が分からないけど、顔が熱くなってくるのを感じて、それが恥ずかしくて、誤魔化すためにテーブルに両肘をついて頭を抱える。
「からかうなよ。今日初めて会ったばかりだろ」
「からかってないよ。本気だよ。それに、実は初めてじゃないんだ」
またしても意味が分からない。下げていた顔を上げ、彼女を見た。春は微笑んでいた。
「秋くん、半年前くらいから、毎週ここの海に来てたでしょ。私、お店の買い物でよくあの道を通るから、気付いたんだ。この人、いつも寂しそうに海を見てるなぁって。そしたらどんどん気になっちゃって。何考えてるんだろうとか、どこの人なんだろうとか。何て名前で、どんな声で、何歳なんだろうとか、ね。いつの間にか、好きになっちゃってたみたい」
人通りのほとんど無い町だから、人の目をまったく気にしていなかった。見られていたのか。それを知ると、なんだか、恥ずかしい……。
「同い年か年上だったらいいなーって、思ってたの。だから、すごく嬉しい!」
本当に嬉しそうな春の笑顔が眩しくて、思わず目を逸らした。
「今日は、勇気を出して声をかけてみたんだよ。秋くん、ものすごーく驚いてたね。ふふっ」
少女のように笑う。少し胸が苦しくなる。
「あの時、ノートに何か書いてるように見えたけど、何? 歌詞?」
詩を書いてます、なんてメルヘンなことは恥ずかしくて言えない。大学の友人にも言ったことがない。それに比べて、歌詞を書くという行動は、なぜかどこか、格好いい印象を受ける。大した違いは無いだろうに。
「……まあ、そんな感じ」
春の問いには曖昧に答えて、話題を変えるため先ほどの疑問をぶつけてみることにした。なぜ、僕の過去を知っているのか。
「なんで、ハルの……」
と言いかけて、目の前の彼女も「はる」であることを思い出し、言い直した。
「……さっき言ってたことは、どうして知ってるんだ?」
「あれはね、女の勘ってやつだよ。今日の秋くんの反応を見てれば、何となくわかるよ」
「そ、そうなのか……」
春はまた、身を乗り出して聞いた。
「で、その『はる』って子とは、何があったの? フラれちゃった?」
さすがにそこまでは知らないか。言うか迷った。あまりにも重い話だ。
「……うん。言いたくないよね。答えなくていいよ。ごめんね」
彼女は笑顔で身を引いた。
ほんの少しだけ、寂しくもあった。もっとしつこく聞いてくれれば、渋々答えたかもしれない。この苦しみを、聞いて欲しかった。そんなことを、僅かに考えてしまった僕は、なんて我儘なんだろう。
「秋くん、スマホ貸して。持ってるよね?」
良く分からないまま、ポケットに入れていたスマホを春に渡した。
春は自分のスマホを取り出し、僕のものと突き合わせ、何かの操作をした後、僕に返した。
「LINE、勝手にだけど登録しちゃった。いつでも連絡してくれていいよ。秋くんのフルネームも、ついでに判明しちゃったぜ。ふふっ」
なんて行動的な子なんだろう。最後まで連絡先も聞けなかったハルとは大違いだ。いや、ハルもある意味行動的だったろうか。三年前も今も、動いていないのはいつも僕だけだ。
春は少し真面目な顔をして、言った。
「秋くん、念のため、もう一回ちゃんと言っておくね。今度は、驚かずにしっかり聞いてね」
彼女が何を言うのかも、僕の気持ちも、その先の答えも、今度は予想できた。
「私は、秋くんが好きです。もっと秋くんのこと知りたいし、私のことも知ってほしい。だから、その……、付き合って、ください」
言葉を紡ぐにつれ、春は俯きがちになり、口ごもって行った。今までのハキハキした言動からは、少し意外に感じた。
僕にとっても、嬉しくない訳がない。生まれて初めて女の子から告白されたんだから、当たり前だ。でも、春の言葉を聞いている間にも、ハルの名前や顔や思い出が、頭を離れなかった。ハルを、忘れることは出来ないし、ハルを忘れてはいけないと、僕は自分に言い聞かせてきた。僕がハルを想い、生き続けることが、ハルの、生きた証になるんだ、と。
最愛の人と見間違えるほど似ている女の子が、目の前で泣きそうな顔をしてこちらを伺っている。胸がズキズキと痛むが、声を出さなくてはならない。
「その……」
途端、春が立ち上がった。
「いきなり付き合って、なんて、困っちゃうよね。お互いのことほとんど知らないわけだし。返事は、すぐじゃなくていいからね。ちょっと考えてみてよ」
そう早口に言いながら、店の奥の方にあるピアノの方に歩いて行った。
「私ね、歌手を目指してるんだよ。自分で曲を作ったりもするんだけど、歌詞がなかなか思いつかなくてさ、困ってたんだ。ちょっと、聴いていってよ」
店内に流れるBGMのボリュームを消した後、春はピアノの前の椅子に腰かけ、鍵盤に指を置いた。ひとつ深呼吸をして、曲を奏で始めた。
その、細く白い指から零れ落ちるメロディーは、初めて聴くのにどこか懐かしく、甘く切なく心に沁み渡った。例えるなら、グリーンスリーブスやスカボローフェア等の世界に似ていた。彼女がハミングで歌う曲も、透明感のある声も、とても美しく、堪えていないと涙が溢れそうになった。もしかしたら、ハルの描く桜の絵と、似ているのかもしれないと、思った。
全体的に切ない曲調だったが、終わりの方は爽やかに締められていた。
曲が終わった後、思わず拍手をしてしまった。それだけ、感動的だった。
「すごく、いいじゃないか。感動したよ」
こういう時の自分のボキャブラリーの無さに少し失望してしまう。
「ふふ、ありがとう。実はね、秋くんに、この曲の歌詞を書いてほしいんだ」
「ええっ? 無理だよ! こんな綺麗な曲に、僕の言葉なんて乗せられないよ」
「……私は秋くんに書いてほしい。お願いします」
悲しげな顔で頭を下げられた。断り辛くなった。そんなに悲しい顔をしないでくれ。
「そんなに重くとらえなくてもいいの。空いた時間とか、暇な時に、ちょっと考えてみるくらいでいいから。ね、お願い」
秋の日に、絵を描くようお願いしていたハルと重なった。
「……わかった。やってみるよ」
春はようやく、満面の笑みになった。
「よかったぁ。ありがとう!」
ちょっと待っててと言って彼女は店の奥の階段を駆け上がり、しばらくして一本のカセットテープを持ってきた。
「ふう。これに、さっきの曲を録音してあるの。私の事、思い出しながら聴いてね」
冗談めかして言いながら、テープを僕に渡す。今時カセットテープなんて珍しい。
「ちなみに、タイトルは何ていうんだ?」
「実はそれも決まってないの。一緒に考えてくれると嬉しいな」
「うーん、わかった。でもあんまり期待はするなよ」
春は笑顔で大きく頷き、
「うん、期待して待ってる!」
「だからさ……」
「だから……、また、来てね。待ってるから」
急に寂しげな表情で言った。表情のよく変わる子だ。
「……わかった」
自分の心の甘さが、少し憎い。
- ハルはここで死んだのに -
外が暗くなったので、コーヒー代を払って帰ろうとしたが、春もおじいさんも頑なに受け取ろうとしなかった。逆に夕飯を食べて行けと二人に勧められたが、帰宅に二時間以上かかることを告げたら諦めてくれた。
「それなら、駅まで送るよ! それならいいでしょ」
駅までは、ここから二十分以上かかるはずだ。帰りは彼女一人。もう外は暗い。女の子を一人で歩かせるわけにはいかない。
「それを言うなら、さっきまでフラフラだった男の子を一人で歩かせるわけにもいきません! 私は歩き慣れてるから大丈夫。送らせないって言うなら泊まっていきなさい! さあ、どっちがいいの?」
困った顔でおじいさんを見ると、
「この時間ならまだ大丈夫でしょう。春、帰りは気をつけるんだよ」
おじいさんの承認が下りた。仕方ない……。
帰り道、春と並んで歩きながら、春の話を聞いていた。
高校卒業後、音楽の専門学校に通っていること。祖父の営む喫茶店でバイトとして働き、お小遣いをもらっていること。店の近くに桜の名所があり、満開の時期にはお店がかなり賑わうこと。
あの喫茶店で、おじいさんと二人だけで暮らしているのかと疑問に思い、聞いてみた。
「春は……あ、いや」
そういえば、彼女の名を呼んだことがない。ハルと、名前も容姿も似ているせいか、つい下の名前で呼んでしまった。
「ごめん。宮里……さん、だっけ……は、あの店で」
「あははっ」
急に春が笑い出した。
「春で、いいよ。そう呼んでほしいな。私、この名前好きだし」
街灯も少ない夜の道の中でも、春が笑顔になっているのが見えた。
彼女が笑うと、心が少し暖かくなった。
「……そうか。春は、あの店で」
言いかけた時、ハルを殺したカーブに差し掛かった。
なんだか急に、ハルに申し訳なくなってきた。僕は、何をしているんだ。
足が止まる。胸がズキズキと痛む。
ハルに似た女の子に優しくされ、少し、浮かれすぎていた。
ハルは、ここで死んだのに。どれだけ痛かっただろうか。怖かっただろうか。どれだけ、悲しかっただろうか。寂しかっただろうか。最期の時、何を思っただろうか。
十六という若さで、未来を永久に奪われたこと、どれだけ悔しいだろうか。
叶えられなかった夢は、届かなかった願いは、どうすれば報われるのか。
ハルは、自分が生きた証を残したいと言った。両親ももういない。友達も、ハルのために泣いてくれたあの保健委員の子も、いずれはハルを忘れるだろう。僕だけでも、ハルを、想い続けなきゃいけないのに。僕は何をしているんだ。僕は、泣き続けていなきゃいけないのに!
息ができないほど、胸が苦しい。涙が溢れ出す。
「あの店で、何?」
少し前を歩いていた春が、振り向いた。
「あれ……どうしたの!」
こちらに駆け寄る。心配そうな顔で。ハルと同じ顔で。泣きそうな顔で。もうやめてくれ。君の全てが、僕を苦しませる。
「痛いの? 大丈夫? 秋くん!」
春がその手で、僕の左腕を掴んだ。思わず振り払う。
「やめろ! その名前で呼ぶな!」
「えっ、でも秋くんがそう名乗ったんじゃ……」
「うるさい!」
両手で頭を抱える。世界を遮断したかった。
「……何でだよ! わかんないよ!」
春が声を荒げた。ハルと同じ声で。心も頭も滅茶苦茶になりそうだ。
「お前には分からない! お前に何が分かる!」
「分かるわけないじゃん! だから教えてよ!」
「お前に何が分かる! ハルはここで死んだのに!!」
今までに出したことのない大声で叫んだ。
春が、はっと息を飲むのを感じた。
「そう、だったの……。ごめん……。ごめんね」
何故君が謝る。君は何も悪くない。
僕の愚かな行動に巻き込まれ、振り回されただけだ。
悪いのはいつだって僕だ。
春は嗚咽を漏らし、泣き出した。そしてそのまま、小走りで、走り去っていった。
女の子を泣かせてしまった。きっともう会えないだろう。
胸が痛い。胸が痛い。涙が止まらない。苦しい。寂しい!
「うわあああああああああ!」
僕はその場に泣き崩れ、しばらく後悔と孤独と悲哀と怒りのぐちゃぐちゃに混ざった、泥の津波のような感情に溺れ、叫び続けた。
人も車も、誰も通らなかったのが、せめてもの救いだった。
- 幽霊? -
気がつくと、私はガードレールの傍に立って、海を見つめていた。
自分が誰なのか、なんていう名前なのか、頭からすっぽりと抜けてしまったみたいに、何も思い出せない。記憶喪失というやつだろうか。自分が人間の女性であることは、無意識のうちにも理解できた。言葉も忘れていないみたいだ。自分が日本人だということも分かる。
ここはどこだろう。私はここで何をしているんだろう。
何だか、すごく怖いとか、悲しいとか、痛いような気持ちが、心のすぐ近くに潜んでいるような感じがして、不安になる。自分が色んな事を忘れているのは分かるんだけど、思い出したくない気もする。
今はお昼くらいだろうか、太陽が真上にある。空は綺麗な青で、白い雲がふわふわ浮かんでいる。綺麗。
誰か、忘れてしまった人に会いたいような気持ちが、ムズムズと心に湧き上がってくる。
お父さんだろうか、お母さんだろうか。二人はどんな顔で、どんな声だったかな。
それとも、別の誰かかな。
辺りを見渡してみると、ここが車道のカーブ地点ということが分かる。真ん中に白い線が引いてあるから、二車線道路ってやつだ。後ろを見ると、コンクリートで出来た灰色の崖みたいな壁が見上げるくらいの高さまであって、その上には木が覗いてる。赤く色づいたモミジの綺麗さに、今が秋なんだと分かった。
崖から車道を挟んで、道沿いに白いガードレールが続いてる。ガードレールの向こうは二メートルくらい下がっていて、その先には白い砂浜と、波打つ海が見える。海も綺麗だな。左側にガードレールが途切れている所があって、そこから石造りの階段が砂浜に続いてる。そこから海に降りられるのか。
空も、雲も、赤いモミジも、白い砂浜も、青い海も、全部綺麗。
誰かに、この素敵な景色を見せてあげたい。誰かと一緒に見たい。
誰なんだろう。すごくすごく大切な事に思えるのに、全然思い出せない。
寂しい。とりあえず、どこかに移動してみようか。誰か人がいたら、事情を話して、警察か病院にでも連れてってもらおうか。病院……。ホント、なんで私、こんなことになっちゃってるんだろう。
右の方に民家が何軒か見えるから、そっちに行ってみよう。そう思って歩き出すと、暫くした所で見えない壁みたいなものにぶつかった。
「わっ、なに、これ?」
目の前には何もなく、道が続いているだけなのに、前に進めない。恐る恐る手を出してみると、確かに何かに当たる。少しひんやりしていて、サラサラとした手触り。なんだろうこれ。
少し場所を変えてみても、やっぱり何かに阻まれる。車は全然通らないから、車道の真ん中まで行ってみる。透明な壁がある。コンクリートの崖の方まで行ってみる。ここもだ。
少し力を入れて見えない壁を叩いてみたけど、音も鳴らずに跳ね返される。どうして……? なんなの、これ?
仕方ないからこっちは諦めて、反対の方に行ってみよう。
とぼとぼと歩く。どうしちゃったんだろうか、私は。この世界は。寂しい。寂しいよ。
最初に気が付いた場所を横切って、砂浜に降りる階段を通り過ぎて、カーブを曲がる。最初はコンクリートの崖で見えなかったけど、こっちは民家とかは無くて、何もない道が暫く続いているみたいだ。その先に小さいスーパーマーケットのような建物が見える。とりあえずあそこまで行ってみよう。カーブを曲がり切って歩きだすと、
「あうっ」
透明な壁にぶつかった。こっちもだ。道路の上を横断してくまなく触ってみたけど、どこにも壁が途切れている場所がない。もう、なんなの、この壁。
遠くに見えるスーパーマーケットには、誰も人が出入りしていない。寂しい場所だ。誰もいないのだろうか。
スーパーの正面にも石の階段があって砂浜に続いているのが見える。もしかしたら、夏は海水浴に来る人で賑わうのだろうか。スーパーの前の砂浜は、こちらの方まで続いている。
「あっ、もしかして」
僅かな希望を持って、砂浜に続く階段の所まで走って、一段ずつ早足で降りる。柔らかい砂浜を踏みしめて、スーパーの方向に歩いてみたけど、暫くしたらやっぱり壁にぶつかった。
「うう、だめか……」
さっき、道路の上でぶつかった場所とだいたい同じだ。繋がってるようだ。
そのまま砂浜を歩いて、反対側の、民家がある方向にも行ってみたけど、やっぱりだめだった。海の方は試してないけど、きっと同じだろう。それに私、泳ぐの得意じゃないし。頑張って泳げたとしても、海の向こうに何かが見える訳でもない。コンクリートの崖の方を見てみたけど、とても登れそうにない。
――私、閉じ込められてる? どうして? どうやって? 誰が?
誰かいないの? どうして誰も通らないの? 寂しいよ。誰か私を見つけて。私を助けてよ。
涙が出てきた。泣きながら思いっきり叫んでみようか。
そう考えていると、自分じゃない泣き声が遠くから聞こえた。微かに足音もする。誰か来る!
砂浜を走って、石の階段を駆け上がる。
スーパーのある方の道から、女の子が一人歩いてきた。左手に買い物袋を提げて、涙を拭おうともせずに、泣きながら歩いている。
制服は着てないけど、高校生くらいだろうか。なんだか、見覚えのあるような顔だ。私の知ってる人だろうか。この子は、壁に当たらずに来れたんだろうか。
向こうもタダ事じゃないみたいだけど、思い切って、声をかけてみよう。
「ね、ねえ、ちょっといいかな」
女の子は私の呼びかけに答えずに、階段の前で足を止めて、海を眺めた。涙が流れ続けている。目が真っ赤になってる。なんだかすごくかわいそう。
「ねえ、その、大丈夫? 何かあったの?」
女の子は何も言わずに、階段の半分辺りまで降りて、そこに座った。
膝を抱えて、腕の中に顔を埋めて、声を上げて泣き出してしまった。
「お母さん……」
お母さんに何かあったんだろうか。胸が締め付けられるみたいに痛い。私も涙が出てきた。
何か、力になってあげたい。慰めてあげたい。階段を降りて彼女の横にしゃがみ、細く震える肩に手を乗せた。
――つもりだったのに、私の手は女の子の肩を素通りして、今、彼女の体の中に埋まっている。
「えっ! なにこれ、なんで?」
驚いて、急いで手を引き抜く。女の子はさっきと変らず泣き続けている。
自分の手を見てみるけど、特に変わった所はない。不安と怖さで心臓がドキドキしている。
「ね、ねぇ、あなた、何ともなかった?」
恐る恐る聞いてみたけど、やっぱり彼女は何も言わない。
試しに、もう一回だけ手を肩に置いてみるけど、やっぱり素通りした。
もしかして……。
背筋が急に寒くなる。
立ちあがって後ろ歩きで階段を上る。女の子から目を離せない。
もしかして、この子……、幽霊?
- きなこ -
さっきからずっと泣いているし、何かとても悲しいこととか、未練があるのだろうか。この世に心残りがあると、魂が成仏できずに残るって、記憶はないけどテレビで聞いたことがあるような気がする。もちろん、幽霊なんて本気で信じてる訳じゃないけど。でも、さっきの手がすり抜ける現象は、どう考えても……
怖いけど、でも、とてもかわいそう。私の言葉は届かないみたいだけれど、傍に、いてあげようか。どうせ私もここから動けないみたいだし。
階段を降りて、女の子の隣に座った。
触れなくても、手を伸ばして、彼女の頭を撫でた。
聞こえなくても、声をかけた。
「私ね……、どうしてか分からないけど、記憶が無いんだ。気が付いたらここに立ってた。家族も、友達も、誰も思い出せない……。でね、どこかに移動しようとしたら、見えない壁みたいなのがあって、どこにも行けないんだよ。ひどいよね」
話しながら、いやな予感がザワザワと心の底に湧いてくる。もしかして……
いやだ。その先は、考えたくない。不快な思いを振り払うように、言葉を続けた。
「だ、だからね、あなたが来てくれて、ちょっと嬉しかったんだよ。私は、たぶん、しばらくここにいるから、あなたに何があったのかとか、何が苦しいのか、私に話してくれて、いいからね」
言い終わると、女の子はゆっくり顔を上げた。少し落ち着いたのか、ぼーっと海を眺めてる。
「帰らなきゃ」
女の子がポツリとそう言った。手でぐしぐしと涙を拭って、買い物袋を掴んで立ち上がる。
「え、もう行っちゃうの? どこに行くの?」
私も立ち上がる。いやな予感がザワザワと心を満たす。女の子は階段を上り始めた。
「ねえ、もうちょっと居てよ。どこか行く所があるの? 私も連れて行って」
私も階段を上り、民家のある方に向かう彼女の後ろに付いて歩く。心に浮かんだ予感が怖い。私にそれを思い知らせないで。
最初に壁にぶつかった場所まで来た。女の子は、やっぱり普通に通り過ぎた。急いで手を伸ばすけど、冷たい壁に阻まれる。
女の子はどんどん遠ざかってしまう。いやだ、行かないで。これじゃあ、まるで私が……
「ねえ、待って! 私が見えないの? 私の声が聞こえないの?」
大声で叫んで、見えない壁を何度も叩くけれど、女の子は振り返らないまま歩いていって、遠くに見える茶色の建物の扉を開けて中に入った。
ちょっと待ってよ……。これじゃあまるで、まるで私が……
「あら、あなた、バクレイね」
背後で突然声がした。
「ひゃあ!」
驚いて振り返ったけど、誰もいない。小学生くらいの女の子の澄ましたような声が聞こえた気がしたんだけど……
「下よ、下」
また声がした。視線を下に向けると、足元に一匹の猫さんがいた。目元と背中が茶色の縞々模様で、鼻先からお腹が真っ白の綺麗な体。私の目をまっすぐ見上げている。
「え、もしかして……」
「まったく、人間っていうのは既成の概念に捕らわれすぎる傾向があるわね」
声は間違いなく猫さんの所から出ている。耳じゃなく、頭に直接流れてくるような声だ。
「あ、あなたが、喋ってるの?」
「そうよ。あたし以外誰もいないじゃない」
「で、でも」
猫さんは口を動かしていない。しゃがんで、猫さんの体を見回してみた。何かスピーカーみたいな機械でも付いてるのかと思ったけど、何もない。
「猫が喋るのがそんなにおかしいかしら?」
「そ、それはそうだよ。ありえないよ」
「なぜ? 猫も犬も、鳥や虫だって、みんな喋ってるわよ。それを知らないのは、あなたたち人間だけよ」
「そ、そう、なの? でも、今まで猫さんの声が聞こえたことなんて、なかったような……」
記憶はないけど、こんなに驚いているんだから、きっとそうなんだろう。
「それは、あなたがバクレイだからよ」
「ばくれい……。さっきも言ってたような気がするけど、何なのそれ?」
「たぶん人間のあなたなら知ってると思うけど、肉体が滅んだ後、宿っていた精神に後悔や未練が残っていると、物質と剥離して、独立して動き出すそうよ」
「え、それって……」
猫さんが喋ったという衝撃で忘れかけていた、いやな予感がまた胸を埋め尽くす。
「未練の対象によって、種類があるみたいね。一部の場所や建物に執着があれば、地バクレイ。誰か自分以外の他人に執着があれば、人バクレイ。あたし達で言えば猫バクレイかしら。あと珍しいけど物バクレイとか時バクレイなんてのもあるらしいわね」
やっぱり、そうなんだ。幽霊は私だったんだ。
手がすり抜けたことも、声が届かなかったことも、そういう事だったんだ。
私、死んじゃってたんだ。
涙がぽろぽろと出てきた。幽霊でも涙は出るんだな。
「あら、どうして泣くの?」
「だって、私、死んじゃったんだよ。なんでだろう。どうして死んじゃったんだろう」
「死んじゃった事が悲しいの?」
「そうだよ……。当たり前じゃん」
「そう。やっぱり人間は面白いわね」
「え……?」
「まあ、こんな所でしゃがんでないで、こっちにいらっしゃい。話を聞いてあげるわ。あたし今日機嫌がいいのよ」
そう言って猫さんは、浜辺に続く階段に向かい、半分程降りた所で振り向いた。さっきまで私と女の子が座っていた所だ。
私も階段を半分降りて、猫さんの隣に腰を下ろす。女の子には触れなかったけど、こうして地面を歩いたり座ったりは出来るみたいだ。猫さんは私が座るのを見届けてから、口を開けずに話し出した。
「今日はね、あたしのカレに朝ご飯を作ってもらったのよ。カレ、料理がすごく上手なの」
「へえー、猫さんの彼氏さんなの?」
「そうよ。人間なんだけどね。遊びに行くといつも美味しいご飯を作ってくれるのよ。カレは、あたしを愛してるの」
胸がズキンと痛んだ。なんでだろう。
「あたしもカレのこと好きだから、いつも花を持って行くのよ。季節の花をね」
「そうなんだ。素敵だね」
「あら、話を聞くって言ったのにあたしの話しちゃったわね。どうぞ、好きなだけ話しなさい。何でも聞いてあげるわよ」
「うん……。でも私、記憶がなくて……。自分が誰なのか、何で死んじゃったか、ここがどこなのかも分からないの」
また、涙が零れた。寂しい。私、世界に独りぼっちだ。
「そう。バクレイにはよくあることらしいわよ。でも、哀しんでても仕方ないじゃない」
「どうして? 悲しいよ! 自分が死んじゃってるんだよ! それも、何かの未練を残して。それが何なのかも分からずに……」
「そうね。でもあたし達猫からしたら、未練なんて引きずってても何の得にもならないと思っちゃうわ。大事なのは今を楽しく過ごすことだけよ」
「それは……何となくわかるけど。でもそんな風に考えられないよ、私、人間だし……。お父さんとお母さんに会いたい。友達とか、誰か大切な人に会いたい。でもみんな、どんな人だったか思い出せないんだよ……」
涙が溢れる。両手で顔を覆った。自分の体は触れるんだ。
「人間って難しいのね。ま、だからって泣いていても何も解決しないわよ。気楽に気長に待っていれば、そのうち誰か来てくれるんじゃないかしら。その、あなたの会いたい人が」
「そうかなぁ」
「ええ、きっとそうよ。あたしもたまに遊びにきてあげるから、元気を出しなさい」
猫さんに慰められている自分の状況が、ちょっと面白く思えた。なんだか、おとぎ話みたいだ。少し気持ちが軽くなった。
「ふふ、そうだね。ありがとう猫さん。ところであなたの名前はなんていうの?」
「キルシュテン・ナグルファル・コーエンスタン十三世よ」
「わぁ、すごい名前なんだね。覚えられるかな」
「冗談よ。人間は何故かあたしを『きなこ』って呼ぶわ。なんで大豆を挽いた粉の名前で呼ぶのか理解に苦しむけどね。あなたもそう呼んでいいわよ」
「わかった、きなこ。私は可愛い名前だと思うよ」
「そう、ありがとう。あなたは……そうか、忘れちゃったのよね」
「うん……。だから、きなこの好きなように呼んで」
「あら、いいの? じゃあ――」
きなこは少し考えながら前足で顔を拭いた後、続けた。
「イワシ、でどうかしら」
「う、それはちょっと……。もっと可愛いのがいいな」
「きなこは可愛いのにイワシはダメなの? 人間ってフクザツね」
「ふふ、ごめんね」
「そうねぇ、じゃあ」
きなこは私を見つめた。見た目から連想しようとしているのだろうか。そういえば私、どんな顔してるんだろ。
「あなた、髪に何か付けてるわね。桜の花かしら?」
「え……」
- レイヤー -
そう言われて、きなこの視線の先を触ってみると、髪留めが付いている。外してみると、ホントだ、控えめだけど上品な印象の、小さな桜の花のモチーフが付いたヘアピンだ。
「そうだね。死んじゃった時に付けてたのかな。あっ、そうか!」
ふと思い立って、立ち上がって全身を触ってみる。他に何か持ってないか。私が誰なのか、分かるような何か。
着ているものは、白いワンピースの上に紺のジャケット。白いレースの付いた黒のパンプス。ジャケットのポケットを全て探ってみたけど、何も入っていなかった。
座り直して、桜のヘアピンを眺める。結局、これだけか。でも、とても大切なもののように感じる。心がきゅんとして、あったかくなる。しばらく眺めてから、また髪に付けた。
「あなたの名前、サクラって呼ぶことにするわ」
「うん……。それ、いいね。すごく可愛い」
私が笑うと、きなこは目を細めた。表情は変わってないのに、私にはきなこが笑ってることが分かった。どうしてだろう。これも、私がバクレイというものだからだろうか。
猫さんと友達になれた。嬉しい。嬉しい。
私はいつの間にか死んじゃってて、幽霊になっちゃったみたいだけど、悪い事だけじゃないかもしれない。
「さて、自己紹介も済んだし、サクラも少し元気になったみたいだし、少しこの町を案内してあげようかしら」
「え。うーん、すごく嬉しいけど、私、この周辺から出られないみたいなの。透明な壁があって先に進めなくなっちゃうんだ」
「あら、そうなの。じゃああなた、地バクレイなのかしら」
「そうなのかなぁ」
その割には、この場所、この景色に、何も思い当たらない。
知っているような気もしない。忘れているだけかもしれないけれど。
「どの辺りまで動けるの?」
きなこが聞くので、実際に壁の場所まで一緒に行ってみることにした。まずは、民家のある方。
「ここだ。ここに壁があるの。ひんやりしてて、サラサラな手触りなんだよ」
「ふうん。不思議ね。あたし達猫には、あなたみたいな精神的な存在は見えるんだけど、その壁ってやつは見えないわ」
きなこはそう言うと、私が触っている壁の方向に鼻を近づけて、クンクンしている。可愛い。
さっきまでは、怖くて不安で寂しくて、心が張り裂けそうだったけれど、きなこがいてくれるから安心できる。
「もしかしたらその壁は、世界に共通して存在するんじゃなくて、サクラの心にだけ存在するのかもしれないわね」
「え、私の心に壁が?」
「うーん、何て言うのかしら。あたしやサクラや、みんなが共有する世界には存在しないんだけど、サクラが個別に保持する世界にだけ存在する――。レイヤーが違うと言ったら分かり易いかしら?」
「えーと、ごめん、分かりません」
「あたしとサクラは、今この世界に確かに同時に存在しているけれど、存在するレイヤー――層が違うから、サクラはあたしの世界を観測はできるけど、物理的な干渉はできない状態、といった所かしら。サクラのレイヤーに存在するその壁は、サクラだけが干渉でき、サクラだけに影響を及ぼす。反対に、サクラはあたしがいる世界の物理的存在の束縛を受けないはずよ」
「え、え、どういうこと?」
「例えば、そうね」
きなこは、道路の向こうにある灰色のコンクリートの崖を見つめた。
「そこのコンクリートの壁あるでしょ。サクラなら、壁をすり抜けられるはずよ」
「えっ! そうなの?」
灰色の崖に駆け寄って、そっと手を伸ばしてみたけれど、手は普通にコンクリートに阻まれた。
「だめみたい」
「そう。きっとあなたの中の常識が邪魔をしてるのね。いえ、サクラの中の世界感が正常に機能していると、前向きに捉えた方がいいかしら」
「えーっと?」
よく分かっていない私の方を向いて、きなこは口を動かさずに説明してくれた。
「あなたが、物体は重力に引っ張られる、人間は地面の上に立つ、壁は物を通さない、という確固たる認識を持っているから、今そうして道路の上に立ったり、階段に座ることが出来るのよ。物質的な存在ではないあなたが、その常識を持っていなかったら……今どうなっているか想像も出来ないわね。もしかしたら、あなたの精神はバクレイとして形を成すこともなく、散り散りにこの辺に漂っていたかもしれないわ」
「そうなんだ……なんだか怖いね」
「でも、その世界感をうまく発展させてあげれば、あなたは空だって飛ぶことが出来るのよ」
「ホント? すごい!」
「ホントよ、ヒマがあれば、訓練してみるといいわ。自分に重さはない、自分は飛べるはずだって考えるの」
「うん!」
すごい、すごい。鳥みたいに空を飛べるなんて、バクレイって素敵かも。
「……あ、でも、不思議。このコンクリートは触れるけど、さっきそこの階段に座ってた女の子は触れなかったの」
「あなたがその壁を触っているのだって、実際に触っているんじゃなくて、自分は壁を触っているという感覚を持っているだけなのよ。試しに、目を閉じて壁を触ってごらんなさい」
言われた通りに目を閉じて、ゆっくり右手を伸ばすと……手応えが無い。
不思議に思って目を開けると、手が壁を貫通していた。
「きゃあ!」
驚いて手を抜くと、すんなりと取れた。もう一度、目を開けたまま手を伸ばすと、やっぱり壁に触れる。頭が混乱してくるけれど、きなこが言っている事が何となく理解できた気がする。
「視覚というものは精神の大半を支配しているから、異なるレイヤーの物質だとしても、見えていれば精神的存在であるあなたは影響を受けやすいみたいね」
「何となく分かったよ。でも、女の子を触れなかった時は、ちゃんと目で見ていたし、自分が幽霊だって分かってなかったから当然触れると思ってたのに」
「そうねぇ。もしかしたら、サクラのレイヤーでは自分の意識とは関係なく、こちら側の生命体へのコンタクトは無効化されるのかもしれないわね」
「うーん?」
「ま、全てはあたしの憶測でしかないから、これ以上考えてもしょうがないわね。サクラも、難しいことは気にしなくていいのよ。そのうち慣れるわ」
きなこは猫なのに色々知っててすごいな。いや、猫なのにっていう考えが、もう人間の思い上がりなのかもしれない。反省しなくては。
「じゃ、反対側も行ってみましょう」
「うん。こっちだよ」
スーパーがある方の壁にきなこを案内した。
「あうっ。ぶつかっちゃった。ここだよ」
きなこは少し目を凝らしたあと、さっきみたいに鼻をクンクンさせた。
「やっぱりこっちも、あたしには何も感知できないわ」
「そっか……」
「ふむ。そうね、ちょっと検証してみようかしら」
きなこはガードレールの方に歩き、道の端に生えてる雑草を数本くわえて引き抜いた。
「え、何をするの?」
「サクラは壁に手を付けたまま、こっちのガードレールから、あっちの道路の端まで歩いてちょうだい」
「うん。分かった」
言われた通りにガードレールの所まで来て、右手を壁に当てて、ゆっくりとコンクリートの崖まで歩いた。きなこは、くわえた草を少しずつ落としながら私の後を付いてきた。
「何か分かるの?」
「これだけじゃ何とも言えないわね。砂浜には降りられるのかしら?」
「うん。さっき試したけど、やっぱりこの辺りで壁に当たるんだ」
「じゃあ、その場所まで行きましょう」
「うん」