- cafe cerisier -
忘れもしない。華奢な体。穏やかな目。桜色の唇。細い指。セミロングの黒髪。……いや、髪は少し短くなっている。左手には買い物袋を提げていた。
どれだけ待ち望んだだろう。いや、完全に諦めていた。まさかまた、ハルに逢えるなんて!
心臓が、爆発しそうな程に激しく暴れる。鼓動が自分の耳にまで聞こえる気さえした。
「どうしたの? 大丈夫?」
恐らく驚愕を全身で体現し続けているであろう僕を見て、彼女は少し心配そうにしている。
ようやく、掠れた声を絞り出すことが出来た。
「ハ……ハル!」
「え、私を知ってるの……?」
その答えに、一瞬混乱した。
知っているも何も……。君は忘れてしまったのか?
隣で絵を描いていた思い出も。
展覧会の約束も。
一緒に見た流れ星も。
初めて君を描いた秋も。
いや、そもそも、
ハルは、
死んだはずではないのか。
混乱する頭を押さえつけて、なんとか質問をしてみる。脈絡なんてどうでもいい。
「……君、……名前は?」
「あれ、知ってるんじゃないの?」
「いいから、名前を、教えてくれ」
その声は震えていたかもしれない。顔は青ざめていたかもしれない。他人からしたら不審者でしかない僕に、彼女は丁寧に答えてくれた。
「私の名前は、宮里春です。宮殿の宮に、古里の里。名前は漢字で春。Springの春。いい名前でしょ。それよりお兄さん大丈夫なの?」
現実が伸し掛かる。目の前が暗くなる。
当たり前だ。
ハルは死んだ。
もう二度と会えない。
とっくに知っていたことだし、理解もしていたつもりだったのに、傷跡を無理やり開かれて、真実を再度叩き付けられたような気分だ。
この人は、僕を知らないし、僕も、この人を知らない。
それにしても、ミヤザト……ハルだって? それに、瓜二つの容姿。声までそっくりだ。
これは何だ。ただの偶然なのか。神が僕を躍らせて嘲笑っているのか。驚愕と混乱と悲嘆で発狂しそうだ。
「ちょっと尋常じゃない感じだね。うち、近いから、寄っていきなよ。あったかいコーヒーでも出すからさ」
彼女はそう言いながら石の階段を駆け下り、僕の左腕を持ち上げて首に回し、僕を立ち上がらせようとした。
「う、ちょっと、厳しいかも」
至近距離でもたつく彼女を見て、多少心は落ち着いてきた。
「いや、大丈夫。……自分で、立てる……」
「そう?」
何とか立ち上がったが、眩暈がする。
「きっと身体が冷えたんだよ。こんな寂しい所に何時間もいたんでしょ。ほら、こっち。歩ける?」
彼女はそう言って、右手を延ばして僕の左手を掴み、優しく引っ張った。
「うちね、喫茶店やってるんだ。すぐそこだから」
僕の手を取ったまま歩きだした。仕方なく付いていくが、正直乗り気ではなかった。この子を見ているだけでも、泣き出しそうになってしまう。だけど、繋いだ小さな手が暖かくて、振り払えずにいた。
僕たちは、手を繋いだままゆっくりと歩いた。春と名乗った彼女は、時折こちらを振り向いて僕の体を気遣ってくれた。
ハルを殺したカーブを曲がり、道なりに歩き、数軒の家並を越えると、小さな木の看板を掲げた喫茶店の前に辿りついた。木造りの二階建ての建物だ。中からオレンジ色の明かりが零れている。
『cafe cerisier』と、看板には掘られていた。cafeの次の単語を僕は知らない。何の言語だろうか。
「ここだよ。さ、遠慮せず入って」
春は古びた茶色の扉を押し開き、中に僕を引き入れた。
店内もほとんどが木造りで、全体的に明るめの茶色で統一されていた。四つの椅子が向き合うテーブルが十セットの、そんなに大きくはない店だ。暖房が効いているのかとても暖かい。ジャズ調のピアノの曲が、静かに流れていた。客は一人もおらず、店員と思えるような人もいない。
部屋の奥の方に、素朴な印象の店内には多少不釣り合いな、黒く輝く縦置きのピアノが佇んでいるのが見えた。アップライトピアノと言うんだったか。
「ま、この辺にでも座ってよ」
そう言うと春は壁際の席の椅子を引いて僕を座らせ、店の奥の方に向けて声をあげた。
「おじいちゃーん、帰ったよー! コーヒー淹れてー!」
店の奥の階段から、一人の老人が降りて来た。髪は豊かな白髪だが、すらりとした背筋はまっすぐ伸び、細い目からは優しい雰囲気が溢れていた。老齢の執事といった感じだ。この人が春の言った「おじいちゃん」であり、店主なのだろう。
「おかえり、春。その人は、友達かい?」
見た目通りの、落ち着いた優しい声だ。
「うーん、まあそんなもんかな。すごく凍えてるみたいだから、あったかいやつ淹れてあげて」
「分かった。待ってなさい」
春は僕の向かいの席に座った。
「ちょっと待っててね。おじいちゃんのコーヒーは美味しいんだよ」
「なんだか、悪いな」
「気にしないでよ。この季節はお客さんいなくてヒマなんだし」
彼女はそう言って笑った。ハルの笑顔がオーバーラップし、胸が痛む。
「お兄さん、大学生? 何歳?」
「……大学生。今年で十九歳」
「わあ! 同い年なんだね。やった!」
春は大げさに喜んだ。何が嬉しいのか分からない。
「ね、名前は何ていうの?」
躊躇った。答えれば、苦しくなることが分かり切っていた。
「名乗るくらいはしてくれていいんじゃない?」
彼女が身を乗り出す。答えを待っている。
暫くの躊躇と沈黙の後、仕方なく、力なく口を開いて、音を発した。
「アキ……」
居た堪れない。胸が潰れそうになる。
記憶を完全に失った最愛の人に、自己紹介をしているような気分だった。
「あき? 季節の秋?」
「そうだよ……」
正確には違う漢字だし、名前の一部でしかないのだが、説明が面倒で、どうでもよくなった。
……いや、違うな。心のどこかで、目の前の彼女に、ハルを重ねようとしていたのかもしれない。昔のように、その名前で呼んで欲しかったのかもしれない。
「そっか! じゃあ私とは一番遠い季節だね。よろしく、秋くん」
屈託なく彼女は言う。
(じゃあ、君はアキだね。私はハル。一番遠い季節だね)
錆びついた刃物が、心臓に突き刺さるようだ。もう、耐えられない。右手で、胸元のシャツを掴んだ。
「うぅ……」
涙が溢れ出し、それを隠すように、僕は下を向いた。
「えっ、何? どうしたの!?」
「いや……。何でもない……。気にしないで」
「気にするよ! すごく辛そうだけど、どこか痛いの?」
春が立ち上がり、僕の横に駆け寄るのを感じた。
「大丈夫、体が痛いわけじゃないから」
「……じゃあ、心が、痛いの?」
僕は答えなかった。今日初めて会った女の子に、こんな姿を見せるのが恥ずかしかった。急いで手で涙を拭い、心を落ち着かせる。突然溢れだす悲しみを飼い馴らすのは、今までに何度もしてきたことだ。
「もう、大丈夫。ごめん。心配かけた」
「本当に大丈夫?」
「うん」
春は心配そうな顔をしながら、自分の椅子に戻った。
店の奥から、おじいさんがコーヒーを持ってきた。香ばしい香りが広がる。
「お待たせ。これを飲んで、落ち着きなさい」
「すみません、頂きます」
焦げ茶色の液体を啜った。美味しい。苦過ぎず、酸味も控えめで、温かさが全身に沁み渡るようだ。心が落ち着く。
おじいさんは店の奥に戻ったのか、もう見えなくなっていた。春は暫く何も言わずに僕を眺めていた。
僕がカップをテーブルに置き、深い息を吐き出した所で、彼女が切り出した。
「ねえ、辛いことを聞いちゃうかもしれないんだけど……」
真剣な表情をしている。
「なに?」
「もし、言いたくなかったら、言わなくてもいいし、私が間違ってたら、笑い飛ばしてもいいんだけど……」
「うん」
彼女は少し黙り、迷っているようだったが、やがて決意したように、視線を僕に真っすぐ向けて、言った。
「秋くん、『はる』っていう名前の女の子と、付き合ってたね?」
忘れもしない。華奢な体。穏やかな目。桜色の唇。細い指。セミロングの黒髪。……いや、髪は少し短くなっている。左手には買い物袋を提げていた。
どれだけ待ち望んだだろう。いや、完全に諦めていた。まさかまた、ハルに逢えるなんて!
心臓が、爆発しそうな程に激しく暴れる。鼓動が自分の耳にまで聞こえる気さえした。
「どうしたの? 大丈夫?」
恐らく驚愕を全身で体現し続けているであろう僕を見て、彼女は少し心配そうにしている。
ようやく、掠れた声を絞り出すことが出来た。
「ハ……ハル!」
「え、私を知ってるの……?」
その答えに、一瞬混乱した。
知っているも何も……。君は忘れてしまったのか?
隣で絵を描いていた思い出も。
展覧会の約束も。
一緒に見た流れ星も。
初めて君を描いた秋も。
いや、そもそも、
ハルは、
死んだはずではないのか。
混乱する頭を押さえつけて、なんとか質問をしてみる。脈絡なんてどうでもいい。
「……君、……名前は?」
「あれ、知ってるんじゃないの?」
「いいから、名前を、教えてくれ」
その声は震えていたかもしれない。顔は青ざめていたかもしれない。他人からしたら不審者でしかない僕に、彼女は丁寧に答えてくれた。
「私の名前は、宮里春です。宮殿の宮に、古里の里。名前は漢字で春。Springの春。いい名前でしょ。それよりお兄さん大丈夫なの?」
現実が伸し掛かる。目の前が暗くなる。
当たり前だ。
ハルは死んだ。
もう二度と会えない。
とっくに知っていたことだし、理解もしていたつもりだったのに、傷跡を無理やり開かれて、真実を再度叩き付けられたような気分だ。
この人は、僕を知らないし、僕も、この人を知らない。
それにしても、ミヤザト……ハルだって? それに、瓜二つの容姿。声までそっくりだ。
これは何だ。ただの偶然なのか。神が僕を躍らせて嘲笑っているのか。驚愕と混乱と悲嘆で発狂しそうだ。
「ちょっと尋常じゃない感じだね。うち、近いから、寄っていきなよ。あったかいコーヒーでも出すからさ」
彼女はそう言いながら石の階段を駆け下り、僕の左腕を持ち上げて首に回し、僕を立ち上がらせようとした。
「う、ちょっと、厳しいかも」
至近距離でもたつく彼女を見て、多少心は落ち着いてきた。
「いや、大丈夫。……自分で、立てる……」
「そう?」
何とか立ち上がったが、眩暈がする。
「きっと身体が冷えたんだよ。こんな寂しい所に何時間もいたんでしょ。ほら、こっち。歩ける?」
彼女はそう言って、右手を延ばして僕の左手を掴み、優しく引っ張った。
「うちね、喫茶店やってるんだ。すぐそこだから」
僕の手を取ったまま歩きだした。仕方なく付いていくが、正直乗り気ではなかった。この子を見ているだけでも、泣き出しそうになってしまう。だけど、繋いだ小さな手が暖かくて、振り払えずにいた。
僕たちは、手を繋いだままゆっくりと歩いた。春と名乗った彼女は、時折こちらを振り向いて僕の体を気遣ってくれた。
ハルを殺したカーブを曲がり、道なりに歩き、数軒の家並を越えると、小さな木の看板を掲げた喫茶店の前に辿りついた。木造りの二階建ての建物だ。中からオレンジ色の明かりが零れている。
『cafe cerisier』と、看板には掘られていた。cafeの次の単語を僕は知らない。何の言語だろうか。
「ここだよ。さ、遠慮せず入って」
春は古びた茶色の扉を押し開き、中に僕を引き入れた。
店内もほとんどが木造りで、全体的に明るめの茶色で統一されていた。四つの椅子が向き合うテーブルが十セットの、そんなに大きくはない店だ。暖房が効いているのかとても暖かい。ジャズ調のピアノの曲が、静かに流れていた。客は一人もおらず、店員と思えるような人もいない。
部屋の奥の方に、素朴な印象の店内には多少不釣り合いな、黒く輝く縦置きのピアノが佇んでいるのが見えた。アップライトピアノと言うんだったか。
「ま、この辺にでも座ってよ」
そう言うと春は壁際の席の椅子を引いて僕を座らせ、店の奥の方に向けて声をあげた。
「おじいちゃーん、帰ったよー! コーヒー淹れてー!」
店の奥の階段から、一人の老人が降りて来た。髪は豊かな白髪だが、すらりとした背筋はまっすぐ伸び、細い目からは優しい雰囲気が溢れていた。老齢の執事といった感じだ。この人が春の言った「おじいちゃん」であり、店主なのだろう。
「おかえり、春。その人は、友達かい?」
見た目通りの、落ち着いた優しい声だ。
「うーん、まあそんなもんかな。すごく凍えてるみたいだから、あったかいやつ淹れてあげて」
「分かった。待ってなさい」
春は僕の向かいの席に座った。
「ちょっと待っててね。おじいちゃんのコーヒーは美味しいんだよ」
「なんだか、悪いな」
「気にしないでよ。この季節はお客さんいなくてヒマなんだし」
彼女はそう言って笑った。ハルの笑顔がオーバーラップし、胸が痛む。
「お兄さん、大学生? 何歳?」
「……大学生。今年で十九歳」
「わあ! 同い年なんだね。やった!」
春は大げさに喜んだ。何が嬉しいのか分からない。
「ね、名前は何ていうの?」
躊躇った。答えれば、苦しくなることが分かり切っていた。
「名乗るくらいはしてくれていいんじゃない?」
彼女が身を乗り出す。答えを待っている。
暫くの躊躇と沈黙の後、仕方なく、力なく口を開いて、音を発した。
「アキ……」
居た堪れない。胸が潰れそうになる。
記憶を完全に失った最愛の人に、自己紹介をしているような気分だった。
「あき? 季節の秋?」
「そうだよ……」
正確には違う漢字だし、名前の一部でしかないのだが、説明が面倒で、どうでもよくなった。
……いや、違うな。心のどこかで、目の前の彼女に、ハルを重ねようとしていたのかもしれない。昔のように、その名前で呼んで欲しかったのかもしれない。
「そっか! じゃあ私とは一番遠い季節だね。よろしく、秋くん」
屈託なく彼女は言う。
(じゃあ、君はアキだね。私はハル。一番遠い季節だね)
錆びついた刃物が、心臓に突き刺さるようだ。もう、耐えられない。右手で、胸元のシャツを掴んだ。
「うぅ……」
涙が溢れ出し、それを隠すように、僕は下を向いた。
「えっ、何? どうしたの!?」
「いや……。何でもない……。気にしないで」
「気にするよ! すごく辛そうだけど、どこか痛いの?」
春が立ち上がり、僕の横に駆け寄るのを感じた。
「大丈夫、体が痛いわけじゃないから」
「……じゃあ、心が、痛いの?」
僕は答えなかった。今日初めて会った女の子に、こんな姿を見せるのが恥ずかしかった。急いで手で涙を拭い、心を落ち着かせる。突然溢れだす悲しみを飼い馴らすのは、今までに何度もしてきたことだ。
「もう、大丈夫。ごめん。心配かけた」
「本当に大丈夫?」
「うん」
春は心配そうな顔をしながら、自分の椅子に戻った。
店の奥から、おじいさんがコーヒーを持ってきた。香ばしい香りが広がる。
「お待たせ。これを飲んで、落ち着きなさい」
「すみません、頂きます」
焦げ茶色の液体を啜った。美味しい。苦過ぎず、酸味も控えめで、温かさが全身に沁み渡るようだ。心が落ち着く。
おじいさんは店の奥に戻ったのか、もう見えなくなっていた。春は暫く何も言わずに僕を眺めていた。
僕がカップをテーブルに置き、深い息を吐き出した所で、彼女が切り出した。
「ねえ、辛いことを聞いちゃうかもしれないんだけど……」
真剣な表情をしている。
「なに?」
「もし、言いたくなかったら、言わなくてもいいし、私が間違ってたら、笑い飛ばしてもいいんだけど……」
「うん」
彼女は少し黙り、迷っているようだったが、やがて決意したように、視線を僕に真っすぐ向けて、言った。
「秋くん、『はる』っていう名前の女の子と、付き合ってたね?」