- 好きだったんだよ -


 それから一週間ほど、部活時間はハルを描く時間になった。
 放任主義のこの部活は、特に課題も期限もない。誰が何をしていようと、仲のいいグループ以外にはほとんど干渉しないのが、僕にとってはいい所でもあった。中には美術部に在籍していながら、何一つ作品を作らずに友達とお喋りに興じているグループもあった。
 ハルの絵は、六割ほど出来ていた。今までのような他愛無い会話はほとんどなかったが、秋の柔らかな風の中、向き合って、静かに彼女を描く時間は、幸福でもあった。
 描いている間、ハルは色んな表情を見せた。微笑んでいたり、真剣そうになったり、今にも泣き出しそうな、悲しげな顔をすることもあった。その全てが、僕の心を満たし、締め付け、震わせた。

「アキ……」
「ん?」

 不意に彼女が僕の名を呼んだ。夏合宿の星空の下で聞いたような、弱々しい声だった。

「アキ……」
「なんだ?」
「アキ……」
「どうした? ここにいるぞ」
「……展覧会の約束、覚えてる?」
「もちろん。僕の絵も飾ってくれるって話、期待してるからな」
「……うん。忘れないでね」

 忘れないよ。忘れるものか。君の夢はもう、僕の願いでもあるんだ。

 下校のチャイムが鳴り、切り上げることにした。
 今日は金曜日。完成は、来週になりそうだな。
 よし、完成したら、思い切ってハルにこの想いを伝えよう。
 別れ際、ハルは笑顔で手を振ってくれた。
 その翌日、ハルは世界からいなくなった。

   *

 月曜日のホームルームで、担任から周知があった。
 ハルは、来春に転校を控えていたようだ。父親の仕事の都合らしい。
 新しい住居の見定めと、近隣の親戚への挨拶を兼ね、土曜日に車で移転先に向かっている途中で、対向車と正面衝突したらしい。乗っていた父親、母親を含めて、全員が亡くなったそうだ。
 ハルと親しくしていた女生徒が数人咽び泣いている。
 何人か、憐れむような目で僕を見る視線を感じた。

 体育館に全校生徒が集まることになった。
 移動中、美術部の友人に肩を叩かれた。

「おい、大丈夫か?」

 何を言っているのか分からない。

「……何がだ?」

 彼は軽く首を振り、僕の肩に置いた手を離し、暫く無言で並んで歩いた。

 校長の合図で、全員で黙祷を捧げた。
 現状を、理解できない。
 こういう集会では、ハルは左側の列の前方にいる。
 ハルの姿を探してみたけど、いつも彼女が立っている場所は、不自然な空白があるだけだった。
 あれ、ハルはなんでここにいないんだ?
 どこに行ったんだ?
 僕は、何をすればいいんだ?
 どうすればいいんだ?
 全身の血液が、眼球の周辺に急速に集まっているような感覚がした。
 僕はそこで、意識を失った。

   *

 保健室のベッドの上で目覚めたら、窓の外では校庭の脇に立つイチョウから、枯葉がひらひらと散っていた。
 ベッドの横に女生徒が座っていた。彼女は確か、クラスの保健委員だ。藤岡、だったかな。ハルにプレゼントをあげた日、ハルと一緒に歩いていた気がする。

「あ、気が付いた? 気分はどう?」

 目元が赤くなっている。泣いていたのか?
 上半身をベッドから起こしてみた。

「頭が……、ぼんやりする」

 掠れた声しか出なかった。口と喉がひどく渇いていた。

「……授業、出なくていいのか?」
「私たちの学年は、早退になったよ」
「……なんで?」

 彼女は困ったように口をつぐんで、俯いた。
 ぽろぽろと、涙が頬を伝っている。

「その……。ハルちゃんのことは、私も、すごく悲しいよ……」

 やめろ。

「正直、信じられないっていうか……」

 言うな。

「でも、あんまり、思いつめないでね」

 黙れ。

「きっと、アキくんや皆が笑ってた方が、天国のハルちゃんも、喜ぶから……」

 そう言いながら、彼女は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
 僕は震える右手で、自分の額を触ってみた。手も顔も、驚くほど冷たい。感覚が薄くて、自分の体じゃないみたいだ。

「天国……」

 そう呟いてみた。藤岡が、声を上げて泣き出した。
 分かってる。ハルは死んだ。それは分かってる。
 ただ、あまりにも、唐突で、呆気なさ過ぎた。
 何とかしたら、また会えるんじゃないかとか、本当は遠いどこかにいるんじゃないかとか、明日になれば登校してくるんじゃないかとか、そんな考えが、グルグルと、頭を回り続けていた。

 藤岡が泣き止むまで、暫くかかった。
 やがて彼女は、時折すすり泣きながら、話し始めた。

「みんなはね、二人が付き合ってるって思ってるみたいなんだけど、本当は、そうじゃないんだよね。私はハルちゃんと仲良いから、色々相談を受けたり、話を聞いたりしてたから、知ってるんだ」

 初耳だ。教室内でハルと話した事もないのに、いつの間にそんな噂が立っていたんだ。

「それでね、私が今日残ってたのは、保健委員ってのもあるけど、アキくんに伝えておきたいことがあったんだ。……本当は、ハルちゃんは自分で言うつもりだったと思うんだけど、もう、それは出来ないし、このままじゃ、ハルちゃんがかわいそう過ぎて……」

 ハルが、自分で言うつもりだったこと……。胸がチクリと痛んだ。
 ずっと聞きたかった事な気がするのに、今はそれを聞くのが怖かった。


「ハルちゃんはね、ずっと、アキくんのことが、好きだったんだよ」


 黒く冷たい鉄の塊で思い切り殴られたような、そんな衝撃だった。頭がグラグラする。胸がズキズキと痛む。

「今日初めて話せたとか、アキって呼ぶことにしたとか、今日は将来の約束をしたとか、素敵なプレゼントをもらったとか、すごく嬉しそうに話してたよ」

 全てが思い当たる。その時の光景を、彼女の言葉を、鮮明に思い出せる。心臓を抉られるようだ。
 ハル……。ハル……。

「転校するってのは、夏頃決まったみたい。お父さんの都合ってのは、先生も言ってたっけ。アキくんに伝えるかどうか、すごく悩んでたよ」

 そうか……。今思うと、夏合宿の頃からハルは少し寂しげだった。

「伝えた時に、そんなに寂しそうじゃなかったら、どうしようって。それが怖かったみたい」

 僕と同じだ。穏やかな関係が壊れるかもしれないのが、一番怖かった。

「絵は、……完成したの? ハルちゃんを描いてた、絵」

 そんな事まで聞いていたのか。ハルは余程この子と仲が良かったんだろうな。

「完成、してない……」
「そう……」

 彼女は俯いて、暫く黙っていたが、やがて僕を見据えてこう言った。

「ねえ、……これは、私の個人的な思いだから、答えなくてもいいんだけど……。アキくんも、ハルちゃんのこと、……好き、だった?」

 僕にだって、伝えたいことはいっぱいあった。苦しい想いを打ち明けたかった。こんなにも君を好きな事を。君と過ごす時間が、何よりも嬉しくて輝いていた事を。伝えたかった。……のに、もう、伝えられないなんて!
 ハル……! ハル……! ハル……!
 胸の痛みを抑えるように、胸元のワイシャツを握り締めて、答えた。

「そう、だよ……」
「そっか……。よかった。ハルちゃんに、教えてあげたいな……」

 彼女は泣きながら微笑んだ。
 暫く休んでいていいと、担任と保健の先生の許可を得ていることを告げて、彼女は部屋を出て行った。
 一人きりになって、ベッドに倒れ伏せて、子供のように、大声で泣いた。

   *