- それでも世界は、こんなにも -


*** Mr. Autumn ***

「さて、そろそろか……」

 店内はほぼ満席になった。立って絵を観る人、座って観る人。メニューを眺める人、メニュー裏の絵を観る人。食事を取っている人、コーヒーや紅茶を飲んでいる人。近くの客と談笑している人。色々いる。春とおじいさんは料理やドリンクを運び廻っている。
 僕の、ハルを紹介するスピーチと、その後の春の歌は、最初に店が満席近くになったら行うことに決めていた。それ以降は、客の出入りを見ながら数時間置きに実施する計画だった。今が、最初の時だ。
 キッチンの方に歩き、春に合図をする。

「あっ、いよいよだね?」
「うん、始めるよ」
「わかった!」

 春は力強く頷くと、おじいさんに伝えてから、ピアノ前のイスに座ってこちらを向いた。おじいさんが店内のBGMの音量をゆっくりと落としていった。
 僕は、店内を一通り眺めた後、緊張を宥めるようにゆっくりと息を吸い込んで、声を出した。

「みなさん、今日は鈴村ハルの展覧会にお出で頂き、ありがとうございます。これより、簡単ではありますが僕の方から、壁にある桜の絵の作者、鈴村ハルの紹介をしたいと思います。もしかしたら、中にはイベントを知らずに来店された方もいらっしゃるかもしれませんが、一緒に聞いていただけると、嬉しいです」

 お客さん全員が席に着き、静かに僕の方を注目した。こんなシチュエーション、生まれて初めてだ。セリフは頭に叩き込んである。広くない店なのでマイクはいらない。ただ、この思いをぶつけ、少しでもハルの印象を残す。みんなに、ハルを覚えてもらう。

「ハルは、絵を描くことが好きで、自分の絵の個展を開くという夢を持っていました。誰かに自分の絵を観てもらうことで、清々しい気持ちにさせたり、元気付けたりして、観てくれた人に自分の存在を覚えてもらう。覚えてもらうことで、自分がこの時代の、この場所に、確かに存在していたという証明になる……。そんなことを目標としていました」

 緊張は、いつの間にか霧散していた。晴れた日の草原のような軽やかな気持ちだ。あの丘で過ごす部活時間のように、右隣にハルがいる気さえしていた。

「壁に掛けてある紹介文で、もうご存知の方もいるかと思いますが、ハルは三年前、ここの近くで交通事故で命を失いました。ハルは、僕の……、とても大切な人でした」

 僕を見る人々の表情が、一様に引き締まるのが分かった。みんな、真剣に話を聞いてくれている。

「僕は悲しくて、途方に暮れました。何もしてあげられなかった自分が憎くて、ハルのいた日々を思い返しては後悔ばかりしていました。でも、ある日、ここにいる宮里さんと出会い、ふとしたきっかけでハルのことを話したら、ハルの展覧会を開くことを提案してくれました。そして、今日に至ります。今日は、みなさんのおかげで、ハルの夢が叶った日なんです。みなさんがハルを思ってくれることが、彼女が生きた証になります。どうか今日は、ハルの笑顔を、澄んだ絵を、心に刻んでいってあげてください」

 暫しの静寂の後、杉浦が拍手をしてくれた。それに釣られ、みんなが手を叩いてくれる。このタイミングでの拍手は想定していた。でも、まだスピーチは続く。ハルの夢は、春の歌に繋がる。

「ありがとうございます。実は、もう少しだけ話したいことがあるんです。もう少しだけ、お付き合いください」

 拍手が止むのを待ってから、続けた。

「展覧会の計画を始めてから、この日を迎えるまで、僕は色々考えました。失われる命のこと。世界を覆う哀しみについて。また、それを乗り越える、人の強さについて」

 少し間を置いて、深く息を吸い込んで、言葉を繋ぐ。

「人は……、いつか、死にます。僕も、みなさんも、例外なく。日常の中では、つい忘れがちですが、どれだけ大切に想っていても、どんなに深く愛していても、いつか別れはやってきます。それは数十年後かもしれませんし、もしかしたら、明日かもしれません」

 ちらりと、後方で待つ春の方を見た。春も真剣な表情で僕を見ている。スピーチの内容は、春にも教えていなかった。これから先は、セリフを考えている時にも、言うべきか迷った事だ。

「僕は、大好きだったハルを、突然失いました。ここにいる宮里さんは、病気で両親を亡くしました。おじいさんは、娘を亡くしました。世界では今も、誰かの大切な人が亡くなり、大切な人を亡くした誰かが、今も、泣いています。世界は、哀しみで溢れているようにさえ、思えてしまいます」

 山下さんが、ハンカチで涙を拭いている。宮里家の事情を知っているからだろうか。もしかしたら山下さんも、大切な人を失ったんだろうか。

「……ですが、世界に哀しみしかないのなら、僕たちはとても生きてはいけません。哀しみに満ちた世界の中でも、足を前に進ませる何かが、あるはずなんです。じゃあ、それは何なのか」

「それは、大切な人との優しい思い出であったり、周りの人との触れ合いであったり、自分自身の夢や理想であったり……、人により様々だと思いますが、僕たちは、流れ続ける時に背中を押され、哀しみに打ちひしがれながらも、それらの生きる理由を見つけて、前に進み続けなくてはなりません」

「それでも、時に過去が足を掴んで、後悔や寂しさが心を縛り付けて、涙が流れる時もあります。そんな時は、悲しい過去から目を背けたり、切り捨てるのではなく、悲しみを、しっかりと見つめてみるんです」

「悲しくて前に進めない時は、無理に進もうとせず、ふっと振り向いて、そこに佇む悲しみを、静かにそっと抱きしめるんです。涙が零れても、胸の痛みも愛せるように、何度も撫でて反芻して、愛しいものにしてしまうんです」

「叶わなかった願いも、届かない想いも、忌むべき過去も、全てが自分です。それら全てを許して、愛して、味方に付けた時、何物にも代え難い力になるでしょう。その時ようやく僕たちは、力強く前に進むことが出来るんだと、思います」

「悲しみを、愛すること。これは簡単なことではありませんが、その方法のひとつとして、僕たち人間には、芸術という技術があります。それは、詩でも、歌でも、絵でも、何でもいいんです。日記や、演劇や、人との会話でさえ、表現するという意味で芸術と言えるでしょう」

「これらは、心の中のマイナスを見つめて、成形して、世界に生み出すことでプラスに転換するというすごい力を持っています。また、それらを見て、聴いて、感じることでも、心が軽くなったり、傷が癒えたりすることだってあると思います。綺麗な花や景色だって、一つ一つが芸術作品です」

「ハルは、辛い時は綺麗な風景画を眺めて癒されたと言っていました。そして彼女は、これらの綺麗な桜の絵を描き、今、僕たちの心を癒してくれています」

「僕は、ハルがいなくなってから、詩を書いていました。ただ苦しくて辛い心を吐き出すだけでしたが、それが僕と宮里さんを繋ぐきっかけになってくれました。宮里さんは、歌手になるという夢を持って、両親の死を乗り越え、前に歩き続けています」

「もし、みなさんの中に、辛い思い出や、悲しい過去を引きずっている方がいたら、これから唄う春の歌と、ハルの涼やかな絵を心の隅に留めたまま、この先の高台にある桜を見に行ってみてください。そして、これからもふと思い出してみてください。過ぎ去った時は、もう取り戻せないけれど、失われた大切な人には、もう逢えないけれど、世界は時に、悲しみに溢れるけれど、それでも、」

 気がつくと、涙が流れていた。ゆっくりと両手を広げて、続けた。

「それでも世界は、こんなにも美しい、と」

 春に始めるよう合図を送った。春は軽く目元を拭った後、ピアノに向かい、花びらが舞い散るように、優しく鍵盤を叩いた。