- 私は、ずっとあなたが -
*** Miss Spring ***
夜も更けてきた頃、お店の扉が開いた。振り返ると、春ちゃんとアキが出てきた。こんな夜中にどこに行くんだろう。しばらく眺めていたら、オレンジ色の光が灯った階段の前で止まった。その光を目で追っていくと、切り立った崖の上に、仄かな光に照らされた桜の木のてっぺんが少し見えた。バクレイになってからアキに会う前まで、春の季節は毎日眺めていた桜だ。そういえば、ちゃんと近くで見たことないな。
「私も行く!」
走って二人に追いついて、天国にでも続いていそうな階段を上る。
「誰もいないよっ。ラッキー!」
階段を登り切った所で、笑顔の春ちゃんが指さす先を見ると、大きな桜の木が、満開の花を重たそうに揺らしていた。オレンジの光に照らされる白い花の向こうに、大きな満月と、沢山の星が見える。すごく綺麗……。
アキと春ちゃんと三人で、しばらく景色に見入った。
やがて春ちゃんが桜の木に駆け寄って、ヒラリと振り向いた。アキに、またモネの丘に連れてって欲しいと頼んでいる。横にいるアキの顔を見たら、大切なものを見るみたいに、目を少し細めて、春ちゃんを見つめていた。
「……分かった。約束するよ」
「ふふっ、ありがとう!」
春ちゃんが、素敵な伝説でもありそうな大きな桜の木の下で、春の女神みたいに笑った。
みんなを幸せにするような春ちゃんの笑顔を見ていたら、頭の中で、アキの声が聞こえた気がした。
(ハル、ごめん、好きな人ができたよ)
耳じゃなく心で聞こえるような、きなこの声みたいだ。少し驚いたけど、胸がぎゅうっと痛いけど、アキの方を振り向いて、笑顔で返事をした。
「うん……、知ってるよ」
まったく、謝ることないのに。
春ちゃんはいい子だし、私に似てるんだから当然だよ。
春ちゃんを泣かせたら許さないからね。
でも……。
ゆっくりと、春ちゃんの所へ歩く。
でも……最後に、ちょっとだけ、私もわがままを言ってもいいかな。
アキから聞きたかった言葉が、ずっと欲しかった言葉があるんだよ。
アキはまだ、私に言ってくれてないんだよ。
桜の木の下で微笑む彼女と重なって、アキを見つめる。
ごめんね春ちゃん。でも最後だから、許してね。
アキが今見ているのは、私じゃなくて、彼女だって分かってる。
でも、今だけ、私を見て。私に微笑んで。
私を好きだったって、言って。
海の方から風が一つ吹いて、桜の花びらが舞い散った。
アキ、アキ……、私は、私はね、
「私は、ずっとあなたが好きでした!」
「ひゃあっ?」
どうせ誰にも聞こえないからと、苦しい想いをぶつけるように思いっきり叫んだら、春ちゃんが急に驚いた。つられて私も驚いてしまう。どうしたんだろう。秋も心配そうな顔をする。
……もしかして、私の声が聞こえたのかな。いや、そんなわけないよね。
(これってもしかして……ハルちゃんの声?)
「ええっ?」
頭の中に女の子の声が響いた。これってもしかして……春ちゃんの声?
(え、え、何これ。ねえ、誰かいるの? 私の考えてる事が聞こえてるの? もしかして、ハルちゃんなの?)
「う、うん。私が分かるの?」
心臓が苦しいくらいにドキドキしてるけど、自分の心臓なのか春ちゃんのなのかもう分からない。
(すごいすごい! ホントにハルちゃんなんだ! ちょっと待ってて、秋に教えるから!)
えっ! ちょっと待って!
「おい……、大丈夫か?」
「えっ? あ、うん、私は大丈夫。それよりも、すごいよ秋! あのね!」
「ちょっと待ってぇ!」
急いで両手を動かして、春ちゃんの口を塞いだ。
「ハルんむうっ?」
「あれ、ご、ごめん春ちゃん」
私の手と春ちゃんの手が一緒に動いた。レイヤーが違うのに、何で?
そもそも、私今、会話できてるの? 何で? 分からないことだらけだよ!
(あれ、どうして止めるの? 秋と話したくないの?)
「話したいよ……いっぱい話したいよ。でもちょっと待って……」
(う、うん……)
アキが心配そうに、こっちに歩いて来ようとするのが見えた。
「ま、待って秋、大丈夫だから。ちょっと、ちょっと待っててね」
「あ、ああ……分かった。待ってるよ」
春ちゃんが止めてくれた。ありがとう。いろいろ突然すぎて混乱してるから、考える時間が欲しいんだよ。
(あの……ハルちゃん……)
「え、なに?」
(私のこと……きらい?)
「ええっ、どうして?」
(だって……、秋がハルちゃんの事好きって知って、ハルちゃんも秋を大好きだったって知ったのに、それでも秋を、何て言うか、奪おうとしてるっていうか……)
「そ、それは……仕方ないよ。私は、死んじゃってるんだし……。私も、春ちゃんがアキの事好きだって、知ってるから」
(う、うん……)
心臓のドキドキが、少し落ち着いてきた。春ちゃんは、やっぱり優しい子だった。
(あのさ、もしかしてなんだけど……、モネの丘に行った時も、私の傍にいた?)
「えっ、どうして分かるの?」
(そっか、やっぱりか。ホントはあの時も、今ほどじゃないけどこんな感覚になって、ハルちゃんの気持ちとか思い出みたいなものが少し流れてきた気がして、驚いてたんだ)
「そ、そうなんだ……」
あの時……。春ちゃんの想いが伝わってきた気がしたけど、私のも、彼女に伝わってたのか。何だか恥ずかしいな。
(ああ!)
「えっ、どうしたの?」
(そうか……きなこが持ってきたあのヘアピン……。まさかとは思ったけど、やっぱりハルちゃんのだったのか……。今、見えたよ、あなたの思い出が……。ああ……)
目から暖かい雫が零れる。春ちゃんが泣いてくれてるのか、自分が泣いてるのかも分からない。涙でぼやけた景色の中、アキがまた心配そうな顔をするのが見えた。
「お、おい……本当に大丈夫なのか?」
「あ、うん。大丈夫! ホントに大丈夫! ちょっと感激しちゃっただけ。待っててね」
「うん……。何かあったら、すぐに言えよ」
「うん、ありがとう」
(えへへ、秋、心配してるね)
「ふふっ、それはそうだよ。突然驚いたり泣いたりだもん」
(ところで、秋に何か伝えたいことない? 私が言ってあげるよ)
アキに、伝えたいこと……。すごくすごく、いっぱいあるよ。
ずっと好きだったこと。ヘアピンがすごく嬉しかったこと。死んじゃってからも、ずっとあなたの傍にいたこと。今でもずっと、あなたを好きなこと。
アキに言って欲しいこともある。いっぱいある。
好きって言って欲しい。可愛いって言って欲しい。私といられて幸せだったって、言って欲しい。
でも、でも、でも……
「ううん。……いっぱいあるけど、言えないよ」
(……どうして? あなたの苦しみが、すごく伝わってくるよ。無理しないでいいのに)
「うん、いいんだ。だって、だって、伝えたら、きっとアキはまた私に囚われちゃう。またアキを苦しめちゃう。そうなったら、私も悲しいから……」
(うーん。でもそれじゃあ、ハルちゃんがかわいそう……)
「ふふっ、ありがとう春ちゃん。私は、もういない存在なんだから、いいんだよ。こうして二人と一緒に過ごせた時間をもらえただけでも、すごく幸せだよ」
(そっか……)
うん。やっぱり私は幸せだ。もしかしたら、世界で一番幸せな幽霊かもしれない。
「……でも、一つだけ、お願いしていいかな」
(うん! 何でも言って!)
「さっき、きなこが持ってきた、アキがくれたヘアピン……。あれをね、春ちゃんに持っていて欲しいんだ」
(えっ……、いいの?)
「うん。こうして春ちゃんと話して、確信したの。あなたに、持っていて欲しいって。私はたぶん、近いうちに消えちゃうから、私の思い出の証を、あなたに託したいの」
(え、消えちゃうって……、それって、成仏……ってこと?)
「うん。春ちゃんのおかげで、私は救われたんだよ。私も、アキも、いっぱい、いっぱい救われたよ。ありがとね。本当にありがとう」
(そんな……。でも、せっかく話せるようになったのに、お別れなんて寂しいよ。これからもっと仲良くなろうよ。みんなで一緒にいようよ)
胸がぎゅうっと痛くなる。私も寂しいよ。ずっとみんなといたいよ。
「うん……。でも、それはだめなんだよ。お別れは寂しいけど、私はいちゃいけない存在なんだよ。直感みたいなので分かるんだ」
(でも、でも……。うう。じゃあせめて、展覧会が終わるまでいてね。それがだめなら、私の歌を聞き終わるまではいてね!)
「うん! それは約束する! アキと春ちゃんの歌だもんね」
(うん、約束……)
月に雲がかかったのか、辺りが少し暗くなった気がした。
「あれ……? どこ行ったの?」
「え?」
春ちゃんが辺りを見回してる。あれ……、繋がりが、切れちゃったのだろうか。
そっか……。神様がくれたサービスタイムの終わりかな……。寂しいけど、でも言い残したことはないかな。
春ちゃん。ありがとう。最後にあなたと話せて、すごく、嬉しかったよ。
- 世界中の誰よりも -
*** Mr. Autumn ***
泣いたり微笑んだり、一人で不思議な挙動をしていた春は、満月が雲に隠れた辺りで、突然周りをキョロキョロと見回した。
「どうした、何か探してるのか?」
「へっ、あ、ううん。何でもない……」
春は寂しそうに俯いた。どこか元気がないように見える。
「なあ、さっきのは……何だったんだ?」
「えーっと、そのぉ……」
どうやら僕には言いにくいことのようだ……。でも、僕だって何も考えずにただ待っていた訳じゃない。春の言葉、態度、表情から、色んな可能性を考えていた。その中の一つに、あまりにも荒唐無稽で非現実的だけど、この不思議な状況に一番納得が出来て、そして僕が一番望むものがある。
もし、そうだとしたら。春が僕に話せない理由は。
それはとてもとても、悲しく寂しく苦しいけれど、でも、それが彼女の望んだことなんだろう。その意思を、苦悩を、優しさを……、崇高で、どこまでも慈しみ深いその愛を、僕は最上の敬意と感謝を持って、黙って受け止めるべきなのかもしれない……。
……でも、でも、言わせてくれ。君だけが我慢するような結末にはさせない。
「鈴村ハル!」
上空で雲に隠れて霞む月の光を見上げながら叫んだ。春が驚いたのが見えた。
「ただの馬鹿な僕の勘違いかもしれない。妄想癖な男の独り言かもしれない。でも、もし、もし、どこかにいるなら聞いてくれ!」
目を閉じた。両手を固く握った。大きく息を吸い込んだ。
「君と話せて楽しかった! いつも隣に座ってくれて嬉しかった! 君といられて、幸せだった!」
近所迷惑なんて知るか。四年近くも抱え続けた気持ちなんだ。思いきり叫ばせてくれ。
「僕はあの時間違いなく! 世界中の誰よりも! 君を好きだった!」
目を開けると、雲が少し薄くなって、月の優しい光が差し込んでいた。
「その事実は、その歴史は! 世界が終わろうと揺らぐことはない!」
視界の下の方に、春が口元を押さえて涙を流しているのが見えた。ごめん春……。君がいる所でこんなことを言うのは失礼だったかもしれない。でも、ごめん、どうしようもない僕の甘ったれたわがままかもしれないけど、君にも聞いていて欲しいんだ。
ゆっくりと息を吐き出して、続ける。
「……僕はもう、大丈夫だ。君と春のおかげで強くなれた。もう何があっても前を向いて歩いて行けるよ。だから安心してくれ」
春が口を押さえて泣きながら、静かに頷いてくれた。
「君は僕の中で生きる。春の中にもいると思う。藤岡だってそうだ。展覧会で絵を観てくれる人の中にも、君は生きるだろう。それは負担でも苦痛でもなく、僕たちが、望んだことなんだ。だから……、君が生きた証は、この世界に……残るよ」
雲が流れて、満月が完全に顔を出した。辺りが少し明るくなったように感じる。
泣いていた春が何度も頷きながら、口を開いた。
「うん……、うん……、ありがとう……、ありがとう、アキ……」
それがハルの言葉のように聞こえたのは、気のせいかな。
その後、泣きやんで幸せそうな笑顔になった春と一緒にベンチに座り、高台に佇む桜を眺めながら、丘に行く予定を話し合った。あまり遅くなると桜は散ってしまうので、休み明けの月曜、学校をサボって行くことにした。平日では高校の関係者に見つかる可能性が高いけど、まあ何とかなるだろう。
桜の高台を後にし、春の家に帰ったのは、夜中の五時を回っていた。春を階段の奥に見送った後、僕はきなこを潰さないように静かに寝袋に潜り直し、疲れと眠気から深い眠りに墜ちた。その夜はもう夢は見なかった。
朝、誰かが階段を降りてくる足音で目が覚めた。
朝……。今日、展覧会当日だ! ガバっと跳ね起きる。
「ふぎゃー!」
きなこが驚いて飛び上がった。よかった、寝てる間に潰さなかったみたいだ。降りてきたのはおじいさんだった。
「ははっ、おはよう。よく眠れたかな?」
「あ、お早うございます。おかげさまでぐっすりでした」
「それは良かった。すまないね、こんな環境しか用意できなくて」
「いえ、十分ですよ。ありがとうございます」
寝袋から抜け出して、壁にかかった時計を見ると、七時ちょうどだ。休日にこんなに早く起きるのは久しぶりだ。春はまだ降りてきていない。
「二階の洗面所で顔を洗ってくるといい。タオルは好きに使っていいよ」
「はい。行ってきます」
二階に上がり、冷水で顔を洗っていると、ぼんやりしていた頭がはっきりしてきた。今日か、ついに今日だ。僕たちが開く、ハルの展覧会。ハルの夢が叶う日。……緊張してきた。
「あ……、おはよ、秋。昨日は夜更かしさせちゃってごめんね」
後ろから声をかけられた。顔を拭いて振り返ると、窓から差し込む朝日の中、ピンクのパジャマを着て少し寝ぐせのついた春が立っていた。少し目が赤くなっているように見えた。
「……おはよう。いよいよ今日だな」
「そうだねぇ、緊張しちゃうね。あっ、寝起きだからあんまり見ちゃだめだよ」
そう言うと春は手で顔を隠し、僕をどかして洗面台に立った。
「下で待ってて。みんなで朝ご飯食べて、気合入れなきゃね!」
「うん。先に行ってるよ」
僕と、春と、おじいさんと、きなこ、全員が集まってから、おじいさんが作った朝食を食べた。旅館の朝に出てくるような、品数も多い素晴らしい朝ご飯だった。
- 当日 -
*** Mr. Autumn ***
展覧会のオープンは十時から。今は九時五十分。あと十分で、店の扉を開ける。
春がさっきからそわそわして、店内を行ったり来たりしている。時折、あー、あー、と声を出している。やっぱり春には歌う事が一大イベントで、声の調子が気になるんだろうな。
おじいさんはキッチンで、提供する料理の下拵えをしている。きなこは、おじいさんの足元であくびをしている。いつまで居る気なんだろうか。というかそもそも、飲食店に野良猫が入るって大丈夫なのか……?
店の窓から外を見ると、いつもは車も人もほとんど通らないのに、今日はちらほらと人が歩いているのが見える。みんな、昨日の夜に春に連れて行ってもらった、桜の高台の方向に向かっている。
「毎年この時期は混むって言ってたけど、何時くらいから混みだすんだ?」
「えっとね、やっぱりお昼の時間帯だね。この辺、飲食店があまり無いから、桜を見に来たお客さんは大抵うちのランチを食べに来るんだよ」
「そうか。じゃあ十時のオープンではあまり客入りは望めないかな」
「どうだろう。けっこう宣伝はして回ったからなぁ」
春がそう言いながら何気なく、横髪を耳にかけた。あまりに自然だったので今まで気付かなかったが、春の髪に……見覚えのある桜のヘアピンがついていた。
「そ……それは!」
「えっ、ああ、これ……? えーっと……、最近ね、親友からプレゼントでもらったんだ。可愛いでしょ」
「あ、ああ……そうなのか。よく、似合ってるな」
「えへへー、ありがとっ」
そんな会話をしている内に、店の扉の前に六十代くらいと思われる人のよさそうなおばさんが立ち止った。おばさんは笑顔で店内を覗き、軽くノックをした。
「あ、山下さんだ! 来てくれたんだー」
春が駆け寄り、扉を開けた。入ってきた女性は小柄で、上品そうな格好をしている。醸し出す雰囲気から、育ちの良さが伺える。
「おはよう春ちゃん、遊びに来たわよ。まあ、ずいぶん綺麗なお店になったのね」
「山下さん来てくれてありがとー」
山下さんと言うらしいおばさんは、優しそうに微笑んで春の頭を撫でた。僕の方を向いた時、目が合った。
「いらっしゃいませ」
「あら? あなたは……、春ちゃんの彼氏さんかしら?」
「あ、いやぁ……、あはは……。今日はごゆっくりお寛ぎください」
遠からず春に気持ちを伝えようとしている僕としては、否定も肯定もしづらい……。
「山下さん、よく来たね」
「あら、宮里さん、相変わらずお元気そうね」
おじいさんがキッチンから出てきて山下さんと話し始めた後、春が僕に耳打ちしてくれた。
「山下さんは近所に住んでるおばさんで、そこそこの常連さんなんだよ。私がチラシを渡したんだ。ハルちゃん展覧会のお客様第一号だね!」
「そうだな。記念すべきお客様だ」
山下さんは店の壁に沿ってゆっくりとハルの絵を鑑賞している。時折「綺麗ねぇ」「すごいわ」など小さく口にしながら。じろじろ見るのは悪いと思いながらも、ハルの初めてのお客さんの反応が気になってしまう。
やがて、僕が描いたハルの絵の前で足を止めた山下さんは、しばらく絵を見つめた。
「あら……? この絵の子、春ちゃんかしら?」
「ちがうよー、その子がこの展覧会の絵を描いた、鈴村ハルちゃんだよ。私にそっくりなんだ」
「あらそうなの。本当に似てるのねぇ」
山下さんは視線を落とし、絵の下に掛けたプレートの文を真剣に読んでいる。
「あら、この子……。そう、亡くなっているのね……」
腕にかけたバッグからハンカチを取り出し、目元を拭った。
ありがとうございます、ハルを想ってくれて。
そうこうしているうちに、次第に人が入ってきた。ほとんどが近所の住人や春の友人だったが、やがて僕の友人の一人、体育会系メガネの杉浦が彼女を連れてやってきた。扉を開けて出迎える。
「来たぞー。やたらと遠いじゃねーか」
「わあ、素敵なお店じゃない」
「杉浦、ありがとう来てくれて。空いてる席に適当に座ってよ。自由に歩き廻っていいから、ちゃんと絵も観てくれよ」
「はいはい……。お、あの絵がハルって子か? そこに立ってる子だな、可愛いじゃないか! お前も隅に置けねえなぁ」
杉浦はそう言って肘で僕を小突いた。友人よ、言動が定番すぎるぞ。
「あの絵は確かにハルだけど、そこに立っているのは違う人だよ。似ているけどね」
「あ? どういうことだ?」
「まあ、そのうち説明するよ……」
杉浦は納得しない表情だったが、彼女に引っ張られて奥に入って行った。
しばらくして、藤岡も来てくれた。見覚えのある人を数人連れている。みんな高校時代の同窓生だ。
「おじゃまします、アキくん。素敵な所だね」
「いらっしゃいませ。……ごめんな、遠かっただろう」
「ハルちゃんとアキくんの展覧会だもん、平気だよ」
「あ、千夏ちゃーん、来てくれてありがとう!」
「春ちゃん元気だったー?」
春と藤岡が抱き合っている。懐かしい同窓生達と挨拶を交わした後、彼女たちも壁に沿ってハルの絵を眺めていった。
みんな、ありがとう。きっとハルも喜んでるよ。
*** Miss Spring ***
いよいよ、展覧会当日になった。
お店の一階でオープンを待っていると、きなこ以外のみんながそわそわしているのが分かった。もちろん私も緊張の最高潮にある。
春ちゃんの髪を見てみたら、私のヘアピンを付けてくれていた。嬉しい。すごく嬉しい。
昨日の夜は、アキが急に叫んだのには驚いたけど、すごく、すごく、幸せだった。春ちゃんも、喜んでくれていた。結局、私のことは話さないようにしてもらったけど、きっとアキは気付いてたんだろうな。
朝になってから、夜のことをきなこに話してみたら、きなこも驚いているみたいだった。
「そんなことが起こり得るなんてね……。あたしもまだまだ勉強不足ね」
「ほんとびっくりしたよ。でもあれから、春ちゃんにくっついてもお話しできないんだ」
「どうしてそんなことが可能だったのか、あたしにも分からないけれど、……あなたたちの強い願いと、苦しい想いと、あともしかしたら、月のせいかもしれないわね」
「月?」
「……まあ、結果が目の前にあるのだから、それでいいじゃない。原因なんて考えてても何の得にもならないわよ」
確かにそうだ。どうして出来たかなんて大した問題じゃない。春ちゃんと話せて、アキがくれたヘアピンを彼女に渡せた。それに、アキの気持ちも聞くことができた。それで十分。いや、十分すぎるくらいだ。
しばらくして、上品そうなおばさんがお店に入ってきた。春ちゃんの知り合いみたい。ドキドキしながら見ていたら、山下さんというおばさんは、私の絵を観て誉めてくれた。嬉しくて、胸の辺りがくすぐったくなる。
だんだん人が増えてきた。みんな、私の絵を観てくれる。ドキドキしっぱなしだよ。
アキの大学の友達の、杉浦冬樹くんが、彼女さんと一緒に来てくれた。ちょっと軽い感じの人だけど、でも何だかんだでアキを気にかけてくれる優しい人だ。ありがとう、来てくれて。
千夏も、懐かしい友達を連れて来てくれた。嬉しい。懐かしい。みんなちょっと大人になったな。元気そうだな。
みんなありがとう。ありがとう。嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいだよ。
……でも、嬉しさが、幸せが胸に溢れると同時に、別れの予感も、押し寄せる。
大好きなみんなとの、本当のお別れが、きっともうすぐ訪れる。
- それでも世界は、こんなにも -
*** Mr. Autumn ***
「さて、そろそろか……」
店内はほぼ満席になった。立って絵を観る人、座って観る人。メニューを眺める人、メニュー裏の絵を観る人。食事を取っている人、コーヒーや紅茶を飲んでいる人。近くの客と談笑している人。色々いる。春とおじいさんは料理やドリンクを運び廻っている。
僕の、ハルを紹介するスピーチと、その後の春の歌は、最初に店が満席近くになったら行うことに決めていた。それ以降は、客の出入りを見ながら数時間置きに実施する計画だった。今が、最初の時だ。
キッチンの方に歩き、春に合図をする。
「あっ、いよいよだね?」
「うん、始めるよ」
「わかった!」
春は力強く頷くと、おじいさんに伝えてから、ピアノ前のイスに座ってこちらを向いた。おじいさんが店内のBGMの音量をゆっくりと落としていった。
僕は、店内を一通り眺めた後、緊張を宥めるようにゆっくりと息を吸い込んで、声を出した。
「みなさん、今日は鈴村ハルの展覧会にお出で頂き、ありがとうございます。これより、簡単ではありますが僕の方から、壁にある桜の絵の作者、鈴村ハルの紹介をしたいと思います。もしかしたら、中にはイベントを知らずに来店された方もいらっしゃるかもしれませんが、一緒に聞いていただけると、嬉しいです」
お客さん全員が席に着き、静かに僕の方を注目した。こんなシチュエーション、生まれて初めてだ。セリフは頭に叩き込んである。広くない店なのでマイクはいらない。ただ、この思いをぶつけ、少しでもハルの印象を残す。みんなに、ハルを覚えてもらう。
「ハルは、絵を描くことが好きで、自分の絵の個展を開くという夢を持っていました。誰かに自分の絵を観てもらうことで、清々しい気持ちにさせたり、元気付けたりして、観てくれた人に自分の存在を覚えてもらう。覚えてもらうことで、自分がこの時代の、この場所に、確かに存在していたという証明になる……。そんなことを目標としていました」
緊張は、いつの間にか霧散していた。晴れた日の草原のような軽やかな気持ちだ。あの丘で過ごす部活時間のように、右隣にハルがいる気さえしていた。
「壁に掛けてある紹介文で、もうご存知の方もいるかと思いますが、ハルは三年前、ここの近くで交通事故で命を失いました。ハルは、僕の……、とても大切な人でした」
僕を見る人々の表情が、一様に引き締まるのが分かった。みんな、真剣に話を聞いてくれている。
「僕は悲しくて、途方に暮れました。何もしてあげられなかった自分が憎くて、ハルのいた日々を思い返しては後悔ばかりしていました。でも、ある日、ここにいる宮里さんと出会い、ふとしたきっかけでハルのことを話したら、ハルの展覧会を開くことを提案してくれました。そして、今日に至ります。今日は、みなさんのおかげで、ハルの夢が叶った日なんです。みなさんがハルを思ってくれることが、彼女が生きた証になります。どうか今日は、ハルの笑顔を、澄んだ絵を、心に刻んでいってあげてください」
暫しの静寂の後、杉浦が拍手をしてくれた。それに釣られ、みんなが手を叩いてくれる。このタイミングでの拍手は想定していた。でも、まだスピーチは続く。ハルの夢は、春の歌に繋がる。
「ありがとうございます。実は、もう少しだけ話したいことがあるんです。もう少しだけ、お付き合いください」
拍手が止むのを待ってから、続けた。
「展覧会の計画を始めてから、この日を迎えるまで、僕は色々考えました。失われる命のこと。世界を覆う哀しみについて。また、それを乗り越える、人の強さについて」
少し間を置いて、深く息を吸い込んで、言葉を繋ぐ。
「人は……、いつか、死にます。僕も、みなさんも、例外なく。日常の中では、つい忘れがちですが、どれだけ大切に想っていても、どんなに深く愛していても、いつか別れはやってきます。それは数十年後かもしれませんし、もしかしたら、明日かもしれません」
ちらりと、後方で待つ春の方を見た。春も真剣な表情で僕を見ている。スピーチの内容は、春にも教えていなかった。これから先は、セリフを考えている時にも、言うべきか迷った事だ。
「僕は、大好きだったハルを、突然失いました。ここにいる宮里さんは、病気で両親を亡くしました。おじいさんは、娘を亡くしました。世界では今も、誰かの大切な人が亡くなり、大切な人を亡くした誰かが、今も、泣いています。世界は、哀しみで溢れているようにさえ、思えてしまいます」
山下さんが、ハンカチで涙を拭いている。宮里家の事情を知っているからだろうか。もしかしたら山下さんも、大切な人を失ったんだろうか。
「……ですが、世界に哀しみしかないのなら、僕たちはとても生きてはいけません。哀しみに満ちた世界の中でも、足を前に進ませる何かが、あるはずなんです。じゃあ、それは何なのか」
「それは、大切な人との優しい思い出であったり、周りの人との触れ合いであったり、自分自身の夢や理想であったり……、人により様々だと思いますが、僕たちは、流れ続ける時に背中を押され、哀しみに打ちひしがれながらも、それらの生きる理由を見つけて、前に進み続けなくてはなりません」
「それでも、時に過去が足を掴んで、後悔や寂しさが心を縛り付けて、涙が流れる時もあります。そんな時は、悲しい過去から目を背けたり、切り捨てるのではなく、悲しみを、しっかりと見つめてみるんです」
「悲しくて前に進めない時は、無理に進もうとせず、ふっと振り向いて、そこに佇む悲しみを、静かにそっと抱きしめるんです。涙が零れても、胸の痛みも愛せるように、何度も撫でて反芻して、愛しいものにしてしまうんです」
「叶わなかった願いも、届かない想いも、忌むべき過去も、全てが自分です。それら全てを許して、愛して、味方に付けた時、何物にも代え難い力になるでしょう。その時ようやく僕たちは、力強く前に進むことが出来るんだと、思います」
「悲しみを、愛すること。これは簡単なことではありませんが、その方法のひとつとして、僕たち人間には、芸術という技術があります。それは、詩でも、歌でも、絵でも、何でもいいんです。日記や、演劇や、人との会話でさえ、表現するという意味で芸術と言えるでしょう」
「これらは、心の中のマイナスを見つめて、成形して、世界に生み出すことでプラスに転換するというすごい力を持っています。また、それらを見て、聴いて、感じることでも、心が軽くなったり、傷が癒えたりすることだってあると思います。綺麗な花や景色だって、一つ一つが芸術作品です」
「ハルは、辛い時は綺麗な風景画を眺めて癒されたと言っていました。そして彼女は、これらの綺麗な桜の絵を描き、今、僕たちの心を癒してくれています」
「僕は、ハルがいなくなってから、詩を書いていました。ただ苦しくて辛い心を吐き出すだけでしたが、それが僕と宮里さんを繋ぐきっかけになってくれました。宮里さんは、歌手になるという夢を持って、両親の死を乗り越え、前に歩き続けています」
「もし、みなさんの中に、辛い思い出や、悲しい過去を引きずっている方がいたら、これから唄う春の歌と、ハルの涼やかな絵を心の隅に留めたまま、この先の高台にある桜を見に行ってみてください。そして、これからもふと思い出してみてください。過ぎ去った時は、もう取り戻せないけれど、失われた大切な人には、もう逢えないけれど、世界は時に、悲しみに溢れるけれど、それでも、」
気がつくと、涙が流れていた。ゆっくりと両手を広げて、続けた。
「それでも世界は、こんなにも美しい、と」
春に始めるよう合図を送った。春は軽く目元を拭った後、ピアノに向かい、花びらが舞い散るように、優しく鍵盤を叩いた。
- 春に桜の舞い散るように -
ほんとうに ほんとうに
逢えなくなって しまうのですか
届かぬ想いと 分かっています
叶わぬ願いと 分かっています
それでも私の心には
春に桜の舞い散るように
あなたと過ごした優しい日々の
想い出ばかりが募ります
夏の夜空に零れる星に
儚い願いを託してみても
叶わぬことは 分かっています
もう逢えないと 分かっています
今でも私の心には
秋に枯葉の舞い散るように
寂しさだけが つもります
それでも世界は回ります
あなたを残して 私を乗せて
愛しい日々は離れていって
冬の小雪の舞い降るように
心は冷たく 凍えます
それでも世界は美しく
朝日は昇り 花は開いて
時は流れて 季節が巡り
春の静かなそよ風が
あなたの優しいその手のように
私の背中を押してくれます
涙は今も 零れるけれど
春の桜の舞い散る中で
私は前に 歩き出します
あなたのいない この道のりを
春に舞い散る桜のような
あなたの笑顔の 記憶と共に
*** Miss Spring ***
そうか。そうか。簡単なことだった。
お別れは、寂しくて辛いけど、でも、みんなが私を覚えてくれて、私もみんなを覚え続けていれば、それは別れなんかじゃないんだよね。
アキが言ったように、人は……人だけじゃなくて、この世界の生き物は、みんないつか死んじゃうけど、でも誰かが覚えててくれたり、思い出を形にしてくれたりして、私たちが存在した証は、生きた歴史は、ずっと世界に、私やみんなの中に、残るんだ。
そうやって私たちの存在は、繋がってるんだ。今までの何千年も、繋がってきたんだ。それって、すごいことだ。
アキはきっと私を、負担じゃなく、覚えていてくれる。春ちゃんも、千夏も、きなこも、たぶんそうかな。私の絵を観てくれたみんなも、心のどこかには私を覚えててくれるかな。私もみんなを忘れない。絶対に忘れない。
暖かい涙が溢れる。心臓の鼓動が、いくつもの見えない波紋になって広がった。
見えないけど、私を閉じ込めていたあの透明な壁が、なくなっていくのを感じた。
手が、足が、先端の方から金色に光り出して、さらさらと立ち昇っていく。
世界の暖かさを、神様の優しさのようなものを、体中が感じてる。
「きなこ、きなこ!」
「あら……行くのね」
「うん。今までありがとね。ホントにありがとう!」
「サクラと話せて楽しかったわ。あちらで、また会いましょう」
「うん、のんびり気長に待ってるね!」
歌い終えた春ちゃんが、ほっとしたように胸を撫で下ろしている。きなこの視線に気付いたのか、私の姿を探すようにして、少しだけ寂しげな表情で小さく手を振ってくれた。私も笑顔で手を振る。
春ちゃん、ありがとう。あなたに逢えて、本当に良かった。あなたのおかげで、私も、アキも、救われたよ。アキを宜しくね。そのヘアピン、すごく似合ってるよ。アキと同じくらい、大事にしてね。
キッチンの台に寄りかかっているアキの方を見ると、少し涙を流しているけど、でも満足そうな表情で、お店の壁に飾ってあるアキが描いてくれた私の絵を見つめていた。
アキ、ありがとう。あなたに逢えて、本当に良かった。あなたのおかげで、私は素敵な青春を送れたし、今もこんなに幸せだよ。展覧会、開いてくれてありがとう。私の絵を完成させてくれてありがとう。約束、守ってくれてありがとう。私の死を嘆くくらい、愛してくれて、ありがとう。春ちゃんと一緒に、幸せになってね。
視界がぼやけて、霧が立ち込めたみたいに白くなってきた。拍手の音も、聞こえなくなってきた。どうなるんだろうと思っていたら、上の方から、優しくて懐かしい声が、私の名前を呼んだような気がして、声がした方を見上げた。
「あ……、お母さん……?」
手を伸ばすと、大好きな暖かい手が、しっかりと私の手を握ってくれた。
- 君の名前を -
*** Mr. Autumn ***
ハルの展覧会は、大成功だったと言えるだろう。春の歌が終わった後、最初の社交辞令を感じる拍手とは違う、盛大な拍手をもらえたし、何人かは泣いてくれている人もいるようだった。藤岡も、ハルの同窓生たちも、目を赤くしていた。僕の友人の杉浦なんて、号泣しながらスタンディングオベーションをしていた。
その後も、春の友人や、僕の友人や、花見に来た観光客等で店は賑わった。おじいさんと春は給仕に追われ、僕も臨時ウェイターとして動いた。
初日の土曜日は夜の十時までフル稼働し、その日は疲れ果てて寝袋できなこと眠り、翌日日曜日も、お客さんの入りは衰えることはなかった。例年でも桜の時期は満席になるらしいから、頑張って宣伝もした今年は余計多いんだろう。
中には、ハルの絵を買い取りたいとまで言ってくれるお客さんもいた。僕が決める事ではないのかもしれないが、ハルの絵をお金と引き換えに人に渡すなんて考えられないので、丁重に断った。絵は、おじいさんに相談して、今後もこの店に飾ってもらうことにした。その方が、色んな人に観てもらえるだろう。
日曜の夜は、少し早めの夜九時に店を閉めた。二日目も来て最後まで残ってくれた藤岡を含めて、関係者で打ち上げを行った。おじいさんの話によると、この喫茶店を始めてから最高の売上になったらしい。よかった。きなこは打ち上げの終わりと共にどこかへ去って行った。
その日は終電でアパートに帰り、ひさしぶりに自分の布団でゆっくりと眠った。
月曜日、朝早く起きた僕は春と待ち合わせ、約束通り春と二度目のモネの丘へと向かった。大学は、新学期が始まったばかりなので大した講義はなく、配られるプリント類も友人にもらっておくよう頼んでいるため問題ないのだが、春の音楽学校は大丈夫なんだろうか。少し心配だったので聞いてみたら、一日休んだくらいなら単位に影響はない、とのことだった。
高校に向かう坂道にも、桜が咲き乱れている。もうお昼前くらいの時間なので、通学している学生もいない。春とゆっくり、桜色の坂道を歩いた。春の木漏れ日の暖かさに、ハルも傍に寄り添って、共に歩いてくれているような気もした。
高校の敷地に入るのは、前回土曜日に来た時よりも緊張した。今回も、見つかって怪しまれたら僕の恩師の名を出して、挨拶に来たと言う作戦だったが、幸い誰にも見つかる事はなかった。今の時間は授業中なのか、校舎はとても静かだ。
モネの丘は、変わらず美しい風景を湛えていた。独り立つ小柄な一本桜も、自慢げに満開の花を揺らし、遠くに見える山も、部分的に薄桃色に染まっているのが見える。ここから見える全ての景色が、春という季節を喜び、優しく微笑んでいるようだった。数日前に春に見せてもらった、海を見下ろす高台の桜にも劣っていないと思えた。
「わあー、やっぱり綺麗だねぇ。この辺りの桜は今が一番ピークなんじゃないかな。いい時期に秋と来れて良かったー」
春は桜に駆け寄り、幹に優しくその手を触れ、輝く風景を見下ろした。
春、ありがとう。君に逢えて本当に良かった。君のおかげで、僕は救われた。感謝の気持ちでいっぱいだ。
丘に佇む桜は、太陽の優しい光を全身に浴びて、キラキラと、嬉しそうに揺れている。ここの桜が今年も花開いた事をハルも喜んでいるように思えて、気が付くと僕も微笑んでいた。
ハル、ありがとう。君に逢えて本当に良かった。君のおかげで、僕は素晴らしい青春を送れた。僕は君を忘れないけど、君のいない世界で、僕が前に歩き出す事を、許してくれるかい。僕が幸せになる事を、喜んでくれるかい。
風に吹かれて、桜の花びらが舞い散った。ひらひらと揺れる小さな花びらで、ハルが返事をしてくれたような気がしたけど、それは考えすぎかもしれないな。
視線を春に向けると、桜を揺らす優しい風が、春の髪を撫でて、サラサラと、煌めいている。
春と出会い、衝突したこともあった。でも次第に、ハルの面影を求めるのでなく、春の明るさや、優しさに触れ、彼女への想いは膨らんでいった。今日、感謝と共に、この気持ちを伝えよう。もし、いい返事をくれたら、早速だけど、帰りに家に寄って両親に紹介しよう。
もう僕は、後悔はしない。僕のベクトルは前へ。限りなく前へ。優しい君へ。
春の穏やかな空気を胸一杯に吸い込んで、大切な人の名前を呼ぶ。
柔らかく、暖かく、桜色の優しい季節のその名前を。
「……春!」
「なぁに、秋?」
振り返って膨らんだ春のスカートに、桜の花びらが舞った気がした。