- 当日 -


*** Mr. Autumn ***

 展覧会のオープンは十時から。今は九時五十分。あと十分で、店の扉を開ける。
 春がさっきからそわそわして、店内を行ったり来たりしている。時折、あー、あー、と声を出している。やっぱり春には歌う事が一大イベントで、声の調子が気になるんだろうな。
 おじいさんはキッチンで、提供する料理の下拵えをしている。きなこは、おじいさんの足元であくびをしている。いつまで居る気なんだろうか。というかそもそも、飲食店に野良猫が入るって大丈夫なのか……?
 店の窓から外を見ると、いつもは車も人もほとんど通らないのに、今日はちらほらと人が歩いているのが見える。みんな、昨日の夜に春に連れて行ってもらった、桜の高台の方向に向かっている。

「毎年この時期は混むって言ってたけど、何時くらいから混みだすんだ?」
「えっとね、やっぱりお昼の時間帯だね。この辺、飲食店があまり無いから、桜を見に来たお客さんは大抵うちのランチを食べに来るんだよ」
「そうか。じゃあ十時のオープンではあまり客入りは望めないかな」
「どうだろう。けっこう宣伝はして回ったからなぁ」

 春がそう言いながら何気なく、横髪を耳にかけた。あまりに自然だったので今まで気付かなかったが、春の髪に……見覚えのある桜のヘアピンがついていた。

「そ……それは!」
「えっ、ああ、これ……? えーっと……、最近ね、親友からプレゼントでもらったんだ。可愛いでしょ」
「あ、ああ……そうなのか。よく、似合ってるな」
「えへへー、ありがとっ」

 そんな会話をしている内に、店の扉の前に六十代くらいと思われる人のよさそうなおばさんが立ち止った。おばさんは笑顔で店内を覗き、軽くノックをした。

「あ、山下さんだ! 来てくれたんだー」

 春が駆け寄り、扉を開けた。入ってきた女性は小柄で、上品そうな格好をしている。醸し出す雰囲気から、育ちの良さが伺える。

「おはよう春ちゃん、遊びに来たわよ。まあ、ずいぶん綺麗なお店になったのね」
「山下さん来てくれてありがとー」

 山下さんと言うらしいおばさんは、優しそうに微笑んで春の頭を撫でた。僕の方を向いた時、目が合った。

「いらっしゃいませ」
「あら? あなたは……、春ちゃんの彼氏さんかしら?」
「あ、いやぁ……、あはは……。今日はごゆっくりお寛ぎください」

 遠からず春に気持ちを伝えようとしている僕としては、否定も肯定もしづらい……。

「山下さん、よく来たね」
「あら、宮里さん、相変わらずお元気そうね」

 おじいさんがキッチンから出てきて山下さんと話し始めた後、春が僕に耳打ちしてくれた。

「山下さんは近所に住んでるおばさんで、そこそこの常連さんなんだよ。私がチラシを渡したんだ。ハルちゃん展覧会のお客様第一号だね!」
「そうだな。記念すべきお客様だ」

 山下さんは店の壁に沿ってゆっくりとハルの絵を鑑賞している。時折「綺麗ねぇ」「すごいわ」など小さく口にしながら。じろじろ見るのは悪いと思いながらも、ハルの初めてのお客さんの反応が気になってしまう。
 やがて、僕が描いたハルの絵の前で足を止めた山下さんは、しばらく絵を見つめた。

「あら……? この絵の子、春ちゃんかしら?」
「ちがうよー、その子がこの展覧会の絵を描いた、鈴村ハルちゃんだよ。私にそっくりなんだ」
「あらそうなの。本当に似てるのねぇ」

 山下さんは視線を落とし、絵の下に掛けたプレートの文を真剣に読んでいる。

「あら、この子……。そう、亡くなっているのね……」

 腕にかけたバッグからハンカチを取り出し、目元を拭った。
 ありがとうございます、ハルを想ってくれて。


 そうこうしているうちに、次第に人が入ってきた。ほとんどが近所の住人や春の友人だったが、やがて僕の友人の一人、体育会系メガネの杉浦が彼女を連れてやってきた。扉を開けて出迎える。

「来たぞー。やたらと遠いじゃねーか」
「わあ、素敵なお店じゃない」
「杉浦、ありがとう来てくれて。空いてる席に適当に座ってよ。自由に歩き廻っていいから、ちゃんと絵も観てくれよ」
「はいはい……。お、あの絵がハルって子か? そこに立ってる子だな、可愛いじゃないか! お前も隅に置けねえなぁ」

 杉浦はそう言って肘で僕を小突いた。友人よ、言動が定番すぎるぞ。

「あの絵は確かにハルだけど、そこに立っているのは違う人だよ。似ているけどね」
「あ? どういうことだ?」
「まあ、そのうち説明するよ……」

 杉浦は納得しない表情だったが、彼女に引っ張られて奥に入って行った。
 しばらくして、藤岡も来てくれた。見覚えのある人を数人連れている。みんな高校時代の同窓生だ。

「おじゃまします、アキくん。素敵な所だね」
「いらっしゃいませ。……ごめんな、遠かっただろう」
「ハルちゃんとアキくんの展覧会だもん、平気だよ」
「あ、千夏ちゃーん、来てくれてありがとう!」
「春ちゃん元気だったー?」

 春と藤岡が抱き合っている。懐かしい同窓生達と挨拶を交わした後、彼女たちも壁に沿ってハルの絵を眺めていった。
 みんな、ありがとう。きっとハルも喜んでるよ。



*** Miss Spring ***

 いよいよ、展覧会当日になった。
 お店の一階でオープンを待っていると、きなこ以外のみんながそわそわしているのが分かった。もちろん私も緊張の最高潮にある。
 春ちゃんの髪を見てみたら、私のヘアピンを付けてくれていた。嬉しい。すごく嬉しい。
 昨日の夜は、アキが急に叫んだのには驚いたけど、すごく、すごく、幸せだった。春ちゃんも、喜んでくれていた。結局、私のことは話さないようにしてもらったけど、きっとアキは気付いてたんだろうな。
 朝になってから、夜のことをきなこに話してみたら、きなこも驚いているみたいだった。

「そんなことが起こり得るなんてね……。あたしもまだまだ勉強不足ね」
「ほんとびっくりしたよ。でもあれから、春ちゃんにくっついてもお話しできないんだ」
「どうしてそんなことが可能だったのか、あたしにも分からないけれど、……あなたたちの強い願いと、苦しい想いと、あともしかしたら、月のせいかもしれないわね」
「月?」
「……まあ、結果が目の前にあるのだから、それでいいじゃない。原因なんて考えてても何の得にもならないわよ」

 確かにそうだ。どうして出来たかなんて大した問題じゃない。春ちゃんと話せて、アキがくれたヘアピンを彼女に渡せた。それに、アキの気持ちも聞くことができた。それで十分。いや、十分すぎるくらいだ。
 しばらくして、上品そうなおばさんがお店に入ってきた。春ちゃんの知り合いみたい。ドキドキしながら見ていたら、山下さんというおばさんは、私の絵を観て誉めてくれた。嬉しくて、胸の辺りがくすぐったくなる。
 だんだん人が増えてきた。みんな、私の絵を観てくれる。ドキドキしっぱなしだよ。
 アキの大学の友達の、杉浦冬樹くんが、彼女さんと一緒に来てくれた。ちょっと軽い感じの人だけど、でも何だかんだでアキを気にかけてくれる優しい人だ。ありがとう、来てくれて。
 千夏も、懐かしい友達を連れて来てくれた。嬉しい。懐かしい。みんなちょっと大人になったな。元気そうだな。
 みんなありがとう。ありがとう。嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいだよ。
 ……でも、嬉しさが、幸せが胸に溢れると同時に、別れの予感も、押し寄せる。
 大好きなみんなとの、本当のお別れが、きっともうすぐ訪れる。