- 世界中の誰よりも -
*** Mr. Autumn ***
泣いたり微笑んだり、一人で不思議な挙動をしていた春は、満月が雲に隠れた辺りで、突然周りをキョロキョロと見回した。
「どうした、何か探してるのか?」
「へっ、あ、ううん。何でもない……」
春は寂しそうに俯いた。どこか元気がないように見える。
「なあ、さっきのは……何だったんだ?」
「えーっと、そのぉ……」
どうやら僕には言いにくいことのようだ……。でも、僕だって何も考えずにただ待っていた訳じゃない。春の言葉、態度、表情から、色んな可能性を考えていた。その中の一つに、あまりにも荒唐無稽で非現実的だけど、この不思議な状況に一番納得が出来て、そして僕が一番望むものがある。
もし、そうだとしたら。春が僕に話せない理由は。
それはとてもとても、悲しく寂しく苦しいけれど、でも、それが彼女の望んだことなんだろう。その意思を、苦悩を、優しさを……、崇高で、どこまでも慈しみ深いその愛を、僕は最上の敬意と感謝を持って、黙って受け止めるべきなのかもしれない……。
……でも、でも、言わせてくれ。君だけが我慢するような結末にはさせない。
「鈴村ハル!」
上空で雲に隠れて霞む月の光を見上げながら叫んだ。春が驚いたのが見えた。
「ただの馬鹿な僕の勘違いかもしれない。妄想癖な男の独り言かもしれない。でも、もし、もし、どこかにいるなら聞いてくれ!」
目を閉じた。両手を固く握った。大きく息を吸い込んだ。
「君と話せて楽しかった! いつも隣に座ってくれて嬉しかった! 君といられて、幸せだった!」
近所迷惑なんて知るか。四年近くも抱え続けた気持ちなんだ。思いきり叫ばせてくれ。
「僕はあの時間違いなく! 世界中の誰よりも! 君を好きだった!」
目を開けると、雲が少し薄くなって、月の優しい光が差し込んでいた。
「その事実は、その歴史は! 世界が終わろうと揺らぐことはない!」
視界の下の方に、春が口元を押さえて涙を流しているのが見えた。ごめん春……。君がいる所でこんなことを言うのは失礼だったかもしれない。でも、ごめん、どうしようもない僕の甘ったれたわがままかもしれないけど、君にも聞いていて欲しいんだ。
ゆっくりと息を吐き出して、続ける。
「……僕はもう、大丈夫だ。君と春のおかげで強くなれた。もう何があっても前を向いて歩いて行けるよ。だから安心してくれ」
春が口を押さえて泣きながら、静かに頷いてくれた。
「君は僕の中で生きる。春の中にもいると思う。藤岡だってそうだ。展覧会で絵を観てくれる人の中にも、君は生きるだろう。それは負担でも苦痛でもなく、僕たちが、望んだことなんだ。だから……、君が生きた証は、この世界に……残るよ」
雲が流れて、満月が完全に顔を出した。辺りが少し明るくなったように感じる。
泣いていた春が何度も頷きながら、口を開いた。
「うん……、うん……、ありがとう……、ありがとう、アキ……」
それがハルの言葉のように聞こえたのは、気のせいかな。
その後、泣きやんで幸せそうな笑顔になった春と一緒にベンチに座り、高台に佇む桜を眺めながら、丘に行く予定を話し合った。あまり遅くなると桜は散ってしまうので、休み明けの月曜、学校をサボって行くことにした。平日では高校の関係者に見つかる可能性が高いけど、まあ何とかなるだろう。
桜の高台を後にし、春の家に帰ったのは、夜中の五時を回っていた。春を階段の奥に見送った後、僕はきなこを潰さないように静かに寝袋に潜り直し、疲れと眠気から深い眠りに墜ちた。その夜はもう夢は見なかった。
朝、誰かが階段を降りてくる足音で目が覚めた。
朝……。今日、展覧会当日だ! ガバっと跳ね起きる。
「ふぎゃー!」
きなこが驚いて飛び上がった。よかった、寝てる間に潰さなかったみたいだ。降りてきたのはおじいさんだった。
「ははっ、おはよう。よく眠れたかな?」
「あ、お早うございます。おかげさまでぐっすりでした」
「それは良かった。すまないね、こんな環境しか用意できなくて」
「いえ、十分ですよ。ありがとうございます」
寝袋から抜け出して、壁にかかった時計を見ると、七時ちょうどだ。休日にこんなに早く起きるのは久しぶりだ。春はまだ降りてきていない。
「二階の洗面所で顔を洗ってくるといい。タオルは好きに使っていいよ」
「はい。行ってきます」
二階に上がり、冷水で顔を洗っていると、ぼんやりしていた頭がはっきりしてきた。今日か、ついに今日だ。僕たちが開く、ハルの展覧会。ハルの夢が叶う日。……緊張してきた。
「あ……、おはよ、秋。昨日は夜更かしさせちゃってごめんね」
後ろから声をかけられた。顔を拭いて振り返ると、窓から差し込む朝日の中、ピンクのパジャマを着て少し寝ぐせのついた春が立っていた。少し目が赤くなっているように見えた。
「……おはよう。いよいよ今日だな」
「そうだねぇ、緊張しちゃうね。あっ、寝起きだからあんまり見ちゃだめだよ」
そう言うと春は手で顔を隠し、僕をどかして洗面台に立った。
「下で待ってて。みんなで朝ご飯食べて、気合入れなきゃね!」
「うん。先に行ってるよ」
僕と、春と、おじいさんと、きなこ、全員が集まってから、おじいさんが作った朝食を食べた。旅館の朝に出てくるような、品数も多い素晴らしい朝ご飯だった。
*** Mr. Autumn ***
泣いたり微笑んだり、一人で不思議な挙動をしていた春は、満月が雲に隠れた辺りで、突然周りをキョロキョロと見回した。
「どうした、何か探してるのか?」
「へっ、あ、ううん。何でもない……」
春は寂しそうに俯いた。どこか元気がないように見える。
「なあ、さっきのは……何だったんだ?」
「えーっと、そのぉ……」
どうやら僕には言いにくいことのようだ……。でも、僕だって何も考えずにただ待っていた訳じゃない。春の言葉、態度、表情から、色んな可能性を考えていた。その中の一つに、あまりにも荒唐無稽で非現実的だけど、この不思議な状況に一番納得が出来て、そして僕が一番望むものがある。
もし、そうだとしたら。春が僕に話せない理由は。
それはとてもとても、悲しく寂しく苦しいけれど、でも、それが彼女の望んだことなんだろう。その意思を、苦悩を、優しさを……、崇高で、どこまでも慈しみ深いその愛を、僕は最上の敬意と感謝を持って、黙って受け止めるべきなのかもしれない……。
……でも、でも、言わせてくれ。君だけが我慢するような結末にはさせない。
「鈴村ハル!」
上空で雲に隠れて霞む月の光を見上げながら叫んだ。春が驚いたのが見えた。
「ただの馬鹿な僕の勘違いかもしれない。妄想癖な男の独り言かもしれない。でも、もし、もし、どこかにいるなら聞いてくれ!」
目を閉じた。両手を固く握った。大きく息を吸い込んだ。
「君と話せて楽しかった! いつも隣に座ってくれて嬉しかった! 君といられて、幸せだった!」
近所迷惑なんて知るか。四年近くも抱え続けた気持ちなんだ。思いきり叫ばせてくれ。
「僕はあの時間違いなく! 世界中の誰よりも! 君を好きだった!」
目を開けると、雲が少し薄くなって、月の優しい光が差し込んでいた。
「その事実は、その歴史は! 世界が終わろうと揺らぐことはない!」
視界の下の方に、春が口元を押さえて涙を流しているのが見えた。ごめん春……。君がいる所でこんなことを言うのは失礼だったかもしれない。でも、ごめん、どうしようもない僕の甘ったれたわがままかもしれないけど、君にも聞いていて欲しいんだ。
ゆっくりと息を吐き出して、続ける。
「……僕はもう、大丈夫だ。君と春のおかげで強くなれた。もう何があっても前を向いて歩いて行けるよ。だから安心してくれ」
春が口を押さえて泣きながら、静かに頷いてくれた。
「君は僕の中で生きる。春の中にもいると思う。藤岡だってそうだ。展覧会で絵を観てくれる人の中にも、君は生きるだろう。それは負担でも苦痛でもなく、僕たちが、望んだことなんだ。だから……、君が生きた証は、この世界に……残るよ」
雲が流れて、満月が完全に顔を出した。辺りが少し明るくなったように感じる。
泣いていた春が何度も頷きながら、口を開いた。
「うん……、うん……、ありがとう……、ありがとう、アキ……」
それがハルの言葉のように聞こえたのは、気のせいかな。
その後、泣きやんで幸せそうな笑顔になった春と一緒にベンチに座り、高台に佇む桜を眺めながら、丘に行く予定を話し合った。あまり遅くなると桜は散ってしまうので、休み明けの月曜、学校をサボって行くことにした。平日では高校の関係者に見つかる可能性が高いけど、まあ何とかなるだろう。
桜の高台を後にし、春の家に帰ったのは、夜中の五時を回っていた。春を階段の奥に見送った後、僕はきなこを潰さないように静かに寝袋に潜り直し、疲れと眠気から深い眠りに墜ちた。その夜はもう夢は見なかった。
朝、誰かが階段を降りてくる足音で目が覚めた。
朝……。今日、展覧会当日だ! ガバっと跳ね起きる。
「ふぎゃー!」
きなこが驚いて飛び上がった。よかった、寝てる間に潰さなかったみたいだ。降りてきたのはおじいさんだった。
「ははっ、おはよう。よく眠れたかな?」
「あ、お早うございます。おかげさまでぐっすりでした」
「それは良かった。すまないね、こんな環境しか用意できなくて」
「いえ、十分ですよ。ありがとうございます」
寝袋から抜け出して、壁にかかった時計を見ると、七時ちょうどだ。休日にこんなに早く起きるのは久しぶりだ。春はまだ降りてきていない。
「二階の洗面所で顔を洗ってくるといい。タオルは好きに使っていいよ」
「はい。行ってきます」
二階に上がり、冷水で顔を洗っていると、ぼんやりしていた頭がはっきりしてきた。今日か、ついに今日だ。僕たちが開く、ハルの展覧会。ハルの夢が叶う日。……緊張してきた。
「あ……、おはよ、秋。昨日は夜更かしさせちゃってごめんね」
後ろから声をかけられた。顔を拭いて振り返ると、窓から差し込む朝日の中、ピンクのパジャマを着て少し寝ぐせのついた春が立っていた。少し目が赤くなっているように見えた。
「……おはよう。いよいよ今日だな」
「そうだねぇ、緊張しちゃうね。あっ、寝起きだからあんまり見ちゃだめだよ」
そう言うと春は手で顔を隠し、僕をどかして洗面台に立った。
「下で待ってて。みんなで朝ご飯食べて、気合入れなきゃね!」
「うん。先に行ってるよ」
僕と、春と、おじいさんと、きなこ、全員が集まってから、おじいさんが作った朝食を食べた。旅館の朝に出てくるような、品数も多い素晴らしい朝ご飯だった。