- 一緒に桜を見に行かない? -
*** Mr. Autumn ***
準備は出来た。あとは明日を迎えるだけだ。
おじいさんの勧めで、二階のお風呂に入れさせてもらった。遠慮して銭湯に行くつもりだったのだが、歩いて行ける範囲に銭湯は存在しないらしい。仕方なくご厚意に甘えさせてもらうことにした。アパートではほとんどシャワーだけで済ませていたから、広いお風呂は久しぶりだ。心も、体も、リラックスしていくのが分かる。
温まった体で一階に降りると、春が床に敷いたマットレスの上に寝袋を用意してくれていた。
「ごめんねー。こんな所で、寝袋なんかで寝させちゃって。本当はお母さんが結婚前に住んでた部屋が空いてるんだけど、おじいちゃんがどうしても許してくれなかったんだ。あの人、紳士のくせに変なところ頑固なんだよなぁ」
「いいよいいよ。部屋なんて用意されたら、恐縮しちゃって寝れないからな。このくらいの扱いのほうがありがたいよ。それに、おじいさんにはとても大事な部屋なんだろ。娘の思い出が詰まってるんだから。孫の友人でしかない僕なんて、足を踏み入れることもできないよ」
「友人、か……」
春が寂しそうに呟いた。慌てて弁護する。
「あ、いや、違うんだ! その事については、前向きに考えているから。ずっと考えてるから。近いうちに、答えを出すよ。だから、期待して、待っててくれ……」
「ホント? えへへっ。じゃあ私もオフロ入ってくるね。秋は寝ちゃってていいよ。今日はお疲れ様!」
春はそう言うと階段を駆け上がっていった。実際、そう考えていた。この展覧会が無事に終わって、僕の心も納得できたら、春に気持ちを伝えようと。一緒に、前に歩いて行こうと。
寝袋に潜り込むと、きなこがすり寄ってきた。
「なんだ、まだいたのか。お前も泊りか?」
「にゃー」
きなこは寝袋とマットレスの隙間に体を半分ねじ込んで目を閉じた。そこで寝るのか。寝返りに気を付けないとだな。
きなこの静かな寝息を聞きながら、僕も目を閉じた。
*** Miss Spring ***
アキときなこが眠ったのを見届けてから、外に出て、お店の向かいのガードレールに身を預け、空に浮かぶ満月を見つめていた。
アキは、きっともう大丈夫だ。春ちゃんと二人で、前に歩いて行ける。
私も……きっと、もう、大丈夫。今でもアキは大好きだけど、運命を受け入れる事が出来たからか、前みたいな苦しさや執着は……もうそんなに残ってない。
でも、あの本物の方のヘアピン……どうしよう。
アキがあれを見つけたら、もしかしたらアキを驚かせて、また苦しめてしまわないかな。でも、でも、誰かに持っていてもらいたいんだよ。
アキがくれた大事なプレゼントがあんなに綺麗に残ってたんだから、私が納得して、成仏して、私の精神がこの世界から完全に消えちゃっても、誰かに持ち続けていてもらいたい。
アキが私を好きでいてくれた。私もアキを大好きだった。その想い出が、その事実が、あの桜に詰まってるんだ。私が消えても、それだけは残っていて欲しいんだ。
「はぁ……」
思わずため息が出てしまう。こんなに悩んでいたら、成仏できなくなってしまうだろうか。
*** Mr. Autumn ***
夢を見た。
いつものように空を飛ぶんだけど、まったく高度を上げられずに、地面すれすれを飛んでいた。歩いたほうがいいんじゃないかというくらいに。
ここは、高校の帰り道だ。僕は何をしているんだっけ。
そうか、家に帰るのか。
「アキ……」
ハルの声が聞こえた気がした。ハル、どこかにいるのか?
「アキ……」
今度ははっきり聞こえた。秋の日に聞いたような寂しげな声ではなく、静かな優しい声だ。
「一緒に桜を見に行かない?」
「ん……」
目を開けると、隣に春が座っていた。ピンクのパジャマの上に白いコートを羽織っている。
「おはよ、秋。ごめんね起しちゃって」
「あれ……、今何時?」
辺りはまだ真っ暗だ。とても朝とは思えない。
「まだ夜中の四時だよ。何だか緊張して目が覚めちゃってさ。なかなか寝直せないから、降りてきちゃった」
「おお……。桜だって?」
「そう。近くの桜の名所。明るいうちは人がいっぱいなんだけど、さすがに今なら空いてるかなって。秋と一緒に行きたいけど、眠かったら断ってね。明日も早いし」
「いや……、行くよ。僕も行ってみたいと思ってたんだ」
もそもそと起き上がって、寝袋を抜け出した。きなこが寒そうに、抜け殻となった寝袋の下に潜り込んだ。戻って来たときに踏まないように気を付けないと。
コートを羽織り、春と一緒に静かに扉を開けて、外に出た。
もう四月とは言え、夜はまだ寒い。冷たく澄んだ空気の中に、明るい満月が浮かんでいるのが見える。
「どれくらい歩くんだ?」
「すぐそこだよ。五分もかからないかな」
春について行くと、腰辺りの高さの橙色の暖かい照明が上まで続く階段に辿りついた。
「この上だよ。足元気を付けてね」
階段は、四段毎の両脇に灯りが付いていた。ロウソクの炎のような、優しい光りだ。暗く静かな世界の中、両脇の照明だけが光る階段を上っていると、天の上か、どこか異世界にでも向かっているような気持ちになった。
やがて階段が終わり、開けた場所に出た。
「誰もいないよっ。ラッキー!」
笑顔の春が指さす先に目をやると、海を見下ろす高台に一本の大きな桜が、満開の花を揺らして立っていた。ここにもオレンジ色の照明が灯り、桜を優しく照らしている。海は真っ暗でほとんど見えないが、波音だけが鮮明に聞こえる。桜の向こうに満月と星々が光っているのが見え、この世とは思えない幻想的で妖艶な光景だった。
「おお……、すごいな」
「でしょ! 明るい時もすごく綺麗なんだけど、夜はもっと素敵なんだ。人がいることもほとんどないしね。地元住民の特権だよ。この明かりは、桜の季節は朝までずっと点いてるの」
「へえー……。なんだか、モネの丘と似てるな……。比べるのも申し訳ないくらい、こっちの方が綺麗だけどさ」
「うん、私も、秋とあの丘に行った時にそう感じたよ。見晴らしのいい所とか、一本だけの桜とかね」
僕たちは、モネの丘でしたように、しばらく黙って景色を眺めた。
やがて、春が小走りで桜の木の横に行き、ヒラリとこちらを向いた。
「ねえ秋、前に私が絵のモデルやった時、何かお礼をしてくれるって言ってたじゃん?」
「あ、ああ。……ごめん、あれじゃ足りなかったか?」
二月に春を故郷に連れて行った後、お礼として桜の押し花が入った栞と、お洒落なお菓子をあげていた。
「ううん、そうじゃないの。あれはすごく嬉しかったよ。でも、もう一個だけおねだりしてもいいかなぁ」
「いいよ。なんだ?」
快諾はしつつも、自分の懐具合を心配した。高価な物だったら、バイトでもするか。
「展覧会が終わったら、もう一回、あのモネの丘に連れてって欲しいの。あそこの桜が満開になっているのを、秋と見たいな」
愛しさに、胸が締め付けられるのを感じた。
「……分かった。約束するよ」
「ふふっ、ありがとう!」
春はオレンジ色の光の中で、キッチンで揺れていたマーガレットのように笑った。
それを見て、心地良い胸の痛みが、加速する。もう、認めるしかない。
ハル、ごめん、好きな人ができたよ。
ハルを忘れることはないけど、僕は目の前で微笑むこの人を、幸せにしたい。
海風がひとつ吹いて、桜の花びらが少し舞い散った。春の髪に、僕が昔ハルにあげたヘアピンの花が揺れたのが見えて、驚いて目を見張ったけど、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。気のせいかな。春が、あまりにもハルに似ているから、昔の思い出と重なったのかもしれない。
少し感傷に浸っていたら、春が唐突に不思議な声をあげた。
「ひゃあっ?」
「ど、どうした?」
「あれ……これって……え、え、え……ウソ!」
何かに驚いているようだ。一体どうしたんだ。今度は春は目を閉じて、嬉しそうにパタパタと手を動かしている。
「おい……、大丈夫か?」
「えっ? あ、うん、私は大丈夫。それよりも、すごいよ秋! あのね!」
春が興奮ぎみに何かを言おうとした時、自分の手で自分の口を塞いだ。
「ハルんむうっ?」
何が起きてるんだ。ちょっと尋常じゃない感じがするので、近付いてみようと足を動かしたら春に止められた。
「ま、待って秋、大丈夫だから。ちょっと、ちょっと待っててね」
「あ、ああ……分かった。待ってるよ」
意味が分からないが、嬉しそうに言う春の顔を見て安心した。少し、待ってみようか。
*** Mr. Autumn ***
準備は出来た。あとは明日を迎えるだけだ。
おじいさんの勧めで、二階のお風呂に入れさせてもらった。遠慮して銭湯に行くつもりだったのだが、歩いて行ける範囲に銭湯は存在しないらしい。仕方なくご厚意に甘えさせてもらうことにした。アパートではほとんどシャワーだけで済ませていたから、広いお風呂は久しぶりだ。心も、体も、リラックスしていくのが分かる。
温まった体で一階に降りると、春が床に敷いたマットレスの上に寝袋を用意してくれていた。
「ごめんねー。こんな所で、寝袋なんかで寝させちゃって。本当はお母さんが結婚前に住んでた部屋が空いてるんだけど、おじいちゃんがどうしても許してくれなかったんだ。あの人、紳士のくせに変なところ頑固なんだよなぁ」
「いいよいいよ。部屋なんて用意されたら、恐縮しちゃって寝れないからな。このくらいの扱いのほうがありがたいよ。それに、おじいさんにはとても大事な部屋なんだろ。娘の思い出が詰まってるんだから。孫の友人でしかない僕なんて、足を踏み入れることもできないよ」
「友人、か……」
春が寂しそうに呟いた。慌てて弁護する。
「あ、いや、違うんだ! その事については、前向きに考えているから。ずっと考えてるから。近いうちに、答えを出すよ。だから、期待して、待っててくれ……」
「ホント? えへへっ。じゃあ私もオフロ入ってくるね。秋は寝ちゃってていいよ。今日はお疲れ様!」
春はそう言うと階段を駆け上がっていった。実際、そう考えていた。この展覧会が無事に終わって、僕の心も納得できたら、春に気持ちを伝えようと。一緒に、前に歩いて行こうと。
寝袋に潜り込むと、きなこがすり寄ってきた。
「なんだ、まだいたのか。お前も泊りか?」
「にゃー」
きなこは寝袋とマットレスの隙間に体を半分ねじ込んで目を閉じた。そこで寝るのか。寝返りに気を付けないとだな。
きなこの静かな寝息を聞きながら、僕も目を閉じた。
*** Miss Spring ***
アキときなこが眠ったのを見届けてから、外に出て、お店の向かいのガードレールに身を預け、空に浮かぶ満月を見つめていた。
アキは、きっともう大丈夫だ。春ちゃんと二人で、前に歩いて行ける。
私も……きっと、もう、大丈夫。今でもアキは大好きだけど、運命を受け入れる事が出来たからか、前みたいな苦しさや執着は……もうそんなに残ってない。
でも、あの本物の方のヘアピン……どうしよう。
アキがあれを見つけたら、もしかしたらアキを驚かせて、また苦しめてしまわないかな。でも、でも、誰かに持っていてもらいたいんだよ。
アキがくれた大事なプレゼントがあんなに綺麗に残ってたんだから、私が納得して、成仏して、私の精神がこの世界から完全に消えちゃっても、誰かに持ち続けていてもらいたい。
アキが私を好きでいてくれた。私もアキを大好きだった。その想い出が、その事実が、あの桜に詰まってるんだ。私が消えても、それだけは残っていて欲しいんだ。
「はぁ……」
思わずため息が出てしまう。こんなに悩んでいたら、成仏できなくなってしまうだろうか。
*** Mr. Autumn ***
夢を見た。
いつものように空を飛ぶんだけど、まったく高度を上げられずに、地面すれすれを飛んでいた。歩いたほうがいいんじゃないかというくらいに。
ここは、高校の帰り道だ。僕は何をしているんだっけ。
そうか、家に帰るのか。
「アキ……」
ハルの声が聞こえた気がした。ハル、どこかにいるのか?
「アキ……」
今度ははっきり聞こえた。秋の日に聞いたような寂しげな声ではなく、静かな優しい声だ。
「一緒に桜を見に行かない?」
「ん……」
目を開けると、隣に春が座っていた。ピンクのパジャマの上に白いコートを羽織っている。
「おはよ、秋。ごめんね起しちゃって」
「あれ……、今何時?」
辺りはまだ真っ暗だ。とても朝とは思えない。
「まだ夜中の四時だよ。何だか緊張して目が覚めちゃってさ。なかなか寝直せないから、降りてきちゃった」
「おお……。桜だって?」
「そう。近くの桜の名所。明るいうちは人がいっぱいなんだけど、さすがに今なら空いてるかなって。秋と一緒に行きたいけど、眠かったら断ってね。明日も早いし」
「いや……、行くよ。僕も行ってみたいと思ってたんだ」
もそもそと起き上がって、寝袋を抜け出した。きなこが寒そうに、抜け殻となった寝袋の下に潜り込んだ。戻って来たときに踏まないように気を付けないと。
コートを羽織り、春と一緒に静かに扉を開けて、外に出た。
もう四月とは言え、夜はまだ寒い。冷たく澄んだ空気の中に、明るい満月が浮かんでいるのが見える。
「どれくらい歩くんだ?」
「すぐそこだよ。五分もかからないかな」
春について行くと、腰辺りの高さの橙色の暖かい照明が上まで続く階段に辿りついた。
「この上だよ。足元気を付けてね」
階段は、四段毎の両脇に灯りが付いていた。ロウソクの炎のような、優しい光りだ。暗く静かな世界の中、両脇の照明だけが光る階段を上っていると、天の上か、どこか異世界にでも向かっているような気持ちになった。
やがて階段が終わり、開けた場所に出た。
「誰もいないよっ。ラッキー!」
笑顔の春が指さす先に目をやると、海を見下ろす高台に一本の大きな桜が、満開の花を揺らして立っていた。ここにもオレンジ色の照明が灯り、桜を優しく照らしている。海は真っ暗でほとんど見えないが、波音だけが鮮明に聞こえる。桜の向こうに満月と星々が光っているのが見え、この世とは思えない幻想的で妖艶な光景だった。
「おお……、すごいな」
「でしょ! 明るい時もすごく綺麗なんだけど、夜はもっと素敵なんだ。人がいることもほとんどないしね。地元住民の特権だよ。この明かりは、桜の季節は朝までずっと点いてるの」
「へえー……。なんだか、モネの丘と似てるな……。比べるのも申し訳ないくらい、こっちの方が綺麗だけどさ」
「うん、私も、秋とあの丘に行った時にそう感じたよ。見晴らしのいい所とか、一本だけの桜とかね」
僕たちは、モネの丘でしたように、しばらく黙って景色を眺めた。
やがて、春が小走りで桜の木の横に行き、ヒラリとこちらを向いた。
「ねえ秋、前に私が絵のモデルやった時、何かお礼をしてくれるって言ってたじゃん?」
「あ、ああ。……ごめん、あれじゃ足りなかったか?」
二月に春を故郷に連れて行った後、お礼として桜の押し花が入った栞と、お洒落なお菓子をあげていた。
「ううん、そうじゃないの。あれはすごく嬉しかったよ。でも、もう一個だけおねだりしてもいいかなぁ」
「いいよ。なんだ?」
快諾はしつつも、自分の懐具合を心配した。高価な物だったら、バイトでもするか。
「展覧会が終わったら、もう一回、あのモネの丘に連れてって欲しいの。あそこの桜が満開になっているのを、秋と見たいな」
愛しさに、胸が締め付けられるのを感じた。
「……分かった。約束するよ」
「ふふっ、ありがとう!」
春はオレンジ色の光の中で、キッチンで揺れていたマーガレットのように笑った。
それを見て、心地良い胸の痛みが、加速する。もう、認めるしかない。
ハル、ごめん、好きな人ができたよ。
ハルを忘れることはないけど、僕は目の前で微笑むこの人を、幸せにしたい。
海風がひとつ吹いて、桜の花びらが少し舞い散った。春の髪に、僕が昔ハルにあげたヘアピンの花が揺れたのが見えて、驚いて目を見張ったけど、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。気のせいかな。春が、あまりにもハルに似ているから、昔の思い出と重なったのかもしれない。
少し感傷に浸っていたら、春が唐突に不思議な声をあげた。
「ひゃあっ?」
「ど、どうした?」
「あれ……これって……え、え、え……ウソ!」
何かに驚いているようだ。一体どうしたんだ。今度は春は目を閉じて、嬉しそうにパタパタと手を動かしている。
「おい……、大丈夫か?」
「えっ? あ、うん、私は大丈夫。それよりも、すごいよ秋! あのね!」
春が興奮ぎみに何かを言おうとした時、自分の手で自分の口を塞いだ。
「ハルんむうっ?」
何が起きてるんだ。ちょっと尋常じゃない感じがするので、近付いてみようと足を動かしたら春に止められた。
「ま、待って秋、大丈夫だから。ちょっと、ちょっと待っててね」
「あ、ああ……分かった。待ってるよ」
意味が分からないが、嬉しそうに言う春の顔を見て安心した。少し、待ってみようか。